「張宝がやられましたか……。 まぁ、期待はしていませんでしたが」
冀州は鉅鹿。
張角が率いる黄巾党が占領し、拠点とした城には異様な空気に包まれていた。
黄巾党のトップである張角が療養しているにも関わらず、そこには全く人の気配を感じられない。
いや、人はいる。
だがいずれも白装束に身を包み、誰も口を塞ぎ会話を交わすことすらしない。
生気を感じさせない白装束の者達は城の至る所に立っており、例え張角の妹である張宝と張梁ですら入城を拒まれていたほどの厳重な警備が敷かれていた。
そんな城の一室。
張角が眠る寝室に、一人の男が立っていた。
「折角私達の力を分け与えてやったというのに……。 これでは張梁もそう長くはありませんね」
「……于吉。 それは本当のことですか?」
「ああ、起きていらっしゃったのですか。 大賢良師殿」
「……白々しい挨拶など不要だわ。 それよりも張宝が死んだというその情報、本当なのですか?」
病床に伏せた身とはいえ、太平道の教祖として黄巾党を率いる張角の瞳には有無を言わせない力が込められていた。
しかし、そんな張角の視線にも于吉と呼ばれた男は何処吹く風と全く気にする様子も無い。
「ええ。 私の傀儡から届いた情報ですから、間違いはありません。 あなたの妹は、何処の者ともしれぬ県令の手によって殺されました」
「…………そう」
長い沈黙の後、張角は静かに目を伏せた。
そんな張角の様子を、于吉は興味深そうに眺めていた。
「人の道を外れた者でも、実の妹の死は悲しいものですか」
「……この身は既に外道の力で犯されても、心までは魔道に堕ちたわけではありません」
張角の身体は、病気ではなく妖術と呼ばれる力を使い続けた代償に蝕まれていた。
人々を助けるために力を使い続けた張角の身体に、正常といえる部分は殆ど存在しない。
身を染みて妖術を使い続けた結果を知る張角は、妹達には禁忌として決して使わせることはしなかった。
「張宝は死に、張梁の命も風前の灯。 そして教祖であるあなたがそんな様では、もうこの黄巾党も長くはないでしょうね」
「……それは道士としての予言かしら?」
「いえいえ、事実を口にしたまでですよ」
自分が率いてきた黄巾党がもうすぐ滅ぶと言われたのに、張角に動揺はまったくなかった。
ただ、虚しい気持ちが心に生まれただけだ。
「……結局、私は人々の為に何も出来なかった……」
「それが当然のことですよ。 この世界では意味のあることなどなにもありません。 あるのはただ無駄な歴史を綴る現実のみ……」
「……于吉、あなたは人の想いすら無意味と言うのね」
「いえいえ、あなた達の行動はこの退屈な世界では中々に面白いですよ」
肩をすくめて嗤う于吉。
それはまるで舞台で踊り狂う道化を見ているようだった。
「ですがまぁ、あなたは既に用済みです。 これから歴史は大きく変わる。 しかし、そこにあなたは不要なのですよ」
「……そう、私を殺すのですね」
「いえ、対外的にあなたには病死してもらいます。 何者かに殺されたとあっては、あなたの下にいた連中が暴れてしまいますからね」
「……面倒な手間を掛けるのですね、あなたは」
「それが私の仕事ですから」
干吉は、ゆっくりと張角の額に手を当てる。
「まぁ、今までの礼としてあなたには苦しまずに逝かせてあげましょう。 では、さようなら」
「……于吉、あなたが思っているほど……この世界の人々は……弱くは……無いわ…よ……」
かすれる声でそう呟くと、張角はゆっくりと瞼を閉じた。
暫くすると張角の呼吸は止まり、徐々に体温も下がってきていた。
それを確認すると、于吉は眼鏡を掛けなおし寝室から退出する。
「……そんなこと、百も承知ですよ。 だからこそ我々がこうしてここにいるのですから」
もはや彼にとってここにいる理由も無い。
于吉は自分が元居た場所に帰る為に、ゆっくりと廊下を歩く。
「さて、左慈の顔を見るのも久しぶりですね……。 あなたの愛しい于吉が、もうすぐ会いに行きますよ」
その時、別の場所に居た白装束の青年の背筋が凍りついたとかいないとか。
