夏の一日







〜〜水瀬家 P.M.1:00〜〜



 じりじりと地表を照り付ける太陽、抜けるように青い空。八月に入って夏真っ盛りといったこの街は、冬は寒いくせに滅茶苦茶暑かった。
 気温にして、40度弱。しかも高三の夏という事で部屋に篭って勉強してるもんだから、余計に暑い。むしろ熱い。サウナ状態と称するのがぴったり大正解だ。
「っつーか、なんでこのクソ暑いのにエアコンぶっ壊れるよ? ありえねぇ……」
 そう、今まさに俺が拷問のような責め苦にあっているのも、全部エアコンがぶっ壊れたせいだ。正確には、なんか室外機か配管かに問題があるらしいけど、んな事はどうでもいい。暑い。それが問題だ。
 とりあえずこの急場は扇風機を使って凌いではいるが、どうにもさっきから熱風ばかり吹きつけてくる状態で意味があるんだかないんだか。
 まぁ、それでも無いよりマシっつー事で我慢して机に張り付いていたが、もういい加減限界だ。
 今日はもう店じまい。これ以上は勉強なんてしてられません。とりあえず、扇風機を止めて下に降りよう。
 ちなみに、名雪の奴はとっくの昔に香里と遊びに行って家にはいない。スポーツ推薦でさっさと大学を決めた奴に、超成績優良者か……。羨ましいなんて言っちゃいけないが、やっぱこう暑いと羨ましくもなってくる。
 リビングに入ると、ちょうど秋子さんが何か緑色の物体を手に針仕事をしているところだった。
「あら? 休憩ですか?」
「ええ。こうも暑いと身が入りませんからね。明日には業者さんが来られるみたいですし、今日はここまでにして少し休みますよ」
「それもいいかもしれませんね」
 よく見ると、その緑色の謎物体は名雪のけろぴーだった。所々破けかけたりしてよれよれになっていたそいつは、秋子さんの修繕を経てけろぴー(改)として生まれ変わろうとしている。
 中の綿も干してあるし、秋子さんの心遣いが垣間見える光景だ。
「ちょっと気になってたんですけど、けろぴーって一体何時から名雪のお気に入りなんですか?」
「確か、名雪が小学校に上がった時に買ってあげたものですから……」
「十年以上前って事になりますか」
「ええ、そうですね」
 流石だ。なんかもう、名雪も秋子さんも流石としか言いようが無い。
 そんな秋子さんの近くに陣取って気だるく甲子園でも見ようかとリモコンを手に取った丁度その時、ポケットの中のケータイから着メロが聞こえて来た。秋子さんの邪魔にならないようにリビングから出つつ、着信を確認――
「北川、この暑いのに遊びに行こうなんてのは却下だからな」
『なぁ、お前って、時々身も蓋も無いな』
 しかたねぇだろー……。
「暑すぎるこの天気が悪い。しかも部屋のエアコンぶっ壊れるしさ」
『うわ……、そりゃ災難だな』
「全くだ。で、マジに遊びのお誘いだったりするのか? かなり色々とやる気無いんだけどさ」
『ふっふっふ、喜べこの野郎。暑さで脳がやられた貴様を哀れんでこの俺様がプールへタダで招待してやる』
「却下。何を好き好んで芋洗いの現場に出て行かにゃならんのだ? お前も相当キテるんじゃないか?」
『今なら美少女付きだぞ? それも二人』
 ……待て、なんだそれは? なんか色々と不自然だぞ、それ。
「正直に言ったらどうだ? どうせ藍ちゃんにでも誘われたんだろ?」
『あー、まぁ、その通りなんだけどな。タダ券はあるし、付いてこないかってさ』
「体のいい虫除けだな」
『仕方ねぇよ。兄貴としちゃあ、荷物持ちでも虫除けでも何でもさせられるさ。芋洗いだし却下ってのは俺も思ったんだが、お袋についてってやってくれって言われちゃな』
「ま、仕方ないな」
『お、付き合ってくれるか?』
「まぁな、お前一人じゃ暇だろうし。大体、居心地悪いだろ?」
「そうなんだよなー。女の子二人に俺一人ってのはどうもアレな気がしてな」
 それに、相手の子もいきなり友達の兄貴がしゃしゃり出てきたら困惑するだろ。……俺が行ってもあんまり変わらん気もするが。
「んじゃ、一時半に駅前で頼むわ」
「ちょっと待て。今何時だと思ってる? つーか、そもそも今日なのか?!」
「ほんと、スマン。俺も急に言われたもんだからさ」
「ま、暇だからいいけどよ。駅前一時半だな? すぐに準備して出る」
「ああ、頼む。それじゃ、駅前でな」
 それで、電話は切れた。まぁ、藍ちゃんって結構気紛れなところもあるしな。あの北川の妹だけあって、明るくていい子だけど。
 それじゃあ、とりあえず秋子さんに言付けてから出かけるか。
「秋子さん、これからちょっと北川と遊びに行ってきますんで」
「行ってらっしゃい。事故には気を付けて下さいね」
「はい、行ってきます」
 あぁそうそう、水着とかも持ってかないとな。時間もないし、さっさと行くか。












