第二章「僕とボクの昼下がり」
歌舞伎町周辺の一角にそびえる建造物。旧新宿区役所を改装したその建物は、地上十階、地下十階、収容人員は二千人を超えると言われ、<新宿>区民で知らぬ者はいない。
正午過ぎのメフィスト病院――黒衣の美青年は健康診断を終えたところだった。
月二回、秋せつらの診断は院長であるメフィスト自らが行なう。
「異常は無しだ。健康を維持しているようでなにより」
「ご苦労様」
「君の身体のことで私が労われる謂れはない」
「そりゃどーも」
素っ気なく返して、診察室の出入口へ向かうせつらを、勝るとも劣らぬ美貌の院長が後に立った。黒のコートと純白のケープ、どちらの主も身長は百八十に達している。
「ときに、仕事ははかどっているかね」
「お前に答える義理はないよ」
「つれないな。――社交辞令だ」
「僕の仕事は二つある」
「副業のほうだ。昨日、ひとつ依頼を受けたそうだな」
黒衣の足が止まる。じろりとねめつける視線を白皙の微笑が応じた。
「ストーカー法で訴えるぞ」
「社交辞令に答えてからにしてもらおう」
せつらは黙考し、ぽんと手を打った。
「愛と勇気で頑張ってる最中だよ」
今度はメフィストが目を細めた。してやったりといった風貌のせつらへ、冷ややかな眼差しを向ける。侮蔑の凝視と言ってもいい。
「僕などと言う男とはいえ、君の口からそんな嘆かわしい言葉が出てくるとは、世も末だな。恥を知りたまえ」
「うるさいな、受け売りだよ」
「ほう。相手は異性かね」
「どうしてそう思う」
「女という厚顔無恥な生き物が使いそうな、陳腐で浅はかな台詞だ」
「用が無いなら帰るぞ」
「昨夜、四谷二丁目まで往診に赴いた際、重傷を負った娘を救助した。<区外>から来た魔法使いだそうだ」
踵を返しかけた足がまた止まった。
「帰るのではなかったのか」
「回りくどい言い方はやめろ」
「隣室に待たせてある。――入りたまえ」
「あ、こら」
せつらが何か言う前に、ドアの開く音がした。
ストレートロングの金髪を膝まで垂らした、白いパジャマの少女が顔を覗かせる。
「あの、もういいんですか――?」
視界に入った二つの美影身。たちまち焦点の定まらなくなった碧眼が宙を泳いだ。
「あーあ」
言わんこっちゃないといった感じの、ぼんやりした呟き。
仰向けに倒れかけた小さな体は、見えない何かに支えられるかのように、不自然な姿勢で静止したのだった。
「ん……あ、れれ」
首筋にちくりとした痛みを感じ、少女――芳乃さくらは目を覚ました。
廊下に設置された長椅子に座っている自分。どうやら気を失っていたらしい。
無理もない。この世のものとは思えぬ美の具現を、一度にふたつ、それもまともに見てしまったのだ。脳の認識と許容の範囲をオーバーしたのだろう。
「どーも」
「わ、あ、秋さん」
現状を把握していたところに声をかけられ、少しびっくりした反応を返す。
「えーと、あの……」
「あいつなら追い払ったから、大丈夫」
メフィスト病院の院長をあいつ呼ばわりするなど<新宿>では考えられない行為なのだが、<区外>から来たばかりのさくらにその辺は分からなかった。
「それより、この街では注意一秒即死お陀仏だよ」
「あはは……ボクはとても運がよかったみたい」
さくらは苦笑しながら頬に指先を這わせた。瀕死に近い彼女を発見したのがドクター・メフィストという、地獄に仏どころか、地獄に釈迦如来レベルの幸運であったのは確かだ。
「それにしても、この病院は本当にすごいんですね」
