幸せの温度








風音町から『一陣の風』が消えて、数ヶ月たった。すなわち、街の住人から力が消えたという、
一大事が起きてから数ヶ月たったのだ。はじめの頃はやはり、力が消えた事に戸惑う者もいれば、
消えた事に安堵するものもいた。
しかし、今ではそんな街の面影は無く、事件が起こる前の普通の日常がそこにあった。
力を使う人間はいなくなっているが……。
そんな穏やかな昼下がりの風音町を一人の少女が歩いていた。
白銀に輝く髪は雲ひとつ無いスカイブルーの空に浮かんだ太陽に照らされて輝き、光は白い肌を
流れ落ちていった。
紅玉を連想させるような瞳は正面をただ見つめて歩いていた。
彼女が止まった場所は住宅街の中でも一際、目立つ一軒家の前で止まった。その地区では
一番、大きい家では無いかと思えるほどの豪邸であった。
紫光院と表札に書かれた家が彼女の目的地であった。
背の低い彼女にとって少し高い位置にあるインターホンを押した。

『はい、紫光院です』
「月代と言う者ですが、霞さんはご在宅でしょうか?」
『少しお待ちください』

インターホンから聞こえてきた声に従って、彩はその場で少し視線を下げて待っていた。
数十秒ほど待っていると、柵の向こうの扉が開く音が聞こえた。玄関が見える位置に移動すると、
彩の経営する店の常連が姿を見せた。柵を隔てて彩の前に現れた。

「あら、彩ちゃん。どうしたの?」
「はい、フォルテに会いに来ました」

フォルテとは彩の飼い猫で現在、彼女は恋人である丘野真という男性の家で過ごしているため、
彼の家では飼うことが出来ないのだ。そのため、真がフォルテを友人の家に預けたのだ。
それが、この紫光院宅である。

「元気にしているわよ。ただ、私にはあまり懐いてくれていないみたいだけどね」

肩をすくめる霞に彩は無表情で返した。別に笑顔を見せる事が出来ないわけでもなければ、
感情が無いわけでもない。ただ、真の前以外ではあまり表情に変化が現れないだけである。
門扉を開けると「お邪魔します」とお辞儀をしてから中へ入っていった。

「たぶん、あれじゃないかしら?」

霞が見つめた方向を彩も見やる。少し高い木が立っているその木陰で何か物体があった。
明らかに違和感があるそれが、フォルテなのであろう。

「フォルテ」

懐かしい友人を呼ぶような、そんな想いを帯びた声色で呼びかける。すると、その物体が動いた。
やはり、フォルテであったようだ。フォルテは久しぶりの主人との再会に喜び、
一直線にしなやかなフォームで走り寄ってきた。
彩はただ、向かってくるフォルテに対して壁のように立っていたが、少し前で跳躍したそれを
きっちりと抱きとめた。

「ナー」
「久しぶりね、フォルテ」

嬉しそうな泣き声をあげるフォルテに彩は優しく抱きしめ、頬ずりした。答えるように頬を小さな赤い舌で舐めた。
くすぐったさに頭を少し引いたが、再会が嬉しかったのか、フォルテは追いかけて舐めていた。
そんな暖かい様子を霞は傍で見つめていた。
随分と変わったわね。それが彼女の本心であった。何度も顔を合わせているが、真と付き合いだしてからは、
彼女の周りにある空気の温度が少し上がった気がしていたのだ。
いや、夏に一緒に出かけたときかもしれない。霞はそんな事を考えながら、感情が表に表れだした
少女を見つめていた。
再会の挨拶に一区切り付いたのか、フォルテをおろすと霞の方に向き直った。

「ありがとうございます」
「良いのよ。こんなだだっ広くて使い道に欠ける庭なんだから、猫の一匹くらいなんて事無いわ」
「餌代も掛かかったでしょうから、その分を支払います」
「そうね。自慢はしたくないんだけど、これだけ大きい家に住んでいるのよ?親も猫を庭で買う事は認めているわ。
  餌代なんて微々たる物だから気にしなくて良いわ」
「でも…」
「良いの。あなたは丘野君と仲良くいちゃついていたら良いのよ。せっかく、良い笑顔になったんだから」
「……」

