「むぅ……」

信長は考えていた。
武田の撤退に浅井・朝倉の滅亡、それに京都の義昭の追放で一先ずは信長包囲網的窮地は脱したものの、まだまだ問題は山積みであった。
まずは西のクソ坊主・顕如。今後本格的な戦闘に入って行くのは間違いない。
また、武田も撤退こそしたものの再び攻め入ってくる事は容易に考えられるので、気を抜くわけにはいかない。
そして今最も問題視せねばならぬ案件は、伊勢長島の一向一揆どもであった。

「やられっぱなしで終わる信長だと思うなよ……」

以前、伊勢長島では痛い目にあっている信長。
その復讐と言う気負いも強いわけである。

「失礼致します」

とその時、一人の男が信長の鎮座する岐阜城天守に入ってきた。

「おぉ、来たか九鬼」

九鬼嘉隆。
最初の京都遠征の時から織田家に入った、割かし新参の家臣である。

「はい、何か私めに用事だということで?」
「あぁそうだ。ま、そこに座れや」

九鬼が腰を下ろしたのを見計らって、信長は話を始めた

「貴様を呼んだのは他でもない、長島の愚民どもをいかにして始末するかのことについてだ」
「ぐ、愚民ですか……」
「あぁ。この織田信長に逆らう者は、誰彼構わず愚民に決まってる」

そんなジャイアニズム理論を踏まえながら、信長は先の伊勢長島侵攻の件について振り返った。
何故失敗に終わったのかなど、細かい反省も考察しながら。

「まぁたかが農民どもと侮っていたから痛い目を見たわけだな。やるなら徹底的にやらねば」
「で、その話と私めとに何の関係が……」
「前は陸路から攻めていって敗北を喫している。あの土地はなかなか攻めにくい地形をしているからな」
「はぁ」
「だがそれは陸からの話。これを海から船をこしらえて強襲すれば滅亡させる事も可能なはず!!」
「船ですか……なるほど、それで私めをお呼びに」
「ほぉ、話が分かる奴ではないか、九鬼よ」

家臣の理解力の早さに満足げな表情の信長。
この九鬼と言う男、水軍に関しては相当な能力と人脈を兼ね備えている者であり、伊勢湾一円にも彼の支持者たちが数多く存在している。
信長はその辺りを見越してこの男を徴用したのである。

「つまり私に水軍を結成させ、外から長島を攻めるってことですよね」
「まぁそういうことだ。やってくれるな?」
「もちろんでございます」

脇差にかけていた手を離す。
もし断ろうものならこの場で惨殺するまでの事だったが、その必要も無さそうだ。

「……しかし質問よろしいですか?」
「何だ?」
「海から攻めると言いますが、具体的に何か作戦などはお考えなのでしょうか?」
「あぁ、その辺は抜かり無いわ」

そう言って信長は腰を上げた。

「着いて来るがいい」




言われるがままに主君の後を追う九鬼。
二人は城下が一望できる、天守閣の回廊へと場所を移した。

「ほれ」
「おっと!!」

いきなり信長から投げられたものを、慌てて受け止める九鬼。
それは、何かでじっとり湿った野球のボールであった。

「……これは?」
「油を大量に含ませたボールだ。これに火を点けて船からビュンビュン愚民どもの巣へ投げ入れる、これぞ火の玉作戦だ!!」
「……」

それなら普通に火矢を使えばいいのにと思った九鬼だが、それを口にすれば自分が火達磨にされて投げ込まれることは必至なので沈黙する。

「この作戦の為にな、ほれ」

信長が指差した先は岐阜城外庭、通称:岐阜スタジアム。
そこでは、織田家の家臣たちがただひたすら遠投の練習を繰り返していた。

「フフフ、貴様が船を作っている間に、こちらは火の玉を投げ入れる肩を作っておくわけだ」
「は、はぁ……」

下で遠投をしている同僚達は、まさか火の玉を投げる事になろうとは到底知らないのだろう。
それを思うと九鬼は、皆に何とも言えない同情の念を抱かずにはいれないのであった。




「……ん?」
「ん、どうした?」
「あ、いえ、あちらの方は……?」

九鬼の視線の先には、同じ回廊にいる着物姿の一人の女性。
その女性は物憂げな表情を浮かべ、ただただ青い空を見つめている。

「あー貴様はまだ会った機会はなかったか」
「?」


「小春の方。俺の側室の1人だ」








〜信長の野球・6〜

番外編:恋愛結婚。








「ヒィー、肩があがんねぇー」
「痛いを通り越して、何も感じないな……」

先ほどまで、恐怖の遠投二千本を行わされていた羽柴秀吉。
別に秀吉だけと言うわけではなく、織田ウォーリアーズの全選手が行わされてたわけだが。

「しかし何で急に信長様は遠投をやれと言い出したんだろね?」
「分かんないっすね。まぁ何か考えがあっての事でしょうけど……」

秀吉の質問に答えるのは、足軽時代の同僚・中平清信と言う男。
とんとん拍子に出世して言った秀吉とは正反対に、未だペーペーの雑兵扱いである。
見た目も線が細く、侍向きではないと言ってしまえばそれまでな男であるが、秀吉とは昔から仲がよかった。

