その少女はいつも孤独だった。
いつからいるのかは分からない。
少女自身、いつからそこにいたのかを忘れてしまった。
気がついた時には一つの建物の中にいた。
その建物の中には誰もいない。彼女だけの世界だった。
建物の窓からは町並みを見渡すことが出来る。しかし、その光景は常に一定していない。
秋が来れば、緑は赤くなる。冬が来たら、窓の外が銀世界になることもある。
春になると新しい緑が生まれ、夏にその緑が実る。
そして、一年という月日が流れていく。
巡りゆく季節の光景を、彼女はどんな思いで眺めているのだろうか。
それは誰にも分からない。
だって、彼女は――――
忘れえぬ夏
町はずれに、一つの古ぼけた建物がある。
その建物はもう二度と使われることはないのだろう。割れていない窓ガラスは一枚も見当たらず、壁のあちこ
ちにはヒビが入っている。不良のたまり場になっていた時期もあったのか、堀や外壁には落書きされていて、誰
も消そうとせず、ほったらかしにされている。
その建物は、かつて病院と呼ばれていた。病院と呼ばれていた頃は、人の出入りが激しかったのだろう。その
賑わいも、今となっては幻となっている。
どうして病院ではなくなったのか分からないが、古くからいる住民はその理由を知っている。
今から10年ほど前に火災に見舞われ、患者や職員が多く死んだ。それ以来、焼け落ちたままの建物を再利用
しようと名乗り出るものはいなかった。交通の便が不便であるというのも、その理由の一つだった。
もう一つの理由としては、火災のあとに幽霊を目撃したという噂が絶えなかったからである。
病院だった建物を管轄している市で行われた議会の末、今年の秋に解体されることが決まった。なじみ深い建
物との別れを惜しむ人が一人ぐらいいてもおかしくはないのだが、幽霊の噂もあってか、その建物に足を運ぼう
とする人はあまりいなかった。辛い場所だからこそ、足を運ばなかった人もいるのかも知れない。
盆入りを前に控えたある日、建物の中に一つの影があった。カジュアルシャツにジーンズという格好で、カジ
ュアルシャツの上には薄いジャンパーを着ている。青年の名は中篠慶敏。
父はサラリーマン、母は専業主婦で、妹と弟が一人ずついるという平凡な家庭に育った。
毎年のように、家族と一緒に父の実家に行っていた彼は、幽霊の噂を聞いて、興味半分で建物の中へ足を運ん
でいた。怪談やホラー映画が好きというわけではないが、好奇心が強く、何か興味深いことがあれば、人が近寄
らないような場所にまで足を運ぶという癖を持っている。そのため、時には家族を心配させることもあり、クラ
スメイトからは、
「将来、良い新聞記者になれるだろう」
とまで言われている。半分本気、半分皮肉という意味合いで。
その当人は、興味深いことに首を突っ込むこと自体、深く意識していないだけあって、家族やクラスメイトの
気苦労が絶えることは非常に稀であった。
どこからか幽霊の噂を仕入れて、病院だった建物に行こうと決意した時、妹の紗代は必死に止めようとした。
だが、父の慶樹と母の加代が生憎不在――この時、二人は慶敏の弟である大樹を連れて、少し離れた場所にある
デパートへ買い出しに行っていた――と言うこともあって、兄に押し切られる形で家の中に留まった。祖母の方
は、久しぶりに会った孫に対して料理を振るった疲れがたたってか、早めに寝ている。
そうでなくても、紗代は最初からそうするしかなかったのである。兄を止めることが出来るのは、両親でない
と無理だと判断したからだった。
妹を無理矢理に納得させた彼は懐中電灯を片手に、その足で病院だった建物に足を運んでいた。そして今に至
るわけである。
「しっかしなー、市も不用心だな。10年も前からほったらかしにされているというのに、立ち入り禁止にする
とかの対策を立ててないな。まあ、こっちとしては簡単に入れたからいいか」
懐中電灯を片手に、暗闇を照らしながら廊下を歩く。
ずっとほったらかしにされているためか、電気は通っていない。すでに止められているのだろう。水道も同じ
らしく、蛇口をひねっても水は出ない。ガスは確認しなくても、止められていると予測できた。
かすかな明かりだけを頼りに、階段を上って二階へ上がった慶敏は廊下に出た。そのまま、近くの部屋――ド
アは外れかかっていた――をのぞき込んだ。
とくに何ともない部屋だった。火事で焼け落ちたあとに撤去されたのか、備品は一つもなかった。
窓からは、月明かりのかすかな光が入っている。一通り見回してから、中になにもないことを確認した慶敏は、
外れかかっているドアを押しのけて、再び廊下に出ようとした。
その時、蝶番が限界を超えたのか、鈍い音を立てて外れ落ちた。少し遅れて、古ぼけたドアがスローモーショ
ンのようにゆっくりと傾いていく。そして、大きい音とともに、床に激突した。
一瞬、音が外に漏れたかと思い、表情を強張らせた慶敏だったが、
――よく考えれば、ここにいるのは俺ぐらいだな。
と、ここにいる人物が自分ぐらいしかないと思い直して、気を取り戻した。
床に激突し、割れてしまったドアをそのままに、廊下に躍り出た慶敏は、さっきのことを省みてか、音を出さ
ないように注意しながら歩いていく。
二階を調べつくしたあと、三階に上がった慶敏はそこで、自分と同じように、幽霊が出るという噂に興味を持
ってやって来たのだろうと思い、近寄ってみる。
よく見れば、それは女性らしき人物だった。
「そこの君」
自分が呼ばれているのだろうと分かったらしく、人影は振り向いた。
「私のこと?」
自分の顔を指差しながら、人影は問い返した。答える代わりに、慶敏は頷いた。
近づいてみると、人影の輪郭がはっきりと分かってきた。年のころは16、7頃だろう。自分とは同年代だと
分かる。寂れたその場には不釣り合いなほどの可愛らしい顔。髪は背中まで伸びていて、首の後ろ辺りで束ねら
れている。着物――慶敏にとっては、着物と浴衣の見分けがつかないのだから、浴衣なのかも知れない――に草
履という、これもまた、この場所には不似合いな服装だった。全体的に見れば、古風な感じが出ている。そんな
少女だった。
「そう言うあなたは誰?」
少女に尋ねられて、慶敏は簡単な自己紹介をした。
「俺は中篠慶敏」
慶敏が自分の名前を言うと、少女は微かに微笑んだ。
「じゃあ、私の名前を教えてあげる。私は真砂。賀本真砂よ」
「真砂、か……」
小さく名前を呟きつつも、ここには不釣り合いな人物だなぁ、と慶敏は考えていた。
目の前にいる真砂という少女は、かわいげな顔をしているが、どことなく陰のある表情を見せている。その理
由が何なのか分からない。
だが、真砂に対して聞きたいことがあった。
「なあ、どうしてここにいるんだ?」
「…………」
真砂は何も答えない。
「もしかして、家に帰りたくないのか?」
「………ないから」
「え?」
「私には――家がないから……」
「家が……ない?」
真砂は頷いた。
慶敏は、真砂が帰るべき場所を持っていないことに驚いた。家出をしたからなのかも知れない。聞こうとし
て、それを止めた。
「いや、ごめん」
「どうして謝るんですか?」
「聞くべきことじゃなかったから……」
どんな事情があるのかは知らない。真砂という少女がこの場にいるのは確かなことである。
そして、もっと気になったことが一つあった。
硝子がない窓の外は、相変わらず暗かった。外から月明かりが差し込んできているが、それでも暗いことに変
わりはない。
何故、こんな時間に、ここいるのだろうか?
