凍てついた大地の下にじっと身を潜め、じっと芽吹きの時を待つ植物達。
やがて雪が融ける頃、空へ空へとその身を伸ばす。
ふと周りを見れば、嬉しそうに咲き誇る桜。そして短い春が終わり、また次の春に向けて眠る彼女達。
バトンタッチをするように、緑が鮮やかに繁っていく。
蒼く高く広がる空。時は巡り、今は夏。彼女と出会ったあの時から、二つの季節が過ぎた。
蝉が啼く。ただひたすらに啼いている。それは自分の存在を誇示するように。その音は、時雨のように降ってくる。
夜になっても、蝉の声は途絶えない。
水瀬家のベランダで佇む祐一は、どうしても耳に付く蝉の声を聞きながら思った。
ああ、うるさい。その声を聞かせないでくれ。俺は辛い事を思い出したくないんだ。
耳を塞ぎ俯く祐一。そんな彼を慈しむように、そしてまた咎めるように、蝉時雨が降り注いでいた。
TOMORROW−未来へ繋げる想い−
「そうですか、丘に…」
天野美汐は、祐一に会いに水瀬家まで来ていた。
祐一は、ものみの丘に出掛けているらしい。場所が丘なら、美汐には理由を容易に想像出来る。間違いなくあの子の事だろうと。
「ええ。ここのところ、ほとんど毎日行ってるみたいで」
困ったような顔で言う秋子。心配している様子が、その表情からもありありと伺える。
「分かりました。ありがとうございます」
深々と頭を下げる美汐。
「いえいえ。それよりも美汐ちゃん…だったわよね?祐一さんの事を、よろしくお願いしますね」
それは母としての想いが篭った言葉。名雪は勿論、祐一の、何より真琴の母としての言葉だった。
美汐は少し驚いていた。
実は、美汐が水瀬家へ来たのは今回が初めてだ。どうも夏休みに入る前辺りから、祐一の様子がおかしかった。勿論、注意深く観察しなければ分からない程度ではあったが。
夏休みに入ったものの、その祐一の様子が気になった美汐は、こうして祐一に会いに来た。それが今の状況である。
秋子と美汐は初対面である。にも関わらず、秋子は美汐を信用している。しかも、美汐が真琴に関わっている事にも気付いているようだ。
最も、気付いた理由は「丘に行った」と秋子が話した時の、美汐の微妙な表情のせいだろうが。
ともかく、秋子は『自分の子供』である祐一や真琴の事を、美汐によろしくと言ってきたのだ。
その秋子の信用に応えるように、美汐は
「はい」
静かに、けれど力強く頷いた。
願いと、想いと、ちょっとした嫉妬と。
少しだけ鈍りがちな決意も持って、美汐は丘へ向かった。
風が草原を薙いでいく。ここはものみの丘。災いをもたらす狐が住んでいると言う御伽噺の舞台。
そこに、御伽噺の真実を知る少年が一人、緑の絨毯の上に寝転んでいた。
「今日も来ちまったな…。秋子さんや名雪が心配してる事、よく分かってるのに」
祐一とて、心配させる事が本意ではない。本意ではないが、どうしても気になって、この場所へ来てしまう。
ここに居たって真琴に会える訳が無い。そんな事は分かってるのに、気持ちを抑える事が出来ない。
ここで一日のほとんどを過ごし、日が暮れたら家に帰る。夏休みに入ってからと言うものの、祐一はずっとこういった毎日を送ってきた。
そして、今日も一日、何も無い時間が過ぎるのだろう。そう祐一が思った時だった。
「お昼寝ですか?相沢さん」
祐一が、体を起こし、その声に振り返ると、そこには美汐が立っていた。
「……天野?どうしてここに?」
祐一は、驚いた顔で美汐に尋ねる。その問いに、優しい微笑みで答える美汐。
「水瀬先輩のお母さんに話を聞いて来たんです」
「秋子さんが?」
「はい。心配しておられました」
美汐の言葉に、祐一の顔が暗くなる。
「やっぱり心配させてるか…」
「あ、いえ、別に相沢さんを責めてる訳では」
祐一の表情に慌てる美汐。
「……………」
「……………」
そして二人は無言になる。
