現在、大陸の全てからその動向を注目される洛陽。
暴君董卓の根城であり、連合を組んだ諸侯達が目指す場所である。
「大陸に割拠する諸侯達が連合を組んだそうよ」
そんな洛陽の宮中で、董卓の将達は軍議を開いていた。
だが、何故かそこには主である董卓の姿は見えない。
今、その主に代わってこの軍議を進めているのはまだ成人にも満たないような少女だった。
彼女の名前は賈駆。
董卓に仕える軍師である
賈駆の言葉に、この場に集った将達の表情が変わる。
「ウチらと戦う為にか? ……ったく、暇な奴らもおったもんやなぁ」
賈駆の情報に、面倒くさそうに独特の訛りでぼやくのは家臣の一人、張遼だった。
普通ならば彼女の言い草を咎める者がいそうだが、誰も彼女を諌めない辺りその実力を窺い知る事が出来る。
「まったくその通りだけど……。 曹操や孫権が連合に加わっているようだし、相手にするのならかなりの強敵でしょうね」
「袁家のお姫サマはどうとでもなるけど、曹操には猛将夏候惇、夏候淵の姉妹がおるし、孫権には甘寧や周瑜っちゅー一筋縄ではいかん奴もおるしな」
そうでなくとも連合を相手取るということは、大陸全土を敵に回すということに他ならない。
今回参加する諸侯達は、董卓に歯向かう気概のある英傑ばかりとも言える。
それだけにこの戦いで相手を退けることが出来れば、今後諸侯達を抑えこむ事も出来るかもしれない。
が、先にも言ったように敵も愚将ばかりではない。
黄巾党や異民族との戦いで活躍してきた強敵となる者の名もちらほらと伺うことが出来る。
「ふんっ、何を恐れる必要がある? たかが寄せ集めの軍隊ではないか。 奴らが何十万集まろうとも所詮は烏合の衆、破ることは容易い!」
賈駆と張遼の言葉を否定するように声を張り上げたのは華雄だった。
彼女の恐れるものはなにもないとばかりに自信満々の様子に内心頭を痛めながら、賈駆は溜息をついた。
「……簡単に言ってくれるわね」
「それにこの洛陽に辿り付くまでには水関や虎牢関が立ち塞がっている。 そこに拠って戦えば、連合軍など恐るるに足らずだ」
そんな自分達の勝利を疑うこともしない華雄に異を唱えたのは張遼だった。
「そんなに簡単に行くもんとちゃうやろ。 相手も馬鹿やないし、この前まで続いとった黄巾党との戦いで将も兵も経験を積んどるときとる。 ……楽には勝たれへんで?」
「何を臆しているのだ張遼。 夏候惇や甘寧など、私や呂布ならば一合で切り伏せることが出来る! それなのに何を憂う必要があるというのだ!」
張遼の意見を弱気からくるものと判断した華雄は、不服とばかりに吠え立てる。
自分の腕に自信を持つ武人としては正しいかもしれないが、兵の命を預かる将としては軽々しい発言である。
「別に弱気になっとるわけやない。 ウチかて、強い奴と戦いたいのは当然や。 せやけど……」
無論張遼とて武人として自分の強さには自負を持っている。
だが、これから始まるのは兵力差がものをいう戦争だ。
その場に置いては一個人の強さなど、戦況には反映されない。
そのことをよく知っているだけに、無闇に強気な発言は出来ないのだ。
「……華雄や張遼の言いたい事もよく分かるわ。 でも、ボク達は何があっても連合軍に負けるワケにはいかないのよ」
二人が口論になりかけた時、それを諌めたのは賈駆だった。
彼女の表情は固く、その目にはここにはいない者を見ていた。
それが誰なのか察しがついた張遼は、肩の力を抜いて微笑を浮かべた。
「そら当然や。 ウチかて負けるんはイヤやもん」
「ならば四の五の言わずに私や呂布に任せればいいのだ!」
あくまでも軽い張遼の態度に我慢ならないのか、華雄は声を荒げっぱなしだ。
元々プライドが高いせいで、力を抜くということが出来ない性分らしい。
