遼西郡、右北平郡との国境沿いにある一城。
そこに今、黄巾党の討伐に向かっていた公孫賛の一軍は本拠地へ帰る為に足を休めていた。
「……損害はほぼ無し。 ウチの兵の錬度も上がってきて言うことなし、といいたいとこなんだが」
「おや、公孫賛殿。 何か悩みでもあるのか?」
そ知らぬ顔で頭を傾げているのは公孫賛の客将である趙雲子龍。
客将という身分故か彼女の発言を咎める者はいない。
そこがまた公孫賛が頭を悩ませる要因の一つとなってしまっているのだが。
「お前のことだお前の! 全く、毎度毎度単騎特攻しやがって。 お前は兵法ってものを知らないのかっ?」
「何を言う。 兵法を知っているからこその行動だと何度も言っているだろう」
「……確かにお前の武力の高さは認めているさ。 でも、そのせいで統率に乱れが生じていることも確かなんだぞ」
趙雲の強さはオレも十分に認めている。
一人でも何十人という敵を相手に縦横無尽に駆け回り、薙ぎ倒していく姿は敵も味方も魅了される程だ。
だが、だからと言ってこのまま独断行動を取っていればいつかは命の危険に晒される可能性も出てくる。
ここで誰かが諌めなければその自信は自らの足を掬いかねない。
「オレの命令を絶対厳守しろって言ってるんじゃないんだ。 とにかく、自分の身だけは大切にしてくれよ」
「公孫賛殿は私の実力に不信を抱いていると?」
「だー、もう察しろよこのバカ!」
……ったく、こいつももう少し聞き分けがよければオレとしても言うことなしなんだけどなぁ。
このやり取りも片手では数えられない程になってきたが未だに平行線を辿っている。
本当にこいつを扱いきれる人間なんているのか?
「公孫賛様!」
「お、なんだ黄巾党でも攻めてきたか?」
「いえ、啄郡の使者と名乗る者が公孫賛様に謁見したいと申して来ているのですが……」
啄郡というと一週間前に黄巾党の襲撃にあって県令が逃げ出したとか言う噂を聞いたが……。
一体何の用なのやら。
「今の県令は一体誰なんだ? 以前居たヤツは黄巾党の襲撃の際に逃げ出したとか言ってたし誰かが変わったんだろ?」
「はい、それなんですが……。 劉備玄徳と言う者が現在啄郡の県令の任に就いているようです」
「……劉備だって? その話、本当か!?」
「は、はい。 使者の言うことが本当ならばそうなりますが……」
……まさか美生の奴が啄郡の県令になっているとは予想だにしてなかった。
確かにあいつは誰とも親しく、皆を惹きつける不思議な魅力の持ち主だったが争い事に関してはてんで駄目な奴だった。
とは言ってもそれは生来の気性のせいであり、私塾での成績はかなり良かったが。
オレが太守になり、美生が母親の看病に専念し始めた頃から疎遠になってしまったが、彼女のことは今でも忘れたことは無い。
きっと美生もオレのことを親友だと思っているだろう。
「分かった、すぐに通せ」
「……よろしいのですか?」
「構わん。 どうせ今は火急の用があるわけじゃないんだしな」
「分かりました。 すぐに呼んで来ます」
伝令の兵は一礼するとすぐに部屋の外へと駆け出していった。
あの美生が使者を寄越してまで話を持ってきたとなると、恐らくは何らかの問題が起こっているに違いない。
あいつは自分の手がつけられなくなるまではなんとか自力でなんとかしようとするヤツだった。
オレ達に相談するのは本当にどうしようも無くなった時だけで、何度それで苦労をさせられたことやら。
だが、何よりも大変なのがその頼みをどうしても断れないのだ。
普段は自分でなんとかしようと必死に頑張っているヤツに、どうしてもと頼まれるとなんとも首を横に振りづらい。
……それも美生の力と言うべきなのか。
「どうした公孫賛殿。 浮かない表情をしているようだが」
「……趙雲、恐らくまた直ぐに戦に行かなきゃならん」
「先程の使者のことか? 何故戦だと分かるのだ」
「あいつが……劉備ってヤツが頼みにくるのは、大抵ろくな事じゃないからさ」
07【姿無き攻防】
捕虜から張宝の襲来の情報を一刀達が得て、六日目となり遂に張宝の軍が啄郡の街へと進軍していた。
その数約一万の大軍であり、地方の都市を制圧するのならば十分な数と言える。
