第五章「スパイン・チラー」
西早稲田内の廃墟。さくらは、仰向けに押し倒された格好で、身長二メートルを超す大男に身体を押さえつけられていた。その力が尋常ではなく、筋力増幅剤を飲んでいるか生体強化手術でも受けているのは容易に想像できた。
「暴れても無駄だぜ。そいつはサイボーグだからな、素手で虎や熊だって絞め殺しちまう」
近くからにやついた声をかけたのは、昨夜さくらをカツアゲしようとした男だ。片腕に大口径レーザー砲を掲げている。
「ボクのことは記憶から消したはずなのに……」
「事務所に帰った俺を見たあいつが、俺が魔法にかけられているってことを見抜いて、術を解いてくれたのさ」
男が顎で指した先――少し離れた場所に停車しているワゴン車の前に、燕尾服を着た柳のようにひょろっとした細長面の男が立っていた。
「組長お抱えの妖術師で、腕利きなんだとよ。へへっ、残念だったな」
さくらは危機を覚えた。魔法を使おうとしても、妖術師が察知して邪魔するだろうし、レーザー砲を向けられ、サイボーグに組み伏せられている状況では絶望的だ。
アイシアを追っていった黒衣の人捜し屋が脳裏をよぎったが、自分がどうこうされるまでにここまで来てくれる可能性は薄いと思った。
「そうそう、いまお前を押さえつけてるやつ、ロリコンでな、幼児体型の女を相手にするのが大好きなんだぜ? お前みたいなガキを犯って何が嬉しいのか俺には理解できねえけど、そいつに犯された女はみんな使い物にならなくなっちまってる。ご愁傷様」
大男がさくらの胸もとに手をかけた。
布地の裂ける音と、少女の悲鳴が上がった。
ブラジャーごと引き裂かれ、凹凸の少ない乳房が剥き出しになる。
チンピラがけたけたと笑った。
「高田馬場にはいい廃墟がねえからな、こっちまで連れ込んだってわけだ。せいぜい泣き叫んでくれ、救いを求めたって無駄だからな」
西早稲田一帯は最高危険地区に指定されており、足を踏み入れる者が少ない廃墟もある。
さくらの目尻に涙の粒が浮かんだそのとき、
「そのとおりだ」
精悍極まりない声が聞こえた。その場の全員が注目するほど、太く鋭い響きだった。
日本刀の鍔を眼帯として左眼に巻いた、ドレッドヘアの男。引き締まった肉体を包む黒のスラックスとシャツ。それを覆う、すり切れたグレーのシルクの上着には、秋桜、女郎花、野菊、桔梗といった一面の花模様が散らしてある。
「強姦――未遂の現行犯。救いを求めても無駄だ」
獰猛さよりは、凄み、という言葉が似合う、隻眼の男。
「お、お前はまさか……」
「新宿署刑事、屍刑四郎――「凍らせ屋」か」
冷汗を流すチンピラに代わり、それまで一言も喋らなかった妖術師が、相手の素性と名前を明白にした。
「魔界都市」にも法はある。<新宿>が完全な無法都市とならずにいるのは、<新宿警察>の存在と、そのたゆまぬ活動のおかげである。
新宿署職員の給料は平均値に比べて基本給で五十パーセント高いだけなのだが、危険勤務手当ては四百パーセントに上ると言われている。それでも、警官の殉職率を考えると少ないかもしれないのが<新宿>の恐ろしさだ。
そんな<新宿警察>において、検挙率は署内ナンバーワン、負傷率は署内最下位の成績を誇っているのが屍であった。
「別件を片付けた帰り、高田馬場で騒ぎの跡に遭遇した。騒ぎを収めた少女を拉致したワゴン車が早稲田通りへ走り去ったと聞き、ここへ来た。――さて、どうする?」
鋼の光を佩びた眼光に、チンピラは恐怖に駆られてレーザー砲を構えた。「凍らせ屋」に犯行現場を見られた以上、言い逃れは不可能だ。やるしかない。
「よく抵抗した」
奇妙な物言いに、首をかしげ、そして理解した。その意味するところを。
――これで遠慮容赦の必要は一切合切無い。
チンピラとサイボーグは戦慄と共に背筋を震え上がらせた。屍刑四郎の、「凍らせ屋」たる異名の所以だ。
「うわあああああっ」