とにかく、張角の死によって大陸の状況は再び大きく変わろうとしていた。
09【起点】
「ええい、一刀! そんなにちょこまかと避けるな!」
「ばっ!? 無茶なことを言うな!」
物凄い速度で襲い掛かる偃月刀を鼻先ギリギリで避ける。
刃引きがされているものとはいえ、こんな速さで振り回される武器が直撃すれば激痛は免れないだろう。
そんな緊張感と背中合わせの中、愛紗が繰り出す連続攻撃を必死に避け続ける。
出来ることなら距離を取りたいが、そんな隙を彼女が与えてくれる筈も無い。
かといって強引に下がればそれこそ打ってくれと言っているようなものだ。
だから今はこうして限界のところで愛紗の攻撃を避けるしかない。
「避けるのが嫌ならば、反撃をしてみせろ! これでは鍛錬にもならんぞ!」
「出来てたら既にしてるわー!」
そもそも愛紗の偃月刀と俺の刀では相性が悪すぎる。
鈴々の蛇矛のそうなのだが、攻撃出来る範囲において彼女達のほうが圧倒的に優位に立っているのだ。
刀が相手に届かなければ意味が無い。
しかも相手は関羽という手練。
こちらの刀が届く位置まで踏み込むにはかなりの苦労を強いられる。
「愛紗、お前もう少し手加減というものをだな……!」
「鍛錬とはいえこれは仕合だ! 仕合に手を抜く者など居ないだろう! ……そこぉッ!」
「どわー!?」
容赦なくこちらの頭を唐竹割りにしてくる一撃を、必死の思いで受け流す。
爺程ではないが、かなり強烈な攻撃はこちらの腕に僅かな痺れを感じさせた。
……こうして考えてみると、俺の師匠だった爺はかなりの腕前だったのではないか。
愛紗と戦ってみてそう実感する。
物心がつくかつかないか、といった曖昧な時期に両親に先立たれ面倒を見てくれることになった祖父と共に過ごしてきた十数年間。
その間勉学以外では殆ど爺と剣の修行に明け暮れていた。
以前住んでいた実家には小さいながらも道場があり、鍛錬もそこで行っていたのだが門下生は一人もいなかった。
なので相手となるのは爺一人。
圧倒的な技量でこちらを常に打ちのめす糞爺に怒りを感じつつも、勝てない自分にもいつも憤慨を抱いていたものだ。
だが、そんな常に格上の相手との戦いで身に付いたものもある。
それは死地に飛び込む度胸と、常人を越えた動体視力。
「くそ、やられっぱなしは性に合わないが、分が悪すぎるぞ!」
愛紗の偃月刀の軌道は読める。
だが、それを更に上回るだけの技量と身体能力が足りないのだ。
ならば何でそれを埋めるか。
いっつも爺相手にしてきたことだ。
「どうした、脇が甘いぞ!」
「こ、こうなったら一矢報いてやらぁっ!!」
横から襲い掛かる偃月刀を刀で受ける。
しかし、片手で持った刀では愛紗の力には勝てない。
刀は空高く弾かれ、こちらは無防備になってしまう。
だが。
「むっ!?」
「どうした愛紗? 人の獲物奪って油断したかぁ!?」
弾かれるのは予想の内だ。
むしろ飛ばされるためにあえて緩めに刀を握っていた。
偃月刀の軌道は逸れ、一瞬だけ愛紗に隙が出来る。
確かに俺には既に武器は無い。
「俺にゃぁ、拳っつー武器があるんだよ!」
何も刀だけで戦っているわけじゃない。
そもそも刀が無くなっただけで戦えなくなるようじゃ、葛葉派一刀流としては未熟者なのだ。
普通ならば二歩必要な愛紗との間合いを、一足で詰める。
このとき既にこちらの意図に気付いた愛紗が柄を叩き込もうとしてくるが、左手で腕を押さえてそれを防ぐ。
そして懐に飛び込むのと同時に、愛紗の身体を左手で引き寄せ、右足を軸とした掌底を腹部へと叩き込む。
「ぐぁっ……!?」
「……浅いかっ」
だが、愛紗は驚くことにインパクトの瞬間自分の身体を後ろに引き、その威力を半減させていた。
後ろに飛んだことで距離が大きく離れるが、追撃することはしない。
足元に転がっていた刀を拾い、再び構えなおす。
「……まさかそのような手で仕掛けてくるとはな」
「あれで倒せなけりゃ意味ないけどな……」
愛紗に目立ったダメージはない。
これで戦いは元の状態に戻っただけだ。
「…………」
「…………」
お互い微動だにせず、隙を伺う。
