第六章「アイシアの依頼」
少女は見習い魔法使い。亡き祖母は、人を幸せにする立派な魔法使いだった。
祖母のようになりたいと、少女は、この夏に北欧から日本へやってきた。
初音島で色々な人と知り合い、様々なことに対面し、そして、ひとつの事件を起こす。
その責任をとる形で、本格的に祖母と同じ道を歩むことを決意し、初音島を後にした。
それから一月。日本で旅を続ける少女は、一人の男と出会った。男は、少女が魔法使いであることを見抜き、ひとつの願いを申し出た。
ある街へ行ってしまった一人娘を見つけてほしい――それが男の頼みだった。
少女は引き受けた。人を幸せにする魔法使いとして、父と娘を引き合わせるために。
そうして少女はやってきた。――魔界都市<新宿>へと。
「もしかして、路地で一緒にいた女性?」
「そうです。せっかく見つけたのに、さくらが邪魔するから……」
「そんなこと言われても、ボクは事情を知らなかったし。――それに、話はうまくいかなかったみたいだよね?」
アイシアはうつむいた。
用件を伝えたが、父親と会うことを拒否されたのであった。
「せつらは人捜し屋なんですよね? お願いです、あの女の人を捜してください」
「依頼にはお金が必要だよ」
にべもなく返すせつら。殆ど持ち合わせがないということをトンブから聞いている。
「あ、あとで……ううん、さくらから借ります!」
「ちょ、こら」
おいおいと言わんばかりのさくらだが、アイシアは本気だった。
それをどうとったか、せつらは、あまり気乗りしないような様子を見せた。
アイシアは不安に瞳を曇らせた。さくらは期待に瞳を輝かせた。
「どうやら、お断りしたほうがよさそうです」
そのとおりの答えと反応だった。
「ま、まってください、お金なら何とかします。本当に、絶対に」
「お断りするのは、それだけが理由じゃありません」
「えっ、じゃあ、何が……」
「しいて言うなら――人捜し屋の感です」
「そ、そんなの変です、おかしいです、納得できません!」
「申し訳ありませんが。それでは」
せつらは踵を返した。追いすがろうとするアイシアの肩を、さくらがぐっと掴んだ。振り向いた顔に、少し胸が騒いだ。燃えるような紅玉色は涙に濡れていた。
「さくらはずるい! 私に、人を幸せにする魔法使いの道を歩ませておいて、こんなときだけそれを制止するようなことっ」
熱い眼差しを受け止めきれず、少女は眼を逸らした。それでも肩を掴んだ手は離さない。
「私のことは放っておいてください!」
「そうもいかないよ。とりあえずこれ」
さくらは片手で何かを手渡した。北欧娘が、思わずあっと口を開いた。
お金だった。それも、そこそこの額だ。
「さくら、これ――?」
「勘違いしないでね、ホテル代だよ。ここからだと、青海街道沿いに行ったところ、新宿駅跡南口付近に「トランシルヴァニア」ってホテルがあるはずだから」
「え、でも」
「どうせ今日はボクもメフィスト病院に一泊しないといけないんだ。君はそのホテルに泊まるといい。地図を見る限り、そこなら病院からそう遠くないし、明日の朝むかえに行くから、そのときによく話をしよう」
「さくら……」
「じゃ、ボクが支払うから、タクシーで行こう。――知ってる? 深夜タクシーは区民でも利用に相当の覚悟が必要なんだって。もう暗くなってきたし、今のうちにさっさと乗っちゃわないと」
さくらの笑顔に、アイシアはいたたまれなくなってしょぼんとした。
顔を上げると、うーん、と唸った。次の瞬間、両手に布袋が現れた。魔法の産物だ。
「さくらの服を魔法で作りました。返却は不要です」
「そっか、ボクの上着、こんなになっちゃったもんね。ありがと、アイシア」
布袋を受け取り、さくらはまた笑顔を見せた。
本当に嬉しかったのである。
翌朝、退院手続きを済ませたさくらが、メフィスト病院を後にした。
