赤い騎士は答えを得、笑みのままに座へと帰した。

 けど、私の答えはいまだない。

 そして、私は死ぬまで走り続けた道を未だに信じることができずにいる。

 だから少しの間でいい。

 星よ、どうかお願いです。

 考える時を。
 
 とうといユメを。

 幸せに包まれた彼と彼女の居る夢の続きを、どうか私に――――。


















End-piliod-siries"episode-fate/staynight-Harapekosaber1"
 
『――――――星に願いを。――――――』
























‡‡    一日前、衛宮邸     ‡‡












「……あっついわねー」
 
それは誰の呟きだったか。間延びしきった小さな声は、サウナの如く茹だる室内に響きすらせずに掻き消えた。
夏、真っ盛り。
ぎらぎらと照りつける太陽は大気と大地を否応なく熱し、それこそうだるような暑さが充満している。 時間的にも今が一番暑くなる時期なので、外の熱気はそれこそ押して知るべきだ。そして、それは衛宮邸の中とて同じこと。
この古き良き武家屋敷にはクーラーなどという文明の利器は存在しないので、結果的に――――

「……あづいよー、士郎」
「暑いです、先輩」
「…暑いわね、士郎」
「暑いですね、シロウ」
「……俺か、俺のせいか? 俺がなんとかしなきゃいけないのか?」
 
――――衛宮家全員で居間に寝そべりながら、不平不満を垂らすことになる、と。
ちなみに、不平の順番としては、タイガ、サクラ、リン、私となっている。
シロウは男であるからともかくとして、Tシャツ一枚やらハーフパンツやらで寝転がっているものだから、あまり関心できたものではないと思う。 あの大和撫子のように慎ましやかな桜でさえ、足をだらっと崩して壁によりかかっているのだから、他の面子の崩れようは――――いや、筆舌に尽くしがたいとだけ。 シロウはシロウで――まぁ、気恥ずかしいのだろうけど――家の中ではなく窓の外を見てやっぱりへたばっている。
我慢という精神面ではこの家でも郡を抜いている彼がそれほどなのだから、その暑さは押して知るべきだ。
流石に私はそのようなことはできないので、いつもの服で正座をしているけれど、流石にタイツは履いていない。
 

――――でも、この際だから、はっきりいおう。
暑い。
すっごく暑い。
南国もかくやというほどに暑い。
もうでろでろに溶けて無くなってしまいたいくらい、暑い。


今年の冬木は、全国でも記録的な猛暑だという。どこかの地方で記録した四十何度という日本最高記録に並ぶか、超えるかといったほどらしい。
ふと、聖杯戦争の残滓かという考えが脳裏をよぎるが、充満した魔力が温暖化に繋がるなんて話は聞いたことがない。 英霊の知識といっても森羅万象全ての理を知ってるわけではないので、当然といえば当然なのだが。 今度リン辺りにでも聞いてみようか。おそらく今の状態では、まともな回答は帰ってこないだろうから、いつか。

…別にサクラでも構わないといえば構わないのだが、できるだけ彼女にその話題は避けたい。

聖杯戦争の終焉と共に明らかになった間桐一族の真実。その後のことは――――様々なことがあった、とだけ言っておこう。
シンジの懺悔、マキリ臓弦との対決、リンとサクラのこじれた感情、既に呪いの域にまで達していた蟲とサクラの関係。
これらを語るには時間が足りず、第一に当事者でもない私が語るべきことではない。

なんにしろ、ようやく――――衛宮家は本来の在るべき姿を取り戻したのだ。

そして私も、未だにリンのサーヴァントとして現界し続けている。表向きは今までどおり、キリツグの客人として、衛宮邸に居候したまま。
朝昼晩には衛宮邸でシロウの大変美味しい食事を頂き、昼にはリンの屋敷で不在の主に代わり魔術関係の手伝いをする。
といっても、私は魔術師ではないのでそれほど知識もなく。
直接的に手伝えることなど少ないので、片付けの得意ではないリンに代わり、書庫整理や屋敷の掃除などが主な仕事になるのだけれど。
だが、物置を兼ねてあったもうひとつの地下室に、獅子のヌイグルミが無造作に捨て置かれていたのには驚いた。 何故だかデフォルメされているその獅子は、その、こう、ぎゅぅぅっと抱きしめたり、思わず熱烈に頬擦りしたくなるほど可愛らしいものであって。
……その、実を言うと。
とても気に入ってたりしていなくもなかったり、だったり。

「…う」
「…どうかした、セイバー」
「い、いえ、なんでもありません、リン」
「…あ、そう」

――なにはともあれ、一仕事終えた後に、リンの嗜好で集められた茶葉を少々失敬して入れた紅茶を嗜みながらの昼食は最高だ。

静かに時を刻む振り子時計の音。
紅茶をカップに注ぐ際の穏やかな水音。
素人目に見ても立派な、歴史を重ねた調度品の数々とリビング。
――――シロウとサクラが私のためだけに拵えてくれる、特製の洋食弁当。