〜〜駅前 P.M.1:32〜〜



 ヤバい、時間過ぎちまってるなぁ……。数ヶ月にわたる朝ダッシュの成果を発揮する時だと思ったんだが。不覚だ。
「っつ、はぁ……はぁ……。はぁ……、すまん、遅れた」
「いや、こっちこそすまんな、急に呼び出したりして」
「ごめんね〜、相沢先輩。兄さん、相沢先輩呼ぶの完全に忘れてたみたいで」
「元はと言えば藍が悪いんだろ? 最初は絶対来るなって言ってたのに、なんでまたいきなり……」
「しょーがないじゃない、こっちにだって都合ってもんがあるんだから。そりゃあ、悪いとは思うけど、兄さんどうせ暇なんでしょ」
 北川に食って掛かっているセミロングの髪の女の子が、北川藍ちゃんだ。年子らしく、俺達の一個下の後輩でもある。美人系の綺麗な女の子で、少し釣り目がちの印象を裏切らない勝ち気な子だ。この子が北川の妹だというのも結構アレだけど……。
「まぁ、確かに俺達はある意味暇だよなぁ」
「う……。相沢、頼むから少しは否定してくれ」
「いや、そう言われてもな。このクソ暑い中練習しに行ったりしてる名雪を見てると、どうもなぁ……」
「水瀬先輩、頑張ってますもんね!」
 どうも名雪の奴は下級生にも人気があるらしく、藍ちゃんも名雪のファンらしい。俺としては、その陸上と猫とイチゴにかける情熱の5%でもいいから早起きの習慣化に向けて欲しいんだけど。
 でなきゃ、内申書がちょっとマズイ事になりかねない……。いやほんと、来学期から見捨てて行こうかな? 仮にも受験生なんだし、遅刻の回数は減らさないといけないもんな。
 ってか、今年度の遅刻回数が一桁なのはほとんど奇跡に近いと思う。でも、次の学期と次の次の学期までは無理です。もう勘弁して下さい。
「にしても、この暑いのにプールになんて行って大丈夫か? いくら妹の頼みでも、混んでるプールに突撃かけるほど俺は暇じゃないんだが」
「大丈夫よ。一応隣町まで足を伸ばすんだし、あそこは広いからそこまで酷くはないと思うわよ。だいたい、私達だって混んでるプールなんて嫌だもん」
「あの室内プールか……。俺は行った事無いんだよなぁ」
「すっごく広くて面白いんですよ! 絶対オススメですって! ちょっと高いですけどね」
 ま、販促のタダ券でも無い限りは頻繁に行く気にならないかもな。交通費の事まで考えると結構でかい出費になるし。
 いやま、それはともかくだ。
「そういや、もう一人の子っていうのはどうしたんだ?」
「ああ、美汐ならもう来てますよ。ほら、そこに」
「……へ?」
 間抜な声を上げつつ、藍ちゃんが指差した方を見ると、
「……え?」
 白のワンピを着て烏龍茶の350ml缶片手に呆然と立ち尽くす、よ〜く見知った後輩の姿があった。
「な、なんで天野が!?」
「あ、相沢さん?!」
 天野は続けて何かを言おうとするが、言葉にならないで口をパクパクするだけだった。かく言う俺も、同じような間抜面を晒している事だろう。
「なんで天野がここにいるんだ?」
「なぜ相沢さんが藍と一緒にいるのですか?」
 全く同じタイミングで同じような事を質問しあう俺達。あー、完全にテンパってるな、こりゃ。
「なになになに? 美汐って相沢先輩の知り合いだったの?」
「え、ええ。知り合いといえば知り合いですが」
「相沢〜、お前いつの間にこんな子と知り合いになってるんだ?」
 猫のような満面の笑みを浮べて俺達ににじり寄ってくる北川兄妹。美汐は顔を真っ赤にしてるし、俺だって似たようなものだ。別に何でもない関係だけど、何となく恥ずかしい。
「そ、そんな事どうでもいいだろ? ほら、電車来ちまうから早く行こうぜ!」
「それもそうですね」
「怪しいな……」
「怪しいわよね……」
 ジト目で俺達を見つめる二人だが、時間に余裕が無いのは本当の事だ。俺が急かすと、しぶしぶ券売機に並んでくれた。一足先に切符を買った俺は、同じく先に切符を買った天野に事の次第を問い質す。すると――
「本当は別の女の子達と四人で行くつもりだったんですけど、急にお二人ほど用事が出来たとの事で。日を改める事も考えましたが、無料入場券の期限が今日でしたので……」
「なるほど。話が見えてきたよ」
 藍ちゃんが言ってた都合って、そういう事だったんだな。
「でも、まさか天野が来るなんて思わなかったな」
「私って、そんなに友達が少ないように見えますか?」
「肯定はしないけど、否定も出来ないな。天野は、どこか人を拒絶するような所があったからさ」
「今は、違うと?」
「ああ。だって、こうやって友達と一緒に遊びに来てるじゃないか」
 そんな俺の言葉に、そうかもしれませんね、と天野は苦笑した。