愛紗の偃月刀を握る手に力が込められ、徐々に闘志が膨れ上がっていく。
そして、それが遂に爆発しそうになった時。
「……降参」
「はっ?」
刀を鞘に納め、両手を上げて参ったのポーズを取る。
これ以上やって愛紗に勝てる自信はない。
守りに徹するならば何合でも持ち堪えられる自信はあったが、決着となれば確実に負けるだろう。
あの一撃で仕留められなかったせいで、勝機を逸してしまった。
この後はやるだけ無駄だろう。
「……お前、この高ぶり切った私の闘志はどうしてくれるのだ?」
「適当に後で鈴々にでもぶつけておいてくれ……」
明らかに不満そうな顔ではあったが、ここからもう一回戦おうという気にはなれないようだった。
まぁ、愛紗もこの仕合の決着が分かっていたのだろう。
流石にどちらかが戦闘不能の手傷を負うまで戦いを続けていては、この後に待っている政務にも影響が出るだろうし。
渋々と偃月刀を下げ、ようやく周囲の空気が張り詰めたものから元に戻った。
「決着は不本意なものだったが、良い仕合だった。 鈍り掛けていた腕にも丁度良い刺激になっただろう」
「俺も愛紗と戦って色々と学ばせてもらったよ」
あの張宝との戦いから数ヶ月。
兵たちの損害はそう目立たないものであったが、失ったものは大きかった。
家屋は再び至る所が壊れ、糧秣庫も殆ど空。
一週間で必死に取り戻したものの多くが再び零に戻ってしまっていた。
既に金策も尽き、どうしたものかと美生が悩んでいたが思わぬところから救いの手は差し出された。
それは、あの戦いで救援を寄越してくれた広陽郡などが、今度は逆に援助を申し込んできたのだ。
どうやら張宝との戦いで評価され、その庇護を求めてきたらしい。
もちろん、断る理由も無く、現在までの間に俺達の領土は幽州の半分を占める程にまで拡大していた。
そんな中で公孫賛の援助もあり、この街の悩みは殆ど解決したのだがここに来て更に頭を悩ます事態になっていた。
……領土が増えたことで、それに伴う政務も激増したのだ。
そのおかげで美生は殆ど部屋に篭って書簡と格闘する日々を続け、俺達もまたその補助に回っていた。
更に他の郡からやってきた兵の再調練や部隊の編成などで正にてんてこ舞いな日々を送っていたのだった。
そして猫の手も借りたいということで内政も手伝うことになったのだが、治水や農業に関することならある程度分かるのでそれが美生の助けになった。
まぁ、元々日本は中国よりも水の災害に悩まされていたし、その辺りの知識は豆知識として頭の中にあったのだ。
農業のほうは、実家にいた頃は自給自足の生活だったのでそれが役に立ったというべきか。
そんなこんなでまともに自分の鍛錬に割く時間が取れず自分の腕が鈍っていないか不安だったのだ。
丁度愛紗も同じことを考えていたらしく、暇を見つけてはこうやって鈴々も含めて三人で仕合形式の鍛錬を行っていた。
「さて、と。 俺はそろそろ糜竺んとこに行くか……」
「そういえば今日はお前の授業の日だったな」
糜竺とは、俺達が人材登用に精を出していたころに志願してきた女性だ。
商家の生まれらしく、数字に強い上に政にも明るいとあって内政においては貴重な人材だった。
そしてそんな彼女の元に何故俺が行くのかというと……。
「それにしても一刀。 そろそろ文字の読み書きも出来て良い頃ではないのか……?」
「う……」
この世界、何故か聞こえる言語は俺の良く知っている日本語なのだが、文字はちゃんと中国なのである。
まともに読めない上に、書くことも出来なくてはこの世界で生きていくには非常に困難だ。
なので、こうして週に何度か糜竺の元に教えてもらいに行くはめに。
最初の頃は美生に彼女の政務を手伝いながら教えてもらっていたのだが、これでは彼女の邪魔になるだけだと悟り別の人に白羽の矢を立てたのだった。
美生としては気にしてないらしいのだが、その後に浴びる愛紗のあの鋭い眼差しは流石にもう味わいたくない。
「いや、基本的なところはもう殆ど出来るんだけどさ。 ちょっと難しい専門の用語みたいなのは全然分かんなくて」
特に内政なんてやろうとすればそんな文字のオンパレードである。
