焼けるような草いきれのにおい。
眼下に見下ろす隣町も陽炎でぼやけて見える気がする。
ここはものみの丘。
あいつの待ち望んだ春はとっくに過ぎて、ジリジリ照り付ける太陽が夏であることを教える。
「またここに来ていたのですね」
「天野……か」
後ろから静かに近寄ってきたのは、見慣れた学校の夏服に身を包んだ後輩の少女だった。
二人とも考えることは同じか。
最近思考も似通ってきてるのか、待ち合わせもなく出会うことが多い。
「期待をさせて申し訳ありませんが、天野美汐です」
「別に気にしてないさ。最近よく会うしな」
「……そうですね」
暑さに耐えかねてか辛そうに顔を伏せる天野。
ここまで来るのに難儀したのだろう。その額には汗がうっすらと滲んでいる。
「もう止めませんか? これ以上ここに来ても相沢さんの為になりませんよ」
「俺は単にこの土地の観光名所を見に来てるだけだって」
「誤魔化さないで下さい。そうやって何度裏切られましたか? ここに来れば来るほど、相沢さんは過去に縛り付けられるんですよ」
「そういう天野だって来てるじゃないか」
「私はもう手遅れなんです。それが分かっているから相沢さんには『どんなことがあっても強くあってくださいね』と言ったのに」
天野の言う通り、俺は最近この丘に来る回数が増えていた。
季節はめぐり、ここまでの道のりがどんどん億劫になるはずの夏だというのに。
俺は強くなんかなれない。強がっていただけだ。
それはメッキみたいなものなんだと思う。
つまり……いつかは剥がれ落ちる。
「だけどな天野、ただここに来るだけじゃないか」
たったそれだけ。それだけでメッキは塗りなおせる。
また次、ここを訪れるまで俺は強がりを通せるんだ。
「そんな単純なものではないですよ。私も前向きに生きる選択肢はいくらでもありました。ですが……この丘に足を運び続けているうちにこうなってしまったんです」
「こうなったって、どうなったんだ?」
「相沢さんが見たとおりです。私はこんな自分を好きになれません。だから、相沢さんには私のようになって欲しくないのです」
ジリジリとむせるような暑さの中、時間だけが過ぎていく。
青い体をしたシオカラトンボが小高く茂った草の先端で羽を休めていた。
「じゃあ俺はどうすればいいんだ?」
「忘れてください。この丘のことも、私のことも。それが今の相沢さんの為です」
天野はそうきっぱりと言い捨て、俺に背を向ける。
「私はもう帰りますから」
冷たく突き放した天野の物言い。だが、それは全て俺のこれからを思うからこそ。
その天野が去ってゆく。待ってくれ天野。
俺は、俺は――
ドンッ!
「何をするんです!」
「……え、あ?」
強い衝撃を受けたと思うと、俺は草原に尻餅をついていた。
視線の先には顔を紅潮させ胸元を押さえている天野の姿。
俺は、いったい何をしたんだ?
数秒前の記憶を探る。そうだ、俺は去っていく天野の手を引いて……抱きしめた!?
「わ、悪い! ものの弾みで」
とっさに謝るが、謝って済む雰囲気ではない。
今まで手すら握ったこともない少女にいきなり抱きついたのだ。
少女が驚き、そして怒るのも当然である。
「帰ります!」
怒りを露わにした天野は俺に背を向け、全力でその場を走り去った。
尻餅をついていた俺には追う事もかなわない。
いや、自分のしたことが理解できなくて俺はその場から起き上がることが出来なかった。
目前には先ほどの小高く茂った草。
シオカラトンボは既にいずこかへと飛び去っていた。
7月中旬。期末試験も終わり、平日の授業も午前まで。生徒たち待望の夏休みはすぐそこまで来ていた。
くそ、暑い。冬の時みたいに廊下にも空調効かせろよな。ていうか、冬あれだけ寒くてこの暑さは詐欺だ。
まあ、どうせこれから外に出るから関係ないけど。
中庭に続く鉄の扉を開ける。真上から照りつける日差しの強さに思わず腕で顔を覆った。
木陰で目的の人物を待ち続ける。木陰といえども風がなくてはあまり他と変わりがない。
じわじわと暑さが体に染み込んでくる。
「やっぱ来ないか。まあ、当たり前だよな」
背中で木にもたれかかり、自嘲じみた呟きを漏らす。
あんなことをした相手の顔なんか見たくなくて当然だ。
「もう来てますよ」
「……え?」
背もたれにしていた木の裏側から、俺が下駄箱に入れておいた手紙を手に目的の人物が姿を現す。
表情は怒ってもいないが、喜んでもいない。つまるところ無表情だった。
「いるならいるって言ってくれよ。意地が悪いな」
「すぐに出て行きたくても、女性にはそうもいかない事情があります」
天野はそう言ってポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭う。
なるほど、汗まみれの顔を見られたくなかったってわけだ。
「ひょっとして、かなり待たせたか?」
「最後の授業が自習だったんです。何もすることがありませんでしたから、先に来て待ってました」
「そか」
しばらく無言で向かい合う。汗が頬を伝い、地面に滴った。
言おう。昨日一日考え続けたことを天野に。
「天野、聞いてくれ」
「聞いてます」
「じゃあしっかり聞いてくれ」
「わかりました」
二人とも暑さに参っているのか、うだるようなまどろっこしいやりとりをかわす。
「一晩中考えたんだけど、俺さ……天野のことが好きなんだと思う」
「それ以外の理由であんなことをしたのでしたら本気で怒ります」
言外に『一晩も考えなければ分からなかったのですか?』という非難が含まれているのがその射抜くような視線からヒシヒシと伝わる。
セクハラ加害者が言い訳をする気分ってこういう感じなんだろうか?