「ま、下っ端の僕ですら駆り出されてるわけですから、何かあるんじゃないですかねぇー」
「そうだな」

例の如く、火の玉を投げるためと言う至上命題は家臣たちには知らされていない。
皆、ただ練習だという名目の下で遠投をやらされていたわけだ。

「打つ方ばかりに傾いてたんじゃダメだと思ったのかも」
「かねぇ……、ん?」

肩をさすりながら歩く秀吉の前方に、とある人影が見えた。

「あれは……」

一人庭先に座り、ぼんやりと飛び交う鳥の様子を見つめている女性。

「……小春殿」

隣の清信がボソリとその名をつぶやいた。

「ほぉー、お前も知ってるのか、彼女のこと」
「もちろんですとも、最近入られた信長様の側室の小春殿ですね」
「さすが中平、美人情報に食いつく速さは昔から変わらんなァー」

信長の側室・小春は、つい先日岐阜に入城してきた信長の新しい側室だ。
親は近江周辺の有力武士らしく、いろいろ思惑があっての徴用なのであろう。

「しかし彼女、噂どおりなかなかの美人じゃないか」
「そう思うでしょ?うん、鼻筋がピッと通った端正な顔立ちをしておられる……」

確かに清信の言うとおり、小春の顔は非常に美しい。

「それでいて目元はくりんと大きくかわいらしいものの、ただかわいいだけでなくその目には見るものを圧倒する力強い信念がこもっている感じで、かわいさと美を兼ね備えたと言うか……」
「……」

先ほどから一人うわ言のように小春を褒め称えている清信。
隣でその様子を見ながら、秀吉はこの男の並々ならぬ彼女への関心の高さを感じ取っていた。
いや、興味の高さと言うよりはむしろ、恋愛感情と言うべきか……


「おー、こんな所にいやがったか、小春」

と、小春の下へ向こうから一人の男がやってくる。
別に隠れる必要は無いものの、つい反射的に清信・秀吉は物陰に身を潜めた。

「な、何でお前まで隠れるんだよっ」
「いや、何となく今は顔会わせたくないじゃないですか。また遠投しろとか言われたら堪んないし。それはそうと秀さんこそ何で隠れるんすか」
「ま、まぁ……いろいろだ」

いろいろと言うのが何を意味するのかは理解できなかったものの、今変に物音を立てて信長に見つかるのは嫌だと思い、黙っていることにする。
そんな二人の目の前では、何故か喧嘩が始まっていた。

「……一人にさせておいて下さいませんか、と言いましたが」
「何生意気言ってやがる、せっかく人がいい話持ってきてやってるのに。ささ、誰にするか決めたか?」
「だからもう自分の嫁ぐ先は自分で決めるって言ってるじゃないですか!人に指図なんかされないで!」
「うんうん、まぁお前の気持ちは分からんでもない。だから今回は5人ほど候補用意してやってるだろ」
「それが押しつけって言うんです!!政略結婚なんか嫌です!!」
「じゃかあしいわ!!貴様自分の立場を分かってんのか!?主君である俺の命令は絶対だろが!!」
「そんなの嫌!!私そんなの嫌ですからね!!」
「ちょ、ちょ待てコラ!!」

バタバタバタバタ……

走り去っていく小春に、それを不機嫌そうに見つめる信長。

「……チッ」

ひとつ舌打ちをして、信長も城の中へと戻っていった。




「……またえらい光景に出くわしたな」

たまたまとは言え、とんでもないものを見てしまったと言う心境の秀吉。
まさかあの信長様に、あそこまで反抗する人物が織田にいたとは……
内心、秀吉は彼女に尊敬の念すら抱いていた。

