それは、12月のある日の夜のことだった。

 いつものごとく祐一の部屋に漫画を借りに来た真琴。

 移動が面倒だからと祐一の部屋で寝そべって漫画を読みふけるその姿には乙女の羞恥心はまるで見えない。

 無論、夜中に男の部屋で二人っきりという危機感も全く見えない。

 まあ、祐一も慣れたもので彼女を綺麗さっぱり無視して受験勉強をこなしているのだが。



 「ねーねー祐一」

 「なんだ? また読めない文字でもあったか?」

 「違う違う」

 「じゃあ意味がわからん言葉でも出てきたか?」

 「それも違う」

 「じゃあなんだよ。くだらないことだったら後にしてくれよ、俺は受験勉強で忙しいんだ」



 鬱陶しそうに言葉の続きを催促する祐一。

 だが、彼は数秒後に180度態度を変えることになる。

 そう、次の真琴の言葉によって。



 「今日ね、美汐の誕生日なんだって。知ってた?」















 一分遅れのぷれぜんと















 「…………は?」



 かなりマヌケな声をあげて固まる祐一。

 余程真琴の言葉に衝撃を受けたのだろう。

 が、真琴はそんな祐一を無視して話を続けた。



 「だから、今日は美汐の誕生日なんだってば。真琴も今日初めて知ったんだけど」

 「今日って、12月6日?」

 「あたりまえじゃない、祐一ったらその歳でボケが始まったのぉ?」



 にやあ、と意地の悪い笑みを浮かべて祐一を馬鹿にする真琴。

 だが、祐一はそれに反論することが出来なかった。

 何故ならば時計を見てしまったからである。



 「…………10時19分!? 今日が終わるまであとちょっとしかねーじゃねーかっ!?」

 「そーだね」

 「そーだね、じゃねえっ! なんでもっと早く教えてくれなかったんだっ!?」

 「だって知ってると思ってたんだもん。祐一たち恋人なんだし」

 「うぐっ……」

 「ふっ、ぶざまねっ」



 文句をあっさりと棄却された祐一は真琴のツッコミに刺し貫かれた胸を押さえて後退する。

 確かに真琴の言う通り恋人―――――しかも一年近く、をやっておきながら彼女の誕生日も知らないとは言語道断である。

 普段からデリカシーがないと名雪や真琴に責められても平気な祐一だが、今回は流石に堪えた模様。



 「あーあ、彼女の誕生日にプレゼントどころかお祝いの言葉もないなんて……祐一ったらかいしょーなしね!」

 「むぐぐ……」

 「真琴ですらちゃんとプレゼントあげたのに……」

 「うう……」

 「恋人失格ね」

 「うぐわっ!」



 真琴の言葉責めに屈する祐一。

 正に負け犬の風体である。

 真琴はそんな祐一の姿が楽しいのか女王様モードになって祐一を見下ろしていたり。



 「おーほっほっほ! なんだかとっても気分がいいわっ」

 「うぐぐ…………はっ、そ、そうだ。こんなところで挫けている場合じゃない! 美汐に会いに行かねば!」

 「もう時間ないと思うんだけど」

 「そこは愛の力でどうにかするっ!」



 言うが早いかコートを手にとって部屋から駆け出す祐一。

 次いで玄関のドアが開く音と閉まる音が真琴の耳に届く。

 どうやら本気で美汐の家に祐一は行ったようだ。



 「祐一、がんばってねぇ〜」

 「真琴、今祐一さんが……」

 「あっ、秋子さん。心配しなくてもいいよ、祐一は美汐のところに行ったから」

 「あら、そうだったの。でも何時ごろ帰ってくるのかしら」

 「さあ…………」



 気のない様子で秋子に返事をし、漫画へと向き直る真琴。

 秋子は「困ったわねぇ」と全然困っていない様子で呟きつつ部屋へと戻るのだった。

 ちなみにこの二人、こんな夜更けに女の子の家に行くなんて、とか、祐一が朝帰りしたらどうしよう、とか

 微塵も考えていない。

 これは祐一を信用しているのか、はたまた単に能天気なだけなのか判断に苦しむところである。















 一方、とあるマンションの一室。

 ベランダで儚げに溜息をつく少女が一人いた。

 少女の名前は天野美汐。

 本日あと一時間で誕生日を終える祐一の恋人である。



 「はぁっ……」



 溜息が漆黒の闇を数瞬の間白く染める。

 今日は何度溜息をついたことだろう、と美汐は思った。

 溜息の原因は祐一のことだった。

 今日は自分の誕生日。

 ロマンスに憧れる乙女というのは柄ではないが、それでも誕生日を好きな人と過ごしたいという思いは当然ある。

 しかし、今日は平日だし祐一は受験勉強で忙しい。

 今日が誕生日だと告げれば祐一のことだから自分と過ごしてくれただろう。

 だが、元々気を使うタイプの彼女はそれを言い出せなかった。

 祐一はいつも忙しくても休日はデートをしてくれるのだし、これ以上の我が侭を言いたくなかったのである。



 「あと、一時間か……」



 しかし、寂しいものは寂しい。

 特に美汐は両親の元を離れ一人暮らしをしているのだから寂しさもひとしおである。

 夕方は真琴が遊びに来たし、両親からはプレゼントも届いた。

