第一章「さくら、<新宿>へ」


 少女がその都市へ足を踏み入れたのは、残暑の陽射しがすっかりと影を潜めた、ある中秋の日であった。

 なめらかな金髪を、俗に言うツインテール状に垂らした少女は、足首まで掛かる黒マントを身に着けており、身長は百五十を下回っていた。

 そんな一種ミスマッチともいえる格好であるが、この街で目を引くことはないだろう。

 少女は空色の瞳を僅かに細め、小さく身震いした。

「本当に来ちゃったんだ……この街に」

 今しがた渡ってきたゲートを背に、強い意志を込めて、街の名を呟いた。

 魔界都市<新宿>――

 十数年前の運命の日。九月十三日、金曜日。

 後に<魔震>――デビルクエイクと呼ばれる大地震により、新宿区は壊滅的な打撃を受け、妖物が跋扈し様々な怪現象が発生する「魔界都市」へと変貌した。不思議なことに、隣接する地域には一切の揺れも感知されず、<魔震>の被害にあったのは新宿区だけだった。

 少女――芳乃さくらは、何気なく、通り抜けたばかりの西新宿ゲートを振り返った。

<魔震>によって発生した底無しの亀裂は、まるで隔離するかのように新宿一帯を覆い囲んだ。現在、<新宿>へ通ずる道は、西新宿、早稲田、四谷、それぞれ三箇所のゲートに設けられた橋のみである。

「さあて、気合入れないと」

 うん、と背伸びして、歩み出す。観光客相手のレストランや立ち食いスナックなどの店舗を通り過ぎざまに、土産物屋や装備屋を覗いてみる。<新宿>を訪れる人間には必要不可欠ともいえる店だ。

 護符や衝撃波銃など、<新宿>に待ちうける妖物や呪術から身を護るための小道具が並んでいた。近寄って護符を確認してみると、ちゃんと効力のある本物だった。さすがというべきか、思わず感心する。

 それから、観光で来たわけじゃないと思い直し、道なりに通りを進み始めた。

 程なくして辿り着いた目的地は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 西新宿四丁目――西新宿ゲートから程近い場所にある一軒の店。近くに観光バスが停車しているところを見ると、<区外>の観光客たちが殺到している状態らしい。付近の住民は慣れっこらしく、いつものことといった感じで気にも留めていない。

 秋せんべい店。どんな<新宿>の観光案内にも必ず載っている人気スポットで、魔震前から百五十年以上も続く、老舗の味を守った丁寧な仕事が定評あるせんべい屋。

 しかし、訪れる観光客の目的は、せんべいそのものよりも店主のほうであることが殆どだという。大半が若い女性客なのを見る限り、余程のハンサムなのだろう。

 さくらの目当てもまた店主なのだが、店に群がる観光客のそれとは異なる理由である。

「うにゃにゃ……少し間を置いた方がいいみたいだね」

 この様子では観光客たちが離れないと近づくことすらできなさそうだ。

 苦笑いして、仕方なくガイドブックを開いた。



 秋せんべい店から徒歩十分ほどのところにそれはあった。

「うわあ、ほんとにすごいや」

 感嘆の声が喉から沸き上がる。さくらの眼前、二百坪はある広場に、無造作に置かれた黒い塊が陳列している。

 高さ一メートル足らずのものから五メートル以上、数十トンにも及ぶ石の塊の数は三百と七つ。完全な球体や楕円形、萎形、正方形、穴の空いた小石から、怪異な彫刻の施された大岩まで、狂気の芸術家が腕を振るったとしか思えない「作品」が草木一本生えない広場を美術館と変えている。

 ガイドブックに「神の美術館」と書かれたこの奇観は、<魔震>の直後、一週間以内のある日に忽然と現れたらしい。そもそも完全な球体というだけで凄い事であり、専門家たちから激賞された傑作揃いというのも頷けるばかりだった。

