「前曲は魏と呉の軍勢がお取りなさい。 左翼は涼州連合が。 右翼は伯珪さん。 そして本陣として袁紹軍を後曲に回しますわ」
貧乏で戦力として期待出来ない劉備軍は後ろでそれを眺めてなさい、と言ったが伝令はそこまでは聞かなかったことにして各陣に向かった。
袁紹の言葉を汲んで、配下は劉備軍の配置を後曲と判断し、さほど兵数を必要としない糧秣と兵装の警護を担当させた。
この判断は妥当だと言えたし、命令を下された劉備軍側にとってもメリットのことであったのは言うまでもない。
「まずは前曲を前へ。 それに続いて左翼、右翼ともに前進しなさい。 圧倒的な兵数を持って水関を威圧しますわ!」
連合軍が放った間者の情報によれば、水関にて待機している敵兵の総数は二万弱であるらしい。
兵数のみで計算すれば、連合軍側はその倍以上の優位を持つことになる。
最も少ない劉備軍が保有する兵が五千余名、という点でもその規模の大きさを窺い知ることが出来るだろう。
平野でこの両軍が激突すれば、それこそ物量に任せて押してしまえば二時間もすれば殲滅することが可能である。
しかし、それは平野──つまり両軍の立地条件が全く同じである場合の話だ。
敵が篭るは、堅牢なる砦水関。
堅固な城壁に、破壊槌でさえこじ開けるのには難を要するであろう門扉。
更にはこちらよりも高い位置から降り注ぐ矢の雨を掻い潜らなければならないのだ。
完全に守りに徹せられた場合、かなりの時間を必要とするのは火を見るよりも明らかである。
これを如何に突破するかがこの戦の最も重要な点と言える。
しかし、その局面において全戦力をもっての力押し。
これが志願であるならば余程の戦闘狂か、突撃馬鹿でなければこの策を受け入れるのを忌避しただろう。
勿論、各諸侯の中でも不満の声を上げる者はいた。
他にも愚かな行動をしていると諌めようとする者。
馬鹿につける薬は無いわね、と興味無さそうに振舞う者。
沈黙を保ち、静観を決め込む者。
その何れもが内心ではこのような愚策に精兵を犠牲にすることを是とはしていない。
だが残念ながら、この連合軍を率いるのが袁紹と決まった以上、彼女が決めぬ限りは変更はありえない。
「こう、たらたらと愚痴を言ってるけど、結局はあの馬鹿をなんとかしろって話だよな」
「そ、そこまで穿った言い方もどうかと思いますけど……」
遠くで響く怒号と、飛び交う矢や投石を眺めながら今更な会話を交わす。
開戦から既に三時間が経過しているが、何の進展も見られぬまま消耗戦が続いていた。
現在の劉備軍は前曲の曹操らと後曲であり本陣の袁紹の丁度真ん中に配備している。
ここならば不足した武器糧食を各軍に送ることが出来るし、敵からの攻撃を受けることもない。
安全といえば安全なのだが、袁紹軍と違って後ろでのんびりとしているわけにもいかない、中々に気の抜けない場所でもあった。
「水関……。 流石は王都を防衛する為に作られた要塞ですね。 こうして離れて見てもその堅牢さは充分に分かります」
「ちょーでっかいのだ!」
「うむ。 要害である水関を真正面から攻めるのは、愚策中の愚策だと思うが……」
「……あれが策を弄するようなタマかよ」
今までの戦いもああやって物量に任せて敵を押し潰す勝利を重ねてきたのだろう。
それを叶えるだけの兵数と、武器の質は袁家という名家の看板によるものが大きい。
相手も弱小勢力ばかりだったろう。
そのことを考えると、随分と楽な戦ばかりをしてきたのだろうと思う。
一度でも辛酸を舐めれば、この戦い方が如何に無謀か分かるだろうに。
なまじ勝利を続けていたせいで、他の人間の忠告も聞かなかったんだろうな。
「一介の武将ならともかく、総大将の思考じゃないのは確かだな」
「袁紹はバカなのだ」
「見も蓋もねぇな」
「ホントのことなのだ」
それには力強く頷いておこう。
自分の心に嘘はつけないのだ。
「だけど、そんなバカの命令にもきちんと従わなくちゃいけないのが悲しいな。 流石に怠けるわけにもいかないし」
なにせ、命の遣り取りだ。
上がバカでも、やることはきちんとやらないと被害は大きくなる一方。
如何なる事情があったとしても、戦いには一切気を抜いてはならないのだ。
