第三章



 男子寮と女子寮の丁度中間地点に中庭は存在している。放課後や昼休みには生徒の憩いの場所として機能しているが、今この時間帯は些か寒気が強く中庭は余り好まれない。それでも孤独を好む者、殆ど全面禁煙となっている校舎内を避け煙草を吸いに来る者、修練を必要とする者は自ずと集う。己の欲を達する為に、思い思いの目的を秘めてかの地を目指すのだ。

 風切りの音と共に汗が宙を舞う。自らの汗で前髪を張り付かせた彼女は冷たい夜気を肺に取り込み、己の熱を加えて口腔より吐き出す。肩で息をし、無心で虚空に得物を躍らせる様はある種の美を内包していた。露出した肌に纏う珠は文字通り生命の雫であり、活動的で健康的な女の匂いが夜の闇に混ざっている。その酷く官能的で扇情的な香りは、異性に原始的な欲望を喚起させるものだと本人は果たして気付いているかどうか。

 最初は魔法の練習を兼ねて、いつも掛け声に気合いを入れて素振りをしているのだ。己の声を鍵として、身体の内に秘めたる魔力操作の才を呼び起こせる様に。掛け声による意識誘導を起点としていつその才が目覚めても良い様に一連の行動を反射動作の高みにまで磨き、精神をただ一点へと収束させる為に。だがいつも目的を忘れ、途中から無言になっている自分がいるのだ。

 たった今もそう。魔法の練習だった筈が剣術訓練の様に、魔法使いの杖をまるで木刀の様に扱ってしまっていた。確かに魔法使いの杖には打撃武器としての側面もあるものの、それが本性では無い事くらい彼女も百も承知である。元々体を動かす事が好きだから、ただそれだけの単純な理由が彼女を横道に逸らすのか。

――わたし、いつまでも落ち零れのままなんでしょうか。


彼女は平均的で平凡に魔法の才能を有しているルームメイトが羨ましかった。そして資質はあるらしいものの、一向に魔法の才を開花させない自分に少なからず劣等感があった。それを他者にぶつけないだけの常識は弁えていたし、この事を誰かに話した事は無い。

だがこうして一人でいる時、不意にその想いに囚われてしまうのだ。

 彼女が自分の手首に目をやると、お気に入りの腕時計は午後の九時が幾らもしない内に終わると告げている。後十数分で就寝時間が来るので、もう修練の時間は無い。得物の杖を校舎の壁に立て掛け、彼女はその横に寄り掛かった。煉瓦造りの冷えた壁面が火照った体には気持ち良い。壁による急速な冷却は運動で必死に酸素を必要としていた身体を落ち着かせた。目を閉じ今一度深呼吸をすると、色々な事が目に浮かんだ。過去の事、現在進行形で起こっている事、未来起こるであろう事。

 思考は突然の拍手によって中断された。

「感心したぞ、今の素振りはなかなか様になってた」

 続いて賛辞が送られる。声は彼女にとって、全くの想定外だった。可能な限り目を早く開き、首を左右に振って彼女は声の発生地を特定しようとする。真剣になると回りが見えなくなるその性格が隙を作り、今の狼狽を生み出しているのだ。それは人間的な魅力に繋がる利点と成り得るが、魔法使いとしては直接死に繋がりかねない危険な欠点であったからこそ、彼女は慌てる。慌てた所で事態が好転する事は無いと頭で理解してはいるものの、容易に実践出来はしないのだ。

 そうこうする内に、木の陰から細身の男が現れた。声からして確認するまでも無い、幽 紫十郎だ。

「紫十郎さん、いつからいたんですかっ」

 彼女の――アルミナス=リエンの声は上擦っており、抗議としての迫力が決定的に欠けていた。小柄で童顔の彼女が怒ったポーズを取った所で、期待通りの意味を成さないのは自分がよく知っている。彼女にとってそれは悔しい事であったが。自分が慌てたり怒ったりすると大概を和ませる効果があるらしく、怪我の功名で助けられた事もある。

 今この場の空気は先刻以前のそれよりも穏やかである。その事実を何より感じているのは紫十郎であろう、それが彼女には何だか気恥ずかしかった。

「少し前からだ。時間にして二十分くらいは素振りを眺めていたんだが、よく見れば結構良い動きするんだな、お前」

 昨日今日のあからさまに拒否する態度はもう紫十郎には無い。自分の意志とは半ば関係無い所で進んだ出来事だったがある程度まで踏み込んでしまったのは事実である、既にリエンを彼は自分の内側であると認識していた。


対するリエンは紫十郎の忌憚の無い意見に、頭が真っ白になる。相当にズレた感性と妙な理論で生きる彼女だったが男に対して耐性がある訳では無く、一人の多感な少女である事に変わりは無いのだ。

「……からかわないでください」

 いつもの自分からかけ離れた、消え入りそうな自分の声に彼女は内心驚愕する。リエンはこの瞬間、紫十郎と視線を合わせる事が出来ずに視界を芝生に落とした。

「いや、本当にそう思う。その型は何処の流派なんだ」

「我流です。わたし、体を動かすの好きですから」

 運動で上昇した熱は既に完全に排除しきった様で、今度は残った汗が不必要に体温を奪う。リエンは手近なベンチに畳んで置いたタオルで頭髪に含まれた水分や首回りを拭い、水筒に入れておいた麦茶で運動後特有の喉の渇きを潤した。今日の朝洗濯を終えてふんわりとしたタオルの感触が、身体の欲するままに体内に入れる水分が運動後には心地良い。

