八月十日 晴れ
 お嬢様が御屋敷にお戻りになられた。お元気そうで何よりだ。明日は相沢様、川澄様と御三人でお出かけになられるとのこと。車での送り迎えは必要ないと仰られたのが、少し寂しい。しかし、お嬢様が成長なされている証拠でもあるのだから、喜ばしいことでもある。
 成長と言えば、最近のお嬢様は本当に素敵な笑顔を見せてくださる。これまでのような、無理をした「笑顔の仮面」ではなく、輝く「本当の笑顔」だ。取り戻してくださったのは相沢様と川澄様。ただ、私がそれを出来なかったのがとても悔しい。お嬢様の笑顔を取り戻して下さった御二人に対し、子供じみた嫉妬を感じている。
 全く、私もまだまだ未熟なものだ…

倉田家執事長 勝原の日記より




『倉田家執事長 勝原の日常』




1.八月十一日(水)


 「それでは行って参りますねー」
 お嬢様が此方に手を振りながら笑顔で仰られた。
 「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
 そんなお嬢様に向かって、私は深々とお辞儀をする。そして顔を上げ、お嬢様の両隣にいらっしゃる御二人に話しかけた。
 「相沢様、川澄様、お嬢様を宜しくお願い致します」
 私の言葉に対し、
 「…ん」
 川澄様は無表情に頷かれ、
 「わかりました」
 相沢様は笑顔で御返事なさった。そして三人仲良く並んで、駅の方へと歩いていかれた。
 「さて、私も仕事の方に…」
 「執事長さーん、旦那様がお呼びですー」
 戻ろうとした所でメイドの1人に呼び止められた。
 「わかりました。旦那様は執務室ですか?」
 「はいー、執務室ですー」
 「…そうですか。ご苦労様でした、貴女は御仕事に戻って下さい」
 「はーいー」
 執務室へ歩みを向けながら、密かにため息をつく。
 (あの方は確か新しく雇った方でしたか。随分のんびりした話し方でしたが…仕事の方は大丈夫なのでしょうか)
 少々不安を感じながらも、メイドの人事に関してはメイド長に任せているのだから、と割り切る。
 さて、旦那様の用事はどんなことでしょうか…


