第三章「ヌーレンブルク邸の珍客」
<区外>の人間が<新宿>に同化できるかは、訪問後ほぼ半月で決まるという。そこで馴染めば何とかやっていけるが、駄目なら日に日に堕ちていくのみ。<新宿>の醸し出す妖気にやられ、待つのは廃人か妖物の餌が関の山である。
少女が<新宿>を来訪したのは一週間前。結果が出るまで約半分の日数を過ごしたことになるが、それでなお、訪れた当時の雰囲気が変化しないのは珍しい部類に入るといえた。
単に物怖じしない性格というだけでは、魔界都市の怪異や日常を前に三日ともたない。彼女の場合、そこにくわえて、魔法使いであるということが影響しているのかもしれない。
肩下すれすれにそよぐアッシュブロンドの髪。鮮やかな朱にきらめく紅玉色の瞳。後頭部で大きく主張する緑色のリボンと、足首までかかる黒マントが目を引く北欧娘。
「んん〜」
寂しげな路地の一角で、アイシアは、壁に向けて両手を突き出しうんうん唸っていた。
数分が経過し、がっくりと肩を下ろす。その後ろで、十代前半といった少女があくびした。
「また失敗かあ。アイシア本当に魔道士なのー?」
「い、今のはちょっと気がゆるんだだけですっ。見ていてください、今度はきっと」
「それ昨日も言ってたじゃん。お花咲かせるくらい花咲かじーさんだってやってるよ」
「ネバーギブアップです!」
「はいはい」
近くの木箱に腰を下ろして頬杖をつく少女だが、一生懸命な黒マントの背中を見つめる眼差しは温かさに満ちていた。
女が通りかかった。二十歳過ぎだろうか、温和な顔立ちで、両手には紙袋を抱えている。中身は魔法薬の類だろう。
何気なく、女が路地のほうを向いた。少女が二人。
壁際の黒マントが振り向いた。
顔が合った。
数秒。
「あーっ!!」
アイシアが大声を上げた。
指差された女と、木箱の上に座る少女が、何事かと二人して眼を丸くした。
明治通りを抜けてきたタクシーが高田馬場に入る。
高田馬場は<魔震>による被害が少なかった地域で、死者数九百五十七名は区内最低の誇るべき記録を持っており、現在は第二級安全地帯に指定されている。
秋せつらと芳乃さくらがタクシーを降りたのは、高田馬場一丁目――通称「魔法街」。百二十軒にも及ぶ魔道士や調剤師の家の集まりをそう呼び、長屋調に並んでいるその半分は、主に魔術関係の材料店を営んでいる。
「うわあ……」
さくらは眼をしばたたかせた。空色の双眸が、軽い感動に揺れていた。
中世を思わせる破風や鐘楼を有する石造りの家もあり、屹立する煙突との交錯が、情緒溢れる景観を家並みに行き渡らせている。
お婆ちゃんが住んでいた頃のロンドンもこんな感じだったのかな――さくらは郷愁に思いを馳せた。イギリス人である祖母は、若い頃、ロンドンの魔法学院に通っていたらしい。イギリスで百年ほどを若い姿のまま過ごしたある時、ひとりの日本人と恋に落ち、結ばれる。そして、一緒に歳を取りたいと思うようになり、老化の道を選んだのだという。やがて娘が二人生まれ、うち長女はアメリカ人の男を婿養子に迎えた。その二人の間に生まれたのが芳乃さくらである。
どこからともなく聞こえてくるラテン語の呪文、漂ってくる硫黄の匂い、流れる奇怪な呪文の数々。昼日中から人通りの少ない街中にあって、さくらの姿はそこに溶け込んでいるようだった。
「お嬢ちゃん、見ない顔だね。<区外>から来た魔道士かい?」
壮年の黒マントが声をかけてきた。さくらがはいと返事すると、顔を和らげて笑った。
「あんまり雰囲気がここに馴染んでるんで、新入りの住人かと思ったよ」
「そう言われるとなんだか嬉しいです。あなたは、ここ長いんですか?」
「いや、私はプラハからの行商人だよ。そうだ、せっかくだから、ちょっと見ていくかい」
男が、手に提げていた革トランクを開くと、中には魔術用具一式が詰まっていた。
さくらは目を輝かせた。「魔法街」の住人相手の商品だけあって、魔法使いからしてみれば極上の品物ばかりだった。
思わず夢中になって談義を始めるさくら。会話は魔術言語と呼ばれるもので交わされ、一般区民には到底理解できるものではない。
数分後、首もとをくいと引っ張られたような感覚にさくらが振り向くと、遥か遠くの石畳に美しい影が伸びていた。
「わわわ、ソーリー、ソーリー」
小走りでせつらのもとへ駆け寄り、明朗な調子で謝った。
「でも、いくらボクが話に夢中になってたからって、さっさと置いていっちゃうのはレディに対する扱いがなってないぞー」
