俺達が自陣に戻ってきた頃には、既に運んできた糧秣は馬車の荷台から降ろし終え、天幕を張っている最中だった。
無理な行軍を控えていたとはいえ、ここまでの長距離を歩かされた経験も無いといった兵達の表情は総じて程度の差はあるものの疲弊を映していた。
かくいう俺も長距離移動には自動車などという文明の利器に頼っていた為に、この手の経験は初めてではあったが。
それでも、この距離を徒歩で進んできた歩兵の皆に比べれば、馬に乗っていた自分のなんとも楽なことか。
乗れるようになったといっても、落馬しない程度であり、騎乗戦ともなればあっさりと敗れる自信はあるが。
……いかん、どうやら思考が逃避しているらしい。
「さて、軍議でのことをどう愛紗達に伝えたものか……」
「ちょっと、あの子達には言えないような状況でしたからねぇ」
隣の美生も同じことで頭を悩ませているらしい。
そもそも、あれは軍議ですら無かった。
会話に参加していたのは片手に足りる程度で、殆どの諸侯達は自分以外の者を牽制しあって発言すらしない。
董卓打倒という目標は同じでも、思うところはそれぞれ違う。
あの中で純粋に董卓を倒すことを考えている者など、恐らく一割もいないだろう。
特に、あの袁紹という女性は何も考えていないに違いない。
初見のイメージでしかないが、あれは恐らく目の前に自分よりも目立っている人間がいるのが鼻持ちならないだけではないか。
あれは確実に苦労というものを知らずに生きてきたタイプの人間だ。
「……少なくとも、仔細をそのまま伝えるのだけは駄目っつーのは分かってるけど」
「そ、そんなことしたら二人とも袁紹さんのところへ殴りこみにいっちゃいますよ……」
残念ながら、俺達の軍の中に暴走した彼女達を物理的に止められる人間は一人も居ない。
そうなれば幾百の屍が転び、運が悪ければこの連合軍の盟主の首が刎ねられるだけか。
……確実にこの董卓連合は破綻して、これ以上の行軍は不可能になるな。
流石にそこまで物騒なことはしないとは思うが、愛紗達は突っ走ったらどこまでも止まらない気があるからなぁ。
「まぁ、適当言っても大丈夫だろ。 あの内容なら」
「本来ならそれ駄目なんですけどね……。 仕方ないですけど」
ぶっちゃけ一言で済むし。
建設的な意見は全く出ず、決まったものと言えば頭のみ。
まるで、学校の最初のLHRで委員長を決める時のようである。
この世界でこの手の喩えを理解する者が一人もいないのが悲しいところだ。
それはともかく、これほど連携体制が整っていない連合軍もそういないだろう。
少なくとも客観的に見て、こんな軍に命を預けようとは思わない。
そんな軍に今現在俺達は己の命と、兵の命を任せているわけである。
出来ることならば、袁紹に苦言を呈して今すぐにも軍議を再開させたい。
だが、自分は一諸侯の、しかもその補佐でしかない。
それだけの発言権はあるはずもなく、上からの命令には多少の愚痴をききつつも受け入れるしかない。
ああ、これが中間管理職の苦労というものなのだろうか。
学生にして味わいたくも無かった心労である。
「若い時の苦労は買ってでもしろってのはよく聞く話ではあるけど……」
こんな苦労、その言葉を作った人物も想定していなかったに違いない。
そしてもう一つ、自分には不安の種があった。
史実では、この連合軍は敗北する運命にある。
連合軍内部の不和に、董卓軍の強さ。
この世界が、どこかしら自分の知っている三国志の世界とは違っているとはいえ、基本的には似た世界であることは間違いない。
そう考えるのであれば、ここで負ける可能性もまた少なくない。
だとすれば、不安の芽は少しでも取り除いておきたいところだが、どちらかというと不安は増大していく一方である。
「……一刀さん、そんなに思い詰めたような顔をしなくても大丈夫ですよ」
「む……。 顔に出てたかな?」
「いえ。 表情というよりは、なんていうんでしょうか……。 こう、滲み出る雰囲気といいますか」
「つまりは、なんとなくと」
「そんな感じですかね。 私、昔からそういうのを察知するのは得意なんです」
えっへんと、胸を張りそうな勢いである。
