第二章



 いつもクロワッサンかバターロール二つとブラックコーヒー一杯、それにコンソメスープかコーンスープ一皿とゼス=ルシカは朝食を決めている。別に拘りがある訳では無いが、この学生食堂で色々なメニューを頼む内に辿り着いた彼なりの結論である。至極在り来たりなメニューではあるがクロワッサンは朝食では割と人気を集めるので、確実に口に入れる為には早くから起きて在庫を確保せねばならない。


朝は皆脳が半分寝ているのか、はたまたやる気が起きないのかてきぱきと行動する者が少ないせいか時間が掛かるのが常だ。並んで食券を貰って、食べ物と引き替えて席に着いて食べる。ただそれだけの事に時間が掛かる。昼食や夕食とやる事は大差無いにも関わらず、である。


だがそんな事はルシカには無縁であった。現在学食中央の柱時計が示す時刻は、丁度午前五時三十分。授業開始時刻は午前八時、まだ二時間半も先の事である。流石にここまで朝早く朝食を食べに来る人間は数少ないので、彼は望む食べ物を手に入れる事が出来るのだ。早朝練習に行くのだろう、ジャージ姿に着替えている女生徒二人が他愛の無い会話をしながら学食に入ってくる。彼女らを勘定に入れても、彼自身を含めて学食で朝食を摂っている人数は両手の指で数えられる程しかいない。

 ルシカはこの様なゆったりと流れる朝が好きだった。本来は騒がしく在るべき場所で、喧噪とはおよそ無縁の時間を噛み締める。コーヒーとはまた別にプラスチック製のコップに注がれた冷水で錠剤を一息に流し込むと、彼の朝食が幕を開ける。飲み続け無ければ生きていけないとは言え、やはり面倒なものだ。それに良薬口に苦しとは言うが、錠剤は酷く不味かった。


舌が拒否する苦みを打ち消す様にまだ熱いコーヒーを一口啜ると、浅煎りのコーヒー豆特有の酸味と薬とは違う苦みが半々で咥内に広がる。まだ時間の無さを理由に適当に淹れられていない、丁寧な味を舌に感じながら彼は購買で買った新聞に目を通す。

 彼がほぼ毎日買っている新聞の名は帝国新報、このヴェルフェニア帝国で一番大衆に読まれている新聞である。国際欄、国内欄、経済欄、刑事欄と読者が知りたい事の要旨がズバリ書かれていると評判で、エテル魔法学園の教師・生徒問わず愛読者は多い。

 彼の噂好きは学園内でも有名だが、それ以外にも新聞や雑誌にも目を通す事で知られている。趣味の特殊さはそれ以上に知れ渡っていたが、知識に対する飽く無き貪欲さが彼をただの変態に落ち着かせる事を許さなかったのだ。天はゼス=ルシカと言う男に二物も三物も与えたが、致命的な欠点をも付与したと揶揄される由縁である。

――ファーストフードチェーン店の最大手『初音桜』がアークス市に進出

 帝国新報の見出し一面にそんな文字が躍っていた。多分地元紙のアークス日報も大ニュースとして一面を飾っている事だろうとは予想が付いた。元々魔法の大系化が進む以前からアークス市は宗教施設の多く、最近流行りの自由主義よりも道徳的な規律が厳しい都市としての特性を保有していた。故に教育行政に宗教的道義が未だかなり残っており、ならず者が食するジャンクフードと言う印象を持つファーストフードと言う物に対して抵抗感を抱く人間が少なくなかった。科学の爆発的進歩により大分緩和されたもののまだ幼い子供を持つ親や宗教関係者、老人などにはファーストフードを毛嫌いする者が数多くいるのだ。そして地元商店街の根強い反対も一因として挙げられる。

 それに何より、アークス市は帝国最大の魔法学園を擁する都市である。『初音桜』の進出はエテル魔法学園の生徒に悪影響を与えるのでは無いか、と一部の識者から言われていた。その辺りがファーストフードチェーン店がアークス市程の大都市で一軒も進出しない理由であると言われていた。だが今回、ついに時代の波に負けたのか禁が破られた様である。