そんな融通の利かない華雄の態度に、内心そういうところが可愛いんやけどなぁ、と場違いなことを考える張遼だった。
「ま、そうさせてもらおか。 んじゃ、ウチは何も言わずに賈駆っちの命令に従うわ。 賈駆っち、ヨロシク頼むで」
「……分かった。 じゃあ張遼は呂布の所に行って出陣のことを伝えてきて。 二人には虎牢関の守護を任せるわ」
「あいよ。 んで、どっちが大将なん?」
「呂布よ。 張遼はその補佐をしてあげて」
「……あの呂布ちんをウチが補佐すんの? そりゃまた難儀なことやなぁ」
その命令に、張遼はつい顔を顰めてしまう。
別に不服なわけではないが、面倒くさいことになったと思っているのだ。
張遼の知っている限り、あの呂布を補佐するというのはかなりの重労働ではなかろうか。
賈駆も自分でそのことは分かっているのか、若干申し分けなさそうだった。
「大変だとは思うけど、お願い」
「分かっとるって。 任せとき」
張遼もそのことを良く分かっているから、これ以上は文句は言わずに引き受ける。
「華雄は、先に水関で連合を迎え撃ってちょうだい。 ただしこちらから討って出ることは控えて」
「なんだとっ!?」
逆に賈駆の命令に明らかに不服を示したのは華雄だった。
彼女は目を剥いて賈駆を睨みつける。
「この私に、守りに徹しろというのか!」
だが、そんな華雄の気迫を物ともせず、賈駆は表情を変えずに言葉を続ける。
「ええ。 遠征してくる連合軍の明確な弱点は補給ただ一点のみ。 これを突かない手はないわ。 だから、水関に篭って敵の兵糧が尽きるのを待つの」
相手は大陸各地からわざわざこの洛陽を目指してやってくるのだ。
当然、その為にそれぞれ軍を維持するために兵糧を持ってくるだろう。
しかしその後ここにたどり着いた時に、不足した兵糧を補給するとなるとかなりの手間を掛けることになる。
徴発をするにしても、連合を維持するには膨大な量を必要とするだろうし、ここを突けば連合を瓦解させることも可能だ。
「そうなれば相手も連合を維持することは出来なくなって退却するはずよ。 それを待てば──」
「断る! 何故私が亀のように、甲羅に頸を隠さねばならないのだ!」
しかし、賈駆の案に華雄は不満らしい。
賈駆と張遼は、先程までの彼女の態度にこうなることは予想はしていた。
それでも、篭城し敵の兵糧が尽きるのを待つのは兵法の一つとして間違ってはいない。
そのことは華雄も良く分かっているはずなのだ。
「私は武人だ! 敵に姿も見せずにこそこそと戦うなど武人としての矜持が許さん! 敵武将と雌雄を決するまで戦うことこそが武人である私の在り方だッ!」
それでも許容出来ないのは武人としての己の矜持故だ。
矜持こそ華雄を武人たらしめるものであり、原動力。
頑固なまでに己の力を信じることもまた、強さの一つである。
「でも、敵が……」
「連合軍など私の武の力があれば容易い! それとも何だ! 賈駆は私の武を侮っているというのか!?」
華雄の頑ななまでの態度に、賈駆はこれ以上の反論を諦める。
このまま華雄の言葉を否定して、彼女が命令に従わないなどと言い出してしまっては戦いに支障が出る。
賈駆としても彼女の強さを疑っているわけではないのだ。
しかしそれは個人としての力。
戦争においてはそれでも覆せぬことがあるということを華雄も知らぬわけではあるまい。
「……分かった。 全てあなたに任せる」
「当たり前だ。 万事、私に任せておくがいい。 それでは、失礼する」
軍議は終わったとばかりに、華雄は一人部屋から出て行ってしまった。
それを二人で見送りながら、同時に溜息をつく。
どうしてもこうも一筋縄ではいかないのか。
「全く、華雄っちの態度にも困ったもんやなぁ。 ああいうバカは他人の言葉を聞かへんから厄介やわ」
「自分が一番強いって思ってるから余計ね。 腕が立つだけに頭が痛くなるわ」