彼女らしい特技だな、と思う一方自分の不安を見抜かれたことに若干の情けなさを感じる。
男として、女性には弱みを見せたくないと思うのは当然のことだ。
「──おかしい。 ここは、どちからといえば俺が美生に大丈夫だって諭す場面の筈なんだけどな……」
「私だって、たまには一刀さんを励ます側に立ってもいいと思いませんか?」
少し意地悪な笑みを浮かべる美生。
なるほど、彼女にもこんな茶目っ気があったか。
「美生はもっと、清楚というか純真無垢なお嬢様なイメージがあったんだがなぁ……」
「ふふっ。 私も少し前までは普通の庶民でしたから」
「お互い、当時はこんなことにあるなんて思いもしなかっただろうな」
「ええ、全く」
くすくすと二人して笑いながら歩く。
こうやって笑ってしまうと、不安もどこか安らぐのだから現金なものだ。
笑う門には福来るとはこういうことかもしれない。
しかし、福もあれば不幸もあり。
自陣で待っていた愛紗と鈴々と再開を果たして待っていたものは、笑みというものに適度にオブラートされた俺に対する明確な嫉妬を孕んだ四つの瞳だった。
こいつらの義姉好きも、ある意味病的の域にまで達しそうである。
12【仲間と駒】
「なんですか、それは!」
「……そう言うだろうと思ってたよ」
早速軍議の内容を問われた俺は、簡単にそれを伝えた。
すなわち、何も無かった。
袁紹と曹操が喧嘩して、それに公孫賛が胃を痛めながら仲裁してただけだ。
残念ながら、軍議としての内容を問われるのならば、何も無いと答えるしかない。
「部署とかもあとで伝令で伝えられるみたいだし、多分袁紹が独断で決めるみたいだぜ?」
「それではまるで袁紹の私軍扱いではないか!」
「その袁紹とかいうやつ滅茶苦茶なのだっ」
「それは否定しない」
つい先程愚痴は美生と一緒に吐いたばかりなので、比較的冷静に聞き流す。
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて。 今は私達で出来ることをしましょう?」
「姉上……」
「そういうことだな。 どんな無茶な命令が来るか分かったもんじゃないけど、備えあれば憂いなし。 こちらで出来る限りのことはするべきだ」
とは言っても、ここにいる状態で出来ることと言えば間者を放つくらいしかない。
美生や愛紗の提案で、幾度かここに来る前に間者は放っていたが、今まで情報を得られたことは一度も無かった。
よっぽど相手の警備体制が厳重なのか、それとも別の原因があるのか……。
戦いでは、情報が正に戦況を左右する。
相手の規模はどうか、配備は、何を目的としているのか、更にはそれに勝てるかどうか。
それによって戦法もがらりと変わるし、戦いの終わらせ方も違ってくる。
そんな中で、情報が全く入らないというのは不気味だ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉がある。
不気味なものも正体さえ分かれば怖くは無いという意味の言葉だ。
が、逆に言えば正体が見えないものは不気味であり、恐怖であるということでもある。
「洛陽に放つのは取り敢えず止めておいて、水関と虎牢関のほうに間者を放つか……」
「でも、そうしたらまた帰ってこなくなるかもしれないのだ」
「遠くから見るだけでも、無いよりはマシだろ。 それに、俺達だけが戦をしているわけじゃない」
情報の開示こそ周りを牽制してすることはないだろうが、彼らもまた決して無能ではない。 むしろ有能の部類に入るだろう。
独自で間者を放つぐらい、当然のこととしてやっている筈だ。
だから無理に情報を多く手に入れようとして博打を打つよりも、戦う際に困らない程度の情報さえあればなんとかなるだろう。
ここで貴重な間者要員を消費するよりはマシである。
「隊の中から、足の速い者と目の良いものを何人か選出して水関へ偵察に行かせたほうがいいな」
「それならば既に候補がいる。 命令を下せばすぐにでも出発させられるだろう」
流石は愛紗、手が早い。
では早速と愛紗が兵達の下へ向かおうと振り返ったところで、予想だにしなかった闖入者がやって来た。
「失礼する!」