 クロワッサンを噛み千切る動作、コーヒーを口に運ぶ動作は新聞の字面を追う作業と平行して行われている。何度も何度も行った事による動作の反射化で、ルシカはほぼ無意識にこれら二つを同時にこなしていた。朝食を完全に食べ尽くした後も、その場に居座り続けて新聞を読む行為を彼は止めようとしない。皆が起き出す午前七時以降ならば文句も出ようが、まだ生徒の大半がベッドの上で寝息を立てている状態では彼に文句を言う人間は現れなかった。

「今日も早いな、ルシカは」

 自分に掛けられた声に新聞から視線を上げる。時刻は漸く午前六時十分、幽 紫十郎はルシカに三十分遅れて朝食を載せたトレイをテーブルの上に置く。紫十郎は生まれも育ちもヴェルフェニアだが、元々の先祖は移民の出である。名前や肌の色がルシカ達、純粋なヴェルフェニア人と異質なのはその辺が理由となっている。古い血がそうさせるのか、彼は小麦で作ったパンよりも稲から取れる米を好んで食す傾向があった。彼らに限らず、ヴェルフェニアでは外国人労働者や元・移民が多い為に食べ物も雑多を究める。

 このエテル魔法学園でもそんな国の事情を察してか、パン食と米食の両方を取り入れていた。そんな雑多な空気が、『初音桜』の様なファーストフードチェーン店の発展を促すのかも知れない。

「おはよう、紫十郎」

 広げていた新聞を畳み、紫十郎に自分が意識喪失状態で無い事を伝える。何だかルシカは紫十郎の顔を見たら眠くなってきたのだ。無意識に船を漕ぐ自分を発見して、慌てて両手で頭の位置を矯正する。

「ルシカ、寝てないのか」

「いや、ぐっすり寝てバッチリ起きた。ただ」

「ただ、何だよ」

「紫十郎の顔を見たら、急に眠くなってしまってね」

 自分を現在の状態の原因に使われたにも拘わらず、紫十郎から反論も批判も来ない。納得してはいないだろう、だが彼には朝から不毛な論戦を展開する気力も無駄な時間も無いのだ。「そうか」と一言、ルシカの視線から目を反らして彼は顆粒の薬剤を水無しで飲み込んでから味噌スープで湯気を上げる白米を胃の中に流し込む。余り品のある食べ方では無いが、指摘する者も気にする者もいない為に人の少ない学食に彼が立てる音が良く響いた。


早朝練習の為に起き出した運動部の生徒達が学食に集まりつつあったので、流石に気まずくなったのか自主的に彼の食料を口の中に掻き込む音は小さくなる。そんな紫十郎を見て、ふとルシカは気になった事を思い付いた。


紫十郎は変わり行く世界を、ヴェルフェニアを、アークス市をどう思っているのかどうかを。

「紫十郎、一つ聞いて宜しいか」

「何だよいきなり」

 彼は食べる手を止め、ルシカを見据える。ルシカは本当に問い掛けたかった言葉を喉の奥に押し込んだ。言うべき言葉では無い様な、そんな気がしたのだ。

「紫十郎はファーストフードが好きかね」

「ファースト……ああ、そう言えば『初音桜』がアークス市にも出来るんだってな。嫌いじゃないぞ、あまり回数食った訳じゃ無いけど」

「そうか、では今度食いに行かないか。実は私はファーストフードなるものとずっと縁が無くてね」

「そうか、じゃあ軟禁状態が解かれたら行こうか」

 たったそれだけ。ルシカにとっても、紫十郎にとっても『初音桜』の進出とはその程度の事でしか無いのだ。自分の住む世界に対して過剰なまでの干渉がある訳では無い。『初音桜』が年配者や宗教関係者の様に嫌いであれば、無きが如く生活すれば良い。彼らはそれが出来るのだ、大多数の幸福の下に在る少数の不幸など知る由も無く。

 帝国新報の地域欄には『初音桜』進出の煽りを受けて、飲食店を畳んだ男性の話が小さく載っていた。




 ルシカは眠い目に気合いを入れ、欠伸を押し殺して睡魔と格闘していた。幾ら彼が天才と言えど学生である事に変わり無い。学生の本分は文字通り学ぶ事であり、具体的には授業を受け何某かを学び取る事である。だが授業内容は彼が既に趣味の魔法実験によって体得、或いは知識として手に入れてしまっている事が大半なのだ。彼の――ゲオ=グラームス教師の授業を除けば、睡眠時間にしても支障は無いと言ってしまえる。