腕時計に視線を移してみれば、針は九時を過ぎている。普通の女が一人で出歩く様な時間帯ではない。
「中篠さん」
「?」
「気にしなくても良いよ」
「し、しかし……」
そんなことを言われてしまうと、より気にしてしまうであろう。現に、慶敏はどう言葉をつなげて良いのか分
からず、しどろもどろになりつつあった。
「それに、私はここが好きなんだから」
窓辺から顔を乗り出しながら、真砂は小さく微笑んだ。
「ほら、今日も星が見えるでしょう?」
その言葉につられて、慶敏も硝子のない窓から夜空を見上げた。曇りのない夜空には、都会では見られないほ
ど、多くの星が輝いている。
真砂は、無数にある星の中の一つを指差した。
「ほら、あれが北斗七星」
「北斗七星か……」
真砂が指差した先には、確かに北斗七星があった。それを懐かしそうに眺める。
「ゆっくり眺めるのは、本当に久しぶりだな」
久しぶりという言葉に、真砂は驚いた様な顔をした。
「久しぶり? この街の人じゃないの?」
「うん、そうだよ。といっても、俺の父はこの街に住んでたんだ。だから、盆や年末年始には里帰りしているけ
どね」
顔を真砂の方に向けてから、「それも強制的にね」と付け加えた。
「まあ」
口に手を当てて、クスクスと笑う。
「都会と違って遊びが少ないけど、その代わり自然が多いから、子供の頃は無邪気にはしゃいでいたなぁ」
「都会かぁ。楽しそうな場所でしょうね」
「楽しいけど、人が多すぎて疲れると思う時もあるけどな」
「でも、華やかさがあって良いでしょう」
「まあね…………って、やばい!」
腕時計に視線を移して、その針が十一時を過ぎていることに気付いた。今頃、家族は心配しているのだろう。
「中篠さん?」
「悪い。これ以上遅くなると、家族が心配するのかも知れないからな」
腕時計の針を見せられて、真砂は今の時間を知った。
「もうこんな時間なのね」
「俺はそろそろ帰るけど、君はどうすんだ?」
帰ろうとして、真砂が帰るべき場所を持ってないことに気付いた慶敏は、ためらいがちに声をかけた。
「良かったら俺の家、といっても正しくはじいちゃんやばあちゃんの家だけど、来るかい?」
だが、真砂は首を横に振った。
「言ったでしょう。私には帰る場所がないって」
「だったら……!」
放っておけないじゃないか、と言いかけて、真砂の人差し指が慶敏の口に触れた。その指は何故か冷たかっ
た。
真砂は小さく微笑んだ。
「心配しなくてもいいわ。明日の夜にはちゃんといるから」
「そうか……」
真砂の笑顔を見ていると、言葉を続ける気が薄れていくのを感じる慶敏だった。
「中篠さんこそ――」
「ストップ! その中篠さんっての、止めてくれない?」
「え……?」
「俺は君のことを真砂って呼ぶから、俺のことを慶敏さんって呼んでくれない?」
「慶敏……さん?」
「そうそう、その調子」
「……何か恥ずかしいです」
真砂は頬を赤らめていた。
「じゃあ、明日の夜にもあおう」
「ええ、会えるといいね」
次の日、慶敏は再び廃墟――先日、真砂と出会った建物――に足を運んだ。
時間は八時半を過ぎている。昨日、家に帰った時、やはりというか家族は慶敏の帰りが遅いことを心配してい
たのであった。その轍を踏まない様に、前もって帰りが遅くなると家族に伝えておいたのはいうまでもない。
慶敏の父、慶樹の実家から廃墟までは自転車で20分ぐらいかかる。それだけ、この街が田舎であることと、
廃墟が街という名の空間から隔絶されていることを証明している。
誰も立ち寄らないため、道は全く舗装されておらず砂利道と化している。
砂利道の中を、慶敏は転倒しない様に気を付けながら自転車をこいでいく。もちろん、ヘッドライトを付けて
いくのを忘れなかった。
付けなかったら転倒してもおかしくはない。それほど道が悪いのである。
少し危なげに自転車を走らせることおよそ30分。ようやく廃墟にたどりついた。
慶敏は玄関のそばに自転車を置くと、懐中電灯を手にして、廃墟の中に入っていった。真砂と出会った場所
にまで行ってみると、彼女は既にいた。
慶敏の姿を確認した真砂は、まるで恋人が来たかの様な笑みを浮かべた。
「こんばんは、慶敏さん」
真砂を見て、慶敏は懐中電灯を持ってない方の左手を挙げて応えた。
「おう」
「…………」
突然真砂が黙り込んだので、慶敏は首をかしげた。
――何か変なことを言ったかな?