やたらと大きい声の方向を見ると、そこには赤い服装に右肩につけられた銀の髑髏の装飾が目立つ女性が立っていた。
しかも、その背中には野太刀のような長剣が背負われている。
その隣には、先の軍議で見た曹操の姿もある。
そしてもう一人、先の声を出した女性と対のように曹操の脇を守るように立つ蒼い服装の女性が静かに控えている。
左肩には赤い服の女性と対になっているかのように銀の髑髏の装飾を身に着けていた。
「我が主、曹孟徳が関将軍に用があって参った。 関将軍は何処か!」
まるで殴りこみにでも掛けに来たのかと思うような剣幕だ。
陣内にいた他の兵達も、何事かとこちらを見ている。
「あれは、曹操さんですよね……。 一体何の用かしら?」
「少なくとも友好関係を結ぼうって感じじゃないな」
曹操の両隣に立っている二人とも剣と弓で武装してるし。
いつでも抜ける、といった雰囲気は愛紗や鈴々と同レベルの実力の持ち主であることを感じさせる。
「いきなり乱入しておいて、人を呼びつけるとは無礼であろう!」
愛紗といえば、こちらの当惑とは裏腹に喧嘩腰で応対している。
いきなり自陣に入ってきて、何も言わずにいきなり自分をご指名だから無理もないかもしれないが。
「……お前は?」
で、何故かこっちのほうは名指しした相手の顔を知らずに来たらしい。
傍から見ると間抜けな遣り取りだが、愛紗はといえばまだ喧嘩腰のままで全く気にしていないらしい。
だん、と足を一歩前に踏み出す。
「我が名は関羽! 劉玄徳が一の家臣にして幽州の青龍刀! 貴様にお前呼ばわりされる謂われは無い!」
まるで戦場での名乗りのようだった。
このような言われ方をして相手も黙ってはいまい、と思っていれば案の定赤いほうが怒鳴った。
「貴様だと!? 私を愚弄するつもりか!」
……まるで子供の喧嘩のような理由のキレ方だった。
貴様呼ばわりで怒るとか、同レベルかこの二人。
そんな間にも二人の間の緊張感は高まり、睨み合いが続いていた。
漫画表現的に言うと、二人の間で火花が飛んでいる感じで。
そしてあわや二人とも獲物を手にかけようとした所で、第三者から制止が掛けられた。
「やめなさい、春蘭。 みっともない」
声の主は曹操だった。
全く、と呟いて柄に掛けられた女性の右手を抑える。
「で、ですが華琳様……!」
「春蘭。 私の面子を潰すつもり? ここには戦う為に来たのではないのよ?」
す、と曹操が目を細めると女性も二の句が告げなくなったらしい。
流石は曹操、身なりは小さくても、威厳はたっぷりだ。
「──あら貴方、私に何か言いたいことでもある?」
「…………イヤ」
すっごい勢いで睨まれた。
どうやら、何かを察したらしい。
恐ろしい勘である。
「……ま、いいわ」
一瞬だけ一瞥して、すぐに興味が失せたらしい。
こちらとしては助かった、と内心で胸を撫で下ろす。
「初めまして、と言うべきね、関羽。 私の名前は曹孟徳。 いずれは天下を手に入れる者よ」
他人の口から聞けばなんとも誇大妄想の持ち主と思うところだが、彼女にはそれを真実にしてしまうような気にさせる何かがある。
その自信に溢れた物腰、決して己の意志は変えぬという瞳は正に乱世の奸雄と呼ばれた曹操に相応しい姿だ。
姿見こそまだ少女の域を達していないとはいえ、彼女は決して侮ってはならぬ存在であると肌で感じる。
「あなたの武名は私にまで聞こえているわ。 美しい黒髪をなびかせながら青龍偃月刀を軽々と操り、庶民を助ける義の猛将……」
「凄いな、愛紗。 ベタ褒めじゃないか」
「愛紗って、そんなに有名になってたんですね……」
確かに、劉備軍で一番見栄えする将と言えば愛紗を置いて他にはいないだろう。
鈴々のほうはどちらかといえば派手、というか猪突猛進だから人々の噂の矢面にはされにくい。
俺はと言えば、そもそも目立ちさえしないからな。
自分で言ってて悲しくなるけど。
「素晴らしいわね。 その武技、その武力。 そして理想に殉じるその姿。 ……美しいわ」
そう語る曹操の目は、明らかにマジだった。
しかも百合な方向に。
曹操はあっちの方の人でしたか。
明らかに最後の言葉の後に食べちゃいたいぐらいにとか言ってそうなんですが!