「それにしてもあんな言われっ放しな信長様も初めて見たなぁー。やはり美人には弱いと言うか。中平はどう思う……って、アレ?」

隣に、いるべきはずの清信の姿が無い。

「どこ行ったんだろう……って、あ!!」

バタバタバタバタ……
清信は秀吉の遥か前方、小春が去っていった同じ方向へ、わき目も振らずに突っ走っていっていた。

「……あいつ、重症だ」








「……」

庭の隅に置いてある石に腰掛ける小春。
沈む夕日に照らされ、西の空が紅く染まっていた。

「本当に、愛してもらえたのかな、私……」

決して望んだ人ではなかったが、かりそめながら夫婦の契りを交わした者。
いつぞやの戦で果てた、とある小国の大名である前夫の顔が空に浮かんだ気がした。

「……隣、よろしいですか」
「え?」

振り向くと、そこにいたのは……

「あ、僕、中平清信と言います。雑兵やってます」
「は、はぁ……」

小首をかしげる小春を尻目に、隣の石へ腰掛ける清信。

「どうかされましたか?」
「まぁ、どうかしたと言われれば何と言うか……」
「……あ、信長様に言われて私を連れ戻しにいらしたんですね。お伝えください、ホント、ほっといてくださいって」
「いやいやいや、信長様は関係ない。ただ自分が用があるだけですから」
「え?」

隣に座った、この細面の見た目軟弱な男が、どういうわけか少し紅くなりながらモジモジしている。

「……悪いとは思いましたが、先ほどの信長様とのやり取りを聞いてしまいました」
「先ほどの?」
「政略結婚はもう嫌だとか」
「あ……」

他の人に聞かれていたのか、そう思うと途端恥ずかしくなり、俯き加減になる小春。

「駆け出していった貴女が少し心配になって……」
「それで追いかけてきたというのですか」
「は、はい……」

そう言って一層紅くなる清信。
見ず知らずの男性が、どういう訳か自分を心配して追って来た。
なんとも奇妙な状況だと小春は思った。

「……心配していただいたのはありがたいですが、そんな私が思い悩んで死を選ぶとでも思いましたか?」
「あ、いや、それは……」
「……プッ」

なんて分かりやすい人だろう。
清信の見せる、見た目と違わぬちょっと情けないその反応を見て、小春は軽く吹きだしてしまった。

「仮にも私は武士の血が流れている身、その程度の事で死にやしませんよ」
「ハ、ハハハハ……、いやいやこちらの早とちりで」
「全く、人をそんなに侮らないでほしいですね」

そう、怒ったぞーとおどけた感じで言い返す。

「でも……心配してくださって、ホントにありがとうございます」
「いえいえいえ、織田の者として当たり前の心配をしたまで」
「……織田の者として、か」

その清信の言葉は、先ほどまで微笑んでいた小春の笑みを、自嘲気味な笑みに変化させた。

「……小春殿?」
「そうよね、私は“信長の側室の小春”だもんね。心配されて当然よね」
「……えっと」
「何かあったらそりゃ大変だー、誰も“私”そのものを心配してくれる人なんていないのよね」
「そ、そんなことはない!自分はただ純粋に小春殿が心配で……」
「何を根拠にそんなこと言うのよ!織田の人間であるあなたが!!」

「それは、自分が貴女のことを好いているからです!!」
「……えっ」

突然の清信の告白に、次の言葉が出てこない小春。

「……自分は、信長様の側室である事を抜きにして、一人の人間としての小春殿が好きなのです」
「……な、何をいきなり言いだすのよ」
「確かにいきなりな話ですが、好きな人が悩んでいるのを放っておけるほど、図太く鈍感な神経は持ち合わせてないもので」
「……」

夕日に照らされてるせいか、はたまた自然にそうなっているのか。
清信の顔は、これまで以上に紅く紅く染まっていた。

「主君の側室への報われない恋だとは分かっています。ですが……心配くらいはさせて下さい」
「……それ、本心から言ってるんですよね?」
「もちろん!!」

力強く答える清信。
今まで、自分をここまで見てくれていた人が他にいただろうか。
有力武家の娘としてではなく、小春という人間を好きになってくれた人がいただろうか。

「……中平、清信さんと言いましたよね」
「ハイッ!!」
「……少し長いお話ですが、付き合っていただけますか?」




小春の話を要約するとこうだ。

彼女は近江の有力武士・菱柳家の長女としてこの世に生を受けた。
この菱柳家は古くから織田家と親交が深く、友好且つ円満な関係を築き上げていた。
ただ、実のところその関係は対等と言うより、菱柳に織田の頭が上がらないと言った感じである。
何でも、その昔に命を助けられた恩義があるとか無いとか。その辺りはあまり詳しくないという。

そんな武士の家の一人娘として生まれた小春は、たいそう大事に育てられてきた。
だがそれは娘可愛さといった類のものではなく、近隣大名との融和を図るため政略結婚の駒に育成する為の溺愛であった。
そのため小春は裳着の式以降、近隣諸国の大名達の下をたらい回しされることになる。
この時期はちょうど戦乱が激しくなり始めた頃で、嫁ぎ先がすぐ滅ぼされるなんて事が日常茶飯事に起こっていた。
そうなった場合小春は菱柳の家に帰ることになり、そしてまた新しい所へと嫁がされていくのであった。