半狂乱になってレーザーを撃とうとした次の瞬間、雷鳴のような轟きを受けて眉間に穴が開き、チンピラは脳漿を撒き散らして地面に倒れた。
屍の構えた銃から硝煙が漏れていた。恐るべきクイックドロウもさることながら、彼の銃、五十口径の巨大リボルバー「ドラム」がどうやって収められているのか知る者はいない。
さくらを組み伏せていた大男が起き上がり、雄叫びを上げて突進した。
「ドラム」を撃った直後、屍は真横に地を蹴っていた。
数瞬後、もと居た位置をサイボーグの鉄拳が空振りした。銃弾を受けた頭部と胸部は、僅かにへこんでいるだけだ。大男が笑みを見せた。加速装置を備えているうえ、特殊装甲で覆われているのだった。
屍が再び銃口をポイントする。驚くべき速度で別の弾丸を装填していた。
「ドラム」が咆哮した。見る間に大男の全身が爆炎に包まれ、断末魔の絶叫が迸る。弾丸は、拳銃用のHEAT――成型炸薬弾であった。
重戦車の複合装甲を貫通すべく開発されたこの砲弾は、命中と同時に、炸薬の燃焼ガスをライナーと呼ばれる弾頭凹部から放出して装甲を溶解する。ガスの温度は三千。サイボーグは内部から焼き尽くされた。
屍は、ワゴン車の前に立つ燕尾服へ油断なく銃口を向けながら、
「無事に動けるか」
安堵を与えるに充分な、逞しい声を、起き上がった少女にかけた。
こくりと頷くと、さくらは引き裂かれた胸もとを黒マントで隠した。
途端、世界が暗転した。「ドラム」の轟きは空しく闇に吸い込まれた。
隻眼の刑事と碧眼の魔法使いは、一瞬のうちに暗闇へ閉じ込められた。一寸先も見えないのに、互いの姿だけははっきりと映る。妖術にかかったのは間違いない。
「ふふふ……魔道士の小娘のためにかけておいた罠だが、よもや屍刑四郎まで閉じ込めることができるとは何たる幸運」
闇の中に妖術師の声が響く。思わぬ大物を捕らえた興奮と自信に酔っていた。
「そこからは抜け出せんぞ。「凍らせ屋」を始末したとなれば、俺の名も一気に箔がつくというもの」
さくらは魔法で脱出を試みるが、突破口を見つけることができなかった。腕利きの妖術師というのは本当らしく、相手の力の方が上なのだ。
屍もまた、妖術を打ち破る方法を模索していた。魔術妖術には大抵の場合、必ずどこかに現実に影響を及ぼす接点があり、そこを突けば崩すことができる。魔道士や妖術師に対する基本のひとつだ。
しかし今回は、その必要はない様子だった。
少女が、破れた上衣からはみ出した一枚の護符に気づいた。
――これだ、と思った。
手に取って眼前に構えると、さくらは魔力の集中を始める。
「何をしている」
「え……妖術を打ち破ろうとして、いるんですけど」
「民間人は手を出すな」
「WHAT? どういうこと――ですか?」
「規定だ。警察として、一般区民の協力は最後の手段という見解をとっている」
「あっ、それならダイジョブ。ボクは<区外>の人間だから」
「民間人に変わりはない」
「うにゃ〜……この状況でそんな固いこと」
無言で凝視され、さくらはすくみ上がりそうになった。
暫し見下ろしていた屍だが、
「妖術を打ち破ろうとしていると言ったな」
「は、はい」
「勝算はあるのか」
「え〜と……高田馬場一丁目に住む、太った女魔道士の力量を信じるなら」
返事を聞くと、決断を下したように少女に近づいて耳打ちした。
驚き、興味、感心と表情を変化させたさくらへ、屍は言った。
「自由意志で、<新宿警察>の一員に加わるか?」
「加わります」
さくらは右手を挙げてそう答えた。
「――以下、手続きは省略する。今からお前は「緊急警察官」として、屍刑四郎刑事の指揮下に入る。異存はないな?」
「ありません」
緊急警察官システム――本人の意志と新宿署刑事の承認により発令可能な<新宿警察>特有の制度で、緊急時に一般市民を一時的に警察官に任命するシステムである。
