寝苦しい夜が続いてますね。
そんな夏の夜伽にこのようなお話はいかがでしょうか―――
「都市百物語――コイン」
今、ここに男が一人死にかけている。事業に失敗し、妻子に逃げられ、人生何一ついいことがなかった。もう誰にも知られず、ひっそりこのまま――。男は路地裏で力なく倒れこみ、そこで自らの最期の時を迎えようとしていた。
だが、そんな男の目に何か鈍く光が飛び込んでくる。五百円玉――男はそう思った。その途端、もはや力のこもらぬはずだった足腰に再び力が宿る。あれを拾えば、あと数日生きられる。その先のことなどない。それは生物としての飽くなき生存本能だったのだろう。
ずしりと質感のある重み、それは確かに硬貨であった。しかし、男の望む五百円玉ではない。今まで男が目にしたこともないものだった。
男の意識はここで途絶える。前のめりに倒れた男の体は、それからぴくりと動くことも無かった。
幸か不幸か、男は警察に保護され一命を取り留めた。それから数ヶ月、男は生活保護を受けたのち、辛うじて暮し向きが立つところまで社会復帰を果たした。
そんなある日のことである。男が作業着に着替えていると、穴の開いたポケットから何かが転がり落ちた。形状からして500円玉のようである。思わぬところから食費が湧いたと小さな幸運を喜びながら男はそれを摘み上げた。
だが、それは500円玉などではなかった。男はその硬貨に見覚えがある。あの日、最後に拾ったものだ。無意識のうちにポケットに収めていたのだろうか。
何とはなしにその硬貨を観察する男。500円玉ほどの重量感、そしてそれ以上の光沢、精巧に彫り込まれた女神らしき女性から子供の玩具でないのは明らかだった。彫り込まれた女性は西洋人とも東洋人とも判断できないが、どこかの国の硬貨とも考えられる。ひょっとすると500円玉よりも価値あるものなのかもしれない。
男はまず職場の同僚にその硬貨のことを尋ねた。しかし、外国に出たことのある者などいない職場では、それがどの国の硬貨であるのか全く分からなかった。
意を決して男は銀行にそれを持ち込んでみた。しかし、それでもどの国の硬貨か分からない。何軒も回ってみたが無駄だった。しかし最後に回った銀行からは――これは硬貨ではなく記念コインではないのか――という見解を得た。
その時から男の中でその硬貨は硬貨でなく、コインと認識されるようになる。そして、男のコインに対する興味はますます膨れ上がっていった。これだけ素晴らしい掘り込みの細工を施されているのだ。ひょっとすれば相当な価値を持ったものなのかもしれない。
数千円の価値もあれば金に替えて仲間におごってやろう。男はそう思い、仕事の傍ら骨董屋にそのコインを持ち込んでは鑑定を依頼した。しかし骨董屋の主人たちは決まって「素晴らしい品だが、どういう経緯で作られたものかまったくわからない」と答え、鑑定料を辞退しながら頭を下げるばかり。コインの正体はようとして知れなかった。
これまでの男なら、そこでこのコインを投げ捨てるか、どんな値段でも構わないと言って金に替えていたことだろう。しかし、このとき男には不思議な充実感があった。それは生きがいというものなのかもしれない。なんとしてもこのコインの正体をつきとめる、そんな思いが男の全てを支配した。
一介の労働者のままではコインの正体を調べるのにも限界がある――その思いが男を仕事に専念させたのだろう。男の勤務態度はたちまち評価され、男はとんとん拍子に出世していった。それから四十年。男はひとかどの財をなし、工場主となっていた。
しかし、そんな彼の財力をもってしてもあのコインの正体は分からないままだった。誰に見せても「素晴らしい品だが、どういう経緯で作られたものかまったくわからない」という答えが返ってくるばかりである。男も既に七十過ぎ。生きているうちにコインの正体を知ることはもはや不可能に思えた。
そこに至り、男はある決心をする。工場を売り払い、その他全財産を全て処分した。男が手元に残したのはあのコインだけ。そして男はかねてより目をつけていた繁華街の一角に向かった。そこは奇しくもかつて男が力尽きかけたあの路地裏の正面である。