「さてと、そろそろ頃合かな」

 自然の生み出した作品群を存分に鑑賞したさくらは、本来の目的を全うすべく、来た道を足取り軽やかに戻り出した。



「うーん、美味しい!」

「どーも」

 卓袱台をはさんで、弾んだ賛辞と、茫洋とした受け答えが交わされた。

 秋せんべい店の奥にある六畳間。

「秋DSM(ディスカバー・マン)センター」――秋人捜しセンターのオフィスである。

 今しがた賛辞を呈した固焼きを噛み砕き、煎茶の入った湯飲みを一口やると、さくらは、対面に座する黒ずくめの店主を見やった。

 目が合いそうになり、慌てて逸らす。また、頬が赤くなった。これで何度目だろうか。

 明確なのは、眼前の青年が、美しい、ということだけだった。それしか形容のしようがない。数秒も視線を合わせようものなら、心ここにあらず、となってしまう美貌なのだ。

 先刻はじめて顔を見たときは、思わず腰が抜けそうになってしまった。その美しさに異論を唱える者は<新宿>どころか世界中を探しても見つからないだろう。

 秋せつら――それが<新宿>ナンバーワンと称される人捜し屋の名である。

「顔だけの評判かと思ったけど、煎餅のほうも、ちゃんと美味しいですね」

「はは。――依頼をお伺いしましょう」

「えっと、この人を捜してほしいんです」

 卓袱台の上に差し出された写真の中央で、アッシュブロンドの髪の少女が笑っていた。

「名前はアイシア。この夏に北欧から初音島に来日してきて、暮れに旅立っていった女の子です。一週間ほど前に、旅の便りで<新宿>に行くという知らせをもらって……」

 考えた挙句、さくらはアイシアを捜しに行くことに決めた。

 危険だから連れ戻すために。

「どういった目的でこの街に向かわれたかは分かります?」

「理由は書いてませんでしたけど……たぶん、幸せ絡みじゃないかと」

「幸せ」

 軽く反芻し、

「幸せを求めてこの街へ来る人間はいないよ」

 と、せつらは言った。――<区民>らしく。

「あ、そうじゃなくて、人を幸せにするために……その、魔法使いなんです、この娘」

「はあ」

<区外>なら「はあ?」と返されるところだが、ここは魔界都市だ。魔術や妖術を駆使する者など<新宿>にはごろごろいる。魔道士を用心棒に雇っている暴力団もあるくらいだ。

 気のない声に苦笑するさくらだったが、

「君も?」

 と訊かれ、目を丸くした。

「わかるの?」

「定型に過ぎるけど、格好で」

「うにゃ……納得」

 黒マントである。あまりにもベタベタだが、確かに魔法使いのイメージだ。

「それで、引き受けてくれますか?」

「承知しました」

「よかったぁ。あと、これがボクの連絡先」

「では、僕への連絡はこちらに」

 携帯の番号を書いたメモを交換し、ふと、さくらはきょとんとなった。

 僕――せつらの一人称。

 小春日和という単語がふさわしい雰囲気には、確かにマッチしている。

 ただ、天上の彫刻家が、全身全霊を賭して彫り上げたような美貌には、私、のほうが合っている気がした。

 そんな思考を振り払うかのごとく、

「ところで、確信犯ですよね、アレ」

「あれ」

「店の中にあった長椅子。秋さんを見て失神した女性が横になる為に置いてあるんだと思って。だから、確信犯」

 人差し指を立てて語るさくらに、せつらは、はは、とぼんやりした笑いを返すだけだった。

 どうにも人物像が掴みにくいというか、何を考えているのかよく分からない。

「ま、いいか。それじゃ、よろしくお願いします。お煎餅ごちそうさまでした」

 ぺこりと頭を下げ、さくらは腰を上げた。湯飲みとお茶うけは空になっていた。

 三和土へ降りたところで振り返り、

「愛と勇気で頑張ってください。GOGO!」

 元気に右手を突き上げてみせた。

 外に出ると、既に陽が翳っており、赤黒い雲が地に影を落としていた。神の美術館へ赴く際に通りの向こうに見た「公園」を思い出し、少し背筋が寒くなる。

 新宿中央公園。――区から「最高危険地帯」の指定を受けた場所のひとつ。

 その妖気濃度は極めて高く、敷地内の怪異を挙げればきりがないほどで、<区民>は決して近寄らない。年に一度、新宿警察が行方不明者の大捜索を行なうが、戦車や装甲車で出動した彼等のうち、何割かは帰ってこないと言われている。