 「旦那様、勝原に御座います」
 執務室のドアをノックし、中に居る筈の旦那様に声をかける。すぐに旦那様が御返事なさった。
 「おお、来たか。入ってくれ」
 「失礼致します」
 ドアを開け、一声かけてから、執務室へと入る。旦那様は、淀みなく手元の書類を次々と捌いていらっしゃる。
 「呼んでおいてすまないが、少し待っていてくれ。すぐにこれを片付けてしまうのでな」
 書類から目を離すことなく、旦那様が仰った。
 「畏まりました。旦那様、御茶をお淹れ致しましょうか?」
 「あぁ、そうだな、頼もうか。お前の分も淹れておくといい。ゆっくり話をしたいのでな」
 「畏まりました」
 一旦執務室を出て、隣の給湯室へ入る。紅茶を用意し、トレイに載せて執務室へと戻る。
 「旦那様、お茶の用意が出来ました」
 「うむ、此方も一段落着いた。勝原も掛けなさい」
 「はい、失礼致します」
 デスクから応接用のソファに移った旦那様に、紅茶をお出しする。そして自分の分を用意してから、旦那様の向かい側に腰掛けた。
 「それで、お話というのは…?」
 旦那様が紅茶を一口お口にしたところで、此方から訊ねた。旦那様はもう一口、紅茶を含んでから、ゆっくりと応えられた。
 「うむ、話と言うのは他でもない。娘の…佐祐理のことだ」
 旦那様の目に強い光が燈る。このお顔…よほど重大な用件のようだ。自然、気が引き締まる。
 「佐祐理様が、如何なされました?」
 少々、声が強張っているのを感じる。だが大切な大切なお嬢様のことだ。いやがおうにも緊張が高まる。
 「…うむ。最近、佐祐理は…」
 ごくり、と。
 息を呑む。握り締めた掌に、汗が滲む。
 「佐祐理は…すっごく綺麗になったと思わんかね?もー、ママの若かった頃そっくりになっちゃって」
 「…は?」
 「いやー、そりゃ昔から可愛かったよ? それはもう産まれた時から。でも最近はとみに、それも、可愛いと言うよりも綺麗になってきたと思わないかい? 何と言うか少女から女性への変化、みたいなー?」
 「……」
 一気に気が抜けてしまった。
 全く、真面目な顔をしていらっしゃるから何事かと思えば。と、言うかもう旦那様も良いお年なのだから「みたいなー?」はどうかと…
 「ホントにもう、目に入れても痛くないって言うのは正にこの事だ、としみじみ感じてるのだよ。あぁ、佐祐理の父親で本当に良かった…!」
 …果たして旦那様はこんなお方だったであろうか? 顔は緩みに緩み、うっすらと頬を上気させた様は不気味ですらある。と、いうかはっきり言って不気味だ。
 「それで…それでだ」
 ふと。
 旦那様の声質が変わる。
 これまでの―主に対してこういう言い方はどうかとも思うのだが―親馬鹿丸出し、と言った声質から。
 冷たい、押し殺したような声へ。
 それは、話を始める時にお見せになったあの瞳の光と同じ温度。御仕事の時にお見せになる、触れれば斬れる様な、鋭さを伴った声。
 「最近、佐祐理の周りをうろつく男が居る様だが。よく、『恋する女は美しくなる』と言うではないか。まさか、佐祐理の…等という事はあるまいな?」
 総毛立ちそうなほどの迫力。私の前に居らっしゃるのは、娘に甘いただの父親では無く。紛れもなく、政財界の古強者達を相手に、一歩も引くことなく駆け抜けてきた、我が敬愛する旦那様だ。
 …ただ、このようなことでそんな姿を見せて頂きたくは無いものであるが。
 「クク…何処の馬の骨とも知れぬ奴に、可愛い可愛い佐祐理は相応しくないわ。そう思わんか、勝原?」
 旦那様のお気持ちは、私にも理解出来ない事はない。自惚れかも知れないが、私とて、佐祐理様を大事に思う気持ちは決して旦那様に引けを取らないと思っているのだから。しかし、相沢様は…
 「御言葉ですが、旦那様。相沢様は、素晴らしいお方です。旦那様もお気づきでしょう、最近のお嬢様の笑顔に。それを取り戻してくださったのが、他ならぬ相沢様と、佐祐理様のご親友でいらっしゃいます川澄様なのです」
 「…ふ、む」
 再び、旦那様の瞳の色が変わる。私の心の内を見透かすような、何処までも透き通った眼差し。
 「…少し、興味が出てきたな。その、相沢というのはどのような少年だ?」
 旦那様が尋ねられた。
 …相沢様はどのような人物か、ですか。
 「…一言で表すのは難しゅう御座いますね。掴み所の無い性格、と申しましょうか。行動の予測を付けづらい方です。…いつも、私どもの想像の斜め上を行かれる方ですので」