 漸く動悸も落ち着き、人心地着きリエンは平静へ戻る。まだ紫十郎と目は合わせられないが。

「紫十郎さん、って何属性なんですか」

 大した考えも無く会話を繋げる事のみを目的とした言葉だったが、彼女は自分で何気無く選択した会話の意味に失敗を悟る。それは魔法使いにとって重大な関心事であると同時に、あらゆる手段を用いて漏洩を阻止せねばならない極秘事項だからだ。戦場で敵に属性を知られる事は死に直結する、と授業でリエンも何十回と聞いている。

「何だと思う」

 回答拒否くらいはリエンも覚悟していたが、意地悪く紫十郎はオウム返しに聞いてくる。彼の目は笑っていた、彼女の質問に怒ってはいないらしい。調子に乗って回答を得ようと彼女は試みてみた。

「意地悪で奔放な風の属性ですか」

「どうだろうな」

「頑固で引く事を知らない火の属性ですか」

「どうだろうな」

「千変万化して相手を止める水の属性ですか」

「どうだろうな」

「巧みな技で相手の情報を集める地の属性ですか」

「どうだろうな」

 どの属性なのかと問うても、同じ答えしか返って来ない。声の調子も、無意識に出る筈のちょっとした動作にもリエンは気を配って見ていたつもりだったが、彼が何も変わっている様には見えない、何も掴めない。つまり彼女にとって何の収穫にもなっていないのだ。

「どれなんですかっ」

「魔法使いが簡単に自分の属性を教える訳にもいかないだろ」

「紫十郎さんは意地悪です、性悪です、ずるいです、極悪です。美少年同士のボーイズラブだと思って期待して買ってきた漫画の内容が、実は美少年は外見だけで中身がむさいおっさん同士のハードゲイだったのと同じくらい裏切りです」

「ボーイズラブだろうがゲイだろうが、どっちにしろ俺には理解出来んが」

 と言うか、大半以上の男には理解出来無さそうな世界が広がっていそうである。世界は紫十郎が思っているよりも遙かに深く、闇が濃いのかも知れない。窺い知る事も、闇の中に分け入ってそのジャンルを開拓する事も彼は願い下げだったが。

「読んでみますか?」

「遠慮しとく」

 どうでも良い事だったが両親も祖父も、彼女の教育を間違ったのでは無いだろうか。目を輝かせて男にそんなものを勧めるリエンを見て、彼は何となくそんな感想を抱いた。

 そんな彼女が伏し目がちになり、自嘲的な笑みを浮かべる。小柄なその背を一層小さくしながら、囁く様にリエンは告げた。

「わたしは、『その他』なんです」

 リエンはたった一言を口に出す、ただそれだけにありったけの勇気を勢いに乗せて振り絞った。


エテル魔法学園では年齢と属性でクラス分けがされる。魔法使いの為の学校だけあって、年齢よりも特に属性が重視されるのは言うまでも無い。生徒の殆ど、全体の約九十パーセント以上が火水風地の四属性のどれかに当て嵌まりそれぞれの属性に長じた魔法使いとなるのだ。だが九割以上に当て嵌まらない者も当然おり、それらをまとめて「その他」のクラスとしているのだ。


それは才能の開花が遅い者や、希に現れる四属性のいずれでも無い属性を保有する者が集まるのが「その他」である。希少な属性を保有している者には奇人変人が多く、また人格的にも問題のある例が多数報告されている。また属性の開花すら無い者は、属性が分かり次第属性別のクラスに編入される一時預かりの様な状態になっているのだ。

リエンは今の所無属性――つまりは後者、まだ開花していない方の部類に属する。


問題児と落ち零れの巣窟である、「その他」のクラスは当然良い噂が立たない。学園内での私闘はその理由如何を問わず全面的に禁止されているので、民間の学校にある様なあからさまないじめ行為をする者は少ない。リエンは幸か不幸か、受けた事は無い。だが雰囲気が、何気無い会話が、汚物を見る様な視線がリエンら「その他」クラスの生徒に突き刺さる。


そんな場所に在籍していると告白する事が、どれだけ恐ろしい事か。それは同じ苦しみを味わった事のある者にしか分かるまい。

「だからわたしはここで練習をしなければならないんです」

 劣等感と諦観。そんな想いを抱きながら、それでも努力する事は常人が考えるよりもずっと大変に違いない。もしかしたら、ひょっとすると、そんな淡い期待はとうの昔に打ち破られ後に残るのは開き直りだけ、そんな半ば自棄になったただ一つの感情を拠り所にして目標を達成出来る者は数少ない。普通はこの境地に至る前に大抵は自主退学となってしまうが、それを乗り越えてもなお試練は続く。

 魔法は行使者の精神と密接な繋がりがある。己自身を御せぬ者に、魔法は過ぎた力なのだ。己自身の主となれない者は、例え才能を内に秘めていたとしても身体が無意識的に魔法の行使を拒否してしまうと言う。

 その悪循環を乗り越えた者だけが、落ち零れでは無く魔法使いの卵として真に認められる事になるのだ。その強固な精神力は歴史に名を残す偉大な魔法使いになれる資質として、帝国から密かに注目を集める事になる。

 天国か、地獄か。

 『その他』クラスは落ち零れにとってそう言う場所なのだ。

「辛いんです、苦しいんです」

 涙。ずっと、エテル魔法学園に入学して以来溜め込んでいたであろう感情が溢れる。透明に見えるその雫は実は透明では無く、置いて行かれる哀しみが、皆について行けない自分に対する怒りが、魔法と言う特殊技能を学ぶ上で誰一人味方がいなかった事に対する心細さが凝縮されているのだ。