お互いが沈黙している状況に耐え切れなくなったのか、美汐が口を開く。
「相沢さんは」
美汐は一旦言葉を止め、少し逡巡した後、もう一度口を開いた。
「……何故、ここに来ているんですか?」
祐一はその問いに答えず、表情は変えないまま、独り言のように呟く。
「…時が傷を癒すってのは嘘だな。時間ってのは、傷を周りから、そして自分から見えないように覆うだけだ」
祐一は、蝉時雨が聞こえてくる森の方を見て、そして美汐に視線を戻すと、再び言葉を紡いだ。
「何かの拍子で傷が外に出れば、すぐに痛みがぶり返す」
まあ、もっと年を重ねれば別なのかもしれないが、今の俺には無理だな。と、自嘲気味に漏らす祐一。
「蝉を見ると、真琴を思い出すんだ。蝉は長い間地中にいて、成虫になったら一週間で命を落とす。
長い時を土中で過ごし、外に出る事を願って、でも短い間だけしか生きられない。そんなところが、人の温もりを願って、短い生を選んだ真琴と重なってな…」
俯く祐一。そして顔を上げると
「それで、いてもたっても居られなくなって、毎日ここに来てるって訳だ。情けないだろ?」
そう言って、美汐に背を向け空を見上げ、そして呟く。
「真琴、お前はそれで本当に良かったのか…?」
その問いに答えるものはなく、ただ、丘に風が吹き抜けて行くだけだった。
「相沢さん」
その声に祐一が振り向く。美汐は、祐一を強い意志を秘めた眼差しで射抜く。
「確かに、蝉は一週間で命を落とします。でも、一生懸命生きている。それと同じで、真琴だって一生懸命生きてたはずです。真琴にしか分からない事でしょうが、少なくとも、私は真琴が後悔してるなんて思っていません」
「天野…」
美汐は、ゆっくりと祐一に近付く。一歩一歩、想いを確認しながら、想いを伝えながら。
「真琴は、相沢さんの心に、こんなにも残っている」
いつからか、彼の存在が自分の中で大きくなっていた。
「真琴は、貴方だけの事を思って人間になった」
彼が真琴を失った時に感じた思いは、同じ悲しみを味わった事への同情。
自分と同じようにならないで欲しいという願い。
そして、悲しみを堪えて頑張って日々を過ごしている、そんな彼に憧れを抱いていった。
「七年前に出会った、相沢さんの為だけに」
ひたすら想う事が出来る一途さに、尊敬に似た感情を持ったりした。
「記憶を無くして、命すら賭けて」
そして、そこまでの事を出来た真琴が、少し羨ましかったりして。
「でも…それでも真琴は幸せだったんじゃないかと思っています」
彼の事を想い、そして彼が想っていてくれているのだから。
「だから、そんな悲しい顔をしないで下さい。もっと笑顔でいて下さい」
ふとした時に見せる、寂しげな顔が気になった。気が付けば、彼を目で追っていた。
「私は」
彼の仕草、彼の声、彼の全てを。
「相沢さんの笑顔が…そして相沢さんが」
世界中の誰にも負けないくらいに。
『―好きですから―』
美汐の告白を聞き、カチンッと固まる祐一。美汐は、「失礼な反応ですね…」と苦笑しながら呟き、祐一を見つめる。
「天野…」
どうしたんだ?と聞いてくる、祐一の口を美汐は指で塞ぐ。
そして背を少し伸ばすと、目を閉じて、そっと唇を重ね合わせた。
風が丘を通り過ぎる。ざぁっという音と共に、美汐の髪がなびく。
それを合図にしたように、美汐は唇を離してそっと目を開ける。目の前には真っ赤な顔をした祐一。
真っ赤な顔のまま何かを言おうとするが、何も言えずに顔に手を当て、美汐に背を向ける。
そんな祐一の行動を見て、美汐はクスッと笑う。
美汐の漏らした微笑が聞こえたのか、祐一は少しムッとした表情で振り返る。
「……何だよ天野」
「いえ、相沢さんの反応がおかしくて、つい」
美汐の言葉に、ますます不機嫌そうな顔になる祐一。
「何で天野はこんな事して普通で居られるんだ…」
美汐は相変わらず微笑を浮かべたままで答える。
