第四章
まだ殆どの生徒が夢現から覚めてはいない早朝。彼女は今日ベッドから起きた時から頭が鈍痛に苛まれ、手足の関節が久々の運動に疲労を訴えていた。約十日も実戦を遠ざかっていた為だろうか、身体能力も戦闘に対する嗅覚も鈍っていたらしい。要らぬ打撃を幾つも受けた気がする。鏡で怪我の程度を確認したかった、青痣でも出来ていた場合は言い訳も考えねばならない。今日はこれだけ身体が鈍っていて、頭皮が切れなかっただけマシと見るべきか。髪に血が絡み付いたら、大浴場で洗うのが大変なのだ。
「しかしまぁ、良く病み上がりの人間に因縁付けてくれるわね」
古都 彩菜である。彼女はいつも戦闘実技訓練の授業で、しばしば反則技を使われている。昨日は打突や投げを取り入れた総合格闘技の授業だったが、拳を固めて相手と打ち合いを演じている際に両目に向かっていきなり抜き手が飛んできた。勿論迎撃したので大事には至ってはないが、それは訓練では明らかに禁止されている行為である。だがそれだけならばまだ良い、別の相手は肌と同じ色に塗った金属リングを指に嵌めて彼女を殴ってきた。頭に来たので、凶器攻撃を迎撃ついでに相手の腕の骨を折ってやった。
一昨日なんかは放課後突入直後に三人の柄の悪い男子生徒に因縁を付けられたので、地に転がった相手の肋骨を折らない様にと細心の注意を払って二、三分程痛め付けておいた。結局自分のやっている事に対して自覚を持った拍子に、誤って骨を蹴り砕いてしまったのだが。その時は殴られた傷よりも、三人もの相手を蹴り続けた事による疲労で両方の太股が伝える酷い筋肉痛に悩まされていた。敵が何人だろうが、誰に因縁を付けられても今の所彼女は連戦連勝なのだ。
だが彩菜は殴り合いを演じている一時、血の匂いに興奮して我を失う事がある。第三医務室から復帰してからは約十日も喧嘩から遠ざかっていた為か、特に酷い。そして退院を境にして日を追う度に我を失っている時間は増えている様だった。自分が完全に自分で無くなる日が来るかもしれない、そう考えると震えが止まらなくなる。全身を包む高揚と身体の奥底よりもなお深い所から湧き出る力に魅了されたその時から、自分の足場を突然切り崩された時から歯車は動き出してしまったのだ。少なくとも彼女自身が設定する目標に到達するまでは止まらないし、止まれない。
だがどんなに強くなった所でルームメイトのリエンが思わず彼女の怪我に目を見張る様では、やはり洗練された戦い方とは言い難い。リエンの心配そうに自分を見る目が、彼女にはどんな物理攻撃よりも痛かった。
彩菜は自分の身体を見る。傷だらけの血だらけで業まみれの四肢を。髪は長いとやはり喧嘩や実技訓練の際に引っ張られるので短くしたかったが、リエンが長い方が好きだと言うので伸ばしてある。返り血が掛かったり頭皮を切ったりすると、元々大変な洗髪が更に大変になる事も髪を切りたい理由の一つだ。だが流れる様に光を反射する自分の髪を見ると、確かに悪い気はしない。
最近は本来的な意味で喧嘩する事が少なくなった――アルミナス=リエンを悪く言う者を制裁する意味での喧嘩がめっきり減ってきたのだ。ただ彩菜の評判を聞いた腕っ節自慢の男子生徒や、以前に彼女に破れた者のリターン・マッチがここの所激増している。これらの乱闘騒ぎは自分の蒔いた種なので、文句は無い。だが一つ気掛かりがある。
生徒会や教師会が彼女の素行に関して、全く文句を言わなくなった事だ。彼女は『その他』クラスの生徒達以上に問題児として知れ渡っており、生徒会にも教師会にも目を付けられているのだ。私闘禁止の規則を破って授業停止処分を受けたのも、一度や二度の話では無い。ここ数日の連戦で風呂や食事時を除いて授業の無い時間は大体喧嘩に費やしている。ここまで派手に私闘を演じて、生徒会や教師会が気付かない筈が無いのだ。
不気味だった。連日の喧嘩に関しては問題無い。筋肉痛は確かに身体を苛んでいたが、我慢出来る痛みだ。今誰かが襲撃に来ても、返り討ちに出来る自信がある。だが法的拘束力を持ち出された場合はその限りでは無い。教師会から学園生活を送る上で何か致命的なものを出された時は、如何に彩菜と言えど大人しく引き下がるしかあるまい。そうなった時の事を考えると、不安になる。