「れでぃねえ……」
「うにゃっ、いますごく失礼な確認の仕方しなかった? なりは小さくても、ボクは十七歳なんだからね」
タクシーに乗っている間に、さくらは、せつらに対して敬語を使うのをやめた。どういった心境の変化かは不明だが、せつらにとってはどうでもいいことである。
程なくして、一軒の家が見えた。魔法の街において、最も由緒正しく、威厳に溢れる古い家。本来はここでタクシーを停めるつもりだったが、魔法街の入り口で黒猫が目の前を横切ったせいで、そこで降りることになった。運転手はジンクスを気にするらしかった。
鉄門を開き、前庭の敷石を踏み進む。玄関で呼び鈴を鳴らすと、インターフォンから可憐そのものの声が響いた。
「どなたですか?」
せつらが名を告げると、一秒とかからずドアが開いた。
紫サテンのドレスに身を包んだ、七、八歳と思しき少女が出迎えた。さくらより原色に濃い金髪碧眼にスラブ系の顔立ちで、肌の色は透き通るほど白い。青いエプロンドレスだったなら、不思議の国に落ちた童話の少女でも通用しそうだ。
その瞳が青い水晶で出来たものだと看破したさくらは、
「もしかして、人形?」
と、自分より背丈の低い娘を見つめた。
娘は澄ました顔で、
「せつ――秋さん、こちらは?」
「僕の依頼人だよ」
せつらの返事を聞くと、さくらに向き直り、失礼しましたと慎ましく一礼してのけた。
「仰るとおりですわ。私は、今は亡き主に作られた魔法のからくり人形です」
一見して人形には見えないほどの精巧さを誇る人形娘であった。
「ボクはさくらだよ、芳乃さくら。よろしくね」
「こちらこそ――それで、どういった御用ですか」
「聞きたいことがあるんだけど」
とのんびり口にしたせつらに、
「はい、よろこんで。――あ、でも、いまは」
人形娘は声を輝かせ、直後、ひそませた。
「トンブがどうかした?」
「その、少し、機嫌のほどが」
「平気?」
と、せつらは訊いた。
危険はないかという意味だ。
「秋さんがいらっしゃれば平気かと」
「じゃあ、お邪魔」
案内するべく先に立ったサテンの光沢の後に二人が続いた。
廊下を進んでいると、一歩が何キロも歩いたような、何十歩進んでも、ようやく一歩としか思えない、奇妙な感覚が身体を捉える。凄い魔術機構だとさくらは思った。
やがて目前に木のドアが現れ、小さな拳がノックした。
「トンブ様、お客をふたりお連れしました」
「誰も入れるなと言っておいたはずだよ。人形の耳はポンコツかい?」
年配の女らしきだみ声は、ひどく根性が悪そうだった。
「うちおひとりは、秋様です」
「……お入り」
しぶしぶといった返事に軽く低頭し、人形娘はドアノブを廻した。
部屋に一歩踏み入れて、まずさくらの目に吸いついたのは、揺り椅子と同化している、大きく膨らんだローブだった。
フードを被った、巨大な肉まんという形容が相応しい顔。ああ、人間だ。ぶよついたミットのような手、スイカを二つ乗っけたような胸、それを胞する言語を絶する肥満ぶり――誰が、どこからどう見ても、正真正銘、完璧なでぶだ。
そのでぶ女が、黒のコートとマントを交互に見て、強欲そうな分厚く幅広い唇をにんまりと微笑ませた。
「へえ、あんたが女連れでうちに来るなんて、今夜は流星群かね。でもデートの相手が乳臭い小娘じゃあ、新宿中の女が血の涙を流すだろうよ」
「この方は秋さんの依頼人ですわ」
軽蔑しきったような視線を向け、訂正する人形娘。
「人形が一丁前に焼き餅お焼きでないよ。ちゃんちゃら可笑しいわさ」
ぬははと豪快に笑いながら巨体を前後に揺らす。さくらには、揺り椅子が悲鳴をあげているように思えた。
「えっと、ボクは芳乃さくら。あなたは?」
及び気味に挨拶すると、太った女は椅子にふんぞり返った。よく潰れないものだ。
「魔道士なら、ヌーレンブルクの家名を知らないとは言わせないよ」
「ヌーレンブルク――!」
さくらは畏怖の声を発した。
チェコはプラハの誇った魔道の栄光。およそ魔法に連なる者でその名を知らぬ者はもぐりである。
「それじゃ――あなたが……ガレーンさん?」
驚愕と困惑が入り混じったような、複雑な視線。チェコ一の魔道士ガレーン・ヌーレンブルクは、秋せつら、ドクター・メフィストと並ぶ、<新宿>触れてはならぬ三魔人の一人に数えられた存在である。それがこんな性悪そうな肥満体だったとは――?
