手に入れてしまうと、今度は取り戻したくなるものだと知った。
私がなくしてしまったもの。
ずっと、願って止まなかった、もうひとつの大切なもの。
そう、私は本当の意味での友達を作りたいのだと。思い知った。
Pioggia
12.bel tempo
あの事件、そして私が桑畑さんとお付き合いをすることになってから数日後、退院することになった。
怪我とかはあるけれど、特に気にすることは無いと言われ、今までのような生活に戻ってもいいとお医者さんのお墨付きをもらった。
そして今。退院して、少ない荷物を片手にタクシーでも捕まえようと病院の外に一歩足を踏み出した途端、その人たちは私を囲んだ。
「タクシーで帰るつもりだったのか?」
「こういうときに頼ってもらえないのは…彼氏としてはどうなの?お兄ちゃん」
桑畑さんと真央ちゃんだった。
というか、桑畑さん…仕事は?
「一言ぐらい言ってくれよ。会社のほうで何も言われなかったら、俺は今日という日のことをずっと後悔しなきゃならないんだからな」
「あの…仕事は」
「休みだよ。彼女の退院の日に仕事なんてしてられるか」
あっさりと言い切った。
こんなのでいいんだろうか?仕事なんだから責任だってあるのに。
「今日ぐらいは休ませてあげてよ。ずっと、気が気じゃなかったみたいなんだから」
「で、でも…」
「初めて本気で付き合いたいって思った人が漸く退院して、自由の身になるんだから。そんな日に仕事はしたくないと思うよ」
そういう、ものなのかな?
確かに入院してる間もすぐに会いたいって思ってたし、お見舞いに来てくれてるときなんかは帰らないで欲しいってずっと思ってた。だけど、それは私だけなんだって思ってた。
だって、桑畑さんは時間が来ると、いつもすぐに帰っちゃうし。
「色々、してたからね。その辺は今日、たっぷりと思い知ると思うよ」
色々?思い知る?一体、桑畑さんは何をしていたんだろう。
「ほら、乗ってくれ。今日は俺に付き合ってもらうからな」
「は、はい」
もう断れる空気ではなくなってしまっていた。
私は観念して車に乗り込むことになった。
「じゃ、頑張ってね、樹さん」
「え、ええっ」
真央ちゃんだけが乗らないまま車は発進してしまった。
「く、桑畑さん!真央ちゃんは?」
「あぁ…あいつはこのまま大学。ここからなら歩いていける」
そうだったんだ。でも、置き去りにしたことには変わりない気がしてしょうがない。
「大丈夫だ。あいつが自分でそれを望んだんだから。それを樹があれこれ言ってもしょうがないだろ?」
「それは…そうですけど」
もう何も言えない。
それに、何を言っていいのかもわからない。ずっと、会いたいって、一緒にいたいって思ってたのに。いざ会うとどうしたらいいのかがわからなくなる。
真央ちゃんの話題はもう出せないし…入院中のことはずっと話してたし。
「樹、食事は?」
「あ…まだ、です」
荷物を纏めただけでそのまま出てきてしまったから。
「だったら…どこか行くか。車だからな、普段なら行かないようなところでも行けるぞ」
行きたいところ。
…うーん。中々、そういうところも浮かばないもので。
「あ」
ふと、一箇所思いついた。
「どこかあるか?」
あるにはあるんだけど、これ、本当に言ってもいいのかな?それに、あのお店って駐車場が無かったような気もする。
「言うだけは言ってみてくれないか?無理なら無理だって言うから」
「はい。あの…アナベルに行ってみたいです」
そう。さっき別れたばかりの真央ちゃんのバイト先。
「アナベルでいいのか?」
「はい。でも、大丈夫ですか?あそこ…駐車場が無かったと思うんですけど」
「コインパーキングが近くにあるからそこでいいだろ」
言われてしまえばその通りだった。
「まさか、それで言い辛かったのか?」
「…はい」
知らず、声が小さくなっていく。
視線も下を向く。
「気にしすぎだよ。それに、そういうのだって言わなきゃわからないだろ。だから、まずは言ってくれ」
「はい」
そうやって、認めてくれるのが嬉しい。
だから、私は今が嬉しい。認めてくれる人がこうしてそばにいてくれる。それが心の底から嬉しい。
でも、そのおかげで気付いたことがある。
できれば名前で呼んで欲しいと言ってくれた宮下さん。宮下さんはずっと、私を認めて受け入れてくれていたんだ。私はそれに気付かないまま、拒絶してしまった。
だから、それを取り戻して、私も受け入れたいって想いが溢れてくる。
「しかし…真央から樹がアナベルに来たって聞いたときは驚いたぞ。家、桜坂だろ?そこから自転車で花待坂なんて普通はやらないからな」
