蝉時雨〜A Continuous Chorus of
Cicadas〜
夏・・・。
朝から、開けた窓から、五月蝿いまでの蝉時雨が聞こえる。
昼には、強い日差しが地面を焼き、彼女にもその暑さを届ける。
夕方、茜色の空と、悲しみを含んだヒグラシの鳴声が耳を打つ。
夜には、光の少ない街と、沢山の星を見ることができた。
今年が最後の、美しい・・・・・・世界。
あの子は、一時期は完治に近い状態まで回復した。
それは、姉のあたしも、あの子の恋人も喜んだ。
春が来て、桜が満開になる頃には、すでにあの子の夢はかなっていた。
あたしや、あの子の想い人、クラスメイトたちと、普通で、平凡な学校生活を。
スポーツ大会だって、結果はどうあれ、元気に走り回り、楽しんでいた。
長年の、夢が、叶ったというのに。
あの日は期末テストの最終日で、先に恋人と連れ立って帰ったであろうあの子のために、お土産を買っていった。
中間テストの時は経済的に余裕がなかったから買えなかったが、(その理由は、弁当の作りすぎにあるが)今回はハーゲンダッツのアイスを五つ。
我ながら妹バカであるが、本当なら二月一日に潰えていたであろうこの幸福は、財布の痛みなど気にも止めないくらいなのだ。
家で待っていたのは。
ソファに寝かされた、真っ青な顔をしたあの子。
同じく、別の意味で顔を青くした、あたしのクラスメイト、兼あの子の恋人。
玄関に冷気を放つビニール袋が落ちるのにも構わず、そこに向けて走った。
そして待っていたのは。
「ありがとう・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・・ありがとう・・・」
一週間。
アイツは、目を覚まさない。
余命は後わずか。
目を覚まさないまま、衰弱死するのは時間の問題。
そんな意味のことを医者は言っていた。
それ以外にも、「希望」だとか「奇跡」だとか「もう一度」だとかの単語が聞こえたような気がした。
だが、もうそんな言葉は耳に入らない。
魂が抜けていく。
二人の心が繋がって、永遠の愛を誓い合った・・・。
だから、アイツの命とともに俺の魂も消えていくんだ。
そう考えると、余計に無駄なことは耳に入らなくなった。
親切にしてくれる蒼い髪の二人も、正直迷惑だった。
苦しんでいるとはいえ、何かのマスクをかぶっているとはいえ、分厚いガラス越しだとはいえ、その寝顔は、美しく、眩しかった。
空を飛んでいるような浮遊感を感じ、アイツの寝顔を見ながら、俺も眠りに就く。
夢の中で、俺はアイツと一緒にいた。
夢の中で、あたしはあの子と一緒にいた。
そこは、いつかの噴水のある公園。
そこは、いつかの噴水のある公園。
俺は噴水のふちに腰掛け、じっとしていた。
あたしはベンチに腰掛け、じっとしていた。
目の前には、スケッチブックを構えたアイツがいる。
目の前には、スケッチブックを構えたあの子がいる。
背後で、水の流れる音だけがする。
背後に、うっそうと茂る林を感じる。
俺は、声を出す。
あたしは、口を開く。
―――後どれくらいで完成だ?
―――どれだけ待たせる気なの?
