泣いて泣いて泣き続けて、いつしか、涙も声も枯れてしまった。

仕事になんて行きたくない。

でも。行かなくちゃ。

どうか…どうか。見ていることだけは、許してください。
















Pioggia


2.Lavoro






















朝が来た。

眠れず、夜通し泣き続けた私の顔は相当酷いものだった。

これ、化粧だけで隠せるのかな?

不安になる。

「はぁ…」

溜息一つ。

食欲もないし…シャワーでも浴びて、仕事に行かなきゃ。でも、行きたくない。行けば、桑畑さんに会うことになる。それは、昨日のことを思い出すことになる。

とても、優しい人。でも、好きになっちゃいけなかった人。なのに、私の遅すぎる初恋の人。

「行きたく、ないなぁ」

だけどそんな我儘が通るわけもない。ここは諦めるしかないか。

まぁ、仕事中に桑畑さんに関わらなければいいんだし。それぐらいなら大丈夫なはず。……きっと。

自身なんてないけど。でも、もう入社して二年になる。後輩もいる以上、勝手なことは出来ないし、責任もある。

「ふわぁ…」

意思が固まってくると、今度は眠気が襲ってきた。一睡もしてないことがここで効いてくるなんて。

眠れない夜なんて初めてのことだった。ずっと、誰かのことを思い続ける夜も初めてのことだった。

やっぱり、桑畑さんは私に初めてをくれる人だった。できれば、遠慮しておきたい方向で、だけど。

「うわぁ」

鏡を見て、絶望した。

瞼は腫れて、目は兎みたいに真っ赤になってる。こんなのどうやったって誤魔化せるわけないじゃない。

絶対桑畑さんに何か言われる。あの人、結構お節介なところもあるし…

また、近付いてしまう。それは止めようって、嫌われるしかないんだって、昨日決めたのに。なのに、もうそれを破ってしまう気がする。きっと、桑畑さんに近付かれたら、私、嫌われようなんて思えなくなる。それは駄目。好きでいたら駄目なんだから。

「無駄な抵抗、してみよ」

まずは顔を洗うところから始めてみる。

少しでもマシにしないと…

























結局、努力は実らなかった。

私は基本的には自転車通勤をしてる。折りたたみ式自転車で、専用のバッグを荷台に縛り付けてる。

例えば、どうしても断れない飲み会に連れて行かれたとき。

そんな日に自転車に乗ることは出来ないから、そういうときは畳んでバッグに入れて持って歩く。そんなことを繰り返せば、私の腕力は女性にあるまじきものになりつつある。

それが理由で、私は会社で淹れるコーヒーは豆から挽いてる。これが意外と運動にもなる。ゴリゴリ、と音がするのを少しばかりの快感に思ってしまってる自分が少しだけ嫌になる。

「おはようございます」

歩いて出勤してる会社の先輩達に挨拶をしながら、私は自転車を走らせた。

そもそも、どうして私が自転車通勤をしてるかといえば、勿論、お金がかからないっていうのもあるけど。でも、何より、憧れだったから。

昔、映画のシーンで主人公の男の人が自転車に乗りながら通勤して、街の人たちに挨拶をしていくシーンというのがあった。そのときの光景に憧れて、私も自転車に乗ってみたけど、映画のようにはいかなかった。誰も私を知らない。それが一番の理由だったけど。

まぁ、うちの会社は制服があるから通勤時はスーツで、という決まりはない。だから、私の通勤はいつもジーンズにスニーカーっていう女らしさのかけらもない服装。化粧もあまり得意じゃないから、街を駆け抜ける私を社会人だと認識する人はどれくらいいるんだろう?

あ、でも最近の学生さんは皆、化粧が上手だよね。

はぁ…情けなくなってきた。

「お、前園。おはよう」

「お、おはようございます!」

桑畑さんが歩いてた。

私は桑畑さんから挨拶されてしまったので慌てて返した。って、嫌われたければここで無視しておけば良かったのに。でも、それは社会人としてあまりに礼を失した行為だから。流石に、それはできない、か。

そんなことを考えてる間に駐輪場に到着して、いつもの場所でロックをかける。

「ふぅ…」

これから、梅雨が来て、夏が来る。雨が続くと、自転車は辛くなる。どうしようかと思案しながら私は更衣室に向かった。

従業員専用の階段を駆け上がり、3階のドアを開く。すぐに女子更衣室に辿り着く。その更衣室の一番奥のロッカーが私の場所。

すぅ、と息を吸い込んで鍵を差し込んで開けてみる。この前、社内のクリーニングに出したばかりの制服。今日はこれしか置いてないからこれを着る。持ってきてた荷物を置き、私物の中から財布とアパートの鍵、ハンカチ、ティッシュを取り出し、着込んだ私服のポケットや、小さなポーチの中に入れていく。

