第八章 レナスフィール、ストラディバリウスを奏で歌うこと
「レナ、のんきに演劇観賞なんていいの?」
「あてが外れてしまったのですから、新たに行動するには気分転換も必要ですよ」
「そんなこといって、ホントは興味ある戯曲だから観たいだけでしょ」
「フィナは妾のことをよくわかっていらっしゃる」
「はぁ〜、しょうがないんだから」
そんなやりとりのあと、<影の谷>の公爵令嬢と親友の小妖精は、ウェールズの劇場に足を運んだのである。
「お隣、失礼します」
「ええ、どうぞ」
レナが腰を下ろした席隣には二十代半ばの青年が座っていた。つやのある亜麻色の髪、こけた頬、病的なまでに色白だが、大きな空色の瞳は静かで、顔つきは非常に繊細で気持ちのいい穏やかさを湛えている。その眼がレナの肩を凝視した。それが意味するところを彼女は察したが、訊き返すまえに劇の幕が上がった。
演目は『山の神々』という劇で、粗筋は、七人の乞食が七体の緑色の神像の化身に扮して、崇拝者の町で拝み奉られて気楽に暮らしているところに、本物の神像が台座から消え失せたという話が耳に入ってくる。七人が踊り子の一団を待っていると、やってきたのは重い足音を響かせた緑の石像たち。かくして七人の涜神者どもは、本物の神像の逆鱗に触れて緑色の翡翠像に変えられてしまうという内容だ。しかし、こんな具合にただ話の筋を説明したところで、この驚異的に読者の心を揺さぶる戯曲の素晴らしさを伝えることはできない。私がここで単なる解説をいくら重ねたところで激烈な魅力を断片的にしかあらわしえないため、この妙なる戯曲の紹介を断念し、本来の話を進めることとしよう。
劇場を出たところで、レナは隣席にいた青年を見つけて話しかけた。大衆広場の片隅に場所を変え、レナは自分の肩付近に浮いているフィナを指差して言った。
「あなたにはこの娘が視えていますね?」
青年は、少し眼をしばたたいたが、やがておずおずと何度も頷いてみせた。
「ええ、はい……ぼく、子供の頃から、そういったものが見えますから」
「なるほどー、生まれつき特殊な性質を持ってるわけね。たまにいるのよね、そういう人間って。えっと、アタシはフィナで、こっちはレナ。よろしく」
「どうも。ぼくは……マンチキン・フランク。みんなからは、公爵って呼ばれてます。その……遠縁の叔父が昔公爵だったみたいで、それで、ほとんどぼくとは関係ないんですけど、いつの間にか揶揄で定着してしまったようなので」
そう語る青年の声音に昏い色はなく、静謐なある種の純粋さ、子供の持つ光の部分をにじませているのだった。レナは公爵の話を聞いているうちに、この憧憬の虹彩を秘めた青年ともう少しお近づきになりたいという欲求が湧いてくるのを感じた。
「よろしければカフェテラスで紅茶でも愉しみませんか?」
「え……いえ、すみません、ぼくは……これから悪い魔女を退治しに行かないといけないんです」
マンチキン公爵は申し訳なさそうにそう謝った。レナばかりかフィナの心にも、詮索の虫が囁く好奇を宿らせるには十分すぎるほどの発言である。公爵の話によると、最近ウェールズで行方不明者が続発しているのだが、その原因は街外れに住み潜む魔女に違いないのだという。そのことを知っているのは自分だけだから、魔女を退治しに行くことに決めた。劇場に足を運んだのは、危地へ向かう緊張を和らげるためだった。
「公爵さんは、なんのために、そんな危険をおかそうとなさるんです」
「ぼくは……普通の人には見たり感じたりすることのできないものを見分けるこの性質のため、子供のとき、まわりからホラ吹き扱いされました。ぼくは自分を抑えることができないから……いまでは白痴と呼ばれることもあります。でも、なかにはぼくのことを理解してくれて、好意的に接してくれる人たちもいます。もちろんそれはごく少数ですが、その人たちのためなら、ぼくは自分の命を捧げてもかまわない。だから、この町にいる彼らに害が起きたりしないよう、魔女を退治することに決めたんです」
あくまでおずおずと、そして真摯に、少し熱をおびた口調で話す青年に、レナスフィールの胸にあるひとつの感情が芽生えた。それは人によっては陳腐と嘲笑され、人によっては大仰に情熱を輝かせて褒めそやせられる、古代から連綿と詩や物語に謳われてきた、あの青春の晴朗さであった。
「では妾たちはあなたの手助けをさせてもらいましょう」
「えっ? そんな……いけません。危険が及ぶようなことがあっては……」
