第十一章 ペガーナの使者
<始まり>よりもまえの霧のなかで、<運命>と<偶然>が賽をふり、いずれが<ゲーム>をつかさどるか決めることにした。
勝ったほうは霧のなかから歩み出て、マーナ・ユード・スーシャーイのもとに赴きこう云った。
「さあ、わがために神々を造っていただこう。わたしの賽の目のほうが大きかったのだから、此度の<ゲーム>はわたしのもの」
いずれの賽の目が大きかったのか、<始まり>よりもまえの霧のなかから進み出て、マーナ・ユード・スーシャーイの前に赴いたのが<運命>だったのか<偶然>だったのか――。
それを知る者はない。
ペガーナ。因果地平すら越えた次元の海の果ての果てに存在するという神々の頂。そこから広がる諸宇宙の誕生と消滅。数多の次元世界という小さな空間をちりばめた盤上。その「世界」もそこに棲む哀れなやからも、小さき神々の数限りない慰み物のひとつに過ぎず、そして小さき神々もまたマーナ・ユード・スーシャーイの夢に過ぎない。
神々とは<運命>と<偶然>の賽ころ勝負によりマーナ・ユード・スーシャーイが造った戯れであり、世界はマーナの目覚めとともに消える幻に過ぎない。そんな、美しくも残酷な異境の神話。
そのペガーナに属する世界にわれわれの世界が組み込まれようとしている。小さき神々の戯れとしての世界、神々を駒として動かす<運命>と<偶然>の<ゲーム>の盤上に置かれる塵の一つとして加えられようとしている。冬箱根は、<運命>に創られた欠片のひとつで、その役目を受けてやってきたペガーナの使者であるというのだ。
「私を狙った魔性は、冬箱根のしわざなの?」
「うん、そう」
「……どうして?」
「リースは、わたしの役目の邪魔になる楔……だから、解き放つ」
異界の影響に対する防波堤として、世界の楔が発生する。それは世界に存在するあらゆるものから無差別に決められる。異界からの影響は、その楔を取り除かないと世界を侵食できない。冬箱根にとっては、たまさかそれがリースだったというだけだ。そして楔を解き放つということは、彼女の死を意味する。
静謐無音の大気に張り詰める緊張感。その空気に鳴動するようにして、数体の鎧騎士が抜き身の剣を手にして闖入してきた。エルフランドを守護する騎士たちで、エルフ王の魔法によって命を吹き込まれたリビング・アーマーだ。エルフランドの魔力を秘めた剣を向けられた冬箱根は無表情のまま抑揚のない声音を紡ぎだす。
「わたしに手を……出すの?」
鎧騎士たちの前進が返答だった。そのとき一同は見た。少女の手が何らかの印形を結ぶのを。それがシシュの御印であることを知る者はない。瞬く間に、騎士らの動きが鈍重になった。その鈍い動作はゼンマイの切れかけた玩具のようだ。みるみるうちに鎧が錆びついていった。<時>が騎士たちを襲ったのだ。誰よりもフィナが愕然と震えた。時のないエルフランドで、冬箱根という少女は<時>をけしかけることができるということなのだから。一体、また一体と、<時>の餌食となった騎士たちが、往古の年月を閲した古さびたがらんどうとなり地に果ててゆく。しかし、最後に残った一体だけは、<時>の猛威の影響が少なく、ついには冬箱根の前に立った。その騎士はほかの騎士たちよりも強い魔法をかけられていた。騎士が剣を振り上げた、それだけの力がまだ残っていたから。冬箱根が別の印形を結んだ。それがムングの御印であることを誰が知りえようか。その瞬間、鎧騎士の<命>は過ぎし日の彼方へ旅立ち、<かつてあったものごと>の一部となった。
「あなたは……ペガーナの神々の御業を行使できるというのですか」
リビング・アーマーの全滅を視界の隅におさめるロジャー・ベーコンのこめかみに冷汗が流れた。
「うん……本物よりは威力も効果も薄いけど……この世界ではこれでじゅうぶん」
そう言って冬箱根は一同のほうを向き直った。
「きみたちも、わたしに危害を……くわえる?」
すると皆をかばうようにしてリース・フレキシブルが前に出た。師匠やゲボ子たちが冬箱根の手にかけられるのを避けるためだ。狙いが自分ひとりである以上、どちらにも手を出させたくはない。その気持ちを理解したロジャーたちは、リースの助けになってやれない悔しさに歯噛みするばかりだった。
「私を……どうするの」
「うん、どうすればいいかは……わかった。リースには……こうする」
雪のように白い手が印形を結ぶ。それがスリッドの御印ということなど、この世界のなにものとて知るはずがないではないか?