なんていうか……針のむしろだ。
「だからってわけじゃないけど、付き合ってくれないか天野?」
あの冬からどこでも顔を合わせるようになった天野。
いつしか俺の心にはいつも天野のことが浮かぶようになっていた。
気付いてなかっただけで、俺は天野のことが好きになっていたのだと思う。
昨日、天野に別れを告げられた瞬間その気持ちが一気に溢れ出し、俺は天野を抱きしめていたのだ。
「断ります」
天野はぷいっと横を向くと、初めから言いたかったのはそれだけですとばかりに歩き始めた。
慌てて俺はその腕を掴む。初めて掴んだ天野の腕は柔らかく、繊細で……まさしく女の子のものだった。その感触に思わず息を飲む。
「待ってくれ、何故なんだ」
告白を断るのに理由なんかいるものか――そう思っていた。
だが、いざ一言で振られてみると、俺のとった行動はあまりに情けないものだった。
そう分かっているのに、俺は天野の手を離すことが出来ない。
「相沢さんは真琴の代わりを私に求めているだけではないですか? そして真琴の事で一番傷を分かち合えるのは私だから、違いますか? そんな関係はまっぴらごめんです」
手を振り解くかと思った天野だったが、キッと俺を睨みつけてそう言った。
「違う。俺は本当に天野が好きだって気付いたんだ」
「嘘です」
「あいつの代わりじゃない。俺は天野美汐が好きなんだ」
はぁ、何ダサイこと言ってるんだろうな、俺は。
『好きだ』なんて告白は馬鹿のやることかギャグでやることだと思ってたのに。
今の俺こそが世界で一番の大馬鹿野郎でピエロだった。
だけどな天野、俺がお前を好きだって気持ちは本当なんだ。
あいつの代わりだなんてこれっぽっちも思ってもいない。信じてくれ。
「……信用できません」
「分かったよ、なら証明してやる」
天野の手を引き走り出す。
「ちょ、どこに連れて行く気ですか!?」
俺は馬鹿だ。だから説明なんて出来ない。今すぐお前を納得させるなんて無理だ。
だけど俺の気持ちは絶対に嘘じゃない。それだけでも今はお前に分かって欲しいんだ
駆けろ俺の足。覚悟を決めろ、俺の心。その気持ちを証明するために。
二年の懐かしい教室の扉を開け放つ。
ここはこの冬俺が三学期を過ごした教室。そして今は二年になった天野の教室だ。
クラブの用意をする者、雑談に興じる者、掃除当番を終えて帰宅にかかろうとしていた者。
突然の侵入者に男女合わせて十数人の視線が集中する。
俺はその視線を意に介さず、天野の手を引いて教卓の前に立った。
天野を含め、居合わせた誰もが『何が始まるのか?』とばかりに目を見開き、教室がしんと静まり返る。
大きく深呼吸をして呼吸を整える。
「皆、聞いてくれ」
これが俺の気持ちの証明だ、天野。
「俺は天野が、いや、美汐が好きだーーーっ!」
叫んだ。こんなでかい声を出したのは何ヶ月ぶりかと思うほどに。
全校舎に響き渡るんじゃないかって思えるくらいのでかい声で叫んだ。
そして――世界から音が消えた。
ポスッ――
無音と化した世界にそんな小さな音が響いた気がした。
見ると俺の体に天野が寄りかかっている。そうか、分かってくれたんだな天野。
「あの……先輩」
「ん?」
近くにいた大人しげな女生徒が恐る恐る声をかけてくる。
そして天野を指差して一言。
「天野さん、気を失ってますよ」
「悪い、天野が心臓に持病持ってるなんて知らなかった」