〜〜隣町−プールまでの道のり P.M.1:55〜〜



 しかしまぁ、何と言うか、こう、あれは衝撃としか言いようが無かった。
 そりゃあもちろん、天野の事は知らない仲じゃない。家まで送った事もあるし、百花屋とかあの見つけにくいCD屋とかに一緒に寄り道した事もある。
 けど、会うのはあくまで学校の中か学校帰りくらいなものだ。俺の中での天野のイメージっていうのは制服が基本だし、ちょっと捻ってもエプロンとか割烹着とかしか浮かばないし。
 そういったイメージが、今日この私服姿を見た時に一発で粉砕されてしまった。
 夏の青空に良く映える純白のワンピースを着た天野は、こう言っちゃ何だけど、年相応の少女のように見えたのだ。
 ……いや、美少女、と言っても差し支えないだろう。少なくとも、俺がイメージする物腰丁寧な後輩というイメージを粉々にするだけのインパクトはあった。おばさん臭いだなんて、間違ってもそんな事言えないよなぁ。
「でも、まさか美汐と相沢先輩が知り合いだったなんてねー。知らなかったなぁ」
「世の中とは、意外と狭い物ですね」
「むしろ、狭過ぎだ。だいたい、天野と藍ちゃんの接点って何なんだ?」
「なんていうか、成り行きみたいなものかな? クラスは中学の時からずっと同じだったし、修学旅行の時は同じ班だったしね」
「北川さんには、良くしてもらっていますので」
「そんな事言ったら、私も美汐にはお世話になりっぱなしだよー」
 まぁ、藍ちゃんて勉強苦手そうだもんな。兄妹で良く似てるところがあるし。その点天野は成績優秀らしいから、俺達が香里を頼りにするごとく藍ちゃんも天野を頼りにしているに違いない。
 ……でも、本当に、天野って意外と可愛いんだよなぁ。香里とかみたいな派手さは無いけど顔立ちは整ってるし、落ち着いているようで結構抜けてるところもあるし、何気ない仕草に可愛げがあったりするし。
 基本的に、静かで奥ゆかしい子なんだけど。やっぱり新鮮だよな、こういうのは。
 ちらっ、と右横を歩く天野に視線を送ると、天野は兄妹でじゃれ合ってる北川達を微笑ましそうに見ていた。母親みたいな微笑みだな、という感想は心の内にしまっておく。天野の横顔にちょっと見とれてしまったというのも俺だけの秘密だ。
 ただ、右手で胸元の青いリボンを弄っているその横顔が、少し寂しそうに見えるのは気のせいだろうか……?
「――なぁ相沢、お前もそう思うだろ?」
「ん? 何がだ?」
「いや、やっぱいいわ。お前に聞いた俺が馬鹿だった」
 手をひらひらさせてそう言った北川の口元は、どうもタチの悪い事を考えている時と同じ歪み方をしていた。
「どうでもいいけど、変な事考えてるんじゃないだろうな?」
「まさかまさか、滅相も無い」
「そう言いながら口元笑ってるぞ、お前」
「気のせいだろ? んな事より、やっと到着だぜ、俺達の楽園に」
 北川が顎で指し示した方向には、やたらとデカイ建物がビルの陰から姿を見せていた。……思ったよりも大きいな。
「やっと着いた……。だからバス使おうって言ったんだよ」
「おう……。すまん、徒歩十分を嘗めてかかってたよ。帰りはバスで帰ろうか」
「やった! じゃあバス代兄さんの奢りでお願いねー」