しかもそれを率いるのは黄巾党の党首の側近である張宝となれば、統率力においても厄介な相手である。
「斥候、報告を」
「現在、目標の街は城門を閉じこちら側の襲撃に備えている模様ですが、外に展開する兵の姿はありませんでした」
「やはり篭城するか。 当然の行動とはいえ、なんとも面白みのない連中だ」
「威力偵察の者達の報告が正しければ相手の数は千足らず。 こちらの勝利は間違いないでしょう」
「だが、相手もこちらの情報は得ているはず。 ならば多少なりともその認識は訂正したほうが良いかもしれんぞ」
相手も馬鹿ではあるまい。
恐らくある程度の増援はあるはず。
だが街の中に何千にいようと篭城ともなれば兵糧を消費し続ける。
数が多ければ多い程負担は大きくなり、いずれは自らの首を絞めるのだ。
「どちらにせよ私達の勝利は変わらないが、こちら側の損害は少ないに限る。 先走って下手を打たないよう全軍に伝えろ」
「はっ!」
さて、姉上が懸念する者達の力、拝見させてもらおうか……。
「伝令! 張宝のものと思わしき軍勢がこちらに向かっているらしいとの報告がありました!」
「旗は?」
「黄巾党のものです!」
「ならば張宝の軍で間違い無いな。 ……それにしても六日か、結構待ってくれたな」
「こちら側を侮っているのかもしれんな」
「それならそれで好都合だ」
現在街に残っているのは俺と愛紗、そして百五十人ほどの兵だけだ。
鈴々には美生の警護を任せ、本陣のほうに待機してもらっている。
俺たちはと言えば、敵をここに閉じ込めるための最後の締めの部分に手をつけていた。
現在、門は正門と俺たちが脱出する為の門以外は全て外側から土で埋めて決して開けられないようにしてある。
他にも兵糧は全て本陣と、避難民の分に分けてここには殆ど食べられるものは無い。
あるといえば俺たちが持つ一食分の携帯食ぐらいなものか。
更に、張宝軍接近の報を受けて敵を追い詰める最後の仕上げをしている最中だったりする。
「お前に任せると言った手前、こんな卑劣な手は辞めろと言う訳ではないがよくもまぁ、こんなあくどい手を考え付くものだ」
「自分が嫌だと思うことは大抵、相手も嫌がるもんだ。 まぁ、流石にこんな策は美生には聞かせるわけにはいかんが」
彼女は俺たちがこんなことをしようと知れば絶対に止めるはずだ。
美生は悪く言えば甘い性格だ。
愛紗のように勝つためならば仕方ないと納得するような奴じゃない。
そんな奴じゃなければこんな世の中で本気で人々の平和を願うなんて出来やしないだろうが……。
「お前、武将なんかよりも軍師になったほうがいいんじゃないか?」
「よしてくれ。 俺が全軍を指揮し、策を用いて敵を翻弄するなんて柄じゃない。 精々前線に出て戦うぐらいが性に合ってるさ」
確かにある程度兵法も爺からある程度叩き込まれていたりするが、流石に軍を運用出来るほどの知識があるわけでもない。
そもそも俺は根本的には武人なのだ。
「まぁ、今はそれでいいかもしれんがな……。 今の私達の中には軍師になれる者は居ない。 それが後に問題となってくることもあるだろう」
「軍師か……」
俺の頭の中に一人の名前が浮かぶ。
三国志演義の中では稀代の名軍師と呼ばれ、生前多くの者達に苦汁を舐めさせた男。
歴史通りならば彼とも──彼女かもしれないが──出会うだろう。
それがいつになるかは分からないが……。
そもそもここの県令になったことからして歴史が食い違っているし。
「何か心当たりでもあるのか?」
「いいや、今は無いものねだりしても仕方ないだろ」
愛紗の問いにかぶりを振って否定する。
今の俺達にあの人物を探す暇など無いし、いつかは巡り合う運命にあるというのならばそれを待つのも一興かもしれない。
それにしても、劉備といい関羽といいこんな調子だと他の連中はどうなっているのやら。
怖い見たさというか、ここまで来るとなんだかこっちの認識のほうが間違っているような気までしてくるぞ……。
「いかん、眩暈がしてきた……」
「おい、ここで倒れられても困るぞ。 この策はお前が考えたものなのだから、最後まで確認してもらわねば」
「北郷様、関羽様! 指示通り全ての準備終了致しました!」
「分かった。 それではただちに退避するぞ」
さて、張宝はこの手に乗ってきてくれるかな……?