愛紗もそれを感じ取ったのか、微妙に顔が引き攣ってる。
きっと理解はしていないが、本能で察知しているのだろう。
むしろ理解しないほうが幸せだと思う。
元女学院で一時期なりとも生活していた俺が言うんだから間違いない。
「う、美しいなどと何を軟弱な……!」
「軟弱なんてことはないわ。 美しいからこそ人は生きていて価値があるの。 ……ブ男は存在する価値さえないわ」
「そこで俺を見るな、俺を」
しかもすっげえ蔑んだ目で。
確かに自分の容姿が美しいかとか聞かれたら否だけど。
そこまで俺はナルシストじゃない。
「あら、ブ男なんだもの。 仕方ないでしょ?」
「そんなことはないです!」
「め、美生?」
思わぬ所から声が。
本人はといえば、自分でも何故大声で抗議したのか分からずに恥ずかしそうに赤面した。
自分でも気付かぬうちにやってしまったらしい。
しかし、声に出したからには最後まで言わないといけないと思ったのが、曹操に聞こえるかどうか怪しい声で話す。
「一刀さんは、ブ男なんかじゃ、ありません。 私の仲間に、悪口を言うのは許しません」
「ふん……。 美的感覚も無いこんな娘に関羽が仕えているなんてね」
「貴様、姉上を愚弄する言葉は許さんぞ!」
「──ねぇ関羽。 私のモノにならない?」
「なっ────!?」
なるほど、本題はそれか。
こちらの曹操も、関羽にはご執心、というか興味を持っているらしい。
「私のモノになればあなたの理想を実現できるわ。 こんな貧乏軍では無く、私の持つ精兵を使ってね」
「…………」
「優秀な人材、充分な精兵と潤沢な軍資金。 この三つを自由に使ってあなたの理想を実現させなさい。 私のモノになるのならばそれを許しましょう」
「…………」
「どう? 悪い取引ではないと思うけど」
それは、他の人からすればなんとも魅力的な提案だっただろう。
曹操の後ろ盾があれば、恐らくは不可能なことはほぼ無いだろう。
彼女の将来は、約束されたもので、強大な力を持つであろうことは誰しもが分かることだ。
だが、残念ながら曹操は知らない。
普通ならば、ここで誰かが愛紗を引き止めようとするだろう。
劉備軍にとって、愛紗は要の一つだ。
彼女が抜けてしまえば、最悪軍が瓦解する可能性だってある。
そんな彼女に何一つ声を掛けない理由はただ一つ。
「ふざけるなっ!」
「────っ!?」
俺達は、愛紗を信じている。
何故なら、彼女は仲間だからだ。
そして、美生にとっては何者にも代え難い義妹だからだ。
そんな彼女が、一体どうして曹操の下に喜んでつくというのか。
曹操は、俺達の絆を甘く見ていたようだ。
「私の理想は唯一つ、姉上と共にこの大陸に安寧をもたらすことのみ。 私はその為にこの青龍刀を振るっている! 見当違いも甚だしい!」
「……そう、私の提案を拒否するということね」
「無礼な! 華琳様に何たる口の利き方だ!」
「我が真なる想いも推し量れず、愚弄したのはそちらではないか!」
「聞く耳もたん! 華琳様を愚弄する貴様は許しはしないっ!」
両者とも、完全に周りが見えていない。
放つ言葉は売り言葉に買い言葉で、相手を留まらせる気など微塵も無い。
そして、言葉は不要と思ったのか同時に己の獲物に手を掛ける。
愛紗は偃月刀を、女性は長剣を構える。
状態は正に一触即発。
「ほお……、やるというのか? いつでもこい。 私の豪撃が受けられるというのならばっ!」
「ぬかせ。 お前こそ、私の乾坤一擲の一撃のもとに叩き斬ってくれる!」
ここで、一合でもやりあえば歯止めが利かなくなるだろう。
そうすれば、どちらかが戦闘不能になるまで戦い続けるはずだ。
良くて怪我、悪くて命を落としかねない。
ここは、そろそろ止めないとマズイか……。
「愛紗、青龍刀を納めろ。 ここで一戦交えたって何の意味もない」
「止めるな、一刀! これは私と姉上の矜持の問題だ!」
