春も近づいてきた三月のとある日。 夜も八時を過ぎ、そろそろ名雪がこっくりこっくりし始めて部屋に引っ込むであろう時間。 水瀬家の住人が一人、相沢祐一はある決意を秘めて家主、水瀬秋子の前に立った。 「秋子さん、お話があります」 「…………なんでしょうか?」 真剣な祐一の瞳に秋子さんもつい真面目に返してしまう。 いつものあらあらポーズを崩していないのは流石だが。 ねぎらい お小遣いの値上げかしら? いえ、今更って感じですし祐一さんがそんなことを言うとは思えませんね。 私としては是非ともないのですが。 『お母さんって呼ばせてください!』とか? …………もっとありえませんね、祐一さんには恋人さんがいらっしゃいますし。 名雪、頑張りが足らなかったわね。 一夫多妻制度になればまだいけるかしら? もしかしてまた女の子を拾ってきたからその子を住まわせてください、とか? これはありえそうですね、祐一さんは優しいですから。 でも、そんな気配は見えませんね………… はっ、も、もしかしてこの家を出て一人暮らしをさせて欲しいとか!? あ、ありえます。毎朝名雪を起こすことに嫌気がさしたのでしょうか? も、もしや私の作るご飯に落ち度が!? ジャムですか、あのジャムがいけなかったんですか? 祐一を見つめる笑顔の裏ではこんな思考が高速で行なわれていたりする秋子ブレイン。 ちなみにこの間僅か三秒である。 「え、えと…………非常に言いづらいことなんですが」 そんな祐一の台詞にますます不安になる秋子さん。 表情は笑顔のままだが心なしか血の気が引いていたりする。 不穏な空気を読み取ったのかうつらうつらしていた名雪も何気に耳を傾けている。 「ごめんなさい、祐一さん!」 すると、突然秋子さんが頭を下げた。 「え?あ、秋子さん、突然何を?」 「そんなにあのジャムがお嫌だっただなんて思わなかったんです。 でも、あれは身体に良いんですよ?着色料なんて一切使ってませんし何より―――――が入ってますし」 「へ、いや、何の話ですか…………って今なんか凄い聞き捨てならない単語が聞こえた気が」 「ち、違うんですか?じゃあやっぱり名雪が原因なんですか?」 「え、わ、わたし?」 唐突に名指しされてびっくりの名雪。 彼女としては祐一と同じく「―――――」の部分が気になるのだが。 「名雪、明日からは一人で起きるのよ」 「お、お母さん?急に何を…………」 「いいから了承しなさい。ここは祐一さんがここに残ってくれるかどうかの瀬戸際なのよ」 「えっ、そ、そうなの?」 わ、びっくりとは言わないものの驚愕を顔に貼り付けて祐一を見る名雪。 こちらも何を勘違いしたか微妙に涙目である。 「ご、ごめんね祐一…………そんなに祐一が苦労してただなんて知らなかったよ」 「は?ま、まあ確かに苦労はしてるし改善できるならして欲しいけど」 「わ、わたし明日からちゃんと一人で起きれるように努力するから!だから…………だから祐一、出ていっちゃ嫌だよ〜!」 「え、俺出て行くの?なんで?」 大混乱である。 この場に今日は天野家に泊まっている真琴がいたらよりいっそうの混乱が起こったであろう勢いだ。 「う、うぐぅ!?一体何が起きたの…………?」 結局、その場の混乱はお風呂から上がったあゆが参入してくるまで収まらなかった。 その代わり、数秒後にはあゆも加わり混乱に拍車はかかったが。 「だから…………今のところ俺がここを出て行くなんてありえませんから」 「ち、ちょっと早とちりしちゃいましたね…………ごめんなさい、祐一さん」 心底疲れた、といった表情で幾度目かの説明を終える祐一。 慌てた秋子さんという珍しいものは見れたが割に合わないことこの上なかったりする。 「わ、わたしは祐一を信じてたよ」 「ボ、ボクもだよっ」 妙に慌てた様子でフォローを入れる名雪とあゆの水瀬姉妹。 だが、顔が引きつっている上に頬を伝う汗は誤魔化しようもない。 「ほう…………俺にはお前らがマジに見えたが気のせいだったかなぁ? なんか物凄い勢いで馬鹿だの朴念仁だのジャムの刑だのと聞こえた気がしたんだが…………?」 「あ、そ、それはその…………あっ!もうこんな時間。