涼風の吹いた月の下で――
祭りに行かないか? 、と相沢から誘いがあったのが、今日の朝。
始めは、彼女である水瀬と二人っきりじゃないのか? 、と思ったが、込み入った訳が在ったら嫌なので聞かなかった。
替わりに、メンバー?、と俺は問うた。相沢は答えた。
「俺とお前と名雪と香里。まあ、美坂チームの面々だな」
其れを聞いた時、俺はドクン、と心臓が高鳴った。少しだけ、俺としての都合の良い光景が脳裏に浮かぶ。
――不埒な。俺は頭を振って其れを振るい落とそうとした。だが、脳裏に焼き付いた光景は、消えやしなかった…。
相沢は其れに気付いたのか、ニヤリと細く笑っていた。見なかった事にしといた。
無論、言うまでもないが俺はその誘いを受けた。
少しだけ、今日の俺に勇気がありますように。
そんな事を、オレンジ色に染まる空に向かって一人祈った…。
今日は――祭りだった。年に一度の祭り。老若男女、全ての住人が外へと繰り出す。
何時もは薄暗い場所も、今日は明るい。光が、満ち溢れているようだ。
歩く人達は皆楽しそう。家族連れと若いカップル、そんな構図が殆どだ。
俺は――何なんだろう。やっぱ……友達、かな。うん、そうだな、それ以外に何が在るってんだ全く。
一瞬、自分の脳裏に浮かんだ単語を、無理矢理に消滅させた。
くそっ、こういう時は誰かと話してたら直ぐ忘れれるのに…。
俺は1人だ。待ち合わせ時間は――今、なった。という訳で、本来なら此処から遅刻の領域なのだが、俺の中では+3分までは許容範囲だ。
けどさぁ、もう少し早く来るという選択肢が浮かばんかな、普通。それとも何、俺が浮れすぎなのか? いや、そんなはずは無いと、思う…かな?
まあどちらにせよ、さっさと来いよ某三人。いや、その内の二人は遅刻するなんてわかりきってるけどさ…。
この――焦燥感みたいな感じがするんだよな、一人だと。だから、わかりきってても―――
「あら、早いのね北川君」
ドクン、と大きく心臓が鼓動した。
何ドキドキしてんだ俺は、美坂が来ただけだろ。何時もはこんな事にはならないはずだ。そうだ、
ふぅ、と短く鋭い息を吐く。そして、意を決して俺は美坂へと振り向いた。
「……誰?」
目の前の相手には、其れしか言えなかった。
「失礼ね。私よ私。美坂香里よ、わかる?」
うん、其れはわかる。けど――
「その、格好…」
「ああ、これ? ただの浴衣じゃない。其れがどうしたの?」
平然と言いのける美坂は、本当に浴衣姿だ。
いや、浴衣姿というのにも勿論驚いた。だが、その浴衣の色が何と言うか、黒い。漆黒、というまでもいかないが、多分これは――黒橡〔くろつるばみ〕というヤツじゃないだろうか。よくわかんないけど。
美坂の浴衣は、似合っていると言えば似合ってるし、似合ってないといえば似合ってないようにも見えた。そう、限りなく俺――北川潤としては微妙な所なのだ。…まあ、ファッションセンスを持ち合わせてない俺が何を思ったってしょうがないけど。
俺は取り合えず、何時もの口調で言葉を紡いだ。
「いや、何でも無い。ただ、似合ってるな、美坂」
「そう、私としては変だと思ってるんだけど、お母さんが着て行けって五月蝿いのよ」
「そりゃ災難だったな。けど、お世辞抜きで似合ってると思うぜ、ホント」
「ありがと。それにしても、やっぱり名雪と相沢君は遅刻か」
「そうだな。まあ、厳密言えば美坂もだけど、な」
俺の言葉に、美坂はムッ、と眉を顰めた。
「いいじゃない、一分の遅刻ぐらい」
「別に遅刻した事を非難している訳じゃないって。ただ言ってみただけだ。それに俺は+三分までは許容範囲だからな」
「……なら、いいけど…」
其処で会話は終った。
ホッ、と安堵の息を吐いた。声が震えてないか、裏返らないか、緊張してて会話の内容をあまり覚えていない。
情けない。そう思ってしまうが、仕方の無いことだった。なにせ此れが、北川潤という人間なのだから。
相沢と水瀬はまだか。焦る気持を抑えて、俺は必死に伸びる道の最奥を見詰めている。