 そしてアルミナスと言う巨大な名に臆さずに自分と接してくれていた唯一無二の友達、古都 彩菜との接触遮断。

 十代の少女が涙を流すには十分すぎる理由が、リエンにはあった。

「お願いします、紫十郎さん。わたしに魔法を教えてください」

 必死さは伝わる。紫十郎も出来る事ならば助けてやりたい所である。だが――

「残念だけど、俺がリエンに教えられる事は無いな」

「何故ですか。わたしが落ち零れだからですか、わたしがアルミナス家の娘だから落ち零れるのが良い気味だとでも思っているんですか!」

 最早彼女は自分が何を言っているのかさえ、激昂し把握してはおるまい。溢れ出た感情に正気が揺らいでいるのだ。リエンの瞳は紫十郎を鮮明に、憎らしい程に彼の表情を伝えている。取り乱している自分と、冷静な紫十郎。その対比が益々彼女の激情を刺激する。

「落ち着けよ」

「落ち着けません!」

 このリエンの取り乱し方は錯乱していると言っても大袈裟では無いだろう。対照的に彼は冷静だ、食って掛かり暴言を吐く彼女に対する怒りがあらゆる動作に皆無なのである。心の隅でおかしいとは思いながらもそれが何故なのか、その時彼女はそこまで思考が及ばなかった。

「いや落ち着け。そして良いか、よく聞け。一度しか言わんぞ」

 紫十郎がリエンの肩を抑え、彼女が暴れ出すのを防ぐ。喚く事を止めても、彼女の瞳に宿る敵意の色は消えない。それに気付き、それでもなお彼は怯まない。怖じけない。虚勢では無い、彼にとって信頼に足る何かに裏打ちされているからこそ彼女の視線の威力に耐える事が出来るのだ。

「俺も『その他』だ」

 リエンの怒りが消える、哀しみが消える、悲しみが消える、憎しみが消える。暴走も暴行も暴言も、たった一言で彼女を動かしていたあらゆる感情の渦が打ち消された。何かに流される所を想像出来無い、泰然とした立ち振る舞い。我流にしろ剣術の真似事を嗜むから分かる紫十郎の何気無い、だが恐ろしく滑らかな足運び。そのどちらも自分に自信が無ければ獲得し得ないものだ、それが何故「その他」なのか。彼が「その他」である理由が彼女には分からなかった。

「何故ですか」

 奇しくも先程と同じ発言である。意味も心理状態も、全く異にした状態ではあったが。

「お前は何故、自分が無属性だと思う」

「分かっていたらわたし、『その他』じゃありません」

「ならば、それが俺の『その他』である理由だ」

「そんなのっ」

「そんなものだ、人生も。才能も。その理由すら」

 紫十郎は踵を返した。

「もう就寝時間をとうに過ぎているんだ、早く部屋に戻らんと巡回の教師にどやされるぞ」

 半身を彼女の方へ捻り、一方的に宣告。何か言ってやりたい、そう思うもリエンの頭には気の利いた科白一つ浮かんでこない。それでも彼女は側にいて、もっと彼の話を聞きたかった。だが既に歩き出している紫十郎を追う機会を逸してしまった、自分の欲する所と反して足が彼の方へと向かない。

 思い通りにならない現実。

 余りにも高くそびえる理想への壁。

 同じ「その他」クラスである筈の紫十郎と自分との、余りの差異。

 どれもリエンが思うよりも遙かに複雑で、出口も正解も見つからない。見付ける為のヒントなど無く、回答に失敗しようものなら次の機会すら無い。だからこそ彼に掛ける言葉が浮かばないのだ、そうに違い無い。


やり直すと言う概念が欠如した余りに厳しい世界に生きている事を、彼女は図らずも実感してしまう。その厳しさに対し、絶望的に無力な自分を悲観する暇すら与えられないのだ。

 ――私達の助けが欲しければ、いつでもここに来ると良い。

 昨日のルシカの言葉が反芻される。今はそれだけが頼りだ。リエンは紫十郎が中庭を出るまで、指一本動かせなかった。




「今日、やっと面会出来るんです」

 授業が終わって資材置き場に足を運ぶルシカを見付けて、リエンが言った科白がそれだった。言おうか言うまいか、相当迷ったのだろう。いや、それでは些か語弊があろう。ルシカは彼女の視線が不安げに揺れているのを見て、現在進行形で迷っていると判断したのだ。何をそんなに迷っているのか、彼にはそこまで聞く必要は感じなかった。

 昨夜紫十郎との間に何かあったのだと言う事くらいは、ルシカの予測の範囲内である。紫十郎の態度が中庭に行く前後で、何処かおかしくなっていたのだ。それなりに長く付き合っていないと気付く事すら叶わない、微細な変化ではあった。加えて紫十郎は己の感情を偽装する技術に長けている。だがルシカもまた、その高性能な頭脳と長い付き合いによって分かる感覚的な何かを見落とさなかった。

 だが気安く内面へ入っていく事を良しとしないルシカの配慮から、紫十郎にその原因を聞いていないだけだ。必要になれば、紫十郎の方から打ち明けると信じて。

「ルシカさん、彩菜の面会に付き合ってください」

 そのスタンスは紫十郎に対してだけでは無くリエンに対しても、それ以外の誰に対しても崩さない。去る者は追わず来る者は拒まず、後に残るのは彼自身の損得勘定による合否だけだ。噂好きの彼からしてみれば、その申し出は願ったり叶ったりである。渦中の古都 彩菜に会える、ただそれだけで二つ返事だろう。

