第七章「ゆらめくこころ」


 直径五十メートルから数センチに亙る大小の球体が<新宿>の空に停滞している。無数のそれが、どうやって空に滞空しているのかを知る者はいない。

 外皮は焦茶色で、学者の研究で一種の蛋白質、内側の浮遊ガスは成分不明の重力調節気体ということが判明しているだけだ。

 どんな強風にあおられても、決して亀裂は越さず、肉食鳥に襲われながら、その強靭な嘴の攻撃を跳ね返す。理由は見当もつかないが、その特性が明らかになるや、観測気球としての用途に利用され、現在では倉庫、住居までに利用されている。

 それすなわち――気球住宅。

 区が管理する、専用使用料を支払う必要がある、地上の一点に連結されたワイヤー――それに取り付けた簡易エレベーターによって乗降を行う。

 高低差のある一組の男女――せつらとさくらが訪ねた「気球」は、本体の下にプレハブのワンルームハウスが固定されているタイプのものであった。

 表札プレートは「葛西」とある。葛西孝子。松屋尚美の偽名なのは想像に難くない。

「留守みたいだね、仕事かな。どうするの?」

「帰宅するまで近くで待つ」



 かつての西武新宿線の下落合と高田馬場のほぼ中間に、蒼い森が広がっている。この森の中に、石造りの「新宿区立図書館」はひっそりと佇んでいた。

 せつらと向かい合わせの席に座り、さくらは時間つぶしの書物に目を通していた。青白い顔や生気の無い表情を持つ利用客もちらほらと見かけるが、<魔震>の当日からずっと館内にいる「常連」たちらしい。

「この街って、危険で怖いところだけど……それだけじゃない、おかしな街だね」

 本に視線を落としたまま、利用客の邪魔にならない程度の声で言った。

「もしかしたら、アイシアにとって、この街で暮らすことは決して不幸なことじゃないのかもって気変わりしそうになってきたの」

 返事は期待していない。ただ、自分の思いをぽつぽつと話すだけ。

「人を幸せにする魔法使いは基本的に独りなんだ。魔界都市の誕生で怪異や超常的な存在、現象は、完全に非現実だという認識はなくなったけど、それでも<区外>では魔法なんて一般的じゃないものだから」

<新宿>の情報は、それを探る意図を持たない観光客たちからのみ、<区外>へ伝えられる。<区外>のジャーナリストたちは、みなことごとく、原因不明の狂気に捉われて戻るため、<新宿>の実情が白日の下に晒されたことは一度もない。

 ゆえに、<区外>は<区外>のままであり、<新宿>がここ十数年、国内観光地のアンケートで京都を抜いて人気ナンバーワンを独走しているわけだ。

「人を幸せにする魔法使いは、ひとつの場所に留まらず、誰の記憶からも遠ざかって旅を続けていく。立派な所業である反面、とても辛いことなんだよ。でも――この街では魔道士や魔法の存在が普通にある。みんなに認識されて魔法を行使することができる。そんなこの街は、ひょっとしたら、アイシアにとって安住の地なんじゃないかなって……」

 アイシアを連れ戻すという決意が揺らぎ始めている。強い意志をもって来たつもりだったのに、自分も<新宿>に感化してきているのではないか。

「この街に入る者、すべての希望を捨てよ」

 びっくりしたように顔を上げる。まさか返事がくるなんて。

「誰も幸せになどなれはしない――ここはそんな街だよ。だからこそ、どんな生き方も許される。誰の存在も受け容れられる。<区外>では生きていけなくなった人間も、ここでなら生きていけるだろう。失くしたものが帰ってくることもある。亡くなった誰かに会えるということもある」

「それじゃあ……?」

「――ただ、一度変わってしまったら、もう二度とは以前に戻れない」

 さくらはハッとした。

「どっちを取るかは彼女と君次第だ。どちらを選んでも、誰も君たちを責めることはできない。それは覚えておくといい」

 決めるのは本人の意思。どちらが正しいということでもない。

「優しいんだね、秋さんって」

「よく言われます」

「うわ、信憑性ガタ落ち」

 苦笑いを浮かべたさくらの手は、本のページをめくることを中断していた。

<区外>の日常か、<新宿>の日常。

 答えを出すのはひとまず保留しておくことにした。



 午後八時。地上五十メートルの葛西宅は、その広い一室に二人の客を迎えていた。

 女――葛西孝子こと松屋尚美が、黒衣の人捜し屋に視線を移しては、頬を赤く染める。

 無理もないとさくらは思った。見た瞬間、顔立ちはわかる。認識はできる。その柳眉、瞳、鼻梁、唇。しかし、眼を逸らした途端、夢霞のように脳裏から薄れていってしまう。後に残るのは、ただ、美しさだけだ。

