車に戻ろうとして、雨が降っていることに気付いた。
そして、雨を浴びながら、静かに泣き続ける彼女を見た。
何故泣いているのか。それ以上に、こう思った。
なんて、綺麗で、儚いんだろう、と。
Pioggia
3.Se “lui”
俺と彼女の最初の出会いは新人研修だったはずだが、全く持って記憶にない。
だから、俺にとっての出会いは彼女が俺達の職場、食品事業部営業2課の秘書として配置されたときがそうだった。
とはいえ。
この時点でも俺の印象には残らなかった。
これが去年の春の話。
そう、彼女が入社してきて既に1年が経過していた。
なのに、俺は彼女が誰かと話をしているところを見たことがない。俺が見ていないところで話をしているのかもしれないが、誰かと仲がいいようにも見えない。
忘年会や新年会でもずっと隅のほうで大人しくしてたイメージがある。
流石にこの頃には周囲の女とは何かが違っているということを理解していた。変な女、という印象もある。
何故か、コーヒーを豆から、ミルで挽くのだ。初めて見たときには信じられなかった。我が目を疑った。あんな細い印象の女が、力いっぱいミルを挽いている。こんなふざけた光景があるか。更には宴会の日には大きなバッグに自転車を畳んでしまって、担いで歩いている。
そんな女が、あの日、雨の街の中でずっと立っていた。その手に大きな袋を抱えて。それが凄く重そうに見えた。
だから、俺は車を止めた。
「前園じゃないか。どうしたんだ?」
当たり前のように声をかけたが、内心、どうしたものかと思った。
他の女ほど面倒ではないだろう。だが、それは考えていなかった。何故、車を止めたのかも理解できていなかった。
「傘とか、持ってないんなら送っていこうか?俺はもう用事もないしな」
そして、気付けば車に乗せようとしていた。悩むこともなく。
「え…」
案の定、返ってきたのは戸惑いの声だった。
それは、この展開を予想していなかったのか、それとも、俺の噂を知っているからなのか、どちらなのかはわからなかったが。
「タクシーの、番号を教えてください。タクシーで、帰ります」
そして、返ってきたのは拒否の言葉だった。だが、何故か俺はここで引き下がる気になれなかった。
だから、少しだけ言葉を選んだ。
「駄目。教えてあげない」
拒否に拒否を返す、変な光景。
「素直に送られてよ。じゃないと、俺も雨の中震える後輩を置き去りにした最低な奴になっちゃうし」
ずるい言葉だ。
口にして、思った。こんなことを言われたら誰だって断れない。断れるのは自分よりも上位にいる相手か、空気を読まない奴、もしくは傍若無人な奴ぐらいだ。
彼女がそんな奴じゃないことは知っていた。
「桑畑さん…」
だから、彼女が反論するよりも先に営業スマイルを作った。
相手を不快にさせない、自分に害はないと主張するための笑顔。
やっぱり俺はずるい。
「…バス停まででいいですから」
その言葉が彼女の譲歩だと理解した。
言葉通りにするつもりもない。俺はドアを開け、彼女を車の中に招き入れた。
「駄目。ちゃんと、送ってあげるよ」
もう一度、逃げ道を塞いでみる。
「でも、桑畑さんの手をそこまで煩わせるわけにもいきません」
「いいから。謙遜したりするのはそこそこにいいことだけど、人の厚意くらい素直に受け取って。じゃないと、差し出した方は、どうしていいかわからなくなる。それで、何かあっても手を貸せなくなる」
詭弁だ。
俺の行動が本当に厚意によるものなのか。それすら自分で理解できていないのに。
だけど、俺の言っていることが正論であるのも事実だ。俺の行動は傍目には善意によるものに見えていたはずだ。だから、それを素直に受け入れられないことに対するアドバイスにもなるはずだ。
「いいんです。私は、それでも」
だが、彼女は更にすり抜けて行こうとする。
何より、その発言は駄目だ。社会人どころか、一個人としてその発言は駄目だ。
「よくないよ。一緒に働く、仲間じゃないか」
ここで俺は真剣になった。詭弁を弄する気もない。
彼女は別に社会をなめているわけじゃないだろう。しかし、圧倒的に人付き合いから逃げているような感じがする。
「いいんです。私、きっと仲間になんて、なれませんから。いつまでも足を引っ張って、迷惑をかけてくことしかできませんから」
そうだ。人付き合いが不得手で、今も俺から逃れるために俺を怒らせようとしている。
それを、嘗めてるって言うんだ。
「前園。時間ある?」
「…はい」
知らず、口調が固くなる。自然と、彼女の口調に怯えが混じった。
「ちょっと、寄り道する」
俺は車を走らせた。
このあまりに溜め込んでしまう彼女を、俺のやり方で少しだけ変えてやりたかった。
何より、あまりに生真面目な彼女だ。一緒の職場とはいえ、俺は外回りが中心、でも、彼女はオフィスでの雑用だ。きっと、余計なものまで抱え込んでしまっているんだろう。