「何でそうなる?! ってか言い捨てっぱなしで逃げるんじゃねー!」
 受付へ向かってダッシュする藍ちゃんを追って、北川の馬鹿も走って行ってしまった。全く、落ち着きが無いというか騒がしいというか……。
「まぁ、あいつららしいからいいか」
「そうですね」
 妙に優しい声でそう頷いた天野の右手は、相変わらず胸元のリボンを弄んでいる。
「とりあえず、行こうか」
「はい」












〜〜プールサイド P.M.3:11〜〜



「も〜ダメ、これ以上は泳げない〜」
「結構遊び倒したもんなぁ。動けるか? 藍」
「ちょっと無理っぽい。しばらくこうしてる」
 水面に仰向けにぷかぷかと浮かぶ藍。水の流れに身を任せて浮かんでいるのを見ると、なんか楽そうだなー、とか思える。いやまぁ、それだけじゃないけど。
 健康的な小麦色の肌に、瑞々しい果実みたいな肢体、水に濡れたレモン色のセパレートの水着……。我が妹ながら、強烈に男を引き寄せる奴だしなぁ。本人もそれは自覚してるらしくて、こうやって虫除けを引き連れて来てるんだけど。
「兄さん、相沢先輩と美汐は?」
「んー、すぐそこにいるだろ? まぁ、いなけりゃいないで問題ないが」
「そうかな?」
「ん。帰りの待ち合わせは一応してるからな。あの子も、相沢がいりゃあ心配ないし」
「ふーん」
 こっちを無遠慮に見ていた男に視線を飛ばしつつ、納得してるんだかしてないんだかな藍に聞きたかった事を聞く。無論、相沢がいない事は確認済みだ。
「お前さ、相沢の事が好きだったりするわけ?」
「……なんで、そうなるのさ。確かに相沢先輩は兄さんよかかっこいいし優しいけどさ、私にとっての恋愛対象じゃないんだよね。なんかさ、もう一人兄さんがいるみたいだし」
「男として見られてないのか。それはそれで可哀想と言うか……」
「そりゃ、他の訳分かんない男よりは可能性あるわよ? けど、そもそも私って今のところ恋愛に興味ないしね」
「それはまた珍しい」
 この年頃の女の子ってのはそういう事に興味があるもんだとばかり思ってたんだけどな。
「そうかな? 美汐見てる方が百倍面白いもん」
「あー、それは言えてるかも。俺も相沢見てるのは楽しいからな」
「でしょでしょ! 恋愛だの何だのって、他人のを見てる方が面白いって、やっぱり」
「俺は自分も恋愛してみたいけどなー」
「そんな事言ってる人はわざわざ二人っきりの舞台をお膳立てしないと思うけど? 美汐、結構可愛いんだし」
「あ、やっぱバレてた?」
「巧妙な手口だったけど、私は兄さんの妹だもんねー。……何考えてるかなんて分かるわよ」
 まぁ、上手い事人の多そうな所を泳いだりしてたからなぁ。俺が人ごみ苦手なの、こいつ知ってるし。
「別にいいんだけどね。私は美汐も楽しめればそれでいいと思うし」
 ばしゃばしゃと水音をたてながら藍が俺の方へと向き直る。
「あんまり水跳ねるなよ、周りの人に迷惑だから」
「はいはい。それよりさー、ウォータースライダー行こうよ! ここのって結構面白いんだよ!」
「へいへい、どこへなりとも御付き合い致しますよー。って、こら! 水ん中引っ張り込むなぁっ!」