 多少の笑みを含みながら、言葉を紡ぐ。
 そして、相沢様の御人柄を思い浮かべながら、その特徴を挙げていく。
 「容姿に関しましては、そうですね、人並み以上かと。少々眼の鋭すぎる感はありますが、それも魅力と言えば魅力で御座いましょう」
 中性的な作りの顔に、無造作に伸びた前髪の下に覗く、切れ長の瞳。…目つきが悪く見えるのは、前髪のせいかもしれませんね。
 「普段の振る舞いは子供のようですが、それでいて人の心の機微に聡いお方です。ただ、どうやら恋愛関係に関してのみ、絶望的なまでに鈍感な模様ですが」
 子供のような、しかし人の心を察することに長けた、何処かアンバランスなその性格。それでいて乙女心、と言うものだけは察することが出来ずに、彼を慕う少女達に詰め寄られ、うろたえる様。
 少し、浮かべた笑みが深くなる。
 「運動能力に関しましても、お嬢様からお聞きする限りでは平均以上のようで御座います」
 以前、佐祐理様からお聞きした御話を思い出す。…学校の中庭で特訓していらっしゃったそうだが、何の特訓だったのであろうか?
疑問が浮かぶが、今は関係ないのでそれは押し殺しておく。
 「学業成績に関しましては、解りかねます。ただ、普段の言動等から鑑みるに、頭の回転は速いほうかと。偶にお見せになる突飛な発想などのことも考えますと、所謂天才タイプに近いものがあるのかもしれません。…何とやらと紙一重と申しますし」
 最後の一言は余計であったかもしれないが、正直な感想を述べる。
 「まぁ、総合的に判断しますと、決して『悪い虫』と言うことは無いかと思われます」
 「成る程、勝原が其処まで言うのであればそうなのであろうな…」
 そう言って旦那様は、私の話した内容を吟味していらっしゃるのであろうか、瞑目して沈思なされる。
 「…そうだな」
 暫くして目をお開きになった旦那様は、ゆるりとお言葉を紡ぎ始められた。
 「勝原、その相沢と言う少年、今度屋敷に招待しなさい」
 「…は」
 唐突な御言葉に、かなり間抜けな返答を返してしまった。
 「だから、相沢君とやらを屋敷に招こう、と言っているのだ。お前の言葉を信用しないわけではないが、やはり自分の目で確かめるのが一番だからな……その少年を呼べば、佐祐理も屋敷に居てくれるだろうし」
 「…旦那様」
 成る程、と納得しかけたところで、旦那様が情けないことを呟かれた。
 「だって、せっかく夏休みで屋敷に戻っていると言うのに、出かけてばかりじゃないかぁ…」
 「出かけてばかりと仰いましても…お嬢様は、昨日お戻りになられたばかりではないですか!」
 …思わず声を荒げてしまった。執事にあるまじき行いである、反省せねば。
 「む…しかしだね、やはり久しぶりに会ったのだから一緒に居たいと思うのが親心と言うものだろう?」
 「お気持ちはわかりますが…」
 けれど、それにしても少々行き過ぎだと思うのだが…むしろ逝き過ぎ?
いけない、妙な方向に思考が傾いてしまった。 「おほんッ。それはさておき、だ」
 旗色が悪くなった旦那様が、強引に話を切り替えようとなさる。
 「えぇい、そのような目で見るな! 私も少々取り乱したと反省しておるのだ」
 「…畏まりました。それで、御話の続きは?」
 姿勢を一度正して思考を切り替え、旦那様に尋ねる。
 「う、うむ。それで、だ。先ほど言ったとおり、相沢君を屋敷に招待したいのだが。佐祐理云々はともかくとして、お前の話を聞いてみて、直に会って見たくなったのも本当ではあるのだからな」
 「…畏まりました。日取りについては、如何致しますか?」
 「早い方が良いな…そうだな、明日、と言うのは急過ぎるであろうから、明後日、もしくは明々後日。時間は午後三時くらいでよいだろう」
 「はい。それでは、今晩にでも相沢様に連絡いたします」
 「うむ、任せた。空いていれば、で構わんからな」
 「はい、ではそのように」
 旦那様の言葉にそう答え、立ち上がる。
 「それでは私は仕事に戻りますが…」
 「あぁ、長々と話し込んでしまったな。うむ、では相沢君の件、頼んだ」
 「承知いたしました。それでは、失礼致します」
 旦那様に頭を下げてから、ティーセットを片付け、退室する。
 さて、お嬢様が御帰りになられたら、相沢様にお電話差し上げなくては。
 何分急な話だ。断られても致し方ないだろうが…出来ればお越し頂きたいものだ。
 そんなことを考えながら、私は仕事へと戻った。
 