 確認する事と言えば、一つだけだ。

「その申し出は紫十郎にも伝えたかね?」

 ルシカの問いに、リエンは視線を逸らす。

「……いえ」

「ならば伝えると良い。この前は何だかんだと紫十郎はアルミナス嬢――君に対して言っていたが、気にしない事だ。本人の前では悪し様に言っているが、彼はあれで照れ屋だからね」

「そうなんですか」

 リエンにとってその事実は少しだけ、意外だった。そして彼のそんな側面を知る事が嬉しくもある。他者と距離を詰める事がこんなにも嬉しい事だと思うのは、本当に久しぶりだった。ルシカや紫十郎ならばアルミナスの名を恐れぬ新たな友達になって貰えるだろうか、そんな事を考えてしまう程に彼女は不覚にも浮かれていた。


「うむ、紫十郎は羞恥プレイを楽しむ精神的余裕に欠ける所があるのだよ」

「他人のいない所で何を話している、何を」

 後ろから不意打ちでチョップが二人の後頭部に降りた。攻撃を受けた二人が同時に振り向くと、声質と同じく憮然とした表情の紫十郎が腕を組み直している。露骨に慌てて顔に焦りが出るリエンと、表情の全く変わらないルシカ。ただ年齢的な差異以上に、二人には精神的隔たりがあるのだ。

「あの、紫十郎さん。どこまで聞いてました?」

「羞恥プレイが云々、って所を聞いただけだ。公共の場で何と言う言葉を発するんだよ」

 紫十郎は辺りを見回し、たまたま人がいなかった事に安堵した。

「リエンもルシカが奇言を吐いたら止めてやれ。お前の奇言は不本意だが、俺が止めてやるから」

「紫十郎には何度も言っているが、私を変人扱いするのは不当ではないかね。私程の常識人は他にいないのだよ?」

「それはルシカの常識だろう。それ以外の人間の常識からすれば、お前は間違い無く変人だ」

「ふむ。必要以上に才気ある者はいつでも不遇、か」

「言ってろ」

 そのやりとりは余りにも、余りにも自然でリエンは呆気に取られていた。彼ら二人の会話には一朝一夕では決して出せない滑らかさがあった。昨夜彼女が生み出した齟齬など、全く無きが如くやりとりが進行するのだ。二人の間には大小を別にして間違い無く会話を詰まらせる要素がある筈なのだ。ルシカは紫十郎の小さな異変に気が付いているし、紫十郎にしてみれば彼の精神的異変の原因である自分が目の前にいる。会話がおかしくなってしかるべきなのだ。

「まあ、私の事はひとまず置いておく。どうでも良くは無いが」

「わ、わっ」

 言い終わるとほぼ同時にルシカの手がリエンの肩を軽く押し出したのだ。全く予想外だった訳では無いが、余りに自然な行動だったが為に反応が遅れる。集中していないとてんで鈍い彼女は、ルシカにそのまま支えられていなければ転倒していたかも知れない。そんな所を見るとアルミナス家の娘だとか妄想や論理飛躍がどうとか言う以前に、やはり彼女はただの女の子だ。

「それよりも、アルミナス嬢が紫十郎に話があるらしい」

 ルシカの発言に紫十郎は少しだけ目を見開いた。驚愕と言うまでも無い、だがその行動を紫十郎が予想していたかと言うとやはり彼は首を横に振るだろう。心の備えとしては、「もしかしたらあるかも知れない」程度のものである。

 彼にとっては重要では無かった昨夜の出来事が、彼女にとっての重大事である可能性は十分に考えられたのだから。だがやはり彼にとっては些事でしか無かったのだ。

「あの、その」

 紫十郎が目の前にいる事を自覚すると、自室でいくつか用意してきたシナリオがどれも色褪せて見えリエンはそれを実行に移せなくなっていた。望む結果がある。そこに至る為の過程も考えている、そして万が一それらが全て失敗した時の事後処理の方法すら考慮に入れた。


だが実際に目標の人間を前にすると、小賢しい策を弄する程の余裕すら自分には無いと気が付く。机上の空論だけで実戦を行う事が出来無い様に、彼女には決定的に対人関係の経験が不足していた。咄嗟にアドリブを利かせられる程の精神的余裕も、精神的に支えてくれる経験則も彼女は持ち合わせていなかった。刻一刻と無情に過ぎ行く時間が彼女の焦燥を加速させるだけだ。

「焦るな、言葉が出なくなるから。取り敢えず深呼吸だ」

 助け船を出したのは、彼女の目標である所の紫十郎だ。一瞬焦燥すら忘れて、リエンは彼の瞳に見入る。

「深呼吸だ」

 もう一度、深呼吸を促す紫十郎。そこには怒りも、呆れも無い。子供を諭す様な、そんな丁寧で落ち着いた雰囲気だけが伝わってくる。

 促される通りに、一度。二度、三度とゆっくりリエンは周囲の空気を己の肺に取り込む。その行為が効いたのか、或いは彼の落ち着いた雰囲気に彼女が呑まれたのか。いずれにせよ深呼吸を終えた彼女の心には焦燥は影も形も無く、代わりに水を打った様な静けさが彼女を支配していた。