「魔法使いにとって最も大切な事は、己を御する事だ」

 ベテラン教師の良く響く低い声が蒼天に届く。今、この時間はグラウンドでの魔法実践授業なのだ。

「どんな物事でも重要事項ではあるが、我々魔法使いのそれと他の職能者のそれでは意味が違う」

 もう五十も半ばだと言うのにぎらぎらとして圧力さえ感じる眼光が、ゲオ教師をそこいらの学校の教師とは別格である事を伝える。服の上からでも分かる盛り上がった筋肉は見かけ倒しでは無く、実戦を想定して鍛えられたものである事は彼の授業を受けた事のある者ならば誰でも知っている。新任教師には決して出せない重みがあるのだ。

「魔力の方向性を決める事、それこそが魔法の基本中の基本であり奥義でもある」

 彼の一本しかない腕には、教師用の印が入った魔法使いの杖が握られている。以前古くからヴェルフェニアの仇敵であったトリアム王国との国境間紛争の際に失ったのだと言われているが、本人がその事を語らぬ為に定かでは無い。「魔法使いが下手を打つとこうなる」、彼は生徒をそう言って指導している事は確かだ。

「ゼス、この薪を魔法で燃やしてみろ」

「はい」

 ゲオ教師が放った薪を左手で受け取り、ルシカは身振りで他の生徒を魔法が届かない安全圏へと退避させる。逡巡は許されない。限り無く実践に近付ける為、と言う名目で彼は時に苛烈な体罰をも実行する。鉄面皮が怒りで朱に染まる様は見た試しが無いが、それだけに恐ろしい。冷静で冷酷、ゲオ教師は正に魔法使いの鑑だと言えた。

 身体の裡より生まれた小さな熱を右手に持つ杖の先端へと集める、ルシカはそんなイメージを描いた。幻影の熱が杖の先に集まり、見えない導火線を伝って目標の薪に燃え移る。それは彼以外の何者も見る事が叶わない心象だったが、彼の思い描いた通り現実の薪に炎が上がった。

声にならない動揺、或いは小波の様な歓声が生徒の中を広がった。

「良し」

 ゲオ教師のその言葉を聞いて、ルシカは漸く安堵する事が出来た。額にはうっすらと汗すら滲んでおり、彼がどのくらい集中していたのかを表していた。当然彼の眠気など、ゲオ教師に声を掛けられた瞬間から吹き飛んでいる。


出来る限り精緻に、素早く、正確に事象を顕現させる事こそが魔法使いの格を決める。民間では魔法使いと言うと地形が変わる程の戦略級魔法を使いこなしてこそ、と言うようなイメージがあるが実際には違う。威力などは二の次、三の次であり魔法使いの最低条件は「魔法を暴走させない事」なのである。そもそも魔法体系化黎明期に戦略級魔法は開発されているものの、ヴェルフェニアでは早々と使用禁止になっていた。

「魔法は通常、どれ程習熟しようが四つの手順を必要とする。つまり魔法の効果を得る為のイメージの想起、方向性の決定、魔力の発生、現実世界への顕現だ」

 そう、逆に言えばそれだけ出来れば魔法使いになれるのだ。近年違法な魔法行使事件が増加傾向にあるここアークス市にとっては、余り歓迎されない事実ではあるが。薬物によって特殊な精神状態を作り出せば、比較的簡単に魔法は行使出来る。魔法の危険性や暴発の可能性をまるっきり無視した形にはなるが。

「今日は魔法の基礎能力向上の授業とする」




「さて、制作の続きでも始めようかね」

 今日最後の授業を終えて部屋の敷居を跨ぎ開口一番、ルシカは誰にとも無く呟いた。腕を肩の上に伸ばし、首を回して自分の机に向かう。ルシカの飽く無き探求心は(直接本人に言った事は無いが)紫十郎も尊敬に値すると思っている。常に高みを目指す姿勢、それは紫十郎には無いものだ。

 紫十郎の視線に気付き、ルシカは部品整理を止める。

「何かね」

「いや、何でもないんだが。精々頑張れ」

 照れ臭いなどと、仮にも年頃の紫十郎の口から言える筈も無い。

「言われなくとも、私はエロ本業界に革命を起こすさ。もっとも、私の最終目標は音声付きの参加型エロ本だ。商品化したら紫十郎にも一つやろう」

「いらんわ、そんなもの」

「そう言うな。第一段階であるエロ本の出来を見て貰いたいのだよ、同じ魔法の道を進む者として。それに第一弾は低年齢の女の子を対象にした恋愛物にする予定なのだ、紫十郎も興味が湧くだろう?」