「こっちは全然暇だけど、前曲は大変そうなのだ。 馬超、大丈夫かなー?」
「あやつほどの者ならば大丈夫だろう。 雑兵相手に遅れを取るような不覚はすまい」
「関将軍、伝令です!」
「さて、話は後だな。 応っ! その場で報告せよ!」
急ぎこちらに向かっていたのは偵察に向かわせていた間者の一人だった。
どうやら、何か情報を掴んできたらしい。
戦いが始まってしまったとはいえ、相手に関する情報ならば米の一粒の在処でも知りたいのが現状だ。
「敵軍を率いる将が判明しました! 将軍は華雄! 他副官として三名がいるようです」
「華雄か……。 愛紗、知ってるか?」
「手強い猛将とは聞いているが……」
華雄もまた、有名な武将の一人。
演義では連合軍の数多くの武将の首を獲り、彼らを苦しめた猛将である。
そのことを考えると、武勇に秀でた将であることは疑いようが無い。
「ま、後曲に回されてる俺たちに面を拝む機会は無さそうだけどな」
「むー、鈴々の手にかかれば華雄なんてちょちょいのぷーなのだ!」
「そんなに簡単なものでもあるまい。 ……気を引き締めるに越したことは無い」
その愛紗の言葉を肯定するかのように、陣の一部でどよめきが走る。
何が起こった、と思った次の瞬間には敵の襲撃を知らせる銅鑼の音が辺りに鳴り響いた。
「何事だっ!?」
「わ、我が軍の側面から突如として敵が! 董卓軍の伏兵です!」
「──っ! 奴等、本陣までつっこむつもりか!」
現在俺達の軍は連合軍の中でも中心に位置している。
そこを打ち崩し、可能ならば総大将の首まで獲りに行く算段かもしれない。
更にここには、連合軍が戦う為に必要な糧秣などもある。
もしこれらが失われた場合、全軍の気力にも影響が出るだろう。
それを考えれば、ここほど攻めやすい場所も無い。
くそ、安全圏だと思って油断していた!
「迎撃準備! なんとしてもここで食い止めるぞ! 持ち堪えれば袁紹が動く!」
「方円陣を組め! 殲滅を考えずに守りに徹すればこちらが敗れることは無い!」
愛紗の檄が飛ぶと、動揺していた兵達が落ち着きをみせる。
これは愛紗の実力と日頃の訓練による脊髄反射による賜物だろう。
相手の数は、目視だけでも恐らくはこちらの倍は超える。
しかし、劣勢の戦いはこちらとしては慣れたものだ。
すぐに今どうすべきか判断して兵達が行動していく。
兵の数は決して多くは無いが、苦境を乗り越えてきたという自信がこの軍の強みだ。
「鈴々、先頭に立って伏兵を抑えるぞ! ただし突っ込みすぎて孤立すんなよ!」
「鈴々にお任せなのだ!」
鈴々と愛紗がそれぞれ愛用の武器を手に構える。
俺も、今まで共に戦ってきた刀の鯉口を切る。
深呼吸を一度行い、思考を戦闘用に切り替えた。
最初の戦いの時にあった震えは既に無い。
気負いもなく、自然に鞘から刀を解き放つ。
「それじゃあわざわざこんな所に来てくれやがった敵さんに俺達の手強さを嫌と言うほど味あわせてやろうぜ!」
13【弱さ】
「ちっ、思ったよりも成果は得られなかったか……!」
存外に早く奇襲から立ち直った敵兵の姿を見て、華雄は隠すつもりもなく不満を口にした。
偵察に放った兵の報告から、最も手薄な軍であり攻撃を与えるに絶好の標的を選んだつもりだった。
兵が少ない弱小諸侯の一軍程度、倒すのは容易いと思っていたが、どうやら敵も骨がある集団のようだった。
そのことに武人である華雄は心を躍らされたが、将軍としての華雄は奇襲という作戦が思った効果を得られなかったことに歯噛みする思いだった。
だが、ここで退いてはわざわざ砦から一万八千もの手勢を引っ張ってきた意味がない。
出来る限り敵を斃し、気力を削ぎ、自分達が今度はどこから奇襲を放つか、という恐怖を相手に植えつけなくてはならない。
兵数において、華雄は圧倒的に不利だ。
水関という難攻不落の砦にこもることで拮抗状態を作ることは出来ても、勝つことは出来ない。
もし、それを望むのならば別の要因を作り出すしかない。
そして華雄は奇襲という手段を選んだ。
この作戦が成功すれば、油断しきった連合軍の総大将の首を獲る事も出来るやもしれぬという可能性すら見出して。