結果糜竺の所へ書簡を持っていって、その意味を教えてもらいながら仕事をするという形でなんとかやりこなしてはいる。
とりあえず一人で出来るようになるにはもう少し猶予が必要だ。
「まぁ、確かにお前には内政にも参加してもらう必要があるのだし、早く一人でこなせるようになれ」
「ぜ、善処します……」
美生の横で補佐をこなす彼女には返す言葉もありません……。
計算が出来る分まだ鈴々よりはマシだと思うけど、あれと比べちゃいけないよな。
本人が聞いたら蛇矛でぶっ飛ばされそうだけど。
まぁ、そんな肩身の狭い思いのする会話をしながら汗を拭いていると中庭に来客が一人。
「あ、北郷様に関羽様。 こんなところにいらっしゃいましたか」
「噂をすればというやつだな」
「糜竺じゃないか。 どうした、こんなところに」
やって来たのは先程まで話題に上がっていた糜竺だった。
普段は自室で割り当てられた書簡を片付けるのが日課の彼女が、こんなところに来るのは珍しい。
歩調も小走りで、頬も紅潮して息も少し荒い。
どうやらここまで急いで来たらしいようだった。
「別にこんなところに来てまで俺を呼びに来なくてもいいのに。 ちゃんとサボらずに行くからさ」
「……以前はサボったことがあるんだな」
「うっ」
実は二度ほどサボったことがあったり。
でも当の糜竺といえば、そんなことはどうでもいいといった様子。
「いえ、そのことはどうでもいいのですが……。 実は来客がありまして、二人を呼んで来るようにと劉備様が」
「姉上が?」
愛紗はともかく俺も呼び出すとは珍しい。
何処かからの使者なら愛紗だけでも事は足りるだろう。
愛紗も同じ事を考えていたのか、不思議そうな顔をしていると糜竺が言葉を続けた。
「なんでもいらっしゃったのが公孫賛様のようで、二人にも是非にと」
「……ああ」
それで合点がいった。
公孫賛が来るのなら、俺達も呼んだ意味が分かる。
あの時は世話になったし、顔を合わせるのも礼儀というものだろう。
張宝との戦いの後、美生は幾度か彼女と会う機会があったようだが、俺達は一度も公孫賛を見ていない。
それぞれの仕事が忙しかったこともあるし、彼女の立場が太守というこちらよりもずっと上の存在だったので会い辛かったのだ。
丁度俺も愛紗も仕事の合間だったし、断る理由は無い。
「分かった。 すぐに行くから美生にもそう言っておいてくれ」
「ではそのように。 劉備様と公孫賛様は既に謁見の間にいらっしゃるのでそちらに来てくださいね」
そう言って糜竺は一礼すると、再び小走りに中庭を後にした。
「公孫賛か……。 会うのも久しぶりだな」
「しかし、一体どういう用件なのだ? 普通ならば私達の耳に入ってきてもいいような気もするが……」
「その辺りのことは直接本人に聞いたほうが早いだろ」
美生が是非にと言っていたということは、これは別に厳命ではない。
彼女はあれでいて大事な用件ほど公私はきちんと分けるほうだから、今回の公孫賛の来訪は太守としての仕事絡みではないということになる。
確かに美生と公孫賛は親しい間柄だが、理由も無く遊びに来れるほど公孫賛も身軽な立場ではない。
となると何か用事があって美生に会いに来た、ということになるが。
その用事と言うものが、俺達は全く予想出来ずにいた。
そんな訳で二人してやってきた謁見の間。
中に入ってみればそこにいたのは糜竺の言う通り美生と公孫賛の姿が。
ついでに、もう一人の姿もあった。
「あ、二人とも来たのだ!」
「鈴々? どうしてここに……」
謁見の間にいたのは美生と公孫賛、そして鈴々のみ。
他には誰もいないらしく、鈴々の声だけが部屋に響いていた。
その鈴々の声でこちらに気付いたのか、美生と公孫賛もこちらを向く。
「よっ、久しぶりだな北郷」
「張宝との戦い以来だな、こうして会うのも」
ガシッと握手を交わして再会を喜び合う。
自分からしてなんだが、この人は少し気さく過ぎやしないだろうか。
俺としてはこっちのほうが付き合いやすいからいいんだが。
「関羽も、元気でなによりだ」
「公孫賛殿も。 相変わらずのようで安心しました」