だが通算で四人目、浅井長政のところの有力家臣の元へ嫁いだ時に、最悪の事態が小春を襲う。
まず、実家の菱柳家が一向一揆によって滅ぼされてしまうと言うとんでもない事になった。
両親兄弟は皆殺られ、事実上菱柳の生き残りは小春だけになってしまう。
更に、浅井の下へ信長軍が侵攻してくる。
その戦乱の中で小春の旦那も出陣するものの、二度と帰ってくることは無かった。
加えて浅井家の滅亡。
小春は完全に路頭に迷うことになってしまった。

だが、そんな小春を救ったのは他ならぬ織田信長であった。
実は菱柳の本家は一気にやられる直前、信長宛に書簡を送っている。
そこで『もしもの事があれば、どうか小春を幸せにしてやってください、よろしくお願いします』と頼み込んでいる。
そのため信長は、小春をとりあえず側室と言う形で織田家に囲い入れたのであった。

しかし信長、自分に何の得も無い事はしない男。
小春のその美貌に目を付け、己の政略上有利に働くように彼女を同盟諸侯に嫁がせようと考えた。
嫁ぎ先が決まれば、それ即ち彼女の幸せにも繋がるだろう。
菱柳の遺言を拡大解釈すれば、理にも適う。

「そんな、好きでもない人の元に行くのが幸せな訳ない。ましてや私、過去に夫だった人たちが死に行く様を幾つも見てきてます。もうそれもうんざり……」
「……」

彼女の言っている事は今の世では確かに我侭かも知れない。

「でも……その気持ちは分かります。もし、自分なんかで良ければあなたの力になってあげたい」
「……」

ただ真っ直ぐ、小春を見つめる清信の目。
その目を……小春は信じてみようと決心したのだった。






その後の清信と小春の急接近振りと言ったら、周りの誰もが認めざるを得んようなもの。

「クゥ……、さすがに朝からぶっ続けの遠投はキツイな……」
「ハイ、清信さん、冷たいお茶です」
「あ、ありがとうございますっ!!」
「ホント汗ビッショリで……、お疲れ様です」

そう言って、額の汗を持ってきた手拭で拭いてあげる小春。


「……アレ、完全に出来てるよね」
「ああ。間違いないな、つか見せ付けてんじゃねぇのか、俺らに」

その様子を眺めながら、同じく練習上がりで地べたにへたり込んでいる秀吉と前田利家がぼやく。

「チクショー、俺も小春さんにふきふきされてぇー」
「……アンタ嫁さんおるがな」

前田が悔しがるのも無理はない。
清信に尽くす小春の姿は、どういうわけか以前にも増して美しく、そしてかわいらしくなっている。

「何と言うか、吹っ切れたって感じだよな」
「小春さん?」
「あぁ。今までは何か陰鬱な感じが見て取れたんだけど、それが今はもうあの明るさ。中平の奴、どういう手を使ったんだろうな、ホント」
「まぁどういう手を使おうと……報われない恋だとは思うけど」

片や信長の側室、片やペーペーの足軽。
足軽上がりの自分としては応援してやりたいものの、身分の差が大きすぎるな、そう秀吉は感じていた。

「自分に出来ることは、二人の関係を見守るだけ、か……」

見守り、そして主君にこの事がバレない様に祈るだけ。
だがそんな願い空しく、信長が二人の関係に気付かないわけがなかった。


その日、二人は信長のいる天守閣へと呼び出された。

「お……お呼びでしょうか、信長様」
「……」

無言。
二人を目の前にしてもなお、信長は沈黙を貫き通している。
その沈黙が、ものすごい圧力となって清信を襲う。

「……」
「信長様、何か言ってくれないと私達何も分かりません!」

たまらず小春が沈黙を破る。
前に話したとおり、小春は確かに信長に対してもそれなりの発言力があるようだ。

「……私達、か。随分親しくなったものだな、貴様ら」
「ヒッ……!!」

清信はまさに、蛇に睨まれた蛙の心境を味わっていた。

「中林……とか言ったか?」
「い、いえ……、中平清信と申します……」
「……」

再び無言の圧力。
清信はもう、生きた心地が全くしていなかった。

「中平か。まぁ、貴様には感謝している部分も大きいからな」
「は、はい?」
「どうせ貴様も聞いてるんだろ、小春と織田の家の間柄を」
「あ……ハ、ハイ……」
「まぁ何を言っても小春は大事な妹みたいな存在だ。それをあの塞ぎ込んでいた状態からここまで回復させたのは貴様のおかげ。その点は礼を言うぞ」
「あ、ありがとうございますっ!」