しかしその作戦は最初の段階で躓いてしまった。
「くそ、邪魔だ! 雑兵がいくら数で攻めてこようと真の武人には傷一つ与えられんぞ!」
自ら先頭に立ち、後ろに続く者の道を作ろうと戦斧を振るう。
華雄の豪撃は容易く敵の防御を打ち崩し、その肉体を絶命にまで陥らせる。
しかし、華雄一人の戦果などこの戦場ではあまり意味を持たない。
一人が勝っても、全体が不利ならばいつかは消耗していき、己も敗北するだけだ。
退き時。
そのことを頭に浮かぶ。
だが、何も成果も得られずここで退いては共に敵の渦中に飛び込んだ意味が無い。
せめて、敵の武将の一人の首は取らなければ……。
「どうした! 私に立ち向かえる力を持つ者はおらぬか!? 貴様達の軍も所詮はその程度ということかっ!」
それは挑発であったが、華雄にとっては焦りの表れでもあった。
敵の将の一人でも倒せば、敵軍は一瞬でも浮き足立つだろう。
そうなれば撤退も容易に行えるし、華雄自身の強さを相手に見せつけ気力を落とすことも出来る。
理性ではそのようなことをせずに早々に退いたほうが被害は少なくて済むと訴えていた。
しかし、武人としての矜持がそれを許さなかった。
そしてそれが彼女の運命を大きく動かす。
「悪いが、これ以上は暴れさせられない。 あんたにはここで退いてもらうぜ」
白く輝く奇妙な服を身に纏い、薄く脆弱な剣を手にした男。
戦場という死地に飄々と立ち、殺気すら感じられぬ弱き者。
おおよそ華雄が信じる武人の姿からは乖離した存在。
だというのに、己の本能は決して気を抜くなと警鐘を鳴らしていた。
「……成程、お前がこの軍の将か」
「そちらも、この奇襲を率いてたのはアンタみたいだな。 ここで止めりゃあ他の奴等も退いてくれるか」
「はっ。 貴様がこの華雄を打ち倒すとは到底思えぬがな……!」
全身に力を行き渡らせる。
狙うは一撃必殺。
倒せれば良し、もし受けられたとしてもあのような脆弱な武器、破壊するのは容易い。
多く見積もっても三合。
それがこの男との戦いに決着をつけるに必要な手数だ。
出し惜しみは一切しない。
己の片隅に残る不安を一蹴する為に、華雄は構えを取る。
「まさか、華雄将軍自ら奇襲に赴くとはな……」
豪気というか、無謀というか……。
しかし、愛紗の言うとおり手強い相手であるということは目の前の光景で嫌と言うほど思い知らされる。
彼女の周りには血溜りに沈む仲間の遺体が倒れ付していた。
その殆どが体のどこかを両断され、一撃の下に倒されている。
……力は鈴々と同等ということか。
自分も油断していれば、彼らと同じ末路を辿ることになるだろう。
ああ、なんでここを愛紗に任せていかなかったのか。
表面上だけは平静を保ち、内心ではどうしたものかと考えをめぐらせる。
単純に考えるのなら、単一の相手を足止めするのは自分が一番だ。
刀では一人を倒すのがやっとだが、愛紗や鈴々ならばそれこそ二、三人を同時に蹴散らす。
彼女達を最も敵が多い所に投入し、同時に一人しか相手に出来ない一刀は頭を探して足止めする。
それが一刀が思い浮かんだプランであり、効率的な手段だと思っていた。
しかしこの場合、もっとも死亡率が高いのは紛れもなく一刀のポジションだった。
判断を誤ったかもしれない。
今更ながらに自分の案に悔恨の念を抱く。
しかし、すぐさまそのような思考を頭から排除した。
華雄から、肌で感じるほどの殺気を当てられたからだ。
戦斧を地につけ、身体を半身に、まるで捻るかのような体勢。
その構えはまさに必殺と呼ぶべき凄絶な殺気を放っている。
それを感じて、構えを変える。
五行の構えの一つ、下段。
土の構えといわれ、防御を主とした基本の一つである。
守りを得意とする一刀が好んで使う構えであり、足止めを目的とするには最も適していた。
「名を名乗れ。 その名、墓標の代わりにその額に刻んでくれよう」
「……北郷一刀。 ま、地味な一武将ってとこか」
内心の焦りを悟られぬように、なるべく平静な声で答える。
そして交わすべき言葉は出し尽くしたと、華雄は口を塞ぐ。
息を呑み、来るべき時を待つ。
合図は一瞬。
互いの視線が交差した瞬間、華雄の体が弾けた様に肉薄する!
