第4話「飢えたる時の狩人」後編
眼前に現れた不浄の怪物を見つめ、ライヒは茫然と立ちすくんだ。頭の中は軽いパニックに陥っており、このままでは「あれこれ考えているうちに獣は私の体を食いちぎった」という状態になりかねなかった。
ところが、今にも襲いかからんとしていた怪物は、ライヒの顔、正確にはその右眼のほうを見やり、急におとなしくなって伏せの姿勢をとったのである。
「やったのであります。司祭殿の右眼に反応しているようなのであります」
「うそ……」
ライヒは呆気にとられたまま、ぽかんと眼をぱちくりさせた。信じられなかった。
自分の右眼がいったい何であるのかを、彼女は知らない。それを「ダイラス・リーンの災厄」と呼称したのは『星の智慧派』の指導者であるナイ神父だ。
そんなことを考えていても仕方がない。ライヒがおそるおそる手を差し出すと、怪物は犬のようにじゃれついてきた。傍から見れば奇怪なクリーチャーとたわむれる美少女といった光景であるが、ライヒにとってはおよそ動物らしくない姿形をしているのが気に入った。
「よろしい、シュヴェイク、欲しいものがあれば言いなさい。私に用意できるものなら褒美として与えてあげるわ」
「申しあげます、司祭殿。それでは司祭殿のプライベートな写真を何枚か撮らせてほしいのであります」
そんなのでよければ好きなだけ撮りなさいと、上機嫌で承諾して、ライヒは猟犬の頭を撫でながら不敵な笑みを浮かべた。
「まさかティンダロスの猟犬を使い魔にできるなんて思わなかったけど……これなら」
<夢の国>の壮麗きわだかな都にて、大小ふたつの人影が真昼の陽光さしわたる段庭を散歩していた。三十代から五十代にも見える風貌の淡白な顔つきをした白人の男と、黒のシックな洋服に身を包んだ栗色ショートヘアーの美少女。
ランドルフ・カーターとフヴィエズダ・ウビジュラ。
「さて、別段ダイラス・リーンに何かが起こっている風な噂は聞かないね」
「そっかあ……わたしも一応確かめてきたんだけど、これといって変わったことはなかったよ」
小さく首をひねるヴィエは、一人の少女について考えていた。先日初めて会い、一戦交えることになったライヒ・パステルツェのことである。
つてを使っていろいろ調べてみたところ、ライヒの右眼から放たれたあの怪光は「ダイラス・リーンの災厄」と呼ばれ、恐れられていることがわかった。対処は可能だが破ることができた人間は一人もいないという。
確かにあれを受けた者がその威力に畏怖をいだくのは当然だろう。ヴィエとて『銀の鍵』の力でからくも逃れることができたのだから。
そこでヴィエは<夢の国>の港湾都市ダイラス・リーンを訪れ調査したのだが、これといった収穫もなく、カーターなら何か知っているのではとイレク=ヴァドに赴いたというわけだ。
「残念ながら私にもわからないな。もし何か情報が入れば知らせよう」
「うん、お願い。ありがとうカーター」
「それにしてもダイラス・リーンか……仮にあの町がかのサルナスを見舞ったような災厄にさらされることになったとしても、それは仕方のないことだろうね」
カーターはかつて未知なるカダスを求めて<夢の国>を冒険したとき、ダイラス・リーンで、黒いガレー船に乗ってやってきた不気味な商人にかどわかされ、ムーン・ビーストたちの拠点である月の居住区まで拉致されたことがある。
ウルタールの猫たちによって救出されたカーターはダイラス・リーンに戻ると、黒いガレー船の商人の所業や危険性を伝えまわったのだが、住人はおおむねその話を信用したものの、宝石商人たちは黒いガレー船の商人が持ってくる紅玉をたいそう気に入っていたため、カーターの警告に従うことはなかった。
ゆえに彼は都を去るとき、こう言い残したという。
『よしダイラス・リーンに住める人ら、風評悪き商人と取引せるゆえに、災厄に見舞わるるとも、そはわが咎ならず』
現実世界へ戻ってきたヴィエが自室を出ると、部屋の前にサングラスをかけた二十代半ばの男が立っていた。サイモン・コウというドイツ人で、ヴィエの最愛の恋人である。
「どうしたのサイモンくん。夜這いのつもりならまだ半日も早いよ?」
「うひゃあ、少し頬を赤く染めて恥じらいの表情を作ってのその言葉! さすがヴィエちゃん、なんてツボを心得ているんだい! ロマンティックきめてやるぅー!」
すっかり興奮してその場で跳ねあがるサイモン。この男、日本の二次元萌え媒体にどっぷり浸かっており、自分を見失うことが多々あるのだ。