…美味しい。
――――ゴホンゴホン。それは、ともかくとして。 視覚、聴覚、嗅覚、そして味覚が歓喜し起こる四重奏カルテットが奏でる、名状しがたいほど落ち着いた気分。
衛宮邸の騒がしさもいいが、こういう寂幕とした雰囲気も捨てがたいものだ。
こんな生活の中にいると、つくづく私は幸せなんだと実感してしまう。
…でも。
不意に恐ろしくなることがある。

――――この幸せは、いったいいつまで続くのだろうか。
――――私は、本当に、こんな幸せの中にいてもいいのだろうか――――その悩みは絶えず私の心に影を落とす。
そして。

『……ふん、間違えているか。
 それはこちらの台詞だセイバー。
 君こそ、いつまで間違った望みを抱いている』

――――王としての責務の完遂を求めた私を否定した、あの赤い騎士の言葉が、答えを得ねば消えぬ呪詛となって頭から離れない。


「…あづいよー、あづいよー、あづいんだよー、シロウー」

「…そうか。そりゃよかったなぁ、藤ねぇ」
「うぅ、シロウがグレた…」

――っ、それはともかくとして。

…そういえば。シロウとサクラが共同作業で拵えた昼食のそうめんは大変美味だった。つゆは僅かに酸味を含んでおり、減退する食欲を大いに奮い立たせくれる。
なんでも、梅干というこの国伝統の漬け物を、種を取って濾したものを麺つゆに溶かし込んだのだという。
料理の腕もさることながら、そこまで気が回る二人の清い心にいまさらながら感嘆を禁じえない。
……まぁ、その、全体的に量が少なかったのは、不満といえば不満だけれども。

「……そうだ!」

何か思い当たったのか。会心の笑みを浮かべてがばちょっと起き上がるタイガ。
さきほどまで「あついよー」を連呼するだけの虎型テープレコーダーとはは思えない元気っぷりに、胡乱げな目を浮かべる私含めその他二人。
しかし、その視線に怯むことなく、

「ねー士郎。海いかない?」

なんて、魅惑溢れる提案を口にした。

「海ですか?」
「お、セイバーちゃん興味津々って顔だね。そうだよ、海。青い青い夏の海だよぅ」
「……海はいいが。でも、藤ねぇ。ウチの家計にはそんな遊ぶ金なんかこれっぽちもないってことは知ってるだろ?」
「んー、お金なら大丈夫よ。おねぇちゃんに任せなさい、学生さんとは違って社会人だからねー」

どーんとこい、と胸を叩くジェスチャーをするタイガ。

「ライガ爺さんにか? ただでさえお世話になってるんだから、あんまり頼りたくないんだけどな」
「そんなの気にしなくていいよ。私が士郎の家族なのと同じで、士郎はウチの家族でもあるんだからね。それに、お爺様なら多少の無理でも笑って許してくれるし」
「……まぁ、確かにそうだけど」

勿論桜ちゃんと遠坂さんもね、と付け加える辺り、やはり彼女は優しい人だと思う。
伊達にキリツグがこの世を去ってから、士郎を支え続けたのではないということか。私はもちろんのこと、桜や凛でも未だ持ち得ない――母性とでもいうのでしょうか。

「ということで、藤村先生。私とサクラも同伴しますので」
「でも姉さん。私、水着なんて持ってませんよ?」
「んー、私もなんだけど……大丈夫ですよね、先生?」

にぱーという擬音が似合う感じの笑みを凛は浮かべる。
…いけない、あれは邪悪なことを考えている笑みだ。

「うんうん、大丈夫よー、どのみち会計は全部お爺様に回すから。じゃあ今すぐおもいっきり高いの買いにいこー」

って、タイガも何故そんな笑みを――――!?
…………マズイ、これはマズイ。心としての理性ではなく、体本来の本能が早く逃げろと警鐘を鳴らしている。
やる気まんまんなサクラ、タイガ、リンの環から離れようと、音を立てずに抜き足差し足と退却を敢行する。
が、しかし。

「何やってんのよセイバー。ほら、アンタも行くの」

――シロウとシロウの見せてくれたアニメ曰く。やはりあかいあくまは、やはり感知範囲すらも三倍だったらしい。
首下の襟をがしっとホールドしたリンは、

「で、ですが、ちょ、ちょっと待ってくださいリン…! 確かに海には興味がありますが、水着というのは些か早計では――――!」
「行くったら行くの。士郎の度肝を抜くほど、いい水着買うんだから。……こら、そこの朴念仁! アンタも行くのよ!」
「お、俺もか――――!?」

私と同様に退避しようとしていたシロウの首下の襟を、また私と同じくがしっとホールドするリン。

ふふふふ、逃がしませんことよ、お二人さん?」

ぞぞっ、と走った背中の悪寒に思わず、同じ表情をしていたシロウと視線が合い、共に嘆息せざるをえない今日この頃。





――――私は、選ぶマスターを間違えたのでしょうか。



















‡‡ 当日、某海水浴場 ‡‡


















新都の駅から何駅か後の海岸に近い駅。
そこから徒歩で数分のこの海水浴場に付いた途端、だるいよぅ、などと沈んでいたタイガもいつもの調子を取り直し、生来のムードメーカーの役割を取り戻した。
えぇ、確かにそこまではよかった。道中もにぎやかなまま、みんなでわいわいと騒ぎながらこれました。
なのに。
何故。