彩もそれ以上、霞に言っても無駄であると感づいたのか、そこで止めた。
足にじゃれ付いていたフォルテが「ナー」と一鳴きすると、二人はそちらに目を向けた。
彩はしゃがむと、その背中を優しく撫でた。気持ち良さ気に目を細めるフォルテにつられて
彩も目を細めた。

「月代さん、本当に良い温度になったわね」
「良い温度、ですか?」

霞の表現に眉をひそめた。確かにそうだった。普通なら『柔らかい雰囲気になったわね』とか、
『良い笑顔を浮べるようになったわね』というものであろう。しかし、霞は『良い温度になったわね』と
言ったのだ。彩が眉をひそめるのは当然だろう。

「ええ、良い温度よ」
「意味が分かりません」
「そうね。幸せっていう温度かしら?」
「……」

彩は思案するものの、いまひとつピンと来なかった。幸せという温度とはどんなものか?
それは一体、何の例えなのか?

「月代さんが幸せを感じる温度が、今の月代さんの温度よ」
「それは、どんな温度でしょうか?」
「私には分からないわ。それは月代さんが一番分かっているはずよ?月代さんが幸せだと感じる温度なんだから」

ナゾナゾをかけてくるような霞の物言いに彩は頭を悩ませた。幸せを感じる温度?
そんな温度が果たしてあるのか?彩は今まで感じたことのある温度を探していた。

「…春の気温ですか?」
「そうね…。確かにそれも有り得るわね。でも、月代さんはもっと幸せを感じる温度があるんじゃないかしら?」
「…真さんの家の風呂の温度?」
「……人ぞれぞれって所ね。でも、それが月代さんにとって幸せを感じる温度では無いと私は思うわよ?」
「……」
「あなたは触れた事は無いのかしら?」
「触れた…事、ですか?」

更に疑問が深まった。体全身で感じるものではなく、触れることが出来るもの。
そうなれば、相手は気体以外でなければ触れる事はできない。
それを考えれば……。

「あるでしょ?月代さん」

彩には霞がどんな答えを期待しているのか分からなかった。霞の目に浮かぶのは優しげな思いと、少しの羨望だった。

「……」

再び、思考の海に落ちた。何か思い当たるものは…。一番、幸せに感じるときの温度…。
と、一つの考えにぶち当たった。触れることが出来るもので幸せを感じる温度…。
それを頭に思い浮かべた瞬間、顔が熱くなっていくのが分かる。
霞に言うには少し恥ずかしいものだった。

「思い当たったようね?」
「……はい」
「フォルテはあなたじゃないかしら?」
「えっ…?」
「あなたの体温が、フォルテにとって幸せの温度じゃないのかしら?」

霞の答えが正しい、というかのようにフォルテは「ナー」という鳴き声をあげた。
紅玉の瞳に優しさが灯った。

「そして、月代さん。あなたには……」
「……」
「でしょ?」
「……はい」

しゃがみこんで俯いているからこそ、霞には分からなかったが、反応を見れば彼女の顔が
真っ赤である事など想像に難くなかった。

「良いわね…。ここまで想われているなら、彼も大切しないと罰があたるってもんでしょ?」
「真さんは大切にしてくれています」
「まさか月代さんから惚気まで聞かせてもらえるとは……丘野君もやるじゃない」

予想しない反応に思わず苦笑を浮べてしまった霞と、思わず霞の言葉に反応してしまった彩は更に顔が熱くなるのが分かった。
そんな二人の様子をフォルテは不思議そうに眺めていたが、人間より優れる聴覚と嗅覚が何かの到来をキャッチした。
門扉の方に首を向けるとフォルテは一気に駆け出した。

「フォルテ」

彩の呼び声も無視して、門扉の細い隙間を潜り抜けると道路へ出て行った。
心配になって後を追おうと立ち上がったが、それは大して問題ない事に気づいた。

「おお、フォルテか。彩ちゃんは何処にいるか知らないか?」

彩にとっても霞にとっても聞きなれた声だった。さきほどの話題の中心人物で霞が感心した人物だった。
「ナー」と鳴く声が聞こえると、また門扉をくぐって戻ってきた。

「…紫光院の家にいるのか?」
「庭よ」
「うおっ!いつの間に…」
「最初からいたわよ。ほら、あなたのお姫様はここにいるわよ」

立ち上がっていた彩の後ろに回って存在をアピールした。いきなりの事に驚きを隠せない
彩は戸惑いながらもその場に立っていた。

「いや、そんな強調しなくても彩ちゃんの姿はここからでも分かるから。それより、紫光院。この門扉、勝手に開けて良いのか?」
「ええ、構わないわよ。ただ、電気が走っても知らないわよ?」
「何っ!!」
「冗談よ。勝手に入ってきて構わないわよ」
「……本当に電気は走らないんだな?」
「走らせて欲しければ、走らせてあげるわよ?」
「……」