しばらくして、真砂はおずおずといった感じで口を開いた。
「今のは、挨拶なんですか……?」
慶敏はようやく気付いた。さっきの言葉は、慶敏にとっては当たり前の様な挨拶なのだが、真砂にとっては
初めて耳にする言葉だったらしい。だから、意味が分からず黙り込んだのだろう。
「ああ。真砂は知らなかったのか?」
「?」
今度は、真砂が首をかしげる番だった。
「友達同士では、たまにこういう挨拶をするんだよ。…………ひょっとして、知らないの?」
真砂は、答えの代わりに頷いた。
――もしかして、真砂ってどっかのお嬢様なのかな……?
真砂の雰囲気や知識――偏見があるかも知れないが――から見て、慶敏は彼女がお嬢様育ちだと思った。
「なあ、真砂」
「何ですか?」
「もしかして、真砂はお嬢様育ち?」
真砂は一瞬呆気にとられたが、やがて吹き出した。
「ちょっと違うね。でも……」
言いかけて、真砂は口をつぐんだ。そのまま、何も言わずに窓の方へ向かって歩いていく。そのまま、身体
を乗り出してから月を見上げる。
その月は丸いとは言えないが、銀色の光を放っている。地上を懸命に照らそうとして、それが無駄なのかも知
れないと思いながら、不思議な光を放っているかの様だった。
「真砂……?」
「ごめん。さっきの続きは聞かないで」
月を見上げている真砂の顔は悲しげなものだった。そんな真砂を見て、慶敏はかけるべき言葉を失った。
「こうして月を見上げると、辛いことや悲しいことを忘れられるから……」
「…………」
「ふふふ、ごめんね。愚痴っぽくなって」
小さく笑った真砂は月を見上げるのを止めて、慶敏と向かい合った。
「慶敏さん」
「?」
「あなたは幽霊を信じる?」
「はぁ?」
真砂の問いかけが分からず、慶敏は思わず聞き返した。
「幽霊はいると思っている?」
「さあな。小さい頃は結構信じてたけど、今は全く信じてないな」
小さい頃、彼は幽霊の存在を信じた。大人の作り話である怪談を、本当の話だと信じ込み、闇を恐れた。大き
くなるにつれて、そういうものを次第に信じなくなってきた。同時に、神や仏を信じることもなくなった。だか
らこそ、幽霊という存在を否定している。
「そう……」
慶敏の返事に、真砂は気落ちした。肩を落としたまま、背中を見せて歩き出す。
「お、おい」
「ごめんなさい。今日はもう話す気になれないの」
そう言って、そのまま駆け出した。
「真砂!」
慌てて後を追う慶敏。
だが不思議なことに、真砂に追いつくことが出来なかった。むしろ、距離が空いていく一方だった。女性で
ある――更に、彼女は着物を着ていた――のに、男性の慶敏が追いつけないのである。
「何で、追いつかないんだよ……?」
遠ざかりつつある真砂の背中を見ながら、慶敏はぼやいた。既に息が切れかけている。だが真砂の方は、
息切れすることなく走り続けた。
そんなに走り続けたわけではないが、時間が永いものに感じられた。
やがて、真砂は一つの部屋に入り込んだ。その後に続いた慶敏だったが、部屋の中に真砂の姿はなかった。
その部屋に真砂が入り込むのを見たのに、である。
「嘘、だろ……?」
部屋の中に、人間一人が隠れる様な場所はない。なのに、真砂の姿は見当たらない。
その時、真砂の言葉を思い出した。
『幽霊はいると思ってる?』
――まさか、な……。
もしかしたら、真砂は幽霊なのかも知れない。そう考えながらも、彼はその想像を頭ごなしに否定した。
「いる訳ないんだろ、幽霊ってのは……」
それでも、その考えを否定しきれなかった。結局、真砂を探すのを諦めて病院をあとにした。
次の日の夜。
真砂に会ってみて、昨日の質問の意味を、そして何故か見つからなかった理由を聞くために家を出ようとし
て、靴を履きかけていた慶敏は後ろから呼び止められた。
「お兄さん!」
振り返らなくても、自分を呼び止めたのが誰なのか分かった。お兄さんと呼ぶ人は、妹の紗代しかいないから
である。
祖母と両親は、近くに住んでいる知り合いの家に出かけていた。
紗代は高校に入ったばかりで、共働きであった両親に代わり、家事を手伝うことが多かった。家事と料理が上
手くなるのは必然的なことで、弟の大樹からは姉としてだけでなく、母の様に慕われている。しかし、大人しい
弟の大樹とは違って、自由奔放な兄の慶敏は何となく苦手だった。苦手というよりは、手に負えないという方が
正しい。
これまでに何度も兄をたしなめてきたが、その度に言いくるめられてしまう。手に負えないがき大将を相手に
しているというよりは、人間の言葉を喋れる猫を相手にしている様なものだった。
靴を掃き終えてから、声がした方に振り向いた。
そこには彼の予想通り、妹の紗代が立っていた。年は兄の慶敏より一つ下である。容貌は年相応のものだが、
芯はしっかりとしている。いや、家庭の事情でそうならざるをえなくなったからなのだろう。
心配しているからなのか怒っているからなのか分からないが、少し頬を膨らませている。
「紗代か」
「お兄さん。またあそこに行くのね?」
あそこがどこなのか聞き返さなくても、慶敏には分かっていた。そして、紗代が呼び止めた理由も何となく判
ってきた。出かけようとしている自分を心配して引き留めるつもりなのだと。
「お願いだから止めて。幽霊が出るって噂だから……」
今は幽霊や神という存在を否定している慶敏とは違い、紗代は未だに幽霊という存在を信じている。だからこ
そなのだろう。幽霊が出るという噂が出ている病院を訪れようとはしない。
同時に、兄が幽霊に取り憑かれるのではないかと心配していたりもする。違う意味で、兄を心配しているとい
う健気な妹だった。
そんな紗代の不安を吹き飛ばすかの様に、慶敏は笑って見せた。
「ははっ、お前はいつもそうだったんだな。小さい頃は、俺のあとをよちよちと歩いていたのに、いつの間にか
しっかりしてきたな」
二人が小さかった――この時、大樹は産まれて間もない時だった――頃、二人は一緒に河原へ遊びに行ったこ
とがある。この時、兄の慶敏は勇んで出かけたものの、妹の紗代は河原という世界を知らなかったため、怯える