答えは、ない。
「ここは・・・」
「あ、起きたんだ」
「名雪・・・?」
「ほらほら。ここ一週間ろくに寝てないんだから、寝てなさい」
自分の部屋だ。
決して、現実味のない真っ白な壁ではない。
だとしたら、あれだけ真っ白な壁の部屋で毎日目を覚ましていたアイツは・・・。
「・・・」
「おなかすいてない?作り置きのおかゆがあるんだけど、食べたいなら持ってくるよ」
「・・・いらない」
「そう。じゃ、わたし下にいるから、何かあったら呼んでね」
バタン。
再び睡魔が襲ってきたのは、それからまもなくだった。
―――ありがとう、ございました・・・・・・
なんて声を、聞いた気がした。
この一週間で、相沢君は見る影もなくやつれてしまった。
そして、衰弱で倒れた。
それは数年前のあたしに重なる。
目が焦点を結んでいない。足がおぼつかない。誰の言葉も届かない。
名雪もまた、同じように世話を焼いている。
本当に今度こそ、両親は悟ったように諦めてしまった。
それは二度目の絶望を回避する自衛手段ではある。
だけど、あたしにはそれが許せなかった。
だけど、あたしはそれが最善だと思ってしまっているから、責められない。
一度目の時は、両親が祈祷の真似事をしていた。
あの時はそれが馬鹿馬鹿しく思えたのに、今はそれにすがりたい気分だった。
やってしまったら、あたしが希望を捨てたのと同意義だけど。
そんなこと、分かっているのに。
二週間。
栞は、一度だけ目を覚ました。
相沢君が病院で倒れた、ちょうどその日だけ。
あたしはそれを見ることができなかった。
目を覚ましたのは、わずか数分のこと。
再び眠りに就いた栞の目は涙で濡れていた。
あたしは、もう耐えられなかった。
神社で、お寺で、そして教会でも。
手当たり次第にたずねては、祈った。
それこそ、ここ周辺の全てを虱潰しにするように。そうやって、二週目が過ぎた。
俺が意識を覚醒させたのは、激しい頭痛のためだった。
体を起こして、周囲を見渡す。
何の変わりもなく、ここは俺の部屋だった。
ただ、一つだけ違った。
カレンダーには律儀に丸印がつけてあり、今日は栞が倒れてちょうど二週間目の日だった。
おでこに乗っていたタオルも、名雪がやってくれたのだろうか。
「あ、祐一。目が覚めたんだ。心配したよ、三日もずっと寝てたんだから」
そういう名雪は、あまり寝ていないようだ。目が充血している。
「おかげでわたし、夜八時間しか寝てないよ」
いや、十分だと思うのですが・・・。
だけど、今はそんなことを言う気にはなれず、素直に感謝した。
「ホラ、相沢君。お見舞いよ」
「そうなんだよ〜。香里がお見舞いに来てくれたんだよ〜〜」
「香里・・・」
手にしたビニール袋は、冷気によって水蒸気を水滴に変え、中の物に張り付いて透けている。
間違いなく・・・。
「ハーゲンダッツ・・・」
「しかもバニラよ。三人で食べましょ」
香里の表情は、なんと言うか・・・諦めたのとは違う。
だけど。
・・・そうだ。俺が転校するときの、友達の表情に似ている。
何を言ってるんだろう、俺。
「祐一、食べないの?」
名雪の言葉は無視する。
「香里・・・何でそんなに明るいんだよ。どうしてそんな顔で笑っていられるんだよ!」
気付けば俺は叫んでいた。
「そうね・・・・・・。だけど、そんな姿を栞が見たらどれだけ悲しむと思うの?」
栞が・・・見たら・・・?