「私だって平気ではありませんよ。今だって、恥ずかしさで一杯です」
「…とてもそうは見えないが?」
祐一がそう言うと、今度は美汐がムッとした顔になる。
「失礼ですよ相沢さん。私だって乙女なんですから」
美汐の言葉に、祐一は何とも言えない複雑な表情になる。
「で、その乙女は何でいきなり……その……キスをしてきたんだ?」
祐一の疑問に、幾分表情を和らげて言葉を返す美汐。
「……相沢さんの方が乙女みたいな感じがしますね」
「うっさい!」
再び赤くなる祐一。空気を変えるように、ゴホンと一回咳払いをして、真面目な顔で、美汐に訊ねる。
「いいから教えてくれ。何であんな事をした?俺の好きな人の事は知っているはずだろう?」
「ええ、分かっています」
そう口にする美汐の顔は笑顔と言うよりも、むしろ、不敵な笑みさえ浮かべている。
「私は相沢さんが好きです。でも、相沢さんの心の中は、真琴が大きく占めています」
言って、美汐は祐一の胸の辺りに手を置き、祐一の眼を見る。
「だから、今のキスは、真琴への宣戦布告です。いつか…相沢さんの心の中で、真琴よりも大きくなってみせるっていう、私なりの挑戦状」
美汐は体を離すとクルリと背を向け、空を見上げながら祐一に話しかける。
「相沢さんが、真琴を忘れられずにいる事、いつか帰って来るって思ってる事、私にとっては不利な条件ばかりですけど…」
美汐は笑顔で振り向く。
「いつか、相沢さんを振り向かせてみせますから…覚悟してて下さいね?」
どう反応していいか分からず、美汐を見たまま何も言えない祐一。
美汐は、今日何度目かになる苦笑を浮かべ、祐一に言う。
「帰りましょう。水瀬先輩のお母さん…秋子さんが心配してるでしょうし」
そこで、祐一はようやく言葉を返す。
「…ああ」
そして、美汐が好きな笑顔を見せて
「ありがとな、美汐」
と、言うのだった。
その笑顔と言葉に、美汐の顔が真っ赤に染まる。
「みっ、美汐!?あの、えと、相沢さん?私の事、名前で…」
祐一は、頭をポリポリ掻きながら、すっとぼけた顔で言った。
「いや、今日はやられっぱなしだったから、何か悔しくてな。それで、いつも苗字で呼んでるところを、名前で呼んだら焦るかなって」
脱力する美汐。
「子供ですか…」
「おう!」
胸を張る祐一。
「はあ…」
溜息しか出ない美汐。
「だけどな、天野」
急に真面目な顔になる祐一。
「俺は…な、やっぱり真琴が忘れられないし、諦められない。だから、今、天野の気持ちに応える事は出来ない」
「分かってます」
平然と答える美汐。
「…いつ気持ちが変わるかなんて、分からないぞ?」
「はい。それまで待ちます。恋する乙女は我慢強いですから」
ガッツポーズをする美汐。そんな美汐に、祐一は思わず相好を崩す。
「…はは。なるほど、そりゃ勝てんわ」
祐一はひとしきり笑った後、ニヤリと笑って美汐に言った。
「でも、恋する乙女って恥ずかしくないか?」
美汐は顔を赤くして答える。
「ほっといて下さい!」
美汐は体を翻す。
「ほら、帰りますよ!」
「はいはい」
楽しそうに笑い、祐一は、美汐と一緒に帰途についた。
――ここはものみの丘。悲しいお話が生まれる場所。
相沢さん、私の事は名前でいいですよ。
ん?でも、驚かせようとしただけだし。
いえ、好きな人には、名前で呼んでもらいたいですから。
…よくもまあ、そんな恥ずかしいセリフを臆面も無く。さすが恋する乙女。
…恋する乙女は忘れてください。
やなこった。
でも、それは出会いと別れの大切さを教えてくれる。
そういえば相沢さん、私、真琴が幸せだった事、実は少しだけ根拠があるんです。
へぇ…何だ?美汐はそんなに真琴に会ってなかったと思うんだが。
相沢さんは、いつかおっしゃってましたよね?真琴の笑顔を覚えているから頑張れるって。
あー…言ったか?