「アイシア、どこにいるのかな……無事だといいけど」

 不安を声に乗せ、さくらはタクシーを呼び止めた。



<新宿>には数多くの駅が存在する。魔震後もそれらの線路は残っているが、電車は走っていない。つまり<新宿>の移動手段は、バスとタクシーが主な交通機関というわけだ。

 さくらは四谷ゲートの近くでタクシーを降り、眼前の建物を確認した。ホテル・グレンドン。質素な観光客が主に利用するホテルで、部屋数は二十。宿泊代が一般のホテルより四割も安いという。

 中に入ろうとして、足を止める。<区外>から来た者にとって、夜は「準安全地帯」といえども出歩かないほうが無難だ。先にコンビニへ寄って色々仕入れておくことにした。

 小走りで注意が散漫したのか、通行人に肩をぶつけた。軽く謝って通り過ぎようとしたとき、結構な強さで肩を掴まれた。

「おい嬢ちゃん、痛ぇじゃねえか。どこに目ぇつけて歩いてんだ、こら」

 ひと目でそっち系と判別のつく人相。この辺は魔界都市も<区外>も大差ない。

「だから、ごめんなさいって――あにゃにゃにゃ! 痛い痛いっ」

 抵抗を許さぬ力で引っ張られ、有無を言わさず、人通りのない路地裏に連れ込まれた。

 お約束どおりに金品を要求され、さくらは内心苦笑した。肉体を要求されないのは、中学生以下にも見える身体的特徴のせいだろう。

 少女の顔に、あまり怯えが浮かんでいないことに男が気づいたときは、もう遅かった。

 吸い込まれるような青い瞳に見つめられた瞬間、チンピラの意識に靄がかかった。

「君は、誰にも迷惑をかけずに住処へ帰る。OK?」

 こくりと頷き、きびきびした足取りで歩み去っていく男の背中が見えなくなると、さくらはホッとした風な溜息を吐いた。

 背後で強烈な気配が膨れ上がったのは、そのときである。

 敵意や害意の魔法探知は施しておいたのに――愕然と振り向いた小柄な体躯を、袈裟懸けの斬撃が襲った。疾風のごとく通り過ぎた、襲撃者と思しき影は、鮮血を伴って倒れる少女を見ることもなかった。

 助けを求め、さくらは、地に血を擦り付けて腹這いで進む。こんなところで死ぬわけにはいかない。妖物の餌になるのもご免だ。

 必死の思いで這い進んでいると、通りの入り口近くに誰かが立った。

 ハッとして見上げた顔が、たちまち恍惚と溶けた。

 夜闇に燦然ときらめく純白のケープ。腰までかかる髪は黒い宝石を滑らかな糸状に引き伸ばしたかのよう。

 そして何より、痛みすら忘却するほどの美しさ――西新宿のせんべい屋と並ぶ唯一の美貌に。

 突如、蒼黒く染まった雲が左右に開けた。眼下の美影身を彩るのに自らの役者不足を嘆いたかのように、群青の星空へその役割を譲ったのだ。

 秋せつらが春の陽を思わせる美貌なら、この男のそれは冬の静謐さを湛えたものだといえる。

「求めるか、助けを。――求めるか、医の救いを」

 声が降りた。男女の性別を問わず、どころか、妖物や無機質なものまで魅了してしまいそうな、ぞくりとするほど中性的な硬質の声が。

 さくらは、陶然とした顔のまま、はい、と生への意志を示した。

「よかろう。――我が患者よ、ドクター・メフィストは私を選んだものを決して殺しはしない」

 ああ、植物人間状態の患者さえ希望の表情を浮かべそうな、その微笑。

<新宿>でその名を知らぬ者はいないと言われる、稀代の名医。

 ドクター・メフィスト。

 魔界医師。