「湧かん」

 ルシカの容姿は決して悪い方では無い。むしろ平均を大幅に上回っていると言っても良いだろう。服や小物のセンスも、紫十郎の目から見て小綺麗である。その上将来を約束される程の魔法の才と学業成績が彼にはある。だが彼の周囲で浮いた話は一つとして聞いた事が無かった。彼の趣味思考が余人とはかけ離れすぎているが故に。

「強情な。死とエロは生きとし生けるもの全てが持つ共通の関心事なのだよ、紫十郎はそれを否定しようと言うのかね」

 律儀に組み立てていた途中の部品を箱の中に再びしまい、ルシカは椅子から立ち上がった。また彼の演説が始まる、そう呆れながら紫十郎は気付かれない様に嘆息した。今度の演説は何処まで広がるだろうか。心理学か、男女学か、文化人類学まで広がるのか、生物学までか。だがルシカの演説も、紫十郎の想像も、部屋をノックする音に遮られて現実になる前に中断を余儀なくされた。


内心安堵する紫十郎、一瞬不満を露わにしたルシカ。そんな表情を打ち消して、紫十郎は部屋のドアを開けた。

「こんばんは、紫十郎さん」

「帰れ」

 ドアを閉めようとする紫十郎に抗するかの様に(実際その通りなのだが)、彼女は自分の足を挟んでドアの開閉を阻止する。なおも閉めようとする彼に対して、埒が明かないと考えたのか笑顔のまま身体をドアの間に滑り込ませる。訪問販売と同じ手口だ。

「女の子が訪ねてきたのに、ご挨拶ですね」

「見知らぬ侵入者に対しての作法なんだよ、それよりも何故お前はこの部屋を訪ねているんだ」

 適当な理由をでっち上げてでも、紫十郎は彼女に帰って貰いたかった。それもその筈、彼女は昨日彼が出遭った――

「お前、じゃなくてリエンです。アルミナス=リエンです。わたしの事、忘れちゃったんですか? 酷いです、わたしを弄ぶだけ弄んだら捨てるなんてあんまりです」

 彼女はハンカチを取り出して、嗚咽混じりに泣き始める。一から十まで間違っている女の相手をするのは昨日が最後だ、紫十郎はそう思っていた。いや信じていた、盲信していたと言っても良い。昨日の出来事を悪い夢だと思い込もうとしていた彼にとって、彼女は実体化した悪夢そのものであり面倒事の権化なのだ。

「もう何処から指摘して良いのやら。ともかく、部屋に上がるならドアを閉めろ」

「はい、失礼します」

 言うが早いか、リエンは後ろ手にドアを閉めて紫十郎に一礼する。彼女の頬には涙の痕跡は見られない。嘘泣きだったらしい。頭の一部がお花畑であるにも関わらず策略を弄する知能を持った彼女に、彼は改めて立ち眩みにも似た絶望感を味わった。

 リエンは無遠慮に部屋を見渡して、一言。

「男の人の部屋、って何だか殺風景ですね」

「知るか」

 彼女から目を反らして、紫十郎は部屋にもう一人の住人がいる事を思い出した。流石の変人ルームメイトも、自らを超える変人を目の当たりにして口が利けないのか。

「悪い、まだこの女の紹介がまだだったな。こいつは」

「アルミナス=リエン、現在帝国立エテル魔法学園中等部に在籍。百余年の歴史を誇るヴェルフェニア帝国勃興の時より帝に仕える重鎮アルミナス家の直系で、先帝や現帝から絶大な信頼を得ていた元内務省長官アルミナス=ベスカティエの孫娘。父親のアルミナス=マーグレフは現在、帝国議会の貴族院議長をしている筈だ」

 紫十郎が説明をしようとした矢先、遙かに詳細な彼女の情報がルシカの口より語られた。その内容は紫十郎にとって、驚天動地と同義語であった。まさか、そんな筈は。連想はしても、真っ先に振り払うべき想像の中に答えはあったのだ。