「華雄っちも、もう少し周りを見るっちゅーことを覚えれば、将としても強なると思うけど。 ……今更やしな」
これからのことなど期待していては遅い。
今重要なのはこの局面をどう対処するかということなのだ。
「んで、どうするのん賈駆っち?」
「どうもこうもないわ。 水関で防衛して、それでも駄目なら虎牢関で防衛。 圧倒的に兵数が違うんだから、まともにやりあっても勝てる筈ないもの」
先にも言ったとおり、相手は大陸に割拠する有力諸侯の全てだ。
例え堅牢な要塞を幾つも持っているとしても、純粋な兵力差までは如何ともしがたい。
そのことは張遼も分かっている。
「せやねぇ……。 世間様の噂通り洛陽が暴政布いとるっちゅーんなら、無理な徴兵でも何でもしてそれなりに対抗できるんやけど」
「ボクだってそうするのが一番いいのは分かってる。 でも……」
「董卓ちゃんが許さへん、か。 あの子は優しいからなぁ。 ……でもあいつらは何て言う?」
その言葉に、賈駆の目が鋭いものになる。
今、ここでこうしているのも張遼の言った奴等のせいなのだ。
そして董卓も、奴等のせいで苦しい思いをしている。
「……さあね。 奴等の目的はこの洛陽じゃないし、連合軍を追い返そうとも思わないんじゃない?」
「狙いは別にある、ってことか」
その詳細はよく分からないが、奴等の目的はどうやら連合軍と戦うことにあるらしかった。
つまり董卓はその為の囮。
一体何のために連合軍と戦わせようとしているのかは知らないが、逃げることは許されない。
逃げようとすれば董卓の命はあるまい。
何よりもそれだけは賈駆にとって避けねばならぬことだった。
「──賈駆っち」
「なによ?」
そんな賈駆に、張遼は声を幾分か小さめに、囁きかけるように声を掛けた。
まるで、ここにはいない誰かに聞こえないようにするかのようだ。
「あいつらの目的の為に死ぬなんてアホ臭いやろ? 董卓ちゃん連れて、逃げる準備しとき」
「張遼、あなた──」
それはつまり、自分を見捨ててでも逃げろということだった。
張遼の言葉に、賈駆の表情が驚愕に変わった。
賈駆の表情を面白そうに見つめると、張遼は笑みを作る。
「徐栄にも、このことは話しとる。 隙はウチらが作るさかい、その後は自分達でなんとかして逃げればええ」
「でも、それじゃあ人質が……」
「……残酷なこと言うけど、人質はもう死んどるで」
「!?」
「そもそも生かしとく意味が無い。 董卓ちゃんは自分でそんなこと調べられるわけないし、ウチらも下手に動けば董卓ちゃんの命が無いしな」
董卓にとって人質がいるように、賈駆や張遼にとって董卓こそが自分達に対する人質だった。
彼女に人質の死を伝えたとしても、不用意に彼女の命を危機に晒すだけだ。
だからこそ、今まで二人は迂闊に動くことが出来ずに、奴等の命令に従うしかなかった。
「……あの子がこれ以上苦しむ必要なんてあらへん。 董卓ちゃんには幸せになってもらわな可哀想やんか」
「…………」
「それは賈駆っちかて一緒や。 面倒臭いことはウチらに任せて、安全なとこまで逃げて、平和なトコで暮らし」
「……でも」
張遼は、分かっているのだ。
この戦いは恐らく負けるということを。
それでもなお、二人のことを気に掛けてこうして逃げるための手筈を用意してくれているのだ。
「ま、今までアンタらに対して何も出来へんかった、ウチらのせめてもの償いっちゅーやつや。 だから、賈駆っちが気に病む必要なんてなーんもあらへん」
快活な笑みを浮かべると、乱暴に賈駆の頭を撫で回す。
普段ならば振り払っていただろうが、今の賈駆はそんな張遼の腕を好きなようにさせていた。
そして、申し訳なさそうに呟く。
「……分かった。 お願いするわ」