「おおおぉぉぉぉッ!!」
「っ!」
下段から、恐ろしい速度で戦斧が振るわれる。
狙いは頚部。
まともに受ければ成す術もなく跳ね飛ばされるであろう一撃。
それを、側面から刀で弾き上げることで軌道を逸らす。
「くっそ……! なんて力だ!」
横から弾いただけというのに、腕に痺れが残る。
まともに受けていれば、防御に使った刀も砕かれていただろう。
だが、華雄の動きはまだ止まらない。
弾かれた力を利用して、身体を回転させ袈裟懸けに戦斧が襲い掛かる。
それを見て、体が自動的に動く。
構えを脇構えに、後ろではなく前に進む。
右足を力強く踏み込み、飛ぶように戦斧の軌道を避けた。
あの距離では後ろに飛んでも、戦斧のリーチの長さから無傷では済まなかっただろう。
故に前に跳ぶ。
死中にこそ、活は見出せるものなのだから。
「ちぃっ!」
華雄の戦斧は地面にぶつかり、土煙を上げてその威力を物語る。
しかし、その瞬間華雄には隙が生まれる。
前に跳んだ勢いを殺さずに、脇構えから華雄の胴を目掛けて刀を振るう。
「な…めるなぁっ!」
しかし敵も素人ではない。
刀を柄で受け止めるや、自分の鳩尾を目掛けて突蹴りを繰り出す。
「ぐぁっ!?」
己の身体は三メートルほどの距離を吹き飛ばされ、数瞬程呼吸困難まで陥った。
呼吸が回復し、目を開けた時の光景は、戦斧を構え今正にそれをこちらの首目掛けて振るおうとする華雄の姿だった。
慌てて前転の要領で起き上がる。
そこへ、鼻先を掠めるように横薙ぎに振るわれた戦斧は風圧で土煙を起こして空を斬った。
ここまでの攻撃の全てが必殺。
遊びは一切なく、相手の命を断つ攻撃を続けて放つ。
あの攻撃のいずれかを受けた時点で、北郷一刀は死んでいた。
「……まさか私の必殺の三合が避けられるとはな」
「……こちとら伊達に幾つも死線を潜り抜けちゃいねえよ」
強者との一対一での戦い。
これまで一刀はそれを稽古でしかしてこなかった。
祖父や愛紗、鈴々は強かった。
しかし、それはあくまで稽古であり命の遣り取りではない。
刃引きがされ、最悪でも骨が折れる程度の武器での応酬だけだ。
そして、あの張宝との戦いの時には仲間がいた。
自分の一人の力だけでやらなければならぬ戦いというものを、一刀はこれまで経験したことが無かった。
今になって、身体が恐怖に襲われる。
刀を握り締め、震えを堪える。
死というものが自分のすぐ近くにまで近づいているという実感。
それを今、これまで以上に感じ取ることが出来た。
なにがもう慣れただ、北郷一刀。
お前は、本当の死地に立った今この時、無様に震えているじゃないか。
「しかし、次は避けれるか? この私の奥義を受けた上でその口が利けたならば賞賛しよう」
「……っ!!」
今、再び恐怖に囚われた身体であの攻撃を避けれるとは思えない。
そして華雄が再び必殺の構えを取ったその時、乱入者が現れた。
「一刀! 無事か!」
「チッ、援軍か……!」
青龍偃月刀を手に、一刀と華雄の間に立ち塞がるように現れた愛紗。
その姿を見て流石に不利と取ったか、華雄はすぐさま転進する。
「そろそろ袁紹も動くな……。 全軍転進! 水関に戻るぞ!」
「な……! 待て!」
手近な馬に乗ろうとする華雄に、愛紗が迫る。
青龍偃月刀が容赦なく振るわれ、華雄に襲い掛かる。
が、それを華雄は軽々と受け止めた。
金属と金属が打ち合う不快な音が響き、ギリギリと両者の拮抗した力が武器を軋ませる。
咄嗟の行動で軌道を読みやすいということもあっただろうが、こうも簡単に受け止められるとは。
この瞬間、愛紗は相手の名を聞かずとも、その正体を察することが出来た。
そしてまた華雄も、その振るわれた武器を見て相手が誰か気付いたらしい。
「ん? その青龍刀……。 なるほど、お前があの噂の関羽とやらか」
「そういう貴様は、華雄将軍で相違ないな……?」
肯定も否定もせず、ニヤリと笑う。