「…課長が、紫陽花通りの紫陽花が綺麗だと仰ったので」
「あぁ…課長もああいうの好きだからな」
桑畑さんは課長のお宅の庭にはしっかりと手入れされた花がたくさん植えられていると教えてくれた。しかも、その手入れは全てご自分でされているとか。
「一度、課長のお宅のお庭も見てみたいです」
「そこ、左見てろ」
何のことかわからないまま左を見る。
ちょっとこじんまりした家の庭に、きちんと手入れされて、まるでヨーロッパの庭園みたいな綺麗な空間が構築されていた。
「あれが課長の家」
「あれが…」
びっくりした。だけど、感動もした。
自分で、課長とは何も話せないって思ってた。でも、そうでもないって思えた。
本当は紫陽花通りのことを教えてもらった時点でそのことに気づけなければ駄目だった。
「どうだった?」
思考の渦に飲まれそうになっていた私を桑畑さんが救い上げてくれる。
「あ…何と言いますか」
「うん」
「凄かった、です。今度はゆっくり見たいって思いました」
桑畑さんは「そうか」と言って視線を前に戻した。
運転中の横顔は、とても真剣で、思わずどきっとしてしまう。
「そこのパーキングに入るから」
だから、声をかけられるとどうしていいかわからず硬直してしまう。
「どうかしたか?」
「い、いえ。何でもありません」
「そうか?ならいいんだけど」
一瞬だけ向けられた視線にさらにどきっとさせられて思わず上擦った声が出てしまう。
うぅ…恥ずかしい。
そんなことを考えている間に車はパーキングに入っていた。
「ほら、行くぞ」
「はい」
私は桑畑さんの言葉に従って車を降りた。
これでもかってくらいに晴れ渡った空。そして、嫌がらせのように降り注ぐ陽光。暑い。
「暑いな」
「そう、ですねぇ」
ほっといたら溶けるんじゃないか、と桑畑さん。そうかもしれないと内心考えながら私は笑った。
「やっと笑った」
「…私、笑ってました?」
「あぁ」
まさか、本当に溶けてしまうんじゃないかなんて考えていたとは言い出せなかった。だからかもしれない。
自然と、
「内緒です」
と口にしていた。
「そうやって言われると、余計に気になるのが人間の心理ってものだけど」
「それでも、です」
こんなことが知られた日にはどうしたら良いものか。一瞬、思案するものの答えなんて出るわけも無く。そういうわけなのでこれに関しては、ずっと内緒にしたままでいこう。
誰かも言ってた気がする。
曰く、いい女には秘密の一つや二つはつき物なのだと。
「やあ。珍しい組み合わせだね」
アナベルに入った途端におじさんはいらっしゃいでもなくそう言った。
「珍しい、ですか?」
おじさんは桑畑さんを見て言った。
「この前、真央ちゃんと仲良く話してた子が、まさかお兄さんの彼女さんだったなんてね」
「…確かに、面接の付き添いをしましたが…お兄さんはやめてくださいと何度」
「気にしない気にしない。細かいことを気にしてると禿げるって言うじゃない。ほら、気にしてないおじさんはこの通りふさふさ」
気にしてないんだ…
やっぱり、という気はするけども。
「というか、彼女というくだりは否定しないんだね」
「事実ですから」
私も頷く。この数日間でその事実をきちんと受け止められるようになった。だから、素直に頷けた。
「おや。彼女さんが来たときにはまだのようだったけど…頑張った?」
「…え、えぇ」
周りが、ですけども。なんて、言えるわけもない。そう、本当に奔走したのは私たちじゃなくて、友達関係の解消までしてみせた宮下さんと、お膳立てをしてくれた真央ちゃんだ。
このことは桑畑さんともお互いに認識していることでもあるだけに、しばらくは真央ちゃんに頭が上がりそうに無い。
そして、私と桑畑さんを奮起させるためだけに友達という関係を破棄するまでしてくれた宮下さんとの関係はいまだに修復されていない。私としてはこのままではいたくないけれど、どうしていいかもわからないままだ。
「そっか。まあ、立ち話もなんだから座った座った」
おじさんが私たちの背を押して、席へと促す。
「注文は?」
「アイスコーヒー二つ」
「はいさー」
あなたはどこの人ですか、という言葉が出て来そうになるけどそこは押しとどめる。
「何か食べるんだっただろ?コーヒー来てから出いいから何か頼もう」
「はい」
言われてメニューに目を通す。
この前はサンドウィッチだった気がするからそれ以外にしようかな。
「食事もするの?」
いつの間にかおじさんが私の前にコーヒーを置いていた。
「はい」
「だったらさ、試食していかない?新メニューの」
「い、いいんですか?」
滅多に外食なんてしない私がそんな大役を務めてもいいんだろうか?
