第五章



 午前一時。日は疾うに落ち日付すら変更されて肌寒くさえある中、三人は指定の場所に確かに集まった。三者の表情はこれから起こる事を予想してか、一様に暗い。可能な限り後回しにしてきたツケを遂に精算する時、避けられないし逃げられない事を分かっているからか。

「さて、彩菜君にも分かる様に私が魔族について説明しよう」

 壁面に身体を預けたルシカが口を開く。

「魔族とは、魔に対して親和性を持った生き物なのだ。生の魔力は生物体に対して有害であると言うのが定説だが、この魔族と言う生物には当て嵌まらない。その名の通り彼らは呼吸をするが如く魔力を取り込み、手足を動かすが如く魔力そのものを操作する」

 彩菜も紫十郎も口を挟まないが、聞き手に回っている両者には差があった。つまり心的ストレス、心象の奥底に溜まる怒りの総量である。持って回った言い方を好きになれない彩菜は、激しやすい己を制御する為に目を閉じた。何の為の説明かは分からなかったが、彼女の人間観からしてルシカの様な人間は決して無駄な事はしないと思ったからだ。

「だが魔族に対して判明している事は、それだけなのが現状なのだよ。研究が進まない原因の一端には魔族達の個体差が大きすぎる事と、個体数が非常に少ない事にあった」

 ルシカの視線が、彩菜に向く。

「数十年前、ヴェルフェニアを恐怖に陥れた『蒼霞(アオガスミ)』と言う魔族は不特定多数の人間に己の因子を埋め込み、意のままに操る能力を有していた。本体の強さがそれ程でも無い代わりに人間を生きたまま造り替え、己の先兵とする能力が突出していたのだよ。当時の帝国最強の部隊、アルミナス=ベスカティエ率いる『静刃(サイレント・ブレード)』を主力とした討伐隊が軍・民双方に多大な被害を出しながらこれを撃破。現在、これを『蒼の災害(ブルーハザード)』と呼称している。歴史の授業ではここまで詳細に習わなかっただろうがね」

「ルシカ先輩は何が言いたいんですか」

「分からないかね?」

 その冷たき言い口に、彼女は言葉に詰まった。己の体に起こっている事など知っているのだ、分かっているのだ、理解しているのだ。だからこそ、だからこそ否定して欲しかった。彩菜の目が見開かれ己の手を、身体を恐ろしげに見詰める。自分に何が起こっているか、察した様だったがルシカは構わず続ける。正しく理解し、受け入れさせる必要があると思うからこそ。

「だが『蒼霞』は死の間際、大量の因子を撒き散らした。目撃者の証言によると巨大な菌類が爆発して胞子をばらまいた、と言った感じだったらしい。『蒼霞』の影響を一番受けたのは奴に止めを刺したが故に、最も近くにいたアルミナス=ベスカティエ、現在ではその血を引き継ぐアルミナス=リエン」

 ルシカの口より語られる事実は、彩菜にとって悪夢の具現でしか無いのだ。耳を塞ぎたい、彼女は心から思う。だが情報を遮断するだけでは根本的な解決に何の役にも立たない事は分かり切っていた。絶望するしかあるまい、己の身に起こっている変化よりもリエンは更に地獄の渦中で泣き叫んでいたのだ。自らの業に気付く事も無く。

「彼女の祖父や親では『蒼霞』の因子とは相性が悪かったのか、発現しなかったが彼女の身体には『蒼霞』の核が形成されつつあるのは各研究機関からの報告により判明している。『蒼霞』の核は宿主の意思とは関係無くその本能に従って、彼女に近しい人間の兵器化を開始する」

「嘘」

「君の異常としか言い様が無いその力、どう説明しようと言うのかね」

「……っ」

 反論など出来よう筈が無いでは無いか。思い当たる節は幾つもある。力自慢の男子生徒三人を軽くあしらう事など、果たして喧嘩の才能があるとしても女子生徒一人に可能な所行であろうか。

「ただ問題が無い訳では無かった。体液を媒介として因子を埋め込む『蒼霞』が広く感染する為には、宿主が友好関係や恋愛関係をなるべく広く持っている事が不可欠だった。そしてもう一つ、魔法の才――宿主自身が多少なりとも魔力を操る事が出来る事が必要だった。だがアルミナス嬢にはそのどちらも持ち合わせてはいなかった。そこで『蒼霞』の核は本能に従い一計を案じる」

 彩菜に声が届いているのか、定かでは無い。だが口を休める事はルシカには出来無かった。もし彼女が自分達を殺そうと飛び掛かって来た場合、免責される為に必要だからだ。

「己を感染させる能力を有した手駒と兵士として自分を護る存在の作成、アルミナス嬢の場合は魔法の才の関係上それらがイコールで結ばれているがね。つまり、君だ」

 ルシカの視線の先にいる――否、在るのは古都 彩菜。完全な魔族の先兵となるまで後僅かしか時間が残されてはいない彼女は、己の頭痛を抑えるかの様にその場にうずくまった。人生を嘆く時間は僅かではあるが、ある。懺悔する時間も、恨み言を残す時間もある。

 だが、彩菜には明日を拝む時間は与えられていなかった。

 ルシカと紫十郎、二人はほぼ同時に懐から拳銃を取り出して安全装置を解除する。一秒と掛からずに、彩菜の胴体中心へと照準を合わせた。慣れた手付きだ、彼らは他にも似た様な事をやっているに違いなかった。


日が落ち懐中灯すら落とされて闇に沈む中庭では、黒光りする筈の拳銃が彼女には殊更深淵の具現にすら思えてくる。対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)の正式採用装備、コルレット社製自動拳銃『ブル・ショット』。人体を破壊するには充分過ぎる程の凶器である。総弾数を犠牲にして威力を高めたそれは、重戦車(ブル)の名を冠する通り人間に向けるには余りに殺傷力の強い拳銃と言えた。だがそれは文字通りそれは殺人の為に作られた、殺人以外の用途を成さない凶器だ。

「君が生きていてはいけない理由、分かったかね? では死んで貰おう」

 ルシカの長話が終わり、銃声が合図となった。

 そう、一筋縄ではいかぬと言う事実をルシカに知らしめる為の。

 背後から銃撃を受けたルシカが堪らず冷たいタイルの上に倒れる。その方向に目をやれば、黒光りする銃身が中庭の窓から覗いていた。武装警備員の散弾銃が、長話に気を取られていたルシカの背後を襲ったのだ。暗がりだからか、照準は彼の心臓部を外れて脇腹に命中している。全ての散弾が命中した訳では無い様だが、鮮血が彼の服を、タイルを、芝生を汚す。

 彩菜が己に宿る力を使い、文字通り目にも留まらぬ早さで紫十郎に迫る。その四肢が銃座付きの大型ライフルによる銃撃に匹敵する程の凶器である事は、彼らは十分に理解していた。左右のステップはとても知覚出来るスピードでは無い、元々距離が無かった事もあって紫十郎の拳銃と言う利は一瞬にして失せる。

 大蛇を思わせる彩菜の右脚が彼の頭部を狙う。ガードする暇すら無い。彩菜は一撃で紫十郎を倒す、いや殺すつもりだ。為す術も無く爪先が遠心力と体重を伴って強力な鈍器と化し、目標を薙ぎ散らすべく迫る。

 ハイキックが辛うじて避けた紫十郎の頭頂を掠め、髪を薙ぎ散らして血を滲ませる。回避したとは言え尻餅を付く形となり、バランスを崩した彼に彩菜はそのまま踵を振り下ろした。避けられるタイミングでは無い、勝利を確信したその時彼女は自分の足首に違和感を覚えた。