 それでも恋する少女とは我が侭なもので、やはり好きな人から祝ってもらいたい。



 「そろそろ部屋に戻ろう…………あれ?」



 その時、眼下に人影が見えた。

 人影は余程急いでいるのか、物凄いスピードでマンションに駆け込んでくる。

 夜なので人影が誰なのかは全く見えなかったが、何故か美汐はその人影が気になった。



 ぴんぽーん



 数十秒後、美汐の部屋のチャイムが鳴った。

 時刻は十一時ちょうど。

 どう考えても一人暮らしの女の子の部屋を誰かが訪ねる時間ではない。



 「誰でしょうか……」



 内心、かなり怯えつつ玄関のドアに近づいていく美汐。

 気休めにもならないが真琴が護身用にと置いていった痴漢撃退スプレーを片手にドアの覗き口を覗き込む。



 「…………っ!」



 すると、あれだけ怯え気味だった美汐の表情がぱあっと明るくなる。

 向こう側に見えたのは先程まで思い浮かべていた男性だったからである。

 もどかしそうにドアを開ける美汐。

 そこには―――――



 「すまん美汐、シャワー貸してくれ」



 何故か泥だらけの祐一が申し訳なさそうに息を切らせて立っていた。















 「祐一さん。ここに着替え置いておきますね」

 「おう、サンキュー。でも男物の服なんてよくあったな」

 「たまに両親が泊まりに来ますから……お父さんの服を置いてあるんです」



 風呂場の戸を挟んでまるで夫婦のような会話を交わす美汐。

 祐一は気がついていないが、美汐はそれを意識しているらしく頬を赤く染めていた。

 風呂場の戸は曇りガラスなので見えるはずもないが、僅か数メートル先で祐一が裸だと思うとかなりドキドキする。

 聞こえはしないとわかっていても、鼓動の音を押さえようとぎゅっと胸を掴む美汐なのだった。



 「と、ところで何故泥だらけだったのですか?」

 「いや、ちょっと車に泥をはねられてな。なんとか荷物は死守したんだが…………」

 「荷物?」

 「あ、あー、ほら。それは後でな」



 慌てたような祐一の声に首を傾げる美汐。

 何時までも脱衣所にいるわけにもいかないので「では」と声をかけてからリビングに戻る。

 リビングのテーブルには祐一の荷物―――――コンビニ袋が置いてあった。



 「なんなのでしょうかこれ…………というか何故祐一さんはこんな夜更けに?」



 ハテナ顔の美汐がコンビニ袋を見ながらぽつりと呟く。

 誕生日のことを言っていない以上、そのために祐一が来たとは全く思っていない。

 そうやって数分コンビニ袋とにらめっこをする美汐。

 すると、多少袖の余った服を着た祐一が髪を拭きながら現れた。



 「ちょっと大きかったみたいですね」

 「ああ、美汐の親父さんって身体大きいんだな」

 「ええ…………ところで祐一さん」

 「ん、なんだ?」

 「何故うちに来たのですか?」

 「恋人の家を訪ねるのに理由が必要か?」

 「なっ…………」



 祐一の言葉に瞬時に頬を染める美汐。

 一年近く交際をしていても、相変わらずこの手の言葉に弱い美汐。

 祐一はそんな彼女の可愛らしい様子を眼福とばかりにニヤニヤ見つめるのだった。

 まあ、内心では祐一も結構恥ずかしかったりするのだが。



 「ゆ、祐一さん……茶化さないで下さい」

 「茶化したわけじゃないんだけどな。まあ実際は今日が美汐の誕生日だと聞いたからやってきた。

  ちなみにその袋の中身はケーキだったりする」

 「え―――――」



 予想外の返答に戸惑う美汐を他所に、袋からショートケーキを取り出す祐一。

 横には『誕生日おめでとう』と書かれたカードが添えられていた。



 「恥ずかしながら真琴に聞くまで今日がお前の誕生日だったなんて知らなかった。

  恋人失格だな…………すまない美汐」

 「え、あ、あの、その…………」



 深々と頭を下げる祐一に戸惑う美汐。

 彼女はこんなに神妙な祐一の姿を見たのは初めてだった。

 どうやら本気で反省しているらしい。

 それだけ美汐の誕生日を重く考えてくれていたのだから、嬉しさこそわけど怒りなどわいてくるはずもないが。



 「あ、あの頭を上げてください。元はといえば私が黙っていたのが悪かったのですし」

 「いや、こういうのはやっぱ男から聞いとくのがマナーだろ。だから俺が全面的に悪い」

 「そ、そんな……でも、祐一さんはちゃんとこうして来てくれました」

 「だけど、もう三十分で今日は終わる。

  それに良く考えてみればこんな夜遅くに一人暮らしの女の子の家を訪ねるなんてどうかしてた」

 「そ、それは…………わ、私は気にしていませんから」



 気にしていないといいつつ顔は真っ赤に変化している美汐。

 祐一の言葉によって真夜中に密室で二人っきりというこのシチュエーションに気付いてしまったのである。

 今は神妙な祐一だが、彼も男の子。いつ狼になるかわからないのだ。



 (……そ、そういえば私の寝間着姿も見られているんですよね。は、恥ずかしい……)