「落ち着いたか」

「はい」

「俺に言う事があるんだろ」

「そうでした、落ち着きすぎて忘れてました」

 今度こそ紫十郎の顔に呆れが浮かぶ。それがリエンには何だか微笑ましい。だが彼女は内より湧き出る感情を押し殺し、真剣な表情を作って言った。

「紫十郎さん、付き合ってください」

「……鉄格子付きの個室がある病院とか、好きか?」

 側頭部から左目にかけてを左手で抑え、右目だけで紫十郎はリエンを見据える。彼にとってリエンはなかなか話の噛み合わない部分のある少女であるが、対処法が分かればある程度まで対応が利く様になる。彼が導き出した対処法は、彼女のペースに嵌らない事だ。

「紫十郎さん、ふざけないでください。わたしは真剣なんです」

 そう、彼女はいつでも真剣なのだ。ただ言葉が足りなかったり、意味を間違って使っているだけで。

「ルシカ、俺はふざけているらしいのだがどうなんだ」

「今回はアルミナス嬢の言葉が足りなかった事で紫十郎に誤解がある、と私は推測する訳なのだが」

 二人のやりとりにリエンは自分の言葉に語弊を招く表現があるらしいと気付き、再検討しに掛かった。むぅ、と顎に左手を当てて考え込む様は余り似合っているとは言い難いが、愛嬌があって可愛らしくはある。異様な言動の矯正や趣味の隠蔽さえすれば、学園内でもそれなりに異性に人気が出るのではないだろうか、と紫十郎は彼女の考え込む姿を見てぼんやりと思った。

「紫十郎さん、彩菜のお見舞いに付き合ってください」

 言えた、今度こそちゃんと言えた自信がリエンにはあった。今度はルシカも彼女の言動に異論は無いらしく、何も口を挟む気配は無い。だが数秒、十数秒と待っても紫十郎からの返答は来なかった。


沈黙は二人以上の人間がその場にいなければ成り立たない。公的、私的と時間を問わず大抵不自然で重苦しいものであり質に差は無かろう。授業中の沈黙も、今現在進行形で起こっているそれも同じくらいリエンは嫌いだった。すぐに回答を求めたがってしまう。

「済まないが、一つ聞いて良いか」

 リエンから話し掛けようとする直前、紫十郎は口を開いた。

「彩菜、とは誰だ? 俺は記憶力に自信が無いんだ」

 全く予想もしていなかった回答に、リエンは思わず吹き出してしまった。ルシカの方はいつもの事、と肩を竦めて苦笑いをするのみだ。だがいきなり自分の欠点を笑われて、紫十郎は憮然とした表情になる。そう言えばリエンも自分を悪し様に言われた時こんな表情を作ったのかも知れない、と思考の片隅で思いながら。

「わたしのルームメイトですよ、古都 彩菜。十日くらい前からずっと会えなかったんです。今日やっと面会許可が下りたんで早く会いたいのと、最近仲良くなったルシカさんや紫十郎さんを彩菜に紹介したいんです」

「人の名前くらい、忘れぬ様努力が必要だな」

「物覚え悪いんだよ、俺は」

 そのせいで座学の成績は余り良くは無い、そう紫十郎は付け足した。照れ隠しか、視線はあらぬ方向に向かっている。心なしか、リエンには彼の顔が赤く見えた。

「さて、どうですか。付き合ってくれますか」

「暇だし、良いか。いつからだ」

 それを聞かれて、リエンの顔に花が咲いた。

「今からです」




 古都 彩菜がいると言う第三医務室は、普通生徒からすると縁の無い場所である。通常授業や部活動などで怪我をしたら、第一医務室か第二医務室で手当をされる事になる。第一と第二の違いはそこに勤務する校医以外、殆ど違いは無い。どの医務室も帝国立と言う権威、魔法学園と言う特殊な場所である事を鑑みかなり先進的な医療設備が揃っている。間取りも民間の学校のそれの五倍は広く取られており、大抵の負傷ならば本物の病院に頼る事無く処置が出来るのだ。

 そんなエテル魔法学園の医務室にあって、第三医務室だけは異様さが際立っていた。人によっては存在すら知らないこの場所は二度の身体検査と、武器になる様な物を帯びる事を禁じられている。ボールペンも、自室の鍵も身体検査の際に置いていかなければならないのだ。全くの非武装になって初めて、件の場所への入室を許される。

 それ以前に第三医務室へ至る道程は長い。見るからに凶悪そうな銃を持った武装警備員が要所に立っており、仮に暴れたとしたら無許可で多方向から発砲されるのだろうと予想が付く。そんな雰囲気を反映してか、白い壁面に覆われている筈のこの場所には闇がわだかまっている様な気さえしてくる。武装警備員以外にこの廊下を歩くのは、医療スタッフと思しき白衣の人物だけである。とても淋しい場所だった。魔法学園と言う異質な世界にあっての異次元、紫十郎は第三医務室にそんな感想を抱いた。

 紙に油性のマジックペンで書かれたぞんざいな表札が貼り付けてあるドアを開き、三人は漸く古都 彩菜との対面を果たした。ベッドは一つしかなく、病人は一人しかいないにも拘わらず部屋にはおよそ生活に必要な物は何でも揃っていた。本も、若者に人気な雑誌も、勉強をする為の机も、ざっと見る限りトイレも風呂も完備されている様だった。本棚に目を移せば少女漫画すら置いてあるくらい、この部屋は一つで完結している。病室と言うよりは、個人の私室だ。

 だが外界へ通ずる窓は高く、狭く、あまつさえ鉄格子が嵌められている。そう言えば見た目からは分からなかったが、ドアを触った感触も冷たくて硬質だったと紫十郎は思い返す。ドアを閉めると鍵も閉まる仕組みになっているらしく、その音にリエンが思わず来た道を振り返ってしまった。厳重にも程がある、ここは外界とは異質な住空間であった。