「ん、任しとき。 それじゃウチは虎牢関に行く準備でもしてくるわ。 呂布ちんも探さなアカンしな」
「ええ。 呂布のこと、よろしくね」
「あいよ。 ほんなら、また後で」
張遼は先程までの深刻な会話など、まるで無かったかのように振舞って退出していった。
彼女は、どんな時でも自らの態度を変えることはしない。
そのことに励まされる思いをしながら、賈駆は一人になった部屋で内心を吐露する。
「……ごめんなさい、張遼」
きっと、彼女も無事では済まないだろう。
むしろ戦死することのほうが可能性としては高い。
なのに、己のことではなく自分達の心配をしてくれていた。
そのことに言いようもない感謝の念を抱きながら、賈駆は決意を新たにする。
「月は……。 月だけは、ボクが守ってみせるから……!」
張遼の願いに対する、賈駆が出来るただ一つの答え。
それは多くのものを犠牲にするということだが、それを全て背負ってでも賈駆は親友を守り抜くことを誓った。
10【全ては親友の為に】
賈駆を残して部屋を出た張遼は、呂布を探して庭を探していた。
自室にいる可能性も考えたが、彼女の普段の生活を見ていれば、あまり自分の部屋に篭る性格の娘ではないことは良く分かっている。
だからこそこうやって外を歩き回って探しているわけなのだが……。
「さーて、呂布ちんはどこにおるのかな……っと」
目当ての相手は、中庭の林の中で見つかった。
「…………」
張遼が探していたことなど全く知らない呂布は、気の抜けた顔で空中の一点を眺め続けていた。
これが、大陸全土に名を馳せる猛将呂布奉先だと誰が分かるだろうか。
張遼自身も、彼女が戦っている姿を見るまで全然信じてはいなかった。
いや、認識を改めた今でも、微妙に疑っていたりするが。
「見つけたで、呂布ちん」
「…………?」
張遼が声を掛けると、まるで驚く様子もなく彼女のほうに振り向く。
恐らく、張遼が近づいてきたときにその気配を感じていたのだろう。
そうでなくとも、感情表現が少ない呂布が表情を変えることなど滅多にない。
「出陣やって。 準備せえって賈駆っちが」
「……………………」
長い沈黙の後、首肯。
どうやら、何か気に掛かることがあるらしい。
しかし、彼女の様子からはそれが何のことなのかは、張遼には見当がつかなかった。
そんな張遼の気持ちを知らず、呂布は再び先程まで眺めていた場所に関心を移した。
「ん? どしたん、呂布ちん。 そないにボーっとして」
「……チョウチョ」
よく見ると、呂布が見ている先には蝶々が空を舞っていた。
どうやら、張遼が来るまでこうしてずっと蝶々を眺めていたらしい。
呂布らしい行動に苦笑しながら、相変わらずやなと安心する。
「……ヘン」
「変って何がや? ウチには普通のチョウチョに見えるけども」
別段、呂布の目の前を飛んでいる蝶々におかしい部分は見当たらない。
しかし、呂布がいいたいのは別のことだったようだ。
「……霞」
「はぁっ?」
どうやら、変と言っていたのは霞という真名を持つ張遼のことだったらしい。
突然自分のことを指摘されたことに流石に驚く張遼。
だが、変と言われて怒りを抱いたりはしない。
彼女の言動の突拍子のなさは、よく知っているからだ。
「ウチがヘンって、随分なこと言ってくれるな呂布ちんは」
「……ヘン」
直感に優れる呂布は、張遼からなにがしかを感じたらしい。
でも、それが何かはよく分からないから変という大雑把な事しか言えないのだろう。
「それはもうええっちゅーねん。 それよりも、早よ準備しぃ」
「……戦?」
「せや。 敵が洛陽に攻めてきとんねん。 ウチらの役目は、そいつらを追っ払うこと。 分かるな?」
「…………」
再度、首肯。
先程よりも返事の間が早い。
どうやら今度こそ納得したらしい。
「役目が分かったところで、出陣の準備しよな。 ウチらは虎牢関の守備や。 大将は呂布ちんに任せるんやと」