〜〜プール内 P.M.3:22〜〜



 うはぁ……。完璧に、完全無欠にはぐれたな、これは。
「相沢さん、藍の姿が見えませんが?」
「うーん……。完全に置いてけぼりを食らったな。北川はともかく、藍ちゃんって結構行け行けな子だしなぁ。しかも今日はかなりテンション高めだったし」
「でも、私達を置いて行くほど気のつかない人ではありませんよ? それに……、それに、北川先輩もいますし」
「今日は頼りになる兄貴がいるからな。大方油断したんじゃないか? あと、北川の奴は人ごみが苦手だって言ってたしな。案外、こういう状況が起こりやすいから苦手なのかもしれん」
 何だかんだ言って、藍ちゃんって北川の事頼りにしてるからなぁ。基本的にお兄ちゃんっ子だし。まぁ、確かに北川はあれでいて結構頼りになる奴だけどさ。
「それにしても、やはり人は多いですね」
「そうだなぁ。天野はこういうの苦手か?」
「別に人ごみが苦手だという事はありませんが……」
 どうも、歯切れが悪い。天野らしくないが、まぁ、理由は何となく分かる。
「恥ずかしいんならもっと別のを選べばよかったのに」
「な、な……!」
 かぁっ、と天野の顔が朱に染まる。どうも、自覚はしてたらしいな。
 天野の着ている水着は、腰にリボンのアクセントの付いた白の水着だ。真正面から見た時は別に何の変哲も無いんだけど、後から見た時は……。
「だ、だって藍に勧められた時には気付かなかったんです!」
「なるほど、ねぇ……」
 藍ちゃん、分かってやっていたとしたらイイ性格してるなぁ。あの子の事だから、多分全然気付いていなかったんだと思うけど。
 ちなみに、後から見た時は天野の白くてすべすべの背中がモロ見えだったりする。水に濡れると透けるようになってるのかな? まぁ、どちらにしても、結構大胆な水着かもしれないなぁ。特に、天野にとっては。
「うぅ……、は、恥ずかし過ぎですよ……」
 水の中に首まで浸かる天野。耳まで真っ赤に染めた姿は、なんか保護欲とか嗜虐心とか男のリビドーど真ん中を貫通しそうな勢いです、はい。
 とてもじゃないが、俺も水から上がったり出来ないなぁ、これじゃ……。
「にしても……、プールに来て恥ずかしがってるんじゃどうするんだ? 最初の頃は別に平気そうだったのに」
「だって、気付いてなかったんですから当たり前です!」
 ちなみに、天野がこれに気付いたのはついさっきガラスに映った自分を見た時だったりする。
「けど、本当にどうする? 天野が嫌だって言うんなら、このまま上がっちまってもいいんだけど」
「…………」
「どうする?」
 少し悩んでいるらしい天野だったが、無理強いする事も無いしな。
「……?」
 と、天野がなんか上の方を見上げて首を傾げている。そっちの方にあるのは確か……
「ウォータースライダーがどうかしたのか?」
「……いえ、何でもありませんよ」
 俺もそっちの方を見てみるが、別に何も特別な物が見えるわけでも無い。
「行きましょう、相沢さん。どうせだから楽しみましょうよ」
「ん、あ、ああ。そうだな」
 どうやら、水着に関しては吹っ切れたらしい。うん、良かった。これでもうちょっと――
「……何か、変な事を考えてませんか?」
「いや、全然」
 ――天野の背中を観賞できる、なんて事言えないよな、当然。