 ドアのオートロックの音で、とっくに部屋の主は三人が来た事に気が付いているだろう。だが彼らに後ろを見せて椅子に座る少女は振り返るどころか、微動だにしない。まるでヒトを精巧に模したヒトガタであるとでも無言の内に示すかの如く。

「……ちゃん」

 それでも、あらゆる意味で味方が少ないこの少女の感慨が収まる訳では無い。瞳を潤ませ、抑え難き感動に胸を膨らませている。

「彩菜ちゃん!」

 今正に元ルームメイトの首筋に飛びつかんとした所を紫十郎とルシカの二人に止められ、リエンはその場に留まる事を余儀無くされる。自分の行動を止められ瞬間発火した憤怒を彼女は二人に向けるが、彼らの表情を見てすぐに想いを鎮火してしまう。彼女は面会する際の注意事項を思い出したのだ。「決して病人に触れない事」、それを遵守しない事には面会は許可出来無いと。


直情的な自分が飛び出す事を予想していたのだろう、彼らは冷静そのものだった。彼女の行為を、彼らは咎めもしない代わりに無言で押し留めたのだ。

「リエン、久しぶりね」

 二人が引き離されて十日余り、だがその態度は対照的だった。仲が良い筈のルームメイトの姿を認めてなお、落ち着いた姿勢を崩さない彩菜と感激に自分を抑えきれずに飛び出そうとしたリエン。己を支える一柱が消え、心細かったリエンには彩菜の素っ気無い態度が懐かしい。

 それこそがいつだって自分よりも大人で落ち着いていて、諭してくれていた彩菜だ。窮地になると、いつも体を張って自分を助けに来てくれた彩菜だ。本物だ、本物の彩菜だ。そう実感すると思わずリエンの目から涙が溢れた。感激が過ぎて次の言葉が出ずに嗚咽が漏れると、紫十郎がハンカチを彼女に渡す。見ていない様でいて、さり気無い気配りが出来ている彼にリエンは思わず胸が熱くなる。

 紫十郎も、ルシカも、彩菜も、何も音を発しない。それが礼儀だとでも言わんばかりに、リエンが泣くに任せている。嗚咽と人肌に温められた水滴とが、病室を満たした。

「落ち着いたか」

「はい」

 まだ涙の跡が残っていたが、心は復調した様だった。それで充分なのだろう、リエンは改めて彩菜と向き合った。

「彩菜ちゃん、元気そうで良かった。本当に、一週間以上会えなかったからどうなんだろう、ってずっと心配していたんだよ」

 それはリエンの偽らざる気持ちなのだろう、付き合いの短い紫十郎にもそれは伝わる。だが果たしてそれが彩菜本人に伝わっているのかどうか、彼は一抹の不安を抱いていた。彼女の仮面の如き微笑みから、彼は何も読み取れなかったのだ。

「そう。リエン、心配掛けてごめんなさいね。私、伝染病に罹っていたらしいの」

「伝染、病?」

 ええ、と彩菜は頷いて肯定した。

「感染力は大した事無いし病状もそれ程酷くは無いんだけど、念の為学園自体を隔離したんだって聞いたわ」

「だから彩菜ちゃんに触れちゃ駄目だ、って言われたんだ」

「そう言う事ね。でももう大丈夫、もう必要な処置を受けて快方に向かっているからもうすぐ退院出来る、ってお医者様が言って下さったから」

 リエンの顔が見る間に明るくなる。また彩菜と一緒に寝起きし、座学の分からない所を教え合いながら生活出来ると思うと嬉しさで胸が一杯になるのだ。ここが校庭ならば、余りの嬉しさに走り回っている所だろう。或いは魔法使いの杖を振り回しているだろうか。

「ところでリエン、この方々は誰かしら」

 あ、とリエンが小さく声を漏らしたのを紫十郎もルシカも聞き逃さなかった。怪訝な顔付きの彩菜だったが、そこに敵意や害意と言った敵対心は抱いていない様である。ただ未知なるものへの警戒が、彼女の表情を引き締めている。

「……ごめんなさい彩菜ちゃん、まだ二人の紹介してなかったよね」

 彩菜から一歩下がり、リエンは男二人の方に視線を向けた。彼らの気のせいか、それとも自意識過剰からか、或いは真実からなのか二人を紹介する彼女の様子は少しだけ誇らしげに見える。それが妙に照れ臭くて、紫十郎は彼女が紹介する前に自ら名乗る事にした。

「幽 紫十郎、高等部所属。リエンとは最近知り合ったんだ、よろしく頼むよ」

「幽先輩ですね」

 彼の行動に、リエンは酷くご立腹の様で頬を膨らませて抗議する。仲の良い兄妹、知らぬ者が見ればそう見えなくも無いだろう。妹役のリエンを押しのけて、紫十郎は自分の事は名前で呼ぶ様にと告げる。

「紫十郎さん、わたしが紹介したかったんです。酷いです、二次性徴前の女児専門の性犯罪者くらい酷いです」

「いや、幾ら何でもそれは酷すぎだろ」

 まだ興奮醒めやらぬと言った感じのリエンだったが、久しぶりに会う彩菜の手前それ以上失態をやらかす訳には行かずやむなくルシカの紹介へと移った。彩菜はと言うと、終始会った当初と同じ微笑みを浮かべている。違いはと言えば、目を気持ち細めているかいないか程度でしか無いので、初対面の紫十郎やルシカには表情が読めない。常に柔らかな空気を保つ彩菜だったが、二人はその人形の様な感情の動きに良い印象を持ち得なかった。