「……」

手にした棒に力を込め、五感を順に追っていく。
まず、視覚は暗幕に閉ざされているので論外。ついで嗅覚は夏の暑い大気を肺に送り込むだけで、これも使い物にはならない。
味覚…これも論外。物体を探し当たるのに、何故味覚が必要となる。味覚は、シロウやサクラ、リンの手料理を頂くときだけで十分だ。 彼らの料理は素晴らしい。何が素晴らしいって、あそこまで心を込めて丁寧に調理できることこそが素晴らしい。タイガは……いや、忘れよう。 うん、そのほうが身の為だろう。まったく、キャメロットの給仕達も彼ら(タイガをのぞき)を見習って欲しいものだ――――っと、思考が逸れたらしい。 頭を振って思考を切り替え、全身の触覚を一気に張り巡らせる。
海辺の温暖な大気の感触が濃厚になると同時に、自分の身に無数の視線が突き刺さっているのが――っ、うぅ。 そんなに大勢で見られると恥ずかしいのですが……えぇい、こうなれば早めに終わらせるしか!

「セイバーちゃんがんばれー、お姉ちゃんも応援してるよぅ」

ありがとう、タイガ。
でも、全ての元凶たる貴方に応援されても、私は全く嬉しくないのですが。
ついでですが……その、ポコポンポコポン叩いている虎メガホンはセンスが悪いかと。
何故にタイ○ース。
やはり、頼るべきは己の直感ということか。ならば、と弛みかける感情を振り切って思考を巡らす。 まず、物体がそこに存在する限り、空気の流れは必ずどこかで歪みが生じる。それほど遠くないところにある筈だから、探り当てるだけならば難しくはない。 魔力の供給は十分ではないといえど、この身とて英霊の末座。その程度の技量ならば持ち合わせている。

「セイバーちゃんふぁいとー。ろっこーおろーしにーさーっそうとぉー」

タイガ、お願いですからその気の抜ける応援はやめてください。それに、いい大人が六○下ろしというのもどうかと思う。
あぁもう、とにかく――――見つけた。ここから右に半歩、前に五歩。
敵と対しているかのように一歩一歩、重心が常に体の中心にあるように留意する。足場は柔らかい砂で不安定。騎士たるもの、いつ何時でも油断することなかれ。
…そう、それが例え、罰ゲームに等しい見世物遊戯でも。
一度やると決めた以上は、退けないものなのだから。

「いいわよセイバー、どーんとやっちゃってー、どーんと!」
 
リンまで……。
えぇい、こうなれば。もう、どうとでもなれ!
構えを下段から最上段へ。
流れるような動きで振り上げられた棒、もとい木刀は、半ばヤケクソ気味な私の心情を無視して、神速となってそこに”在るべき”物体に向かって一直線――――!

「…お見事!」
「すごい! セイバーさん、ほんとに当てましたよ!!」
「むむむ、私より太刀筋はいいし早いよ。お姉ちゃんちょっとショックー」

目隠しを取って、リン、サクラ、タイガからの賞賛に手を振ることで答え、改めて私が砕いたものに目をやる。
パカリと割れた分厚い深緑の皮に、赤い果肉。割れ目から滴る、赤く半透明な果汁はその下に敷いてあるシートを僅かに濡らしていた。
紛れもなく、スイカ。
素人がよくやるような中途半端な割れ方ではなく、ちゃんと最後まで綺麗に割れているところを見る限り、とりあえずは成功だった様子。

「…上出来でしょうか」
「十二分にね。士郎ー、包丁一本もってきてー!」
 
ご苦労様、と私の肩を叩くリン。
その白皙の美肌と鮮烈なルビーレッドの水着のコントラストは絶妙だ。攻撃的な美貌とでも形容しようか。 一応、曲がりなりにも女である私から見ても魅力的であるのだから、周囲の客たちの視線の半分が彼女に集まっているのも納得できる。 なんて言ってる間にも何人かの男たちが彼女に声をかけては玉砕していた。
対して私はといえば……水色の下地に白いラインで所々を模様付けされた水着に、貧相な膨らみ。対してリンはといえば――――うらやましくなんかないのです!
そう、私は女の子である前に騎士。
む、む、む、胸などあってもなくてもよいのです! 