〜〜車内 P.M.5:58〜〜



 ふぅ……、しかし今日は疲れたな、ほんと。えらく天野らしくも無いはしゃぎ方をしていた気もするけど、楽しんでいたみたいで良かった。
「にしても、気持ち良さそうに寝てるな、二人とも」
 互いに身体を預けて座席で眠る様子は、仲のいい姉妹に見えるかもしれない。ちなみに、俺達は死ぬ気でこの二席を確保するのが精一杯で、彼女達の前でつり革に掴まっていたりする。ローカル線とは言え、ラッシュを嘗めてはいけないのだ。
「……で、お前はなんでそんなに憔悴してるんだ? なんかもう半分死んでるんじゃないかと思うぞ、俺は」
「藍の奴に半日引き摺りまわされれば、今の俺の気持ちが半分くらい分かるんじゃないか?」
「遠慮しとくよ。普段ならともかく夏の俺にはそんなパワーは無い」
「お前、去年の冬も同じような事を言ってなかったか?」
「……気のせいだ」
 俺は暑いのも寒いのも苦手なんだよ。
「ま、それはいいとしてだ。お前って、この子の事、どう思ってるんだ?」
「……どうって?」
「言葉通りさ」
「……一応言っておくが、全然似合わないぞ」
「そりゃどうも。今度はもうちょっと研究してくるさ」
 それっきり、北川は黙ってしまう。それにタイミングを合わせたかのように、ドアが開いて車内の人間が吐き出されていく。
 ……天野の事を、俺がどう思っているか、ね……。そんな事、俺にだって分かるはずが無い。
 友人かどうかと聞かれれば、親友だと答えよう。俺と天野の間には、あの丘の伝承をきっかけにする絆のような物があると信じているから……。
 ただ、恋人かと聞かれると否定する他無い。俺達は、そんな関係じゃないはずだ。少なくとも、今はまだ……
「…………」
「答えられない、か」
「いや、よく分かってないだけさ。俺自身の事も、天野の事も、な」
「そうか」
 北川は、短く呟くと藍ちゃんへと視線を落とした。俺も、つられて二人へと視線を移す。
 けど、俺は天野の事をどう思っているのかなんて……。ほんとは分かっている。今はまだ、踏ん切りがつかないだけだけど、天野の事を何とも思ってないなんて事、あるはずがないんだ。
「さて、そろそろこのお姫様達を起こさないとな」
「あぁ、……そうだな」
 つったって、これだけ気持ちよく寝てるのを起こすのもな……。
「ほれ、そろそろ着くから起きろよ〜」
 北川の奴は藍ちゃんを結構容赦なく揺り動かして起こしてる。程なくして藍ちゃんは目を開けて、まず周囲を確認。
「あぁ、もうすぐ着くのね」
「そういう事」
 しかし、天野はそれでも全然目が覚める気配がしない。藍ちゃんは隣を困ったようにみると、どうする? と視線で俺達に聞いてきた。
「なんか、起きそうにないしなぁ……」
「そもそも、美汐が電車の中で寝てるって事が私は信じられないんだけど」
 まぁ、言われてみればそうだな……。
「おいおい、駅に着くまでもう時間が無いぜ?」
「だよねぇ」
 で、そろってニヤニヤと笑いながら俺を見てくる北川兄妹。
「……分かったよ。俺が連れて帰るから」
「物分りが良くて宜しい。それじゃ、背中向けてねー。私が美汐乗っけてあげるから」
「りょーかい」
 背中を向けて、藍ちゃんに天野を乗っけてもらう。天野の腕を前に回して、俺が立ち上がったところで――ぱしゃ、という音とピロリロリン♪という効果音が……
「北川!? お前何撮って……」
「気にするな、ただの写メールだ。ちなみに、送信先は」
「私だよーん」
「な……!」
「はいはい騒がないでねー、美汐起きちゃうから」
 は、嵌められたー!?
『ご乗車、ありがとうございました。次は――』
 まぁ、今更気付いても、時既に遅しって奴なんだけどさ。