「女の子だったら誰だって心臓が止まります。あんなこと――」
白い壁、白い天井、白いカーテンにベッド。いかにも清潔なこの部屋の名前は保健室だ。
あの後、倒れた天野をここのベッドに寝かせて、保健の先生が帰ってくるのを待っていたところで天野が目を覚ました次第である。
ちなみに心臓の持病のことは手を貸してもらった女生徒に聞いた。
心臓病と言っても軽度の物で、基本的にはそこまで注意するほどのものではないらしい。
それはつまり俺の行動が与えたショックがいかに大きかったかということで、さすがに悪いことをしたなと思わずにはいられなかった。
「はぁ、明日からどんな顔をして学校に行けばいいんですか?」
顔を真っ赤にして今にも泣きそうな表情で俺を見上げる天野。
「うお……」
「なんですか?」
「その顔……思いっきりそそる」
しゅー、っとヤカンが蒸気を発するかのように天野が耳まで真っ赤になる。
多分照れというより怒り。
「私が本当に困っているというのにあなたという人は……いたたっ」
叫ぼうとしたところで胸を押さえてベッドにうずくまる。
「あ、悪い。安静に……だったな」
「まったくもう」
いや、天野……その捨てられた子犬みたいに涙目で見上げるのは止めてくれ。
かわいすぎて俺の頭がどうにかなってしまいそうだからさ。
「とりあえず出て行って下さい。今は相沢さんの顔が一番の毒です」
「分かった」
素直に立ち去ることにする。俺も今の天野の顔を見てるとぶっ倒れてしまいそうだし。
「相沢さん」
保健室の扉に手をかけたところで呼び止められた。
「夕方、あの丘に」
「無理するなって。今日は安静にしてろ」
天野が首を横に振る。心配いらない――か。
「そこで教えて下さい」
「何を?」
「相沢さんが私と、『どう生きたいのか』を……です」
昼下がりのものみの丘。俺はその草原に腰を下ろしている。
暑さも峠を越したこの時間、丘には涼やかな風が流れていた。
だが、それだけだ。それ以外には何も聞こえない。
丘の生きとし生けるもの全て皆、この一時の暑さを忘れさせてくれる風に身を委ねているのだろうか?
「あれからずっとここにいたんですか?」
「ん、他にすることもなかったしな」
横に置いていたコンビニの袋から肉まんを取り出し、後ろから近づいてきた少女に差し出す。
「食うか?」
「この暑いのに肉まんですか?」
「もう冷めちまってるから大丈夫だ」
「好意に甘えていただきます。お昼、食べてませんでしたから」
「そう思って買っておいたんだ」
「まるで私が約束の時間より早く来ることを予想していたみたいな言い方ですね」
「俺がそうするなら、天野もそうすると思ったからな」
苦笑いをしながら天野は髪をさっとかき上げ、俺の隣に座った。
そして、ゆっくりと味わいながら冷めた肉まんを口に収めていく。
「おいしいです」
「ま、腹が減ってれば何だってうまいよな。時期外れでも冷めてても」
「そうですね」
くすくす、そんな音が漏れてきそうな微笑みを見せる天野。
その手が俺の隣に置いてあったペットボトルに伸びる。
「いただいてよろしいですか?」
「いいけど間接キスだぞ」
「この暑さの中、肉まんだけ食べろというのは酷な話です」
「それもそうだ」
涼やかな風に身を委ねて、隣町の全景を見下ろしながら――このままこうして二人で夕方を待つのも悪くない。
こんな和やかな雰囲気は何ヶ月ぶりだろう?