常に誰かと一緒にいられない仕事っていうのも問題なのかもしれない。
「どこに、行くんですか?」
俺は答えない。
行き先を告げると、きっと尻込みしてしまうだろうから。だから、俺は教えない。
そして、目的の場所に到着する。
駐車場に車を停めてシートベルトを外す。
「…ここ、ですか?」
戸惑った声が聞こえる。
それはそうだろう。だって、ここはバッティングセンターだ。怒らせたと思った相手に連れてこられる場所じゃない。
尤も。どこに連れて行かれると思ったのかは知らないけど。
「そ、降りて」
俺は彼女に降りるよう促す。
「着いて来て」
彼女の手を取り、歩き出す。少し強引かもしれない。だけど、これぐらいしなきゃいけない気がした。
バッターボックスに入り、バットを構える。
俺は野球に関しては素人だ。ルールもあまりわかってない。
「俺、野球なんて真面目にやったことないけど…!」
それでも、そんな俺が何故バットを振るかわかって欲しかった。
「でも、こうしてバットを振ることだけは好きなんだ」
空振り。でも、不思議と気分はいい。
「外れても…バットを全力で振り抜いて、嫌なこととか、全部、吐き出してしまえるから」
打つのはボールじゃない。溜め込んでしまう、色々なものだ。それをここで吐き出して、打つ。
俺はずっとそうやってきた。
「私のこと、ですか?」
勘違いもいいところだ。
「違う。違うけど、悔しかったんだ」
そう、悔しかった。
あんなに頑張って仕事してるのに、他のことを色々諦めてしまってる。
「そうやって、諦めて、最初から……それが、嫌だ」
「諦めてって…」
否定する材料を探しているように見えた。
だから、俺は言葉を続けた。
「社会人だろ?だったら、周りとうまくやってくことも覚えなきゃいけないし、息を抜くことだって覚えていかなきゃいけないだろ?」
「……」
沈黙のみが返ってくる。
「意外と、すっきりするんだぞ」
俺は握っていたバットを差し出した。入ったときには断られたけど、今なら受け取ってくれる。そんな気がした。
彼女は恐る恐るではあったけど受け取ってくれた。
バッターボックスに入る彼女を見送りながら、俺は機械で球速を遅くすることにした。
俺が打ってるののそのままじゃ絶対に打てない。
ピッチングマシンからボールが放たれる。今の俺なら余裕で撃てる球。でも、始めた頃は打てなかった。掠りもしなかった。
バットが振られ、白球を打ち返す。同時に、手からバットがすっぽ抜けた。
ボールは大きく、ホームラン。バットはピッチングマシンにストライク。
がシャン、と派手な音がした。出来れば、そっちは見たくない。でも、見る。ピッチングマシンの表示が全て消えていた。
凄い。こんなこと、あるもんなんだな。自然と笑いがこみ上げてきた。でも、流石に笑える状況じゃないから、必死で堪える。
スタッフが駆け込んできた。
「大丈夫ですか!」
「あ、はい…すみません。壊して…」
「いえ…お怪我がなくてよかったです。でも、次からは気をつけてくださいね」
「はい…」
彼女は注意されたのだと思い、少ししょげていた。
でも、俺は打った瞬間の彼女の顔を見てた。
とても、清々しい、爽快感に満ちた顔をしていた。
たとえ、彼女がいい顔をしていても、俺が面白くても。店を出なくちゃいけないときがある。
そう、店の機材を壊したんだ。出入り禁止にされなかっただけでもありがたいと思っておこう。まぁ…バッティングセンターはここだけじゃないし。
で、帰りの車内で彼女はどこか上の空だった。
「ごめん。あまり、気晴らしにはならなかったかな」
「いえ…そういうことは」
俺の言葉に遠慮してか、無難な返答が返ってくる。
「いいよ、別に。素直に言ってくれても」
でも、つまらないときはつまらないって素直に言ってくれたほうが助かる気持ちはある。そうじゃないと次に繋がらない。
って、次って何だよ。
そんなことを思ってる間に、彼女が口を開いた。
「嬉しかったんです」
意外で、少し、嬉しくなる言葉だった。
「生まれて初めて、バットを握りました。それは、この街に来て初めて、外で名前を呼んでもらえたことから始まったことなんです。全部、初めてなんです。
こうして、男性と二人っきりで車に乗っていることも、何もかも」
「初めて、なんだ?」
意外に思えた。
実際、儚げで守ってあげたくなるような印象の彼女だ。学生時代なんて周りの男が黙ってなかっただろうに。
「はい。それで、いろいろなことも経験できて……私、こんなに嬉しいって思ったこと、今までありませんでした」
どうしようか。
横目で彼女を見る。
俯いてた。自分で言ったことが恥ずかしかったのかもしれない。
とはいえ。俺もかなり恥ずかしくて何も言えなくなった。こんなこと言われたのは初めてだ。こんな恥ずかしいこと、よく言えるもんだ。
