隠密作戦行動−迎撃編−



 彼がコーヒー・ショップ『バイタリティ・ポッド』に着いてから待つ事、早一時間が経過していた。彼は自らの信条に基づいて、なるべく約束を守る様にしている。それは角の立ち易い己の性格を考慮し、人間関係における摩擦を出来るだけ抑える為に出来た生き方である。故に時刻を違える事は、不可避の事象に巻き込まれた時以外は無い。たい焼きを食い逃げした少女に半強制的に付き合わされた、などと言う突発性のイベントでも無い限りは。

 そんな時間に規則正しさを求める彼だが、待つ事には慣れていた。他者と時間の流れが違うのではないかと思う程(特に早朝は磨きが掛かっていた)にゆったりと時を過ごすいとこの少女お陰と言うのも、勿論ある。だが彼にとって、いとこの少女――水瀬 名雪との関係に起因する理由などはそれ以外の項に属する程度影響力でしか無い。彼は力量を超え、座して天命を待つしか無い状況を知っている。無力な己を嘆き、自虐し、運命を呪っって待つしか無かった時と現状を無意識的に比べてしまうのだ。

 その結果、無意識は「それ程苦では無い」と結論を下してしまう。

 ウェイトレスにエスプレッソを頼み、現状に対して彼は溜息を漏らした。退屈や一時間の遅刻をした相手へのマイナス感情からでは無い、ここ半月の間心の平穏が保たれている事に対する驚嘆からである。嵐の様だった一月とは打って変わって、殆ど何の予定も無い二月。

 日曜の休日を利用して郷里へと帰ってきた彼は、慣れ親しんだ風景が目の前にあるだけで半ば満足してしまっていた。精神的にも、物理的にも暖かい日々が続いている。地理的に日本の北側に属する彼の居候先とは違い、この場所は冬でも雪が少ない。それ故積雪による骨折など雪国の住人にとって笑い話にもならない事故も起こるが、冬は概ね過ごしやすい。例え日帰りで居候先に戻らなけばならないとは言え、彼にとっては有り難い事だった。

「眠る季節、だな」

 低血圧なのかどうかは知らないが、この街にも朝の弱い少女がいた。幼なじみの男に起こして貰わなければ、必ずと言って良い程に遅刻する少女。それはまるで今の自分の状況に似通っており、親近感を抱かずにおれなかった。

 左手首に巻いた時計を見やれば、時刻はもうすぐ一時五十分になる。マフラーに茶のコート、タイトスカートで健気に、しかし慌てて走る姿が容易に浮かぶ。実際に窓から外を見ると、慌てて横断歩道を渡ろうとする女の子が目に入った。彼の想像した姿に極めて近似した人物である。


不必要な程に左右を見渡し、前方を見ずに走る。結果として何も無い所で転び、左折車に轢かれそうになって顔が引き攣る。が、少女はすぐに前を見据えて歩きだした。先程よりも幾分慎重に、だ。

 間違い無く、少女は彼の待ち人であった。仕草や行動は勿論、顔も以前と変わっていない。二ヶ月やそこらで変わったならばそれこそ驚嘆ものだが。店の中から彼女に対し手を振ると、彼女の方もこちらに気付き手を振り返す。そして足下への注意が散漫になった事で再び転倒しかける。

 苦笑が漏れてしまう程に、記憶にある彼女に違わない。それだけで彼は帰ってきた事を十分に実感してしまっていた。

 ウェイトレスが頼んでいたエスプレッソを運んでくる。軽く会釈し、退散する頃には待ち人が息を切らせて自分の前にやって来ていた。

「ごめん、祐ちゃん。寝坊、しちゃって」
 体力に自信の無い彼女は大きく肩で息をし、急いでここへ来た事を表現する。演技など考えもしない彼女は実際にそうなのだろうが、遅刻は遅刻である。手を合わせ彼に対して一心に謝る様は予想の範囲内だった。

「天音は未だ麻生に頼り切り、か」

「目覚まし時計は鳴っていたんだけど、香澄ちゃんじゃないと起きられなくて、それで」

 声が末尾にいくにしたがって萎む。このしおらしさは名雪には無いものだった為に、新鮮に感じられる。二時間遅れたお詫びに缶コーヒー一本、よりは余程誠意がこもっている対応と言えよう。

「まあ良い、さっさと座れ。早速現状確認といきたい所だがその前に一つ」

「何?」

「好い加減『祐ちゃん』は無いだろうよ」

「相沢 祐一、だから『祐ちゃん』だよ? 全然変じゃないよ」

「では、天音は橘 天音だから『海女さん』か」

「それは酷いよ。私、海女さんじゃないもん」

 理論も冗談も通用しない天音に内心苦笑しつつ、彼女の幼なじみの男――麻生 香澄に対して同情の念を抱く。子供の時分から現在に至るまで、飽く事無く彼女の面倒を見てきた香澄の苦労が推し量れる。強烈な害意や悪意に晒される事無くこれまでを生きてきた彼女は、本当に人間に恵まれていると言えた。逆説的に言えば、彼女が香澄の様な人物を惹き付けたと言えるだろうか。