「……その姉さんがそれを望んでないとしたら?」
「そ、それは……!」
美生の方をみれば、無益な争い事は絶対ダメと視線で訴えている。
俺がここで介入しなければ、戦いが始まった後でも身を挺して止めに入っていただろう。
美生は、そういう奴だ。
「愛紗。 武器を下げなさい」
「しかし、姉上──!」
「ここで無益な血が流れれば、連合の間に大きな軋轢が生まれてしまうわ。 それとも、私がこんな私闘を望んでいると思ってるの?」
「ぅ…………」
「全く、愛紗。 めっ、よ」
まるで幼子を叱るような口振りで美生が諌めると、愛紗は渋々と矛先を下げた。
これでこちらはもう戦意は無くなった。
問題はその相手だ。
剣を向けるべき相手がいなくなったというのに、やる気満々である。
ここで俺が今のは無しと言っても聞いてはくれないだろう。
女性の対処法に悩んでいると、曹操が見てられないとばかりに溜息を吐いた。
「……はぁ、春蘭。 剣を下ろしなさい」
「華琳様!」
「相手がやる気を失くしたというのに、ムキになってはこちらの面子に関わるわ。 春蘭、あなたは私の顔に泥を塗るつもりかしら?」
「わ、分かりました……」
不本意だと呻きながらも、渋々と獲物を納める女性。
曹操側も、引き際は弁えていたらしい。
全く、味方の中で刃傷沙汰なんて洒落にもならん。
「──それに、こんな無粋な手で奪うなんて勿体無いわ。 私の提案を蹴ったあなたは、その理想を砕いて私に跪くまで調教したほうが面白そうだもの」
……別の意味で洒落にならん。
愛紗も顔を青ざめで背筋を震わせている。
そりゃ、臆面も無くそんなこと言われれば引くよな、普通。
なのになんでこの赤い服の女性は羨ましそうな顔をしてんだ。
Mか、Mなのか実は。
「そうね……。 そうなったらまずはその白い肌に荒縄と鞭の跡をたっぷりとつけて可愛がってみようかしら。 それとも、泣いて許しを請うまでよがらせたほうがいい?」
「あの、うちの義妹をそんな妄想で辱めないで欲しいですけど……」
「なんだったら、あなたも一緒に来てもいいのよ? その場合は、先程言った権限をあなたにも与えてあげてもいいけど」
「あはははは……、お断りします」
笑顔で、ビシッと断言した。
顔は笑っていても、目は笑ってなかった。
曹操も、今度ばかりは条件を飲むとは思っていなかったのだろう。
美生が拒否しても全く動じなかった。
二人の間で、静かに視線が交わされる。
それだけだというのに、凄く怖い。
先程の愛紗と女性の時のような一触即発の空気ではないが、何に対して恐怖を抱いているのかが分からないところが怖い。
だが、二人はそこから何かをしようとするでもなく視線を解いた。
「ま、いいわ。 今はあなたに預けておく。 だけど覚えておきなさい、私は何としても関羽をモノにしてみせるから」
後に続いた精々仲間ごっこでも楽しんでおきなさいな、という台詞は明らかに挑発だった。
しかし、美生はそれに乗ることなく、静かに愛紗の隣に寄りそう。
「残念ですが、愛紗をモノ扱いするような方には渡しません。 私達は家族であり、仲間です。 それを引き裂こうというのなら相応の覚悟で挑んでください」
「姉上……」
「あらそう。 けれどそんな戯言に意味は無いわ。 だって私には天がついているのだもの。 関羽が私のモノになるのは天によって定められたことよ」
曹操は美生の台詞を一笑に付し、余裕の笑みで返す。
そこにあるのは、正に王者の風格。
だが、決して美生も負けてはいなかった。
まぁ俺も愛紗を何もせずにあんな奴に渡そうとも思わないがな。
どうも上から目線が強すぎて居心地が悪くなるし。
「春蘭、秋蘭。 用は済んだわ。 帰ります」
「はっ」
「…………」
曹操がこちらに背を向けて、陣を後にしようとする。
先程まで黙っていた隣にいた蒼い服のほうの女性もそれに続く。