最新の医療設備を備え、二十四時間フルタイム、年中無休で病人を受け入れており、各担当医、看護婦ほか食堂の店員まで、スタッフは一流揃い。さらに通常の医局だけに留まらず、<新宿>ならではの妖患病棟や憑依病棟、隔離病棟などの特殊病棟があり、夢科と呼ばれる専門科も存在している。
治療スピードも<区外>とは桁外れで、上半身を深々と斬られたさくらも、一夜で普通に動けるまでに回復した。もちろん肌には少しの傷跡も残っていない。
ただ、さくらの受けた傷は、再生を延滞させる特殊効果が付加されていたらしく、もう一日入院が必要だった。
「でも、院長がヤブだよ」
せつらの発言に、さくらはジト汗を浮かべた。<区民>が聞いたら卒倒間違いなしだ。
院長の腕が超一流であることは、<新宿>の誰もが周知の事実だと、患者の言からも伺える。
「君も本人に言ってやるといい」
「にゃはは……遠慮しときます。たぶん、それが許されるのは秋さんだけだと思うから」
「あいつに遠慮なんかする必要はないよ」
「えーっと、そうだ、この近くにいい喫茶店とかあったら、行ってみたいんですけど、知りませんか?」
無理に話題を切り替えたさくらだが、せつらは気にする風もなく柳眉を寄せた。
「外出していいの」
「許可はもらってるから、夕食時までにここへ戻れば大丈夫。それじゃ、着替えてきますからちょっと待っててください」
返事も聞かずに遠ざかる長い後ろ髪を眺め、せつらは、うーん、と小首を捻った。近くを通りかかった患者が暫し見惚れるほど、芸術的な仕種であった。
十分後、戻ってきたさくらは、ツインテールに黒マントの格好だった。
メフィスト病院から徒歩一分。旧区役所通り沿い、歌舞伎町「風林会館」の一階にある「パリジェンヌ」は、<新宿>を代表する喫茶店として有名だ。
魔震時にさしたる被害も受けなかったというその奇跡は、ローマ法皇庁によって千何百番目かの「奇跡」に公認されているらしい。
歌謡曲が流れる明るい店内で、一箇所のテーブルが客や店員の注目を集めていた。
「いいんですか? 付き合ってもらっちゃって」
「連絡待ちのついでだよ」
芳乃さくらと――秋せつらである。
「嬉しいような、嬉しくないような……」
せつらと喫茶を一緒にするということに不安を感じたが、それはまったくの杞憂だった。嫉妬の念を抱かれるどころか、視線の集中にさくらは眼中にも入れてもらえなかったのだ。
複雑な気持ちでオレンジエードをちゅうちゅう飲りながら、せつらの前にあるグラスを見る。
クリームソーダ。
似合っているのかいないのか――思わず苦笑いを浮かべつつ、
「甘いものが好きなんですか?」
「どうして」
「そんなに綺麗なのに、かなりのギャップというか」
「飲み物の好みで人を決めつけるのはよくない」
「にゃにゃぁ、そりゃそーだっ」
どこか楽しそうなさくらだった。
メロディーが鳴った。
機嫌の良さそうな依頼人を前に、せつらは携帯を耳にあてた。
「外谷です、ぶう」
「何か?」
「何かとはなんだわさ。依頼された件に決まってるわさ」
「失礼。――それで、わかったの?」
「高田馬場「魔法街」に該当者がいるね。三日前からヌーレンブルク宅に厄介になってるみたいだよ」
「へえ」
少し意外だったのか珍しそうな声を出し、
「ありがとう、請求書を確認してから振り込んでおく」
「毎度、ぶう」
新宿一の女情報屋からの電話を終えると、せつらはクリームソーダを一気に吸い始めた。
「どうしたんですか、急に」
「捜し人の居場所が分かった」
さくらもオレンジエードを凄い勢いで吸い上げた。
二人して席を立ったところへ、
「おい、ちょっと待てよ」