「どうしたの、セイバー。溜息ついたり顔青くしたり赤くしたりして」
「なんでもありません!」

そ、そう、ならいいんだけど、とリンが退くのを無視して、気分転換を兼ねて私は改めて周囲を見渡す。
それなりに透明な海。
真綿のように白い雲。
燦燦と照りつける太陽。
そして――――人、人、人。
やはり記録的な猛暑ということもあってか、海は多くの観光客で賑わっていた。
私に向けられたものではない――いや、極少数はあるようだけれど、こちらの周囲に向けられた纏わり付くような視線にどことなく居心地の悪さを覚えて、僅かに肩を竦める。
対して凛は泰然としたものだ。飄々としているというか、全く自然体だというか。
そんな態度もここまで来るとこの視線に慣れているとしか思えない。
 
「…よっ、と」

しゃがみ込んでザクッ、ザクッと二つに割れたスイカを更に勢いよく断つ士郎の手捌きを、サクラは横で眺めている。
となると、否応なく胸元が強調されるわけで。白を基調として桜の花びらをあしらった水着が、彼女の持つ穏やかな雰囲気と相まって大和撫子のような美しさを引き立てている。
そして、姉よりも大きいふくよかな――――ぜ、全然うらやましくなんかないのです!

「……先輩。そんな豪快にきっちゃっていいんですか?」
「む、そういわれると大きすぎるような気もする……でも、大丈夫だろ。藤ねぇやセイバーは勿論のこと、桜だってこれくらいならなんとかいけるんじゃないか?」
「え、あ、はい。そのくらいなら、なんとか」

こころもち顔を赤らめながら、何故か二度三度頷くサクラ。自己犠牲の強い彼女のことだから、多少無理なことでも頷いてしまうのだろう。
……無理をするくらいなら私に分けてくればいいのに。

「セイバーさん?」
「は、はい!? ど、ど、どどど、どうかしま、し、したかサクラ?」
「え、いや、あのですね、セイバーさんがじーっと私とスイカを見比べていたのでどうしたのかなーと」
 
……はぁ、驚きました。思わず口にしていたのかと――――

「…なぁ、セイバー。その、二個食いはできないからな。一人一個、これが原則だ」

「そ、それは、シロウ――――」

「セイバー、おーい、おいおーい、セイバー……スイカ、食べなくてもいいのか?」
「…っ、食べます。えぇ、食べますとも」
 
自分でも驚くぐらい冷たい声で答えた後、中ばひったくるようにシロウの手からスイカを奪う。そのまま口へ。口のまわりに汁や種が付くなんて気にしない。 えぇ、皆の驚きの視線など無視です。猛スピードで水柱を上げながら泳ぎまくるタイガの姿なんて私は見ていません。えぇ、見てないといったら見ていない。
全く、なんでこんなことになったのか――――。











































……とかなんとかいいつつ。



「ん……それっ」
「えいっ――――姉さん、行きました…!」

――――今度はビーチバレーなんかやっている私は、やっぱり救いがたいのだなと思う。
…以前リンが言っていた言葉…「染まってきてるわねー」、というのは、やはり真実なのでしょうか。
夏の強い陽光を受け、七色に染色されたビーチボールは青空に良く映える。 普通ならば追いつくことすら難しい軌道の玉を、サクラは横っ飛びすることでなんとかレシーブすることができた。 綺麗に浮き上がる玉。くっ、と僅かに歯噛みする隣のシロウを見やっている暇などなく。

「任せなさい――!」

リンは、即座に呼応し、強烈なスパイクを放つ。遠い。逆方向のシロウでは追いつかない。否、私でもこの距離を一足で詰めるのは骨が折れる。
だが、この身とて英霊。こんな遊戯如きで、一流の魔術師とはいえ唯の人に負けるわけには――――!

「…ッ!」

砂の上を滑るように横に飛び、なんとかレシーブ。だが強烈なスパイクに、不完全なレシーブが悪かったのか。ボールはおかしな回転をし、不完全な空中停滞を続けている。
あれではタイミングもとりづらければ、打つこともままならないだろう。だが、ここはシロウを信じるしかない。

「――――ッ、シロウ。頼みました!!」
「任せろ!」

即座にシロウは呼応。魔力で身体能力を水増ししていない状態ならば、シロウの身体能力は決してリンにも劣らない。
不安定な砂の足場もなんのその。大きく跳躍した彼はそのまま落ちてくる玉を打つため振りかぶる。対して、スパイクを予想したリンとサクラは素早くレシーブの体勢に入った。
えぇ、いい反応です。二人とも。しかし。シロウは、そのままの体勢で落ちてきた。

「え――」
「そんな――」

それはどちらがリンで、どちらがサクラの呟きだったか。
そう、シロウははじめから打つ気などなかった。
本命は、素早く立ち上がり大きくジャンプ。落下体勢にあるシロウと入れ替わるようにスパイクフォームをとっている、

「――――私ですっ!」

そのまま、渾身の力でボールを叩きつける。
この場合、わざと遅く叩いてやるのも有効打ではあるが、サクラはともかくリンは思考の切り替えが早いので十二分に反応してくる可能性がある。
ならば。全速全力の速球を叩き込んだほうが、確実に点はとれる。

「――っ!」

ちょうど二人の中間、それもジャンプしなければ届かない位置を狙ったスパイクは、なんとか反応した二人の伸ばした手の上を越えて砂浜を強かに叩く。
バウンドし、虹色に反射する陽光を貼り付けたボールと乾いた砂塵の帯が、この熱いゲームの幕を引くかのように大きく宙に舞った。