「依頼人と会っていただけますか?」

「お会いするのは構いませんけど、父に連絡されてしまうわ。それは困ります」

 尚美はひっそりと拒否の意思を示した。理由を訊きたいさくらだが、同席させてもらっている身である以上、成り行きを見守るしかない。

「それは、あなたの素性に関わることだからですか」

 せつらの言葉に、女は息を呑んだ。

「あなたが定期的に買い溜めしている魔法薬は、身体の突発的衝動を抑える効果があるものと聞きました」

 それが「魔法街」で魔道士から得た情報なのだろう。

「それは……」

 女が重い口を開きかけたとき、

「邪魔するぜ」

 葛西宅に新しい客が押し入った。

 黒い丸眼鏡をかけた、白スーツに身を包んだ中肉中背の男。

「浩介!」

 顔を強張らせる尚美へ、男はにんまりと笑った。

「やっと見つけたぜ。覚悟はいいな?」

 瞬間、男の全身がエナメル質の外皮に覆われ、緑色の怪人と化した。特撮ヒーローもののテレビ番組に出てくる敵役のような容姿だ。

 尚美がすっと立ち上がった。

 せつらと、そして、さくらの方に意味深な表情を向け、

「これがさっきの質問の答えよ」

 一言口にするや、女の身体も、エナメル外皮に包まれた紫色の怪人と化したではないか。

 さくらが、あっと叫んだ。記憶に焼きついたその姿は、<新宿>を訪れた当日の夜に彼女を病院送りにした犯人そのものであった。

「あなただったんだ……」

 唖然と腰を上げる少女から視線を外し、尚美は緑の怪人と対峙した。

「ふん、不意打ちしか能の無いお前が俺に勝てると思ってるのか。お前を殺して、俺が最高傑作だってことを証明してやるぜ――っと、おお!?」

 言い終わらぬうちに、男が慌てて飛び退った。周囲に数個のフリスビーが出現し、超スピードで旋回して男の手元に戻る。その瞳は、今しがた立ち上がったばかりの若者へ向けられた。

「こいつはどえらい色男だな。しかも、おかしな糸を使いやがるときた」

 糸?――と首をかしげ、さくらは納得した。せつらの得物がそれだとすれば、これまでの出来事も合点がいく。そして、目の前の怪人は、不可視に近いその糸が見えているのだ。

「お返しするぜ」

 プラスチック製の円盤が、ふっと消えた。

 せつらが、痛ぅ、と呻いた。フリスビーが男の手元に戻ったとき、黒衣の右肩は鮮血を噴いた。放った妖糸はすべて切られていた。

「ほう、四つ投げて一つしか命中しなかったか。――やるな」

「秋さん!」

 駆け寄ろうとする少女を片手で制止し、せつらは、

「一つ質問。どうやって彼女の居場所を知った?」

 と訊いた。

 エナメルの顔が残忍な笑みに歪んだ。あまり直視したくはない表情だ。

「中学生くらいか、「魔法街」の常連らしい小娘だ。尚美のことを訊いたら、ハッとして知らないってとぼけやがるから、廃墟まで連れ込んで拷問してやった。強情だったが、全身を切り刻んでやったら泣き叫んで答えてくれたよ」