「妾こう見えても世界のいろいろなところを旅してきて、危ない目にも結構あっています。魔女退治の助力くらい平気の平左ですからお気遣いは無用。それに小妖精のフィナもついていますから、何かと役に立てると思いますよ」
「レナの言うとおりよ。アタシ、伊達にエルフランド生まれじゃないわよ」
「しかし……」
「もしお断りするというなら勝手にさせてもらいますけど、それでもよろしいとおっしゃります?」
「いえ、いいえ……ごめんなさい。わかりました、君たちの手助けをありがたくお受けします。ただ、魔女と戦うのはぼく一人でやりますから」
「もちろんそこまで手を出すつもりはありませんよ。男性を立てるのは淑女として当然のことですから。では、決まりですね」
それからレナは澄んだ青の瞳をフィナのほうに向けた。
「後押しありがとう。もし反対されたらどうしようもなかったです」
「ま、レナのはじめての本気みたいだしね」
含みを持たせてウインクしてみせる親友に、レナは軽いはにかみとともに微笑した。
街外れの野原に小屋が一軒ひっそりと建っている。その存在に誰も気がつかないのは魔女の魔法によるものに違いない。マンチキン公爵の武器は銀のロザリオひとつのみだが、教会で本物の司祭に聖別されたものだ。魔女には通常の武器は通じないだろうから。
「じゃあとりあえず周囲を調べてみるわね」
フィナがフェアリーに備わる危険感知の能力を展開させた。小屋周辺の野原全体を探知してみると、二箇所ひっかかるものがあった。野原に散在する円盤形の石塊のうち一個と、レンガの残骸に絡みつく茨の蔦に魔法がかかっているようなのだ。
「どんな魔法がかけられているのかわからないけど、注意したほうがいいと思うわ」
「ふむ……」
レナが優雅に腕を組んで考え始める。そして、何か思いついたように、公爵に耳打ちした。青年はまず、フィナの感知した石塊を転がして、底の深そうな小池に沈めた。そのあとレンガの残骸に近づくと、蔦をほどいて地面にまとめ、その上に他の石塊を重石として置いた。これが功を奏するかどうかはわからないが、やることはやった公爵は、ついに一人で魔女の小屋へ足を向けた。戸口に出てきたのは、二百歳くらいの老婆だった。
「あなたは魔女ですね」
「それがどうしたってんだい」
「ウェールズで起きている行方不明事件の犯人はあなたですか?」
「ああそうさ。サバトの貢物として殺しているのさ」
「ぼくはあなたを退治しにきました」
「やれるものならやってみな。来い、石よ!」
と老婆が叫んだ。しかし高速で飛来して相手を打ち殺すはずの石塊は来なかった。「行けないよ、水の底だもの」と小池から声が聞こえた。すかさず公爵がロザリオを突きつけた。しわくちゃの顔を苦悶に歪めて老婆が叫んだ。
「来い、茨よ!」
しかし高速で伸びてきて相手を締め殺すはずの茨の蔦は来なかった。「駄目だよ、石の下だもの」と重石から声が聞こえた。公爵がロザリオを老婆の顔面に押しつけると、老婆は断末魔の声をあげてどろどろに溶けていき、骨も残らず液状の藻屑と化した。こうしてマンチキン公爵は魔女を倒したのである。
「おめでとうございます、公爵さん」
「いえ……君たちが協力してくれたからですよ」
「魔女を退治したのはあなたの勇気にほかなりませんわ。――と、あれ?」
レナは小屋の中に、幅の狭い、古い型をした、表面の煤けた背の高い鏡を見つけた。黒檀の枠がついた姿見で、フィナが調べてみると、判別しがたい不思議な感じがするそうだ。好奇心に駆られたレナが鏡の前に立つと、鏡面には部屋も自分の姿も映っていなかった。次の瞬間、原野が映った。思わず二、三度まばたきすると、何の前触れもなく、周囲の光景が一転した。
気がつくと家一軒見えないヒースの原野にいた。レナは後ろを振り向いてみたが、部屋も鏡もなく、自分ひとりきりだった。見渡す限り緑一色のヒースの大原野。霧に包まれた寂しげな丘陵がいくつか存在し、地平線に沿って、遠い山脈の稜線が広がっている。そんな状況でも、不安よりも冒険心に胸の鼓動が高鳴るところがレナらしいといえるだろう。ふと見ると、近くの石垣に、年老いた大きな鴉がとまっており、その黒い眼は彼女に向けられていた。
「ようこそ、どこかにある場所、どこにもない場所へ」
しわがれた声で大鴉が言った。
「妾はどうしてここに来たんでしょうか」
レナは、ここがどこなのか、あなたはだれなのか、そういった質問はしなかった。すると鴉だったものの姿が、燕尾服を身につけた紳士に変わったのである。
