オモウココロハジユウナレド
一章ノ一 マジワルミライ
大原 響
出会い
その日は、大雨だった。
俺は休日を利用して母親の経営する喫茶店の手伝いをしていた。
この街に移り住んで五年。
母とこの店はこの辺りではあって当然のモノとして認識されている。
俺が言った最後の我儘のために仲の良かった両親は離婚して、俺は母とこの街にやってきた。
我儘を聞いてくれた恩に報いるために、こうして店を手伝っている。
もう、何があっても母にだけは迷惑を掛けたくない。
だから、何かが欲しいとも、お金が欲しいとも言わない。
早く独立して、お金を稼いで母に楽をさせてあげたい。
本当は高校にも行かず、就職しようと思っていたが、母に高校くらい出ておけと言われた。
それから、母は毎日食事代と小遣いとして千円をくれる。
けど、俺はそれを使ったことがない。
今は貯金しているが、高校を出たらすぐに返すつもりだ。
“カランカラン”
客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
明るい母の声。
「いらっしゃいませ」
俺もそれに続いた。
「あ〜ぁ。びしょびしょ…」
客は女の子だった。
この雨の中、外を走ってきたのだろうか、全身から水が滴り落ちている。
同時に、夏も近いこの季節。女の子は薄着だった。
俺は慌てて視線を逸らし、待ち構えていた母からタオルを渡された。
極力床だけを見るようにしてタオルを女の子に渡した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう…ございます」
ぎこちなく礼を言ってくれた女の子。
充足感もあったが、その裏で、本当は俺のことを笑っているに違いないと考える自分がいた。
そんな俺に気付いたのか、母が…
「あんた、もう帰りなさい」
と、言ってきた。
「しかし…」
今の俺は、母のために生きているといっても過言ではない。
だからこそ、まだ手伝いたくて食い下がろうとした。
「いいから」
そう言った母の瞳には、はっきりとした拒絶が浮かんでいた。
こうなったら、帰るしかないだろう。
「わかった…」
俺は傘を持って外に出ようとした。
「あの…」
「俺に…何か用?」
客の女の子が俺を引き止めていた。
「どうせ俺のことを笑いたいんだろう?馬鹿な奴だって。好きにしたらどうだ」
「え…?」
「そうなんだろ!!はっきり言えよ!!」
女の子の困惑の声を余所に俺は一気にまくしたてた。
俺は…いったい何をしている?
「響!!」
母の叱責の声。
俺は慌てて外に飛び出した。
「何を……何をやってるんだ!!俺は!!」
手に持っていた傘を地面に叩きつけ、俺は走った。
大原 葵
謝罪
息子の響が飛び出していった後の店の中。
私とお客さんの女の子だけがただ呆然としていた。
他には何もない。
元来、ご近所での語り合いを目的として作った店。
こんな大雨の日に来ようなんて考える人はまずいない。
だから、今は私と女の子の二人だけ。
「本当に申し訳ありません。お詫びといってはなんですが…今日はサービスということにさせていただきますのでお好きなものをどうぞ」
「いえ!そんな…」
「あの子…根はいい子なんです。ただ……私以外の人間を信じられなくなってしまって。だからというわけでもありませんが大目に見てやっていただけないでしょうか?」
半分は嘘だった。
響は私のこともあまり信用していない。
あの子は“誰も”信じていなかった。
「…大原響君、ですよね?」
「知って…いるんですか?」
私は少し身構えた。
「隣のクラスなんです、私」
納得した。
「笑ったらもっと人気出るのにって、みんなで話したりしてるんです」
笑ったら…か。
多分、何か大きなきっかけがなければあの子が笑顔を取り戻すことはないだろう。
そう、私は考え込んでしまった。
「どうかしました?」
「え?あ…いえ。そうね…笑えればいいんだけどね……」
最後にあのこの笑顔を見たのは五年前、まだあの子が中学に上がる前のことだった。
離婚したばかりの私を慰めようと無理矢理笑顔を作ってた。
それは到底笑顔と呼べるものじゃなくて。でも、それが嬉しくて…
何より悲しかった。
「名前…訊いてもいいかしら?」
「あ、はい。私、柊小鳥っていいます」
女の子――小鳥ちゃんにホットココアを渡す。
「これは知人としてだからお代はいいわ」
「え…でも」
「その代わりね、あの子を一人にしないでほしいの。私は…あの子にとって神様だから……今のままのあの子じゃ自分から離れていってしまうから」
柊 小鳥
再会
神様ってどういうことだったんだろう?