そうは思う。
でも、言われて嬉しかったのも事実だ。それは否定しない。
「私、ここで降ります」
不意の一言だった。
だからこそ、余計に信じられなかった。さっき、嬉しいと思ったと言ってくれたばかりで、なのに。
「駄目だって。雨は降ってるし、荷物もあるし、傘もないでしょ?そんな状態で、会社の後輩…それも、女の子を放置できないよ」
ここで手放したくなかった。だから優しいフリをした。卑怯な俺を、もっと卑怯にする欺瞞。
「ねぇ」
答えない彼女に、問いかける。
「俺のこと、嫌い?嫌いだからそんなに車から降りたいの?嫌いだから、離れようとするの?」
やっぱり、答えはない。
「答えて」
「……」
最後のつもりの問いにも、答えはなかった。
「答えなくてもいいよ。でも、最後まで送らせて」
きっとどれだけ待っても彼女は答えないだろう。それで困らせるのも嫌だ。
そう思うと、俺は彼女に答えを要求する気はなくなった。でも、最後まで、送っていきたいとは思った。
「…はい」
彼女のアパートの前で降ろして、俺は帰路についた。
そこで考えるのは彼女のことばかり。
何故?そればかりだ。
そういえば、会社の受付嬢に彼女の同期がいたはずだ。研修のときに見た書類では同じ短大の出身とあった。
今度、話を聞いてみるか。
そんなことを思いながら、自分の部屋に着いた俺は車を駐車して部屋に向かう。
「ただいま」
ドアを開ける。
「おかえりなさい。結構かかったの?」
「いや、そんなことはない。ただの野暮用だ」
俺を出迎えてくれる妹の真央。
今は俺と真央の2人だけで生活している。
真央の大学進学が決まると同時に親父の転勤が決まった。定年前の本社勤務。なかなかあることじゃない。それだけ実力が認められてるってことなんだろう。
だけど、そうしたときに真央を連れて行けなくなった。で、既に就職していて自活も出来た俺と一緒に少し広い部屋を借りて暮らすことになった。
「そう?じゃ、ご飯の準備するから」
「そうか。手伝うか?」
「ううん。いいよ、帰ってきたばかりなんだし。ちょっとゆっくりしててよ」
俺は、真央を利用してる。
会社に入ったばかりの頃、妙にがっついた女が寄ってきた。どいつもこいつも俺を自分のオトコにしたかったらしい。
もったいないと言われつつも、俺はその全てから逃げてきた。嫌だった。そんな獲物のように見られることも、物のように見られることも。
そして、俺は妹と同居している状況を利用して妹を彼女と偽って女どもを黙らせていった。
もしかしたら、いや…きっと前園も俺の噂を知っていたんだろう。それであんなに遠慮していたんだろう。
そうだとしたら悪いことをした。
「お兄ちゃん、どうしたの?考え事でもしてた?」
「ん…いや、そうかもな」
まさかお前のことを利用していることを考えていた、などとも言えず、俺は言葉を濁した。
どこか上の空のまま俺はその日を過ごした。
そして、今。
俺の視線の先で、彼女は雨を浴びながら静かに泣いていた。
何故泣いているのかもわからない。
だが、純粋に綺麗だと思った。
そうだ。俺は…きっと今この瞬間、彼女に惚れてしまったんだ。
だから、目を離せない。
雨の中、ただただ泣き続ける彼女を綺麗だと思った。でも、その涙を止めてやりたいとも思った。拭い去ってしまいたいと思った。
でもきっと。今の俺にその資格はない。
俺は、彼女に近付けていない。
もっと、近くにいることを許してもらえないと、涙を拭ってあげることも出来ない。
きっと、昨日も彼女のことが好きだから車に乗せたり、バッティングセンターに連れて行ったんだ。
次は、食事にでも、行きたい。色々なところに行きたい。
初めて、そんなことを心の底から思える相手に出会えた。
これは…実らせないとな。骨は折れそうだけど。
pioggia
4.Teaser
後書き
はい、彼の視点からでした。
因みに、以前樹が会社に入ったばかり、ということを言っていますが、実際は入社2年目です。彼女にとっては3年終わるぐらいまでは入ったばかり、という認識です。(基準が小学校)
人付き合いが壊滅的に苦手な性格なので、今までの学校で慣れたり、友達づきあいが安定するのが3年目なので。
もっとも、中学と高校は安定と同時に卒業ですが。
で、今回は静季の彼女のネタばらしをしましたが、これをしておかないと今後の静季がただの浮気性の駄目男になりかねないのでこの時点でばらしておくことにしました。ついでに、今回、名前が出ているいないに関わらず、話に絡んでくる人物は全て存在が明らかになりました。
ただ樹と静季をくっつける話で終わりたくはないので樹に頑張ってもらいたいなと思っています。
では、また次回でお会いいたしましょう。
改稿に伴う補足
副題変更のみです。今回も単純に伊訳です。