穏やかな口調でそう言われ、ホッと胸をなでおろす清信。

「あんな陰鬱な状態じゃ、同盟組んでる皆も嫁に取ってはくれぬだろうからなぁー」
「!?」

ガバッと立ち上がる小春。

「勝手に決めた人の所なんか行かない、自分で決めるって言ったじゃないですか!!」
「だーかーらーこうして5人ほど候補を用意してやってるじゃないか。ささ、今この場で選べ」
「……」

睨むように信長を見つめる小春。いや、実際に睨んでいる。
そしてこの後彼女が何を言うか。
清信も、グッと覚悟を決めた。

「……分かった。じゃあ今この場で宣言しますね」
「おうおう」

ひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせる小春。
そして隣に座る清信に目配せし……、高々と宣言した。

「……私、中平清信さんの妻になります!!」

清信も自ら立ち上がり、震えながらも小春の手を取る。
信長は……特に驚いた様子も見せない。

「……そういうことだろうと思っていたが」

淡々と語る信長の声には、妙な威圧感があった。

「……小春、それは本気で言っているのか?」
「当たり前です!!冗談でこんなこと言えません!!」
「……そんな我侭、許されると思ってんのかぁ!!!」
「ヒィ!!」

信長の絶叫に思わずすくみ上がる清信。
だが、小春は以前毅然とした態度で信長の目を見つめていた。

「……フン、もうこっちが何を言っても聞かぬという態度だな」
「……」
「その度胸だけは認めてやる。だが……それを実力として示すことが出来るか?」
「……実力?」

信長は懐から、野球のボールを取り出した。

「俺は実力主義者でな、そんな身勝手な我侭でも、それ相応の実力がある者なら認めてやってもいいと思っている」
「実力の……ある者……」
「小春よ、俺と3球勝負しろ」
「えっ?」
「俺が投げる球をお前が打つ。3球のうち、1球でもヒット性の当たりが出れば……貴様らの結婚を認めてやろう」
「本当!?」

笑顔を見せる小春。だが、

「ハン、野球経験の無いお前が何今から勝った気でいやがる」
「そ、それは……」
「まぁ俺もそこまで鬼ではない。3日間待ってやる。その間に、コイツと練習するなり別れる決心をするなりすればいい」
「たった3日……」
「では、3日後を楽しみにしているぞ」

そう言って立ち去ろうとする信長を、清信が恐る恐る呼び止めた。

「の、信長様……」
「何だ?」
「いや、その……信長様が投げられる訳ですが、信長様は本来野手では……」
「ほぉ?貴様、なかなか舐め腐ったこと言ってくれるじゃないの」
「けけけ、決してそういう意味で言ったのでは……」
「まぁ、確かに俺は投手ではない。だが、そこいらのポンコツ投手どもよりはよほどいい球を投げる自信はあるぞ」
「自信……ですか」
「納得いかないのなら、その目で確かめてみるがいい。着いて来やがれ」




信長の後を追って、庭に下りてきた清信と小春。

「エテ公!!出てこいやエテ公!!」
「ハ、ハイッ!!」

突然呼び出され、全速力で駆けつけてくる秀吉。

「お、お呼びでございましょうか?……あ、中平」

信長のすぐ後ろに二人の姿を確認し、秀吉は軽く絶望を覚えた。
あぁ、バレてしまったんだなぁと。

「あぁ。ちょっと用事があってな」
「用事……ですか」

恐らく、『今からこの二人を始末するので、貴様はこっちの男の方の首を刎ねろ』とでも言われるのだろう。
そう覚悟していた秀吉が聞いたのは、思いもよらない言葉だった。

「今から俺と3球勝負しろ。俺が投げるから貴様が打て」
「へ?」
「へ?じゃねぇ、さっさと打席に向かいやがれ!!」
「ヒ、ヒィィ!!」

言われるがままに、秀吉は慌ててバットを取りに走る。
また、信長はその辺にいた家臣にキャッチャーをやるように怒鳴りつけていた。

「……清信さん、私、野球とかほとんど分からないんですが……」
「大丈夫。何とかなるさ……」

投げる人間も素人同然、3日あればどうにかなる。
清信もそう信じていた。
……実際に信長の投球を見るまでは。

ズバーン!!!