 重さの無い粘液が足首に絡み付いている様な。

 危険を警告する身体に従って咄嗟にバックステップで距離を取った時にはもう遅い。彼女の右足首がおかしな方向に捻られていた。後から激痛が彼女の神経を通して迫り上がる。

「ヴェルフェニア帝国の仇敵たるトリアム王国を恐怖に陥れた魔族『ルビコン』の血を引く俺の能力は、魔族が行う様な感覚的・直接的魔力操作。彩菜の足首の健は俺が魔力を以て捻じ切った」

 ゆっくりと立ち上がった紫十郎の唇が見る間に愉悦に歪む様を見て、彼女は腹の底が寒くなった。それが魔族の特性故か、彼個人の特性故かは分からない。彩菜の身が固くなる。今までの敵とは根本的に違う、そう『蒼霞』の本能が、そして喧嘩で鍛えた彼女自身の勘が告げていた。

「再開だ、殺し合おう。生き残らんが為に」




 ルシカは銃撃を受けてからすぐに立ち上がり、可能な限りの速度で中庭と建物を繋ぐドアのすぐ横の柱へ滑り込んだ。ここならば銃撃の死角になり、ひとまずは安心出来るのだ。脇腹に手を当て、精神を集中して熱を喚び出して傷を強引に溶接する。教師会から支給された防弾ベストのお陰で致命傷にならずに済んだのはただの僥倖だろう。苦悶が口より漏れるが、構わず魔法によって生まれた熱を押し付けた。汗が彼の全身を濡らす。油断していたのだ、これは完全にルシカが招いた失態だった。

 リエンを実際に見て魔法が全くと言って良い程使えず交友関係も殆ど無い所から、先兵は精々彩菜と他教師や生徒数人だと思い込んでいた所にルシカの失敗はあった。武装警備員は普通他者と接触しないが、教師達との間に交流が無い訳では無いのだ。彩菜が第三医務室に入る前に感染能力を何も知らぬ他の教師や生徒へ譲渡していたとしたら、彼らが与り知らぬ所で感染が拡大する。考えてみればそれは十分に考えられる選択肢だった。知らずに己の能力に過信していた事を彼は思い知らされたのだ。

 ドアの向こうで、近くなる足音が聞こえる。恐らくは先程ルシカを銃撃した武装警備員。見た所、高性能なのは彩菜のみだと言うのが救いか。足音を殺す事も、走ってルシカの逃走を防ぎ更なる窮地に追い込もうともしない。だがその推測もたった今破られた直後で何処まで信用して良いものか、いずれにせよ状況は時間が経つ事に悪化していくのだ。

 足音がドアの前で止まる。ルシカはその人物が入ってくる前に持っている拳銃を二連射し、すぐに身体を引っ込める。紫十郎とルシカの持つ『ブル・ショット』はその名に恥じる事の無い威力を以てドアを貫通したが、敵を殺すには至ってはいないだろう。新素材の軽合金製のドアと最新型防弾ベストの両方を貫通して人体に損傷を与えられる程の威力は期待出来無いからだ。

 そのルシカの考えを裏付けるかの様に散弾が反対側からドアを貫いて近くの窓ガラスを、中庭の壁を穿った。間を置かずに敵がドアを蹴破って突入してくる。その瞬間を狙いタイミングを合わせ、彼は反撃の隙も与えずに敵の頭部へ照準を合わせて二連射。敵の散弾銃は重量や形状の関係で、当然ながら拳銃よりも取り回しが不便である。故に彼の早業に対応出来る筈も無く、装甲の薄い頭部に銃弾を撃ち込まれて後ろに倒れ込んだ。

 だがルシカの戦いはそこで終わらなかった。

 頭部を破壊された筈の武装警備員は傷口から脳細胞と血の混合物を垂れ流しながら身体を起こし、ルシカに銃口を向けて発砲してきたのだ。濁った瞳は明らかに死者のそれだが、『蒼霞』の因子が死者の安息を許さないのか。今更ながら彼は『蒼霞』が当時のヴェルフェニアに多大な被害を及ぼした事に実感を持った。

 武装警備員の照準から逃げ回りながら、ひたすら目標に銃撃を加える。だが敵の攻撃から逃げ回りながらだと、そして明かりの無い真夜中では幾らルシカが銃の扱いに慣れていたとしても命中率は激減する。発砲した三発の内一発は近くの芝生を抉り、一発は防弾ベストに阻まれ、敵の肉体に潜り込んだのは僅かに一発のみ。

 彼は射線上を阻む壁に隠れて、弾倉を交換する。こんな時焦らない様に、冷静に対処出来るのは彼の強みである。敵は彼が目の前から姿を隠している間に立ち上がって再び散弾銃を構えてルシカの逃げた方向へ歩き出す。『蒼霞』に侵された時点で理性的な思考などある筈が無いが、脳と言う情報集積や処理を一手に引き受ける場所を破壊されてその傾向がより顕著になっていた。何より生物の体液の流れに沿って宿主を操る『蒼霞』にとって、体液の流出は好ましい事態では無い。彩菜から受けた指令は最初の銃撃のみだったが、今は『蒼霞』の本能により身体を傷付けたルシカを殺す事が第一目標に切り替わっている。

 誰がどう見ても致命傷確定の傷を負わされ、頭部から汚らわしさを助長する桃色の液体を吐き出しながら敵が近付く。ホラー映画も真っ青のこの状況、常人なら発狂してもおかしくはないがルシカは違った。冷静に状況を分析し、次手を考えている。

 ルシカは魔族『トライトン』の影響を受けて、人間らしい感情が欠落していた。曖昧な好悪が感じ取れるだけで人間味が無い自らを、高性能な作業機械と言っても良いとすら彼は考えていた。趣味となっている発明も、元はと言えば人間的な感情を取り戻す為にリハビリ的に行っていただけだ。今では感情らしきものを模す為の表現方法を身に付けてはいたが、本質は変わっていない。その代わり彼は紫十郎よりも精密に魔力を操作する術を得、また感情に左右されない冷静な思考を得た。

 空になった弾倉を放ると、ルシカと誤認した敵が銃撃して粉々になる。破片が彼の頬を掠めた瞬間、彼は敵の前に飛び出し、残弾全てを敵の首回りに叩き込んだ。如何に敵が魔族であれ人間の身体を使っている以上は、全身に力を送り込む血液が無ければ動かし様が無い。そう考えたのだ。

 ルシカは距離を取って血の雨から防護されていない頭部をコートで庇う。既に魔族『トライトン』の影響下にある彼が『蒼霞』の影響を被る可能性は低かったがまだ未解明の所が多い魔族の事である、万が一が起こってしまっては遅い。

 動脈を破壊され、身体を動かす術を失った敵はしばし痙攣した後、重く柔らかい音を立てて芝生に倒れた。自らの鮮血にまみれた武装警備員が身を起こす事は無い。予想通り行動不能になるくらいに出血を強いれば倒せるらしい。一息吐こうとしたその時、ルシカは不意に危険を察知して弾かれた様に左にステップする。ガラスが割れるけたたましい音と共に死の使いたる銃弾の塊が彼の一瞬前までいた空間を抜け、武装警備員の死体に命中し距離を置いて少しだけ散らばった多数の弾丸が、残りの血液を弾き筋肉組織を防弾ベストごと破壊した。

 間一髪、散弾の内一発が掠った頬に血の珠が出来る。

 『蒼霞』の先兵が一体死んだ事が他の先兵達にも伝わったのか、それとも彩菜の指示で集まったのか。どちらにしろ駆けつけた増援相手に再びルシカは立ち向かわねばならない様だった。それも今度は学園の生徒や教師の姿らしき人影も見える。一対多数の複数戦になるらしい。