自然と俺の顔には獰猛な笑みが浮かんでいた。
二時間後、張宝軍は街を視認出来る位置まで進軍し、再び斥候を放ち報告を待っていた。
街からは幾つかの煙が立ち上るだけで不気味な程静かだったが、疑問に思ったのは張宝だけだった。
「おかしい……。 例え街の中に篭っているとはいえこれほど静かになるものなのか?」
「ですが張宝様、街からはあのように煙が上がっておりますし、人がいるのは確かでは?」
果たしてそうだろうか……。
疑い出せばきりがないが、私にはあの街が虎穴に思えてならない。
……いや、恐らく杞憂だろう。
「私の不安は全軍に影響する、か。 他の者を無闇に不安がらせるのも悪いな。 すまん、忘れてくれ」
「……は」
いずれにせよ街に攻め入れば分かることだ。
天変地異でも起きぬ限り我らの有利は変わらぬ。
「張宝様、斥候の者が戻りました!」
「よし、斥候の報告を聞き次第進軍を再開する。 我ら黄巾の旗の下、教えに背く者どもに制裁を与えるのだ!」
「応ッ!」
だがしかし、未だに脳裏によぎる不安を私は振り払えずにいた。
あの姉上が真っ先に討つべしと言ったほどの者が本当にいるのだとすれば、もしかしたらなんらかの策を打たれているかも知れない。
そうなった場合、果たして私はそれらを跳ね除け任務を果たすことが出来るか否か。
……いや、しなければならぬ。
これからの太平の世を我ら黄巾党の力で作るためにも、私達は退いてはならん!
「何を憂う、張宝よ……!」
こんな所で震えていては朝廷と立ち向かうなどお笑い種ではないか。
病に伏した姉上の為に、我々が奮起せずして誰が黄巾党を支えるのだ。
だが、張宝の予想は覆される。
「馬鹿な、敵が応戦してこないだと!?」
「我々は既に弓の射程圏内にまで軍を進めておりますが、一向に城塞から矢が放たれる様子は無く未だに沈黙を保っているとのことですが……」
「ええい、どういうことなのだ……!」
もしや、奴ら敵わないと見て逃げ出したのか?