すると、俺の願いでも通じたのか、道の先から勢い良く迫ってくる二つの影が認識できた。
「なぁ、あれって相沢と水瀬か?」
思わず俺は美坂に問うた。
美坂は目を凝らすように細め、「ああ」と一人相槌の声を漏らす。
「うん、あれは名雪と相沢君だわ。間違いないわね」
「そっかぁ。それにしても、なんか可笑しくないかあの二人」
そう、よく見るとあの二人、何処と無くぎこちないのだ。言うなら、動きが変。
ちゃんとこっちには向かって来てはいるのだが、やっぱり変。
「そうね。何かあったのかしら?」
「うーん………って、あれ、水瀬って浴衣じゃないか?」
あぁ、よく見ると相沢もだな。そうか、だからあの二人は動きが変なのか。
自業自得、だな。遅刻する方が悪い。俺みたいに五分前に着とけばあんな無駄な労力を使わずにすむのにな。
あぁ、因みに物凄く今更だが、俺も一応は浴衣姿である。美坂は触れてはこないのは、祭り=浴衣の図式が頭で成り立っているからではないだろうか。
「そういえば、そうね。はぁ、全く自業自得よ」
「その通りだ。でも、実は相沢は被害者じゃないか? 言っちゃあ悪いけど、ネボスケなのは水瀬の方なんだろ?」
「そうね。というか、あれはネボスケなんて可愛らしい言葉で片付けられるモノじゃないわ」
…いや、ネボスケって可愛らしいか? 理解できんぞ、俺には。
何て思っていると、相沢勢ご到着。
「ッ…わりっ、遅れ…ちまっ、た」
「あぁ、わかってるから、先ずは息を整えろ」
「助かる。…ふぅー…はぁー…」
相沢は膝の甲に手を置き、必死に息を整えている。
ふと隣を見ていると、水瀬も同じ事をやっていた。
「それで、今日もまた名雪の寝坊?」
ある程度二人の息が整ったのを見計らって、美坂はそう言った。
すると水瀬は、とんでもない、とでも言う風に首を横に振った。へぇ、水瀬は珍しくちゃんと起きたんだな、それなら原因は…。
俺はチラリ、と相沢を見る、すると相沢は、ふぅ、と大きく息を吐いて、言った。
「いや、ぶっちゃけあれは名雪が悪い」
「――えっ?! う、嘘だよ、遅刻の原因は祐一だよっ」
「何を言うかこのイチゴジャンキーめ。大体、お前が始めにあんな物を着なかったら…」
「あんな物? 何だよ其れ?」
横槍を入れて、俺は二人の会話を止めた。
多分――いや絶対に『あんな物』の正体がこの二人の遅刻の原因だろう。
相沢は言ってなかったな、と呟いて、言葉を紡ぎ始めた。
「いやな。順を正しく追って説明すると。先ず、俺と名雪はちゃんと予定通りの時間に起きたんだ。それで、まるで奇跡のようにスムーズに準備は整っていった――はずなんだが、このお馬鹿さんがとんだモノを着て現れやがったのだ」
「とんだモノって何だよ。というか、俺は其れの正体を知りたいのだが」
「えっと、其れは――」
『其れは?』
思わず、美坂と俺の声が重なった。
相沢は、もったいぶる様にゆっくりと口を開き、こう言いやがった。
「また、別のお話…」
「さっさと本当の事を言わないと殴るわよ?」
「ご免なさいスイマセン私が悪う御座いました。ぶっちゃけ言います。名雪は何と、浴衣は浴衣でもミニスカの浴衣を着て現れたのです」
「はっ? ミニスカって、ミニスカートのミニスカか?」
「そうだよ。全く、思い出すだけで不愉快だ。大体な、名雪。浴衣にミニスカ履いて来る馬鹿が何処に居る。あんな物は邪道だ、外道だ、日本の文化を腐らす不浄の汚物だ」
「だからアレは単なるお遊びだって――」
「馬鹿言うな。お遊びでもあんな腐れきった汚物を着るな、触れるな、見せるな。あれはな、『浴衣』という服装の本質を大いに台無しにしている。ミニスカ? そんなモン制服でやってろ戯けが。大体、作る奴も大馬鹿野郎だ。浴衣を馬鹿にしてるとしか思えん。浴衣はな、日本の国宝なんだぞ。其れを――ああ、もう! 想像するだけで虫唾が走る。……って、いまはどうでもいい。兎も角、名雪は浴衣ミニスカバージョンを着ているのを俺が発見し、それについて説教をしていたら遅くなったんだ、以上」