「あたしは、あたしの元を離れていく栞が心配しないように、栞のためにこうしてる。
誰だって、好きな人には自分を顧みずとも幸せになってほしいと願ってるから。
あたしも、栞も。相沢君もそうでしょ?だから、あたしの笑顔は栞の笑顔なの」
わかる?と、目で訴えてくる香里。
「でも俺は・・・・・・ッ!」
「・・・もう何も言わないわ」
そのうちに二人がアイスを食べ終え、ご馳走様といって空き容器を片付ける。
「それじゃ、あたしは帰るわね」
「うん。またね」
名雪も、見送りに階下へ下りていった。
あたしは、救いを求めて隣町の大きな教会へ赴いた。
無神論者で、聖書の言葉なんて一つも知りはしない。
だけど、最後の一つにここを選んだ。
でもどうしていいか分からず、立ち尽くしていた。
そんなあたしに声をかけてくれた人がいた。
その教会のシスターだった。
箒を持った彼女は、あたしのもとへ来ると、何か悩みはありませんか?と聞いてきた。
「すごくつらそうな顔をしています。大切な人と離れ離れになってしまう苦しみで」
だから、私に話してくれませんか?と。
言い方が違っても、彼女はあたしの苦しみの本質を見抜いた。
ああ、この人は、一度苦しみを乗り越えたんだな、って一目でわかった。
あたしはその人に、全ての苦しみをぶつけた。懺悔をするように。
一度目の絶望、一度目の覚悟、一度目の幸福。
二度目の絶望、二度目の覚悟、三度目の絶望。
「好きな人と別れるのはつらいことです。私も、そんな人と別れてしまって、生涯会うことはないでしょう」
陰を含んだ笑みで、語り始めた。
「私、一度だけ恋をしたんです。学校の先輩に。それはもう、世界が二人だけのものと錯覚するほどです。
でも私は、幼い頃からシスターになると決めていました。
だから、その学校を離れることになったとき、先輩とも別れなければならなかった。
そんな私に先輩は、一緒に駆け落ちしようといってくれました。
私もそれに賛成し、クリスマスイヴの日に、駅で待ち合わせていたのです。
だけどその日、私が選んだのはシスターになる道でした。
顔を合わせれば決心が鈍ってしまうから、何も言わずに、先輩の前を立ち去りました。
一通の手紙を、先輩の友人に託しただけで。自分の口からは、何も言わずに。
それ以来、私も先輩も、会うことはありませんでしたし、手紙も電話も、していません。
今ではそれぞれ違う道を歩き出して、だんだんと、あの頃の思い出も薄れて・・・。
もう会えませんし、会うつもりもありません。私も貴女も、同じなんですよ。
私が後悔しているのは、どうして直接会って、自分の口から話をしてから、別れなかったのか。
そのことだけです」
彼女は言った。
私は、気持ちを整理できないまま逃げるようにして先輩の前を去った。
そのときを振り返れば、そうせざるを得なかったのですが、それは最善ではありません。
別れはつらいです。
だけど、それが好きな人との別れであれば、相手が見て悲しんでしまうようなことはしたくない。
だって、相手も同じ気持ちなんですもの。
夏の真っ只中、直射日光に当たっているのにあたしは暑いと感じなかった。
薄絹一枚越しに、蝉時雨が聞こえていただけだった。
以前あたしはあの子に言ったはずだ。
あなたの笑顔がそのままあたしの笑顔よ。
それは、そのままあの子の思いだったはずだ。
あたしがあの子と別れる。同時にあの子も、あたしと別れるはずなんだ。
「あの・・・あたしは美坂香里って言います。お名前、教えてくださいませんか?」
あたしは、恩人の名を尋ねていた。
「私の名前・・・ですか?面白いものじゃありませんよ?」
そういって、その人は笑った。
「久保です。久保、栞。本にはさむあのシオリですよ」
三週間。
死の間際の人は、最期には一旦、普通じゃないくらいに回復する。
それは命の残り火を一気に焚き上げた、一時のぬくもり。
それが、最後の目覚めだった。
「あ・・・おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう、栞」
「・・・もしかして俺、忘れられてる?」
「そんなことないですよ。おはようございます、祐一さん」
「はい、お土産。テストが終わったご褒美よ。ずいぶん遅れたけど」
「あ・・・ハーゲンダッツ!が、三個も」
「こらこら。一人で食べようとするんじゃない」
「え〜〜」
「と思って、俺が買ってきてやったぞ」
「わぁ・・・ありがとうございます、祐一さん!!」
「蝉、鳴いてないわね」
「台風じゃあな・・・」
「そうよね」
でも、台風が過ぎれば、また蝉は鳴く。
五月蝿いまでの蝉時雨。
秋が来て、冬が来ても、また雪が解け、桜が花を咲かせ、散らす。
アイスクリームは、蝉の声が似合うと、なんとなく思ってしまったから。
そんなことを、思う。
絶え間なく唄いつづける蝉のこえ。