こちらは握手はせず、一礼だけ済ませる。
とても簡素な挨拶ではあったが、愛紗は微笑を浮かべていて、公孫賛との再会を喜んでいることは十分伝わっていた。
だが、彼女もただ俺達に挨拶をしにきたわけではあるまい。
「露花、話の続きを」
「そう急かさなくたっていいだろ。 二人にもここまでの経緯を話さなくちゃいけないしな」
「一体どういうことだ?」
美生の真剣な顔からして、何やら大変なことのようだ。
公孫賛も顔を真剣なものにして話し始める。
「この大陸の今の状況……、お前達も分かってるだろ?」
「……霊帝の死か」
「ああ」
そのことは間者を全土に送ることで把握していた。
黄巾の乱でその権威が地に落ちたとしても、皇帝の死というのは大陸全土を騒がす事態だ。
だが、これは単なる火種でしかないことを俺は知っている。
本当に大陸全土を騒がす事件とはその後の相続争い、そしてその後に続く騒乱にある。
「朝廷を巡って大将軍である何進の一派と、宦官達の一派がそれぞれ後継者候補を擁して争っていたんだが」
「一方の頭である何進が何者かに謀殺された、と」
まぁ、それも敵がいる宮中へのこのこと参内した何進の無用心のせいだ。
こうなれば黙ってはいないのが何進の下に居た者達だ。
大将軍である何進を殺した宦官達に報復という名目を得た彼らはこれ幸いとばかりに宦官を一掃にかかった。
そんな何進派に対抗するために宦官達は自分の手駒となる武力を手に入れようと躍起になっていた。
そこで選ばれたのが生前の何進によって都に呼び寄せられていた并州の牧、董卓だった。
「その董卓って奴が霊帝の子供を保護した訳なんだが、この後が問題でな。 劉弁を廃して、その弟陳留王を皇帝として擁して朝廷を掌中に納めたらしい」
董卓は頭だけで能がない宦官達には扱いきれる程甘い人物では無かったらしい。
宦官達の許しによって堂々と朝廷に踏み入る権利を得た董卓は、その力で都を支配下に置き自らを相国の位に置いて朝廷を牛耳ったのだ。
もちろん、他の者達がそれを許すはずは無い。
すぐさま董卓を討とうと有力者達が立ち上がるが、献帝の権力を使い何進の軍を吸収した董卓は手強かった。
そうこうしているうちに洛陽は董卓によって占拠され、そこで暴政を布いた董卓は悪行の限りを尽くしているという。
「ま、そんなわけで他の奴らもこりゃいかんと重い腰を上げたわけでな。 董卓討つべしと連合に入れっつー檄文が来たわけだ」
公孫賛が見せてくれた檄文には俺でも知ってる有名な武将の名がずらりと並んでいた。
そんな名前の中に、端っこのほうに劉備玄徳と書かれていたのには愛紗と鈴々、三人揃って目を見張った。
「もう少しすればお前んとこにもこの檄文が届くだろ」
「私はこんなものを頂くほど有名になった覚えは無いんですけど……」
「覚えはなくとも知られてはいるんだよ。 張宝を倒した奴ってことでな」
手柄こそ公孫賛に譲ったが、彼女が来るまでの間張宝を苦しめ続けた劉備という者の名は噂として大陸全土に広まっていたらしい。
「そんな、私自身は何もしていないのですよ? 本当に評価されるべきは愛紗や鈴々、一刀さんじゃないですか」
「姉上。 臣下の力は姉上の力も同じです。 我らが評価されるのならば、姉上もまたそうされて然るべきかと」
「実際あの時美生が纏めてくれなけりゃ、あの作戦だって上手く出来たかどうか分からないしな」
あそこで美生が一喝してくれなかったらゃ、軍議は荒れて何の対策も立てられないままに張宝と戦うことになっていたかもしれない。
愛紗の言うとおり臣下の力を上手く扱いこなすのも一つの力ならば美生も十分評価されるに値するだろう。
「今は美生の謙遜なんざどうでもいい。 問題はこの連合にお前も入るかどうかってことだ」
「え、えっと露花は参加するのですか?」
「オレも遼西郡の平和を預かる身だ。 このまま董卓を放っておけばあいつらにも迷惑がかかっちまうからな」
それはつまり参加するということか。
全員の視線が美生に集まる。
こちらの参加の有無は彼女の一存で決められる。