様な足取りで兄の後を追いかけていった。それ以来、兄の背中を紗代はたどたどしい足取りで追いかける様にな
っていった。
二人とも大きくなった今、その光景はもう見られない。ただの懐かしい思い出という存在になってしまってい
る。
「兄さんがそんなんだから、私がしっかりしなきゃと思ったのよ」
「それもそうか」
慶敏は笑いながら、ポンと紗代の頭に手を置いた。
「俺が怪我したことなんてなかっただろう? 兄を信じろよ」
「それが出来るのなら、私たちが苦労しません」
それもそうだったな、と慶敏は思った。
彼は命に関わる様な怪我をしたことは一度もない。あったとしても、擦り傷ぐらいである。不良に絡まれて、
ナイフで腹を刺されて半月近くの間、入院したことがある。その時、家族はおろか友人や担任の先生までもが心
配して、病院に駆けつけた。幸いにも急所を外れていたのだが、一番心配したのは紗代だった。
兄のことをよく知っているだけに、いつかああなるかも知れないと思っていたことが現実に起こったからであ
る。最初、その報告を聞いた時、心臓が飛び出るほど驚いた。もしかしたら死ぬんじゃないのかな、と思いなが
ら急いで病院に向かった。命に関わるほどの傷ではなかったと聞いて一安心したものの、それからは世話を焼く
妹として、毎日、学校の帰りに病院へ立ち寄ったほどである。
兄離れできないと言うよりは、兄が心配で目を離せないと言う方が正しい。
「あの時も、お前に迷惑をかけっぱなしだったな」
自分が刺されて入院した時のことを思い出したのか、慶敏は済まなさそうな顔になった。
「お兄さんが無事だったからいいんです。引き留めませんが、せめて無茶はしないでね」
「わかった。それぐらいは約束するよ」
なで回していた手を放すと、再び背を向け出す。
引き戸を開けて外に出ようとする慶敏に、紗代は後ろから声をかけた。
「くれぐれも気を付けて下さい、お兄さん」
「じゃあな」
立ち止まって、顔だけを後ろに向けて挨拶を交わす。その後は、昨日の様に自転車にまたがって、廃墟へと向
かって走り出した。
紗代と話したためか、遅くなっていた。廃墟に着いた時、既に十時を過ぎていた。
――真砂の奴、待ちくたびれているだろうな。
悪いことをしたかな、と思いつつ廃墟の中に入った。暗い廊下の中を歩きながら、色んなことを考えた。
幽霊を信じないと言われた時の真砂の悲しそうな顔が頭から離れなずにいた。一番気になったのは、病室で姿
を消した真砂。隠れる場所がないのに、真砂の姿が見つからなかった。
その時、妹が言っていた言葉を思い出した。この廃墟には幽霊が出るという噂を。
――まさか、な……。
あの少女――真砂が、幽霊なのかも知れない。それならば、幽霊を信じないと言われた時に悲しそうな顔を浮
かべたことと、隠れる場所がないのにも関わらず、見つからなかったことが頷ける。何より、あの指は冷たかっ
た。帰る場所がないというのも納得がいく。
そう考えながらも、彼女が人間であって欲しいという思いが頭の片隅にあった。
しかし、いつもの場所に真砂の姿はなかった。
「俺が来るのが遅かったから、怒って帰ったのかな……?」
真砂の姿がなかったという残念さもあったが、同時に気まずい思いをしなくて済むという安堵の思いもあった。
窓の外から星空を眺めてみる。あの日の夜と同じように、数多の星が輝いている。街がある方に目を移すと、
小さいが提灯の明かりが見えた。
「ああ、明後日か」
明後日、そこで地元の祭りが行われる。その日は、ちょうど送り盆の日でもある。
仏教が根付いている日本ならでは、の行事である。迎え盆の時、ご先祖が帰ってくる。この時、ご先祖は胡瓜
に乗ってやってくる。そして、送り盆の時に、茄子に乗ってゆっくり帰る。これが盆の習わしである。
祭りのあと、参加者はゆっくり帰るご先祖の魂を送るために、近くの川で灯籠流しをする。彼等は、どんな思
いで灯籠を流すのだろうか。それは本人にしか分からない。
幽霊とかあの世というものを信じない慶敏にとって、灯籠流しの意義というものが分からなかった。いや、灯
籠流しの行事そのものがばからしく思えてならなかった。
そのまま、祭りの準備の光景を眺め続けた。30分ほど経っても、何故か真砂は姿を見せなかった。
真砂に会えなかったという虚しさを抱えたまま、その日は帰るしかなかった。
その次の日、慶敏は新聞を読んでいた。新聞といっても、当日の朝刊ではない。祖母は、この街であった大き
い事件の記事を切り取って、自分のノートに貼るという習慣を持っている。だから、新聞と言うよりは新聞記事
が貼り付けられているノートといった方が正しい。
地方新聞にしか載らない程度の小さな事件から、全国の新聞に載る様な事件まで貼り付けられている。それを
片っ端から読んでいく。
その中に、病院――今は廃墟となっている建物が、火事で焼け落ちたという記事があった。原因はガスが引火
したという、些細なものだった。不幸だったのは、火災が起きたのが深夜近くということだった。そのためか避
難が遅れ、多くの人が焼け死んだ。街から離れた場所ということが災いして、消防車の到着は遅れた。逃げ出せ
たものの、この時の火傷が原因で、あとで死者の列に並んだ人も何人かいた。
「慶敏や、何を読んでいるのかえ」
夢中になって読んでいた慶敏は、後ろから声をかけられて驚いた。
「ばあちゃんか。いきなり声をかけないでくれよ」
「そりゃ悪いわねぇ。おや、これはあの火事か」
記事の写真――火に包まれている病院――が目に入った祖母は、何かを思い出した様だった。
「あんた、紗代から聞いたよ。廃墟に足を運んでいるって」
――紗代の奴め、いらんことを……。
と毒づいたが、当の本人はこの場にいない。
「ほら、その写真に写っているのは病院だろう」
言われてみて、慶敏は気付いた。
「もしかして、あの廃墟が病院だったところ……?」
「そうじゃ。10年前の火事では、ほんとにたくさんの人が死んだわぇ。実に気の毒じゃよ」
再び記事に目を移す。死者の数は12人、重軽傷23人。死者の名を見た慶敏は、思わず愕然となった。
――なんてことだ!