 天音はチョコレートパフェを頼み、祐一の方へ向き直った。

「麻生も『香澄ちゃん、の呼称は好い加減止めろ』とか言ってなかったか」

「うん。でも香澄ちゃんは香澄ちゃんだから、って言ったら許してくれたよ」

 それだけで香澄の方も諦めているのだろう、との思いが伝わった。口数自体は少ないものの、彼は自分に近しい者に対して甘いのだ。必要とあらば最も近しい人間すら傷付ける事を厭わぬ祐一とは、正に好対照だった。

「麻生は私と違って、冷血では無いからな」

 冷酷で打算的、そう祐一は自らを定義付けている。その定義を天音は見事に破った。

「祐ちゃん、とっても優しいよ」

 確かに、彼にも優しさはある。それは紛れも無く事実だったが、非常に分かり難い形でしか現れない。故に世間は彼を冷酷だと評する。自分でもそう思い、そして己自身を護る為に自らを型に嵌めてきた。クール&ドライ、自分を保つ事に腐心していたのだ。そこに気が付いたのはつい最近、型を破るには至っていない。そもそも天音は引っ越し前の、型に嵌っていた頃の祐一しか知らない筈である。

「よく冷血だとか、冷酷だとか言われるのだが」

 実際にはこれに『極悪』も追加される。

「祐ちゃんは香澄ちゃんと同じで、ちょっと分かり難いだけだよ。祐ちゃんの優しさに気付いている人、いない?」

「いない」

 即答出来る。彼が内面の領域に踏み込ませた事は、ここ数年一度たりとも無かった。繊細さと己の弱さから他者との距離を保とうとした麻生 香澄よりも、相沢 祐一の心は余程荒んでいる。己の内側には完治していない傷がある。他者の手で無遠慮に触れられてしまえば、たちまち鮮血に染まってしまう。それを酷く恐れ、他者を自分の領域に入れようとしないのだ。

「身近にいると思うけどなぁ」

 頼んだチョコレートパフェが眼前に来たので、天音はそう言って生クリームの部分を掬って食べる。舌の上に転がして頬が緩むのは、彼女が世間一般の例に漏れないからだろう。

 祐一は心の奥に存在する巨大な空洞を悟らせまいと無意識に立ち振る舞い、結果としてより冷たい人間に見えているのだ。それすらも天音は見透かしていると言うのか。彼女の表情を見る限り、彼にはとてもそうは思えなかったが。

「私の本質を見抜いているのは、今のところ天音だけだ」

 大切なものを護りたいと言う気持ちは彼にもある。だがそれを護る為に自分が更に傷付く事が確定している場合でも、身を挺する自信は彼には無かった。何処までも大切なものは『我』、利己と打算の外殻を打ち破る為に必要なものは何なのか。

「私の事はこれぐらいにして本題に入るが、宜しいか」

「うん」

 二人は殆ど意識せずに居住まいを正した。気持ち両者の距離が縮まる。

「明日何を渡せば良いか。麻生との付き合いは私よりも長い筈だから、天音が一番奴の嗜好を知っている筈だがな」

「香澄ちゃん、自分の事話さないから」

 ――麻生の同性として、友人として助言が欲しいと言った所か。

 天音は人見知りの激しい性格で、友人の類は多くない。異性の友人ともなると更にその数は少ない(祐一か、香澄の二人しかいない可能性は十分に考えられた。そして今回はより彼女と親しい香澄に相談する訳にはいかないのだ)。彼が日帰りで帰郷する事を友人達に告げる電話を掛けなければ、そして電話帳に記載されている番号の順番の一番最初に橘 天音の名前が無ければ(祐一は携帯電話を持っていない為、いつでも番号が書いてある手帳を持ち歩いている)今回の話は成立しなかった。

 奇跡的な綱渡りの上に成立する邂逅である為に、天音としては何としてもモノにする必要があった。彼にとって親しかった旧友達に電話を掛ける所を堰き止めてまで祐一を独占した価値を手に入れなければならない。

「麻生は天音からのプレゼントなら何でも喜ぶと思うが」

「自信、無いよ」

「では、これだな。全裸にリボンのみ装着し」

「駄目だもん、そんなの!」

 天音は立ち上がって強く否定する。

「ムキになって反論するな、声が大きい」

「あ……」

 天音が自分の立場を理解し、赤面して着席した。店内で注目されているのは明らかである。彼女には自分達に対する忍び笑いが何処かで上がっている様な気さえし、自分の心象を誤魔化す様に溶けかかっているチョコレートパフェを口に運んだ。