わ、わたしもう寝ないと」 「ボ、ボクも宿題の続きがあるからっ」 そう言うと素早い動きで居間を出て行く二人。 残されたのは憮然としつつもしょうがないな、とあきらめたかのような表情の祐一とあらあらポーズを崩さない秋子さんだった。 もっとも、秋子さんの額にも一筋の汗が流れていたのを祐一は確認していたが。 「こ、こほん…………少しばかり脱線してしまいましたが、結局祐一さんのお話とは一体何なのですか?」 「あ、そうでした…………え、えっとですね…………」 再び真面目モードに戻る二人。 ごくり、と秋子さんの喉がなる音が響く。 そして、祐一の口が開かれた………… 「―――――俺を、好きにして下さいっ!!」 「了し―――――って、え?」 間 「あ、あの祐一さん?…………今、なんておっしゃいましたか?」 「俺を好きにして下さい、といいました」 「いや、ですから、その」 「?…………ああ、言葉が足りませんでしたか」 「え、ええ…………」 いきなりの爆弾発言に流石の最強主婦・水瀬秋子もひるんでしまったがそこは歴戦の覇者足る女性である。 素早く思考を切り替え祐一の言葉を待つ。 「俺の身体を好きに使ってください」 ―――――ぽとっ 何かが床に落ちた。 連続して思考をフリーズさせたものの、なんとかその音の方向を向く秋子さん。 そこには 「お、お母さん…………」 「な、名雪っ!?」 ―――――真っ青な表情で立ち尽くす愛娘の姿があった。 床には歯ブラシが落ちていた、おそらく歯磨きをしに降りてきていたのだろう。 イチゴの歯磨き粉を使っていたためか名雪の口元は赤く、表情の色との対比がいい感じだったと後に祐一は語る。 「は、はは…………これは夢、そう、夢なんだよ。あれ、おかしいな、こんなリアルな夢は初めてだよ…………」 ぶつぶつと何事かを呟きながらまるで夢遊病患者の如くふらふらと自室へと戻っていく名雪。 ショックは多大な模様だが夢と勘違いしてるので一晩寝れば悪い夢だったと忘れるであろう。 一件落着である。 「いえ、そうではなく」 「は?どうかしましたか、秋子さん」 「どういうことですか、祐一さん」 じっ、と祐一の目を覗き込み祐一の真意をうかがう秋子さん。 どうやら名雪のことはスルーで通す模様。 「どう、とは?」 「先程の言葉の意味です。そ、その…………好きにして下さい、だの、身体を、だの」 ちょっぴり頬を染めつつ途切れ途切れに言及する秋子さん。 流石の彼女でも恥ずかしいらしい。 何が流石なのかは謎である、よってツッコミは入れてはならないのである。 「いや、香里風に言えば言葉通りですが」 「ダイレクトすぎてわかりません」 「そうなんですか?」 「そうです、ちゃんと初めから筋道立てて説明をお願いします」 「はあ、わかりました」 祐一の話はこうだ。 いつも女手一つで頑張っている自分。 にもかかわらず居候である祐一は何もしていない。 しかしそう思ってみたところで祐一には何も出来ないし何より手伝いを申し出たところで自分は遠慮するに決まっている。 そこで頼りになる後輩兼恋人である天野美汐嬢にどうすればいいか聞いてみた。 滅多に人を頼ることのない祐一が頼ってきただけに美汐は大いに喜び案を考えた。 それはもう必死に考えた。 その様子を見ていた祐一は珍しい美汐の姿に顔をほころばせていたが。 そしてでた結論は『思いの丈をぶつけて、直球で行く』、これだった。 真心をこめてぶつかれば道は開ける。 つまりはそういうことらしい。 「…………なるほど」 「わかっていただけましたか秋子さん」 「ええ、祐一さんが美汐さんにベタ惚れってことがよくわかりました」 「それは当たり前です」 慌てふためくと思っていたが意外にも冷静かつ即答で言い切った祐一。 秋子さん、ちょっぴり呆然である。 「……………………」 「……………………」 「……………………了承」 「何がですかっ!?」 「まあ、祐一さんのおのろけは置いておいてですね。言わんとしたいことはわかりました」 「…………はい」 「ですが別に気にすることはないんですよ?私はこの水瀬家の家主です。そして同時にここにいる皆の母親でもあるのです。 名雪も、あゆちゃんも、真琴も、もちろん祐一さんもです」 「それはわかっています。