驚きのあまり、さくらは失念していた。先刻せつらと人形娘が口にしていた名前を。
「姉さんは死んだよ」
女は面白くもなさそうに言った。
「あたしはチェコ第二の魔道士、トンブ・ヌーレンブルクさ」
「じゃああなたは、ガレーンさんの妹なんですか」
「ふん、なにホッとしたような顔してるのさ。あんた、ただ姉さんの名前を知ってるってわけでもなさそうだね」
「昔交友があったって、ボクのお婆ちゃんが……」
祖母が魔法と人格双方で誰かを敬愛することは少なかったため、強く印象に残っていた。
「姉さんと交友するほどの魔道士? む、そういやあんたの名字――そうか、あんた、あの人の孫ってわけか。どうりで小娘にしちゃあそれなりの魔力を感じるわけだよ」
「お婆ちゃんを知ってるんですか」
「……それで、あの人は今どうしてるんだい?」
人形娘は耳を疑った。この人が他人の息災を気にするなんて。
さくらはそっと眼を伏せた。
「九年前に……老衰で」
「そうかい。<区外>にふさわしい最期だわさ」
「え、じゃあ――?」
さくらはハッとして口をつぐんだ。――ここは「魔界都市」なのだ。
ある夏の日、<新宿>に四千年の時を超え、四人の吸血鬼が現れた。魔界都市の実力者が総出で迎え撃ったその事件のさなか、窮地に陥ったせつらを救うため、ガレーンは敵の首領である「姫」と戦って果てたのであった。
トンブが<新宿>を訪れたのは姉の死後であり、以来その跡を継いだ彼女が、ヌーレンブルク家の新たな主人となったのである。
「おーい」
不思議としんみりした空気が漂い始めた刹那、春もうららといった眠たそうな声が差し込み、女たちは我に返った。絶妙のタイミングといえた。
「この人がここに厄介になってるよね」
とせつらは写真を見せた。
人形娘は、あっ、と口もとに手を当てただけだが、トンブの反応は凄まじかった。
「あーっ! ああーっ!! あんた、そいつの関係者なのかい」
キレたゴリラのような剣幕で立ち上がると、勢いで椅子までついてきた。尻を振っても離れない。ぴったりはまり込んでしまっている。合体怪獣の誕生だ。
「こら、人形、なんとかおし」
揺り椅子と一体化して喚くでぶを、辟易と眺めながら、人形娘は椅子に手をかけた。
太った女は椅子ごと横転した。引き離すつもりが、うっかり押してしまったのだ。
爆撃に近い地響きを耳に、
「失礼、手が滑りました」
「お、おおお、おまえ、わざとだね!? 召使いの分際でご主人様によくもやってくれたわさ。泥屑に変えて身の程を思い知らせてあげるよ」
「私はまだあなたを主人とは認めていません」
つんとそっぽを向く可憐な容姿へ、でぶった女の呪詛が溢れ出す。椅子は分離していた。
「あの、ええと、アイシアはどうしてこちらに?」
さくらがおそるおそる関心の話題を挟むと、トンブは幾分か落ち着いた様子で振り向いた。
「三日前の晩、妖物に襲われていた小娘を助けたんだよ。見たところ魔道士だったから、そこそこ金目のものを頂戴できるかと思ってね。怪我もしてたから手当てを施してやって一晩寝かせてあげたのさ。目が覚めたら救助代と治療費とベッド代とその他もろもろを前払いさせるようこいつに言いつけておいてね。――で、翌朝ウキウキして結果を聞いてみたら、<区外>から来たばかりで、ろくな持ち合わせもないって言うじゃないか。しかも見習いに近いレベルの魔道士で貴重品のひとつも持ってないうえ、家族もいないから請求すらできやしない。頭にきて放り出そうとしたら、その娘、あたしの素性を知った途端、尊敬に満ちた態度を取るじゃないか。ちょっと気をよくして、代金分を住み込みで働かせてやることにしたのさ。ところが、魔法は人を幸せにするためのものです、なんて面白い妄言を真顔で吐くから、からかい混じりに否定してやったら、手の平返したみたいに楯突いてきやがったわさ。挙句の果てに魔法を暴発させて一部屋吹き飛びかけた。その場で地獄送りにしてやろうかと思ったけど、それじゃ気が晴れるだけで得るものが何もない。どうしたものかと考えを練っているところへあんたたちが来たってわけさ」