「ゲームセット! ウィナー、士郎&セイバー組!」

何故か監視台に上りサンバイザーをつけた審判役のタイガが、勝敗を告げる。

ええ、その――――あえて口にはしませんが、揺れること揺れること。きわどい珠をレシーブにかかって横っ飛びすれば上下に、
特にサクラ。何か私に恨みでもあるのですか。

「む、納得できません! なんでいきなりどこかのテニスマンガみたいなコンビネーションが打ち合わせもなしに出来るんですか! 息ピッタリじゃないですか!」
「そうよ! だいたい、なんで素人でも身体能力がバカみたいなセイバーと、練達者で運動神経のいい士郎がペアなのよ!! 息ピッタリじゃないの!」

なるほど、リンもサクラも最初から突っ込むポイントがずれていたのですか。
さもありなん、と頷く私をよそに、シロウが、む、と反論をする。

「む。勝ちは勝ちだろ。負けてから文句言うのってかなりみっともないと思うんだが、二人とも。それにペア決めは公正なくじ引きで決められただろ」
「シロウの言うとおりです二人とも。敗将は戦を語るべからずというではありませんか」
「う」

それきり、ピタリと黙り込む二人。ふむ、往生際がいいのはよきことです。
なのに。

「――――――よしわかった。ここはひとつ、みんなで遠泳の勝負でどう?」

何故、貴方はそう炊きつけようとするのですかタイガ……!
案の定、救いを得たとばかりに表情が明るくなっていく二人。

「やりますやります! 」
「名案ですわ藤村先生。さすが、自称衛宮君の大切なお姉さまを誇るだけはありますわね、ふふふふふふふふふ」

比喩ではなく飛び上がって喜ぶサクラと、完全に猫かぶりモードでたおやかに笑むリン。
…怖い。しかし、それに気付くことなく、そんなに褒められるとおねぇちゃん照れちゃうよぅ、と照れるのはタイガ。
いや、多分、本音では二人とも褒めていないと思いますが。

「さー! みんなで準備体操! あーたらーっしぃあーさがきった! きぼーのーあーさーだ! よーろこーびにむねをひーらけ、あーおーぞらあーおーげー!」

周囲の奇異な視線もなんのその。夏休み毎朝恒例(らしい)ラジオ体操をおっぱじめてやがりますこの人を誰かどうにかしてください。

「はは、ははは、はは…」

唯一の頼みのシロウも、どんどん壊れて暴走してゆく事態にたじたじ、といった風に諦めの笑い声を立てるばかり。

これは諦めるしかない――――。



















‡‡    二時間後、深海旅館旧館2F団体用室名”虎の間”     ‡‡



















その後、『シロウを求むるものよ集え! ヴァルハラの果てまで遠泳バトルロワイアル』(命名・タイガ)に付き合わされた私たちは、全員へろへろになって近くの旅館へと足を運んだ。
勝敗を告げるのは……無粋というものだろう。うん、そうに違いない。

広々とした団体用の個室は、襖によって入り口側のテーブルのある部屋と、奥の眠る部屋の二つに分かれている。
しかし、どこか衛宮邸と似た雰囲気を持っているのは私の気のせいなのだろうか。いや、あーぱーのようで実は気のつくタイガのことだから、おそらく意図的なものに違いない。
襖に描かれた流麗な虎の絵、そしてこの「虎の間」という室名からして、まず間違いない。
といっても不快な類の気遣いではないので、みんな通された広い団体用個室をそれこそ自宅のようにくつろいでいる。
その部屋の中心。漆塗りの円卓のにドドンと置かれているのは、俗に言うスキヤキ鍋。
食い扶持が五人に対して異様に具の量が多く鍋が大きいのは、他の料理を断った代わりに、ということらしい。
鍋奉行は何故かタイガ。皆の反対を押し切ってその座についた彼女はといえば、

「ああっはっはっはっははーーー! お酒っておいしいねぇ、シロウ? あはっはっはっはー!!」 

現在進行形で、日本酒を徳利から流し込んでいた。
もはや暴飲を超えて鯨飲。否、虎飲というべきか。白濁色の名酒は虎の咥内へと流れては無限に連なる胃袋へと消える。

「…おい、藤ねぇ。あんま飲みすぎるなよ。二日酔いだーって騒いで迷惑かかるの俺たちなんだからな」
「だいじょーぶだいじょーぶ。おねぇちゃんに任せなさーい!」

はっはっはっはっはっはー、と大きな笑声を上げる彼女に、全員がすごく不安そうな視線を向けた。
お酒が入ると笑い上戸になる人がいると訊きましたが……まさか、これほど身近に例があるとは。
新たに露見した真実に私が戦慄していると、もうへろへろといった感じのリンがこそっと私に耳打ちする。

「…ねぇ、セイバー。藤村先生って昔からああだったのかしら」
「…確か、シロウがいうには昔は大人しくて恥じらいのある女性だったと。どこで捻じ曲がったのかは知りませんが――――」
「……どこをどう捻じ曲がったらあんなのになるのか」
「……(コクコク)」

はぁ、と手を額に当てて嘆息するリンに無言で首肯する。
ちなみに、全員がおそろいの白地に紺の水玉模様の浴衣を着ており、ともするとはだけて地肌が見えないこともない。
しかし、とりあえずは何事も起きなさそうなので、私は食事に専念すると致しましょう。

