プロローグ

 いつの世も、また何処の世界にも悪事の種は尽きないものらしい。それがいわゆる悪事をする為に悪に手を染めると言う、救い様の無い悪人である事は少ない。それは何の変哲も無い平凡な人間が起こすものが大半である。煙草の吸い殻を道端に捨てる、最近大衆に出回りつつある自動車の違法駐車など、国家が定める法律に違反する行為であるにも関わらずそれらが尽きる世は来そうに無い。

 軽い気持ちから、少しくらいなら、自分一人が行っても大勢には影響が無い、などと言う心理が働くからであろう。そして自らの行いを過去にし、己の記憶より消して元の生活へと戻るのだ。現行犯でなければ警官すら見逃す様な些細な悪事であり、そこに罪の意識は無い。

 今回もまた、その様な軽い意識で行われた事であった。

 ヴェルフェニア帝国アークス市。そこはヴェルフェニアで魔法の最先端であり、魔法の中心地であり、魔法により発展した大都市であった。故に他の都市では滅多に見られない怪異や、他の都市よりも数段危険な魔法絡みの犯罪も多い。魔法犯罪に対抗する様に、銃器での犯罪も他のヴェルフェニアの都市よりも多い。犯罪件数別に統計を見ると、アークス市は貿易の都ツィンダロン市に次ぐと言う不名誉な結果が出ている。

 だが組織の力を背景とした実力行使的な犯罪件数はと言うと、実はほぼ零に等しい。

 アークス市警察が他の都市警察よりもかなりの重武装が許されている点が一つ、そしてもう一つが市の抱える軍属魔法使い(ヴェルフェニア擁する魔法使いの最精鋭たる『静刃(サイレント・ブレード)』クラスの実力はとても望めないが、それでも個人戦闘能力の頂点に立つ魔法使いである事に間違いは無い)の影響である。ただ一人で戦術兵器級の火力と歩兵の三次元機動力を兼ね備える魔法使いが相手では、いくら武装構成員を束ねた所で意味は無いのだ。ただ純粋な人間としての戦闘能力だけを見ても、荒事を任される軍属魔法使いは戦闘のプロフェッショナルであり犯罪組織から見れば強大な敵として映る。

 以上の理由を主な要因として、犯罪組織同士の抗争と言うものにアークス市は縁が無い。犯罪と言えば目には目を、魔法には魔法をと言う様により凶悪化するか或いは、万引きや違法駐車の様に矮小化されたものに限られてくるのだ。その中でも今アークス市で一番の懸案は、ヴェルフェニア帝国全体で社会問題となっている麻薬の蔓延である。だがこのアークス市は魔法都市であり、宗教都市である。北方陸路の要所であり共産主義国家プロフシア連邦に対する前線都市であるカタラドゥーウ市や、ヴェルフェニアより南西に位置する友好国であるムルーナ共和国に近いアザンクール市で時折起こる組織的な魔法テロが起こらないとは限らない。今は自暴自棄になった魔法使いの暴走がアークス市で起こる魔法絡みの事件のトップだが、いつその地位が魔法テロに取って代わるかは未知数だ。

 寮の見回り当番もまた、その様な悪事に対する防止策の一つなのだろうと考えるのは些か大袈裟か。アークス市で唯一魔法を教える学校と言う事で、機密が満載された校舎は何処かの諜報機関が忍び込むのに充分過ぎる条件が存在する。それは彼も首肯する所で、異論は無い。その為に一兵士として最高最強の戦力である魔法使いを仮想敵とし、対魔法使い戦術を究めた『対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)』の一部が学園の要所の警備を持ち回りで任されている。だが彼が懐中灯を持って回るのはその様な物騒な機密がある場所では無い。

 学生寮なのだ。ここにいるのは魔法使いの卵とは言え、大半が十代の少年少女なのである。難関中の難関であるここ、帝国立エテル魔法学園に入学してきた才能溢れる原石達ではあるが、彼らは遊び盛りの育ち盛りである。好奇心旺盛で悪に対する憧憬が未だ残る精神が成熟しきっていない子供である事に変わりは無い。夜、機密保持の為に寮を抜け出す事が不可能なので彼らが出来る事は限られてくる。

 つまり自分の部屋を抜け出し、友人と楽しい一時を過ごすのだ。寮制を採っている学校ならば何処でも見られる、当たり前の現象である。既に消灯時間を過ぎているとは言え、そんな些細な事を素直に守る寮生は果たして何人いるというのか。それを形だけでも守って貰う為に、寮の見回りなどと言う雑事があるのだろうと彼は解釈してきた。