俺も秋子さんのことはもう一人の母親と思っていますから」 「ありがとうございます。でしたらなおさら祐一さんが気にする必要はありません。 私は母親として当然のことをこなしているまでです。当然のことを気にすることはないんですよ?」 にっこり、と微笑んで言葉を締める秋子さん。 祐一の気持ちは嬉しいが今の言葉は本心なのであるから祐一の申し出を断ることに問題はない。 むしろ祐一のその言葉だけで十分である。 「…………わかりました」 「ええ、私はその言葉だけで十分ですよ祐一さん」 これにて話は終了。 少しばかり驚かされたり喜ばされたりと色々ありましたけどね、などと思いつつ明日の下ごしらえに立とうとする秋子さん。 しかし彼女はわかっていなかった。 相手は相沢祐一、自分と同じ血を引く甥である。 むしろ頑固さは自分以上だということを。 「では、息子として言わせて貰いましょう」 「―――――え?」 「今言ったじゃないですか。俺は秋子さんの息子です。ならば息子が母親に対して孝行しようとするのも当然のことです」 「そ、それは」 「ですから遠慮なく言ってください…………『母さん』」 きゅぴーん! にっこりと言う祐一の言葉が秋子さんの琴線にヒットした。 元々秋子さんは息子が欲しかった。 別に名雪(娘)が不足というわけではなかったがそれはそれである。 そこに降ってわいたように舞い降りた祐一の居候話。 秋子さんの喜びようは捕らえ方によっては名雪以上だったといえる。 そんな祐一に『母さん』と呼ばれたのだ。 その感動は物凄いものであっただろう。 「ゆ、祐一さん…………で、でもですね」 「お願いします。『母さん』に普段のお礼がしたいんです」 「…………あ、うぅ…………」 秋子さん、陥落。 「ここですか?」 「は、はい…………」 「どうですか?」 「気持ちいいです…………」 結局折れてしまった秋子さんが祐一に頼んだことは王道『マッサージ』だった。 微妙なところを触らせて祐一のあたふたするところを見て楽しもうと考えた秋子さん。 ついでにそうすれば気恥ずかしさですぐに引いてくれるに違いないと思って実行に移したものの全く効果はなかった。 限りなくお尻に近いところとかうなじのあたりとかをマッサージさせてみるも祐一は無反応。 「祐一さん、ひょっとして慣れてるんですか?」 「ええ、母さんがよくねだってくるもんですから。おかげで結構自信ありますよ」 「そ、そうなんですか…………あっ、そこ、気持ちいいです」 祐一の手は休むことなく動く。 目は真剣そのものである。 秋子さんとしては読みが外れた上にむしろ自分のほうが気恥ずかしくなってきたりして大誤算であった。 とはいえ嬉しいことにも変わりはないので複雑ではあるが。 「はぁー…………もういいですよ祐一さん。本当にありがとうございました」 「いえいえ、当然のことしてるだけですから気にしないで下さい」 「あらあら、一本取られましたね」 微笑みあう二人。 その姿は紛れもなく親子であった。 次の日の昼休み。 「祐一さん。昨日はどうでしたか?」 「ああ、秋子さん喜んでくれたよ」 「何をしたのですか?」 「全身マッサージ。足の先から首の辺りまで隅々をマッサージしたよ」 「…………え?」 「けど、秋子さんも意地が悪いんだぜ?お尻のあたりとか微妙なところを触らせようとするし…………」 「……………………(ぴく)」 「ま、集中してたからなんとか誤魔化せたけどな。 いやー、おかげで手がパンパンにはっちまったよ。まあ、秋子さんが喜んでくれたからいいけどな」 「……………………(ぷるぷる)」 「これも美汐のおか…………ってどうした、美汐」 「祐一さんの淫逸!」 「何故!?」 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― あとがき オチが強引過ぎたか…………(汗 氷翼さんのこんぺ優勝時リクの「親子っぽい祐一と秋子さん」でした。 大概の秋子さんは祐一さんを圧倒しますのでこの話では押される秋子さんを描いてみました。 ちなみにこれは『うらやましいこと』の後におきた話であり、繋がっています(ぇ