「むむ。このスキヤキというのは大変美味ですね。以前シロウが作ったカニスキとは違って――ふむふむ」

いい具合に火が通った肉と豆腐をお椀にとり、卵を絡めて食べる。
ふむ、ふむふむふむ。
ちょっと私には卵の味が強い気もしますが、これは、なかなか箸が進みます。というか止まらない止められない。

「まぁ、同系統の料理ではあるからな。でも、なんで海辺の宿で海鮮鍋じゃないのかが不思議なんだけど…」
「ここのオーナーさんが大きな酪農家団体さんなんだそうです。
 それで、最近は狂牛病だなんだで市場ではあまり売れないから、こうやって旅館で使ってるんだってさっき女将さんが言ってました」

む、それはあまりいただけない理由です。曲りなりにも人にサービスを売る立場でありながら、客にそんなコトで海鮮料理を諦めてもらうとは。
――――でも、まぁ。結構、いや、かなり美味しいので。

「…別に美味しいからいいわよ」

同意です、リン。

「だが、俺から言わせるとまだまだだな。卵がいいわりには、食材のバランスが悪いし、ちょっと肉が硬くてクセが強い。多分どれも上等じゃあないな。最初に焼いた肉はかなり上等だったけど……肉は焼く前に酒を少し振って、よく揉み込んでおくと柔らかくなってうまいのに……む、だしはいい。甘すぎず辛すぎず、いい塩梅だ。入ってるのは…砂糖、醤油、昆布だしに油っぽいのはラード、だな。だが決めては日本酒だろう。砂糖抑えて甘めの日本酒を多めに。しかし、それで酒臭くないのは…ほかに何かあるのか?」

うーん、と唸って考えこむシロウ。さすが、持ち前の解析力は目でだけではなく舌もなのですね。
…貧乏主夫根性ともいえますが。
そんなこんなで鍋も残り少しとなったところで、こんこんと誰かが襖をノックする音が聞こえた。
失礼します、と断りをいれて入ってきたのは、美しい和服の女性だった。
おそらく仲居さん、と呼ばれる給仕の一人なのだろう。彼女は私たちの様子を眺めてにこやかに笑った。

「おやおや、賑やかですねぇ。はい、お待ちどうさまでした、ご注文の大吟醸・虎徹の一升瓶二本、お持ちしました」

ごとん、と置かれたいかにも重そうな一升瓶を見て、タイガの目が怪しく光る。

「藤ねぇ、まさか瓶ごと頼んだのか?」

む、と眉を潜めるシロウの視線も言葉もなんのその。
異常なハイテンションで浮き立つ心は、既に目の前の瓶へと向けられていた。

「おぉ! 来たよ来たよ来ましたよぅ、ささ、女将さん。早速ついでおくんない。ほら、サクラちゃーんも」
「え、あの、先生。私、未成年なんですけど…」
「だーじょーぶ、だーじょーぶ。すこしくらいならぜーーんぜんだーじょーぶ。ねぇ、なかいさん?」
「はあい、少しであれば、問題ないかと」

…凄い。あのタイガ専用言語を難なく翻訳するとは。
この女性、只者ではない。というか、サービス業に従事する者がそのようないい加減なことを言っていいものか。
いやしかし最近は不景気だしそのようなこともいってられないのだろうならばここはスルーいややはりさりげなく忠告するのが消費者の義務というものではないか――――むむむ。
などとしばらく真面目に思考していると、いつのまにやら仲居さんは去っており、ふとタイガとサクラが妖しい目つきでこっちを見ていることに気付いた。
にんまり、というか。
こう、猫みたいな目つきでキュピーン、と。
ぶるっと嫌な予感に身を震わせると、二人は風のように私の両脇に座った。
すると、いきなりタイガは右手に空き瓶、左手に口の空いた一升瓶を持って私の頭をホールドした――って、えぇぇぇ!?

「な、なにをするのですタイガ…!?」
「だいじょーぶ、ちょぉっとだけ苦しいかもしんないけど気持ちよくしてあげるからー」
「そーですよー、おさけってすごーくおいしーんですからねー」

というか、いつのまに酔わせられたのですかサクラ――――!?

「さぁセイバーちゃんもごくごくイクーごくごくー!!」
「そうれすよー、これはよっぱらったもんがちなのですーせいばーたーん」
「は!? タ、タイガ、サクラ、ちょ、ちょっとま……」

右手の一升瓶を放り出しタイガは無理やり私の頭を抱え込むようにロック、サクラがそれに抗おうとする手足を抱きつくことでまとめて縛り付ける。
……う、やっぱり大きい。
背中から伝わってくる豊かな感触に思わず劣等感を抱く。しかし、すぐにそれは無理やり口の中に入れられた液体の感触によってとって代わられた。
なんというか、甘い。
ついでに言えば美味しい。
更にいえばなんだか体が熱病に浮かされたかのようにぼーっと――――