緊急警察官に任命された者は逮捕権などを持つが、上司の命令には従わねばならない。
「では、命令する。――速やかに状況を打破し、埒を明けろ」
「ラジャー!」
弾んだ声でビシッと敬礼し、さくらは護符に意識を集中させた。
符が仄かな燐光をいくつも燈し、淡い蛍光が夢幻のきらめきと共に幾重もの虹を形作る。
驚愕の思念が伝わった。アーチが広がったとき、闇のドームは開放されたのである。
「馬鹿な……お前の力で俺の術を破れるはずが」
「ボクのじゃないけどね」
姉亡きいま、新宿一、つまりは世界一に等しい魔道士たるトンブ・ヌーレンブルクの魔力である。腕利き妖術師程度の妖力など蟷螂の斧に過ぎなかった。
「ドラム」の怒号が唸り、柳のような細長面はワゴン車ごと炎に呑まれた。
間違いなく死んだのを確認してから、屍が振り返った。
「よくやった」
「ありがとうございます、先輩」
さくらは再び敬礼した。それから、ふとチンピラの死体に眼をやって、顔色を悪くした。嘔吐感が襲ってきて口を押さえる。
昼間にもっと凄惨なものを見ているが、あれは、幽明の美と結合したかのような芸術絵画的光景に意識が酔っていた。だが、ここにあるのは、生々しい死の現実そのものだ。
「どうした」
「いえ、すみません、ちょっと気分が」
「成程」
確かに<区外>の人間だ、と屍は納得した。
太陽が西に沈みきる、一時、赤黒く染まった地に、二つの影が伸びた。
眉目秀麗な容姿を認め、屍は「ドラム」を上衣の内側に戻す。さくらも気づいた。
「こら、そこおそーい! ボクは貞操の危機だったんだぞー。せめても携帯で連絡くらい」
「刑事サンの邪魔しちゃいけないと思ってね」
のんびりと屍へ顎をしゃくる、そんな一挙も異様に美しく、さくらは二の句を継げなくなった。
「またお前か」
じろりとねめつける隻眼に、せつらは、
「僕は無関係だよ」
と、かぶりを振った。視線の先に、射殺されたチンピラの死体と、二箇所の焼け屑がある。
アイシアがさくらに駆け寄り、抱きついた。
「さくら……っ、よかった、無事だったんですね」
「アイシア……にゃはは、なんだか立場が逆になっちゃったね」
苦笑しながらも、心地良さそうなさくらだった。
「とりあえず、乗っていけ。一応事情徴収をさせてもらう」
廃墟前に停まっている車を指で示す。魔法使いの少女が、ぽかんとした。
どう見ても黒い霊柩車。――屍愛用のパトカーである。
「僕も乗るの?」
「歩け――と言いたいところだが、お前も付き合ってもらう」
「なら断る」
「何だと」
「ま、まあまあ、先輩、穏便に」
「先輩」
ぼんやり屍を見るせつらへ、
「イエス、ボクはいま<新宿警察>の一員で、屍刑事の部下なのだー」
さくらがまっ平らな胸を得意げに反らして鼻をこすった。
「いま解除だ」
「あにゃ……残念」
憮然とした解除宣告に、さくらはがっくりと肩を落とした。
数分後、黒い霊柩車が発進した。
死体だけが残った。
三人が新宿署を出た頃には、空は濃い蒼へと変貌していた。
さくらが、黒衣の人捜し屋に礼を述べ、頭を下げた。依頼は果たされたのだ。
アイシアに街を出るよう促すが、そっぽを向かれた。
さくらは溜息をついた。
「嫌な言い方するけど、ボクは昨日、瀕死の重傷を負った。そして今日、貞操を奪われそうになった。君を連れ戻すためにこの街へ来たわけだけど、ボクが勝手に被害を受けただけだから自分には関係ないって思う?」
「それは……」
アイシアが気まずそうにうつむく。でなければ、さくらが無事だと分かったときに安心したりはしない。
「ボクは、君にはそんな目に遭ってほしくない。だから、言うことを聞いて」
「……でも」
ぐっと唇を噛み、アイシアは、突然に走り出した。また逃げるのかと思いきや、帰路を辿ろうとしていた黒いコートの正面に回りこんだではないか。
「あの――捜してほしい人がいるんです!」
それは、新たな人捜しの依頼だった。