そう言って相沢は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
いや、つうかさ、結局遅刻したのは――
「お前の所為じゃん」
「なんですとっ?!」
俺の発言がそんなに意外だったのか、相沢は驚いた様子でそう言った。
すると、不意に美坂も言葉を漏らす。
「私も北川君と同じね。大体、何を着ようが本人の自由でしょ。彼氏だからって其処まで干渉するのはよくないわよ」
「ぬっ……ぬう」
流石に女性として相沢の我侭が気に入らないのか、その言葉には多少怒りが滲んでいた。
「――わかった、わかったよ。俺が悪かったって、ったく……。………悪かったな、名雪」
自分の非を認め、相沢は素直に水瀬に謝罪した。
「えっ、いいよ、別に。大体、私も流石にあんな短いの着て外に出ないよ。其れに、あれはその… 祐一に見て貰いたかっただけだから…」
頬を紅潮させつつ、水瀬はそう言った。
無論、声が小さくても此処に居る三人には聞こえた訳で――。
「――殺意が芽生えそうなんだな、これが」
目の前ではイチャイチャする男女二名。
チクショウ、公衆の面前じゃなかったらドロップキックを炸裂させてる所だぞ、相沢めっ。
なんて、ジェラシー度たっぷりの視線で相沢を睨みつつ、俺達は少し遅めに祭りへと向かった。
――祭りに赴いた俺達はそれはもう受験生という事を忘れて楽しんだ。
笑って、笑顔が絶える事が無く、ただ楽しんだ。
けど、其れも終わり、今はクライマックスを迎える為、俺達は人が疎らな道を横に並んで歩いていた。
此処から少し離れた所で、花火を打ち上げるんだ。祭りの閉会式、そう言っても過言では無い。
花火が終ったら、祭りも終る。同時に、この楽しかった時間も終るんだ。
正直言ったら、嫌だ。この楽しい時間が永遠に続いて欲しいと願っている。
けれど、所詮は叶わぬ願いだ。それに、何時しかこの一日は、俺の大切な思い出として楽しませてくれるだろう。
だから、これといって俺の中に、寂しさは自然と無かった。
「なぁ、花火が始まるまで後何分だ、名雪?」
突然とした相沢の言葉は妙に響いた。
水瀬はそんな呼び掛けにも慌てる事無く、懐から携帯を取り出して現在時刻を確認、そして口を開いた。
「11分…ううん、10分前って所だよ」
「――そうか。じゃあそろそろだな。おい、香里、北川」
「ん? 何だ?」
首だけで相沢の方を向く。
相沢は何処か楽しそうな笑みを、浮かべ不意にこう言った。
「これから別行動な」
「――はっ?」
相沢の突然の発言に、思わず頭の思考回路が一瞬だけ止まった。
「いや、花火ぐらいは名雪と二人で見たいから、こっからは別行動って事。わかるか、北川」
あぁ、それなら納得――って、いやいやいやちょっと待てって。
別行動? 二人? つまり、お前等が居なくなったら俺と美坂の二人だけって事か。
………あー、ダメだダメだ。考えるだけで緊張する…。
落ち着け、俺。これは考えればチャンスって事だ。どうせ、相沢の奴も其れをわかってて別行動なんて言ったんだろう。
なら落ち着け、落ち着け北川潤。
大体、こういうシュチュエーションは想定してただろ。そして――そうなった時の段取りもちゃんと考えていたはずだ。
そう、慌てる事は無い。落ち着いていけば大丈夫だ。
自己暗示でもするかのように、俺は言葉を胸中で紡ぐ。すると、効果でもあったのか、少しだけ心臓の鼓動が穏やかになった。
………よし、いける。
俺はその言葉と共に、思考の湖から抜け出した。
――って、既に相沢と水瀬居ないし。行動速いなあいつ等。
まあ、居なくなったんなら、行動に移そう。
美坂は無言で俺の隣を歩いている。気分を害した訳でも無く、ただこの沈黙に身を従えているだけだ。
咽喉が妙に渇いている。だけど、そんな事をお構い無しだ。
すぅ、と息を静かに、それでいて大きく吸い込む。そして、その息を吐き出すと同時に、俺は言葉を紡いだ。