 ルシカは先程の銃撃で薄く切れた頬から流れる血を拭い、次に起ころうとしている戦いに対して冷静に思考を切り替えた。




 鋭い呼気が繰り出される度に彩菜の膝が折れ、彼女の顔が苦痛に歪み身体が地に着きそうになる。一撃一撃も先程の様な精彩は無く、学園の生徒ならばまず当たる事はあるまい。ましてや魔族『ルビコン』の影響を受けた幽 紫十郎が相手である。手負いで戦闘を継続するには相手が悪すぎた。


左拳を避けたついでに脚払いを掛けられ、転倒する彩菜。元より彼女を始末しようとしている紫十郎が転倒した彼女に手心を加える筈など無い、狙いを彼女の胴体に定めて拳銃の引き金に掛かる指に力を込める。


間一髪。銃弾が彩菜の数ミリ横の芝生を抉り、穿たれた緑が小爆発を起こす。彼女もまた人間である事を止めた者である、激痛に苛まれながらも致命の一撃だけは食らうまいとそのまま横に転がって距離を取りバックステップで立ち上がった。

 体力を削り取られ肩で息をする彩菜と、冷静に拳銃の弾倉を交換しながら彼女に対する警戒を怠らない紫十郎。最大の武器である機動力を奪われ、敵は戦闘に慣れ圧倒的優勢であって気負う事も無い。壁に囲まれた逃げ場も無く圧倒的不利な彩菜の状況は、常人ならば己を嘆き敵を呪い、死を覚悟する場面である筈だ。

だが瞳の奥にある光は、まだ彩菜が諦めてはいない証拠。


彼女の裡に燃え盛る生の魔力は、闘志は、『蒼霞』としての意志は彩菜自身の在り様を確実に蝕みながら敗北を拒否した。

「負けない」

 誰に言っているのか。真夜中の中庭、対峙しているのは彼女の敵であって話を聞かせる相手では無い。自らに言い聞かせる様に、同じ言葉を小さく呟いた。

「私はリエンを護るから、絶対に護るから、絶対に負けない!」

 歯を食いしばり、左足の力のみで跳躍して一気に紫十郎との間合いを詰める。真夜中で懐中灯の光源すら落とされており、闇は深く濃い。そんな中拳銃の照準を合わせて当てるのは、実は相当な熟練者で無くては不可能な芸当である。彼が発砲を控えるのは手を抜いているのでは無く、限りある銃弾と言う彼の武器を有効に使う為なのだ。

 そして彩菜もまた魔族『蒼霞』としての特性の幾つかを保有していると仮定するならば、彼女に素手で触れる事すら危険を伴う。

 故に彩菜が紫十郎に対して飛び掛かってきた場合、彼としては一端避けるしか選択肢がないのだ。精彩を欠く彼女を躱し、避け様彼は拳銃を構えた。

 着地予想地点、つまり彼が一瞬前までいた筈の地点に対して銃火が爆ぜる。一度、二度、三度と続けざまに襲い来る死神の鎌はタイミングを外し、少しずつ着弾地点を違えながら彩菜に吸い込まれる。一撃目は彼女のこめかみを掠め、二撃目は右太股、三撃目は肋骨を行きがけの駄賃の如く砕いても止まらずに内臓をズタズタに引き裂く。衝撃を対象物に全て伝える為の軟性弾頭が彼女の体内に留まった。

 痛みは無く、ただ白い靄が彼女の脳内を占拠した。

 彩菜の体内から、熱い流動物が込み上げた。堪らず吐き出したそれは粘性が高く、鉄の匂いのする生命の証。限りある生へしがみつく為の雫だ。

 ――これが、死。拙いわね、リエン。

 心の中で語り掛ける彩菜には、世界が酷く遠く感じられた。彼女の妹の様な存在が、大切な存在が、護るべき存在が、リエンがいる世界が異世界に思える。つい先程護ると宣言した事すら、最早朧だ。短い人生経験の中で、感じた事の無い圧倒的な睡魔が彼女の頭の靄を一層強くする。

 白い。今この瞬間は間違い無く真夜中の筈なのに、どうしようもないくらいに白い。それは闇の白さか、或いは死の白さか。

 無表情のまま死の象徴たる銃口を突きつける紫十郎が辛うじて見えるが、顔が良く分からない。今正に己が死の瀬戸際に立たされていると言うのに、彩菜の心境はまるで他人事だった。自分の命が消される事よりも、自分が酷く眠い事に彼女の関心は移っていた。

 その時、声が聞こえた。

 ――何。

 声では無い。だが確実にそれは彼女に語りかけてきていた。

 それは純粋で、純粋すぎるが故にヒトの言語に成り得ない想い。生命が発する事の出来る限界をも超えた無音の絶叫、それは紛れも無く魂の語り掛けだった。


――タスケテ


 本当に『声』がそう言ったのかどうかは、それを感じ取った彩菜にも分からない。だがそれは純粋な、生への執着だった。彼女に対してだけ囁かれた、藁にも縋る必死の想いだった。胸を打たれた、そう表現して良いものか。無我の境地と言っても良い程に心の中が空洞だった彼女が耳を傾けた真意が何だったのか、それは彼女自身にも分からないだろう。

 ただ彼女はその言葉(点ルビ)に、手を貸した。




 敵は全部で十人弱、共通点は全員が『蒼霞』に感染しているらしいと言う事実を除いて存在しない。女もいる。男もいる。教師もいる。生徒もいる。警備員もいる。用務員もいる。『蒼の災害』当時は、かなりの数の人間が『蒼霞』の手先として帝国軍と激戦を繰り広げたらしい。それを鑑みると今回はかなり小規模な数と言えた。

 やはり『蒼霞』の本体とも言える核を保有するアルミナス=リエンが覚醒していない故に、感染能力も本来の力を取り戻せてはいないのか。

 それでも彼には、その人数は驚異である。敵の中には、先程殺した警備員と同じ装備をした者もいる。あの敵の制圧よりも殲滅に重点を置いた銃火器――ヴェルフェニア内でシェアをコルレット社と二分する銃火器メーカーの老舗アグニ社の傑作散弾銃、『アグニ九十五式』で撃たれれば流石に命が危ないのは魔族『トライトン』の能力のいくらかを受け継ぐルシカとて同じだ。

 『蒼霞』の命令が曖昧なのか、それとも本能に従っているからなのか、或いは単純に『蒼霞』の因子だけでは人間の身体を効率的に動かせないからなのか。走る事も、身を隠しながら行動する事も、数や銃火器による戦術を駆使する事もしない。敵が常に直線しか行動しない事がルシカの命を救っていた。

 動く屍体の如く、敵を自らの攻撃範囲に捉えたら形振り構わず攻撃に移る。その様にプログラムされた機械なのだろう、とルシカは推測した。

 ルシカは機を見て中庭から廊下へ飛び出した。背後から迫り来る散弾の一発を左肩に受け、少なくない衝撃と苦痛をその身に感じながら一番近い柱の後ろに彼は隠れた。戦場を殆ど遮蔽物の無い中庭から廊下に移した事で、敵に狙い打ちにされる事は無くなった。だがそれは即ち、中庭で未だ戦闘を続ける紫十郎を危険に晒す事に直結する。

 彩菜は強い。それは前に一度だけ殴り掛かられただけのルシカも感じていた事だ。彼女は幾ら紫十郎が強いと言えど散弾銃の広い攻撃範囲を避けながら戦える様な、軽い相手では無いのだ。そして他の尖兵達をあしらいながら打ち倒せる程に油断出来る相手でも無い。

 散弾の破片を受けた左肩が疼く様な痛みと共に発熱しだした。教師会から支給された防弾コートが意味を成し、弾が貫通する事は無かったが直に肩が上がらなくなるかも知れない。そうなれば、今までの様な正確な射撃が出来なくなってしまう。紫十郎の命が掛かっているのだ、ルシカはそう自分に言い聞かせた。