2.八月十三日(金)
 

 自分の執務室で、今日の分の仕事を進める。
 メイド長から上がってきた業務報告書に目を通す。
 新規で雇ったあのメイドは、言動こそ間延びしているが、仕事そのものはソツ無くこなしているらしい。
 そのおかげでシフト的な問題も解決したようだ。何よりである。
 一通り書類に目を通し終わり、大きな問題が起きていないことを確認する。
 細かな部分では解決しなければいけないものも幾つかあるようだが、急を要するものは無いようだ。
 「さ、て…これで今日済ませておかねばならない仕事は終わりましたね。時間的にも、そろそろいい具合ですし…」
 現在の時刻は午後二時を過ぎたばかり。相沢様がいらっしゃるまで、あと一時間弱と言うことになる。一息ついてから、お迎えの準備に取り掛かるとしよう。


 時計の針が午後二時五十分を回った。準備もあらかた終わり、後は相沢様のご到着を待つばかりである。
 メイド長にお茶やお菓子の準備を頼み、私は正門へと向かうことにした。
 「あ、執事長さんー。何処かへお出かけですかー?」
 玄関を出たところで、新人のメイドに声をかけられた。
 「いえ、もうすぐお客様がいらっしゃいますので、そのお迎えに正門まで出るところですよ」
 「そーなんですかー」
 相も変わらず間延びした話し方だ。だが、よくよく見ていると、話している最中でも手際よく作業は進めている。
 (成る程、確かに優秀な方のようですね)
 「それでは、私はこれで。貴女も御仕事の方、頑張ってください」
 「はいー」
 そう言って、彼女と別れる。そして、再び正門に向けて歩き出した。
 正門に着き、辺りを軽く見回す。まだ相沢様はいらっしゃっていないようだ。
 正門の脇にある通用口から外に出て、相沢様をお待ちすることにする。
 程なくして、人影が見えた。相沢様だ。
 相沢様は、私の姿を認めると、此方へと駆けてこられる。
 「スイマセン、勝原さん。お待たせしちゃいましたか?」
 私の前まで来られた相沢様は、軽く息を整えてからそう仰られた。
 その言葉を快く思いながら、私も言葉を返す。
 「いえ、時間通りで御座います。それよりも、相沢様、ようこそおいで下さいました」
 深々と頭を下げる。相沢様が狼狽する気配を感じた。少し、楽しい。
 「さて、それでは此方へ。ご案内いたします」
 正門を開け、相沢様を招き入れる。
 そして、相沢様と並んで、歩き始めた。
 「あー、此方に御邪魔するの、久しぶりですけど…やっぱりでかいですねぇ」
 「ふふふ、左様で御座いますか?」
 「ええ。やっぱり掃除とか大変なんでしょうね…」
 相沢様の何処かずれた感想を聞いて、口元に笑みが浮かぶ。
 「そうで御座いますね。掃除はメイドたちに任せてありますが、やはり大変なようです」
 そんなことを話しながら、相沢様を応接室へと御通しする。
 「…あれ、応接室なんですか? 佐祐理さんの部屋じゃなくて」
 これまで相沢様がいらっしゃった時は、いつも直接お嬢様の御部屋にお通ししていた為、相沢様が訝しげに訪ねられた。
 その問いに対して、私は相沢様に席を勧めながら答える。
 「ええ。今日お呼び致しましたのは、旦那様が是非、相沢様にお会いしたい、とのことでしたので」
 「え゙…」
 私の言葉を聞いた相沢様の動きが止まる。お顔のほうも、かなり引きつっていらっしゃる。
 「だ、旦那様って…もしかしなくても、佐祐理さんの親父さん、ですか?」
 「はい。それでは旦那様をお呼びして参りますので、少々お待ちください」
 内線でお茶の用意をするように頼み、応接室を退出する。そして、旦那様の御部屋へと足を向けた。
 

 コンコン。
 「失礼致します」
 ノックをしてから、応接室の扉を開ける。
 「どうぞ」
 「うむ」
 まず、旦那様をお通ししてから、続いて自分も応接室へと入る。
 「あ、ど、どうも、本日は御招きいただきまして…」
 それとほぼ同時に相沢様が立ち上がり、旦那様に頭を下げる。
 「ああ、頭を上げて、どうぞ座って、寛いでくれたまえ」
 旦那様はそう仰り、御自分もソファに腰掛けられた。
 「勝原、相沢君におかわりを。それと私にも紅茶を用意してくれ」
 「畏まりました」
 旦那様のお言葉を受け、一旦応接室を辞する。
 そして、お茶とお菓子の用意をして再び応接室に戻った。
 「失礼致します」
 相沢様と旦那様にお茶とお菓子をお出しし、自分は旦那様の背後に控える。
 「さて、と…今日、君を招いた理由だが」
 お茶を口にして一息ついた旦那様が、そう話を切り出した。
 「実は、この勝原から君の話を聞いてね。それで、是非、直に会って話をしてみたくなったのだよ」
 「は、はぁ…」
 旦那様の言葉を聴いても、相沢様は要領を得ない様子で、生返事をされるだけだ。
 「何、そう硬くならずとも良い。私はただ、君と話をしてみたかっただけなのだからね」
 「え、えと、その…?」
 相変わらず相沢様は混乱されたままのようだ。
 「それで、だ。最近ウチの佐祐理と随分親しいようだが…まさか傷物にしたりは…」
 …またですか、旦那様。お嬢様が大事なのは解りますが、そんなお顔でお尋ねになられたら、まともに答えられる方などいらっしゃいませんよ…
 「えっ!? いえ、そ、そんな!?!?!」
 案の定相沢様は、旦那様の迫力に押され、さらに要領を得なくなっていらっしゃる。
 「旦那様」
 「いや、確かに佐祐理は可愛いよ?
それは私も重々理解している。だから君が佐祐理に惹かれるのも無理は無いとも思う。だが。だがね?
佐祐理はまだ大学生になったばかり、君も高校生だ。お互い節度を持ったつき「旦那様」…何だね、勝原」
 お嬢様のこととなると我をお忘れになる旦那様のお言葉を遮って呼びかける。
 「相沢様が困りで御座います」
 「…む。いや、済まなかった、相沢君。娘の、佐祐理のこととなると、つい、ね…」
 要約平静を取り戻された旦那様が、相沢様に謝罪の言葉をおかけになる。
 「い、いえ…俺、いや、私は別に…」
 「あぁ、“俺”で構わんよ。私も堅苦しいのは嫌いなのでね」
 旦那様は勤めてフランクに接しようとされている。
 「さて、では仕切りなおしと行こうか。御茶も冷めてしまったな。勝原、お変わりを頼む」
 「畏まりました、旦那様」
 そう答え、カップをトレーに載せて、再び応接室から出る。
 背後から、旦那様のお楽しそうな声と、相沢様のまだ少し硬い声が聞こえていた。