思わず叫びそうになって、それをかろうじて喉に押しとどめた。
死者の中に、賀本真砂という名前があったのだった。
「慶敏、顔色が悪いぞぇ。どうしたんかい?」
無意識だったが、その手は震えていた。顔には、冷や汗が浮かんでいる。
「い、いや、何でもない」
かろうじて、その言葉が声として出た。
「そうかぇ。ま、無茶せんようにな」
慶敏の身に何があったのか分からない。しかし、何か言えないわけでもあるのだろう。だから、あえて詮索す
ることをしなかった。
祖母が部屋を出て行ったあと、慶敏はやっとの思いで口にした。
「真砂。お前が、噂となっていた幽霊だったのか…………」
その日の夜、慶敏は再び廃墟へ足を運んだ。真砂にあって、聞いてみたいことが増えたからである。
本当に幽霊なのか?
どうして、病院に留まり続けているのか?
何故、成仏できないのか?
聞きたいことは他にもある。だが、真砂に会うのが先決だった。
あの場所に着いた慶敏は、真砂がいるのかも知れないと思って見回した。暗い廊下の中に、真砂の姿はない。
「真砂、いるのなら出てきてくれ」
その声は闇の中に溶け込んでいった。真砂の耳に届いたのかは分からない。もう一度叫んだ。
「真砂、いるのなら出てきてくれ。俺は、お前に話したいことがあるんだ!」
程なくして、真砂は姿を現した。さっきまではただの闇だった場所に立っている。
「…………慶敏さん」
どう声をかけようかとためらっていた慶敏だったが、遠回しに聞くよりはストレートに聞いた方がいいと思い、
聞きたかったことを口にした。
「お前、噂になっていた幽霊だったんだな……」
一瞬、驚いた様な顔をする真砂。ややあって、
「…………はい。そうです」
真砂は頷いた。
――やっぱり、そうだったのか。
自分の推測が間違ってなかったと分かったのと同時に、悲しくもあった。真砂は既にこの世の人ではない。生
きて会うことはなかったからこそ、なおさらだった。
「慶敏さんを騙すつもりはありませんでした。……結果的に騙すことになりましたが」
「いや、いいんだ。でも……」
「どうして成仏できないのか、と聞きたいんですね」
今度は慶敏が驚く番だった。聞きたいと思っていたことを、先に言われたからだった。
「前、ここで火事が起こったのは知っていますよね?」
「ああ。ばあちゃんが集めていた新聞記事を読んで初めて知ったよ。真砂は火事で死んだんだろう」
「はい。私が消えた部屋は、私が死んだ場所なんです」
「あそこが?」
真砂が、その部屋に向かった理由が分かった。
「でも、私は何故か成仏できなかった。多分、寂しかったから成仏できなかったでしょう」
「寂しかったから……?」
真砂は、自分の身の上を語り出した。
生まれた時から身体が弱く、入退院を何度も繰り返していた。学校で友達を作ることが出来なかったのは言う
までもなかった。真砂にとって、友達と呼べる存在は病院に勤めている看護婦――当時は、看護師という呼び方
が定着していなかった――と、同じ病院に入院している同年代の子供だけだった。親は仕事で忙しかったが、時
間を見つけては真砂のところに行っていた。ほとんどを病院の中で過ごさざるをえなかった彼女にとって、病院
の窓から見える景色が世界の全てだった。
自分のことを心配してくれる看護婦。病院の中で知り合った、同年代の少年少女。時間を見つけては、見舞い
に来てくれる両親。不満はなかった。あるとすれば、それは外の世界に触れる機会がなかなか訪れないことだっ
た。
そして、彼女は病気と闘いながら、17歳の誕生日を迎えた。本来なら高校に通う時期なのだが、身体が弱い
と言うこともあって、入った高校を長期休校している。学校側も同情したのか、一部の先生がわざわざ病院に足
を運んで勉強を教えた。また、かつて病院の中で真砂と親しくなった友人も時たまにやってきて、色んなことを
話してくれる。高校入学後、病状は進行し、病院の外に出ることはほとんどなかった。先生や友人、親が来てく
れる時間だけが、彼女にとって安らぎの一時となった。
ある日、それは唐突に終わりを告げた。
その夜、真砂はなかなか寝られなかった。いつもなら、とっくに寝付いているはずなのだが、その日に限って、
何故か胸騒ぎがして寝付けなかったのである。しばらくして、下で騒がしい音が聞こえてきた。
――何なのかな?
ふと、その騒ぎが気になった真砂は、開いている窓から下を見下ろした。その視界に入ったのは、暗闇を照ら
す炎だった。その炎と一緒に煙が出ていて、真砂は思わず咳き込んだ。
そして、病院が火事に見舞われているのだと気付いた。それならば、下の騒ぎが何なのか納得いく。あれは突
然の火事に慌てている患者と、懸命に患者を避難させようとしている医師達なのだろう。
自分も逃げなきゃ、と思ってドアを開けて部屋に出ようとした真砂は、突然の発作に襲われた。痛む胸に手を
当てて思わずしゃがみ込んだ。
「苦しい……。誰か、助けて……」
助けを呼びかける声は、誰の耳に入ったのか分からない。届いたのかさえも分からない。もう一度助けを呼び
かけようとして、ベッドにナースコール用のスイッチがあることを思い出し、四つん這いになりながらも、懸命
にベッドまで近寄っていく。
しかし、ドアの隙間や窓から煙が入り込んだらしく、視界が暗くなっていった。手触りでベッドについたこと
を確認し、ナースコール用のスイッチを押そうとして、伸ばした腕が届くことはなかった。煙が気管支に入り込
み、息が苦しくなってきたのである。
身体が重いね、と思いながら、真砂の身体が力無く崩れ落ちた。遠くで、サイレンの音が聞こえてくる。そん
な音を、真砂は薄れゆく意識の中で聞いた。
「気付いた時、私は焼け落ちた病室の中にいたの。自分は生きているのかな、と思ったけど、そうではなかった」
真砂がが目を覚ましたのは、焼け落ちた病室の中だった。外は明るかった。朝か昼なのだろう。自分は生きて
いるのかなと思い、周りを見回してみた。病室の中のあちこちには、所々に焦げ目がついている。
窓の外を眺めてみると、一つの建物から煙が出ているのが見えた。
どうして自分は生きているのかなと思いながら、壁に触った。触ろうとして、手がすり抜けた。
――え?