それだけで愛紗は確信する。
この相手さえ倒せば、戦況は大きくこちらに傾き、また手柄を得ることで義姉の名を高めることが出来る、と。
「これぞ好機と呼ぶべきか……。 華雄将軍、尋常に私と立ち会え!」
「だが断る」
「なっ……!」
「貴様はあの男との一騎打ちを邪魔した。 それにいくら有名とはいえ、寡兵の将を討ったとしても何の意味もあるまい。 ……迅く退くぞ!」
「待て!」
逃げようとする華雄を引き止めるように放たれた第二撃は、まるで読まれていたかのように弾かれた。
愛紗は体勢を立て直すのに必死で、その隙を見逃さずに華雄は馬に飛び乗り戦線を離脱する。
なんとも鮮やかな手際だった。
「縁があればまた会うこともあるだろう! さらばだ!」
「くっ……!」
残っていた華雄の部下達もすぐさま転進し、追撃の力を持たない劉備軍はそれを見送る形となった。
ここで下手に戦線を離れて追撃しても、物量差で負けるのは目に見えていた。
数において勝る敵を相手に、真正面から防衛しきった兵士達は賞賛に値するだろう。
しかし俺には、言葉に出来ないわだかまりが残ってしまった。
「姉者ー! おにーちゃーん!」
「愛紗! 一刀さん! 大丈夫ですか!?」
落ち着きを取り戻した陣営から、鈴々と美生がやってきた。
どうやら、二人とも無事だったらしい。
目立った怪我もなく、そのことに安堵の息を吐く。
「……姉上、申し訳ありません。 みすみす敵の大将を逃すなどと」
「いいのよ、愛紗。 あなた達が無事なら、他に言うことなんてないわ」
「……はっ」
「一刀さんも、ね」
「……ああ」
美生の気遣いにも、無愛想な返事を返すことが出来なかった。
自分の不甲斐無さに、心底呆れてしまっていた。
どれだけ修練を積もうとも、実戦で生かせなければ何の意味もない。
俺の強さなど、真の強者の前に立てばこれほどに脆いものなのか、と嘲笑すらしていた。
しかし、そんな醜い部分を美生達に見せることは出来ない。
男は、女には弱い面は見せたくはない。
それが強がりだったとしても。
「ねーねー愛紗ー。 華雄、強かったー?」
「うむ。 恐らく連合軍の動きを察知して、後方の山麓に兵を伏せていたようだ。 将としても、かなりのものだろう」
そう言って、愛紗は己の手に目をやった。
まだ、華雄と打ち合ったときの痺れが取れないのだろうか。
「あの去り際の一撃……。 個人としてもかなりの豪勇の持ち主だな」
「そーなのかー。 うーん、鈴々はなんだかとってもワクワクしてきたのだ!」
鈴々には、俺と同じような悩みなど持ってはいない。
それは騒乱の時代がそうさせているのか、それとも本人の心の強さ故か。
強い相手がいると分かって、怯むどころか胸を躍らせる鈴々を頼もしく思う反面、羨ましくもあった。
「ワクワクってあのなぁ……。 遊びじゃないんだから無闇に相手と一騎打ちしたいとか言い出すなよ」
だが、そんな気持ちはおくびにも出さず、将として軽口を言う鈴々を窘める。
流石に鈴々の強さに憧れはあっても、彼女自身の奔放な振る舞いに目をつぶるのとは話が別だ。
「…………」
「ん?」
ふと、誰かの視線を感じた。
視線の主を探ると、そこにはじっと俺のことを見ている美生の姿があった。
その様子は、先ほどの身の安全を心配しているというものとは別の意志が込められているように感じられた。
美生は、何かを言いよどんでいるのか、何度か口を小さくパクパクと開けて、何やら困った様子だった。
「どした? 俺の顔になんかついてるか?」
「あ、いえ。 別になんでもないんですけど……。 なんだか、一刀さんが無理をしているように思えて」
「────!」
「私の勘違いだったら申し訳ないんですけど、なんだか目がつらいこと考えているように見えてしまって……」
「……気のせいだろ。 俺は別に、無理なんてしてない」
俺がそういうと、美生は一応納得したのかそれ以上の追及はしてこなかった。