「美坂――いい場所知ってるんだけど、其処に行かないか?」
震えてないか心配になったが、美坂の反応を見てると、どうやら大丈夫のようだ。
俺の言葉に、美坂は「ええ、いいわよ」と、優雅に答えてくれた。
少しだけ足がぎこちない。けど、俺は無理矢理に動かしつつ、其処に進路を変更した。
一昨年に見つけた――ものみ丘へと。
其処はただ緑が広がっていて、とても綺麗だった。
少し遠くに在る町が、まるで空から見る町のように思える。
夜風に揺られる草は流れる小川のようで、思わず魅入ってしまった。
月光の淡い光りだけが、頼りなく辺りを照らしていた。
一昨年に見つけたこの場所は、少しも変わってないように見える。
唯一違うモノがあるのなら、それは――俺の鼓動。
高鳴り続ける心臓の音に俺は、隣に居る美坂に聞こえないかと心配になる。
俺達は、どちらから言うことも無く、広がる草原に並んで腰を降ろした。
風が靡く度に美坂の髪は揺れる。美坂はされるがままだ。髪を押さえようともせず、ただ黒が広がる空を見ている。
花火が始まるまで、後一分。始まったとしても、あの轟音は此処まで響く事は無い。
つまり、会話の邪魔にはならないという事だ。
会話――果たしてこれから行う事はそう称するべきだろうか。いや、違う。これは、ただの告白だ。俺が2年間という歳月を経て漸く美坂へと自分の思い告げる。ただそれだけの事だ。
でも、ただそれだけの事でも、やはり俺は戸惑ってる。
もしこの告白で今の関係が壊れたら、崩壊したら、そう思うと一歩も進めなくなってしまう。
結局、俺は臆病者なんだ。今の関係を保ちたいが故に逃げ続ける、性根の腐った臆病者だ。
――けど、それも今日で終わりだ。もう、逃げる訳にはいかない。折角、相沢の奴がチャンスをくれたんだ。其れを潰すのは人として最低だ。
だから、言おう、この気持を――。
「なぁ、美坂――」
丁度よく花火一発目が空へと咲き乱れた。
「なに?」
淡々とした口調。
もう気付いてる癖に、美坂は全然慌ててる風には聞こえなかった。優雅で、気丈に俺の言葉に耳を傾けてくれている。
「もう、二年も昔から何だけど。俺さ実は――」
ゴクリ、と生唾を飲み込む。心臓が破裂しそうな程に騒ぎ出す。
咽喉が詰まりそうだ。まるで首が絞められているように声が出ない。
美坂は――変わらず空を見てた。表情を変える事無く、花火が咲く空を見続けている。
言え。言えよ。もう止まらないし、止められないんだ。なら、当って砕けろっ!
「美坂の事がす――」
「あれ? もしかして潤と香里?」
――きだったんだ……。
口にしようとしていた言葉が、ガラガラと音をたてて崩れていった。
……誰だよっ!! こんな最悪最低なタイミングで現れた馬鹿はっ!!
俺は怒りを露にして声がした方へと振り向く。
其処には――顔見知りの少女が一人、立っていた。
「真琴――ちゃん?」
思わずその少女の名を呼ぶ。
まさか、こんな所に真琴ちゃんが居るとは…。
何処まで俺は運が悪いんだろう。まさか、これは美坂と付き合うなという神のお告げなのか。
まあ、どちらにせよもう終った。最悪最低な形で、な。
何だったんだろうなこの二年。あーあ、馬鹿みてえだ、俺。
「ねぇ、潤が暗いけどどうかしたの?」
隣に居る美坂に、真琴ちゃんは小声で尋ねた。無論、俺にはばっちしと聞こえている。
「ちょっとね。そういえば、天野さんは一緒じゃないの?」
「美汐? そろそろ来るわよ」
そう真琴ちゃんが言うと、タイミング良く美汐ちゃん――って呼ぶのは本人に却下くらったから――もとい天野さんが到着した。
走ってきたのか、息が荒い。
「真琴……行き成り走るのは……止めて、ください」
「あぅー、ご免美汐」
申し訳なさそうに真琴ちゃんは謝る。
天野さんはそんな真琴ちゃんの頭を優しく撫で、微弱に疲れを見せ隠れしながらも笑顔を描いた。
「いいですよ、今度から気を付けてくれれば」
二人に和やかな雰囲気が漂う。
うぅ、何かこの和やかさが妙に胸に痛いのは何故?