 銃火が真夜中の校舎を一瞬照らすと、『蒼霞』の尖兵共からの応射が来る。床のリノリウム材が抉れ、壁面が削れて白粉となって闇に同化する。近付く足音、全員が自分の方へ近付いている確証は無かったが今は出来るだけ紫十郎の戦っている中庭から尖兵共を引き離す事が先決である。

 そして一直線の廊下に誘い出し、一気に片を付ける。コートのポケットに入っている彼の奥の手を、ルシカは布地越しに触れた。呼吸を整え、酸素を身体の隅々まで行き渡らせる。正確に自分に出来る事をこなす、彼にはそれしか残されてはいないのだ。

 残弾を数え、もう一度敵の群れに向かって発砲。律儀に返ってくる応射。十人弱もの人数がいる為、一々狙いを付けなくとも当たってくれるのが救いと言えば救いか。空になった弾倉を予備の物へと交換しふと顔を上げた正にその時、ルシカの身体は座ったまま反射的に四十五度角度で射撃姿勢を取る。交換し終えた弾倉を一瞬で空にする程の勢いで、火薬の花弁が咲き乱れた。

 自ら作り上げた血と肉片の池の中に倒れる女生徒。寝間着なのだろう、彼女のピンク色のパジャマは深淵の中で血を吸ってどす黒く変色している様にルシカには見えた。勿論それがただの女生徒では有り得無い事を証明する様に、拳銃の猛射で取れかかった目玉を、胸に腹に肩に太股にと無秩序に穿たれた暗い穴をそのままに上体を起こし、抵抗する獲物であるルシカを無事だった方の目で補足する。

 ルシカを睥睨する無表情、それは恐怖の具現である。常人が見る事も想像する事も叶わないその情景は吐き気どころか、発狂死しかねない精神的威力を秘めていた。異常の更に埒外と言うしかない状況を、感情の欠落した彼は冷静に分析する。

 彼の視線の奥、女生徒の動く屍体の先には同じ様にルシカを狙って歩く影が二つ。後ろには先程から銃撃戦を繰り広げていた十人弱の『蒼霞』の尖兵共。血まみれな事を全く頓着せずに立ち上がろうとする眼前の敵。残りの予備弾倉は一つポケットの中に入ってはいるが、今この場で空の弾倉と交換している暇は無い。これ以上無いくらいに万事休すだった。

 太股の筋組織を軟性弾頭による至近銃撃で破壊され、目の前の敵が上手く立ち上がる事が出来無くて藻掻いている内に次手を考えねばならない。時間を掛ければ別の敵がこの場に到達し、またそうでなくとも目の前の尖兵が這ってルシカに近寄ろうとするかも知れない。力比べではやはり人間の限界まで力を引き出していると思われる敵に分がある。

 彩菜と同じだけの超人的な力で噛み付かれでもしたら、人体など容易く千切り取られてしまうだろう。

 事実を認識し、彼は敵を刺激しない様にゆっくりと立ち上がった。拳銃から空になった弾倉を取り出して銃火器で武装した尖兵へと転がす。それは一種の賭けだったが、見事功を奏した事を示す銃声が廊下に響いた。

 銃声が聞こえた直後、ルシカは駆け出した。敵がこちらの意図を正しく理解する能力が無い事、己の装備を理解していない事を突いた作戦である。敵の武装である散弾銃『アグニ九十五式』は確かに優秀な銃火器ではあるが、手動で排夾せねばならぬ構造の為に連射性能が低い。そして己に向かって敵が転がした物体、つまり空弾倉が危険な物であるか否かを確かめずに「自分に近付く物体」と言うだけで銃撃。手動で次弾を装填するまでの短い間に隙が出来るのだ。

 だがそれでも次の曲がり角、いや次の柱まで移動する時間にすらなら無い。すぐ側まで迫っている二体の尖兵も自らの顎にルシカの筋肉組織を挟み込まんと、外れるのでは無いかと言う程に口を大きく開け、両腕を彼に突き出した形で迫ってくる。

 運命の時だ、極限にまで研ぎ澄まされた集中力が迫り来る敵をスローモーションでルシカに見せる。突き出された両手には捕まってはいけない。


二体の敵を文字通り紙一重で避け、相手と背中合わせになって散弾銃を回避――出来無い。


血溜まりから立ち上がれずにいた女生徒の成れの果てが、彼の足首を万力の様な力で締め付けていた。その無惨な顔が嘲笑している様に見えるのは果たして気のせいか。その場から動けずにいるルシカを捕らえた尖兵の異様に冷たい手が彼の肩に掛かり、唇の端を割きながらより一層大きく口を開いて噛み付いた。


名状し難い痺れがルシカの神経を侵す。それが痛みだと頭が理解するよりも早く彼はもう一体の足を引っ掛けて転倒させ、噛み付かれたまま強引に後ろを向いた。


その直後だろうか、銃声と重い衝撃がルシカの背中に響いた。続いてぶちぶちと自らの筋組織が噛み千切られる感触が激痛となって彼を貫いた。拳銃の銃床で彼の身体を貪る尖兵のこめかみを思い切り殴り付けて、次の柱へと移動する。足首を掴んでいた敵は既に力尽きたのか、その場にくずおれて動かなくなっていた。


息が荒い。後方からの銃撃はルシカに噛み付いていた敵を盾にしていたので無傷だが噛み付き自体はそうはいかない、重要な血管の幾つかが敵の咥内へ移動してしまった。脇腹の傷も応急処置をしたものの、内臓を損傷している可能性がある。左肩も実は亀裂骨折くらいはしているかも知れない。どちらにしろ、もう左腕は力を入れても殆ど上がる気配すら無い。


右手に精神を集中し、先程の応急処置と同じく魔法で熱を生み出して歯形に抉り取られた患部を灼く。新鮮な生肉を焦がす独特の匂いが、咽せる様な血臭に混ざる。死が充満したこの場に自分が追加されないとは限らないのだ、こうして一端安全地帯に逃げ込んでいる今でも気は抜けない。


嫌な匂いと共に、己の肉が声無き悲鳴を上げているのが分かる。肉を焦がす痛みよりも、生と死が交錯する戦闘では血液を失う事による感覚と機動力の鈍磨の方が重大事である。それにルシカにとって死にかけるのは昨日今日の話では無い、教師会の掃除屋などと言う危険な仕事をやっている以上は半死半生など幾度と無くやってくるのだ。

「……く」

 感情が欠落しているとは言え、五感が欠落している訳では無い。痛覚は常人と同じ様に存在し、体組織も普通の人間と変わらない。右手に生み出された熱から逃れようと垂れ流される脂汗が、堪らず漏れる苦鳴がそれを物語っていた。

 魔法による手荒な応急処置の手際は習熟や実戦を重ねる事に上達する。だがルシカの本音を言えば、魔法は出来るだけ使いたくは無いのだ。魔法は銃と違って手順が多く、使い勝手が悪い。それに加え制御に失敗すれば魔法使いが死亡し、行き場を失った未加工の魔力が術者の死体を数瞬の間に腐らせながら周囲に垂れ流される。一度魔法の制御に失敗すれば死、魔法使い自身が未熟ならば周囲にも被害が及ぶ。

 それが魔法使いの軍隊である内務軍が――数々の勇名を馳せる『静刃』が不正規部隊としてしか扱われない理由であり、数学と科学に基づいて構成される近代的な外務軍と一線を画さざるを得ない由縁なのだ。

 そしてルシカの場合、魔族の影響を受けているので魔力と触れれば触れる程自分が自分ではなくなる。その分他の魔法使いよりも強力に、精密に魔法を扱えるものの件の理由から慎重にならざるを得ない。銃火器によりも更に強力な力にも成り得るが、同時に己を殺す業でもある魔法を彼が忌避するのはその為だ。

