第四章「まじかる☆ぱにっく」
「どうしてですか!」
高田馬場「魔法街」の路地に甲高い声が響いた。
「そんなの嘘です、納得できません!」
黒マントを揺らして声を張り上げるアイシアへ、女はふっと顔を逸らした。
「あなたが納得できなくても、世の中には色々な事情があるの。自分の観点だけで物事を推し量るのはやめたほうがいいわ」
「そ、そんなこと――」
身に覚えがあるのか、たちまち声を詰まらせるアイシア。木箱に座った少女が、ふたりのやりとりを何となく眺めていると、新たに人の気配を感じた。
振り向いて、頬が溶けた。それは人の形をした「美」そのものではないだろうか。
続いてそちらを向いたアイシアと女も、木箱の少女同様、顔に赤みが差した。
「アイシアさんですね。お迎えに上がりました」
と、「美」がのんびりと告げた。
「お迎え?」
死の天使が迎えに来たのだと言っても疑う者はいないだろう。
或いは、秀麗な黒衣の死神か。
「僕は秋せつら、人捜し屋です。あなたのお知り合いに、あなたの捜索を依頼されました」
「人捜し? 私の知り合い?」
アイシアは一瞬きょとんとして、すぐに眉を困惑の形に下げた。
「私のことを憶えている知り合いなんて、もう誰も……――ひょっとして?」
どこか寂しげに奇妙なことを言い、何か思い当たったとき、小走りの足音が近づいてきた。
「こらー、依頼人を置いてくなっ」
アイシアと背丈が変わらぬ黒マントが、息を切らせながらせつらの横に並んだ。
普通の依頼人は安全なところで連絡を待つのが基本だが、この少女はバイタリティが有り余っているようだった。
「さくら!」
思い当たっても、驚きの声を上げずにはいられないアイシア。隣に立つ女が、さくらを見て、一瞬だけ狼狽の表情を浮かべた。
「アイシア、本当に無事でよかった」
「どうしてさくらが?」
「君を連れ戻すためだよ。さあ、一緒に<区外>へ帰ろう」
「い、いきなり何を言い出すんですかっ」
「手紙を読んでビックリしたよ。ここは君が思っている以上に危険なところなんだよ?」
「私はやらないといけないことがあってこの街に――あっ!?」
ハッとして振り返ると、女は消えていた。二人が言い合っている間に立ち去ったのだ。
慌てて駆け出そうとする少女を、強い口調でさくらが呼び止めた。
「アイシア、言うことを聞いて!」
「もうっ、さくらのせいです! 邪魔しないでくださいっ」
悪態をついたうえ、制止を無視して走り出すアイシア。
後を追わんとするさくらに、
「あのー、あなたアイシアの知り合い?」
十代前半くらいの少女が話しかけてきた。木箱に座っていた娘だ。
「今の話聞いてたけど、<区外>へ連れ戻すって……」
「そうだけど?」
訝しげに返事すると、少女は、そっか、と頷いた。
「じゃあ、そうしてやって。彼女にこの街は似合わないよ」
さくらは既知感を覚えた。少し前、人形娘も同じようなことを言った。
彼女には<区外>の光が似合っています――と。
「アイシアと知り合ってまだ三日目だけど、あの子なら<新宿>でもやっていけると思う。でも、そうなったら、彼女の一番大事な部分が失われちゃう気がするから」
「――大丈夫、そうなる前に連れて帰るよ。ボクはそのために来たんだから」
「うん、お願い。がんばって」
黒ずくめの美青年と金髪碧眼の黒マントを見送り、少女は長い息を吐いた。
少女は高田馬場四丁目に住んでいる魔法好きで、毎日のように「魔法街」へ通っている。二日前にアイシアと知り合ったとき、<区外>から来た魔道士だと聞いて、やったと思った。なにしろ「魔法街」の住人たちは、朝から晩まで、屋内か離れの実験室やら研究室やらに閉じこもって、魔術の探求その他に没頭している者が殆どである。通いつめて数年になる少女だが、関心をもたれ、さらに親しくなるに至った魔道士は五名にも満たない。
だからアイシアとの出会いには心躍ったが、話してみるにどうも頼りない。そこで、魔道士なら花くらい咲かせてみせてとお願いしてみた。結果、今日に至るまで成功せず、他の魔法も大したものは確認できていないが、不思議と親愛の情が芽生えた。
同時に不安も生まれた。<新宿>への適性に応じたとき、彼女のもつ純粋という名の輝きは、「魔界都市」の色に変性してしまうのではないかと。それは<区民>たる少女からすれば歓迎すべきことであるのだが、そうはなってほしくなかった。
初めて歳の近い友達ができる気がした。しかし、<新宿>に適応したアイシアを見たくはない。彼女が<区外>へ戻るのなら、それでいいのだと思った。