 さくらは蒼白となった。脳裏に昼間の少女が浮かんでいる。

「それから、どうした?」

 窓から差し込んだ月光が、美しい人捜し屋の姿をぼんやりと照らした。

 奇妙な違和感を覚えながらも、男は口端を広げて笑った。

「首を切り落としたぜ。死体は道端に放り捨ててやった」

 さくらが足をよろめかせる。怒りに震えた声を放とうとして、喉もとの直前で停止した。

 男の下卑た笑いも、急激に引きつった。尚美も、何故か総身が凍った。

 三者の意識は、その瞬間だけ一つに溶けた。――どこか違う。

 月影はいよいよ冴え渡り、せつらの美貌は別の夜に誘われるがごとく輝いて見える。

 何もかも同じ。しかし、違う。

「私と会ってしまったな」

 その声に何を感じたか。男は反射的に身構え、複数のフリスビーを放った。

 中空で弾かれた。怪人が驚愕の相を浮かべる。先程は難なく断ち切れた糸が、ひとつとして切れなかった。のみならず、軌道が読めない。右肩を灼熱の痛みが襲った。

 戦慄すべきは、糸で裂かれた箇所が、先刻せつらを傷つけた部分と寸分の狂いもなく同じ場所だったことだ。

「くそぉっ!」

 狂気のごとく八つのフリスビーを旋回させる。皆殺しの意図を秘めたそれが、四方八方へ消えた。

 尚美が右手を一閃すると、二つの円盤が跳ね返った。女の右腕は剣状の鋭利な刃と化していた。

 攻撃を視認できないさくらは、対抗どころか回避するすべも持ち合わせていない。死の恐怖が掠めた一瞬、小さな体は床を離れた。

 天井を向いた瞳に映る、世にも美しい若者の顔――さくらは、宙を舞ったせつらに抱きかかえられていた。少女の頬が見る間に桜色に染まる。

 妖糸の反撃を受けて全身が朱に染まった男が、顔面蒼白で嘔吐した。その近くで、ふたつに裂けた六つの遊戯具がバラバラと落ちた。

「せつら……さん?」

 困惑と陶然の呟きを洩らし、さくらはハッと口を押さえた。思わず名前で呼んでしまったことに軽い動揺と胸の高鳴りを覚えた。信じられないほど動悸が速い。

「下りたまえ」

 ぴょんと背中が跳ね、さくらは床に尻餅をついた。

 男が背面から後ろへ跳んだ。窓ガラスが割れ、血まみれの身体が夜空へ躍り出た。フリスビーで着地するつもりでいたが、しかし、それは叶わなかった。

 男は夜空に停止していた。何者かに首根っこを掴まえられていた。

 だが、そこは地上五十メートルの高さではないのか。

 必死に首をめぐらせると、漆黒の翼が視界に入った。闇が結晶したかと思われる深い黒瞳と紅玉のように赤い唇、蝋細工を思わせる肌をした端正な顔立ちを視認した直後、ぐしゃりと喉が潰れ、緑色の怪人は白眼を剥いて息絶えた。

 月夜に静止した、ブルーグレーのケープを纏った黒翼の青年に、せつらはただ一言。

「夜香」

 戸山住宅に住まう東洋の吸血鬼たちの若き首領が、中秋の名月をバックに恭しく微笑した。



 その夜、メフィスト病院に足を運んだせつらは右肩の治療を受けた。三日前のさくら同様、受けた傷に再生延滞の効果があったからだが、軽傷なので入院の必要はなかった。

「今日はもう遅い。せっかくだ、泊まっていったらどうだね」

「お前の部屋でか? 死んでもノーサンキューだ」

「君はもう少し素直になりたまえ」

「気色の悪いことを言うな」

「やれやれ」

 けんもほろろな態度にメフィストは冷え冷えとした微笑を浮かべ、小さく嘆息した。

 そこへ、つれない言葉を送ったばかりの茫洋とした声が、

「ところで、ひとつ頼みがある」

 ぬけぬけとそう言った。



 黒衣の人捜し屋と白皙の病院長が会話を繰り広げているであろう治療室の前で、さくらと尚美は壁の長椅子に座って待っていた。二人はせつらに病院への同行を求められたのだ。

「でも、本当によかった。あの子が助かって」

 さくらが心底安堵の声を出した。惨殺された「魔法街」常連の少女は、メフィスト病院に運び込まれて助かったのである。殺害されてから数分後、遺体を発見したのは彼女の知り合いである魔道士だった。即座に魔法的処置を施したのが功を奏したらしい。

 ドクター・メフィストも死者は生き返らせる事ができないと断言する。だが、それは謙虚な嘘と考えるべきで、死後三十分以内であれば――状態にもよるが――百パーセント蘇生可能であると言われている。以前、妖術射撃のプロと対決した屍が、眉間に銃弾を撃ち込まれ死亡したことがあった。しかし救命車がメフィスト病院へ到着するのが間に合ったらしく、彼が今も健在なのは、先日にさくらの危機を救ったことからも明らかだ。

 少女も、確立という生死の境を潜り抜け、メフィストの治療で蘇生を果たした。数日後には回復して退院可能だという。

「芳乃さんでしたっけ。あなた、私のことを責めないの? 私はあなたを殺しかけたのに」

 ふいに、尚美がそう言った。さくらはふるふると首を振った。

「事情は聞かせてもらったし……不可抗力なら仕方ないよ」

 尚美は<区外>で魔道士兼科学者である父に生体改造を施された人間兵器だった。暗殺用途に使われるのが嫌で<新宿>へ逃亡したが、調整が不完全だったため、突発的に殺傷衝動が発生することになった。「魔法街」で買い求めた魔法薬のおかげである程度の衝動は抑えられるが、それでもたまに抑え切れない時があるという。

 三日前の夜に発生したときも、人気の無い路地裏に身を潜めて、衝動が収まるのを待っていた。しかしそこへ、チンピラに連れ込まれたさくらがやってきたというわけであった。

「ごめんなさい、ありがとう」

 尚美は両方の気持ちを言葉にした。

 さくらが薄く笑い返した。

「それにしても、秋さんはいったい何を一計案じたのかなあ」

 事情を明かしたあと、尚美は依頼人に会うことを条件に、事態の解決を懇願した。せつらが承諾したのは、このまま放っておいたら自分のためにならないと結論したからだろう。

「わからないわ……でも、不思議な人ね、あの人」

「うん、そうだね」

 さくらは、両手で頬杖をついて、夢見るような吐息を漏らした。

 高雅秀麗でいて、どこか春の陽を思わせる美貌。ペースの掴みづらい人柄と雰囲気。

 ――そして。

 自らを『私』と名乗ったせつらが心の色彩を占めたとき、

「ああ――そっか」

 少女の中でひとつの答えが出た。