目の前の光景が信じられず、もう一度壁に触れてみた。またもすり抜けてしまう。
「どうして、すり抜けてしまうの……?」
すり抜けてしまう理由が分からなかった。この時、怪談の本で得た知識を思い出した。幽霊は壁をすり抜けて
しまう、と。その状況が、今の真砂に当てはまる。
――もしかして、私は死んだの……?
その時、全てを思い出した。部屋の中に立ちこめる煙。どんどん暑くなっていく部屋の中。遠くから聞こえて
くるサイレンの音。最後に目撃した、悪魔の様な炎。
全てを思い出した時、真砂は自分が既に死んだことを悟った。
「それからの間、私はずっと、ここにいた」
「…………」
「誰もいないから、とても辛かった。寂しかった。どうして、私は成仏できないでいるの……?」
真砂は泣きたかった。泣きたかったが、泣くことは出来ない。幽霊が涙を流すことなどないのだから。
それを見て、慶敏は真砂が成仏できなかった理由が分かった様な気がした。
「それは、真砂に未練があったからかな……?」
「未練?」
「外の世界に出たことがないんだろ?」
「あ……」
慶敏に言われて、真砂は自分が成仏できなかった理由に気付いた。外の世界を知りたいという渇望。それが皮
肉なことに、真砂を苦しめていたのだった。
「外の世界を見たいという願いが、私を苦しめていたのね……。どうして、気付かなかったんだろう……?」
「今からでも遅くはないだろう」
慶敏の言葉に、真砂は一瞬キョトンとなった。
「明日、近くの神社で縁日が行われるんだ。その時、一緒に外の世界を見ようか」
「一緒に……?」
「一人よりも二人の方が楽しいだろう?」
「……そうですね」
真砂は微笑んだ。それは、心の底からの笑いだった。
「じゃあ、明日の夜6時に病院の入り口で会おう」
「ええ、そうですね」
そう言って、真砂は小指を差し出した。指切りげんまんをしようと言うのだろう。慶敏はそれに応えた。
「はい、指切った」
慶敏はおかしいことに気付いた。
「…………ちょっと待て。どうして、幽霊であるはずのお前に触れるんだ?」
すると、真砂は面白そうに笑った。いや、自嘲的な笑みなのかも知れない。
「長い間、この世に留まっていると、色んなものに触れたりすることが出来るの。流石に食事とかは無理だけど」
なるほど、と慶敏は思った。その後は色々と話し込み、十一時過ぎになって、ようやく廃墟をあとにした。
帰る時、慶敏の心の中からもやもやは消えていた。疑問が解けたことと、真砂のために何か役立てることが見
つかったからだった。
送り盆の日の夕方六時。約束通り、慶敏は廃墟にやってきた。玄関には、既に真砂が来ている。真砂が着てい
る服はいつもと同じ、白色の浴衣だった。
「……なあ、真砂」
「何ですか」
「その浴衣しかないのか?」
「そうですが、変なんですか……?」
「そう言われても……」
慶敏は返答に詰まった。どう返事していいのか分からない。
変だと言えば、真砂は悲しむだろう。かといって、曖昧な返事をしたら真砂の機嫌を損ねるかも知れない。
「いや、悪くはないと思う。でも、周りから見ればちょっと浮いている感じがするかな……」
「そ、そうですか……」
慶敏の言う通り、真砂が着ている白い着物は、そんなにあるわけではない。だから、周りよりはちょっと浮く
のかも知れない。
彼の返事に、真砂はちょっと引きつった様な笑みを浮かべた。
「まあ、折角だから座れよ」
そう言って、自転車の後部座席に真砂を座らせた。彼女は着物を着ているので、横座りに座る。
「真砂、しっかり掴まっていてくれよ。でないと振り落とされるぞ」
「それは……分かっていますけど……」
何か言い淀んでいる真砂に、慶敏は思わず訝しんだ。
「どうやって掴まるんですか……?」
「そう言うことか」
慶敏は苦笑した。
「腕を、俺の腹に回して。ゆっくり走るからさ」
「は、はい……」
頬を赤くしながら、右手を慶敏の腹に回す。腹に触れた時、生命の鼓動が伝わった。
――これが、生きているということなのね……。
と真砂は思った。
未練を残したが故に、魂だけの存在としてこの世に留まっている真砂は、生きているという実感にようやく気
付いた。
「じゃあ、かっ飛ばすぞ」
「え!? ちょっと……」
真砂の返事を待たず、慶敏は自転車をこぎ出した。砂利道を走っている時は流石に速度を落としたが、舗装さ
れた道に出ると、少しだけ速度を上げた。その度に、真砂は思わず目をつぶった。背中まである髪が、風になび
いている。
自転車に乗って走り続けること、数十分。二人は目的の場所に着いた。
「その石段を上っていけば、縁日が行われている場所に着くぞ」
縁日の会場となっている神社は、慶敏達が立っている石段の上にある。段数はそんなに多くなく、田舎にして
は住民が多いため、石段の幅は広くなっていて、真ん中には手すりが取り付けられてある。このため、老人達が
苦労することなく石段を登ることが出来る。
神社の祭神が何なのかは分からない。住民の数がそんなに多くないためか、境内の広さはさほどのものではな
い。普段は寂れているが、今日だけは別だった。
縁日が行われているため、夜店が並んでいる。それに伴い、訪れる人の数も多くなっていく。しかし、最大の
見物は夜店や人の集まりそのものではなく、8時過ぎに打ち上げられる花火である。現に、花火目当てのために
わざわざ最初から場所取りに訪れる人もいる。一人だけで実行する人もいれば、グループを組んで実行する人も
いる。
送り盆の夜だけは、辺り一帯の住民が一番待ちこがれている特別な夜であった。
慶敏と一緒に石段を登った真砂は、まず、人の多さに圧倒された。親子連れでやって来ている人もいれば、恋
人と手を繋いでやって来る人もいる。
続いて、夜店の数にも驚かされた。縁日の定番となっている、金魚すくいや焼きそば、たこ焼き、わたがし、