「今、大陸の人々は黄巾の乱で疲弊し苦しい思いをしています。 彼らにこれ以上いらぬ苦労を強いぬ為にも董卓は放っておくべきではないでしょう」
「姉上、それではっ」
「待て待て美生。 そんなに結論を急ぐな」
美生が連合への参加を決定すると口に出す前に、それを遮ったのは公孫賛だった。
美生の親友である公孫賛ならば彼女がどう答えるかなど、予想できていたに違いない。
だからこそ、美生が答えを出す前に忠告する。
「確かにお前が言ってることは正しい。 でも、これからのこともよく考えて答えを出すべきだ」
「露花……?」
「連合と董卓の戦いの結果がどうであれ、これからの大陸は荒れるだろう。 董卓が洛陽を占拠した一件で最早朝廷の権威は地に堕ちたに等しい」
「……なるほど、そういうわけか」
「? どういうことなのだ?」
王権が崩れた後に待っているのは、覇権争いと相場は決まっている。
三国志にしても、董卓との戦いを期に群雄割拠の時代へと移り変わり各地の英傑達が活躍する時が来るのだ。
この世界もその三国志を元にした世界ならば、これからは大陸全土を巻き込んだ戦いが繰り広げられることになる。
「この檄文に書かれた面子に比べて、うちは軍事力も経済力も劣ってる。 ここで下手に消耗しちまえばその後に待ち構えている戦いに支障をきたすかもしれない」
特に袁紹や曹操、孫権なんかはその良い例だ。
奴らは董卓の討伐に力を割いたとしてもまだ余力を残している。
覇権争いの時にもそれは有利に働くだろう。
だが、俺達は違う。
あらゆるものが、俺達には未だ不足している。
優秀な兵。
多くの民達を支えるための財力。
弱小と言ってもいいこの土地は、油断すれば強国にあっさりと併呑される危険性を孕んでいるのだ。
「つまり、あえてここでは静観を貫き、国力を高めて後の戦いに備えておくのも一つの策。 ということですか」
「ああ。 別にお前が無理をする必要は無い。 ここでオレ達に任せるのも間違いじゃない筈だ」
それは公孫賛の親友対する心配りだったのだろう。
もしかしたら、ここに来たのも彼女なりの思いやりの結果だったのかもしれない。
公孫賛の言うとおりならば、この檄文は美生の元にもじき届くことになっていたのだろう。
この啄郡で美生の意志に異を唱えるものはいない。
そうなれば彼女は連合への参加を決定していただろう。
だからこそ、彼女の意志に待ったをかけられる公孫賛が直々に出向いて歯止めをかけにきたのではないか。
公孫賛の思いやりを美生も察したのか、その顔には逡巡が浮かんでいた。
暫くの後、ゆっくりと美生の口が開かれた。
「……それでも、私は困っている人たちを見過ごすことなど出来ません」
「美生……」
「露花の心遣いは本当に感謝しています。 でも、私は私自身の誓いに背く行いはしたくはありません」
それは、漢王室の血を引く者としての使命感から始まったのかもしれない。
だが今や王朝は相次ぐ失態によって無能を曝け出し、その権威を貶めてしまった。
最早漢王室を立て直すという美生の目的は失われたに等しい。
「私の誓いは、人々が苦しまず笑顔でいられる国を作ること。 こんなところで目を背けて、果たしてそれが出来るでしょうか?」
でも、そんなものは建前だろう。
きっと美生は漢王朝の血を引いていなくても、この大陸の為になにかをしようと考えただろう。
愛紗や鈴々だって、美生が漢王朝の血筋の者だから彼女と義姉妹の契りを交わしたわけではない。
自分の為ではなく、誰かの為に力を使うことの出来る美生だからこそ彼女達は美生を義姉と呼び慕うのだ。
「それに、友達だけ戦いに行かせて後方で見てるだけなんて最低だと思わない?」
それまでの真剣な顔を微笑みに変えて公孫賛を見る。
美生の笑みに一瞬呆気にとられていた公孫賛だが、すぐに腹を抱えて笑い出した。
「は、はははは! そうだな、お前はそういう奴だったもんな!」
「もう、人が真剣に答えてあげたのに笑うなんて酷いわ」
「わ、悪い悪い。 でも、お前の相変わらずっぷりを見て安心したよ」
これ以上彼女を引き止める気は公孫賛にはないようだった。