翌日の私は、この疑問で一杯だった。
授業中に惚けてて、先生に当てられて取り乱したり、いつもなら解ける問題が解けなかったり…
とにかく、私は“らしく”なかった。
響君のお母さん――葵さんは、彼にとっては神様。
自分を育ててくれたことへの感謝とそこから来る憧れ。
それでも神様というのは行きすぎだと思う。
「う〜ん…」
これがわからないと、とてもじゃないけど葵さんのお願いはできそうにない。
「小鳥、お昼食べないの?」
「あ、ごめん。すぐ行く」
私は思考を中断して立ち上がった。
「どうする?やっぱり学食にするの?」
「んー…そうだね」
友達と並んで歩く。
いつもの光景。
「そういえばさ、隣のクラスの大原君、後輩の子をすごく泣かせてふったって話聞いた?」
「え?」
「何かさ、すごいひどいこと言ったらしいよ?その女の子、授業になっても帰ってこなくて、友達が迎えに行ったらそこで大泣きしてたって」
そこで私は思った。
昨日のはまだ序の口程度なんだ、と。
「みんな、自分はああならないって思っちゃうんだろうね」
「そんなにひどいの?」
私は意外に思って聞き返した。
猫と一緒に木の下で寝てたって話くらいしか知らないから。
「うん、有名な話だよ。不登校になった子とか、学校辞めちゃった子もいるし」
「嘘!?」
「本当」
人間不信の人が仲間を増やしているようにしか思えなかった。
「あ」
そんなとき、正面から本人――響君がやってきた。
響君も私に気付いたらしく、顔を背けながら擦れ違った。
「何かあったの?」
「あ…うん。昨日誰かさんが約束すっぽかしてくれたおかげで」
「あ、ひどいなぁ…好きですっぽかしたわけじゃないのに」
友達が唇を尖らせる。
「わかってるよ。いい子だもんね」
「それはそれでムカつく」
そんな感じで昼休みは終わる。
そして、それが私たちの再会だった。
大原 響
悩み
参った…
昨日母に説得され、彼女に謝ることにしたのに、できてない。
もうじき放課後になる。
彼女が帰ってしまえば謝ることなどできなくなる。
「あの!!」
声をかけられて振り向く。
そこには知らない女の子の姿があった。
「どうして、香乃にあんなこと言ったんですか!?振ったにしてもひどすぎます!!」
どうやら朝のことを言っているらしい。
「知るかよ…」
俺に用意できる言葉はこれくらいだ。
「そんな言葉であの子の涙を片付ける気ですか!?」
「あぁ。他人だからな」
俺はそう言って立ち去った。
このままじゃいけない。
そう思っていても、結局はこうなってしまう。
こんなんじゃ、母に顔向けできない。
そう思いながら、俺は昇降口へと向かう。
柊小鳥。
昨日、店に来た彼女の名前。
俺は彼女を知っていた。
分不相応の憧れと、幻想のなかの存在だった。
俺は彼女に恋をしていた。
でも、俺はそれを否定した。
考え直せ、と。
俺はそうやって、信じて裏切られたんだ。
きっと今回も同じだ。
だからやめろ。
信じなければ、近付かなければ裏切られることはない。
だから忘れろ。
それが自分のためなんだ。
あの日、最後の我儘と決めて言った日に誓ったはずだ。
もう誰も信じない。
母に恩を返しきるまでが俺の存在が意味を持つ間だ、と。
それ以外に意味はない、と。
そして、俺は何も考えずに家に帰った。