それは一瞬のことだった。突如発生した動かぬ球体の水がリースを包み込んだのである。身動きがとれないリースは、水中で呼吸ができず、ごぼごぼと苦しみ始めた。リースは冬箱根にとって世界の楔であるため、ペガーナの神々の御業といえども、ムングの御印による<死>やシシュの猟犬たる<時>といった直接的なものは効果がない。そこで間接的に危害を加えるしかないわけで、キブの御印によって異界の<命>を与えた魔物に襲わせることにしたのだが、二度ともリースの仲間たちに阻止された。それで考えた結果が、スリッドの御印による<水>である。超常的な御業の水もそれ自体はリースに効果を及ぼさないが、水中に閉じ込めることで呼吸困難にもっていき、間接的に水死させることができるわけだ。
ゲボ子が魔法の剣を振るっても、ロジャーが伝説的な魔術を発動させても、フィナがフェアリーの全能力を使用しても、リースを包む水をどうにかすることはできなかった。地球外からきた魔法の剣の刃にも、八百年を生きた偉大な魔法使いにも、エルフランドのいきものにも、スリッドの<水>を破ることは不可能であった。もはや冬箱根を倒すしか手段はないが、もしそれを実行に移したら、ペガーナの神々の御業が降りかかって鎧騎士たちの後を追うことになるだろう。そうこうしているうちに、状況は絶望的になっていった。そして、苦悶の表情でもがいていたリースの動きが緩慢になり、ぐったりとうつむいたかとみるや、彼女の両腕が、だらりと下がった。
「リース!!」
蒼白の表情でゲボ子が叫んだ。頭の中で何かがはじけ、心が爆発したような衝撃を全身に感じたとき、眼がくらむほどの光が迸った。衣服から飛び出た黄金の鍵の輝きだった。無我夢中でゲボ子が鍵を手にした瞬間、虹色の閃光がエルフランドの大気を七色に染めた。
リースは石の台座の上に座っていた。なぜ自分はいまこんなところにいるのか、さっぱりわからない。なにより直前までの記憶がない。何があったのか。何が起きたのか。ここはどこなのか。とりとめもなく考えていると、大理石の床にローブを纏った複数の人間が立っているのに気がついた。彼らはリースを取り囲んで輪になっていた。やがて彼らは朗々と声を発し、語りだした。
『われらは預言者である』
『果たされたものごとの一部となった預言者なれば』
『されば伝えん。夢見るがよい、<秘密>を』
たちまち夢が訪れ、リース・フレキシブルはまどろみにおちた。
※ ※ ※
<運命>と<偶然>が興じていた<ゲーム>が終わった。すべてが終わった。希望も涙も、後悔も欲望も悲哀も、人間が涙を流したことも、覚えていないようなことも、王国も小さな庭も、海も世界も月も太陽も。残っているものは何もなく、色や音もなかった。
そのとき、<運命>が<偶然>に云った。
「我らの古い<ゲーム>をもう一度始めようではないか」
ふたたび、彼らは勝負を始めた。それまで何度も繰り返されてきたときのように、神々を駒に使って。だから、それまでに起きたことは何もかもふたたび繰り返されるだろう。同じ国の同じ川岸で、同じ春の日に陽光が不意にまぶしく輝き、同じ水仙の花がふたたび開き、同じ幼児がそれを摘むだろう。その間に流れた一兆年の歳月を惜しむこともない。昔馴染みの顔がまた姿を見せ、慣れ親しんだ溜まり場はまだ失われない。あなたと私は夏の日の午後、太陽が天頂と海の間に立つ頃に、以前よく出逢った庭でいま一度巡りあうだろう。<運命>と<偶然>は両者とも、毎回一つの<ゲーム>しかせず、まったく同じ動かし方で進行させて、いつも永遠の時を紛らそうとするのだから。
※ ※ ※
目が覚めると預言者たちの姿は消えていた。よく見渡すと、ここはどこかの大広間のようだった。七つの色の柱が立っており、その柱のうちの一つの台座に、リースは座っているのだ。そこへ誰かが入ってきた。足音の聞こえたほうに顔をやると、見慣れた金髪碧眼の少女が左右の三つ編みを揺らして近づいてくるところだった。紫水晶の瞳と蒼穹の瞳が重なる。ふたりは、びっくりしたように互いの名前を呼んだ。
リースには状況がつかめなかったが、それはゲボ子も同じらしい。彼女も直前までの記憶がないそうなのだから。