「お、おい、セイバー? ふ、藤ねぇ、桜! それ一体アルコール度どれくらいだ!?」
「えーっとですねー、だいじょ−ぶですよー、四十度ちょっとくらいですからー」
「大丈夫じゃないだろ、それは……ウィスキー並だぞ、どんな日本酒だよ、つーかそれほんとに日本酒か?」

いかにも呆れた、という風なシロウの声が遠い。

「……だからさ、やっぱ自分でも危ないなーっておもったワケ。でも一度決めたこと覆すのって屈辱じゃない? 
 でね……士郎もさぁ、もっと正直になればいいんじゃないかって……聞いてる? だからね……」

独りでぶつくさ呟いているリンの姿が霞む。

「あらー、やっぱりセイバーちゃんったらよいがまわるのはやいんだーよわいんだねーおさけ」
「うふふ、おもったとーりでしたねーせんせー」
「だねーだねー、ほらさくらちゃんいっぱいいかがー?」
「ありがとーございますぅー、いただきまーすー」
「これ以上はやめろ二人とも!」

既に目と語尾が危険なくらいに浮ついている二人。
はっきりいって、怖い。
なんというか、不気味。

「う……」

……マズイ、頭がボーってしてきました。
暴走するサクラとタイガを必死で止めるシロウに、やはり酔って夢見心地のリン達の姿がぼやけて見えます。
これは、少し、外に出て、頭を冷やさないと――――























‡‡ 十分後、深海旅館新館2F共用テラス ‡‡ 






















夜空を見上げると、そこには満月。遠くに見えるポートタワーの強い光とは対照的に、手を伸ばせば触ることすらできそうな月は、柔らかな光を放っている。

「ふぅ……」

アルミ製の手摺に体を預け、火照った頬を夜風に晒す。少し強めに吹く潮風が髪をなびかせるが、今はそれも気にならない。
珍しいことに、この旅館には立派な洋風のテラスがある。
和洋折衷、というより旧館が和式建築で新館が洋式建築になっているらしいので、おかしくないといえばおかしくはないのだけれど。

「…?」

ふと、誰かの気配を感じてドアの方向に振り返る。黒い影。誰ですか、と問おうと思った矢先に、

「セイバー」
「――士郎?」

訊き慣れた声で、名を呼ばれた。ギィっという音を立ててドアが開くと、そこには両手にアルミ缶を持った士郎が居た。

「ほい」
「…っと」

投げられた缶を受け取る。烏龍茶と大きく書かれたこげ茶色のそれはとても冷えており、アルコールによって温まった体を程よく冷ましてくれそうだった。
これは、と目線だけで問う。

「酔い覚ましには丁度いいかと思ったんだけど、いらなかったか?」
「いえ、そんなことは。有難く頂きます」

プルタブを引き上げて、僅かに口をつけるとさわやかな苦味が口に広がり、アルコールと肉脂のしつこい後味を消し去ってくれる。
シロウは何も言わず、ただ夜の海を見据えていた。
ふと私は、すらりと着流した浴衣の奥、シロウの体に目が吸い寄せられた。以前からいい体格だとは思っていたけれど、ここ最近はそれが顕著に現れてきた。
私の身長では見上げねばならないほどの上背と、引き締まった筋肉に程よく焼けた肌。
それに、元々のあどけなさが薄れ、大人の男性としての凛々しさが増しつつある顔立ちは、誰が見てもそれなりに「いい男」という評価を下すだろう。

「……」

なんだか気恥ずかしくなって、思わず視線をそらす。

「セイバー、今日はどうだった?」
「今日、ですか……えぇ。凄い、一日でした」

凄い。ただ一言、凄いとしか言いようのない一日だった。
ゆっくりと、順を追って思い返してみる。

「――――みんなで新都まで買い物に行って。
 タイガが嫌がるシロウを無理やり女性モノ水着売り場まで連れてきて。
 無理やり自分のを選ばせた後、今度は私のもを選ばせて。シロウが大いに焦って。
 勢いでみんなが衛宮邸でお泊り会をすることになって。
 夜には女だけのトークタイムを設けられて。騒いで。
 美味しいシロウの朝食をいつもどおりタイガと一緒に食べて、後から来たサクラやリンと共にシンジから見送られ海へと向かって。
 電車の中では何故かみんなでトランプというカードゲームをして、経験のない私は当然のごとく負けて。
 スイカ割りをして、ビーチバレーをして、美味しいモノを食べて、お酒を飲まされて、ここにいて――――――」

思わず頬が緩む。一生は既に終わってしまったものの、これから先、永遠に忘れないであろう夏の記憶。
それは、やはり。

「楽しかったか?」
「――――ええ、大変、楽しかったです」

この一言に、尽きるのではないか。

「――そうか。それは、よかった」

そういって、シロウは子供のように破顔した。

「あとさ、その、以外だった。セイバーが、体重とかの話をして焦ったりするなんて」
「あ、当たり前ではないですか、シロウ。私は、これでも女です。その、――――胸とか体重とか気になることだって、ある」

少し赤くなった頬を隠すために、私は手摺に乗せた腕の中に顔を埋める。
そう、騎士としては恥ずべきことだが、私とて女。着飾りたいとは思わないが、人に醜いとかいわれるのは流石に傷つく。
そんな私の内心を読んだのか、シロウは。




「あー、でも、その、なんだ。……綺麗だったぞ、セイバー」




――突然の言葉に、思わず心が思考を放棄するのがわかった。
…綺麗?
…誰が?
…私が?
…綺麗?
…そんなばかな。そんなことがあるわけないでもシロウは気恥ずかしそうに綺麗だったぞセイバーって口にしたけれどええええええーー!?