「こんばんは、天野さん」
「あっ、こんばんは美坂先輩。それと、北川先輩も」
「――こんばんは」
小さく、呟くように俺は挨拶を返した。
無論、そんな俺は変だと天野さんでもわかる訳で――。
「どうかされたんですか、北川先輩は?」
なんて小声で美坂に尋ねてた。しかも小声は小声でもちゃんと俺の耳に響く小声で。
美坂は苦笑いにも似た笑みを零し、真琴ちゃんの時と同じ事を言った。
天野さんもそれ以上は追求することは無く、「そうですか」と言葉を残し、既に花火に夢中の真琴ちゃんの隣に腰を降ろした。
――その後、花火が終るまで俺達四人はずっと無言だった。……はぁ…。
帰り道。天野さんと真琴ちゃんとは既に別れ、俺達はまた二人っきりに戻っていた。
今は、美坂を家まで送っている所だ。流石にあんな後でも、こればかりは男としてしておかないとな。
二人の間には会話が無い。こういうのは苦手とする俺は何時も無理矢理にでも話を作るんだが、流石に今は無理だった。
気まずい。その一言に尽きる。言葉が出ないし、美坂を見れない。はぁ、これじゃあ次会う時はどうしろって言うんだよ…。
美坂の家は直ぐ其処に迫っていた。でも、何故か今の俺には長く感じられた…。
今、ここでやり直そうか、そんな思いが――浮かぶはずも無い。もう、終ったんだ。あれが、最初で最後、ラストチャンスだったんだよ。
此れで、俺の青春も終わりだな。ははっ、自暴自棄になって勉強でもしようかな。
何て、既に真っ白に燃え尽きた俺は虚ろな人間と言っても過言では無かった。
無言で、静けさが漂う二人は――そうして、美坂家の前で足を止めた。
無言。「じゃあな」も言えない。
美坂の背中が俺の目の前にある。もう、届かない背中が――。
耐え切れない。俺は静かに立ち去ろうと、踵を返した。
「――北川君」
不意に、美坂の声が響いた。俺の足は止まる。まるで金縛りにでもあったかのように…。
振り向いた。視界に映るのは無表情で佇む美坂の姿。
あぁ、何て綺麗なんだろう。黒橡の美女を見て、俺は改めて心の底からそう思った。
既に思考回路が半分は真っ白になった俺。美坂は、そんな俺に、怒りを滲ませた声でこう告げた。
「目、瞑りなさい」
怒り。それがその台詞から読み取れた唯一の感情だ。
俺の不甲斐なさに怒っているんだろうな。俺は漠然と思う。
そして、指示通りに瞼を閉じた。暗闇の世界が視界を埋め尽くす。
美坂の近付く気配がする。そして――。
――パァァァン!!
と、甲高い音が響いた。
頬が熱い。灼熱の如く熱い。
体勢は崩れない。覚悟をしていたので、崩れるはずが無かった。
まだ瞼は開けない。そう言われてないから…。
――パァァァン!!
二発目。逆の頬を叩かれた。
まさか流石に二発もやられるとは思わず、俺はたたらを踏む。
だが、其れさえも美坂に伸ばされた手に力尽くで戻された。
三発目が来るか? 俺はそう思って覚悟を決めた。だが――。
次に来たのは――耳元に呟かれた一言。そして同時に、小さく頬に触れる『何か』。
――いや、後者は勘違いか。どうせ美坂が耳元まで近付いたからそう感じただけなんだろう。それに、叩かれた頬じゃあそんな事もわからないんだ。
俺は――静かに目を開けた。
視界に映ったのは美坂の背中。ウェーブの掛かった髪を靡かせ、優雅に彼女は扉の奥に姿を消す。「さよなら」の一言も言わずに…。
まるで先程の出来事が幻だったように、辺りには静寂が舞い戻った。
俺はただ立ち尽くし、先程の言葉を思い出す。
『次、頑張りなさいよ』
まるで他人事のように彼女はそう言った。
次? 次も頑張れって言ったのか、美坂は。……ははっ、そっか、そうかよ…次、頑張れっていうのか、アイツは…。
俺は踵を返し、自宅へと向かう。
なら、頑張ってやろうじゃないの。お前が嫌がっても頑張ってやる。もう駄目だ。この思いは止まらんわ。
俺は美坂が好きだ。二年前からずっと、美坂だけを見てきた。ゾッコンって言われても仕方が無い。それ程までに、俺は美坂が好きだったから。
そして――今はその思いが一層に強くなった。原因は無論、美坂の一言。
「やってやろうじゃないの。絶対、次は成功させてやんからな」
俺は意気込む言葉と同時に、ニヤリと笑った。
たった一言言われただけで此処まで活気が戻るとは、なんて単純。
だから何だ。好きな人にそんな事を言われて元気になって何が悪い。
俺のこの気持は、紛れも無く本物だ。もう、見失わない、捨てない。絶対に、だ。
涼風が吹く。金色の地毛が静かに揺れた。
空を仰ぐ。星が無数に輝き、月が世界を見下ろしている。
「綺麗だな」
小さく呟いた言葉は夜空に消えた…。
――こうして、北川潤の夏は幕を閉じる。
だが、同時に北川潤は変わった…。
そして、その後彼が紡ぐ物語は――
また、別のお話……。
END