 ほぼ意味を成さない無駄な仕事だ、と。その為か懐中灯で照らす範囲も、その歩き方も何処か適当でやる気が感じられない。彼もまたこの学園の生徒だったが、消灯時間を守っていた記憶など無かった。

 昨夜ペーパーテストの採点で徹夜していた為か、今日はやけに欠伸が出る。瞼が落ちてしまう事は無いだろうが、最低限の注意力だけは無くしてはいけない。彼が現役の学生だった代から数えても万が一と言う事態に陥った事は無いが、それでも起こるからこそ「万が一」なのだ。何十年も昔はヴェルフェニアを揺るがしかねない大事件も起こっている。

 『蒼の災害(ブルーハザード)』、惨事はその名で世界に知られている。それが何なのか、具体的には禁忌とされていて歴史の教科書はおろかどんな歴史書にも載っていない。大規模な魔法による事故が起こり、多大な犠牲を払って災いの痕跡を消したとしか彼も教えられていなかった。何が起こったにしろ、それは彼の関与出来る問題では無くただの記録でしかない。彼の直面する可能性のある「万が一」はもっと些細な事だ。

 就寝時刻を過ぎた今でも寮を移動する生徒の存在を発見する事こそ、彼にとっての「万が一」なのだ。それ以外の注意力など、ほぼ零に等しい。それを鑑みると床に懐中灯の光を向けた時、当初それがただの物体として映ったのもまた責められるべき事由では無かろう。

 ――!

 勿論ただの物体に見えたのは最初だけで、思考が切り替わった瞬間からはそれが何なのかを推察し警戒する。懐中灯を幾分慎重に床に置き、素早く距離を取る。危険があるとは思えないが彼もまた一通りの戦闘訓練を受けた魔法使いである、反射動作の領域まで刷り込まれた戦闘の構えを無意識的に作った。生徒と思しき影が倒れていたのだ。廊下に倒れている所からして、意識はあるまい。

 音と動体の影が作る不自然な揺らめきを頼りに索敵を開始。周囲に敵が潜んでいるかも知れないのだ、気を抜く事は死に繋がる。


ヴェルフェニアの様々な機密が眠る校舎では無く、何故学生寮なのか。敵は何体居て、如何なる正体なのか。通常気になる様な疑問を全て思考の彼方へ飛ばし、純粋に起こるかもしれない戦いにだけ己の全てを備える。

 暫くして何の進展も無い事を確認し、構えを解く。そのまま彼が動かずにいたのは二、三分だったが額からは汗が滴り落ちていた。戦闘技能者の呪縛に囚われている時間は僅かだったが、その体力の消耗は即ち彼が戦闘技能者として決して有能では無い事の証拠であった。訓練は受けたものの彼は日々荒事をこなしていた訳では無く、本物の殺意に直面した事が無いのだ。


駆け寄って生命の有無を確かめる段階で、漸くその人物が女生徒である事に気が付いた。就寝時間を過ぎたにも関わらず学園の制服のまま倒れる理由は分からないが、放っておく理由もまた無い。

「大丈夫か」

 抱き起こし身体を揺すり、在り来たりな一言。

「………」


何事かを呟くが、聞き取れる程の音量にならずに夜の闇に消える。幸か不幸か、意識不明に至った訳では無い事に彼は内心安堵する。出血も無く、手に残る彼女の肌の感触は温かくて柔らかい。身体の内部状況を把握している訳では無かったが、素人目には何の問題無い様に見える。

「俺が見えるか?」

 小さく頷きが一つ返ってくる。視覚に問題無し、恐らくは命にも他の五感にも問題あるまい。そう心の中で決めると、彼女を横抱きにして立ち上がった。医療班による精密検査も念の為しておいた方が良いかも知れないが、今は何よりも応援を呼ぶ事と彼女を医務室のベッドに運ぶ事こそ至上命題である。

 再び自分の腕の中で眠りに落ちた彼女の顔を見て、彼は大事にならずに済んで本当に良かったと思う。昇給や昇進に響くとか、学園内の権力闘争や国家との折り合いを気にしての事では無い。ただ女生徒の無事を喜んで、と思えるのは彼がまだ教師になって間も無いからか。

 何にせよ、この瞬間は学園内を騒然とさせる大事に発展しようなど誰が想像出来るだろうか。