はい、言ってました。それが根拠です。
…何じゃそりゃ?
真琴は、感情表現がストレートだったんですよね?
ああ。もうちょっと何とかならないかってくらいに。
そんな真琴が笑顔だったのなら、それは幸せだったに違いないですよ。
…それだけ?
はい、それだけです。
……そうだな。真琴だからな。辛かったら笑わないよな。
はい。
…ああ、少し楽になった。ありがとな、美汐。
人との関わりの中で生まれるものを、人との関わりの中で失うものを。
それにしても…俺は助けられてばかりだな。
いいじゃないですか。私は、前に相沢さんに強くあって下さいと言いましたけど、あれは撤回します。
どうしてだ?
強くなくてもいいです。人は独りでは生きていけないですよ。だから、誰かを求める。それはお互い様なんです。
だけど、頼ってばかりっていうのも。
それでいいんですよ。頼られる方だって嬉しいんです。それに、例え弱くても、悩んで悩んで、そして進むことに意味があるんじゃないですか?
…そうだな。俺は、後ろばかり見てたのかも知れないな。
私も心配してました。
ああ、悪かった。よし、もう心配させる事はしない。
はい。今度からは、私に相談してください。一人よりは二人です。
ああ、美汐にも秋子さんにも名雪にも頼っていくよ。
失った時は二度と戻らないけど、それを嘆くことはない。その悲しさは、その時を歩いてきた証拠だから。
それにしても不思議だな。
何がですか?
いや、あんなに気になってた蝉の声が、全然気にならなくなった。人間、気の持ちようだな。
それが、現実を受け止めて乗り越えた証です。相沢さんは進めたんですよ。
ああ。本当に、美汐にはしばらく頭が上がりそうにない。
ふふ。それでは、今度デートをするという事で手を打ちましょう。
デートねぇ。そんな事でいいのか?
はい。しっかりエスコートして下さい。
…分かりました、姫。精一杯頑張らせていただきます。
苦しゅうない、です。
それって何か違わないか?
…そうですか?
失った時があるからこそ、今の自分があるのだから。別れがあるからこそ、出会えるのだから。
さあ、帰りましょう。
ああ。秋子さんに叱られに行くとするか。
お付き合いしましょうか?
うーむ。美汐がいると、話の矛先が変わってくれそうだから頼もうかな?
案外セコい計算ですね…。
言うなって。秋子さんは激しく怒らない分、こっちの良心がチクチク痛むんだから。
それだけ心配させてたのだから、仕方ないのではありませんか?
そりゃそうだけどな…。
ああほら、そんな情けない顔しないで下さい。一緒に行きますから。
本当だな?
はい。その代わり、デート2回ですね。
ぬぅ…分かったよ…。
絶対ですね?約束ですよ?
ああ、男に二言は無い。
嬉しいです。でも、私が帰った後、結局は怒られるんでしょうけど。
ぐはっ!だったら今のデートの約束無し!
相沢さん、男に二言は無いのでしょう?
失った何かを、忘れる事なく生きていく。それが失ったものに出来る唯一の事だから。
うぅ…真琴ぉ。お前の友達ヒドイやつだぞ…。
失礼ですね。ある事ない事、全部秋子さんに言っちゃいますよ?
本当にひでぇ…。
冗談です。
冗談に聞こえなかったんだが。
……気のせいですよ。
今、間が無かったか?
気のせいです。こうして話してても仕方ないし、早く行きましょう。
なあ、話を逸らしてないか?
行きましょう。
…まあいいか。
過去と、そして現在を未来に繋げる、たった一つの方法だから――。
「それじゃ、またな――」
「また、来ますね――」
「「真琴」」
丘を下っていく祐一と美汐。そんな二人を慈しむ様に、そして励ますように、蝉時雨が降り注いでいた。