雨が降り出した。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ、と。
 小さな音が段々大きくなっていく。

 それは、始まり。
 大切な時を過ごした季節でもなくて。
 待ち望んでいた季節でもなくて。

 何も知らない、真っ白な季節の、始まり。







 生まれたての季節






 雨は段々と強くなり、そして流れるような音に変わる。
 真っ黒よりも少しだけ穏やかな雲は、陽の光を隠して、小さな、影で覆われた世界を作っている。
 薄暗い、だけど自然が調和している、生きている世界。
「…………」
 傘で体を隠しながら少女――天野美汐は、周りの緑が水を受けて、より活き活きとしていく様を見ていた。
 深く、深く。色付いていく草の緑。
 遠くから足元まで、全部。
 目に見える範囲は、全部。
 丘に降り注ぐ、雨。



 今日から梅雨……そう、昨日テレビで言っていた。その時の事を思い出す。
 たまたま三人で見た、真琴と祐一と一緒にいる時に映し出されていた、天気予報。
 外出は控えめに、そんなキャスターの言葉を聞いた時の真琴の表情を、美汐は思い出す。

 ――小さく、笑う。

 暦の上では、もう夏。
 まだまだ暑いと言うには程遠いけれど……ゆっくりと、だけど確実に、夏に相応しい気候に近づいてきている。
 梅雨は、その夏の扉をノックするような物。幼い頃、そんなことを聞いた覚えがあった。
 今になって思い出した……それだけ今年の夏には意味がある。少なくとも、美汐はそう認識している。

 彼女にとって特別だった冬と、彼女にとって特別だった春。
 特別だと思った瞬間は、もう通り過ぎてしまうのだから。






「真琴は……」
「……え?」
 美汐が呟くのと同時に、背後から声。
「この街の夏について、どう思いますか?」
 くるっと後ろを振り返る。目と目が合う。
 美汐の目の前には、驚いた顔の真琴。
「えっと、いつから気づいてた?」
「自分では、始めから気付いていたつもりです」
「なんかそれ答えになってない気がする……」


 二つの傘が並ぶ。


「それで、私の質問の答えは?」
「え? えーと……」
 少し考える。
 その間に、美汐は真琴の答えを予測する。
 それは、きっと。
「そんなのわかんない、かな」
「だと思いました」
「なによぅ、それ」
 不服そうな真琴の頭の上に、美汐は優しく手の平を乗せる。
 真琴もあぅ、と小さく呟いただけで、それ以上は何も言わない。


 二つの傘が重なる。


 美汐は、ふと上を見上げてみた。
 僅かな傘の隙間から見える雲の黒は、また少し和らいでいるように見える。
 意外と今日は早く止みそう……そんなことを考えながら、真琴の髪から手を離す。
「祐一も……」
「相沢さんも?」
 もう一度前を向く。
 真琴の小さな白い傘が、少しだけ動く。
「何か変な顔をしてた気がする。さっき雨見てたんだけど」
「……そうかもしれませんね」


 今度は少しだけ、美汐は目を閉じてみる。
 真琴も、その真似をしてみる。
 しとしと、しとしと、降り続く雨の音だけが聞こえる。
 草に、地面に。弾かれたり、染み込んだり。そんな優しい音だけが聞こえる。


「やっぱり、何か変な感じ……」






 冬。
 相沢祐一という青年が再びこの街を訪れた事から始まった出来事。
 沢渡真琴、彼女を巡る出来事。

 たくさんの出来事、と言うべきなのだろうか。それとも深い出来事、と言うべきなのだろうか。
 それらは冬の間に、この街で最も印象深い季節に起きた。



 春。
 それは冬の終わり。
 辛い出来事、悲しい出来事があった冬の、終わり。

 暖かくて。優しくて。穏やかで。
 だからこそ望んだ、望まれた季節。そして訪れた喜び。




 たくさんの想いに包まれるような、そんな特別な時間たち。






「美汐……どうしたの?」
「真琴こそ、いつもより大人しい気がしますが?」
「……雨の所為かも」

 穏やかな表情で、目の前にいる真琴の姿を美汐はじっと見つめる。
 そこにいるのは確かに――人としての真琴。





 丘の狐の小さな奇跡に過ぎなかった彼女が、過ごしていった季節でもなく、想いを馳せた季節でもなくて。
 人となって再び現れた、そしてこれからを過ごすだろう彼女が、まだ知らない季節。
 その始まりを教えてくれる雨だから。だから――こんなにも、優しくて、不思議に思えるのだと。美汐は思った。





「で、美汐は?」
「何となく、ここを訪れたい気分だっただけですよ」
「本当?」
「はい。なので、もうこれから帰るつもりですが」
「…………」
「傘があっても、あまり外にいると濡れてしまいますしね」
「うん、そうだけど……」

 何か納得いかない、そんな目で、じっと美汐を見つめる。
 それでも、その言葉に他意はないと分かったのか。
 はあ、とため息をついて、一言残してから、真琴は先に丘を歩き出した。
 そして少しして、それに続くように、美汐も歩き出した。





 ――とその時。





「あ……」

 美汐の視界に、一匹の子狐が映った。
 しとしとと降り続く雨の中、一匹だけ。
 そして子狐の方も、美汐――いや、人の姿に気付き、ゆっくりと見上げた。


 小さな体に降り続ける雨。
 茂る草の一つ一つに、金色の毛の一つ一つに、降り注ぐ雨。
 傾いた傘を伝って出来た雫が、美汐の目の前から流れ落ちる。






 美汐には、その瞬間。
 小さな狐の、濡れた金色の毛並みが。
 雨の雫を受けた、草葉の緑が。
 降り続けている、透明な雨が。
 世界の鮮やかさが、深さが、より美しく見えた。






 一声鳴いて、子狐はその場を去った。
 数回瞬きを繰り返した後、美汐はもう一度歩き出した。
 ゆっくりと、だけど真っ直ぐに。……僅かに、微笑んで。











 ゆっくりと、雨が小降りになっていく。
 だけど梅雨はまだ始まったばかり。これから一月もの間、雨は毎日のように降り続ける。


 そしてその後……本当の夏が訪れる。


 大切な時を過ごした季節でもなくて。
 待ち望んでいた季節でもなくて。

 何も知らない、真っ白な季節が訪れる。
 輝くような、真っ白な季節が訪れる。


 例えばそれは、暑い日差しの中を一緒に歩くこと。
 水飛沫を浴びながら、笑ってはしゃぎ合うこと。
 時折感じる穏やかな風を、ちょっとした喜びを共有すること。

 そして、冷たい麦茶を飲みながら、風鈴の音を聞きながら、一休み。


 何気ない楽しみも。特別な楽しみも。
 全部全部、これから訪れる。洗いたてのシーツのような、真っ白な季節。




 ――そこから始まる、真っ白な、これから続く、未来。