「それは冗談として、手渡しとなると重要なのは物品よりもむしろ仕草だ」

 天音に倣う様に祐一はすっかり冷めてしまったエスプレッソに口を付ける。咥内に染み渡る深い苦みが広がった。

「如何に自分が真剣なのかを言外に主張する事こそ肝要だ」

「気持ちが籠もっていれば良いの?」

「そう。だがそれをやたらと強調し過ぎると、どうしても嘘臭さが立ってしまう。麻生は芸術家肌だから、行動の裏にある意図を読み取る力が強い。騙すなら、己をも騙して臨め」

「難しいよ」

「元々茨の道、麻生を撃ち落とすのは至難と言って良いだろう。ライバルも多そうだ」

 残りの冷め切ったエスプレッソを一気に飲み干すと、カップの底に沈殿しているコーヒー粉が喉に引っ掛かる。コーヒーはやはり熱い内の方が美味しいが、彼はもう一つ注文する気は無かった。

「戦力差はT−34とティーガー、いやシャーマンとティーガー程か」

 祐一の評に天音はきょとんとする。どれも第二次世界大戦中の有名な戦車の名称なのだが、彼女は知らない様だった。特に後者はシャーマン三輌とティーガー一輌で戦力比的に同等だと言われていたのだから、正面切って戦えば万に一つも勝ち目が無いと言っていると同じである。麻生 香澄はそれ程にガードが堅い。祐一の様に内側にある何かを護っているのかも知れない。

「唯一と言っても良い救いは他に麻生を狙う者がいたとしても、条件は天音より厳しさこそ増せど甘くなる事は無いと言う所か」

 香澄に一番近しいのはやはり天音を於いて他にいない。祐一の知る限り、と言う条件付きではあったが。近しい者に気を許しがちなのは程度の差こそあれ、彼も例外では無かろう。

「喜んでくれるかな」

「勝ちを納める気概が無ければ、成功率の高い作戦でも失敗する。確率など、あくまで目安でしかない」

 要は天音の気持ち次第で数値など幾らでも変化するのだ、と祐一は付け加える。

「うん、ありがとうね」

 丁度天音は眼前のチョコレートパフェを食べ終わった所だった。どちらかが声を掛け合った訳では無いが、二人はほぼ同時に席を立つ。二人が勘定を払おうと歩を進めようとした正にその時、祐一の後ろで声がした。知った声だ、とはっきり判断する前に彼が振り向く。

 席を立つつもりだったのだろう、中腰でこちらを向く少女の姿があった。天音は眼前の少女に釘付けになっている祐一を盗み見て、思わず恐怖を覚えた。先程までの彼とは別人と言っても良い、害虫を見るが如く凍れる視線を少女に注いでいる。

 店内の空気がたちまち剣呑なものに変わっていく。肌がちり付く様な、腹の中に多足類がざわつく様な不快感が天音の身体を這いずった。居心地の悪さから意識せず彼女は自らの胸を抱く。

 無限とも思えた沈黙を破ったのは祐一本人だった。

「行くぞ、天音」

「でも」

「構わぬ」

 天音が少女の方を見やれば、瞳に涙を溜め既に泣き出す寸前だった。それでも彼は動じない。祐一は少女に何かした訳では無いし、罵詈雑言を浴びせた訳でも無い。何も無きが如く行動しただけだ。強いて言えば無言と、視線。だがそれこそが、極上の切れ味を誇る刃となって少女を切り刻んだのだ。

「仲直りしなきゃ、駄目だよ」

「天音」

「私はもう良いから。祐ちゃん、ありがとうね」

 これからプレゼントを一緒に選ぶと言う今日の予定を放棄してまで、彼女は何をしようと言うのか。彼女が不利益を被る理由など、何一つ無いと言うのに。

「会計、払っておいてね」

 呼び止める暇すら与えずチョコレートパフェの代金を手渡すと、天音は颯爽と店内から外へ飛び出す。彼女は見る間に人混みに消え、少女と祐一の二人が後に残った。

「……ごめん、祐一」

 少女が顔を上げず、彼に後ろから抱き付いてそう言った。祐一は彼女に掛ける言葉を見付けられず、されるがままになる。予定外が多い日だ、と彼は胸中で毒づいた。

「時間が空いてしまったから、この街の穴場を紹介してやろう」

「……いいの?」

「時間が空いたのは名雪のせいだ、責任を取れ」

「うん」

 先程とは全く違う、明るい返事が返ってくる。若干涙声なのは仕方無かろう。全く現金な生き物だ、と祐一は嘆息して会計へと向かった。