かき氷などもあれば、型抜きといった、都会では珍しい夜店もあった。
広く空けた場所にある櫓の上から、太鼓を叩く音が聞こえてくる。それにあわせて、櫓を取り囲んでいる人々
が踊り出す。
「これが縁日……」
久しぶりに外の世界を覗いた真砂は、その賑わいに初めて触れた。病院ではなかなか知ることの出来ない経験
である。いや、縁日がどんなものなのかは知っていたが、そこに行ったことはない。行ったことがないからこそ、
この場が未知の世界に思えた。
「人が多いから、はぐれないようにしよう」
「……そうですね。気を付けないと、はぐれてしまいそうです」
実際、人の通りは多かった。真ん中の部分は空いているが、夜店の近くは人が並んでいる。真ん中の部分で待
っていれば、はぐれることは少ないだろう。
そう考えたものの、物珍しそうにあちこちを眺めている真砂を見て、その不安を拭いきれなかった。
「真砂」
「はい、なんでしょう?」
慶敏は手を差し出した。
「あの……、これは?」
「手を繋いでないと、はぐれるかも知れないだろ?」
それを聞いて、真砂は思わず頬を膨らませた。
「私を子供扱いするんですか?」
「い、いや、そう言う意味ではなくて……」
思わぬ反撃に、慶敏はしどろもどろになって、懸命に弁解しようとする。次の瞬間、真砂は口元に手を当てて
笑った。
「分かってますよ。一緒に見て回りましょう」
差し出された手を握り返す。握りかえしてきた手は冷たかったが、今となってはそう感じなかった。
――やっぱり、女の手って小さいんだな。
と思いながら、ゆっくりと歩き出した。それにつられて、真砂も足を踏み出す。
夜店の数は多くないものの、人の多さと相俟って全部見て回るのには時間がかかった。幽霊の身である真砂は
食事を取ることが出来ず、食事は慶敏一人だけというちょっと寂しいものだった。
真砂は済まなさそう顔をしていたが、慶敏に、そんな顔をされたらこっちが食べづらくなる、とたしなめられ
てしまった。この光景を目撃した人々は、二人の行動を怪訝に思ったことだろう。
食事は一人しかできなかったが、それ以外の夜店は真砂も楽しむことが出来た。
ふと、腕時計を見ると、もうすぐ八時だということに気付いた。
「真砂。もうすぐ花火が打ち上げられるんだ。ちょっと移動しよう」
慣れない人混みに疲れたのか、真砂は反対しなかった。本社の裏側にある高台へ向かう途中、慶敏は何を思い
だしたのか、真砂に、
「先に行ってくれ。買ってくる物があるから」
と言って、人混みの中に消えていった。
本社の裏側にある高台からは、駅や商店街の方角を見渡すことが出来、さらには海も見える。何と素晴らしい
眺めであることか。そこは穴場となっているらしく、他に人影はない。転落を防止するためか、崖の方には柵が
立てられている。木で作られた、簡単な構造の椅子が置かれていて、疲れた時に座ることが出来る様になってい
る。真砂は、そこに腰掛けた。
――慶敏さん、何を買いに行ったのかな……?
彼の突然の行動に、真砂は一抹の不安を抱いた。もしかしたら、そのままやって来ないのでは……。そういう
不安に潰されそうになる。無理もない。10年近くの歳月を、孤独の中で過ごしたのだから。
だからこそ、また孤独になるのが怖いと思った。真砂にとって、中篠慶敏という人物は自分を孤独から救って
くれた人でもあり、幽霊になったあと、初めて親しく話してくれた人でもある。友達とも言っても差し支えはな
い。或いは――。
しばらくして、遠くで何かが打ち上げられる音がしたので、その方に目を移すと、何かが凄い勢いで上空の方
に向かっていくのが見えた。程なくして、夜空に一輪の花が咲いた。
「綺麗……」
その後も続いて、夜空に花が次々と咲き乱れては、消えていく。
「やあ、待った?」
後ろから声が聞こえてきたので、振り向いてみると、慶敏が立っていた。ちょっと汗をかいていて、左手は背
中の後ろに回されている。何かを隠しているのだろう。それに、ここまで急いでやって来たらしくて汗をかいて
いる。右手には水分を補給するためなのだろうか、ペットボトルがあった。
――ああ、やっぱり慶敏さんは来てくれたんだ。
慶敏の姿を見て、真砂は自分の身体の中から不安が消えていくのを感じ取った。
「隣、いいか?」
「はい、どうぞ……」
真砂の承諾を得て、慶敏は彼女の隣に腰掛けた。
「悪い。花火が始まるまでに来るつもりだったのが、間に合わなかったんだ」
「いえ、いいんです。来てくれただけでも十分ですから」
「そっか……」
肩を並べて座りながら、一緒に花火を見上げた。空では、相変わらず祭りの夜を彩る花が咲いている。
そして、最後の花火が夜空に消えた。場に平穏な沈黙が訪れる。
「……慶敏さん」
「ん、何?」
「先ほどは何を買いにいらしたのですか?」
花火と真砂に見とれていたらしく、慶敏は何かを思い出したかの様に答えた。
「あ、ああ。そうだったな。手を差し出してくれ」
「?」
どうしてなのか分からなかったが、言われた通りに右手を差し出す。
慶敏は背中に回していた手を前に出すと、中にあったそれを右手の上に乗せた。
「これは……?」
右手の上に乗せられたもの。それは法螺貝の形をしたイヤリングだった。さほど大きくはなく、貝の部分の大
きさは指の関節一つ分ぐらいである。対になっていて、両方とも真砂の手の上にある。
「お前に似合うと思って買ってきたんだ」
「嬉しい……」
真砂の口から、そんな言葉が思わず漏れた。
「でも、私はもうすぐ帰れるのかも知れないわ」
帰れるのかも知れない。それがどんなことを意味しているのか、慶敏には分かった。未練がなくなった以上、彼
女は本来の居場所に向かうのだろう。
