終章「幸せの欠片」
早朝の早稲田ゲートを抜け、白衣を着た一人の男が、朝靄立ち込める街路へ足を踏み入れた。
待ち合わせ場所に二人の女が立っている。アイシアと、松屋尚美。
「健さん、ここですっ」
北欧娘が元気に手を振った。せつらが依頼を果たしたのは昨日の深夜であった。
「おお――ご苦労だった。感謝する」
尚美の父、松屋健は喜びを顔に出して礼を言った。洞察力の鋭い人間なら、事務的な演技だと見て取れただろう。
アイシアは満面の笑顔で一歩引いた。父と娘の再会を祝福するために。
「尚美、わしのもとに戻ってくれるか?」
と、父親が訊いた。
「父さんが、私に普通の生活を求めてくれるなら」
と、娘が返事した。
「残念だ」
「残念だわ」
それで親子の会話は閉じた。
健の親指が何かのスイッチを押す動作をした。
尚美の唇から、ごぷっ、と血塊が噴き出し、鮮血を迸らせて仰向けに倒れる。アイシアにはその光景がスローモーションのように映った。
地に横たわり動かなくなった女を茫然と眺める見習い魔法使いの少女へ、別人のように冷ややかな中年男の声が届いた。
「親子の問題により生じた結果だ。口出しは無用」
冷然と言い捨て踵を返すと、早稲田ゲートのほうへ向かって歩を進める。
数メートル先に二種の黒衣が見えた。マントとコート。後者が包む「美」の体現に、健は思わず足を止めた。なんという美しさか。
「僕は秋せつら、人捜し屋です」
眠たげな声に、白衣の男がようやく我に返った。
「人捜し屋と……そちらの娘は魔道士か。変わった組み合わせだが、何か用かね?」
「ひとつ、お伝えしたいことがあります」
「わしはもう<区外>へ帰る。話なら後にしてくれ」
「今しがた、あなたが殺した娘さんは、本人ではありません」
「なにっ!?」
死体に眼をやり、ふざけるなという顔つきになる。
せつらはのんびりと続けた。
「そこに横たわっているのは、僕が知り合いの医者に頼んで作らせた、尚美さんの精巧なダミー――複製です」
「馬鹿なことを言うな。わしが生体改造を施した人間兵器には、スイッチ一つで心臓が爆発するよう処置してある」
「取り除いてダミーのほうに移し替えました」
「ありえん! 手をつけようとしたら自動的に爆発するようにしてあるのだ」
「除去手術を行なったのは、ドクター・メフィストです」
男の顔を驚愕が走りぬけた。「魔界医師」なら、不可能ではない。
そして、現状を理解して狼狽の相が浮かんだ。尚美が生きているということは――即ち。
油汗を流して振り返った直後、胸部を剣の刃が刺し貫く。
間近に紫エナメルの顔があった。
「な……おみ」
それだけを絞り出し、心臓を貫かれた男は地に崩れ、絶命した。それをどこか悲しげに見届け、松屋尚美は変身を解除した。
彼女の能力は、自身の発する気配、ありとあらゆる敵意や殺気を消失する隠形と、優れた敏捷力特化だった。
「ありがとうございました、秋さん」
黒衣の美青年へ、淡々と頭を下げる。もし父が普通の生活を選んでくれていたなら、こんな結果にはならなかったのだが、やはり叶わぬ夢だったらしい。
視線に気づいた。状況についていけず、ただ立ち尽くしている北欧娘の眼差し。
「ねえ、アイシア……こんな私でも、やり直せるかしら? 生きていくことができるかしら、この街で」
アイシアは無言でいたが、やがて紅玉の双眸に熱い意志が燈った。
「できます! 誰だってやり直せる……幸せになれるんです!」
「あなたは本当に純粋なのね」
尚美は薄く笑った。重荷が取れて楽になったような笑みだった。
アイシアの口もとが綻びかけた次の瞬間、
「でも――」
女の全身が再びエナメル外皮に覆われ、右腕が剣と化した。
「憂いが無くなったら衝動が消えると思った……けど、逆だったみたい。歯止めが利かなくなってきたわ」
ただ、哀しいとしか例えようのない、そんな声――さくらには、どこか遠くで響いているように聴こえた。
尚美が剣状の右腕を振り上げた。その下に、彼女の幸せを願う魔法使いが愕然と立ちすくんでいる。
「よせ」
とせつらが言った。
振り下ろされる寸前、刃は肘から消えた。直後、切断された腕が地に落ちた。
女は黒衣の若者を見た。右腕が瞬時に再生し、新たな剣を形成した。
「よせ」
もう一度、せつらは言った。
返事はなく、紫の怪人が剣を構えて突進した。――せつらの方へ。
何故だか、その疾走に流星のごとき速度はない。
せつらまで二メートルという地点で、女の首が宙を舞った。
一瞬、時が凍ったかのような静寂がその場を包んだ。
ごとりと、変身の解けた生首が落ちた。尚美の死顔は、ひどく安らぎに満ちていた。