その足でホテル・トランシルヴァニアに向かい、着いたのは午前九時。「森の彼方の国」の名を持つこの宿泊施設は、「区外人」専用の高級ホテルで、観光ツアーの最高級コースを選択すれば、必ずこのホテルの名前があるという。
目的の部屋に入ったさくらは、室内を見回して瞳をきらきらさせた。
「うわあ、ゴージャス! 調度品も絢爛だし、さすが高級ホテルは違うね」
「さくら……こんなところに泊まらせてもらって、その、よかったんですか?」
豪奢なソファに腰をかけたアイシアが、落ち着かない様子で訊いた。何しろ、さくらから手渡されたお金の四割がホテル代に消えたのだ。
「気にしなくていいよ。ボクは性分じゃないからこんな贅沢はしないけど」
それより、とさくらはジト目でアイシアを睨んだ。
「なんでこの服なのさ」
黒マントの下は、風見学園付属校の冬服だった。三年前、さくらが風見学園に通っていた頃に着用していた制服である。
「知りません。私はさくらに合う服をイメージしただけです」
「ま、いいか……それで、どうするの?」
単刀直入に話に入る。アイシアが表情を硬くした。
「さくら、お願いがあります――」
純粋に輝く紅玉の双眸が、澄んだ空色の瞳を真っ直ぐに捉えた。
「――で、アイシアさんの依頼を受けてほしいと?」
六畳間のテーブルを挟んでせつらが言った。テーブルには渋茶と和菓子が並んでいる。さくらが秋DSMセンターを訪れたのは、正午一時間前であった。アイシアは「トランシルヴァニア」のロビーで待機させている。
「依頼料はどうするの」
「ボクが。――あ、代払いが無理なら、アイシアにお金を渡して支払わせるから」
「お金持ち?」
人捜しの依頼料金、メフィスト病院の医療費、トンブへの慰謝料、アイシアへの高級ホテル宿泊費。僅か三日で、平均的フリーターの年収分は出費している。
「うーん、どうかな。一応ボクは<区外>の長者番付候補みたいだけど、贅沢は敵だからね。――そうだ、秋さんは年収三千万って聞いたよ?」
「さあて」
茫洋とぼかして、せつらは、
「彼女の依頼はお断りしたはずですが」
「そこを、なんとか」
「どうしてそこまでするの?」
とさくらに訊いた。
「君が彼女と知り合ったのはこの夏で、付き合いは一月にも満たない。出会って半月そこらの相手のために、普通そこまではしない。しかもここは「魔界都市」だ」
それほどのリスクを冒してまで、知り合いの少女を連れ戻そうとする理由は?
さくらは沈黙した。
せつらは少し待った。
そうして頃合いを見計らってから、
「どうして?」
と再度訊いた。
「彼女が……友達になれるかもしれない相手だから、かな」
話したかったのだろう。さくらは口を開いた。
「ボクはアイシアと意見が合わなくて対立したんだ。溝は深まる一方で、ついに彼女はひとつの事件を起こしたの。気がついた時にはもう手遅れで、ボクの力でもどうしようもなくなっていた。それを収める代償として、アイシアは、初音島で知り合って仲良くなった人々全員の記憶から、自分の存在を消したの。それで、結果的に、ボクが彼女を初音島から追い出す形になったんだよ。彼女に、人を幸せにする魔法使いとして旅立つよう促したのは、他ならぬこのボクだから」
初めにアイシアの考えを全否定したりしなければ――さくらの顔を、悔恨が掠めて過ぎた。
渋茶を一口やって、胸を温めた。せつらは黙って耳を傾けている。
「いま彼女のことを憶えているのはボク一人。結局、対応さえ間違えなかったら、ボクは彼女と仲良しになれたかもしれないんだ。――だから、今回の件はボクにとってのチャンスだとも思った」
無事に連れ戻したら、今度は。
「もちろん、アイシアのことが心配だというのが一番の理由だけど」
話を聞き終えたせつらは、ゆっくりと小首を捻った。どう見ても無関心としか思えないが、滅多にない、意志を感じさせる表情になった。