「魔法街」を出て数分で追跡対象に追いついた。
アイシアは、まるで塩の柱になったかのように、棒立ちで硬直していた。
「……ひょっとして、秋さんの仕業?」
「さあ」
ぼんやりとぼけるせつらだが、そのとおり、妖糸で動きを封じたのである。先刻の路地でアイシアを発見したとき、彼女の身体に糸を巻いておいたのだ。
せつらに捜し出された相手の反応は十人十色だが、魔界都市で捜索される以上はそれなりの理由を持っているわけで、せつらの美貌を見れば問答無用で素直に依頼人との引き合いに応じる――などということは例外中の例外を除いてまずない。アイシアのようにその場で逃亡に移るのは、最も典型的なパターンのひとつだ。
当然ながらせつらも対応手段を講じており、妖糸はそのための備えである。
「さくら、今すぐ魔法を解いてください」
アイシアは金縛り状態をさくらの魔法によるものと勘違いしていた。千分の一ミクロンを誇る太さの糸が見えるはずもない。さくらなら魔法や妖術によるものではないと判別できるが、見習いクラスの魔法使いであるアイシアにはわからない。
「魔法を解いてほしかったら、ボクと一緒に<区外>へ帰るって約束して」
アイシアは押し黙った。せつらが、さくらの肩をぽんと叩いた。
「他人の褌で相撲を取るのはよくない」
「……にゃはは、ごめんごめん」
さくらは片手を後頭部に当てて謝った。非難したせつら自身が、以前、ドクター・メフィストの名を出して敵対者を怯ませたことがあるなど知る由もない。
「えーーーーーーーーいっ!!」
突如、アイシアが魔法を発動させた。
せつらの反応が数瞬分の一遅れたのは、欠片ほどの悪意も感知しなかったのと、殆ど暴発に近い即時発動によるためだ。
そして、生じた出来事に、さくらと、せつらも、半ば呆然とした眼差しを送った。
一言で表現するなら――でぶの大量発生。
男女問わず、子供も、中年も、年寄りも、みな一様に全裸のでぶが噴水のごとく湧き上がり、五段腹を蓄えた飛沫がぼとぼとと飛散を始めたのだ。
これにはアイシアもぽかんとしたが、すぐさま踵を返して脱兎に転じる。魔法の衝撃で糸は解けていた。新たな妖糸が繰り出されるも、ぶよぶよした肉塊の雨に阻まれ、遠ざかる小柄な背中には届かなかった。
「えらいお友達だねえ」
せつらは茫洋と嫌みを口にした。
ジト汗を浮かべるさくら。――返す言葉もございません、だ。
「ここまで引き離したのは正解だったか」
とせつらは呟いた。「魔法街」の一軒一軒には、核に匹敵するくらいに魔法が詰まっていると、トンブから聞いたことがある。
曰く、ある家の水晶盤を壊したら、惑星軌道上の小惑星帯が、雨あられと地上に降り注ぐ。曰く、ある黒猫に傷でもつけたら、アメリカ西海岸一帯を大津波が襲う。万が一、どこかに第二の<魔震>が起きないとも限らないのだと。
あの路地でアイシアの動きを封じなかったのは、そういった不測の事態を考慮したからだ。
「餅は餅屋。適材適所。この場はボクが魔法で収めておくから、秋さんは逃げたアイシアをお願い。あの分からず屋を召し捕って、渡世の義理ってやつを教えてやってよ」
「江戸っ子?」
「はぁ、シャバの空気はうまいのー」
「じゃ」
噛み合わない会話を素っ気なく打ち切り、せつらは飛燕のごとく疾走した。
オレンジに変わりつつある遠くの空で、鴉の鳴き声が上がった。
せつらの姿が見えなくなると、さくらは改めて周囲を見回した。全裸のでぶたちがパニックを引き起こしている、悪夢のような光景が広がっていた。
ごろごろ転がる者。でんぐり返る者。起き上がれずじたばたする者。四股を踏む者。
見渡す限り、でぶ、でぶ、でぶ。
でぶのオンパレード。
ふくよかな球の体型が巻き起こす騒ぎは、交通渋滞にまで発展していた。
さしもの<区民>も、この無駄に奇天烈な現象には眼を疑い、呆気に取られる者が多かった。高島屋跡の廃墟前で、百五十キロ以上に太った男女が「白鳥の湖」に合わせて踊り狂ったという一大珍事があるが、これはその類に属するものだといえる。
転がってきたバルーンのような子供をやり過ごし、さくらは、
「さても皆様お立ち会い――御用とお急ぎのない向きはとくと聞いていらっしゃい」
きっぷのいい前口上を切り出すと、不敵な表情で黒マントを風になびかせた。
「遠出山越え笠のうち、聞かざる時には、物の黒白、出方善悪、とんと分からず――童子来たりて撞木当てざれば、とんと鐘の音分からずじまい。手前ここに呼び出したるは、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――大和撫子と謳われる、古は良き美人の桜花乱舞にござい」