 古都 彩菜の様にならない完全に魔族因子の支配下にならない様にする為に、敢えて戦闘でもなるべく銃を主体に戦っていると言っても良い。


傷口からはみ出ている血管を灼き潰し、血液の流出を大体抑えて最後の予備弾倉を拳銃の中にセットする。彼は紫十郎の様に至近戦闘に長ける人間では無いのだ、あの様な怪力と異様な生命力を持つ約十体の尖兵相手に格闘戦を繰り広げる自信は無かった。かと言って、こと格闘戦に於いて紫十郎以上に強いと思われる古都 彩菜と死闘を繰り広げていると思われる彼に助けを求める訳にもいかない。ルシカは今ある戦力と戦術だけで戦い切るしか無いのだ。


懐から切り札となるものを取り出し、拳銃を腰のホルスターへと戻す。右腕しか動かない事をもどかしく思いながらも、それが壊れていない事にひとまずルシカはほっとした。それも束の間、レンズに触れない様に右手でその物体をしっかりと保持する。彼が本来の仕様用途と定めていた用法は大分違うが、それは真っ先に思い付いた使用方法である。


敵がこの場所まで到達するのに時間に余裕がある訳では無い。むしろ一刻の猶予も無い、と言ってしまった方が正解か。目を閉じ、右手の中に収まりきらないそれに精神を集中させる。一見してそれが何であるか、分かる人間はおるまい。万華鏡の出来損無い、そう推測するのが精々であろう。

基部が、彼の掌に面する部位が急速に発熱する。


それは空気中に存在する極微量の魔力を集め、増幅する装置である。増幅した魔力を光と少量の熱に変換し、決まった絵をスクリーンに投影してカラーで映し出すと言うルシカの発明品。だが、前提条件が違えばどうであろうか。微量では無く、人為的に多量の魔力を装置内に集めた場合はどうなるのであろうか。


本来の許容量を軽く超える量の魔力を機器に注入され、内部から煙が出始める。それでもルシカはこの発明品には、かなりの耐久性を持たせてある。精密な色合いを再現する為の回路の強度自体は強くはないが、魔力を収束する方の回路は可能な限り許容量を大きくしてある。

こんな時、切り札として使える様に。


眩しくてルシカは目を細める。中に内蔵されている魔力収束回路が、魔力を集めているのだ。覗き口の様なレンズの一点に、凡人魔法使いならば一生見る事も無い様な高密度の魔力が収束し発光する。深夜の廊下はルシカを中心として一種幻想的ですらある有害極まりない光に包まれる。本来紫十郎の様な超人的魔力操作の才でも無ければ、この様な莫大な魔力は御し難い。だがその為の装置であり、その為の切り札である。

敵は、すぐそこまで迫っていた。




 二発の銃弾を直撃してうずくまる彩菜を目の前に、紫十郎は彼女の息の根を止める事が出来無かった。文字通り、彼女の終演を告げる破裂音は幾ら時間が経っても聞こえては来ない。何故ならば――

「……っ」

 拳銃の破片がタイルの上に、芝生の上に、残りは紫十郎の右手の中にある。そう、有り得無い角度に捻じ曲げられた彼の指に絡め取られて。冗談の様に出鱈目な方向へ曲がっているが、それは紛れも無く彼の指だ。未だに現実と虚構の区別が付けられない主に分からせる為か、今頃になって拳銃ごと破壊された右手の痛みが迫り上がる。手首まで折れているかも知れなかったが、どちらにしろ彼にとっては同じ事である。

 銃弾の火薬が暴発しなかっただけでマシと見るべきか。

 紫十郎が引き金に掛かった指に力を込めるよりも速く拳銃を右手と一緒に葬送した敵は、瞬きもせずに彼を見据えている。彩菜、いや古都 彩菜と言う人間だったモノが紫十郎の正面にいた。口から漏れる低音の威嚇音、両手を地に付けて下からこちらを睨むその仕草、そして別種の生き物である事を証明する視線。

 獣。そう、今の彼女は紛れも無く獣のそれだ。上体を低く保ち、腰を高く上げ全身を上下する様にリズムを取る。瞳には二発の銃弾をその身に受けるまでは確実にあった知性の光が感じられない。そして驚くべき事に、彼女は健を切断された筈の右足を含めた手足で地に伏している。脇腹と太股が相変わらず血だらけではあるものの、右足首は時間を追うごとに腫れ上がるもののその動きに衰えは感じられなかった。

 いや理性ある思考こそ失われたが、動き自体は更に磨きが掛かっている。電光石火、文字通りの雷速を体現する彼女はある意味先程よりも手強い相手となっていた。折れ曲がった指に護られた拳銃の残骸を捨てたかったが、それは間違い無く彼女にとって絶好の隙と成り得る。

 運動性能に於いて大幅に溝を開けられている紫十郎からは動く術が無いのだ。故に浴びてしまえば魔族以外の如何なる生物も生きてはいられない程の量の魔力を放出、目の前に留まらせる。操作や顕現に呪文を声に出す必要など無い。魔法使いの杖すら、本来魔法使いには必要では無い。呪文は暴発を防ぐ鍵、杖は魔力を導く標であり精神統一の補助でしか無いのだ。代用が利けば魔法使いの杖は箒だろうがシャモジだろうが学術書だろうが無手だろうが何でも良く、また同じく呪文は声を必要としないものであっても良いのだ。魔法行使の難易度は格段に上昇するが。

 魔法使いの杖に代わるものは生来の、魔族『ルビコン』の尖兵としての特性である魔力操作の才。魔法の暴発を防ぐ為に呪文に替わるものは彼の場合、左手である。左手の動きと思考が連動し、魔法を彼の新たな手足として機能させる。

 時間の勝負であった。至近戦闘に於いて紫十郎は彼女に勝ち目が無い。また中距離戦闘の際に使用すべき拳銃は破壊されてしまって使い物にならないが、元より中距離戦など仕掛けた所で彼女の運動性能ならば銃撃など全て回避してしまう。彼にとって利する所があるとすれば、それは魔法と時間だ。

 如何に彼女の機動力が紫十郎を大幅に上回ろうと、彼の魔法攻撃は点でなく面である為に速度は関係無い。彼女を追い立て、その先を読んで致命の一撃を浴びせれば良いだけだ。その前に彼が致命傷を負わせられる可能性も十分にあったが、仕方があるまい。

 そして時間。脇腹と太股の出血は止まっていたが、足首は依然腫れ上がる事を止めてはいない。彼女は人間ならばとっくに死んでいる筈の血液を流出させている。例え『蒼霞』としては無事でも、彼女の肉体はあくまでも人間のものだ。内臓の損傷も有るだろうし、肋骨も折れたままだろう。ズタズタになった筋肉もまだ治ってはおるまい。肉体的限界は、近い筈である。

 とは言え紫十郎の方も良い事ばかりではない。長時間の魔力維持は至近距離で魔力を浴びる事になる。こうして彼女と睨み合っている今も彼の人間部分を体内に宿る魔族の因子が確実に侵し、死に追い詰めている。彼も魔族の尖兵として覚醒する日を近くしているのだ。今は自分をヒトに留める為の錠剤を欠かさず服用する事で、非常に緩慢な記憶能力低下で済んでいる。だが己の名前すら思い出せなくなったその時、ヒトに後戻り出来無くなった時、彼もまた処分される運命が待っている。魔力の浴びすぎで魔法が暴発し弾け飛んだり、腐り落ちたりと死ぬだけで事足りるただの魔法使いよりも余程酷い末路だ。

 だがそれは今では無い。

 最初ルシカと出逢ったその時、二人は殺す者と殺される者の関係だった。久しく忘れていた記憶に、紫十郎は場違いな微笑みを浮かべた。あの日、ルシカが自分に銃口を向けた時の表情まで鮮明に思い浮かぶ。今は二人で殺す側に回っている、不思議なものだ。