ヴィエはそんな彼にぎゅっと抱きつきながら、上目遣いをしてみせた。
「それで、どうしたの?」
「あ、ああ、いけないいけない、俺ってばついうっかり。ヴィエちゃんに手紙がきてたよ」
「ふうん、誰だろ」
受け取った手紙を裏返し、差出人の名を見たヴィエが、ダークブルーの双眸をすっと細める。
その場で封を開いて文面に眼を通すと、次のことが書かれてあった。
ホーエン館より
二月×日
フヴィエズダ・ウビジュラ殿
親愛なるヴィエ
貴女におかれましてはしばらくぶりです。このたびわたくしはここ御納戸町にホーエン館な る屋敷を建てました。この町における当方の住処として活用するつもりですので、機会があれ ばゆるやかなお茶会などご一緒できることを願っています。
僭越ながら前回の続きとしてもう一度お手合わせを希望しますので、この手紙が届いておら れるであろう×日の夕刻、御納戸公園の広場にてお待ちしております。もし来られなかった場 合はこちらからお伺いしますので、くれぐれも無視だけはなさらないようお願いします。
あなたとまたお会いできることを楽しみにしています。
心よりの敬意とともに
ライヒ・パステルツェ
夕暮れがせまる御納戸公園の広場で、オーストリア人とチェコ人の美少女が数メートルの距離を挟んで対面していた。前者の魔術により広場全体が閉鎖空間内にあるため、周囲に常人の姿は見えない。
「ナイトゴーント!」
ヴィエの呼び声に応じて夜鬼が姿を現し、中空で音もなく翼をはばたかせた。
「さっそくですね」
落ち着き払った態度で漆黒の魔物を見つめるライヒ。予定内、想定内といった状況における彼女の冷静さは、不動どころか一層の鋭敏さを増す。
ナイトゴーントが牽制するようにライヒを攻撃し、対するライヒも多彩な魔術で応戦して寄せつけようとはしない。
ヴィエはその攻防を暫く静観していたが、予想どおり、魔術の行使中は「ダイラス・リーンの災厄」を発することができないことを確信できた。それにおそらく人間にしか効果がないのだろう。えてして強力すぎる能力というものはそれなりの欠点もあるものだ。
そこまでわかった時点で、ヴィエは魔術でナイトゴーントに加勢した。
絶え間なく夜鬼が攻撃を繰り返してくるため右眼の力を使うことができず、応戦の魔術もヴィエの魔術に干渉され、ライヒはたちまち不利な状況に陥った。
しかし余裕の笑みは崩れない。そろそろ頃合であった。
「ティンダロス!」
ライヒが一声あげるやいなや、電灯の隅から青黒い煙が溢れだす。同時にものすごい悪臭が漂いはじめ、耐えがたいにおいにヴィエは顔をしかめた。まさかと思った次の瞬間、電灯の角張った箇所から出現した何かがナイトゴーントに飛びかかったではないか。
すれすれで避けた夜鬼は空中で旋回して一旦距離をとり、その間に襲撃者はライヒの近くに降り立って不快なうなり声を発した。
青い膿汁のような嫌らしい液体をだらだら垂らした、痩せこけた体躯の四つ足の怪物。
「どう? 驚いたかしら」
「……うん、驚いた」
素直に正直な感想を漏らすヴィエ。
眼前に現れた怪物はティンダロスの猟犬と呼ばれる不死の生物で、地球上の生命体がまだ単細胞生物だった頃の遥かな太古の、異常な角度を持つ時間の角に棲んでいる恐るべき存在である。
人間は、時間の角ではなく曲線に沿って生きているため、通常はこの怪物に遭遇する危険はゼロであるが、何らかの手段で時間を遡ったりするようなことをすると、この猟犬の尋常ならざる嗅覚にひっかかってしまうことがある。
一度でも獲物を知覚した猟犬は、その獲物を捉えて餌食にするまで、時間や次元を超えてどこまでも追い続ける。彼らは絶えず飢えており、飽くことを知らず、清浄から逸脱した存在であるがゆえに、人間などの生物にはある清浄な何かに対して飢えているのだという。また非常に執念深く、妥協は好きでないうえに心変わりもなかなかしないため、一度狙った獲物を諦めることは滅多にない。
彼らは現実の肉体を備えておらず、物質世界に出現する際は、一切の酸素を欠いた青い膿汁のような原形質で肉体を構成する。しかし、彼らには角度を通してしか実体化できないという制約があるため、必ずどこかの角から姿を現すのだ。ゆえにもし猟犬に狙われた場合は、四隅のすべてをセメントやパテなどで埋めて角度をなくした空間に閉じこもり、猟犬が別の獲物を見つけるまで何とか出し抜くことができれば助かるかもしれない。