彩菜はいつも拳を振るった後、酷い後悔に苛まれている。まるで一時の高揚が反比例する様に、興奮が終われば彼女は理由の如何を問わず深い水底に沈んでいた。
彼女の両親はアークス市商店街で飲食店を経営していた。特別美味しい店として知られている訳でも無ければ、店舗自体が大きい訳でも無い何処にでもある個人経営の飲食店である。それ程収入がある訳でも無いのに、両親は娘の学費を払う為に頑張っていたのだ。それなのに自分は素行不良のレッテルを貼られている、それが彩菜にはどうしようも無く辛かった。這いつくばる相手を見下ろす度に、彼女に優しかった両親の顔が浮かんだ。
最近はそれが特に辛い。彼女の両親は今も飲食店を経営している訳では無いのだ。先月『初音桜』のアークス市進出を受けて起こるであろう売り上げの大幅な低下を見越し、早々と店を畳んでしまったのだ。店は安さが売りの大衆食堂だったので、薄利多売を大々的に押し進める『初音桜』に勝てる筈が無いと言う母親の主張を受けての閉店であった。
彩菜は厨房に立ち活き活きと料理をする父親を、もう五十歳も近いと言うのに動きの衰えず頭の回転の速い母親を密かに誇りに思っていた。両親が閉店を決めてからは何だか心に穴が空いてしまった様で、寂寥感が止まらなかったのだ。彼女を慕うリエンは彼女の傷口を無意識に広げてしまった事になる。
制服の内ポケットの中にはリエンから貰った『初音桜』の割引券がある。彩菜はリエンに対し、自分の家庭の事について何一つ言っていなかった事を思い出した。あれだけ自分を慕っているリエンだと言うのに、彼女の両親や実家の事を全く聞かないのだ。気になっていない筈は無かろう、それでも彩菜の口から語られるまでは内面に踏み込まないと言うリエンなりの意思表示なのか。
自分の事は曝け出すが、他者に対しては寛容の精神を貫く。教会の神父が良く説教に使う理想的な心の持ち様だが、体現している人間はなかなかいない。逆に自分を徹底的に隠して他者の内面を知ろうと言う人間ならば幾らでもいる。結局の所、大多数の人間は自己の利益を第一に考えているのだ。そして彩菜もそんな所が無いとは、とても言えない。
リエンが割引券を彼女の手に握らせた時、反射的に血が上って彩菜はリエンの顔を殴りそうになっていた。そんな自分を彼女は酷く恐ろしく感じていた。リエンから見えない方の拳を固く握り込んでいた自分に、彼女は恐怖した。リエンは何も悪くない、何も悪くないにも関わらず殴りそうになっていたのだ。
実はそんな事も、一度や二度の話では無い。瞬間的にリエンを殺してしまいたくなる事がある。この拳で「何故」と、「許して」と泣き叫んぶリエンを殺して、動かなくなった亡骸から全てを奪いたくなる。
あの髪、あの目、あの唇、あの耳、あの指、あの胸、あの腰、あの肩、あの足。
おぞましい考えだが、その誘惑に抗い難くなってきたのもまた事実だ。今日は目を閉じて夢見心地の彼女を思わず絞殺しそうになって、堪らず部屋を出てきたのだ。
――細い首を締め上げて、窒息するよりも早く頸骨を砕いて。どんな透き通った水晶よりも綺麗な瞳に口付けて――
最近の彩菜は自制が効かなくなっている自分が恐ろしくて仕方が無かった。一度スイッチが入ったら自分が自分であると言う自覚が無くなるのだ、その間にリエンを傷付けてしまったら一体どうしたら良いのか分からない。日に日にスイッチが入り易くなる、日に日に暴力行為の時間が長くなる、日に日に行為が残忍になっているのだ。
意識が無くなると言っても完全に途切れている訳では無くて、断片的ではあるが覚えているのがより始末に負えない。その時の歓喜を思い出すと、彼女はいつも身震いしてしまう。
数も覚えていないくらい多数の肉体に突き刺してきた己の拳を見詰める。外見だけはかいにも女性らしく華奢な、繊細な感じを受ける。だがそれはやはり見かけだけなのだと言う事実は、彼女自身が一番良く理解している。