 命を削り対峙する古都 彩菜と、自我を削り対峙する幽 紫十郎。似た者同士の筈の二人は、いやゼス=ルシカとアルミナス=リエンを含めた四人は本当ならば分かり合えた筈だった。ほんの少しだけ邂逅する時を違えたなら、ほんの少しだけ立場を違えたら、ほんの少しだけ生まれる時を違えたら、ほんの少しだけ運命を違えたならば良き友人として巡り逢う事も可能だっただろう。

 だが、その些細な差が二人を殺し合わせている。何と言う皮肉か、何と言う喜劇か。時間と言う覆水は還らない。最早前にしか道は無し、どちらかの死を以て終幕とするしかこの狂った喜劇を終わらせる術は無いのだ。

 彼女が地を蹴ると、それに対応して彼の左手が虚空を疾る。雷速を超える神速、いや魔法の道へと堕ちた魔の眷属同士が魔速に達する。空気を壁と感じる程の世界で互いが互いの喉元に牙を突き立てんが為、ただその一点のみに意識が集中する。

 紫十郎はルシカを忘れた。

 彩菜は――『蒼霞』は怒りを、殺意を忘れた。




 寝付きの良い方である筈のリエンは真夜中に目を覚ました。寝汗で全身を濡らし、両手はきつく拳を作っている。夢を見ていた様だ、朧に残る感覚に従えば酷く悪い夢だったらしい。覚えているのは鉄と火薬の匂い、恐怖。パジャマの生地にまで浸透する程に汗をかいて喉が渇いていた。

 いつもこんな事がある訳では無いが、希に似た様な嫌な夢に苛まれる事がリエンにはあった。そんな時はベッドの中で震えて再び眠りに落ちるのを待つか、或いはこっそりとルームメイトの彩菜の寝顔を見て安心を分けて貰っている。暫くはベッドの中で睡魔の到来を待ったが、目は覚めるばかりで時間ばかり過ぎ行く。やはり多量の寝汗が原因なのだろう、喉の渇きが抑え難い。彼女は二段ベッドの上から梯子を伝って降り、彼女のベッドの下で眠る筈のルームメイトの布団を一瞥する。

 だが、そこに彼女の信頼する顔は無かった。今は真夜中、部屋の中央にリエンが掛けておいた時計の示す時刻は午前一時を告げていた。確か彩菜の先祖の国では、午前一時から二時にかけては不吉な時間とされていると彼女が話していた事をリエンは思い出す。


だからと言う訳では無いが、一抹の不安がどうしても拭えない。彩菜が真夜中に抜け出す事は、今まで無かった訳では無い。彼女は交友関係が広い訳では無かったが、男女問わず時間を問わずに呼び出される事が多かったのだ。リエン自身が見た訳では無いが、古都 彩菜が喧嘩の達人だと言う噂は耳にした事がある。とても信じられなかった、嘘だとすら思った。


リエンの知っている彩菜は優しく、物腰の柔らかな女性だった。女の子と呼ぶには余りに洗練されすぎて憚られる様な、お嬢様の何たるかを知っている人物であると認識していた。帰省したその先の家は由緒正しき貴族の名家、彼女は薄絹のカーテン越しに日の光を浴びて詩集を読みつつ微笑んでいる。そんなイメージをリエンは勝手に膨らませていた。


アルミナス家と言うヴェルフェニア帝国有数の名家の下に生まれながら、全く名家の令嬢らしくない振る舞いで周囲に迷惑を掛け続けてきた自分とは違うものを彩菜に感じていたのだ。エテル魔法学園で彼女と同室になったその時、お嬢様になる為には生まれ付きの資質が必要なのだと思った程だ。長く艶やかな髪も、礼儀正しさが自然に調和を成している物腰も、ある意味見る者を圧倒する微笑みも、どれも己が欲しながら手に入らなかったものだった。彼女が貧血持ちで病弱だ、と心の中で勝手に決めつけてしまっていた。


彼女は己の過去を、身辺を語らなかった。語りたがらない理由があるのだ、と思ってリエンも詮索しなかった。


彩菜にとってはリエンの幻想を無下に壊す事を良しとしなかっただけなのだが、リエンはそれを誤解した。彼女の誤解を知ってなお、彩菜はそれで良いと思っていた。


彩菜の出自が貴族でも何でも無い事を、リエンの「お嬢様の理想」を演じ続けてきた事実をリエンは知らない。彼女にとってルームメイトは自分の理想であり、憧れであり、唯一無二の自慢の親友だった。落ち零れた自分とは一線を画す羨望の的だったのだ。

 リエンが彩菜にしてあげられる事など、殆ど無い。だから、彼の叔父から『初音桜』の割引券を貰った時は喜んだ。自分の力では無いが、ともかく彼女に何かしてあげられる事そのものが嬉しかった。だから勇んで彼女を近日開店する『初音桜』アークス市支店へ彼女を誘った。

 リエンは、本当に古都 彩菜が好きだった。


彼女が倒れたと言う当日も、同じく部屋を抜け出して――廊下で倒れていたらしい。教師からその事を聞いた時、血液が冷水へと入れ替わった様な衝撃を受けた。とうとう起きたか、そんな心地だった。


勝手な心理防壁を築いていたとは言え、取り乱さなかった訳では無い。食って掛かる様な剣幕で様態を聞いても答えられない、の一点張り。リエンの焦燥は募り、不安は増加の一途を辿った。全てを払拭する様に、放課後になると彼女は素振りを始めた。


自分が彩菜に寄り掛かりきりだった事を、ルームメイトの消失によって思い知らされたから。己の無力を改めて見せ付けられたから。不安を、彩菜の様態と言う情報を秘匿される所から来る巨大な不吉を塗り潰したかったから。嫌な空気を振り払う為に、躍起になった。必要以上に明るく振る舞い、彩菜のいない空虚を埋めるが如く。


そして紫十郎と出会い、ルシカと出会い、彩菜はリエンの下へと戻って来た。だが好きだった筈の彩菜に、リエンは何処か違和感を覚えた。何処がどう違うと言葉では言い表せない、微細な皮膚感覚での違いだ。


リエンは彩菜が第三医務室から帰って来てからも、彼女が何処かへいなくなってしまった様な錯覚に襲われていた。話していても、何処か空虚で。見詰めていても、その裏側まで見えそうだと思ってしまうくらいに消え入りそうで。肌で触れ合っていないと砂糖菓子の如く崩れ去りそうに思えて、酷く怖かった。


目の前にあるドアノブを見詰めるだけで、じっとりと汗ばんでいる自分がいる。何の変哲も無い部屋のドアが、別世界へと続く扉にも思えてくる。もう一度振り返っても、彩菜の姿は無い。それともこの彼女のいない部屋こそが、別世界なのか。

喉が渇いていた。どうしようも無く、身体は水分を求めていた。

心が飢えていた。どうしようも無く、精神は彩菜を求めていた。


ここでは無い何処かに有る筈の、何かを求めてリエンはドアノブに手を掛ける。ひんやりとした手触りが、ここが現実である事を訴える。リエンがいる現実。彩菜のいない現実。扉の向こうには、別の現実が広がっているのだろうか。そんな危うい妄想に取り憑かれそうになって、彼女は首を振って強引に思考を体外へと押し出した。


ある訳が無い。ある筈が無い。あって良い筈が無い。動悸が激しくリエンの心臓を脈打たせる。際限無く悪い方向へ思考が行ってしまっていたからだろうか、頭が痛い。極細の針を脳の毛細血管一本一本に差し込まれていく様な苦痛と共に、虫の知らせにも似た焦燥感が彼女の腹の底に湧き上がってくる。