無言で門扉を開ける真の姿を霞は面白そうに、彩は何となく落ち着かない様子で見ていた。
今までの話題の人がいきなりやってくるとなると緊張するものがあるらしい。
何より、本人の前では恥ずかしすぎる話であった事も起因している。

「でも、珍しいわね。丘野君がこんな私の家に来るなんて」
「いや、彩ちゃんの姿が見えなかったから何処に行ったのかと…」
「探しに来たわけね」
「……真さん。置き書き、見なかったんですか?テーブルの上に置いておいた筈なんですが?」
「……」
「……」

彩の発言に思わず、霞と共に黙る真。両者の沈黙は似て非なるものだった。
霞は黙っている真の様子を、呆れが内包された視線を送っていた。
一方、真は自分のミスを露呈してしまった事で気まずそうに顔を背けて黙っていた。
ちなみに彩は状況が今一つ理解できず、二人の顔を見ていた。

「丘野君」
「……何も言うな。紫光院」
「真さん?」
「彩ちゃん…聞かないでくれ」

霞はため息を吐くと、真の肩を叩き「落ち着きなさいね」と一言だけ言葉を送った。
憮然とした表情で「ああ」と返す彼に向ける霞の視線にはやはり呆れが混じっていた。

「真さんの幸せの温度というのはどんなものですか?」

不意の質問だった。真は「えっ?」と彩に視線を映し、霞もまた彩に視線を向けた。

「真さんが幸せ、と感じる温度はどんな温度ですか?」
「……難しい質問だな…」
「あら、月代さんはちゃんと答えたわよ?」
「ん?紫光院の質問だったのか?」
「ええ、不服そうね」
「いや、彩ちゃんに何を吹き込んでるのかって思っただけだ」
「大丈夫よ。別に変な質問じゃないんだから」
「まぁな。しかし、幸せを感じる温度か…」

真は少し考え込んでいたが、一つ何かに思い当たったように顔を上げた。
しかし「あー、やめ」と言って答えは出てこなかった。

「真さん?」
「あら、どうしたの?」
「…特に無い」
「えっ…」
「あら?本当?」

少し悲しげな彩の表情と、嘘でしょ?と語りかけてくる霞の視線。その二つに耐えられなかったのか、
「あるにはある。ただ、言いたくない」と言って黙り込み事を決め込んだ。
そんな様子を見て、安堵の表情を浮べる彩と面白くない、といった表情の霞だった。
結局、二人の前では真の幸せを感じる温度は何か言わなかった。







ただ、家への帰り道……。
霞の家であの後、お茶をご馳走になり、帰宅する頃には、空は彩の瞳と同じような色に染まっていた。

「……なぁ、彩ちゃん」
「はい」
「庭で言っていたこと」
「庭で、ですか?」
「ああ、紫光院の庭で言っていた幸せの温度の事なんだけどな」
「あ、はい」
「……紫光院前では言い難かったんだが、その…」
「はい」
「……彩ちゃんかな」
「どういうことですか?」
「……彩ちゃんから伝わる温度が、俺にとっての幸せの温度」

なるべく、彩には視線を合わさないように真は正面を向いていた。彩が見上げると横顔しか見えないが、
頬が赤く染まっているのははっきりと見えた。それが夕焼けの所為か、それとも……

「…真さん」
「ん?」
「…私の幸せの温度は真さんから伝わる温度です」
「…そっか……」

その言葉に真はかすかに照れた笑みを浮べた。彩もつられて頬に笑みを浮べて「はい」と耳に
届くか届かないかギリギリの声で答えた。









地の果てに沈んでいく日に向かって歩いていく二人
その後ろに長く伸びた二つの影法師
繋がった影法師は幸せの温度を感じていた……。