そう、あの世。もう死んでいる真砂にとって、この世は自分がいるべき場所ではない。いたとしても、苦しみ
が長く続くだけ。中篠慶敏という人物との出会いによって、賀本真砂はようやく救われようとしている。
「慶敏さん。私の苦しみを救ってくれて有り難うございます。それと、イヤリングの片方はあなたに返します」
「片方を? それはどうして……?」
イヤリングの片方を返された慶敏は、真砂の思いが分からなかった。
「一つ約束します。私はいつか、慶敏さんのところに帰ってきますと……」
真砂の身体が少しずつ透けていく。あの世に旅立とうとしているのだろう。
「ああ。でも、目印が……」
「目印は、このイヤリングだけです」
真砂は慶敏に近づいた。その身体は、向こうの景色が見えるほどにまで透けている。だが、表情は晴れやかな
ものだった。
「真砂……」
抱きしめようとして、それは出来なかった。腕が真砂の身体をすり抜けていた。
「そんな悲しそうな顔をしないで」
真砂は目をつぶって、慶敏の唇を塞いだ。冷たいが、唇には確かな感触があった。そのまま、慶敏の身体をす
り抜けていった。
「さようなら、慶敏さん。あなたは私の――」
すり抜ける時、真砂の声を聞いた様な気がした。最後の方は、慶敏の耳に届いたのかは分からない。
慶敏が振り返った時、真砂の姿は既になかった。
「俺もお前のことを、そして、その夏を忘れないよ……」
彼の頬を、熱い雫が流れていた。それを拭おうとはしなかった。
幽霊となっていた少女、賀本真砂との出会い。そして、別れ。その夏を、彼は決して忘れないだろう。いや、
忘れられないものとなっていた。
そして、一つの季節がもうすぐ終わる。慶敏以外、誰にも知られることなく……。
彼の頭上で、数多の星が輝いていた。
あれから10年ほどの月日が流れた。
慶敏は高校を卒業したあと、大学に進学し、日本文学を学んだ。卒業したあとは家族や友人の予想を裏切って
作家の道を歩んだ。大学在学中に作家デビューしたからである。
これを聞いた家族や友人は、思わず我が耳を疑った。どういう心境の変化なのだろう、とあれこれ勝手に推測
したりもした。誰もが、慶敏は新聞記者になると思いこんでいたからである。その予想を裏切られたのだから、
色々と推測してしまうのは当然といえた。
本人にしか分からないが、あの夏に経験した真砂との出会いや別れが、彼をそうさせたのだろう。今や、彼は
期待の新星として注目されている。
大学を卒業して三年後、慶敏は結婚した。相手は大学の後輩だった。
病院の中を、慶敏は歩いていた。いや、歩いているというよりはそわそわしているといった感じである。目の
前の扉の上で、分娩中というランプが光っている。
慶敏の妻は今、分娩室の中にいる。陣痛が始まったという連絡を、今から二時間前に受け取った。連絡を受け
取るやいなや、慌てて病院に駆けつけた。病院には、既に両親と紗代も来ている。
「兄さん、いい加減に落ち着いて下さい」
紗代は短大を卒業したあと、喫茶店で働き始めた。そして、そこのマスターと結婚し、既に子供をもうけてい
る。紗代が結婚することを知った弟の大樹は最初、反対し、紗代を始めとする家族を困らせた。結局、家族から
説得されて、渋々承諾した。
その大樹本人は今、大学四年生であるため、卒業論文や就職活動に追われる毎日となっている。今日は、その
合間を縫ってやって来ている。
「落ち着けと言われても、初めての子供が生まれるんだぞ? これが落ち着かずにいられるか」
これを聞いた加代は思わず吹き出した。
「私がそうだった時も、あなたは分娩室の前でそわそわしていて、家族にたしなめられていたでしょう」
「むう、さすがは俺の子供と言うことか」
慶樹の言葉に、その場の人全員が一斉に笑った。
しばらくして、扉の向こうから産声が聞こえてきた。
――産まれたか!
父親となる慶敏は、すぐにでも抱きたい気分に駆られた。それをかろうじて抑えた。
扉が開いて、赤子を抱いた看護師がやってくる。
「元気な女の子です」
おお、という叫びが辺りに響いた。
「抱いていいですか?」
「はい、気を付けてね」
看護師から赤子を受け取り、落とさない様に抱く。
「そういえば、赤子の右手がちょっと変なのよね」
その言葉を聞いて、慶敏は思わず赤子の右手に目線を移す。右手は何かを握りしめているらしい。
「何かを握っているみたいで、なかなか開こうとしないんですよ」
「ああ、そうだな。どうしてだろ……?」
空いている左手で、赤子の右手に触れてみた。その時、開いたことのなかった右手が開いた。右手の中にあっ
た物を見て、慶敏はあっ、と驚いた。
右手の中にあったのは、あの時、真砂に渡した法螺貝のイヤリングだった。
「は、ははは……。約束通り戻ってきたんだな……」
周りの人には、最初の笑い声が、我が子を抱いている嬉しさのあまりにあげたものだろうと思った。しかし、
後半分の言葉の意味が分からなかった。
いや、慶敏にしか分からなかったのだろう。あの日、真砂との別れを経験したのは慶敏だけだったのだから。
「なあ――」
分娩室にいる妻に呼びかけた。
「なぁに?」
「この赤子、真砂と名付けていいか?」
「真砂……。良い名前ね」
慶敏の妻は、夫が真砂と名前を付けようと言った理由を知らない。何となくだが、真砂という響きが良かった
ので、それに賛成したのである。
「そういえば、今日って何日だ?」
ふと、気になった慶敏は、傍らにいる紗代に尋ねた。
「今日、って……。確か、送り盆がある8月15日よ」
8月15日。それは、奇しくも真砂と別れたあの夜と同じ日だった。
――慶敏さん、約束通り戻ってきました。
真砂の声が聞こえてきた様な気がした。だから、慶敏は心の中で応えた。
――ああ。お帰り、真砂。
赤子の右手の中で、法螺貝のイヤリングがひときわ輝いていた。
完