行かなければ。頭痛はただそれだけを主に伝える。何処になどとは教えてくれない、何故と言う問いかけにも答えてくれない。ただ、リエンに焦燥を伝える。


ドアを開けると、確かにそこは別世界だった。思わず顔をしかめてしまう様な異臭が、リエンの知る世界を変えていた。噴霧するタイプの無差別兵器で学園が攻撃を受けても生徒達が生き残れる様に、とドアは閉めると如何なる物質も通さない防壁として機能する。一応換気口はあるものの、廊下と繋がっている訳では無いので廊下側の異変に気が付かなかったのだ。


嫌な匂いだ。何処かで、つい先程まで嗅いでいた様な、と思って彼女ははっとなった。

――鉄と、火薬の匂い。

それは死の匂い。


焦燥はいよいよ急加速し、動悸は数秒と待たずに早鐘に変わる。何が起こっているのかは分からない。何故起こっているのかも分からない。ただ、彩菜がいないのだ。彼女がこの異常な事象に巻き込まれていない可能性が、一体どのくらいあるのか。理論も、理性も、何もかも置き去りにしてリエンは駆け出した。

「彩菜ちゃん……!」

 望むのは、ただ一人の微笑み。ただ一人の生還。それ以外は何も考えられなかった。今は異臭の根元へと辿り着く事だけが、彼女の頭を占拠していた。




 呼吸を整え、ルシカが廊下へ飛び出した。刹那の逡巡すら許されない彼の頬を散弾が掠め、彼の目の前にいた尖兵の後頭部を破壊し新たなる鉄の匂いを追加させた。鉄と火薬の臭気を纏い、右手を突き出してルシカが吼えた。

 「おおおおあぁぁぁぁぁぁ!」

 文字通り魂を揺さ振る絶叫がルシカの口腔より放たれた。何の呪文も動作も必要としない無音詠唱は彼が魔法を細心の注意を用い、限界点から力をかなり抑えている時だけである事を知る者は数少ない。彼の本当に魔法行使の鍵とするものは絶叫、それも一分の余裕も無い魂が生み出す悲鳴である。


右手の中の装置に存在していた高密度魔力が起爆の鍵を感知し、レンズを出て実体化する。


それは紅い衣を纏った、蒼の火球。表面こそ酸素を求めて不完全燃焼の様相を呈してはいるが、内部はその数倍に達する程の魔力の火である。火属性の魔法とは、特定空間をプラスの方向へ持って行く力なのだ。火球の表面が周囲の酸素を吸収し薄くなった空気に新たな空気が流れ込み、突風が空間を舞う。


火球が静止していたのは刹那、直径十センチ程もあろうかと言う紅の弾丸が音の壁すら灼き潰し一直線に飛翔する。一体目の敵の腹を貫通し、それでも火球は止まらずに二体目三体目と次々に魔法の行使者たるルシカも反応出来無い程の高速で黒い風穴を開けていく。そして全ての身体に穴を開け終わって、ルシカ最強の魔法はエネルギーを失い消えた。


予め射線上から外れていないと、突風にバランスを取られて避ける事も出来無いのだ。そう、魔法行使者のルシカとて例外では無い。

胸の炭化させた穴から銃口が飛び出し、ルシカの中心を穿つ。


痛みはこれまでの戦いで既に麻痺し切っていて無かったのか、その一撃が重傷過ぎて脳が痛みを認識する事を拒否したのか。如何に教師会から支給された防弾コートと言えど正面から、それも五メートル以内の至近距離から散弾銃を撃たれれば致命傷は免れない。肋骨は基部から破壊され、散弾が心臓にまで達していた。


膝を突きながら、倒れ行く敵の後ろにもう一体隠れていた事に心中で悪態を吐いた。呼吸すらままならない身体で、それでもルシカは分析を続けた。

――敵を学習能力の無い相手だと侮った私の負け、か。


若い教師が散弾銃を手に持っていた。恐らくは最初にルシカが倒した武装警備員の物だ。単純な戦術に引っ掛かる割には、尖兵達が手動で排夾し散弾銃を使いこなしていた事を急速に死に行く身体で思い出す。武器も持たず噛み付く程に化物然としていた尖兵が、だ。全てはこの隙を作り出す為か。


一つの勝利の為に、命を駒として使う。戦術教本には当たり前の様に書かれてはあるが、それを百パーセント忠実に体現出来る者はいない。誰であれ自分の命を何とかして生かそうとするからだ。実践と理論は違う、兵士ならずとも誰もが百も承知の筈である。その常識を敵は、『蒼霞』は見事に破った。平然と命を駒として扱う事の出来る、『蒼霞』はヒトを「簡単に補充出来る消耗品」程度にしか思っていない故に戦術上の怪物であると言えた。『蒼の災害』として知られる魔族の引き起こした災禍が大規模になった理由の一端は、正にそこにあるのだ。


左腕を先程の魔法で半ば灼き取られた教師姿の尖兵が、散弾銃を構えたまま無表情にルシカを見下ろす。

 彼こそが最初に彩菜に接触し、『蒼霞』に感染した者だと考える能力は既にルシカには無かった。体温が口から、胸の傷から、衝撃で開いた脇腹と肩の傷から血液と一緒に流出する。心音と共に流出は緩やかになり、彼を朱で染め上げ中心に血の池が出来た辺りで止まった。薄く開かれていた瞳の光は既に失われている。

 一個の芸術品と化したルシカの顔には、不思議と不敵な笑みが張り付いていた。




 重い破裂音が真夜中の校舎と寮、双方に響いた。もう考えなくとも分かる。銃声だ。それも拳銃の様な小型の物では無く、ライフルの様に両手で保持して撃つ様な中型から大型の銃火器の奏でる音だ。聞き覚えがある。幾度と無く聞いてきた音だ、間違え様が無い。

 リエンにはそんな確信がある。だが何故と言う疑問符が付いて回る。だがそんなものを些事と決め付け、彼女は一心に走る。その異様な匂いは一歩を踏み締めるごとに強くなる。嗅ぎ慣れた匂いだ。香りと言い換えても良い、その懐かしき臭気を身体に取り込む度に彼女の一部分が歓喜に包まれる。怖気と共に胃の内容物を吐いてしまおうとする自分もいる。

 どちらが本物の自分なのか、どちらも本物の自分なのか。長い廊下で取り留めも無い思考に囚われてしまう。他国の部隊がエテル学園に攻め込んで来た時の為に、学園は随分と無駄な構造をしている故に目的地までの直線距離はそれ程でも無い筈なのに遠い。


防災上必要の無いシャッターや非常ドアが各所に備え付けてある。建物を支える上で意味を成さない柱や、窪みがある。この柱や一見無意味な廊下の蛇行は物陰に隠れて防衛戦を展開しやすい様にと作られている。学舎を開放して年に一度学園祭を開く際に、毎年迷子が出ているのは伊達では無いのだ。

 漸く見知った角を見付け、飛び込む。視覚から、嗅覚から、聴覚からの情報を総合しリエンはその場に立ち尽くした。そうせざるを得なかった。

 そこは地獄と言う言葉すら生温い。その場所には死が集まり過ぎていたのだ。腹を何か巨大な砲弾で撃ち抜かれて空洞になっている者、顔の造作が分からなくなる程に破壊されている者、膝を突いたまま動かない者。咽せる様な鉄と火薬の匂いが、死が周囲に充満していた。そして何より異様なのは、十近い死体から蒼い霞の様なものが立ち上っている事である。

 真夜中、懐中灯も無しに何故蒼と分かるのか。そこまでリエンに考える余裕は存在しない。まだ生き残っているらしい人間の手にある銃が、彼女に向く。実質上右腕全体で保持しているに等しいので、その動きは随分とぎこちなかった。だが真夜中に銃を向けられて平静を保てる者など少数派である、彼女の足は恐怖で竦んでいた。