俺が思う以上に、美生は人の機微に敏感だった。
しかし、そんな彼女でも俺が何に悩んでいるのかは分からないようだ。
それも当然だろう。
自分の悩みは、武士としての自分の在り方なのだから。
こればかりは自分で答えを見つけて、乗り越えなくてはならない。
でも、何も言わずとも誰かが察して心配をしてくれているという事実は、少なからず俺の心を癒してくれた。
「劉備様ー! 大変ですー!」
そんな俺達の元に、簡雍が慌てた様子で走ってきた。
余程急いできたのか、息をゼーゼーと切らしているほどだ。
「どうしたんだ、簡雍。 なんかあったのか?」
「あ、ダンナ! いや、それが華雄の別働隊がこっちの包囲網を突破して水関を突破したんですよ!」
「な! 前曲は何をやっていたのだ! 敵の総大将が外に出ている好機をみすみすと見逃すとは!」
「そ、それが連絡が行ってなかった前曲は、包囲網をすり抜けていった華雄を敵と認識出来なかったみたいで……」
「……ここに来て情報の伝達の遅さが仇となったってわけか」
この時代で何らかの情報を伝えるためには、伝令を走らせるしかない。
どれだけ早くても早馬を走らせるしか手段は無いし、距離によっては一週間もかかる場合がある。
その隙をつかれれば、情報が伝達されない軍は分断されたも同然だ。
華雄がそこまで考えていたとは思えないが、今回は華雄に運が味方についていたということか。
俺のいた時代ならば、電話や無線といった遠くでも一瞬で情報を伝えられる手段がある為に、この時代にきた自分はその不憫さを誰よりも痛感していた。
もし、今後似たような状況があったら利用してみるのもいいかもしれない。
「となるとまた再び城門を突破する為に戦いに逆戻り、か」
「難攻不落の城塞に、統率するは勇猛なる将……。 突破には時間が掛かりそうですね」
「鈴々がいれば、そんなのドドーンババーンで突破してあげるのにぃー!」
「鈴々、擬音で話すのはやめろな」
ドドーンババーンって明らかに袁紹と同じ正面突破だろ。
こいつにも、もう少し戦略というものを学ばせる必要があるなぁ……。
「時が来れば鈴々達が必要となる場面もあるかもしれないけど、今は兵を休めるのが先だな」
突然の奇襲に即座に対応出来たとはいえ、油断していた所に奇襲を掛けられたことによる精神的なダメージは少ないわけではない。
いつまた華雄が来るか分からない、といった不安が少なからず兵士達には残っていた。
一度は退けたとはいえ、次も上手く行くとは限らない。
一回勝てたからといって、二回目も勝てると確信出来るほど劉備軍は強いわけではない。
今までだって薄氷の上を渡るような戦いを何度もしてきたのだ。
「何が起こっても大丈夫なように、私達も準備を万端にしなくちゃね」
美生の言葉に、愛紗と鈴々も頷く。
華雄が再び攻めてきてもいいように、他の諸侯の手助けを出来るように。
だがしかし、俺は一人別のことを考えていた。
北郷一刀は弱い。
それは腕力や剣術の腕前ではない。
心、つまりは精神の弱さ。
己は武士としては未熟であり、命の遣り取りをするには芯が足りない。
どんな苦境に立たされても折れず、絶望してもなお曲がらぬ芯と呼べる部分。
覚悟、とでも言うべきか。
今まで自分はそれがあると思ってきた。
初めての戦いの時も、張宝との戦いの時もそう思ってやってこれた。
だが、ここでそれが揺らいだ。
自分に足りないものをこれでもかと思い知らされた。
だけど、俺はそれを理由に逃げたくはない。
足りなければ、足せばいい。
何かを乗り越えなければならないのなら、乗り越える。
そして、その為にはきっと、華雄と戦わなければならない。
それが叶えられる状況はほぼありえないだろう。
だが、それでも。
強者との生死を別つ戦いの中でなければ、自分は前に進めないと頭のどこかが訴えていた。
……何故か、常に腰に下げていた刀がいつもより重く感じた。