「きみがここにいるのは、わしに何か教えてもらいたいことがあるからだ」
「とりあえず、レーヴン氏とお呼びしてもよろしいですか?」
「構わんよ。わしの本当の名など、きみが知る必要もないことだからね」
「それではレーヴン氏、妾は現在ある情報を必要としていますが、それが与えられるからここにいるということでしょうか」
「そのとおり。人間はね、自分でそう決めただけの自由しかないんだ。それ以上はこれっぽっちも自由じゃない。きみの住んでいる世界は、いうなれば生焼けの場所さ――ひどく子供っぽくて、そのくせひどく自己満足している――まだまだ未熟な世界だね。だからこれまでに何度も様々なものから干渉を受けている。尤も、今回の事象は桁が違うから無理からぬことだが」
「それです、妾が知りたいのは。レーヴン氏、あなたは現実世界――ここが現実でないとして――に何が起ころうとしているのか知っているのですね? それを教えてくださいますか」
「きみがそう意志するのであればね。意志を意志するもの、個性を持っていれば、誰にも強制を受けることがない」
「では教えてください」
「きみのお供の故郷へ行って、そこの源たる存在に然るべきことを伝えることだ。それが何かを教えることはできないがね」
それを聞くとレナは丁寧に礼を述べて感謝の意をあらわした。肝心なことは教えてもらえなかったが、向かうべきところは示してもらえたのだ。話が違うと異を唱えるのは不毛なことである。
「もといた場所に戻るにはどうすればよろしいのでしょう」
「きみが元の場所にいまも存在していることを意志したまえ。一つのものが、同時に違う場所に存在できるはずがない、などと考えてはいかんよ。それは大きな誤解だ――知ったかぶりする人間が犯す誤解のうちでも、相当に大きい。帰るのなら、自分のなかを通らなければいけないよ。他人が他人の道を教えられっこないからね」
言われたとおり、レナは自分が今も鏡の前に立っているのを意志した。燕尾服の紳士が背中を向けると、その姿はふたたび大鴉になり、霧の彼方へ消えていく。ハッと気がつくと、眼前にはあの姿見があった。近くから呼びかけられていることを知り、レナが振り向く。
「よかった、やっと気がついた! レナってば突然鏡の前で放心状態になっちゃって、どんな手立てを施しても意識が戻らないから心配してたのよ。何があったの?」
「なにはともあれ、無事でよかったです……ええ、ほんとうに」
安堵の吐息を漏らすフィナと公爵へ、レナは安心させるように上品にほほえんだ。
その様子を小屋の窓から覗いていた一匹の蛇が、するすると野原を這い滑っていった。外はすでに陽が落ち、かすかに星がまたたき出していた。
星空の下、レナスフィールはマンチキン公爵の前で、彼のためにストラディバリウスを弾いた。彼女が所用する愛称つきの名器は、普段<影の谷>の実家に置いてあるのだが、フィナがアポーツの能力で取り寄せたのだ。三百年を閲する最高の音色が夜空に昇り、古代ギリシアの晴朗さと情動的な陶酔を心の泉に蒸留させる音楽が満ちていく。レナが奏でるのは美と狂騒の清々しい混沌であり、生の躍動にみちた朗らかな旋律なのだ。
やがてレナは、光の色彩を感じさせる玲瓏とした声で、彼女の人生においてはじめてであろう想いに溢れた歌い方で歌いだした。それは<影の谷>の初代公爵に端を発する古い恋の詩で、スペイン<黄金世紀>の金色の輝きを現代に甦らせる力強い愛の情熱を、彼女の瑞々しい青春の魂をもって奏で歌うのであった。生命の輝きに共鳴するかのような星の光度が証明するその想いが、若き青年の心に届かないはずがあろうか。見よ、公爵の純朴な瞳から流れる感動の涙を。
「いまはお別れです。そして約束しましょう、妾はあなたのもとに必ず戻ってくると。そのとき婚約の誓いを交わしていただけますか?」
「ええ、はい……もちろんです。ぼくでよろしければ」
「それではマンチキン公爵、この現実をふたりで分かち合えるしるしを」
レナスフィール・ロック・ミュンヒハウゼンはリース・フレキシブルのように夢と幻想を必要としなかった。現実こそが彼女の生きる世界であり、そして、彼女はついに自分の夢の終着地を見出したからだった。
フィナが祝福をこめて背中の翅から燐光の粒子を飛散させながらあたりを飛んだ。碧に光る淡い風蛍に照らされ、レナと公爵はあえかな口づけを静かに交わしたのである。ああ、青春の、愛と綺想よ!