 それから2時間ほどが過ぎ、相沢様もすっかり緊張がお抜けになった頃。
 旦那様が唐突に仰った言葉で、また場の空気が固まった。
 「それで相沢君。ウチの娘、佐祐理のことをどう思っているのかね?」
 「…はい?」
 「…旦那様」
 どうやら旦那様は殊の外相沢様をお気に入りになられたらしい。あれだけ、佐祐理様との関係を気になさっていたと言うのに…
 「いや、君とこうして腹を割って話してみて、君がどういう人間か、私なりに判断した結果、だ。佐祐理の相手として不足無い、と思ったものでね」
 「あの、えーと、佐祐理さんの相手って…」
 「無論、すぐにどう、と言うわけではない。ただ、佐祐理と話していても君の話題が登る事が多い。それに、此方に戻ってくると必ず、君と遊びに行っているようであるしね。このことから考えても、佐祐理は君の事を憎からず思っているようだ」
 「た、確かに、佐祐理さんと遊びに行くことは多いですけど…別に、ふ、二人きりというわけでもありませんし…」
 「ふむ、舞君のことかね?
成る程、彼女も魅力的な女性だな…となると、だ。君の好みは一体どっちなのだろうか?」
 性質の悪い―と、言うのは主に対して失礼かもしれないが―笑みをお浮かべになりながら、旦那様が相沢様に質問していく。
 「あの、いや、舞と俺はそんな関係じゃないですし…あ、だからって、佐祐理さんとって訳でもなくてですね」 
 「ほう、両手に花を望むかね?
男として理解できないではないが、現状の日本ではそれは違法だが?」
 相沢様のお答えに、旦那様はますます笑みを深くしながら意地の悪い質問をぶつけられる。
 「あ、え、いや、その…! そ、そんなんじゃ無くてですね…!?」
 「ふふふ…まぁ、答えは焦らずとも良いだろう。いつかは、出す必要があるとしても、それは今ではない。その時までに、後悔の無い答えを見つけられることを願うよ」
 そう仰った旦那様は、とても御優しい眼で相沢様をお見つめになられている。それはきっと、お嬢様の幸せを願う父親の眼差しで、そして、相沢様の幸せを願う人生の先達としての眼差しなのであろう。
 「…ふむ、今度は君と、酒を酌み交わしたいものだな。君も知っているだろうが、私は、私が至らなかったばかりに、まだ幼かった息子をなくしてしまっているからね」
 「倉田さん…」
 「ふふ、男親としてはやはり、息子と酒を交わす、というのに憧れるものなのだよ。息子と、一哉とでは、もう叶わないが…かわりに君という素晴らしい若者に出会えた。きっと、君と交わす酒は旨いだろうと思うよ」
 「そう…ですね。機会があれば、是非。俺も、倉田さんと呑んでみたいです」
 相沢様が、旦那様のお言葉に、そうお答えになり、しばしの間、沈黙が降りる。
 「…さ、て。もうそろそろ、良い時間だな。相沢君、今日は楽しかったよ」
 旦那様のお言葉を聞いて、相沢様が壁掛け時計の時間を確認なされる。
 「…あ、もう、こんな時間になってたんですね」
 「そうだね。…楽しい時間は、存外短く感じてしまうものだ」
 「そうですね」
 相沢様が笑みを含んだ声音でお答えになられた。そうして、静かに立ち上がられる。
 「それでは、今日はこの辺で失礼させていただきます。…とても、楽しかったです。有難う御座いました」
 そういって、旦那様に向かって深々と頭をお下げになられた。
 「ああ、頭を上げてくれないか。楽しませてもらったのは私の方だよ。こちらのほうが礼を言いたいくらいなのだ」
 旦那様もお立ちになられ、相沢様に頭を上げるよう促がす。
 「有難う、私も楽しかったよ」
 そう仰って、相沢様に手を差し出す。そして、そのまま相沢様に問いかけられた。
 「また、来てくれるかね?」
 頭を上げた相沢様は、一瞬きょとんとしたお顔になられたが、直ぐに笑みをお浮かべになられ、旦那様のお手を取られてお答えになられた。
 「はい、是非に。それから、倉田さんとお酒を呑むの、楽しみにさせて頂きます」
 そのお言葉をお聞きになられた旦那様は、静かに頷かれ、握手を解きながら私にお声をかけられた。
 「では、勝原。相沢君の見送りを頼む」
 「畏まりました、旦那様。それでは相沢様、正門まで、御見送りさせていただきます」
 旦那様の命に答え、相沢様をお見送りすべく、応接室のドアを開ける。
 「それでは相沢様、此方へ」
 「あ、はい」
 私の言葉にお返事を返され、相沢様が歩き始める。そして、ドアをくぐろうとした時、旦那様がお声をおかけになられた。
 「相沢君」
 今までに無い真剣な声に、相沢様が歩みを止め、旦那様の方へ振り返られた。
 「最近佐祐理はよく笑うようになった。一哉を失ってからの偽りの笑顔ではない、あの娘の本当の笑顔を」
 「…倉田、さん?」
 「私には、解っていてもどうすることも出来なかった。佐祐理が自身を責めているのに気付いていながら、何と声をかければ良いのか、それすら解らなかったのだ」
 旦那様のお顔に苦渋の色が浮かぶ。ご自身の罪を、噛み締めるかのように。ご自身の無力を、お嘆きになられるかのように。
 「だが、君が救ってくれた。舞君とともに、佐祐理の笑顔を取り戻してくれた。未だ、佐祐理の傷は癒えきってはいないのだろう。だが、確実にその傷はふさがりつつある」
 「…」
 相沢様は、無言で、ただまっすぐに旦那様をお見つめになられている。
 「だから、私は。佐祐理の父親として。心から、君に、礼を言いたい」
 そこで旦那様は、一旦言葉を切られ、大きく息を吸い込まれて。
 「有難う、相沢君…今の佐祐理があるのは、君と、舞君のおかげだ…!」
 そう仰りながら、深く、深く頭をお下げになられた。
 「あ…」
 そんな旦那様に対して、相沢様は一頻り何を言うか考えられている様子をお見せになられた後、静かに口を開かれた。
 「あの…頭、上げてください。俺は、感謝されるようなこと、何もしてないんです。俺も、何も出来なかったのは、一緒です。佐祐理さんを救ったのは、舞ですから。ずっと、佐祐理さんと一緒にいて、誰よりも佐祐理さんを理解していた舞が、佐祐理さんの傷を埋めたんですよ」
 苦笑いを浮かべながら、相沢様が仰る。
 「そんなことは無いよ。これでも、それなりに人を見る眼はあるつもりだ。確かに、直接佐祐理を癒したのは舞君なのかもしれない。けれど、君の影響力も、決して小さなものではなかったと、私は思うよ」
 「倉田さん…」
 「さて、あまり遅くなるとご家族が心配されるだろう。とりあえず、今日の所は帰るといい。また、来てくれるのを待っているよ」
 「…はい、必ず」
 相沢様は、少し照れたような笑みをお浮かべになられながら、しかし力強く頷かれた。
 「それでは、相沢様。参りましょう」
 「はい」
 そうして、私は相沢様を先導しながら、正門へと歩みを向けた。