先程の煙はこちらにまだ敵がいると見せかけて、逃げるための時間稼ぎをしていたとでもいうのか。
だとすれば既にここにいた者達はこの辺りには居ないだろう。
時間稼ぎをしてまで退却したということは他の郡なり州なりに助けを求めた、ということもありえる。
だが煙を上がっていたということは最後尾の者が未だにどこかで逃げているはず……。
となるとこのまま追撃するのが定石だが。
「どうしますか、張宝様?」
「そうだな……」
本来ならばここで陣を張り持久戦に備える予定だった為に手持ちの兵糧はここまで進軍する分しか持ってきていない。
この後は拠点から補給を送ってもらう予定だったが、相手が逃げたとなるとその予定も外れてしまう。
今現在の手持ちの兵糧ではこの一万の兵を維持するには心許ない。
このまま追うのであればもしかすれば敵に追いつく可能性もあるかもしれないが……。
いや、それも無理か。
一万の兵の進軍では少数の敵を追うのには不得手だ。
進軍速度が違うのだし、急いで歩列が乱れれば追撃の意味が無い。
となればやはりここは……
「よし、街の中の様子を調べろ。 何も問題が無ければ私達は今日ここで補給部隊の到着を待つ」
敵がどこの街に逃げようとも追えば良い。
その時、拠点となる場所があれば何にしても都合が良い。
可能であればこのまま啄郡全てを黄巾党のものとすることも考えるべきだ。
そう考えればこの事態も決して憂うばかりでは無い、か。
「では、各部隊にこのことを伝達。 一刻の休止の後、街へと入る」
「了解しました!」
そして、そんな張宝軍の行動を見る者が一人。
街から二キロ程離れた小さな丘の木に登って様子を眺めている鈴々である。
ここからでは街も軍も僅かにしか見えないが敵影を確認できるだけでも今は有り難い。
「お兄ちゃん、張宝の軍が街の中に入ろうとしてるのだ!」
「よし、相手は乗ってきてくれたな」
鈴々の報告に少しだけ安堵の息が漏れる。
ここで敵が街に入ろうとせず追撃に移ろうとすれば、背後にある本陣の存在に気付かれてそのまま全滅の憂き目に晒されていたかもしれない。
だからこそ、敵を街に誘き寄せる作戦がまず成功したことで一つ肩から荷が下りた気分だった。
「よし、鈴々降りてきてくれ。 相手が街に入ったのを確認したら後はこちらも行動するだけだ」
「はーい」
返事が聞こえてくると、数秒としない内にするすると木から降りてくる。
登るときも軽々と木のてっぺんまで登っていったが、降りるのも早い。
しかも視力も俺たちの中では一番いいと言うのだから、野生児のような少女である。
まぁ、んなこと本人に言ったらぶっ飛ばされることは比喩抜きで確実だが。
「それにしてもお兄ちゃん、これからどうするのだ?」
「とりあえず、夜に張宝に奇襲をかける」
「そこで張宝をバーンとやっつけちゃうのだ?」
「いや、流石にこの人数差じゃ相手の頭を狙うのは難しいだろ」
外ではなく狭い街の中とは言え、流石に包囲されて撃破されるのがオチだ。
つまり、この最初の襲撃は敵を倒すのが目的ではない。
「外に敵がいると知らせて、相手を自ら外に出ないようにさせる。 その為の用意は既にしてあるしな」
「あの、大量の旗のこと?」
「ああ」
暗い夜中に、大量の旗を持った敵が来ればその数だけ敵がいると思ってくれるだろう。
そして、一度錯覚した情報は確かめる方法が無い限り訂正は出来ない。
夜にはこちらに匹敵する数の敵がいると思ってしまえば、明るくなった後その数が減っていたとしても後ろに待機していると思うはずだ。
それが頭の良い奴ほどよく嵌る。
頭の良い人間は大抵疑心暗鬼になるもので、一のものを十考える癖がある。
「そうなりゃ相手も迂闊に強行突破はしてこない。 それならこちらも楽に時間稼ぎが出来るってわけだ」
「うわぁ、お兄ちゃん凄い悪者っぽい表情なのだ」
「うっせ」