最後に、ロッカーに鍵をかけて施錠を確認して、私は職場に向かった。

一応、時間制なのでタイムカードを押しておく。遅くもなく、早くもない時間。でも、新人の頃よりはゆっくりと出勤してきた。最初は後輩が出来ても同じ時間に出てきてた。そしたら、桑畑さんに呼び出されて注意されてしまった。『あまり後輩を緊張させるな』って。

そうだよね。早くに出てきて掃除とかしてるのに。そこに先輩がいたら自分達の行動を全部見られてる気がしていい気はしないよね。

「おはようございます」

ドアを開け、私の職場、食品事業部営業2課。1課が飲食店などに提供する食材を扱うのに対し、2課は給食関係の食材を扱ってる。

私はそこで、課付秘書という肩書きを貰ってる。秘書といえば聞こえはいいけど、実際は営業2課と総務、会計といった他部署とをつなぐ雑用係みたいなもの。だから、他の営業さんたちとの連帯感は殆どない。基本的には皆、時間が来ると出払ってしまう。皆が揃ってるのは朝礼のときだけ。

「おはよう」

「おはようございます」

席に向かう間、擦れ違う人たちに挨拶し、返されながら歩く。

そして、桑畑さんも同じ営業2課だった。

「おはよう。自転車、結構早くこぐんだね?」

「あ…はい」

だから、ちょっと気まずい。

「今日、皆結構早く出るみたいだから、直ぐに朝礼するって」

「わかりました」

きちんと揃ってるわけじゃないけど、朝礼が始まる。

























午前10時。

もう、課内には殆ど人は残ってない。

私は今、食品事業部開発2課に向かってる。

「いや、急に呼び出して済まないね」

「いえ。それで、用件というのは?」

何でも、至急の用件ということで急遽呼び出しがあったとか。それを課長から伝えられて、こうして参上した次第だったり。

「ん、この書類なんだけどね。朝の時点で桑畑に渡ってなきゃ駄目だったんだけど…行き違ってね。相手先には13時の約束のはずだったんだけど、当の桑畑が連絡つかないんだ。何か知ってるかい?」

言われて、桑畑さんの予定を思い出してみる。

確か、今は…

「あ、今はK医院で管理栄養士の方とうちの製品の継続利用の協議の最中の筈です。相手がこちらの製品を高いと仰るので交渉が難航していたはずです」

「そりゃ、出られるわけもないか」

出られませんね。

「誰か、じゃ、これを届けられそうな人いない?」

「いません。現状で、どこかに出ても大丈夫なのは私ぐらいです」

「じゃ、前園さん行ってよ」

何で?いませんって言ったじゃない。私は社用車を運転できない。当初の雇用条件の中に社用車を運転する際には普通免許(オートマ限定を除く)とあった。で、私はオートマ限定。

「お願い。うちも今さ…手が離せないんだ」

「……わかりました。何としても間に合わせてみます」

「頼む」

私は書類を受け取って営業2課に戻った。

「課長。開発2課から桑畑さんに渡す筈の書類を預かりました。急ぎということでしたので、今から届けに行ってまいります」

「おぉ…って、前園?」

「はい」

踵を返そうとしたところで課長に呼び止められた。

「お前、社用車乗れないだろ?どうするんだ」

「社用車は使えなくても、自転車はあります。幸い、桑畑さんの今日のスケジュールは完全に記憶しています。多少の誤差はあっても所定の時刻には確実にお渡しすることが出来るものと思います」

「わかった。行け」

私は今度こそ、職場を後にした。まずは、女子更衣室。

着替えて、荷物を抱え、バッグの中に書類を入れる。変によれたりしないようにクリアケースに入れてある。

「うん」

勢いよく従業員用階段を駆け下り、駐輪場へ。

ロックを外して、バッグを背負い、勢いよく駐輪場を飛び出した。

現在、午前10時32分。桑畑さんはこの後、午前11時にS養護センターで現状確認した後、休憩、その後に給食センターにあの書類を届けることになってる。

会社からK医院までは自転車で20分弱。間に合わないことはないけど、不安要素もある。

だから、S養護センターで張る。それで駄目な場合給食センターで待ち伏せるしかない。

それにしても…街を走り回る他の自転車の人はクロスバイクとかそんなで、とにかく速い。折りたたみ自転車なんてそんなにスピードも出ないし。

今度、買い換えてみようかな。少しだけ、欲が出てきた。

でも、やっぱり持ち運びのことを考えれば折りたたみがいいかな。

ふぅ…急いでいきますか。

























S養護センターの入り口に到着。

構内にうちの社用車は見えない。何とか、先回りできたのかな?