〜〜駅前 P.M.6:02〜〜



「帰ったな……」
「そうだね……」
 相沢と天野さんを見送った俺達は、しばらくそこでぼうっと突っ立っていた。
「お前さ、起きてたんだろ、電車の中で」
「……バレてた?」
「俺はお前の兄貴だぜ」
 ……肝心な時に、頼りにならない兄貴だけどな。
「これで、良かったんだと思う。美汐は、本当にいい子だから。それに、相沢先輩と美汐って、何か……」
「何も、言わなくていいさ。正直、悪かったって思ってる」
「ううん。兄さんは別に悪くないよ。私の感情と美汐の感情の差だと、思うから。それに――相沢先輩は、私の事、妹としてしか見てないだろうし」
「藍……」
「ほんとに、いいんだ。これでいいんだよ。……でも、ちょっとだけ、甘えさせてもらっても、いいかな?」
「言っただろ、俺は、お前の兄貴だって」
「うん、そだったね。あんまり頼りにならないけどさ」
 俺の胸に顔を埋めた藍は、……とても小さな女の子のようだった。












〜〜路上 P.M.6:34〜〜



「う……ん?」
 駅から歩く事三十分。ようやく天野の家が近付いてきた所で、背中のお姫様は目を覚ましたようだった。
「おはよう、天野。目は覚めたか?」
「おはようございま――あ、相沢さん!?」
「おう、相沢さんだぞ」
「あ、いえ、そうではなくて、その、どうして?」
「よく寝てたからな。もうすぐ天野ん家に着くぞ」
 背中で天野が混乱しまくっているのが良く判る。何せ、降りますよ、の一言すらないほど現状を認識し切れてないからな。これはこれで、面白いかも。
「それにしても、今日は天野の知らない面を良く見る日だな。滅茶苦茶面白かったぞ」
「う……、と、とりあえず降ろして頂けませんか? 自分で歩けますから」
「おう」
 言われた通り、天野を下に降ろす。
「……今日は、楽しかったです」
「そりゃ良かったよ。俺も楽しかったからな、天野にも楽しんでもらってないと不公平だ」
「相沢さんらしいですね」
 そう言って、天野は本当に面白そうに微笑んだ。
 夕日に照らされた天野の笑顔は、何と言うか、すごく可愛くて……。俺は少しそっぽを向いて頬の赤さを誤魔化した。
「俺らしい、ねぇ」
「ええ、そうですよ」
 そこで、俺達の足はぴたりと止まった。すぐそこには、天野の家がある。
「送って頂いてありがとうございました。本当に、今日は楽しかったですよ」
「どういたしまして。まぁ、半分は藍ちゃんにお礼を言わないといけないけどな」
「そうですね。今度また、百花屋にでも誘ってみますよ。あそこのチョコパフェは藍のお気に入りですので」
「へぇ……。初耳だな、それ」
 しかしまぁ、うちの生徒に人気あるな、あの店は。
「相沢さん」
「ん? なんだ?」
「また、誘ってくださいね。その……、いえ、何でもないです」
 そう言うと、天野は玄関のドアを開けた。
「それでは、またお会いしましょう」
「ああ。また、誘うからその時にでもな」
 そこまで言って、ちょっとした悪戯を思いついた。
「今度は、別の水着でな」
「〜〜!! か、からかわないで下さい!」
「はは、ごめんごめん。それじゃ、またな」
「はい、それじゃあ、また」
 それで、天野は俺の視界から消えた。とりあえず、今日のところは。
「今度は二人っきりで、なんて、言えないもんなぁ……」
 踵を返して、水瀬家へと帰る俺。
 次はどうしようかなー、なんて思いながら歩く自分。


 やっぱり、俺は――





Fin