確かに我ながら酷いやり方だ。
今まで俺が趣味で読み漁ってきた三国志やら戦国やらの知識がここになって役に立ったと言うべきか。
ありがとう、横山先生以下略。
「後は補給部隊を撃破しつつ、相手が出てこないように小刻みに外から攻撃を加えていくだけ。 これで公孫賛が来るまでの時間は出来る筈だ」
「鈴々達は突撃しないのだ?」
「しない」
「えー……。 つまんないのだ」
「つまんないって、お前なぁ……」
折角俺が被害をなるべく出さないように頭を捻りまくってるというのに、突撃なんかしたら元の木阿弥だろうが。
そんなこちらの考えを無視して、鈴々は退屈そうに手にした蛇矛を振り回していた。
俺よりもかなりちびっこい体の癖に軽々と身の丈以上の蛇矛を操る姿は頼もしくもあり危なかしくもあり。
「あ」
そんな時、手元が狂ったのか物凄い速度で俺の首目掛けて振り下ろされる蛇矛。
慌ててのけぞって避けたが髪の毛が数本斬り飛ばされていた。
「ってぅお!? 危ねぇなオイ!」
「ありゃ? すっぽ抜けちゃったのだ」
「お、おま、お前なぁ! 味方に殺されかけたなんて酒の肴にもなりゃしねぇぞ!」
愛紗に至っては未熟者と罵ったりしそうだ。
殺人未遂の容疑者といえば、にゃははと笑って自分の失態を誤魔化そうとしていた。
こ、こいつは……。
「痛っ!?お、 お兄ちゃんがぶったのだっ! 姉様に訴えてやるのだ!」
「お前が言うか、お前が! こちとらあと少しで首と胴がおさらばする所だったぞ!?」
危ねぇ、こんな所で死んだら爺に何と言われるか……。
突如現れた命の危機に物凄い勢いで冷や汗をかいてしまった。
っつーか鈴々、美生に訴えたいのはむしろ俺のほうだぞ。
「……暇なのは分かるが蛇矛を振り回すのは今後一切禁止。 今回は俺だから良かったけど、他の奴だったら人死にが出るぞ」
「ぅ……。 わ、分かったのだ」
流石に鈴々も悪いことをしたという自覚が出来たのか、黙ってこちらの言葉に頷いていた。
それでこの話はここまでと区切りをつけ、再び鈴々と本陣への道を歩く。
そして、再びこれからの話を続ける。
「……突撃はともかく、俺たちが攻勢に出るのは公孫賛との合流の後だ。 それまではすまんが我慢していてくれ」
「むぅ。 お兄ちゃんがそう言うのならそうするのだ。 でもお兄ちゃん、どうやってあの街に入るのだ?」
鈴々の疑問も最もだ。
兵糧攻めをしたと言っても敵の数はこちらを軽く上回る。
この数日で代郡と広陽郡の協力を取り付け、計三千余りの援軍と兵糧の援助の約束を取り付けたとは言えそれでも敵と互角には至らない。
現在到着しているのは最初に協力を取り付けた上谷郡の兵のみ。
他の援軍はあと一、二日は掛かるらしい。
篭城された相手を破るには倍以上の兵力が必要だと言うし、この場合も街への突入にはある程度の被害も予想される。
「正門の閂にちょっと細工をしてあってな。 破壊槌を使えば比較的簡単に破れるようにしてあるんだ」
実は、閂の幾つかの箇所に切れ込みを入れておいたのだ。
すぐに折れるほどではないが、それでも何もしてないものと比べればかなり壊れやすくなっている。
「んでこれは公孫賛が来たら相手にも相談しなきゃいけないことなんだが、正門の突破と同時に別の門から少数で侵入して張宝の首を直接狙う」
張宝は十中八九城の中にいる。
だから、張宝を討ち敵の指示系統を混乱させてしまえばまず勝てる戦になるだろう。
「それ、鈴々も行くのだ!」
「……まぁ、愛紗とも話してお前も連れて行くって決めてあるから安心しろ。 まぁ、公孫賛のほうがこの話に乗らなかったら意味無いけどな」
この作戦には公孫賛の協力が必要不可欠。
何せ正門を突破する方は公孫賛の兵の力が無くては不可能だからだ。
陽動は、数が多ければ多い程敵の目を欺ける。
残念ながら今の俺たちの兵力ではそれほどの効果は期待出来ないが、公孫賛の軍ならば正門の敵を蹴散らして張宝の目を逸らすことが出来るだろう。