 「今日は御招き頂きまして、有難う御座いました」
 正門に着いたところで、相沢様が私に向かって頭をお下げになった。
 「いえ、お楽しみいただけたようで何よりで御座います」
 「ええ、本当に楽しかったです。ちょっと…いや、かなり吃驚もしましたけど」
 笑いを含んだ声で、相沢様がお答えになられた。
 「じゃあ、失礼します。勝原さん、今日は御世話になりました」
 「ふふ、私は執事として当然のことをさせて頂いただけなのです。ですから、お気になさらないで下さい」
 再度頭を下げられた相沢様に対してそう言った。そして、ずっと、相沢様に伝えたかった言葉を、口にする。
 「相沢様」
 「何ですか?」
 「お嬢様の笑顔を取り戻してくださいまして、誠に有難う御座いました」
 「…勝原さん」
 「旦那様と同じく、私も、お嬢様に何一つして差し上げることが出来ませんでした。お嬢様の、本当の笑顔を見ることが出来た時、どんなに嬉しかったことか」
 「や、辞めてくださいよ。さっきも言いましたけど、俺は…」
 「いえ。相沢様がどう仰ろうと、お嬢様の様子を見れば一目瞭然で御座います。お嬢様は、相沢様の御話をされる時、本当にお楽しそうにお笑いになられるのです」
 「あ、えーと…」
 「ですから。本当に、有難う御座いました…」
 そう言って、もう深く頭を下げた。そして、頭を上げて、言葉を続ける。
 「そして、これからも、お嬢様のことを、宜しくお願いいたします」
 「…はい。俺に出来る範囲で、精一杯頑張ります」
 そう言って、相沢様が微笑まれた。
 「それじゃ、俺はこれで。今日は本当に有難う御座いました」
 「いえ、此方の方こそ。またのお越しを、お待ちしております」
 そう言って、相沢様は帰途につかれた。私は、その背中に向けて、もう一度頭を下げた。