こんな風に逝けたら幸せかもしれない――そう思わせる表情だった。
さくらが、三つの死骸の横を、無言で通り過ぎた。
空色の瞳が映すのは、ただひとりの少女。
「どうして……こんなことに」
茫然自失の状態で、アイシアは崩れ落ちるように地に伏せた。
その正面にしゃがみ込み、さくらはアイシアを抱きしめた。優しく、強く。
「ごめん……ボクには、君を受け止めることしかできない」
さくらの胸でアッシュブロンドの髪が揺れた。
暫くの間、嗚咽が漏れた。
早稲田ゲート前に、二人の魔法使いが肩を並べていた。
向かいに立っているのは、二人の依頼を果たした美しき人捜し屋。
ふたりが背にしているのは<区外>の側。
ひとりが背にしているのは<新宿>の側。
三者の属すべき世界――その答えが明確になっている位置であった。
金髪碧眼の娘の口が、さよなら、と動いた。
若者が返事をしたかはわからない。
夢のように遠ざかっていく背中を、さくらはそっと見送った。
片手を胸に添え、ひとひらの想いに別れを告げた。
さくらは怖かった。
誰よりも大好きな朝倉純一。かつての恋敵であり、今は心を通わせた親友である音夢。そして、そうなれるかもしれないアイシア。それらへの強い想いさえ、せつらと一緒にいると霞んでいってしまう。それが何より怖かった。
彼はやはり「魔界都市」の住人なのだ。いや、象徴とさえ言ってもいい。
この世ならぬ汚穢と汚物に磨き上げられた美貌。瘴気の沼の泡から生まれた人の形をした宝石。
秋せつら――彼を受け入れる場所は世界にただひとつ、この街をおいて他にはない。
「帰ろっか、アイシア」
傍らの少女へ顔を傾け、努めて明るく言った。
アイシアが、こくんと頷いた。
手を取り合った二人は、足音を揃え、静かに歩き出した。
彼女たちの住む世界――<区外>へと。
「ダミーの件、礼を言わせてもらう」
メフィスト病院の診察室で、せつらが気だるげに言った。
回転椅子に腰をかけたメフィストは、玲瓏たる眼差しを向けた。
「『私』のときに聞かせてもらいたいものだ」
「相談しておこう」
ドアの方へ向かった足取りが、ふいに止まった。
「ひとつ、訊きたいことがある」
耳にしたメフィストが思わず、なんだね、と応えてしまう、そんな声だった。
せつらは背を向けたままで言った。
「松屋尚美の殺傷衝動が、父親との憂いが消えたら抑えが利かなくなることを、お前は分かっていたな?」
メフィストは答えず、
「さて」
と無表情に口にしただけだ。
沈黙が降りた。
「お前とは当分口を聞かない」
「待ちたまえ」
やだねとばかりに片手を上げ、黒いコート姿は診察室のドアを抜けた。
戸口の閉まる音がしてから、白皙の美貌に遺憾の翳が差し、メフィストは細い溜息と共に肩をすくめた。
三日後、メフィスト病院を退院した少女が「魔法街」に足を運んだ。毎日来ていたせいか、数日訪れなかっただけで、随分と久しぶりのように感じる。
少女の顔に、全身を切り裂かれて首を落とされたという心の痛みはない。それくらいで心的外傷に陥っていては、<新宿>で生きていくことなどできない。彼女は<区民>であった。
自分を救ってくれた魔道士に感動と感激と感謝を述べたあと、ある路地へ入った。
眼を見開いた。
路地の壁には、百花繚乱――鮮やかな花模様が広がっていたのだ。
じっくり凝視してみて、笑みがこぼれる。各種花びらには、これも魔法の産物であろう、色とりどりの金平糖が散りばめられていた。なんともアイシアらしいと思った。
少女はそっとひとつまみして口に放り込み、
「うん、上出来」
舌先から口腔に広がる心地良い甘さに、小さな悦びを感じた。
二月後の晩、秋DSMセンターの六畳間で電話が鳴った。下半身を炬燵に潜らせたまま、せつらが電話に出る。芳乃さくらからであった。
「秋さん、お久しぶりです。二ヶ月前はどうもありがとうございました」
「はあ」
「ボクはいま、アイシアと一緒に色々なところを旅しているんです。彼女と仲良しになれたから……これもみんな秋さんのおかげです」
「それはどうも――おめでとう」
「うにゃ〜……相変わらず、気のない声というか、どうでもよさそうな口調ですね」
受話器から苦笑が流れてきた。
「伝えたかったのはそれだけです。本当にありがとうございました」
そして電話は切れた。実にさっぱりとした声だった。
少女の口調が敬語へ戻っていたのは如何なる心境によるものか。――そんな思いが、せつらの脳裏を掠めたかどうかは分からない。
湯飲みにお茶を淹れるべく、炬燵から立ち上がった美しい横顔からは、何の感慨も読み取ることはできなかった。
(了)