春に桜舞う校庭で天野と話した時以来だろうか。
そうだ、あの時から俺はこの丘に通うようになったんだ。
あの冬以来一度も足を運ばなかったこの場所へ。
そして、丘では幾度となく天野と顔を合わせ、いつしか俺の側にはいつも天野がいた。
全ては『逃げ』だったのだ。最初は忘れることで、次は希望にすがることで。
俺の時間はあの時から止まったままだった。
今日こそ、その時間を動かそう。俺の答えを天野に伝えて――
「俺は真琴のことを待っている。もちろん今日ここにいる瞬間にだって、明日も明後日もその先も待ち続けると思う。だけど、それは天野も同じだろう?」
「私が真琴を……ですか?」
「いや、天野の『あの子』のことだよ」
「……はい。私も待ち続けています」
「だけどただ待つだけじゃ駄目なんだ。だってそれは現実から目を背けているだけだからな」
「ええ。でも、分かっていてもどうすることも出来ません」
「ああ、俺だって駄目だった。でもな……」
「でも?」
「現実的に夢を見ることなら出来ると思うんだ」
「具体的にどうするのですか?」
「俺と天野で家を作るんだ。そこであいつらが帰ってくるのを待つ。過去に囚われるんじゃなくて、『これから』を歩みながら……」
「出来ますか?」
「出来る。天野とだから出来るんだ。天野とじゃなければ出来ない」
「……ってのは駄目か?」
立ち上がり、天野を見おろして最後にそう訊ねた。
天野はくすっ、と微笑んで同じように立ち上がり――
「いえ、合格です。祐一さん」
「……あ」
「呼んでもよろしいでしょう? これが相沢さんへの私の答えです」
「ああ……ありがとう」
だが、俺達の我慢もそこまでだった。
どちらともなく相手に飛びつき、固くぎゅっと抱きしめ合う。
「……祐一さん……私……信じていいんですね? 祐一さんのこと」
「俺も……信じていいんだよな? 美汐のこと」
僅かに体を離し、間近で見つめ合う二人の目には涙がとめどなく溢れていた。
頷くかのように相手にもたれかかり、再びお互いを抱きしめあう。
「信じられます、祐一さんなら。だけど……今だけは泣かせてください」
「俺も……美汐だから信じられる。だけど……今はお前の腕の中で泣かせてくれ」
俺達は俺達の夢を笑わない。忘れない。
だから二人で『これから』を歩んでいける。
そして、二人なら同じ夢を見続けることが出来る。
夕焼け色に染まった丘の上で、最後に拭った二人の汗と涙。
それは塩辛い味がした。
「祐一さん。告白は冬の季語だと思うんです」
「そうか? 俺は春だと思うぞ」
「でも……少なくとも夏ではないです」
「全くだ」
俺と美汐が名前で呼び合う仲になって次の日の日曜日。
俺達は天野家の縁側に扇風機を置いてぼーっとしていた。
二人でどこかに出かけよう、という約束もこのうだるような暑さの中では情けないまでに無力である。
とどめに天野家はエアコン修理中という始末。もはや徒歩三十分の水瀬家に帰る気力すら起きない。
こんなことなら美汐に水瀬家に来てもらうべきだった。
ジージー
蝉まで鳴き始めて、余計に暑さが増した気がする。
ついに耐えかねて俺はごろんと横になった。
「行儀が悪いですよ祐一さん」
「悪い。実は昨日寝てないんだ。美汐とどこに行くか布団の中で考えてたら……ふぁ」
あくび混じりにそう言うと、美汐はくすっと口元を押さえた。
「実は私もです」
「んじゃ二人で昼寝でもするか?」
「そうですね、では……」
首を振っている扇風機を固定し、その隣に正座する美汐。
そして前に突き出した太ももをパンパンと叩いた。
「いかがですか?」
「いいのか?」
買い物に出かけているとかいう美汐の両親にそんな光景を見られたら……。
「大丈夫ですよ。これくらいは」
「美汐が大丈夫って言うならいいか」
「はい」
暑さと眠気でとろけそうになる頭を振りながら起き上がり、美汐の側に。
「横と正面、どっちがいい?」
「祐一さんのお好きなように」
言葉に甘えて正面に頭を置く。
膝枕なんて初めての経験だが、太ももの間にちょうど頭がおさまっていい按配だ。
何より、とても柔らかい。そして、上はいい眺めだ。
「こうして見ると、思ったより大きいな」
「言うと思いました」
頬を少し赤らめながら美汐が苦笑する。
「俺はこのまま寝るけど美汐は……」
美汐はいいのか? そう尋ねようとした時には上から小さな吐息が漏れていた。
頭を垂れた美汐の安らかな寝顔は膝の上の俺からしか見えない。
まさに俺だけの美汐だった。
「へへ……」
何か無性に照れくさくなって鼻の下を擦る。
目を閉じる前に庭先を見ると、青と麦わら色のシオカラトンボ。
確か青がオスで麦わらがメスだっけか。ま、お前達も幸せにな。
俺の祝辞に礼でもするかのように二匹は空に大きく円を描いてみせると、いずこかへと飛んでいった。
長い長い夏の午睡。
その夢から醒めた時、俺たちはどんな未来を見るのだろう―――