軽薄そうな若者が絡んできた。合わせるように腰を上げる、その数ざっと八人。
「お前らが席を立ったせいで俺らの飲みもんがこぼれちまっただろーが」
リーダーらしき鼻ピアスが、頭の悪そうな因縁をつけてきた。明らかに故意である。
改造型のリボルバーやマグナムやらが彼らの手に握られていた。
「あの……すみませんが、喧嘩や撃ち合いでしたら、店の外でお願いします」
少し離れたところで、ウェイトレスが申し訳なさそうに頭を下げた。言葉の内容に目を丸くしたのはさくらだけだ。
せつらはすたすたと歩み、レジカウンターに代金を置いて店から出た。さくらもそそくさと後に続いた。当たり前なのだが、割り勘というところがちょっぴり寂しかった。
風林会館をバックに、二人は九人に取り囲まれた。
「さあ、たっぷりと落とし前をつけさせてやるぜ」
にやにやと口もとを歪ませる少年たち。視線は主に黒コートの長身へ注がれており、世にも美しい顔をめちゃくちゃにしてやりたいという、屈折した情欲に瞳が揺れていた。黒マントの少女に関しては、軽く輪姦して売り飛ばすか程度の扱いである。
そのさくらは、この状況をどうしようか思案していた。
魔法で何とかしようにも相手の数が多い。飛び道具が厄介だから、上手く隙を作って――そんなことを考えている以上、荒事面でせつらを頼りにしていないのは明白だった。美貌のせんべい屋兼人捜し屋では、凶器を伴った暴力に敵うはずがない。
しかし、ここは<新宿>である。
「手足を落とされたくなかったら、さっさとお家に帰ることだ」
せつらがこう言ったとき、相手だけでなく、さくらまでもがきょとんとした。
数瞬の間を置いて、少年らに爆笑の渦が湧いた。それほどせつらの声には迫力がなかったのである。春風駘蕩とした顔と茫洋極まりない声で威圧されても、ギャグにしか思えない。
「ははは、笑わせてくれるじゃねえ――かッ!?」
近づいてきたリーダーの鼻ピアスが、突如、体を硬直させ、苦しげに喉をかきむしった。
あが、が、と間抜けな金魚のように口をぱくぱくさせ、全身を痙攣させたのだ。
「なっ!? てめえ、なにしやがった!」
残りが即座に銃を構えた次の瞬間、その手首がバッサリと地に落ちた。続いて腕が肩の付け根から消え、膝から下の片足も後を追った。
一瞬で血溜まりと化した路上にぶち撒けられた手足と、のたうち廻る八人を視界に収め、さくらは茫然と傍らを見上げた。
「これ、あなたが……?」
太さ千分の一ミクロン。およそ常人の目には映らぬ、チタン合金すら断ち切る特殊鋼の妖糸によるものとは知る由もない。せつらは微かに指先を動かしただけなのだから。
少女の顔に浮かんだのは、じっとりとした恐怖と――恍惚。鮮血のオブジェにひっそりと舞い降りた堕天使の如き青年の、夢幻のような美しさに酔ったのだ。
糸で首を締め付けられていた鼻ピアスが、白目を剥いて血溜まりに沈んだとき、さくらはようやく我に返った。
店の中から誰かが出てきた。
旧式のデジタルビデオカメラを手に抱えたウェイトレスだった。
「あの、ビデオに撮っておきました。先に手を出したのはこいつらです」
苦鳴を上げ続ける少年たちを指差す。せつらが、ありがとうと社交辞令の礼を口にすると、ウェイトレスは頬を赤くして頭を下げた。
「ま、また来てください……待ってます」
切なげなウェイトレスの声を背に、せつらはタクシーを止めた。
さっさと乗り込んだせつらに手招きされ、さくらは慌てて隣に座り乗る。
鮮血の現場を見やり、ひゅう、と感心の口笛をひとつ吹いて、運転手はタクシーを発進させた。