だから、この作戦は公孫賛の力が無くては成立しないのだ。
「全て順調に行ってくれれば、この戦いはきっと勝てる。 ……まぁ、その後の問題も残ってるけどな」
例えば、この戦いで再び壊されるであろう家屋の再修復とか、移動させてしまった食料の再調達などなど。
ただでさえ財政がカツカツだったのに、更に切り詰めなくてはなるまい。
美生辺りが泣きそうだな……。
しかしそこは必要な犠牲として目を瞑ってもらうしかないだろう。
スマンな、美生。
そして日は落ちて夜の帳が広がる啄県。
そこでは少数の見張りを除いて、黄巾党の兵たちが食事を始めていた。
戦うこともなく街を奪うことが出来たことに兵たちの気分は高揚し、至るところで酒が飲み交わされている。
本来ならば戦の途中でこのような行動に出るのは諌めるべきなのだが、指揮官も油断しているのか一緒になって騒いでいた。
「まったく、ここの連中も臆病者ばっかりだな!」
「そのお陰で俺たちは何の苦労もなくこの街を手に入れられたんだけどな」
「これで野宿しないで今日は家の中でぐっすり眠れそうだぜ」
数刻前、街の中を探索を粗方し終えた彼らは危険無しと判断してこの街に進軍した。
拠点からここまで野宿をしつつ歩いてきた黄巾党の兵達は心身共に疲弊していた。
故に、このまま追撃せずに街に待機し、後続の補給部隊を待つと聞いたときには内心安堵していた。
そして、安堵は油断を生み、隙を作る。
「て、敵襲! 正門から敵が来やがった!」
「な、バカな!?」
同時に正門から多数の矢が飛来してくる。
その大半は壁や地に突き刺さるが、運の悪い少数の者に命中し苦痛の声が上がる。
悲鳴は街中に広がり、そこでようやく全体に事態が伝わった。
突如やって来た敵に浮き足立つ黄巾党の兵士達だが、指揮官の何人かはすぐに立ち直り隊の者達に檄を飛ばした。
「なにやってる、早く門を閉じろ!」
「負傷した者を下げろ! 敵の侵入を許すな!」
奇妙なことに門の付近から敵は街の中に入ろうとしなかったが、必死になっていた黄巾党の兵達がそれを疑問に思うことは無かった。
そしてそれは城塞で見回りをしていた者も同じだった。
見回りといっても、ただ辺りをぶらつくだけで決して真面目な態度とは言えないものだったが。
彼らもまさか占拠した街に即日襲撃を掛けられるとは思わなかったのだろう。
見回りの兵が敵に気づいたのは門下でのざわめきと悲鳴、襲撃を知らせる怒号が聞こえてからだった。
彼らが門の向こう側を見ると確かに敵の旗が星光に照らされて街の外にズラリと並んでいた。
「な……っ! いつの間にこんな数の敵が!?」
「馬鹿野郎! 見張りの奴はなにしてやがった!」
「あ……、いえ、それは……っ」
明らかに自分のミスだが、それをハッキリと認めてしまえば罰を受けるのは確実だった。
それ故につい言い淀んでしまったが、今は誰かのミスを言及する暇は無くその時の厳罰は免れることになる。
しかし、翌日張宝に呼び出され結局は責任を問われ処罰されることとなるのだが。
そして暫くの時間を置いてようやく張宝の元に襲撃の報告が上がった。
街の最奥である城の中で明日からの進軍ルートを考えていた彼女は、正門での騒ぎに気づくのが遅くなってしまっていた。
「敵襲だと!? 今までお前たちは何をしていたのだ!」
「そ、それが見張りも我々もすっかり油断していまして……。 気がついたときには敵が正門より襲撃を……」
「……くそっ、弁明は後で聞く! 敵の数は!」
「敵の全貌は分かりませんが、見張りからの証言を元にしますと恐らくは六千に匹敵するらしいと……」
「六千だと? 奴らいつの間にそれほどの数の援軍を集めたのだ……!」
本来の敵の数は三千にも満たないのだが、それを確かめる術を持たない張宝は伝令の報告を元にしか判断をすることは出来ない。