最初は自分にこんなにも人を殴る才能があるなんて、思いも寄らなかった。体を動かすのは元々好きだったが、烈火の如き荒々しい気性が己の内に潜んでいると知ったのはエテル魔法学園に入学してからである。庶民の出の彩菜に対していつも優しく明るく接してくれる――どんな人間に対しても全く態度を変えないリエンを、アルミナス家と言うだけで悪く言う人間を見て無性に許せなくなって叩きのめしたのが最初である。自分に対して向けられる怯えた瞳を見て、逆に彼女が腰を抜かしてしまったのを良く覚えていた。
その一件で一週間の授業停止処分を喰らってから暫くは流石に自分を抑える日々が続いていたが、彼女に一つの変化があった。力が漲るのである、五感が研ぎ澄まされるのである。ある日学食で昼食を食べているとリエンの悪口が聞こえてきた。「暴力女に護られているから、って最近調子に乗り過ぎだ」とか「あんな奴、屋敷に引っ込んでいれば良いのに」とか聞くに堪えない罵詈雑言が飛び交う。そいつらのグループがただリエンに対する陰口の言い合いから、彼女に対するいやがらせを計画する話に移行するのに時間は掛からなかった。両者の位置は五メートル弱だったが場所は喧噪溢れる学生食堂である、後から冷静に考えてみると常人には聞こえない筈の音量で交わされていた会話だった。
集団による吊し上げ行為の陰湿さでは、女のそれは男とは比較にならないとはよく言ったものである。自分を暴力女と呼ぶのは良い、叩きのめされた人間が直接報復行動に出るのも彩菜は許容する。だが何もしていない人間を、何も悪くない人間を少しの差異を理由に因縁を付けてストレス解消の道具として使う事は許せなかった。特に彼女を慕うリエンを標的にしている所が、より怒りを増幅させる。
待ち伏せし証拠を押さえた上で彼女は二度とこんな気が起きない様に、と彼女らを叩き潰してやった。
そんな理由での喧嘩は殆ど無くなったが、現在でも件数は零では無い。
「奇遇だね」
早朝で起きている人間など殆どいないと高を括っていた為か、不覚にも彼の接近を彩菜は見逃していた。
「ルシカ先輩、脅かさないで下さい」
「驚いたかね」
「驚きました」
心臓が今も高鳴っているのは本当の事だ。冷や汗が全身から吹き出たのも、彼女の嘘を裏付ける為の材料になってくれている。だが真の理由は反射的に攻撃動作に移ろうとした自分の身体を押さえ込む為に、身を固くしたからである。それは明らかに異常な攻撃衝動、そんな症状を抱えている事を他者に悟られてはまた第三医務室へ逆戻りとなってしまうだろう。またリエンの顔を拝めない日々が始まってしまう。それだけは嫌だった。
「私は中身の無い立ち話を長々とする趣味は無くてね、さっさと本題に入るが宜しいか」
「本題、ですか」
「そう。彩菜君、病状はどうかね」
「……!」
誰にも、リエンにすらそんな話題を振った事は無かった。確かに第三医務室に隔離されていた理由を伝染病と言って説明したが、それは治ったと見られているからここにいられる筈なのだ。表面上は完治したと思われているが、そもそもこれは病気では無く完治など有り得無い事くらい直感で分かっていた。だが悟られないだけの努力は怠ったつもりは無い。
「教師会も、対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)も彩菜君の事を見逃した訳では無いのだよ。君の偽装など無いも同じなのだ、悲しい事に」
何の感慨も抱かぬルシカの声が容赦無く彩菜を抉る。彼女を見るルシカの視線は非人間的なまでに冷たかった。
「いつから気が付いていたんですか」
「残念ながら私は上からの情報に従って動いただけなのだ、故にいつからと問われると最初からとしか言えんな」
「なら、教師会はいつから気付いていたんですか!」
朝の、人のいない廊下に彩菜の叫びが響く。悲鳴に近い声色を有したそれは、余計な感情の不純物が無いせいか思いの外強く大きく、ルシカを通り抜け一直線に突き当たりまで彼女の悲壮を表現した。彼女の異変を察知しながら傍観していた教師会と、対魔法騎士、そして淡々と告げる目の前のルシカに怒りが湧いた。彼らは一個人の苦しみなど、まるで意に介さないと言うのか。激昂しやすい体質の彼女で無くとも、この発言には激怒しているだろう。だがそんな事はルシカとて百も承知である。