しかし、赤い服の女性だけがついていこうとせずにこちらのほうを睨んでいた。
「……貴様、名はなんという」
「お、俺?」
「先程私が剣を手にしたとき、誰よりも早くその武器の柄に手をやっていた。 どうせ只者ではあるまい。 名を教えろ」
どうやら、自分でも気付かぬうちに闘志に反応していたようだ。
俺も愛紗のことを他人事と言えないらしい。
身に染み付いた動きというのは、こういう時は厄介だ。
「教えたとこで、何の意味があるんだよ?」
「戦場で敵としてまみえた時に、相手の名を知らぬでは無礼だからな。 その手間を省くつもりでな」
「物騒な理由だな……。 そもそも、相手の名を尋ねるときはまず自分の名を名乗ってからってのがそもそもの礼儀だろうが」
「ふん。 我が名は夏候惇! 華琳様が家臣にして歯向かうもの全てを断つ剣だ!」
「俺の名前は北郷一刀だ。 あんたとはなるべく戦いたくないんで戦場で会う時は味方であることを祈るよ」
血気盛んだと思えば、なるほどあの夏候惇か。
やはりこの愛紗とこの女性との戦いは未然に防いで正解だったらしい。
夏候惇は俺から名前を聞くと、用は済んだとばかりに曹操達の後をついていった。
そうして、嵐のような来訪者は何の余韻も無く再び嵐のように去っていった。
しかし、後に残るものは僅かなりともある。
例えば目の前にいる愛紗のご機嫌とか。
「なんだというのだ、あやつは!」
「どうどう。 愛紗、時に落ち着け」
「落ち着いていられるか! なんだあの無礼な態度は!?」
「あれが曹操なのかー。 ちっこかったねー」
曹操達との会話中、沈黙を保っていた鈴々も会話に加わる。
お前も、武将としての自覚があるならあの時に一緒に愛紗を止めてくれればよかったものを。
「にゃははは。 鈴々もあの夏候惇ってやつ気に入らなかったから黙ってたのだ」
「……背中を押さなかっただけ善しとしておくか」
揉め事でこいつの力を頼るほうがバカだった。
「ま、王者としての風格は充分だったな。 確かに英傑と呼ぶのに相応しいだけのことはある」
「それにあの隣に立っていた夏候惇とは違う女……。 あれも相当な手練だろうな」
それには同意だ。
曹操と夏候惇の立ち位置からして、恐らく彼女は夏候淵かもしれない。
だとしたら手にしていた弓にも説明がつく。
他の近接の獲物よりも自分が最も得意とする武器のほうが抜き打ちが早い、という自信の表れだったのだろう。
意識の死角から弓で狙われたら、余程の実力者でなければ急所を射抜かれていたに違いない。
そういう意味でも、助かったというべきか。
彼女も夏候惇と同じような短絡思考の持ち主でなくて安心する。
「それよりもあの曹操という女! 私が欲しいなどと薄ら寒いことを……!」
「でもこんな貧乏軍にいるよりも、あっちについていったほうが何かと楽かもしれないけグボハァッ!?」
「つまらぬ冗談を言うと殴るぞ?」
「既に殴っとるわ!」
冗談くらい最後まで言わせろ。
後、本気のグーパンでつっこみなんて及川が見たら失格の烙印を押すぞ。
「──なんっか楽しい漫才やってんなー、お前ら」
そんな遣り取りをやっていると、底抜けに明るい声と共に再び見たことの無い少女が現れた。
なんだ、今日はやたらと来客の多い日だな。
「これは漫才などではない、制裁だ。 それに、お主は誰だ? なぜ我らが軍の陣地にいる?」
どうも対応が刺々しい。
さっきの曹操達の来訪で、まだ気が立って警戒しているようだ。
「んなつっけんどんな態度取るなって愛紗。 誰しもがあんなんだとは限らないんだからさ」
本人達がいたら、嬲り殺しにされていそうな台詞である。
しかし少女のほうは何のことなのか分かっていないのか、不思議そうに首を傾げていた。
曹操達と入れ替わるようにしてやってきた彼女が、こちらの事情なんて分かるはずも無いのは当然だ。