そうなればもうこの場で美生の意見に反対する者はいない。
「それでこそ姉上です。 この関羽雲長、姉上の為にどこまでも着いて行きます!」
「鈴々も、姉様と一緒なのだ!」
「ま、これからの情勢を把握する為に、諸侯の連中の顔を見るのもいいだろ。 もしかしたら味方になってくれる有力な奴がいるかもしれないし」
三国志を代表する諸侯達が面を揃えるなんてことはそうそう無い。
この機会を逃せば次はこの大陸を平定した時ぐらいしかないだろう。
「三人とも……。 ええ、これからもよろしくね?」
さて、これで連合への参加は決まった。
となれば話は次の段階へと進む。
「さて、連合へ参加するのはいいけどその為の準備もしないとな」
「私や鈴々、お前は勿論姉上に着いていくのは当然として、問題はここの守りをどうするか、だな」
連合の元に行くということは兵の大半を率いてこの幽州を離れるということになる。
となると問題は美生や俺達が不在の間の留守をどうするか、ということだ。
流石に自分達の領地をないがしろにする訳にもいかない。
「じゃあ誰かに任せるしかないのだ」
「……いや、それは当然だけどな」
鈴々の意見は極論だが、確かに誰か頼れる人物に幽州の守りを任せるしかない。
問題はその守りを誰に任せるか、という話になるが。
そこで俺は最近世話になっている人物の顔が浮かんだ。
「糜竺と……糜芳あたりなんてどうだ? 糜竺には内政のことで世話になってるし、二人とも政には強いしな」
しかも最近は軍もある程度率いることが出来るようになったし、適任だと思う。
彼女達なら俺達が留守の間この幽州を守ってくれるだろう。
美生も彼女達ならば大丈夫だと頷き、鈴々も異議は無いようだった。
その中で一人愛紗だけが苦い表情をしていた。
どうやらあの二人に任せることに何か引っ掛かるものを感じているらしい。
「糜芳か……。 彼女に任せて大丈夫なのか?」
「なんだ、不服でもあるのか?」
「いや、そういうわけではないんだが……。 どうも奴は気に入らない」
「……」
まぁ、史実だと関羽は糜芳の裏切りによって命を絶たれることになったらしいから何か感じるところがあるのかもしれない。
だが個人の感情で異を唱えるのは流石に憚られるのか、結局愛紗も糜竺と糜芳の姉妹に留守を預けることに頷いた。
「これで後顧の憂いは無し。 後は連合と合流して……最初に行うのは」
「戦うのだ! 悪い董卓の兵達をぶっ飛ばすのだ!」
「……いや、確かにそうだけど色々工程をぶっ飛ばしすぎだぞ鈴々」
鈴々らしいといえば鈴々らしいが。
そんな妹の様子にこめかみを抑えながら、愛紗が俺の言葉を引き継ぐ。
「馬鹿者。 連合を組むとなればまず参加する諸侯との面通しをして、その後に方針を決める軍議を行う筈だ」
「その時にそれぞれの配属部署も決められると思うけど、美生達みたいな規模の小さい軍は最前線には回されないだろうよ」
「……逆に俺達みたいな弱小軍が前曲に回されたら全滅の憂き目に遭うこと必須だぞ」
まぁ、普通ならそんなことはありえないだろうし、よくて後方で補給線の確保でもさせられるだろう。
前線で戦えないことは鈴々も不満を抱くだろうが兵達に危険な目を合わせないのなら、それに越したことは無い。
「さて、美生の参加は決まったか……。 んじゃオレの用事も済んだことだしそろそろお暇させてもらうよ」
「折角だからお茶でも飲んでいけばいいのに……」
「お前んとこと同じようにオレの方も連合に参加するに当たっていろいろやることがあるんだよ」
ということは自分のとこの準備もそこそこに美生のところに来たってことか。
面倒見がいいというか、なんというか……。
「次に会う時は連合の最初の軍議だろうな。 んじゃ、お互い頑張ろうぜ」
どうやら外でお供を待たせているらしく、公孫賛はそう言うと足早に去っていった。
結局言うことだけ言ってさっさと帰っていったなぁ。
とにかく、これで俺達の董卓に対する行動は決まった。
董卓のいる洛陽に辿りつくまでには難関は多くあるだろうが、とにかく頑張るしかない。
目的も新たに、俺達は連合へ参加するための準備を急ぐのだった。