「はぁ…」

少し荒い息を整えつつ、自販機で買ったミネラルウォーターを口にする。同時に、そこの角から白い、うちの社用車が見えた。

良かった。間に合ったんだ。それを理解して、私はミネラルウォーターをバッグに詰め込んで、代わりにクリアケースを引っ張り出した。

車は私の目の前で止まった。

「前園?どうしてお前、私服でここにいるんだ?仕事は?」

「一応、仕事ですよ。これ、開発2課から預かってきました」

言って、私はクリアケースを差し出した。

「これ…そうだった。ありがとう。今朝開発2課の連中と行き違いになってたらしくて。助かったよ」

「いえ。では、私は会社に戻りますね」

「待って」

自転車に乗ろうとした私を桑畑さんは呼び止めた。

「休憩は、会社に戻ろうと思ってたんだ。送っていく。ここまで急いで届けてくれたんだろう?だったら、お礼に送らせてくれ」

「い、いえ…そこまでしていただかなくても」

駄目。

二日も続けて車に乗るわけにはいかないのに。いや、もう二度と乗るまいと決めてたのに。このままじゃ…

失礼なく断る方法も思いつかずに結局、車に乗ることになってしまった。

「あ、悪いけど暫く待っててよ。ここも仕事できてるから」

「はい」

もしかしたら、この間に帰れるかも。

「トランク、鍵閉めとくから」

「…はい」

桑畑さんのほうが一枚上手だった。

「大丈夫。ここ、現状確認だけだから直ぐに終わるよ」

それだけ言って、桑畑さんは養護センターに入っていった。

それを見送って、私はふと思った。歩いて帰るのはどうだろう?この車はほっとけば会社に戻って来るんだし。そのときに自転車を取り戻せば。それに、そうすれば桑畑さんを怒らせることも出来るし、嫌われることも出来るかもしれない。

だけど、私にはそれを実行できなかった。

桑畑さんは荷物…仕事に必要ないものを置いたままにしてた。その中には一部の貴重品も混ざってた。

私物の携帯電話はわかりやすい所に置かれていた。

ふと、その携帯電話がメールの受信を知らせた。

サブディスプレイに、送信者の名前が表示される。

『真央』

女の子の名前だった。もしかしなくても、彼女…なのかな。だとしたら、私はこのままここにはいたくない。

どうしていいかわからないまま、時間だけが過ぎた。

時折、メールを受信したという事実を告げる青いランプが点滅する。それは、私を拒絶しているみたいに感じられた。

ただじっと、時間が流れ、桑畑さんが戻ってくるのを待ち続けた。待つことは苦じゃない。なのに、苦じゃなかったはずなのに桑畑さんを待ち続けるこの時間が凄く辛かった。

私、どうしてこの人を好きになってしまったんだろう。

「あ…」

ポツリ、と水滴がフロントガラスに落ちてきた。

梅雨だもんね。雨ぐらい、降るよ。

私はドアを開けて、雨が降り始めてきた外に出た。次第に、雨が強くなる。それでも私は車には戻らなかった。強く打ちつけてくる雨。私は顔を上に向け、泣いた。

今なら、泣いても、涙は雨と一緒に流れていく。桑畑さんが戻ってきても、泣いていたことは気付かれないはず。

だから、今は泣くんだ。そうして、私の中のこの恋心も何もかも、流れてしまえばいいのに。


























pioggia


3.Se “lui”























後書き

営業などの仕事なんて知りません。ですから、明らかにおかしいところなどがあることと思いますが、そこは見逃していただけるとありがたいです。

さて、樹は立ち直れるんでしょうか?このままいくと、壊れてしまうかもしれません。

まぁ、その状況に収拾をつけるためにここまでを振り返ると同時に、雨の中泣いている彼女を見ている静季の視点で次回をお送りいたしますが。

では、また。



改稿作業に伴う補足


一部、説明不足の箇所に補足を入れました。あとは、次回の副題をそのまま伊訳、“彼”の場合です。