「? 何かあったのか?」
「別に何もないのだ。 それよりお前誰だー?」
「あたしか? あたしは馬超ってんだ。 よろしく」
竹を割ったようなさっぱりとした自己紹介で一瞬聞き逃しそうになっていたが、彼女の名前が馬超だとか。
すげぇな、今まで会ってきた三国志の有名な武将の女性率十割だよ。
馬超といえば晩年の劉備の家臣として活躍した武将の一人だ。
となると、彼女も仲間になったりするのだろうか。
趙雲のことも考えると、軍内の将軍の女性率が圧倒的で俺の立場がどんどん無くなっていくような予感がする。
いやいや、そんな可能性の話は今は必要あるまい。
「確か、あの西涼の領主の馬騰さんの娘さんにそんな名前の方がいたような……」
「いかにも、馬騰はあたしの父上さ」
「ほお。 ではあなたがあの名高き錦馬超か」
「あなたなんて言い方やめてくれ。 なんだか身体中が痒くなってくる。 馬超って呼んでくれよ」
確かに、さっぱりとした態度は馬騰に似ているものがある。
公孫賛と同じく、付き合いやすいタイプだ。
「そちらがそれでいいのならば、そう呼ばせてもらおう。 私の名は関羽。 そして──」
「鈴々は張飛なのだ!」
「へぇ、幽州の青龍刀と名高き関雲長に、その妹分の燕人張翼徳か」
「おお、鈴々も有名人になったのだ!」
「馬超こそ、そのような謳い文句を言うのはよせ。 私は関羽で充分だ」
「はは、さっきのお返しってことで許せよ」
そんな馬超の態度に、愛紗の機嫌も直り、親しそうに話す。
「ということは、こっちの女の人が父上が言ってた劉備って人か」
「ええ。 劉備玄徳よ。 よろしくね、馬超さん」
「で、こっちは…………?」
「そこで不思議そうに首を傾げるなよ! 悲しくなってくるだろ色々と!」
確かに有名になるほど功績を残したことなんてないけどな!
皆スラスラと自己紹介している中で、一人だけ誰とか言われたら傷つくぞ。
「ったく。 北郷一刀だ。 気安く一刀とでも呼んでくれ」
「すまんすまん、関羽と張飛の武勇はこっちまで届いてるんだけどな……」
「お兄ちゃんは地味なんてことはないのだ。 こう見えてもとっても強いのだ!」
「そうは見えないけどなぁ……。 いや、逆にあえてそう見せてるとしたら実は凄い奴なのか……?」
「そりゃ買い被り過ぎだ。 こいつらとやりあってまともに勝った試しが無い」
鈴々は騙まし討ちでなんとか、愛紗に至っては引き分けにするのが精一杯だ。
馬超とだって、こちらが間合いに入る前に得意の槍でぶっ飛ばされるだろう。
今の俺なんてその程度の実力だ。
「もう、そんな卑屈にならなくてもいいじゃないですか。 一刀さんの策のお陰でここまでやってこれたんですもの。 一刀さんも充分凄い人です」
「なるほど、文武両道の将ってわけか」
「……褒めたってなにもないし、そんなの贔屓の引き倒しだと思うぞ」
「あははは、お兄ちゃん照れてるのだ」
「何だ照れてんのか。 面白いやつだな」
「……お前ら後で酷いぞ」
「あはははっ! ウソウソ! ウソだって!」
爆笑されながらうそとか言われても、信じる奴がいるか。
だが、そこで憎めないのが彼女の持ち味というか、それだけ明るく笑われると怒る気も失せる。
「でも、羨ましいとは思うよ。 こんだけ気持ち良い主従や仲間の関係だったら軍の中でも楽しそうだ」
「厳しい方から見れば、軟弱な軍だと言われるかもしれませんが……」
「うちの厳しい父上も劉備のところは面白い、って珍しく褒めてたけどな」
「西涼の雄である馬騰に褒められるとは光栄だな。 んで、そろそろ用件を言ったらどうだ? ただこちらの顔を見に来たわけじゃないだろ?」
そういやそうだった、と馬超が再び笑う。
どうやら会話に夢中で用事を忘れていたらしい。
「ああ。 なんか袁紹から伝令が来てさ、配置換えを全軍に伝えろってさ。 それを言いにきたんだ」