「……助けて」

 精一杯叫んだつもりだったが、恐怖の為か掠れた声しか出なかった。何しろ彼女は今まで純粋な殺意と言うものと無縁な生活を送っていたのである、銃を見るのは初めてではなかったが殺意を持って己に向けられたのは初めてであった。

 暗がりで殆ど顔が見えなかったが、銃口を向ける人物が既に人間では無い事は分かっていた。元々はただの人間であった筈の彼らが何故そうなってしまったのかが、リエンの中に流れ込んでしまったから。廊下で起こった死闘、中庭で起こっているであろう死闘、彼女が目にしていない筈の情景が立ち竦む彼女の脳内で展開された。

 情報の洪水に、堪らずリエンは両手で頭を覆った。凄まじい頭痛を伴って、死闘の情景が彼女に雪崩れ込む。拳銃弾が肉に食い込む感触や、敵の肉を噛み千切る感触、散弾銃を撃った時の反動、高密度の熱量弾が己の腹を灼き潰しながら背中へ抜けていく感覚、死の瞬間の窒息にも似た圧迫感。どれもこれも経験したいとは思わない、強烈すぎる経験が強制的にリエンに注ぎ込まれた。

 意識を保っているのが不思議なくらいの頭痛が襲う度に、リエンの感覚はクリアになっていった。既に彼女は立っていられずに膝から崩れている。だが周囲の状況が分かる。

「助けて」

 相変わらず激痛の余波で蚊の鳴く様な声しか出ない。だが彼女はもう分かっているのだ。物理的に声を張り上げる必要など無い、と。必要なのは魂に語り掛ける事であって、空気を振動させる事では無いのだ。死の霞が煙るこの廊下では、人間の常識が通用しない。ヒトをかなぐり捨てて、自らが人外の王である事を示さねばならない。


彼らが経験してきた事の他に、リエンは己に関する情報も得ていた。自分が『蒼霞』と言う魔族の核である事、彼女自身が望むならばかの『蒼の災害』を再び起こせる事も。今はまだ自分がアルミナス=リエンであると言う自覚があるが、力を行使し続けていればいずれ自分を基に魔族『蒼霞』がヴェルフェニアに復活してしまう事も。


そして、古都 彩菜の事も。自分が彼女を歪めたのだ。今自分に銃口を向けているヒトだった者の奥底にあるのは、怒りだった。彼女を己の素体として見限らなければならぬ程不適格であると『蒼霞』自身認めてしまったからか、ヒトでなくなってしまった事に対する彼自身の怒りが殺意に変換されてリエンに向けられているのか。


自分は恨まれて当然だ、リエンはそう思った。それだけの事をしているのだ、そして殺し合いが起こったのもそもそも彼女の存在が原因なのだ。生きていてはいけない人間なのだ、それは彼女自身思う所だ。


だが。半身になってリエンは射線をずらす。すると間髪入れずに散弾が飛んで来た。着ていたパジャマの胸元を弾塊が掠って破くが、彼女自身は無傷。散弾が広がりきらない至近距離だった事が幸いしたのだ、再装填の前に駆け出す。ルシカがそうした様に近くの柱の影に身を潜める。だがリエンとルシカでは、決定的な違いがある。

 武力を持っているか否か、である。ルシカの場合、拳銃と魔法と言う武器を持っていた。だがリエンはそのどちらも持ち合わせてはいない。心臓は狂った様に脈打ち、膝は己の意志を持ったが如く震える。

――助けて!


一心に祈る、己がここで死ぬべきでは無いと確信する故こそ。リエンは心に決めた死に場所がある。断じて『蒼霞』に殺される訳にはいかないのだ、己を殺すのは古都 彩菜であるべきなのだ。自らの憧れるルームメイトに殺されるならば、何の後悔も残さずに死ねるだろう。そんな事では罪科は償えない、償おうとも思っていない。だがそれが何処までも災厄を撒き散らす『蒼霞』と言う伝染病を持った彼女の、彼女なりに考えたけじめの付け方なのだ。

その想いが通じたのか、リエンはガラスが突如割れる音を聞いた。




 紫十郎の形成した魔力圏から、彩菜の反応が消失した事に彼は戸惑った。最早高速を体現する彼女に対して、目視など意味を成さない。新たなる手足であり、感覚器である魔力圏が彼女を見失ってしまった事実はすぐに彼を死に追いやるだけの大事なのだ。次に補足出来る時は、彼の死ぬ瞬間だろう。彼は一秒以下の短時間で、反射的に周囲の魔力を防御形態へと移行させた。

 防御形態を取った所で必ずしも防御出来る訳では無い。特に彼女の様な常識の埒外の運動性能を有している様な敵が飛び込んで来た場合、運が良ければカウンターが取れるだろうと言う程度。それは相打ち覚悟の背水の陣なのだ。

 だが一秒が経っても必殺の一撃は来ず、代わりに聞こえたのはガラスの割れる音。そして重い銃声が一発、二発と続く。それは武装警備員の正式装備である、散弾銃『アグニ九十五式』の咆吼だ。紫十郎は何が起きても対処出来る様にと身を屈め、音の方へ少しずつ前進する。遅れてもう一発、廊下に響いた辺りで辺りに静寂が戻った。

 たっぷり一分を掛けて前進し、紫十郎は割れた窓の下へ辿り着いた。死体と血がそこら中に転がった廊下で、死の蒼が充満する場所で。動かない彩菜に縋り付いて泣くリエンを、されるがままになって目を閉じている彩菜を見た。彼女は右肩が、下腹が、そして顔の左半分が破壊されている。今まで自分と死闘を繰り広げていた事が嘘の様に、彩菜は力無く冷えた壁面に身体を横たえていた。

 『蒼霞』の直接武力として、暴走し『核』を持つリエンに危害を加えようとした仲間を討ちに死力を尽くしたのか。それとも古都 彩菜本人の意思でアルミナス=リエンを護ろうとしたのか。真相は紫十郎には分からない。どちらにせよ真相を抉り出す事は、彼の本分では無い。

「紫十郎さん」

 涙に濡れた、嗚咽混じりにリエンは声を絞り出す。

「わたしが、わたしが死ねば良かったんです。そうすれば彩菜ちゃんが死ぬ事も、他の人達が死ぬ事も無かったんです」

 「それは違う」と言い掛けて、紫十郎はやはり口を噤んだ。彼はルシカ程に相手の感情を無視出来無い。ルシカの様に彼我の心理を分析し、正しく理解しつつも敢えて土足で踏み込む様な真似は出来そうも無かった。所在無さげに視線を外すと、膝を突いている死体が目に入った。

 ルシカだ。満足した様な、感情の偽装では無い暖かみのある笑みが他の死体とは一線を画している。いずれは処分される運命から、ある意味彼は解放されたのだ。感情が欠落し、恐ろしく無味乾燥であった筈の人生に、何を見付けたのであろうか。彼は己の末路に、満足して逝ったのだろうか。

「わたしが、わたしが死ねば良かったんです」

 もう一度、同じ言葉を呟く。掛ける言葉は無し、ただ流されるのは血か涙か。煙る蒼の霞は犠牲者を求めて東奔西走し、死の中心となる少女の涙など一顧だにしない。彼女の行く道は、彼女の生きる道は死で敷き詰められた魔道。彼女の想いは、善悪を関係無しにヒトを殺すだろう。進みを遅らせる事ならば出来るが、戻る事など出来はしない。


それを、古都 彩菜は知っていたのだろうか。この先にあるリエンの人生が地獄よりも酷いと知ってなお、彼女を助けたのだろうか。それとも、ただ『蒼霞』の本能に従っただけか。


彼女は己の最期に満足して逝ったのだろうか。答えを求める機会は、永久に失われている。蒼色の霞が、風に吹かれる事も無くただ漂っていた。