「きっと、彼女の思い描く結果にはならないよ」
「どんな結末になっても、ボクがアイシアを受け止める。これはボクのわがままだから……このとおり、お願いします」
さくらはもう一度、頭を下げた。
「わかりました、お受けしましょう」
「ありがとうございます!」
表情を輝かせ、さくらは立ち上がった。
「それじゃ、さっそく人捜しにレッツ・ゴ〜」
「はあ」
「むー、なにその気のないリアクション。時は金なり障子にメアリーだぞー」
「時は人を待たず」
渋茶を飲み終えると、せつらはそっと腰を上げた。さくらを無視して三和土へ降りる。
「あにゃにゃ、もしかしてボクが一緒じゃ駄目?」
「調査の邪魔」
「うわ、キッパリ。じゃあ昨日はどうして何も言わなかったのさ」
「あれはなりゆきだよ」
のんびりと言って、せつらは玄関へ回った。バイトの娘に一言伝え、店を出る。
その背中に、二言三言の文句が飛んできたが、一度も振り返ることはなかった。
さくらが「魔法街」でタクシーを降りたのは、午後一時過ぎであった。
せつらに同行を拒否され、気晴らしに歌舞伎町へ足を運んだ。風林会館周辺の大衆食堂でタンメンを食べているとき、あることを思い出した。アイシアが捜している女、松屋尚美は、高田馬場一丁目の路地で紙袋を抱えていた。それが「魔法街」の住人から購入したものであるなら――思い立ったら行動せずにはいられなかった。
さくらは、魔術系材料店を片っ端から当たってみたが、結果は芳しくなかった。口が堅いといえばそうで、当たり前といえば当たり前だが、基本的に答えてくれないのだ。
溜息をつきながら石畳を歩いていると、数時間前に文句を投げかけた背中に出くわした。
「秋さんっ」
「――散歩?」
「ううん、たぶん秋さんと同じ理由だと思うな〜。何かわかった?」
「企業秘密」
「ボクはもう依頼人じゃないからしょうがないね。……って、あれ、じゃあ情報を得られたんだ。すごい、どうやって教えてもらったの」
「か――秘匿事項だよ」
「……いま、かおって言おうとしてなかった?」
返事はなかった。正解だとすれば、しかし、これほど納得できるものはない。
人間は顔じゃない、心だ。そんな考えも、眼前の人捜し屋と、旧区役所跡の病院長には通用しない――それを実感せざるをえないさくらだった。
「あれっ、昨日の二人」
横合いからの声。振り向くと、昨日、路地に居た少女の顔があった。
「そうだ、アイシアはどうなったの?」
「無事に見つけたよ。ちょっと訳アリで、<区外>へ連れて帰るのは今日か明日? くらいになるかな」
ちらと横目で見上げるが、せつらは、
「どうかな」
と呟いただけだ。断言はできない。
代わりに一枚の写真を見せた。アイシアから提供された松屋尚美の写真である。
「この女性を見かけませんでしたか?」
「昨日アイシアと話してた人ですよね。たまにここに来るみたいですけど……この女の人なら、昨日の晩、うちの近くで見かけましたよ」
「どこで!」
と訊いたのはさくらだ。
「たくさんの紙袋を抱えて、下落合方面へ歩いていったよ」
「やっぱり――気球住宅か」
とせつらが口にした。
どーもと礼を言って背中を向け、数歩進んでから振り返った。
「来たまえ」
さくらは眼を丸くした。
「えっ、いいの!?」
「勝手に行動されて、いざというとき邪魔になったら困る」
「うわっ、ストレート!」
もっともだとは思いながら、さくらの顔には喜びの色が滲み出ていた。
少女が関心ありきといった視線を向けた。
「あの、あなたも魔道士?」
「うにゃ? そうだけど」
「もしかして、アイシアの友達?」
「……知り合い以上、友達未満――かな」
複雑な様子で微笑むさくらだが、意味は伝わったようだ。
激励を受け、金髪碧眼の魔法使いは、足取り軽やかに黒衣の長身を追いかけた。
秋風に吹かれ、少女はそっと眼を伏せた。