名調子を終え、ふっと手の平に息を吹きかけるや、見る間に発生する桜吹雪。
染井吉野の花びらに覆われたでぶたちは、水分か脂肪を吸い上げられていくかのように縮小を開始した。魔法で生み出された肉塊が、魔法で生み出された桜の花びらに魔力を吸収されているのだ。
そこへ人相の悪い男が通りかかった。桜吹雪を起こしている少女を見た途端、さっと物陰に身を寄せ、手早く携帯を出してどこかに連絡を始めた。
男は、昨夜さくらをカツアゲしようとしたチンピラだった。
神田川の近くで、少女は荒い息を吐いて肩を上下させていた。
「ここまでくれば――」
「大丈夫」
言葉を次がれ、アイシアは驚き顔で振り返った。
どーも、とせつらがのんびり片手を上げた。息を切らせている様子はどこにもない。
「ど、どうして……」
「彼が案内してくれた」
せつらが人差し指を上向けた先、大きな鴉が、上空から下りてきて羽根を広げた。
「ネヴァーモア(またとなけめ)」
「あーっ、大鴉!」
「悪ク思ワナイデネ、あいしあチャン」
人形娘と共にヌーレンブルク家に仕える魔鳥は、申し訳なさそうに人語を発した。最近までパリに行っていたらしく、片言の日本語である。
「ご苦労様」
どう聞いても外交辞令であるせつらの労いに、大鴉はウムと満足気に返事した。
「今ノ主人トイイ、人形トイイ、マッタクモッテ人使イガ荒イ。少シハ労ッテ然ルベキモノヲ、イッタイゼンタイ、ワシノコトヲ何ダト思ッテオルノカ」
「ご苦労様」
せつらは再度言った。言外に、もう帰っていいよ、という意味が含まれている。
意図が通じたわけではないだろうが、大鴉は機嫌よく飛び去っていった。
「さて――芳乃さんにお会いすることを承諾してくれますか?」
「嫌です、さくらに会ったら連れ戻されちゃうじゃないですかっ」
「それは僕の関与外です。あとで彼女とじっくり話し合いなさい」
せつらの仕事はあくまで人捜し。依頼を果たしたらそれで終わりだ。
「絶対に嫌です!」
「どうしても?」
「私には、やるべきことがあるんですっ」
「困ったな」
さして困ってもいない様子で頭を掻くせつら。
走り出そうとしたアイシアの身体が、また金縛りにあったように硬直した。
「――!? さくらじゃなくあなたの仕業だったんだ」
「依頼人に会っていただけます?」
「んん〜っ」
アイシアが魔法を使おうと精神を集中する。
「よしたまえ」
「うるさいうるさい!」
突っぱねて、魔法を発動――させることはできなかった。
骨まで食い入る痛みに、爪先立ちになって息を呑んだ。苦鳴すら出せなかった。
全身に加わる、骨から肉が引き剥がされるかのような激痛に、脳髄まで痺れた。
「よしたまえと言ったはずだ。僕と名乗る男は」
と、せつらは言った。先程までと全く同じ、しかし、どこか違う声で。
アイシアはせつらを見た。何も変わっていない。姿も、形も、声も、美しい若者のままだ。それなのに。
何かが全身に沁み込んできた。頭のてっぺんから足の爪先まで浸透する痛みを抑えるほどの、それは、恐怖であった。
黄昏の語源は「誰ぞ彼」という。知っている人間が知らない人間に見えることがある。
逢魔が刻。夕焼けに照らされた美青年が、中身だけ別人になっても不思議ではない。
「同行してもらおうか。――私と」
アイシアから拒否の気概は消え失せていた。
半ばぐったりした北欧娘を連れたせつらが、でぶ大量発生の現場へ戻ったとき、騒ぎは沈静化していた。
膨らんだ肉塊は影も形もなく、おびただしい量の桜の花びらが周囲に散乱するのみだ。
そこに依頼人の姿はなかった。残った野次馬の言によると、何者かに誘拐されたらしい。桜吹雪が収まった直後、物陰から突っ込んできたワゴン車から大男が半身を出し、片腕で少女を車の中に引きずり込んで走り抜けた。あっという間の出来事だったという。
さくらが連れ去られたと聞いて愕然と立ちすくむアイシアの隣で、せつらは、うーんと言って眉根を寄せた。
「糸巻いとけばよかったなあ」
そう呟いた美貌は、既に春霞のかかったような茫洋さに戻っていた。
「あの……さくらは……大丈夫なんですか?」
まだ恐怖が抜け切っていないのか、おずおずと覗き見上げるアイシア。それでも、さくらの安否は気になるらしかった。
野次馬からもうひとつ何か耳にしたせつらは、
「黒い霊柩車が間に合ってくれることを信じましょう」
危機感の薄い声で、それだけを口にした。