 意識し始めるとそれが加速するのが人間の性である。

 ますます体温が顔を起点に上昇するのを押さえられない美汐。

 緊張と恥ずかしさで忙しなくキョロキョロしたりもじもじしたりと落ち着きをなくしてしまう。

 余談ではあるが美汐のパジャマは髪と同じ小豆色のチェック柄のデザインである。



 「まあ、とにかく―――――って何してるんだ美汐?」

 「ひゃ、ひゃい!?」



 流石にそんな挙動不審な彼女に気がついた祐一が声をかける。

 声を裏返して返事をする美汐はもういっぱいいっぱい。

 とても祐一と目を合わせることなどできない状態である。



 「…………や、やっぱり怒ってたりするのか?」

 「い、いえそんなことっ」

 「でも、真っ赤だし、目を合わせてくれないじゃないか」

 「こ、これは……その、恥ずかしくて……

 「え?」

 「い、いえなんでもありません」



 わたわたと手を振って誤魔化す美汐。

 だが、祐一はそんな美汐の態度に不安を感じたのか更に沈んでしまうのだった。



 「やっぱり、怒ってるのか……そうだよな、すまん。俺、帰るから……」



 しょんぼりして玄関に向かおうとする祐一。

 が、そんな彼の服の裾を掴む手があった。



 「ま、待ってください…………っ」

 「でも……」

 「ち、違います……その、あの」

 「……?」

 「は、恥ずかしかったんです」

 「へ?」



 搾り出すような美汐の言葉に歩みを止めて振り返る祐一。

 その目に映った美汐は俯いていたが、必死に言葉を紡ごうとしているのが見て取れた。



 「その、祐一さんが来て下さったのは本当に迷惑なんかじゃありません。ケーキやカードもとても嬉しいです」

 「…………」

 「た、ただその…………私、寝間着ですし、夜中だし、二人っきりだし…………だから」



 たどたどしい言葉だったが、祐一の耳に届いたそれは否定の感情ではなかった。

 ほっとする祐一だったが、同時に美汐の戸惑いを理解してしまい祐一にもその感情が伝染してしまう。



 「あ…………うあ?」

 「〜〜〜っ」



 自然、真っ赤になって沈黙する二人。

 カチッ、カチッ、と時計の音だけが二人の耳に響く。

 実のところキスすらまだのこのカップル。

 この沈黙の間は難易度の高いイベントとなっている模様。

 祐一は勢いだけでここまで来たものの、今は完全に勢いが止まってしまったし、

 美汐は最初からずっと緊張しっぱなしである。



 「そ、そうだ。ケーキ食わないか? せっかく買ってきたんだし」

 「そ、そうですね。じゃあ飲み物持ってきますね。紅茶でいいですか?」

 「あ、ああ」



 明らかに硬い動きと口調の二人。

 ギクシャクと擬音が聞こえてきそうな雰囲気だった。















 結局二人は無言のままケーキを食べ終わった。

 まだぎこちなさは残ってはいるものの、緊張もほぐれた祐一は気になっていたことを切り出す。



 「ところでさ、なんで黙ってたんだ? 今日が誕生日だってこと」

 「それは……祐一さんは受験生ですし、今日は平日ですし、その……」

 「もしかして迷惑になると思ったとか?」



 こくん、と頷く美汐。



 「そんなこと気にしなくてもいいのに」

 「でも……」

 「でも、じゃない。これでも俺はお前の彼氏のつもりなんだから誕生日くらい祝わせてくれ。

  全く……そうと知っていればちゃんとプレゼントも買えたのに」

 「……すみませんでした」



 本当に申し訳なさそうな表情で謝る美汐。

 が、そこまでされるとなんだか彼女を虐めているような気分になってしまう祐一だった。



 「謝る必要はないって、俺も悪いんだし」

 「でも」

 「あー、もう! でも、はなし! せっかくの誕生日なんだから大人しく祝われろ!」