どんな浅薄な授業しかしない学校の歴史の授業でも、アルミナス=ベスカティエの成した事は習うだろう。元々ヴェルフェニア帝国勃興以前からの正規軍だった軍隊を近代的に仕立て直した外務軍とは全く別個の思想に導かれ、かの人物は内務軍を率いていた。数と知略、そして火力によって成される近代的な軍隊とはかけ離れたそれは、この国の近代化が生んだ徒花とも言うべき集団。数よりも質を尊び、科学よりも敢えて不確定な力である魔法を採った不正規軍――帝国最強の戦力である『対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)』と双璧とも噂され、帝国臣民から『静刃(サイレント・ブレード)』と異称される部隊。創設者にして統括者アルミナス=ベスカティエの苛烈な行いは、帝国国内はおろか諸外国にまで知れ渡っている。


共産主義に傾倒した将校のクーデター「4・13事件」の武力鎮圧、国際テロ組織『神罰』首謀者の捕縛、トリアム王国情報部工作部隊の一斉摘発、細大合わせれば武勇伝には事欠かない。後にルシカの言う通り内務省長官になった後も、彼は長官の椅子で指示を出すのみならず頻繁に現地へ赴き成果を自分の目で確認していたと言う。アルミナス=ベスカティエとは紫十郎にとって実在の人物では無く、紙面上に生きる活字世界の住人でしかなかった。それを今、アルミナス=リエンと言う実在(点ルビ)によって打ち破られたのだ。

 呆気に取られる紫十郎と、眉一つ動かさないルシカ、身内を紹介されて困った顔をするリエン。三者三様の表情、三者三様の心境に誰一人声を発する事が出来ずに暫く音が世界から失せた。

「すみません、はっきり告げなかったわたしが悪いですね」

 申し訳なさそうに謝るリエンに対し、紫十郎はまるで珍獣を見る様な目を向ける。その彼の様子に彼女は少しだけ胸を痛めた。好奇の視線には慣れている。畏怖の視線にも、同様だ。だがそれでも対等な人間関係が手の平を返す様に崩れるのは、苦しいものだ。彼女とてアルミナスと言う名が持つ絶大な力については知っている。大抵の人間ならば彼女の後ろにそびえる力に萎縮し、接触を避けるだろう事も。

 分かっている事とは言え、嫌なものは嫌なのだ。緩む涙腺をぐっと堪え、笑顔を作る。

「アルミナスの娘だと知っている人間はどこかよそよそしいんです。だから紫十郎さんの自然な対応が、わたしには嬉しかったんです」

 その奥から滲み出る悲哀は、決して演技では出ない色合いだった。彼女がアルミナス家であると言うだけで、幼少期どれだけの友人に巡り逢えたのか。血と家が引き寄せるのは彼女にとって決して歓迎されざる権力の亡者しかいなかったのだろう、それを彼女は如実に体現していた。

「だからこの方ならわたしを貰ってくれる、と」

「何故そこまで飛躍する」

「恥ずかしい所を見せて良い殿方はお前が決めた相手だけだ、ってお爺さまが言ってました。だから」

「お前の理論と、そのお爺さまの理論は順序が逆だっての」

 リエンの思考回路はアルミナスと言う名の巨大権力は関係あるまい。何処をどう間違えばこの様な考え方が自然に形成出来るのか、紫十郎は不思議でならなかった。それは彼女の慕うお爺さま――かのアルミナス=ベスカティエの教育故か、それとも両親の影響か。歴史では語られる事は無かったが、彼らは物凄い変人で孫娘におかしな事ばかり教えていたのか。どちらにしろ、真相は彼女の中にしかない。

「二人で婚前会議中済まないが、私はアルミナス嬢にはかねがね二つ聞きたかった事があるのだ、良いかね?」

 紫十郎とリエンの無限に円環する会話を断ち切ったのは、部屋のもう一人の主であるルシカである。リエンが来るまで、怪しげな発明に熱を上げていたとは思えない真剣さが彼にはあった。

「誰と誰が婚前会議だ」

「確か君は古都 彩菜の同室だったと記憶しているが、間違いないか」

「……はい」

 紫十郎を無視し、ルシカはリエンに話し掛ける。リエンは次に自らに聞かれる事を予想し、半ば身体を萎縮させ視線を落とす。数瞬前までの明るい雰囲気は何処へやら、部屋の空気は先程の数倍もの重量を持った。