「こちらはゼス=ルシカさん。紫十郎さんのルームメイトなんですよ」

 ルシカの方は紫十郎の二の舞を演じたくなかったのか、それとも彼女の気持ちを察してか口を挟まなかった。故にリエンの上機嫌が保たれる。

「今後ともよろしく願おう。それと私も名前の方で呼んでくれると有り難いのだが」

 彩菜が初めて表情を崩して笑顔を深くした。可愛らしいと言うよりは、美人の部類に入る彼女の上品さが紫十郎には笑顔により一層映えた気がした。見慣れていると思われるリエンですら、赤面して視線を落としている。ルシカは全く表情を変えなかったが。

「紫十郎先輩にルシカ先輩、リエンに付き合って下さってありがとうございます。リエンに聞いて知っていると思いますが、私はリエンのルームメイトの古都 彩菜です。どうぞ、よしなに」


礼儀正しく、腰を折って彩菜は深々と一礼した。その様子が紫十郎の中のリエンと重なる。リエンと同じ様に腰を折り、礼儀正しく一礼。ただリエンのそれよりも、彩菜の方がずっと様になっており洗練されていた。彩菜に憧れるリエンが、形だけでもと真似した結果では無かろうかと彼は勝手に推測してみる。

「どうですか、紫十郎さんにルシカさん。彩菜ちゃんはわたしの自慢のルームメイトなんですよ」

 妙な自慢に紫十郎とルシカが窮していると、彩菜自身が助け船を出した。

「リエン、私はそんな大それた人間じゃないわよ」

 やんわりとした口調の中に、一本心の通った強さがあると紫十郎は感じ取った。譲れない何かを持った人間、自分に対して自信を持った人間の強さだ。似ても似付かないルシカと同じ様な雰囲気とでも言おうか、匂いを感じるのはその為か。日々を強く生きる事が出来る者が持つ独特な空気、それは一流の魔法使いの条件の様なものだ。

 能有る鷹は爪を隠す、とも言う。

「またまた、謙遜しなくても」

「違うのよリエン」

 彩菜の微笑みが苦笑いに変わる。仲の良さそうな姉妹、同級生とか同寮生と言うよりはそんな感じだ。勿論リエンよりも目算で十センチ程身長の高い彩菜が姉で、妹役がやはりリエン。身長や体格差以外に、物腰からして年期が違う様に見える。リエンからは彩菜の事が本当に好きでしょうがない、そんな雰囲気が伝わってくる。

 彼女達の親密さはリエンがうっかり彩菜の身体に触れてしまわない様に、と紫十郎とルシカが密かに気にしなければならなかった程である。

 だがそんな幸福な時間は長くは続かなかった。

「ごめんなさいね、もうそろそろ定期検診の時間なの」

 申し訳なさそうな彩菜に対して「そんな事無い、わたしこそ長居してしまってごめんなさい」とリエンはフォローに入る。名残惜しいのだろう、少しだけ彼女の足取りは重い。その内にドアの向こうにいる武装警備員にルシカはドアを開けて貰う。紫十郎に促され病室を出る彼女は部屋に残る彩菜に精一杯の笑顔を向ける。

「彩菜ちゃん、今度アークス市に出来る『初音桜』、行こうよ。叔父さまが安くしてくれる、って言ってたの」

「……ええ、そうね」

『初音桜』と言う名を出したその瞬間、彩菜の表情が曇る。だがそれに気付いたのは紫十郎とルシカの二人だけで、リエンはその刹那を見逃してしまったらしい。それ程の一瞬に何が彼女の中で起こったのか。割引券を彼女に握らせ、上機嫌になっているリエンを見て何を思うのか。紙の様に白く、人形の様に作り物めいた表情からは何も読み取れない。

 古都 彩菜と言う女の裏の顔は、有名である。学園内で恐らく知らない者などいない、と断言出来る程に。喧嘩をさせれば対戦者も人数も選ばず連戦連勝、学園内最強の拳を持つ女。いくらリエンでも知らない筈が無い。だがルシカがその話題に触れる事は無かった。その話題に触れる事を躊躇った。

 そんな彼女が来る前まで読んでいた雑誌と思しき紙束がルシカの目に入った。帝国新報、見出しには覚えがある。そう、ファーストフードチェーン店最大手の『初音桜』のアークス市進出が一面を飾っている新聞である。




 就寝時間を過ぎた学園の中、巡回するのは勤続五年以内の比較的若い教師の役目である。学生寮と、機密の比較的少ない校舎の一般区域に異常が無いかどうかを確認するのは、既にエテル魔法学園の伝統とすら言えるだろう。学園の要所は対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)と銃火器の携帯権限と発砲免責権限を持つ武装警備員によって常時護られているので、余程大規模な攻撃でない限り防ぎきれないと言う事はあるまい。彼ら教師が専ら巡回し護るのは国家的な重要機密などでは無く、個人的な機密――生徒の作品が保管されている倉庫や資材置き場である。

 他人の作品のアイディアを盗もうとか、足りなくなった資材を無許可で持ち出そうと言う生徒も希にいるのだ。褒められた事では無いが、彼ら生徒も生徒なりに必死なのである。うだつが上がらぬ者、成功した他者を妬む者、羨む者、憧れる者と十人十色なのは何も大人だけに限った事では無いのだ。成績が余りに芳しくない場合、放校処分も有り得るのである意味彼らは他の大人以上に躍起になる。