「…………」
しかし、今度は首を横に振った。
「あー……無理なん?」
「…………」
どうやら、本当に嫌らしい。
張遼も、この呂布に大将という重責を担う役目を任せるのには不安がある。
本人もそのことは十分に理解しているらしい。
だからといって、彼女の意見を鵜呑みにするわけにもいかないのが張遼の苦しいところだ。
「でも、賈駆っちの命令やしなぁ……」
董卓を戦に巻き込みたくないという総意の上で、賈駆という軍師の言葉はかなりの権限を持つ。
張遼も武人としての自覚は持っているが、それ以前に彼女は軍人である。
誰かに仕え、その力を十二分に発揮することこそ、彼女の生き甲斐であり世渡りの方法なのだ。
軍人としての自分にとって、賈駆の言葉を覆すのは中々に難しい。
「……霞」
そんな張遼を、呂布は指差す。
つまり、自分の代わりに張遼がその任に就けばいい、ということらしい。
「ウチにせえって? そりゃ無理やって。 序列を乱すような真似はしとーないし」
前述した通り、張遼は軍人である。
砕けた態度で誤解されがちだが、上下関係はきっちりとしているし命令を違反することも少ない。
……少ないという辺りに彼女の性格がよく表れているが。
だが、そんなことは呂布には関係のないことである。
「…………」
「……ぅ」
呂布は何も言わず、ただ何かを懇願するように張遼を見つめていた。
それはまるで雨の日に打ち捨てられた子犬のようであり、張遼の心を徹底的なまでに揺さぶる。
最強の強さを誇ると言われる呂布だが、真に手ごわいのはこの純粋な態度じゃないだろうか、などと張遼は邪推する。
しかも、彼女は狙ってやっているのではなく、天然でやっているのだ。
何とも恐ろしい少女である。
「…………」
「そ、そないな捨てられた子犬みたいな目で見たって、どうしようもないで……?」
「…………」
「あ、アカン! そないに純粋な目でウチを見んといて! 汚れたウチの心が軋む! 軋んでまうわ!」
呂布の無言の哀願攻撃に、激しく心が揺さぶられているらしい。
耐え切れなくなった張遼は、ついに折れた。
「分かった分かった! じゃあ、呂布ちんの仕事はウチが肩代わりしたる。 その代わり、大将が呂布ちんっていうのは変更無しやで?」
「……?」
張遼の言っていることが理解出来ないらしい。
不思議そうな顔で、首を傾げる。
「つまり、名目上は呂布ちんが大将やけど、面倒臭い雑務やらなにやらは全部ウチがやるってことや。 それなら、呂布ちんも大丈夫やろ?」
「………………」
少し間を空けて、首肯。
なんとか理解は出来たらしい。
これでなんとか呂布に大将を任せることが出来ると安心しながら、それに伴う苦労を引き受けることになり溜息をつく。
そんな張遼の背後に歩いてくる影があった。
「……何をしているんだ、お前らは」
「む、徐栄かい。 こそこそと盗み見とは関心せんなぁ」
張遼たちの所に来ていたのは、董卓の側近であり護衛を務めている徐栄だった。
こうして董卓が洛陽を占拠するという噂が立つ前から彼女に仕え、その身を守ってきた古参の将である。
その付き合いは、董卓の幼馴染である賈駆の次に長い。
「まったく、もうすぐ戦だというのに気楽なものだな、お前達は」
「徐栄かて董卓ちゃんほっぽいてええんか?」
「……月様はお休みになられたのでな。 それに、そろそろ詠様も様子を見に行っている頃だろう」
「なるほどな。 二人っきりにしてあげたっちゅーワケか」
親友である二人の会話を邪魔をするのは悪いと思ったのだろう。
彼女にとって、二人の心の安寧こそがなによりの願いなのだ。
その為ならば己の身すら厭わないとも徐栄は考えている。
そんな堅苦しい徐栄の在り方に、難儀な生き方やと思いながらも張遼は好意を抱いていた。