「私は気がついたらここにいたんですけど、ゲボ子さんはどうしてたんですか?」
「ん〜……いろいろあったんだよ」
ゲボ子は、ここへ辿り着くまでにアダルトファンタジー風の土地を旅してきたのであった。それは一冊の本にできるくらいの冒険だったのだが、レナスフィールのように紳士淑女に語り伝える話術はもっていないので、あっさりと上記のように答えた。ゆえにそんなことには思い当たらないリースは、「はあ」と気のないリアクションを返すのみだった。
「ところでリース、この広間に、これに見合う鍵穴はないかなー」
ゲボ子が黄金の鍵を見せた。リースがきょとんと鍵を見つめていると、かすかな光が広間に射した。月の光だ。光は七本の柱を通して、広間にありとあらゆる色彩の美を反射させた。すると、リースの座っている台座の柱に青いサファイアのきらめきが円を形作り、その中心が鍵穴となったのである。
ゲボ子は黄金の鍵を差し入れた。鍵は夢幻的な楽の音にあわせて鍵穴のなかを廻った。水晶の螺旋階段があらわれ、鍵がゲボ子の手から消えた。そしてその手は傍らの少女に差し出された。リースはゲボ子の手を取った。二人が階段を登りはじめた。登りつづけ、大地が霞むほど高くなった。ふたりは虹のなかにいたのである。ふと見ると、いくつもの階段がともに螺旋を描いて上にのびており、それらの階段をあらゆる年齢の人々が登っていた。しっかりと手を繋いだまま、リースとゲボ子は顔を見合わせてほほえんだ。やがて、天空から透明な光が降りそそいだ。
七色の閃光が収束したとき、リースを包み込んでいた<水>は飛沫となって破裂した。けほけほと意識を取り戻してぐらつくリースを、ゲボ子が支える。
「うそ……いったい、どうやって……」
茫然とその光景を眺める冬箱根へ、芯の強さに輝く意志の力を湛えた顔を上げ、リースはスカートのポケットから白い六面体の四角い物質を取り出すと、人差し指と中指の間に挟んだ。
「これはただのダイスです。だけど……ペガーナの使者であるあなたのまえで、世界の楔として私が手にすれば、どうなると思います?」
「……どうなる……の」
「<運命>と<偶然>の<ゲーム>のはじまりは、あなたのほうがよく理解しているはずですよ」
「あ……」
「出目の結果があなたに傾けば、人間世界の悲惨と私の破滅。しかし出目の結果が私に傾けば……還りなさい! 神々の待つところへ! 私たちの知る野原を侮辱したものの待つところへ!」
白い手がスリッドの御印を結んだ。しかし<水>はリースを包み込めずに破水した。冬箱根が驚愕に眼を見開いた。
「賽は――投げられた!」
リースの手を離れた六面体のダイスは、永遠と刹那の時を交錯して――冬箱根の額に当たった。ころころと転がる出目の結果が誰にわかるというのか?
「あいたっ」
冬箱根が、涙目で両手を額に添えた。そのとき彼女の神秘は神秘でなくなった。
「あれっ……ここはどこ? わたしはだれ?」
そこにいるのはペガーナの使者ではなく、ただの少女だった。解き放たれたのはペガーナの影響。世界を覆いつくそうとしていた脅威は、いま完全に霧消したのである。
ゲボ子が、リースを振り向かせた。
「その……うまくいえないけど、さっきリースが水の中でぐったりしたとき、心臓が凍りつきそうになった。リースが死んでしまうと思ったら、まるで自分が死んじゃうような気持ちになった」
「ゲボ子……さん?」
「だから、まだよくわからないけど、これからゆっくりリースの気持ちにこたえていく……ってことじゃ駄目かなあ、と思って」
感極まったリースがゲボ子に抱きつく。悦びの涙がこぼれた。
エルフランドの外では朝が訪れていた。山の中、洞穴を出てきた一匹の魔法うさぎが高らかに哄笑した。
「すべての神々は死んだ。今やわれわれは、超人が生きることを欲する」
暗い山から曙光が射し、頭上で鷲のするどい叫びが聞こえた。蛇が地を這い、獅子がやってきた。柔和な、長い、咆哮のあと、獅子は笑った。
「さあれ、わが時は来た――これぞわが朝である。今こそわが日ははじまる。昇りきたれよ、昇りきたるがよい、汝、大いなる正午よ!」
ツァラトゥストラはこう語り、彼の洞窟をあとにした。その姿は、暗い山々から現れる朝の太陽さながらに、灼熱の光を放ち、どこまでも力強かった。