そんなティンダロスの猟犬を人間が使い魔にして使役するなど、およそ考えられないことで、ヴィエはただ率直に驚くばかりであった。
「それもあなたの右眼の力なの?」
「どうかしら。そんなことを話すと思う?」
「ううん。どちらにしても、あなたがティンダロスの猟犬を従えているのは事実ね」
「そういうこと。それじゃあ戦闘再開といきましょう」
猟犬が宙を駆けて夜鬼に交戦をしかけた。あろうことかこの怪物は何もない空間を足場として立ち、跳躍しているのだった。
空中で激しく交錯する黒と青の体躯。ティンダロスの猟犬は物理攻撃を全く受けつけない。だが魔力を付与された攻撃や呪文でならダメージを与えることができる。
魔的な漆黒の爪が不浄の肉体を切りつけ傷を負わせるが、数秒ごとにみるみる再生されてしまい、逆に猟犬が繰り出す前足の攻撃を受けさばく夜鬼の身体に、青黒い膿のごとき粘液がかかった。この粘液は生きていて活性のものであり、付着しただけで毒の効果をもたらす。即座に膿を払う夜鬼だが少量のダメージは免れないため、明らかにティンダロスの猟犬のほうが優勢である。
エルダーサインで援護しようとするヴィエの前にライヒが立ちはだかった。
その右眼から赤みがかった光が放出し、まばゆく輝きはじめる。
反射的にヴィエが何かの呪文を口にした。
おそるべき赤い発光を前にチェコ第五の魔道士は平然と意思を保っていた。透明な障壁が彼女を包んでいたのだ。
それを見たライヒは感心したようにほほえんだ。
「ナアク=ティトの壁とは、やるわね」
あらゆるものを遮断する絶対防護壁、それがナアク=ティトの障壁であり、ライヒの「ダイラス・リーンの災厄」を完全に防ぐことができる数少ない対処手段であった。
しかし障壁を展開させている間はその場を動くことができず、他の行動もとれないので、ヴィエはそのまま立ち尽くすのみとなった。「銀の鍵」による転移という戦闘離脱手段もあるが、それを使うのは万策尽きるまで控えたい。
空中でティンダロスの猟犬とナイトゴーントが熾烈な戦いを繰り広げるなか、二人の少女は一歩も動かず互いに思案をめぐらせる。その状況が暫く続いたとき、突如として音楽が鳴った。それはライヒの携帯から流れる緊急用メロディーだった。
一体何事かと携帯を耳に傾けるライヒだが、聞きなれた声にたちまちげんなりする。
『申しあげます、司祭殿、一大事なのであります』
「なによ、こんなときに。くだらない用件だったら怒るわよ」
『今すぐ戻ってきてほしいのであります。今晩にも、あのとき出遭ったやつらの残りがやってくるのであります。司祭殿が帰ってきてくれなければ、わたくしは部屋の四隅を石膏で埋めて閉じこもらなければならないのであります』
「……あっ」
シュヴェイクの言わんとすることを理解したライヒは、思わず口をぽっかり開いた。
そうだ。彼を知覚したティンダロスの猟犬は複数いたのではなかったか。
そんなことはわかっていたはずなのに、猟犬の一匹を使い魔にできた興奮のおかげですっかり頭から抜け落ちていた。
このままではシュヴェイクが無残な餌食になりかねず、彼を見捨ててその結果を平静と受けいれられるほどライヒは冷徹ではない。
「わかったわ、すぐに戻るから」
そう返事して通話を終えると、『星の智慧派』最年少の司祭はヴィエに向かって一礼した。
「一方的で恐縮だけど、手合わせはこのへんにさせてもらうわ。ごきげんよう」
戦闘終了の合図に応じるように、ティンダロスの猟犬が手近な角度を通ってこの世界から消える。そして閉鎖空間を解いたライヒは小走りに去っていった。
遠ざかる小さな背中を眺めつつ、ヴィエは、今夜から睡眠につくときは自分とサイモンのベッドを球体結界で包んでおかなければいけないなと思うのだった。ヴィエの洋館は結界を張ってあるが、あのおそるべき猟犬は角度さえあればそんなものおかまいなしに出現することが可能なのだから。
その夜、ザルツブルクの自宅に帰ったライヒは、使い魔となった猟犬を通じて、シュヴェイクを狙ってやってきた数匹の猟犬たちとコンタクトをとり、何とか諦めさせて引き返してもらったのである。
数日後。
シュヴェイクから受け取った写真を眼にしたロンメルは歓喜のあまり涙を流した。
そこには、青いオーバーオールと白のノースリーブシャツというカジュアルな格好でソフトアイスを手に持つライヒが写っていた。