「ストライーク、バッターアウト!!」

空しく3度空を切る秀吉のバット。
本人の言うとおり、信長の投球はそこいらの投手よりよほど、いや遥かに凌駕していた。

「どうだ?これが俺の実力よ」
「……」
「ま、俺の場合打つ方が得意だから野手をやってるだけで、決して投手が出来ないからって訳じゃないからな」

開いた口がふさがらない清信。
そんな仲間の心境など露知らず、秀吉が信長のもとへ歩み寄ってきた。

「いやぁー、すごいじゃないですか信長様!全くかすりもしませんでした」
「フハハハハ、そうだろ、そうだろ」
「いざと言う時は信長様がマウンドに上がっても大丈夫ですね」
「ハハハハ、うん、まぁそういう訳だからグラウンド50周な」
「え?」

突然の宣告に固まる秀吉。

「な、何故……?」
「何故ってそんな3球勝負で俺に負けたからじゃないか。本職投手で無い者から一球も打てぬとは、情けないにもほどがあるぞ」
「ス、スイマセン……」
「そうと分かったらさっさと走りに行けやボケナスがぁ!!!」
「ヒィィィィィ!!!」


何もかにもが分からないまま、ランニングに向かわされていく秀吉であった。

「……ま、そっちに投げろと言わないだけありがたく思え。お前如きにこの打撃の鬼が抑えられる訳無いからな」
「……」
「では、3日後を楽しみにしているからな。ハハハハハハ!!」

高笑いと共に、信長は城の中へと戻っていった。

「……どうしよう」
「……大丈夫、大丈夫なはずさ」

そう励ます清信だが、言葉とは裏腹に内心は半分諦めかけているのも事実。

「……それでも、やるしかないな」

自分に言い聞かせるように、そうポツリとつぶやく清信であった。








翌日から、2人の懸命な特訓が始まった。
初日はまず、バットの握り方から始めて素振りをただひたすら繰り返し、打撃フォームを固めていく。

「えいっ、えいっ」
「違う違う、もっとこう腰を入れて」
「うん、……えいっ、えいっ!!」
「……うーん」

しかし所詮は野球経験の無いど素人、飲み込みが非常に悪い。
加えて、教える方も決して野球に長けているわけでもなく。
つきっきりで指導しながら、清信はだんだん絶望感に包まれつつあった。

「……何やってんだ、お前ら?」

と、そこに現れたのは……

「ひ、秀さん!!お願いします、力を貸してください!!」
「は?」




二人から詳しい事情を聞かされる秀吉。

「ふむふむ。だから信長様もそう強く出てこなかったわけか」
「お願いしますっ、野球を教えるのを手伝っていただけませんか?」
「いや、そんな俺も大した腕って訳でもないけど……」

ただ、この二人を応援してやりたいという気持ちは誰よりも強い。
こんな自分でも力になれるなら……

「分かった、一肌脱いでやろうじゃないの」
「「あ、ありがとうございますっ!!!」」

信長の言葉に頭を下げる二人。
少々照れくさくなって、秀吉は頭を掻いた。

「でも、こんなこと言うのは失礼かもしれませんが……」
「ん?」

小春がおずおずと口を開く。

「秀吉さんが素晴らしい打者だってことは重々承知していますが……でも信長様はそれより遥かに上を行っているのでは……」
「あ……」

先ほどの秀吉三振の場面を思い出す清信。
再び目の前が絶望に覆われそうになるが、返って来た言葉は意外なものだった。

「あー、それは大丈夫。まぁこう言ったらアレだけど……あの球、打てない球じゃないって」
「え?」
「いや、中平なんかは野球経験浅いから凄く感じたんだろうけど、実際はそんなずば抜けて凄いってモノじゃないから」
「そ……そうなんですか?」
「本人がいないから言うけど、その通り。さっきの三振もわざとだし」
「わ、わざと!?」
「いや、いきなり3球勝負しろって言われて、果たしてこれ普通に打っていいのかどうか迷ってね。で信長様の肩を持つ形で三振したわけだけど……それが裏目に出たね」
「裏目ですか?」
「やっぱりバレてるんだよね、本気じゃないって。なのであの後グラウンド50周なんてやらされたわけだし。あぁー普通に打ちゃよかった」
「ハ、ハハハ……」

苦笑いする清信だったが、その眼前にかかっていた絶望と言うもやはだいぶ薄れてきている気がした。

こうして、秀吉も交えた三人での練習が再開された。
流石に経験者だけあって、秀吉の教え方は清信のそれとは雲泥の差。
小春の飲み込みも、先ほどに比べよほどよくなっていく。