「……これから出撃の準備か?」
「徐栄も知っとるやろ。 連合軍のことは」
「無論。 このような好機を逃さぬ手はないのでな」
好機というのは、董卓と賈駆を逃がすことだ。
以前より徐栄は張遼と共に、二人を逃がす手筈を考えていたが、彼女の裏にいる人物の目を掻い潜ることが出来ずにいた。
だが、連合軍が攻めてくることでそちらのほうに奴等の目が向けば彼女達を逃がす機を得ることが出来ると考えている。
策としては危険が多いものではあるが、彼女達の命を守る為には形振り構ってはいられないのだ。
「…………?」
だが、そんなことを呂布が知るはずも無い。
一人会話に取り残された彼女は、一体どういうことなのかと首を傾げるばかりだった。
「……呂布。 月様と詠様は好きか?」
「…………」
徐栄の問いに、即座に頷く呂布。
呂布は、優しい董卓も、口煩いながらも彼女のことを常に気遣っている賈駆のことも好きだった。
だからこそ、ここで連合と戦う為にいるのだ。
呂布は純粋故に、嫌なことは絶対しない。
そんな彼女が董卓の為に戦うことこそが、明確な答えを示している。
「ならば、呂布も協力してくれ。 あの二人を守る為にも」
「……ん」
その為になにをすればいいのか、ということは聞かなかった。
でも、彼女ならば分かっていなくとも自分に出来る最善のことをしてくれる筈だと徐栄は信頼している。
「でも徐栄。 華雄っちには言わんくてもええのんか? あの子一人だけハブにしても可哀想やろ」
「……あいつは愚直なまでに武人だからな」
恐らく、言っても言わなくても敵の最前線に出て戦うことを希望するだろう。
自分の力に絶対的な自信を持っているせいで、それ以外の選択肢を選ぶことが出来ないのだ。
それは徐栄や張遼にとっては愚かな選択だ。
だが、彼女とてこの戦いに勝ち、董卓を守る為に戦おうとしている。
その気持ちまでをも愚弄することは決して無い。
「逆に奴等に華雄の行動に違和感を持たせては、元の木阿弥だ。 申し訳ないとは思うが、彼女には一人で頑張ってもらうしかない」
「ったく、ホンマに難儀な子やで。 華雄っちは」
こうして華雄に黙っている自分も大概やけどな、と一人ごちながら苦笑を浮かべる。
「さて、私はその為の手筈を整えにいってこよう。 お前達もそろそろ出陣の準備をしなければならないのだろう?」
「せやったな。 徐栄と駄弁とったせいで無駄な時間を浪費してもうたわ」
「ぬかせ」
張遼の軽口に、親しげな笑みを浮かべる。
徐栄も董卓や賈駆の為に堅物のイメージを持たれがちだが、張遼に付き合えるほどの柔和さぐらいは持ち合わせている。
「んじゃウチも虎牢関に行く用意をせなな。 呂布ちん!」
「…………?」
「チョウチョばっか見とらへんで、武具の手入れぐらいせなアカンで?」
「…………」
呂布が頷いたのを確認すると、張遼は庭を出て行った。
そして徐栄もまた呂布に背を向ける。
彼女もまた、すべき事がある。
「ではな、呂布。 ……張遼のことをよろしく頼む」
「………うん」
そうしてまた、徐栄もまた去っていった。
庭の林には、呂布一人が取り残される。
再び呂布は空を眺めるが、その先には蝶々は既に飛んではいなかった。
「……戦……」
それは、まるで虚しいと感じているかのような呟きだった。
最強ゆえの憂いなのか、それとも戦うことに対する虚無感なのか。
でもその目は先程までのどこを見ているのかよく分からないものではなかった。
「……私が、全部倒すから」
それはここにいる間に呂布自身が誓ったこと。
自分に優しくしてくれる人達に対する、自分が出来るただ一つの恩返し。
持って生まれたただ一つの才は、彼女達を守る為にある。
「……だから、安心して。 …………月」
静かに、呂布は一人心優しい少女の為に戦うことを誓った。