「配置換えの伝令……ね」
普通に考えるならば、袁紹からの遣いが直々に伝えにきそうなものだが……。
配置換えの伝令にやる人員を割くのを嫌がったのか、それとも袁紹に対する諸侯の感情を知っていて、あえて別の者に伝令を頼んだのか。
後者だとすれば、恐らくは袁紹本人の意思ではなく補佐かなにかの案に違いあるまい。
袁紹にそんな心配りが出来るとは思えないしな。
「となると、遂に攻撃開始か」
「そうみたいだな。 多分、関羽達は後曲に回されると思うぞ? 見たところ兵数も少ないみたいだし」
「むぅ……。 我が軍は皆、一騎当千の猛者であるものを……」
「猛者でも勘弁してくれ。 俺はそんな無茶認めるつもりは無いぞ……」
特に砦の侵攻戦で数が少ない軍を前曲に回すなんて無謀にも程がある。
後ろに回されてほっとしているというのに、この戦好きは。
「後曲を疎かにするような将は敗北するぞ。 前でガンガン攻めるだけが戦じゃないんだから」
「そうよ、愛紗。 後曲がしっかりしていれば、前曲は何の憂いもなく戦いに専念出来るんだから」
「は……」
俺と美生の二人に言い含められて、愛紗は渋々と首肯した。
よっぽど功を上げたいらしい。
まぁ、それが自分のためではなく、主である劉備の名を高めるためということを知っているからそのこと自体を諌めることはしない。
それでも残念そうにしている愛紗に、とりあえずのフォローをしておくか。
「後ろにいても、お前達なら活躍の場もあるだろうさ。 その時に実力を発揮してくれれば良い」
「任せるのだ! で、馬超はどこに配置されてるのだ?」
「あたし、というかあたしの父上は左翼に配置されることになったから、あたしもそっちだな」
「そっか。 一緒に戦えなくて残念なのだ……」
会って間もないというのに、すっかり意気投合しているらしい鈴々は本当に残念そうだった。
性格が似ているからか、馬超とは馬が合うらしい。
馬超もそう思っているのか、実に勿体無いと息を吐いている。
「確かに、どうせなら武名高き関羽と張飛の二人と一緒に戦いたかったけど……。 ま、後曲からあたしの戦い振りを見といてくれよ。 もちろん、一刀もな」
「忘れられてるかと思ってヒヤヒヤしたぜ……。 ま、無事でいろよ」
「当然。 こんなとこで死んでたまるかよっ。 じゃ、また後でな」
「おう。 無事勝利してることを祈ってるぜ」
しゅたっと手を上げると、他の陣にも伝令を伝えるために馬超は早足で去っていく。
それに手を振って見送りながら、ようやく静かになった陣地に一息つく。
彼女達が来たのはごく短時間だったが、その内容はかなり濃い。
曹操達一行に、馬超。
どちらも印象強い人物ばかりだった。
こうやって自分でも名前を知っている人達に会うと、本当にここが三国志の世界と実感する。
逆に、そこからどうやって元の場所に帰ればいいのかと途方もなく思うが、悩んでいても仕方の無いことだ。
「さて、と。 俺達も出撃の準備に取り掛かるとしようか」
まずは目先の問題を解決してから、解決法を考えれば良い。
今はまだ、それでいい。
そしてそんな準備はといえば、とりあえずは順調に行えた、といえる。
馬超の予想通り俺達は後曲に回され、前曲に送る補給物資の警護と管理を任された。
数が少なく、まともに敵軍と交戦出来ないという上での判断だろうが、こちらとしては僥倖だ。
ついでとばかりに、公孫賛と協力して物資の中から武器を失敬させてもらった。
兵が持つ武器の質が低いことで悩んでいたので、これ幸いとばかりに後ろから手を回させてもらったのだ。
ジャイアニズムって素敵だよね。
正規の軍とは思えないみみっちい行動で武器糧食を充分に確保した俺達は、ついに水関に向けて進撃を開始したのだった。
貧乏軍には貧乏軍なりのやり方というものがあるのだ。
……自分で言ってて虚しいけどな。