2日目は、実際に球を打つ練習を始める。
と言っても、トスバッティングの形でまずは打球の感覚をその身で覚えていくような特訓。


「えいっ!!……って、あれ?」
「もっと球をよく見る!形はちゃんと出来てるんだから」
「う、うん。次お願いしますっ!」
「よしきたっ!!」

「……何してんすかね、あいつら」
「見ての通り、野球の練習じゃないのか?」
「いや、そうじゃなくて中平に小春さんは分かるんですけどね、何故に秀吉が……?」

三人の練習の様子を、遠くから不思議そうに眺める柴田勝家と前田。
事情を全く知らない者にとっては、いささか奇妙な光景に写っているのであった。

「まぁ、何だか分からんが楽しそうにやってるな」
「クゥー、俺も小春さんにつきっきりで野球を指導してぇー!!」
「いや、お前嫁さんおるがな」


迎えた3日目。
信長との勝負は夕刻5時に指定されている。
それまでの限られた時間も、三人は懸命に練習を続ける。

「え、じゃあ今から小春さんが打席に入るから勝負しろってこと?」
「あぁ。よろしく頼みます簗田さん」
「それは構わないけど……何で?」
「まぁまぁその辺はまた今度話すから」

清信に秀吉、二人に推されてマウンドに登るのは、桶狭間以来の登場であろう簗田政綱。
久々の出番に、少々力み気味である。

「えーと、本気でやっちゃっていいんですか?」
「もちろん!さぁ来い!!」

そう言って右の打席で構える小春のフォームは、決して素人には見えないキチンとしたものになっていた。

「少しは出来るって言うフォームだな。ま、手加減は要らないってことだから……」

大きく振りかぶって第一球を……

「ゲッ!?」

力み過ぎた簗田の球は、内角ギリギリ、下手すりゃお市にデッドボールと言う軌道を描いて飛んでいく。
しかも小春は球が近づいてきても避けようとせずに構えを崩さない。

「あ、当たるなぁー!!」

流石に女にデッドボールと言うのは後味が悪すぎるので、避けてくれと祈る簗田であったが……

カキィーン!!

「……え?」

球は簗田の頭の上を越え、センター前辺りにポトリと落ちる。
見事なセンター返しのヒットである。

「やった!!」
「小春さん、スゲェー!!」 「や、やった、私、やったのよね!?」

打席に駆け寄ってきた二人と喜びを分かち合う小春。

「よーし、今の感覚を忘れないうちに練習だ!!」
「ハイッ!!」

そしてバタバタと何処かしらへ走って行ってしまった。
マウンドには、よく分からないまま一人残された簗田。

「……え、俺の出番ってこれだけ?」








そして、勝負の時がやってきた。

「……ほぉ、諦めると言う選択肢は選ばなかったか」
「当たり前です!!勝って、清信さんとの結婚を認めてもらうんですから!!」
「ハハハ、威勢の良さはさすがだな。では、早速……と言いたいところだが」

信長の視線の先には。

「……何故にエテ公がここに居る」
「い、いえ……、ちょっと通りがかっただけでございますが……」
「フン、下手な嘘などつかんで良い。手助けしてたのだろ、この二人を」
「ハ……ハイ……」
「貴様……主君と仲間どちらの味方だ!!」
「ヒィィィィ!!!」
「……と怒鳴り散らしたいところだが、まぁ他人の関与を禁止していた訳でもないし、仲間を思うその気持ちは良い事だと思う。別に構わんさ」
「あ……ありがとうございます……」

怒鳴り散らしたいところだがって、既に怒鳴り散らした後に言われてもなぁ……
そう心の中で呟く秀吉であった。


そしてマウンドに向かう信長。

「あ、中平。キャッチャーやれ」
「ええっ!?」
「都合が付かなかったんだよキャッチャーの。別にただ球を受けるだけでいいから」
「ま、まぁ構いませんが……」
「プロテクターはそこな」

言われるがままに清信もプロテクターを着け、3人とも準備完了。

「エテ公、貴様は俺の後ろで球拾いな」
「は、はい」
「まぁ、そっちに球が飛んでいく事はまず無いだろうけどな」

完全に舐めきった顔で笑う信長。
秀吉が球拾いに散ったのを確認し、ゆっくりと足場を整える。

「では……くらえぇ!!」

絶叫と共に、手加減一切無しの信長の投球が飛んでくる。

「えいっ!!!」

ブンッ!!
思い切って振った小春のバットは、しかし空を切った。

「ハハハ、振り遅れてるぞー!!」
「うぅ……」

球を受けた清信は、ミット越しでも来る手の痺れに信長の本気具合を感じ取っていた。

「確かにタイミングが合ってないな。心持ち早めでもいいと思う」
「う、うん……」
「何してんだ、さっさとボール返しやがれ!!」
「あ、ハイ!!」

お市に一言アドバイスを贈り、清信は球を投げ返した。


「では……次行くぞ!!」

マウンド上の信長は大きく振りかぶって……
ビュッ!!