男はその繁華街で貸しビルの一階を借りきり、大改装を行った。かかっていた垂れ幕が降ろされ、そこに突如出現したものを見た時、通行人は誰もが思わず息を飲んだことだろう。それは上品かつ煌びやかな外装のゲームセンターだった。
男の作り上げたゲームセンターは外装もさることながら、他のゲームセンターとは一線を画す所があった。なんと、そのゲームセンターの遊具は全て専用のメダルを要求するものだったのである。そして、その専用のメダルとは、男が長年正体を追い求め続けたあのコインを複製したものだった。男のこだわりから材質、細工も念入りに吟味され、複製されたコインは男の持つオリジナルとほとんど変わりない仕上がりだったという。
この時からコインは男の中で再び硬貨と認識されるようになる。ゲームセンターは男の国であり、コインは男の国の通貨だった。
その独特のシステムから、気軽に入って楽しめないというのがもっぱらの前評判のゲームセンターだったが、予想とは裏腹に客の入りは上々だった。店の外装ともあいまって、女神の彫られた気品あるメダルは、それに不釣合いな客を寄せ付けず、いつしか日本一上品な遊技施設という評判を得るに至る。そのころには、ビル一つが男の国となっていた。
しかし、既に老いた男の命はそう長くなかった。ある朝のことである。男は自分の国の最初の領土、ゲームセンター1階の中心で息絶えているところを発見された。安らかな笑みを浮かべ、その手には一枚のメダルがしっかりと握られていたという。否、それはメダルではなく男の夢であったと言うべきかもしれない。
男の死後、ゲームセンターは新しい経営者を迎えて営業を続ける。既に評判の定着した男の国は未来永劫不滅かと思われた。しかし、その崩壊がわずか一年後などと誰が想像しただろうか。
きっかけは、新しい経営者が、無駄に鋳造費のかかっているメダルの出費を抑えることに手をつけたことである。材質を落とし、細工を簡素に、ぱっと見た外見は男の作ったメダルとさほど変わりはなかったが、見比べるとその違いははっきりと分かった。新しい経営者は無駄を省いた分収益が上ると信じていたが、事実は小説より奇なり。客はみるみるうちに減っていき、入り込んだ品の悪い客がますますかつての常連の足を遠ざけた。
男が自分の国を作ってから約十五年後、男の国は廃墟も残らず消え去った。残ったのは、自分の国を作り上げた男がいたという都市伝説のみである。
「一、十、百、千、万、十万、百万、――二百万円」
天井の電光板に表示される「200,0000万円」という文字。それを司会者が読み上げる。同時に起こる観客席からの大きなざわめき。皆の視線は古びた一枚のコインに集まっていた。コインには女神らしき女性が彫り込まれている。
骨董品の鑑定番組という趣旨の撮影スタジオのようだが、コインの出展者らしき男性もその鑑定結果に目を丸くしていた。司会者の目配せに頷き、鑑定席からマイクを片手に鑑定士の一人が立ち上がる。
「これは最近流行りのラッキーコインという、達磨や水晶球等と同じ、一種のお守りですね。私も父の日に子供からもらって大事にしてます」
鑑定士が懐から取り出したのは、会場の真ん中に展示されているものによく似たコインである。ただし、鑑定士のものは新しく、一目で量産と分かるほど細工が甘い。
「まあ、これはレプリカですが、依頼品はそのオリジナルで間違いないでしょう。噂に聞く通り美術品として見ても素晴らしい。この手のグッズを集めてらっしゃる方には喉から手が出るほどの代物ですよ。手に入れたあなたはツイてる。是非大事にして下さい」
司会者の求めに応じ、続けて鑑定士がラッキーコインの生まれた経緯を語り始める。それは、ある男の奇妙な物語。
男が死んで数十年。もはや男の名前も彼の建てた国の名前も人の記憶には残っていない。しかし、男の夢は多くの人に夢を与え続けているという。
―――いかがでしたか。
おや、もうお休みのようですね。
では、このコインはあなたの枕元に置いておくとしましょう。
あなたもぜひ良い夢を。