「ここから先は私の推測でしかないが、恐らくは君とアルミナス嬢が同室になった辺りからであろうな」
「っ!」
それはつまり、殆ど入学と同時であると言ったも同然だった。人を愚弄するにも程がある、彼女は咄嗟に拳をルシカの頬に叩き付けるべく右腕を振り上げた。それは風切り音を伴う程の威力の塊、常人ならば知覚する前に凶器と化した彼女の手が頬に触れるだろう。
だが怒り任せの一撃はルシカが上体を少しだけ後ろに倒した事で空振りに終わった。憤怒の顕現である拳が不発に終わった事で、彼女の中で更に激しく黒い感情が渦巻く。今まで彼女が薙ぎ倒してきた相手とは、明らかに違う何かを彼は有しているらしい。それを彼女は肌で感じ取った。
「その怒りがいつまで君のものであるのか、聡明な君の事だ。一度は考えた事があるだろう」
炎よりも熱い彼女は、追撃を掛けたいと暴れるもう一人の自分を押さえつけた。いつまでこんな風に押さえつける事が出来るのか不安になる程、もう一人の自分の力は強かった。
「君自身も分かっている筈だ、もう時間は少ないと」
歌う様なルシカの声が、彩菜の耳に響いた。
「明日の午前一時、パーティーを開く。主賓は君だ」
午前の授業が終わると、購買と学生食堂は腹を空かした学生で満たされ戦争状態へと突入する。中等部と高等部の生徒が一堂に会する為に騒然となるのはいつもの事、それよりも他者を気遣う余裕も無い程の人口密度の中を待ち合わせ場所に指定した彼女こそがどうかしていると言うべきだろう。
儚げで浮世離れしている外見通り、購買や学食を利用せずに調理室でいつも昼食を作っているのではないだろうか。上手く作れば学食や購買で済ますよりも、ずっと格安で自分で作る分味の補償も出来ると聞いた事がある。手先は器用そうだし、料理の心得も有りそうで何より彼女のルームメイトよりはずっと女性らしさ漂う物腰ではある。外見のみで物事を見る訳にはいかないが、何となく紫十郎はそんな気がした。彼女の制服の上からのエプロン姿と言うのも、一度見てみたい気がする。
首を振って前後左右を確認しても人、人、人で酷く視界不良である。いつも通りの混雑に辟易しつつも、目的の人物を捜して各テーブルを回る。テーブルの近くに行かねば、彼女が座っている場合発見出来無いのだ。ストレスを溜め、捜索をしていると入り口の方で手を振っている人影を見付けた。腹の奥にざらついた不快なものをそのままに、件の人物の元へと歩を進めた。
「場所の指定が曖昧すぎるんだよ」
彼女こそは紫十郎が腹立ち紛れに言い放った相手にして待ち合わせを学食に指定した人物、古都 彩菜。元・第三医務室の住人である。
「ごめんなさい、学食を利用した事が無かったものですから。こんなに広いなんて、思いもよりませんでした」
怒られようが謝罪しようが、彩菜はその柔らかな物腰を崩さない。そんな彼女の仕草や立ち振る舞いを見ると、いかにも彼女に自分の不愉快をぶつけにくい。当の紫十郎も人の波を掻き分けて彼女を捜していた際に生じたストレスが遣り場の無い怒りに変じてしまい、己の底にしまうしか方策が失せてしまっていた。
「入院する前はいつも朝早く起きてお弁当作っていましたから」
リエンの分も一緒に作ってあげた事もあるんですよ、と付け加える。紫十郎の勝手な想像がそのまま当たっていた様である。朝早く起きて制服にエプロンを付けて弁当を作るとは、何だか漫画の世界みたいで紫十郎は可笑しかった。
「紫十郎先輩って、そんな風に笑うんですね」
「この笑い方、変か」
「いえ、ちょっと皮肉な感じで格好良いですよ」
素直に褒め言葉と受け取って良いものか、はたまた儀礼的なものか。どちらでも良い。それよりも懸案とすべき問題は目の前に転がっているのだから。
テーブル一つを隔てて紫十郎に微笑みかける古都 彩菜。彼の勘では彼女は物腰の柔らかなだけのお嬢様では無かった。まだ底の見えない、致命的な何かを隠し持つしたたかな感じが言葉の端々やちょっとした動作に現れている。それでも決定的な尻尾を出さないのは余程己を偽装する事に自信がある為か、それとも彼の思い違いだからか。