「ではもう一つ。彼女の様態はどうかね」

 彼女、とはやはり『古都 彩菜』と言う人物の事であろうとは紫十郎にも察しは付いた。そして今現在、彼女の身に何かが起こっていると言う事も。だが口を挟むべきではない、紫十郎にもその程度に空気を読む事は出来た。


リエンは聞かれてから数分間、視線を自分とルシカの間を彷徨わせて口を閉ざす。話すべきか、話さざるべきか。まだ二人は、紫十郎を含めて三人は会って三日も経過していない。殆ど他人であると言っても良い二人に、彩菜の身辺の事を話して良いものだろうか。会ったその場でいきなり婚約を切り出した自分の事を置き去りにして、彼女は身体が芯から熱くなるまで考えた。そもそも彼女は彩菜の事を教師達から「他言無用だ」と言われている。何があったのか、何が起こっているのかは教えて貰えなかったが、大変な事が自分のルームメイトに起こったのだと直感した。


教師から他言無用を言い渡されて、一週間が経った。追加の連絡は無く、彩菜がどうなったのかは分からない。彩菜もアルミナスと言う名に屈せずに態度を変えなかった者の一人で、またリエンの殆ど唯一と言っても良い友達なのだ。彼女の事後経過を全く聞けない、それが彼女にとってどれ程の心的重圧になっている事か。

ルシカはリエンが話し始めるのを辛抱強く待つ。


更に数分を要し、漸くリエンは語り始めた。彩菜の身に良くない事が起こったらしい、と言うくらいで殆ど何も知らない事。教師達はルームメイトであり友達でもある彼女に関連する情報を全く遮断して、起こった問題を対処しようとしている事。味方がいなく今自分が一人である事への不安、そして彩菜の様態に対する不安。


知り合って一日しか経っていない二人に話すには、余りに内面に関わりすぎていた事はリエン自身も承知の上である。しかしそれでも、内在する不安を緩和する為に彼らに話したのだ。


紫十郎はルシカの時とは違い、彼女の話を茶化す事も疑問点を列挙する事もしない。それはリエンが彼女にとっての真実を述べているからであり、噂から来る無責任な情報では無いからだ。そう言う時、彼は疑問や可能性を自分の中にしまっておく。

「それでアルミナス嬢は、私達にどうして欲しいかね」

 言葉に詰まるリエンと、そんな彼女に不純物の無い真っ直ぐな視線で射抜くルシカ。そして彼の数勘定にさりげなく入れられている紫十郎は、その事実に気付いてはいたがやはり無言。その彼らの間にあるのは、その程度で壊れる絆で結ばれる信頼関係では無いのだ。

「わたしは……」

 その先の言葉を言って良いものか。

「答えを急く必要は無いのだよ。私達の助けが欲しければ、いつでもここに来ると良い。私も紫十郎も狭量では無く、また必要以上に冷血でも無い。愚痴を言うだけでも肩の荷は軽くなるだろうし、真相に近付く為の手助けも必要ならばしよう」

 それはリエンにとって非常に有り難い言葉だった。だが、何故とも思う。

「どうして、あなた達はわたしにそこまで言ってくれるのですか」

「君と繋がりを持つ事で私も紫十郎も利益があるからだが、問題かね」

「いえ、問題なんて事は。ありがとうございます、えっと」

「ルシカだ、ゼス=ルシカ」

「ありがとうございます、ルシカさん」

 腰を折り、頭を下げてリエンは礼を言う。この礼儀正しさこそは、間違い無く教育の賜物であろう。ドアノブに手を掛けた時、思い出した様に彼女はその小柄な体躯を反転させて二人を視界に納めた。その表情に現れているのは笑顔と、安堵。

「それと、わたしの事は気軽にリエンって呼んでくださいね」


器用にウインクを決め、再び片足でその場を半回転してドアノブを回し、今度こそドアを開ける。その後遅くなったから送ると申し出た紫十郎の誘いをやんわりと断り、部屋を出てリエンは闇に満たされた廊下を小走りに進んでいった。

「良い娘ではないか。紫十郎よ、婚約してしまったらどうだ」

「ズレた妄想と、飛躍する思考が無ければな」

 リエンが去った後、空間が静まり返った様に思えたのは二人とも同様だった。