 毎年生徒の内誰か――八割方『その他』クラスの誰かが作品のアイディア盗用や資材の無断使用で放校処分を受けている。才能を開花させる方法が分からず焦りに焦った末に自暴自棄になってしまっているのだ、と彼は自らが教師になってから聞かされた。彼は言ってしまえば没個性的な学生だったので、その辺りの事情を初めて知って悲しくなったものだ。学生の時分には、盗作の理由にまで目を向けていなかった事に少なからず罪悪感を覚える。
 

平凡な才能に平凡な義憤を燃やした所で、彼に出来る事などたかが知れているのは自分が一番良く分かっていた。彼らを助けてやりたいのは山々である。だがしかし今の彼は教師だ、生徒が悪行を働くのを黙って見過ごす様では職務怠慢の誹りを免れ得無いだろう。己の手に余る問題には手を出さず、身の丈にあった仕事に精を出せば良い。

 それは平凡な選択。それは常識的な考え。それは一般的な人間の幸せである。自己の異状に一片たりとも気付いていない者の考え方である。

 彼は万が一が無いかどうか、生徒の作品を保管する倉庫のドアを開ける。懐中灯で入り口から内部を照らし、侵入者がいないかどうかを確認するだけでは足りない。そもそも生徒達は戦闘技能を含め、各種特殊技能を習得する学校で学んでいるのだ。鍵無しで鍵付きのドアを開ける技能、索敵行動をしている敵兵から身を隠す術、遠方から敵の存在を察知する術などを習得していたとしても何ら不思議では無い。特に地属性の魔法使いなどは、正に索敵や隠密制圧の能力が高いと学生の頃聞いた事がある。相手も未熟とは言え、子供とは言え魔法使いなのだ。

 そして魔法使いの都故か、アークス市は幽霊騒ぎも多い。魔法使いの総本山たるこのエテル学園でもそんな噂は事欠く年は無い。曰く、午前二時を回ろうかと言う時刻に白いワンピースを着た裸足の少女が中庭を歩く。曰く、音楽室にある過去の作曲家達の肖像画の目が光る。曰く、美術室の石膏像が夜な夜なスクワットをする。曰く、校舎二階の女子トイレ三番目の個室に午前零時きっかりに入るとどこからとも無くスリーサイズを聞く声がする、等々。

 何処の学校にもある馬鹿馬鹿しい噂であったが、この内の幾つかは毎年目撃情報が生徒から上がっているので、本当にあるのだろうと言う事になっている。教師達の見解では、噂が空気中に残留していた極微量の魔力の影響を受けて変な形に実体化したのでは無いかと言う事になっていた。噂が本当だろうと嘘だろうと、実害がある訳でも無いので放置されているのが現状である。

 彼は幽霊と言うものに対して直面した事が無く、噂以上に話題に上らない為に実在性の乏しさから恐怖が薄い。それどころか錯覚であるとさえ思っている節があった。この科学技術の進歩激しい現代社会に於いて、そんな何だか良く分からないものがいる訳が無いと。

 彼は気が付かない。己の思考に決定的な矛盾を孕んでいる事に。

 己の存在こそが、魔法使いである自分そのものが彼の信じる科学を否定するものであると気が付いていないのだ。既存の科学では無から有を生み出す事は叶わないが、魔法はその科学の常識を根こそぎ覆してしまっている事実を彼は見落としている。魔力とは何か、まだそんな基本的な事すら科学は解明出来ていないのだ。今でもその事実は科学最大の汚点である。

 だが今の彼にそれを責めるのは酷と言うものだろう、彼は意識の一部分が麻酔を掛けられた様に茫洋としているのだから。彼はマスターキーでロッカーの一つを開ける。ロッカーの使用者はゼス=ルシカ、中には開発中の投影機が幾つかある。彼は試作品の一つを取り出し、対魔力保護カバーを外してスイッチを入れた。それは彼が如何に教師と言えど明らかに越権行為であり、下手をすれば免職にもなりかねない危険な行為である。

 だが問題はそれだけではない、装置は淡く紫色の光を発し彼の顔を照らしている。ただそれだけでは魔力を集積し、一定の出力で放出するしか能が無い装置である。今、彼は何の加工もされていない魔力を浴びていると言う事実にある。

 生の魔力の危険性は、魔法使いならずとも――まだ義務教育を受ける年齢にすら満たない子供ですら知っている。国が定めた基準値以上を超える無加工の魔力の放出は、数少ない特例を除いて刑事罰が下る。生の魔力を短時間に浴びると精神に失調を来したり、人体に対して悪影響が起こったり、最悪中毒死する危険性すら孕んでいるのだ。魔法使いが魔法を使う際、四つの段階を経て慎重に魔法を行使する理由は正にそこにあるのだ。そして彼は魔法学校として最高峰と謳われる帝国立エテル魔法学園の教師であり、ヴェルフェニア帝国の臣民であり、魔法使いであり、魔法の都アークス市の市民である。その様な事は百も承知の筈なのだ。

 だが彼はそんな当たり前の常識が分からなかった。判断力を奪われていた。意識までが奪われている訳では無いので、彼は自らの異状に気付かない。異状である事そのものが認識されないのだから、気付く術が無いのだ。暫く一定時間魔力の光を浴びた後、彼は試作品のスイッチを切りルシカのロッカーへと戻した。鍵も掛ける。証拠が無ければ、神ならぬ身では何事があったのかなど分かるまい。

 彼はその異常行動を終えた後、何事も無く己の職務へと戻っていった。たった今まで自らのしていた事を綺麗さっぱりと忘れ去って。