3.八月十四日(土)


 ミーンミンミンミンミン…
 蝉時雨が響き渡る霊園。
 照りつける日差しを浴びながら、お嬢様はお墓に手を合わせられている。
 瞳を閉じられ、ただ、静かに佇んでいらっしゃる。
 そのお心に過ぎるのは、どんな想いなのだろうか?
 お嬢様は、今年に入ってから随分とお変わりになられた。
 その変化は、歓迎すべきもの。
 ご幼少の砌にそのお心に負われた、深い傷。
 それ故にお被りになられた、“笑顔の仮面”。
 何方に対しても、常にお向けになられる朗らかな笑顔。
 だが、それは決して心のうちより浮かび上がるものでは無く。
 温度の無い、その笑顔のためか、真に心許せる方はたったお一人だけだった。
 だが、今年の初めにこの町へ引っ越して来られた相沢様が、その仮面を打ち壊された。
 確かに、先日、相沢様の仰ったように、川澄様と共におられた事で、傷は癒えかけていたのかもしれない。
 だが、相沢様がいらっしゃらなければ、お嬢様の仮面が外れることも、心の傷の回復も、もっと先の話だっただろう。
 「…一哉、元気ですか?
佐祐理は、ちょっと怪我をしちゃったりしたこともありましたけど、でも、元気です」
 お嬢様の声を聞いて、私は思考の海から浮上する。
 見れば、お嬢様は静かに目をお開けになられ、立ち上がられるところだった。
 「今年の初めから、卒業するまでの間に、随分色んなことがあった気がします」
 訥々と。
 お嬢様が、静かな声音でお続けになられる。
 辺りに響くのは、風に揺れる木々の葉擦れの音と、その短い一生を燃やし尽くすための蝉達の声。
 眩い夏の日差しと、騒がしい、けれど、何処か心落ち着く音に包まれながら、お嬢様の言葉が綴られて行く。
 「嬉しいこと…楽しいこと…可笑しい事…哀しいこと…辛いこと…苦しいこと…」
 蝉達と、自然のオーケストラに身を委ねながら。
 お嬢様が、柔らかな微笑を浮かべられる。
 「本当に、沢山のことがあったんです。そのどれもが、大切な、かけがえの無い想い出」
 柔らかな微笑みはそのままに、お嬢様の目じりに、涙が浮かぶ。
 「大事な人達が、とっても大事なことを、佐祐理に教えてくれました。だから。だからね、一哉。佐祐理は…ううん、私は、もう、大丈夫」
 大粒の涙が、お嬢様の柔らかな頬を伝い、地面に吸い込まれる。
 「何にもしてあげられなくて、ゴメンね。私が、悪いお姉ちゃんだったから。一哉に、辛い思い、させちゃったね」
 ぽろぽろ、ぽろぽろと。
 涙の雫が、溢れては落ちる。
 綺麗な、晴れやかな笑みを浮かべながら。
 お嬢様が、涙を流されている。
 「ほんとうに、ゴメンね。でも。でもね?
私は、お姉ちゃんは。一哉のこと、大好きだったよ。ずっと、ずっと、大好きだよっ…!」
 「…お嬢様、御使い下さい」
 涙を流されるお嬢様に、ハンカチを差し出す。
 「有難う御座います、勝原さん。あはは、みっともない所、見られちゃいましたね」
 「みっともないなどと、そのようなことは決して」
 「あは。もう、大丈夫です。いつも通りの、私、です!」
 「…お嬢様」
 お嬢様が、私に朗らかな笑みを向けてくださった。
 「さぁ、勝原さん、帰りましょうか。お父様が、寂しがっているといけませんから!」
 そう仰り、お嬢様は歩き始められた。
 その一歩後ろに控え、私も歩く。
 「勝原さん、今日の晩御飯は、さゆ…いえ、私が作ろうと思うのですけど…」
 「それはそれは…旦那様がお喜びになられます」
 そんな話をしながら、お嬢様について歩いていく。
 霊園の出口に差し掛かろうとした時、不意に、強い風が吹いた。
 あれだけ騒いでいた蝉達も、いつの間にか鳴き止んでいる。