よほど腹に溜まっていたのだろう、一気にまくし立てて息づいた。それから、ずしりと、さくらに詰め寄った。
取って食われそうな形相に、さくらは数歩後じさった。すぐに壁際へ追い詰められた。
「あんたあの小娘を捜してここへ来たんだね。なら治療費もろもろ、プラス部屋の損害費用とあたしの精神的慰謝料を代わりに支払ってくれるかい? いやならお帰り」
「トンブ様!」
「黙っておいで。本人が払えないなら関係者が金を出すのが筋ってもんだよ」
揺らめく青水晶の瞳が、窺うようにせつらを見上げたが、自身に関わりがないため知らん顔だ。俯き、冷たいかた、と人形娘は唇を尖らせた。
「これで足りますか?」
出し抜けにさくらが数枚の金貨を差し出した。芋虫のような指先が器用につまみ取る。
「十万円金貨だね。ひいふうみい……五つで五十万。見かけによらず持ってるじゃないのさ」
さくらは<区外>で博士号や教員免許を取得している天才少女で、十七歳ながらそこそこの収支はあるのだった。
暫し考え込むトンブ。一応足りない金額ではないが、もう少し上乗せしてもよさそうだと、欲の皮の突っ張った損得勘定を働かせているのである。
「あと、これはお礼の気持ちです」
さくらが再び差し出したものを、ちらりと見やった瞬間、トンブの目つきが変わった。
「こ、これは、エーテルの砂時計だわさ!」
ふんだくるように手に取ったガラス製の小さな砂時計を凝視し、興奮気味に唸る。人形娘も驚いた様子だった。
「それは?」
せつらが茫洋と訊いた。とりあえず合わせとけという感じだ。
「異界の神が造った街を護る天使の時間を封じ込めた……えい、とにかく<新宿>の質屋に並んでも遜色のない代物さ」
<新宿>の質店には、数億円するダイヤが屑同然の価値しかない――<区外>で一千億円単位の値打ちがある幻燈器などを普通に扱う質屋もある。さくらが差し出した砂時計は、そこのラインナップにも通用するだけの貴重品だった。
「お婆ちゃんが遺してくれたものです」
「そんな、いけません!」
駆け寄る人形娘に、さくらは、ううんと首を振った。
「心からのお礼だから。理由はどうあれ、危険な目に合っていたアイシアを救ってくれた。たぶん、あなたが助けてくれなかったら、ボクにとって取り返しのつかないことになっていたと思うから……だから、本当にありがとうございます」
さくらは、感謝の意を込めてトンブに頭を下げた。
無言で見下ろしていたトンブは、顔色一つ変えず、つまらなそうに言った。
「小娘なら今頃は近くの路地にいるはずだよ。あんな疫病神、とっとと連れ帰っておくれ」
「もとからそのつもりです」
笑顔を見せるさくらの手に、一枚の護符が滑り込んだ。
「あたしの魔力を込めたものさ。持っておいき」
「え、でも――」
「あんたがくれたものに比べりゃ紙くず同然だけど、これで物々交換成立さ。この砂時計はもうあたしのものだ。後で返せって言われても、絶対にお断りだからね」
「ありがとうございます」
さくらはもう一度頭を下げた。太った背中が遠のいても、暫しそのままでいた。
顔を上げると、せつらの姿までなかった。捜し人の現在位置が判明した時点で玄関へ向かったのだ。
苦笑して後を追おうとするさくらの隣に、小さな影が並んだ。
「失礼ですが、アイシアさんをどうなされるおつもりですの?」
「ん? もちろん<区外>へ連れ戻すよ。あの子にこの街は危険すぎるから」
娘は安堵の眼差しを送った。
「是非そうしてあげてください。彼女には<区外>の光が似合っています」
「ドントウォーリー。任せておいてよ」
元気よく頷いたさくらを、人形娘は玄関まで送った。