天秤のどちらにも無視出来無い程の可能性が乗っており、急いて判断を下すのは早計に過ぎた。彼はルシカと違い、殆ど病気と言っても良いくらいの物覚えの悪さが影響して様々な情報を組み立てて推測するのが苦手だ。その代わりなのか、特殊能力と言って良いくらいの精度で雰囲気や言動の端々から何となく真相を嗅ぎ取る力が優れていた。
そして彼の勘が囁く。彼女こそが事件の元凶である、と。
「彩菜は学食初めてだ、って言ってたよな」
「はい」
「なら、俺がここまでメニューを持ってくるよ。人混み、嫌いだろ?」
彩菜は視線をテーブルの上に置いてある布巾や食器の方角へ泳がし、暫しの逡巡。恐らくは図星だろう。先程学食内部では無く、入り口付近にいた事からの紫十郎の連想である。体格的にも立派とは言い難い華奢で細い肩をしているので、体をぶつけ合う事自体が負担になるのかも知れない。
古都 彩菜の武勇伝は話としては紫十郎も知っていたが、目の前にいる実物と今一イコールで結ばれない。ここで彼に笑顔を向けている人物と武勇を語られる人物は別人ではないか、まだ彼はそんな期待を抱いていた。
だから彼は彩菜が原因で起きるトラブルの全てを取り除きたかったのだ。真実から目を背けたかったのだ。
「まだ病み上がりの彩菜に倒れられて、リエンに文句言われるのは俺なんだよ」
「そうですか、ではお願いしますね」
適当で良いとの指示を受けた紫十郎は、本当に適当に選んだAランチを二つ持って元の席へ戻った。食べ慣れている彼には何の変哲も無いAランチだったが、初めて学食を利用する彩菜にはそうでは無かったのだろうか。彼には彼女の瞳が輝いている様に見えた。
「素敵です、紫十郎先輩」
「何が、だ」
ルシカに対して良く使用する科白が思わず口に出る。
「私、イチゴ大好きなんです」
イチゴ。改めて自分の目の前の食べ物群を見ると、成る程デザートにイチゴのムースが載っていた。赤と言うよりはピンク色のその物体は、紫十郎の記憶する限り美味では無かった気がする。だが目を輝かせる彩菜を目の前にして言う科白でもあるまい、と心の奥に浮かび上がった言葉を沈めた。
何にしろデザートに感激する様子は普通の女の子にしか見えない。自分の勘が外れれば良いのだが、と紫十郎は思わずにはいられなかった。
既に彩菜が彩菜では無くヒトに在らざるモノだ、などと言う勘が導き出した結論など外れてしまえば良いのだ。
「良かったら、俺のムースもやるよ」
「それはちょっと、悪い気がします」
「俺は甘いの、余り好きじゃ無いんだ」
嘘だ。確かにこのイチゴムースは美味しいとは思っていないが、甘い物全般が嫌いな訳では無い。こんな言葉が出た理由は、罪悪感に他ならない。彼女の伝染病が未だ完治して無かった時、紫十郎は必要な措置を執らねばならないのだ。逆に完治していた場合は、彼女をいつまでも疑っていた事になる。どちらにしろ、彼女を信用していない事に変わりは無い。更に見返りとしてAランチのイチゴムースでは、少なすぎるだろう。それを知ったらリエンは、そして彩菜は流石に怒り狂うだろうか。
「本当に良いんですか、貰ってしまっても」
「二言は無い、自分のトレイに移せよ」
「はい、ありがとうございます。頂きますね」
彩菜は嬉しそうに笑顔を深くした。その様子が紫十郎にはいかにも辛く、思わず目を反らした。仕草、感情の流れ、共に何の変哲も無い女の子のそれだ。
「やっぱり紫十郎先輩もこのイチゴムース、好きだったんですか。戻しましょうか」
「二言は無い」
頑固な態度を崩さない紫十郎が余程可笑しかったのだろう、彩菜は堪えきれなくなって声が出る程に笑う。控えめで紫十郎を除いた殆どの人間が気付かない笑い声だったが、何事も上品な彼女には似つかわしいとさえ言えた。彼女のそんな姿を見て、少しだけ紫十郎の胸のつかえが取れる。
「紫十郎先輩は優しいんですね」
笑いから解放され開口一番、彩菜は紫十郎をそう評した。
「俺はただの卑怯者だよ」
「いえ、優しいです。私の事も気に掛けて下さってますよね」
自分の心中を見抜かれた気がして、紫十郎は押し黙る。
「だからもう少し、リエンの事も気に掛けてあげて下さい。あの娘、寂しがり屋なんですよ」
「知ってる」
――わたしがアルミナス家の娘だから落ち零れるのが良い気味だとでも思っているんですか!