 ―――……………ん………だ……き…よ

 「…え?」
 何かに呼ばれたかのように、お嬢様が振り返られた。
 私も同様に、振り返る。

 ―――お……ちゃ………も……す…だ…

 「か…ず、や?」

 ―――おねえちゃん、ぼくもだいすきだよ

 それは、そうであって欲しいと言う願望が生んだ、幻だったのであろうか?
 それとも?
 いや、そんなことは如何でもいいのであろう。
 「一哉ぁ…」
 お嬢様のお顔を見れば解る。
 あの声が、どんなものかなど、瑣末なことだ。
 「私も…私も、大好きだよ…!」
 それは確かに、お嬢様のお心を癒してくれたのだから。
 だから、私は。
 その場で、深々と、頭を垂れたのであった。

 
 お嬢様を御屋敷に送り届けた後、私は再び霊園へと戻ってきていた。
 一哉様の墓前に立ち、物思いに耽る。
 「一哉様…私は、お嬢様のお役に立てているのでしょうか?」
 眼を閉じて、問いかける。
 「お嬢様は、ようやく、本当の笑顔を見せて下さるようになりました。しかし、私には、何も出来ませんでした」
 一哉様を亡くされてからの、お嬢様の御姿を思い出す。
 いつも笑っていらっしゃるのに、いつも泣いている様に見えるお顔。
 その仮面の理由を知りながら、自分には何も出来なかった。
 ただ、傍で見ていることしか出来ない無力感。
 お嬢様の御傍付きとして過ごしてきた時間の殆どが、その無力感によって埋められている。
 「ですが…私はおろか、旦那様や奥様でさえ出来なかったことを、相沢様と川澄様がなしてくださいました」
 眼を開き、前を向く。
 反省は必要だろう。だが、後悔は要らない。
 「お嬢様は、ご自身が仰っておられたように、もう大丈夫です。お嬢様の御傍で、支えてくださるかけがえの無いご友人が居らっしゃいます」
 私は、倉田家の執事長だ。そのことに、誇りを持っている。
 「幸い、私もまだ、必要ない、とは言われておりません」
 ならば、私は私の誇りにかけて、これからもお嬢様の助けとなろう。
 「なればこそ、これからも、私は私に出来うる限りのことを成して行きましょう」
 夕暮れの霊園で、蝉達の合唱を聞きながら。
 強く、心に刻み込む。
 己の道を、違えぬ為に。
 「それでは、一哉様。私は失礼させて頂きます」
 そう、墓石に向かって声をかけ、振り向いた私は歩き始めた。
 迷わず、躊躇わず。
 前を向いて、歩く。

 ―――勝原さん…お姉ちゃんを、助けてあげてくださいね…

 歩みの中、そんな声を聞いた気がした。





八月某日 晴れ
 今日、お嬢様が大学の方へと戻られた。また、屋敷が少し寂しくなる。だが、お嬢様もあちらで頑張っていらっしゃるのだ。ならば私も、あの日、一哉様の墓前に誓ったように、私に出来ること、そして、私の為すべきことをこなしていくである。今年の初めから春にかけて、様々な変化が起こったが、全ては良い方に動いてくれた。それはとても喜ばしいことだ。
 変化といえば、屋敷に一つ、大きな変化が訪れた。しばしば、相沢様が訪ねてこられるようになったのだ。旦那様と他愛の無い御話をしながら、時を過ごしていらっしゃる。どうやら、受験勉強の息抜きのようだ。旦那様の気分転換にもなっているようで、良いことだ。
 さぁ、私はこれからどうするべきか。己の無力を、未熟を、嘆き、そして恥じた。次に、目的を、再確認した。もう迷う必要もあるまい。そう、私は、私の思う道を、躊躇わずに進むのだ。倉田の家に仕えることこそ、我が無上の喜び。ならば私は、この身、この意思の尽き果てる時まで、執事としてあり続けるのみである…

倉田家執事長 勝原の日記より