「………………は!? シ、シロウ、今、なんと!?」
「だからっ、……その、今日は、綺麗だったぞ、って」

自分でもますます顔に血が上っていくのがわかった。今の私は、それこそ熟れたリンゴよりも赤い顔をしているだろう。
シロウはそんな私が珍しいのか、相好を崩して私を楽しそうに眺めている。
その姿が、やはり何処かあの赤い騎士に似ていた。
……もう少し皮肉さが増せば、ホントにあのような性格になるような気がします。
増大していく不満と共に何故かちょっと膨らむ頬に驚きつつ、ただ黙って星を眺める。
……そういえば、確かこの国にはそんな歌があったような。
真偽のほどをシロウに訊こうと口を開いた、そのとき。

「――――シロウ!」

そんな声が、静寂を破った。振り返ればそこにはズンズンと三倍のスピードでこちらに進軍してくるあかいあくまが。
いや、比喩ではない。いつもならば白皙の肖像のように白い頬も、今日に限っては熟れた林檎のように赤いのだし。
振り返った途端に、げ、と漏らすシロウに苦笑しつつ、私は歩みを進めた。

「おい、セイバー?」
「どうやらここからは恋人同士の時間のようです。邪魔者は退却いたしますので、どうぞ存分に睦み合って下さい」
「む、睦み合うって……」

背後で間違いなく赤面している筈のシロウを振り返ることなく歩いて、リンとすれ違う。
視線が、合った。
何か言いたそうなリンに心からの笑顔で会釈し、後数歩でドアだと思っていると、

「ねぇ、セイバー!」

少し遠く背後、リンが私を呼び止めた。その声に従って振り向くと、何故かリンは困ったようにあたふたしていた。
……おそらく、自分でも知らないうちに呼び止めていたのでしょうか。
酔いのせいではないだろう。彼女らしいといえば彼女らしい行動に、私は思わず苦笑する。
それを見ると、今度は驚いたような顔をして私の顔をまじまじと見るリン。
……む。私、何かおかしなことでもしたのでしょうか?

「あー、その……今、幸せ?」

一瞬、問いかけの意味がわからずに問い返そうとしたが、やめた。
多分、それはおそらく。先ほどのシロウとの会話と、同じことなんだろうと感じて。

「――ええ。貴方たちのおかげです、リン。やはり私は、貴方たちがマスターで本当によかった」

私は、迷わずそう答えていた。

「――――そう」

それだけ。たったそれだけのやりとり。
それっきりで会話は終わり、リンは颯爽と、しかしさっきとは違って何処か楽しそうに、訝し気な視線を向けるシロウの下へと歩いていく。
黙ってそれを眺めていると、不意に、夜空に一筋の光が奔った。

「…あ、流れ星」

一筋。
二筋。
三筋。
次々と現れては消える星の軌跡。
私は静かに目を閉じて、祈るように手を組む。
――星に願いを。彼と彼女、そしてそれを取り巻く温かな人々に、満腔の感謝と溢れんばかりの幸せを。

いつか、星を眺めた。
手の届かない遥か遠い星明かりと、叶う事のない歪んだ願いを。
共に残せる物など無く、故に、面影も記憶もいつかは消える。
けれど。
届かなくとも、胸に残る物はあるのではないだろうか。
手に残る物はないけれど、同じ時間にいて、同じものを見上げた。
共に過ごした時間。
それは決して無意味でも、無価値でもない。
それを覚えているのなら――遠く離れていても、共に有ると信じられるだろう。
なくなる物があるように、なくならない物だってあると頷ける。
だから、今は共に在る。
彼女と彼、私に幸せを教えてくれた二人と共に在るのならば。
それはいつか、何者にも代え難い、素晴らしい救いとなるだろう。


「……さて、そろそろ行かないと。タイガの暴走を止めるのは、どうやら私しかいないらしい」


じゃれあう二人の姿が微笑ましすぎて、思わず破顔する。
シロウの隣、先ほどは私がよりかかっていた手摺には、リンが今は身を預けている。
あれでいい。
完成された其の風景に、私が入る隙などない。
一抹の寂寥感は隠しようも無いが、あれこそが真に在るべき二人の”シアワセノカタチ”なのだから。
そう、未練なんて、きっとない。
もう一度だけ、恋人たちを祝福するかのように夜空を疾く奔る星を目に焼き付けて、私は旅館の中へと踵を返す。
幸福な日々が、これからも続くことを信じて。


最後に、どんどん近づく二人の横顔を視界に捉えながら、私はドアをそっと閉めた。