「ッ!!」

カコーン!!
今度はバットに球が当たる。
が、打球は前に飛ぶことなく、後方にフラフラと上がっていくだけ。

「力負けしてるなぁー、ハハハハハ」
「……」

動揺の色が隠せない小春。
練習ではうまくいってたのに、そういう顔つきに見て取れる。
球を拾い、今度はマウンドまで自ら持っていく清信。

「……信長様、間をおいてもらってよろしいですか?」
「フン、あと一球という所で気持ちを落ち着けると言うか。まぁいいだろう」
「どうも」

そして打席へ小走りで戻る。

「……大丈夫か?」
「う、うん、でも……私、無理かも」
「何言ってんだ!!たった3日とはいえ、みっちり練習したじゃないか!!」
「でも……」
「落ち着け、落ち着くんだ。勝って……一緒になろう」

今まで小春の方から結婚したいとは何度も言ってきた。
だが思えばこれが清信から小春に求婚した、最初の瞬間だったかもしれない。

「な?」
「……うんっ!!」

答えた小春は先ほどまでとはまるで異なり、笑顔でしっかり前を見据えていた。
その様子をマウンドから見ていた信長。
その口元にも、心なしかうっすらと笑みが浮かんでいるように見えた。

「じゃ、最後の一球行くぞ、お市!!」
「よしこいっ!!」




カキーン!!

打球は、詰まりながらも外野に張っていた秀吉の前にポトリと落ちた。

「や、やったぁー!!!」

バットを投げ捨て、人目もはばからずマスクを被った清信に抱きつく小春。

「ちょ、ちょっと、イタイイタイ」
「やった、やったよ、私やったよ!!!」

その笑顔は、まさに少女そのもので。

「……小春よ」

マウンドから、ゆっくりと近づいてくる信長。
気付いたのか小春も、清信から少しだけ離れる。

「どうですか、信長様。私、勝ったんですよね!!」
「……あぁ。悔しいがお前の勝ちだ」
「じゃあ、清信さんとの結婚を……」
「……」

信長は清信の方を向き、

「……何かと気の強い娘だろうが、コイツのこと、よろしく頼むぞ」
「ハ、ハイッ!!!」

「清信さん!!」
「ってうわっ!?」

再び抱きついてくる小春に、困り顔ながらしっかり抱きとめている清信。
そんな二人を眺めながら、マウンドで一瞬見せたような穏やかな笑みを浮かべる信長であった。




「……実は、こうなる事を望んでいたんじゃないですか?」

外野から戻ってきた秀吉が、信長の耳元でささやく。

「何ィ?」
「え、いや……信長様の顔を見てましたらそんな事を思いまして……」
「フン、エテ公のくせに生意気ほざけッ」

そう言って信長は秀吉のグラブから球を奪い取り、遥か遠くへと放り投げた。

「ほら、貴様の球拾いの役目はまだ終わってない、さっさと拾ってきやがれ!!」
「わっかりましたぁー」

いつもならヒィヒィ叫んでから向かうはずの秀吉だが、今回は軽くそう言ってから球の飛んでいった方へ走り去っていった。
その後姿を見ながら舌打ちをひとつ。

「チッ、何もかも分かってやがるなアイツ」

誰に向けてても無く空に呟く信長であった。










あとがき


どもども、舞軌内でございます〜
今回は番外編とでも申しましょうか、ちょっとした色恋沙汰の話。
完全にオリジナルな展開ですので一応言っときましょう、『この物語はフィクションです』と。
中平清信も小春も菱柳家も、全て架空のモノです。
仮に同姓同名な人物がいたとしても、一切関係ございませんので。

ここで裏話をひとつ。
実はこの話、最初は柴田勝家と信長の妹・お市の方を主役に据えようとしてたんですよ。
設定は政略結婚に嫌気のさした信長の妹お市が、柴田と今回同様結ばれると言うもの。
で、この内容で最後まで書いたんですが、その段になって気がつきました。
実際に柴田とお市が結婚したのって、本能寺の変の後。つまり信長の死後なんですよね。
いやいやそこまで時系列無視するわけにはいかんでしょうと思い、急遽オリキャラで再構成したのがこの話です。
まぁ、その案ではお市に
「お兄ちゃんのバカ!!」
とか言わせてましたし、改修して正解だったんでしょうな。

さて次回からはまた天下統一への道に戻りまして、長篠の合戦を予定しています。
ま、相変わらずの勢い任せな執筆でございますが。
ではではまた次回お会いしましょう〜