そこで六千という敵の数字は張宝の中で事実として受け止められてしまう。
「ただいま正門に襲撃を掛けてきた者を退き門を閉じましたが、敵は未だこちらを包囲しています」
「……なるほど、まんまと私達は嵌められたという訳だな」
ここに来て最初と立場が入れ替わってしまっていた。
攻めるものと守るもの、それが完全に入れ替わり今や張宝達がこの街の中に閉じ込められてしまっていた。
「しかもこちらの手持ちの兵糧は後僅か。 相手にしてみれば好都合に違いないな」
明日になれば補給部隊が街に到着するが、それを見逃すほど相手も愚かではない。
なんという最悪の状況かと張宝は一瞬気が遠くなりそうな気分だった。
「無駄だとは思うが糧秣庫の中を調べろ。 次に兵達が持っている食料を徴収し、公平に再分配する。 不平は一切聞かん、いいな」
「わ、分かりました」
兵が慌てて去った後、一人張宝は自分のことを嘲笑していた。
それはまんまと敵の策に嵌った自分の愚かさであり、姉の期待に答えられそうに無いという諦念だった。
だが、それは決して兵達の前で晒す事は無い。
例え負けることになったとしても同じ黄巾党の同志達を無駄に死なせるわけにはいかない。
「こうなれば最後まで抗い、勝機を見出すしかあるまい」
士気が落ちたとはいえ黄巾党の数は一万。
そして劉備達の兵は張宝が知った情報では六千。
未だ数の上では有利である。
ここで守備に徹し、相手の隙をつくことが出来ればこの街からの強行突破も不可能ではないかもしれない。
「姉上と共にこの平原に黄巾の世を作り出すまでは、この張宝死ぬわけにはいかん……!」
「よし、攻撃はそこまでだ! これより後は矢の射程圏外に退避し、敵が門より出ないように威嚇包囲する!」
愛紗の合図と同時に正門の攻撃を続けていた兵達が一斉に退却する。
この手際のよさは前回の黄巾との戦いで培われたものだ。
引くべきときはすぐに引くのも戦いにおいては重要なことである。
「後は、公孫賛が来てくれるのを待つのみだな」
だがしかし未だ数においてはその差が変わることはない。
先ほどの戦闘は、どちらの被害もほぼないと考えていいだろう。
予想外に篭城戦を強いられ、兵糧も少ない現状に陥っている敵の士気はかなり落ちているだろう。
だが、まだ足りない。
こちらの有利を確実に保つ為に、俺は街に細工を仕掛けておいた。
まず、糧秣庫に少量の食料を残しておく。
もちろん、ただそこのに残してあるわけではない。
その三分の二には、毒が仕込んである。
全部では無く、少しだけ無事なものを残しておくことで敵の猜疑心を高める。
そして全ての井戸にも毒を流す……と思わせる。
井戸には毒ではなく、墨汁と染料に僅かな香辛料を混ぜたものを流し込んである。
流石にこの戦いが終わった後も俺達はここに住むのだから下手に井戸は駄目に出来ないし。
しかし糧秣庫の毒入りの食料の情報を得た黄巾党の連中は飲むのを躊躇する筈だ。
これは別にバレてもバレなくても問題ない。
ようは敵を疲弊させて精神的に追い詰めればいいだけだ。
全部を無くすよりも、僅かな希望を見せることでより効果的に敵を追い詰められるのだ。
このことを愛紗に伝えた時の、何とも言えない表情は今でも思い出す。
「お前……。 武将の方が性に合っているとか言っておいて中々えげつない事を次々と考えるものだな……」
……かなり不本意な意見だ。
このままでは俺は極悪非道の謗りを受け続けることになりそうだ。
いや、確かに俺も非道な策とは思うがこちらも勝つ為には手段を選んでられない状況だったんだが。
せめてそこは考慮してほしいところだ。
「それはともかく……。 後は公孫賛が来るのみか……」
さて、白馬長史と呼ばれる公孫賛伯珪、一体どんな人物なのか……。
この戦の勝敗を決定付けるであろう未だ見ぬ者に思いを馳せながら、啄県の夜は更けていく。