リエンの中の焦燥、アルミナスと言う巨大権力が持つ重圧。ただの娘にその二つは重すぎると言えた。今までは彩菜が彼女の支えとなっていたから、持ち堪えていたのだろう。支えを失ったほんの僅かな期間に吐き出したあの言葉は紛れも無く本心なのだ。どれだけ支えられようと、どれ程巧妙に取り繕おうとそれで本質が変わる訳が無いのだ。あの科白は間違い無くアルミナス=リエンと言う名の少女が持つ一側面なのだ。あそこまででは無いにしろ、あの様な暗黒面には紫十郎にも覚えがあった。
今よりも幾分か幼き自分と言い争う両親の顔が、白昼夢の如く紫十郎の脳裏に蘇った。
「明日の午前一時に中庭に来て下さい。ルシカ先輩がパーティーを開くそうです」
それは決意。何の決意なのか、紫十郎は知りたくないと思う。知ってしまえば後戻り出来無い、と自分の奥底に棲む自分が警告する。だがこうも思う、既に後戻り出来る様な道など残されていないと。進むだけの道しか残されてはいない、と。恐らく先へ続くは地獄への一本道。
「昼休みが終わる前に食べちゃいましょう。紫十郎先輩が折角下さったイチゴムースを無駄には出来ません」
いただきます、とAランチに対して一礼する彩菜はやはりただの女の子にしか見えなかった。暖色系で統一されている明るく活気に溢れた学食にあって、彼の表情は暗い。思い違いであって欲しい、今の彼が出来る事と言えば祈る事くらいである。対して信心深くも無い癖に、と彼は自らを嘲って気を紛らわす。
なおも物思いに耽っていた紫十郎の肩に、軽い衝撃が走る。腰を回して首を後方に向けると、眉間に皺を寄せたリエンが腰を曲げて彼の顔を覗き込んでいた。
「紫十郎さん酷いです、悪魔です、鬼畜です。お兄ちゃんの事が大好きな妹からお兄ちゃんを掠め取ろうとする極悪女狐ぐらい外道です」
ご立腹のリエンは態度そのままに、購買で入手したと思しき調理パン二つを手に彩菜の横に座った(学食は長椅子なので可能なのである。その分紫十郎は狭い思いを余儀なくされたが)。彩菜も紫十郎も、苦笑を隠せない。
「紫十郎さんはわたしの彩菜ちゃんにらぶらぶなんですか? 駄目ですよ、彩菜ちゃんはわたしの彩菜ちゃんです」
わたしの、と言う所を強く強調するリエン。危ない、言動からして自分の存在が危ないと彼女は果たして気が付いているかどうか。彩菜も紫十郎も、自分に降り掛かる誤解よりも彼女の身を案じてしまっていた。この早とちりが彼女の魅力の一つなのは確かだが、この場合は裏目だ。
「あのねリエン」
「彩菜ちゃんが綺麗で美人なのは分かってます、紫十郎さんの気持ちも分かります。で、す、が、わたしから彩菜ちゃんを掠め取るのは大却下です。デートならわたしで代用してくださいね」
「リエン、申し開きは無しか?」
「無しです」
この状態のリエンは最早処置無し、と諦めるしかない事はここ数日の経験で紫十郎にも分かっていた。彼女のルームメイトをしている彩菜の心境は推して知るべし、である。リエンの笑顔の隅に、血管が浮き出ている様に見えたのは果たして彼の気のせいだろうか。昼休みはその後も似た様な雰囲気を維持したまま穏やかに、和やかに何事も無く終了した。