 「い、祝われろって…………」



 ぷっ、と思わず吹き出す美汐。

 祐一らしい言葉が聞けて、緊張がほぐれたようだ。



 「お、やっと笑った顔が見れた。やっぱ女の子は笑ってないとな」

 「な……もう、祐一さん」



 照れた顔で怒る振りをする美汐。

 満更でもないのか全く迫力は感じられないが。



 「……げ、もう11時55分か。あと五分しかないな。なあ美汐、なんかして欲しいことないか?」

 「して欲しいこと、ですか?」

 「ああ、五分以内にできること限定で。それを誕生日プレゼントってことにするから」

 「急にそんなことを言われても……」



 考え込む美汐。

 と、脳裏に真琴に薦められて読んだ恋愛漫画のワンシーンが浮かぶ。

 『私のファーストキスをあげるね』とヒロインが主人公にキスするシーンだった。



 (……キス、とか…………だ、駄目です。な、何を考えて)



 「決まったか?」

 「き、キスなんて……」

 「き、キス!?」

 「は、いや、あの、その。い、今のは」

 「わ、わかった」

 「てちが…………って、え、ええっ?」



 肩を両手で掴まれてしまう美汐。

 祐一はマジなのか真剣な顔でゆっくりと近づいてくるのが見てとれる。

 当然、想定外だった事態に美汐は大混乱。

 祐一の顔も真っ赤であることすら気がつけない始末。

 だが、手を払いのけるわけにはいかないし、もはや手違いだと言える状態ではない。



 「美汐……」

 「あ、あの……(ゆ、祐一さんの顔がこんな近くに……)」



 ついに恥ずかしさのあまり美汐は目を閉じてしまう。

 それを完全肯定の証ととった祐一は止まることなく近づいてくる。

 互いの吐息が感じられるほどの距離に達する二人。

 美汐は、覚悟を決めた。



 (し、心臓が飛び出しそう)



 両手を胸の前でぎゅっと握ってその瞬間を待つ。

 そして―――――



 ぼーん、ぼーん、ぼーん…………



 「「―――――っ!!??」」



 ばばっ!!

 物凄い勢いで離れる二人。

 そしてお互いの顔を見やり、真っ赤になって俯く。

 二人を正気に戻した音は日の変わりを告げるアンティークな古時計の鐘のものだった。



 「あ、あはは…………お、終わったな、誕生日」

 「そ、そう……ですね」

 「え、えと、そろそろ帰るわ」

 「あ、は、はい」

 「ふ、服は今度また取りに来るから」

 「は、はい、待ってます」



 微妙にズレた返事をする美汐を背に帰宅の準備を始める祐一。

 そんな祐一の姿を見る美汐の心臓はドキドキだった。

 なにせ事故のようなものとはいえ、自分からキスをねだり、もう少しでそうなるところだったのだから。

 正直、惜しいという気持ちがあるだけに祐一の顔をしばらくまともに見ることが出来なさそうである。



 「じゃな」



 そうこうしているうちに玄関に移動した二人。

 祐一はドアのノブに手をかけて―――――それを止めて振り返った。



 「美汐」

 「はい―――――!?」



 瞬間、二つの影が重なった。

 そしてドアが閉まり、祐一が駆け出す足音がドアごしに響く。

 後に残された美汐はへなへなと崩れ落ちるように床に座り込んだ。



 「…………ゆ、祐一さん…………」



 熱を冷ますかのように頬に両手を当てる美汐。

 脳裏には数秒前の出来事がリフレインしていた。

 彼女の正常に動かない思考の中で唯一思ったことは『今日は寝られるだろうか』ということだった。















 なお、翌日からの数週間。

 祐一と顔を合わせないように逃げ回る美汐の姿が真琴に確認されたことは余談である。




 あとがき

 天野美汐嬢誕生日記念短編SSです。
 何気に短編連作になってたり(w
 なんか無駄に恥ずかしいはなしでした。