「おじさん。そうやってまた真央を悔しがらせて楽しむつもりでしょう?」
「さすがにお兄さん。よくわかってるじゃないか」
「まあ。あれのことですからね」
お互いがお互いを理解して、それだから出来ること。飛ばせる冗談。それが凄く羨ましく思えた。
桑畑さんからは結婚を前提にとは言われたけど…私はあんな風になれるんだろうか。
「ほら。樹も一緒になって真央を悔しがらせてやろう」
「そうそう。今回は真央ちゃんが大好きなシフォンケーキだからね。きっと、凄く悔しがるよ」
だけど、こうやって差し伸べられる手を受け取ることの出来る私なら。なれる気がする。なってみせたい、と思う。
「はい」
だから私は素直に頷く。未だ届かない場所に、いつか辿り着く為に。
試食としていただいたシフォンケーキは絶品だった。
いや…私が物を知らないだけなのかもしれない。それでも、美味しかったのは事実。真央ちゃんの悔しがる顔はすぐに想像できたけど、宮下さんならどんな顔をするのか、それは想像できなかった。
最後に見た、いろんな感情が綯い交ぜになった表情が記憶に深く刻まれて今までに見てきた他の表情がわからなくなってしまっていた。
「桑畑さん」
「ん…?」
コーヒーを飲んでいた桑畑さんは私に呼ばれて顔を上げた。
「私…宮下さんと、今度こそ本当に友達になりたいです」
名前で呼んで欲しいと言われても、それができなかった。
桑畑さんのことを知っていたからこそくれたアドバイスを何一つとして信じなかった。
親友のつもりでいてくれたのに、私は怖がって…友達にすらなりきれていなかった。
「だったら、思ってることを全部伝えなきゃ。俺にそうしてくれたようにさ。本当に思ってることを言わないと…分かり合えないから」
「…そう、ですね」
連絡先は知っている。でも、これを電話やメールで済ませて良いとは思わなかった。
直接、会わないといけない気がした。
「じゃあ…今夜、呼ぼうか」
「え?」
あまりにその発言は唐突だった。
「決めたのなら、行動は早いほうがいい」
桑畑さんの言葉には重みがあった。
実際に、自分でそれを実感したかのようだった。
「でも…どこに?」
「Ciliegio。宮下と初めて一緒に食事をした場所だろ?もう一度、最初から」
もう一度最初から、とは言うけれど。そのままあの日をなぞることだけはしないようにしたい。あの日、私は自分で抱えてきたネガな心をあの場で吐き出した。
桑畑さんといることで少しずつ認めることが出来た今、宮下さんと友達になろうという今。自分で自分を貶めるわけにはいかない。
「どうする?」
「…呼びます。それで、桑畑さんもいてくださいますか?」
「あぁ。勿論」
今の私で会うのなら、今の私を形作る最も大きなものも、きちんと見せたい。きちんと、桑畑さんとお付き合いしてるって伝えたい。
全部、私の口から伝えたい。
今は仕事中だろうから、メールにしよう。
タイトル『今夜』
『唐突で申し訳ありませんが、もしも、ご都合がつくようでしたら今夜20時ごろにCiliegioまで来ていただけないでしょうか?お話したいことがあります。
どうか、よろしくお願いします』
ここまで打ち込んで、送信を押した。
もう、後には引けない。引くつもりも無いけれど。
私たちはアナベルを後にして、今度は桑畑さんの希望であの雨の日に行ったバッティングセンターに来ていた。
「偶には体を動かすのも悪くないだろう?」
「…そうですね」
あの日、マシンを壊してしまったという負い目もあり、ちょっと気まずくもある。それでも、体を動かしてみたいという思いが勝っている。
無心になれるって教えてくれた人がそばにいる。私の中に巣食う恐れや緊張。今だけでもそれを忘れてしまえれば、と思う。そして、食べ過ぎてしまったシフォンケーキのカロリーを消化してしまいたいという欲も…
うん。
桑畑さんの隣のボックスに入って、バットを構える。当然ではあるけれどバットなんてあれから握ったりもしなかったし、野球観戦だってしていない。したこともない。
それでも。あのマシンから飛んでくる白球を打ち返せたら。私の中の不安も恐れも何もかも打ち壊せるのかもしれない。
「飛んでって…!」
私は全力を以ってバットを振りぬいた。
pioggia
13.il mio migliore amica
後書き
さて…前回で仲直りといきたい、と書いた気がしますが。すみません。次回まで引っ張ります。
そういうわけで次回のタイトルが際立つわけです。「私の一番の友達です」という意味でして。
まぁ…そろそろある程度のラインで終わりが見えてきているわけですよ。静季は念願叶った、樹は恋人を手に入れ、友達を望んだ。あとは未央と真央といった周囲の人間次第。
ここまでは漕ぎつけました。そういうわけであとは一気に駆け抜けてしまえればと思います。
BaseBallBear「HIGH COLOR TIMES」 doa「WE ARE ONE」