samurai ataraxia
真は偽り、偽りは真
「これ、そこの傾奇者(かぶきもの)!」
「・・・・・・む?」
時は江戸寛永の頃、所は東海道――。
茶屋で一休みしていた旅の武芸者と思しき風体の侍は、湯飲みを口元へ運びかけた手を止めて声の主を探す。するとすぐ目の前で己を指差しながら仁王立ちしている十七、八の娘の姿が目に付いた。
「私のことかな?」
「お主以外に誰がおる? まさかそのいでたちで真っ当な武士(もののふ)のつもりか?」
一介の浪人者には不似合いなほど鮮やかな群青色の陣羽織に身を包み、何より目を惹くのは腰に大小を佩くのではなく、一振りの太刀を背負っている点である。この太刀がまた尋常ではない。長さは五尺余り、拵えは見事だが鍔はない。
まともな刀の長さは三尺から三尺半程度である。戦乱の世では敵将を鎧や馬ごと叩き斬るべく、従来のものより遥かに長大な剛刀が作られたという逸話も聞くが、まともに扱えた者は皆無だったという。
確かに、長い得物は立ち合いにおいても戦場においても有利には違いないが、それならば素直に槍か薙刀を使えば良いのだ。わざわざ扱いの難しい長尺刀を使うことによる利点はない。そんなものをわざわざ好んで持ち歩くのはただの目立ちたがり屋、即ち傾奇者であった。
違うならば何とか言ってみよ、という態度で娘は腰掛けている侍を見下ろす。
侍の方はしばし黙考した後、フッと笑ってみせた。
「そなたのいでたちもなかなかに奇妙なものに見えるがな」
「む」
逆に指摘された娘はくるりと回って己の姿を見渡す。
長い髪は結い上げずに後ろで無造作に束ねており、色彩鮮やかな着物は丈がかなり短い。物腰や態度から武家の娘のように見えるが、格好はまったくそれらしく見えない。
帯の結び方も特殊で、背中で蝶のような形を作っている。そして何より気にかかるのは、その大きな帯に隠れるように交差して佩かれた二振りの刀だった。護身用の小刀では当然ないし、小太刀というにも長い。おそらく左右ともに刃渡りにして定寸より僅かに短い二尺一寸ほど。如何に武家の娘とは言え、やはり女子が堂々と持ち歩くような代物ではない。
娘はやや考え込み、眉間に皺を寄せると再び侍に指先を向けた。
「わしのことなどどうでもよい!」
「左様か」
侍はそれ以上気にした風もなく、止まっていた手を動かして湯飲みから茶を飲む。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
静かだった。どちらも言葉を発せず、侍は湯飲みを脇に置いて瞑目し、娘は侍を指差した姿勢のまま動かない。
街道を行き交う人々は皆一度は二人の姿を振り返っていく。
人目を惹く奇妙ないでたちももちろんのことだが、侍の方は眉目秀麗な優男、娘の方は容姿端麗な美人である。仮に真っ当な格好をしていたとしても、二人ともに大衆の注目を浴びることは間違いなかった。
だが当人達は、そんな人目はまるで気にしていなかった。
むしろ侍の方は周囲の全てが空気と変わらないのか、既に声をかけてきた娘のことすら気に留めていなかった。
「〜〜〜・・・お主は阿呆か!?」
「はて?」
激昂する娘に対し、侍は心底何に対して怒っているのかわからないという表情で顔を上げる。
それが気に食わず、娘はますます眉を釣り上げる。
「わしが呼びかけておるのだから“何用か?”くらい返さぬかっ!」
「それはすまなんだ。して、何用かな? 娘御」
「お主のその刀は飾りか? それとも本物か?」
「真剣か否かという問いならば、本物だ」
「鞘の先まで刃は入っておるのか?」
鞘だけ長く見せておいて、実際に中身は半分ほどしか入っていない。格好だけで実の伴わない、見せ掛けだけの傾奇者が良く使う手である。
お主は見掛け倒しか、と尋ねられたも同然だというのに、侍はまるで気を悪くした風でもない。
「抜いて見せようか?」
「いや、良い。こんな往来で抜いては皆が何事かと思うであろう」
娘は先ほどまでの剣幕はどこへやら、肩を竦めながら侍の横に腰を下ろし、店の主人に茶と団子を頼んだ。
程なく出てきた団子の串を手に取りながら、娘が呆れたような口調で言う。
「酔狂な刀匠もいたものじゃ。何のつもりでこのような刀を打ったのやら」
常識外れな刀を背負っている侍自身よりも、娘はその刀を打った者にまず呆れていた。
「備前で知りおうた変わり者の老人に頼んで打ってもらったのだ。以前戯れで四尺余りの太刀を打ったことがあると言っていたが、五尺の太刀を所望したら大笑いして引き受けてくれた」
「どちらもどちらじゃな。酔狂が過ぎる」
大口を開いて娘は串に刺さった団子をまとめて口に含む。
「扱えるのか、お主?」
「さて、どう思う?」
「昔、四尺余りの太刀を自在に扱うという男と、わしの師が立ち合ったことがあるそうじゃ」
「ほう」
「どうなったと思う?」
「それだけではわかりかねるな」
「師が勝った。それなりに使い手には違いなかったが、その長大な太刀をもって燕を斬る、などというのは偽りであったそうじゃ。所詮そんなものよ。お主もその刀で尋常な立ち合いをしようなどとは思わないことじゃ、死にたくなければの」
侍は薄く笑みを浮かべるだけで是とも非とも答えなかった。
今度は返事がないことは気に留めず、娘は串を置いて湯飲みを手に取る。口元にそれを運びながら、続けて問いかけた。
「時にお主、名は?」
「佐々木小次郎」
「ぶーーーーーーーーーーっ!!」
口に含んだ茶を、娘は思い切り前方に向かって噴き出した。と同時に、頭上を振り仰いで大笑いを始めた。
「ぶっはっはっはっはっはっはっはっ・・・・・・んぐっ、げほっごほっ・・・お、お主それは、笑え過ぎるぞっ!!」
むせ返りながらも娘は腹を抱えて、体を前倒しにして笑い続ける。
隣で今にも転げまわりそうなほど自分のことで笑われているというのに、侍の態度にはまるで変化が見られない。だが、ふと視線を上げた。
涙目になって尚も笑っている娘の前に、怒りの形相を浮かべた浪人が立っていた。着物が濡れていることから見て、先ほど娘が噴き出した際にかかったのかもしれない。
ドスの利いた声で浪人は「おい、娘」と呼びかけるが、まだ笑ったままの娘は顔も上げない。
さらに怒鳴りつけられると、ようやく反応を見せたが、体は折ったままで片手だけ挙げてみせている。
「ち、ちと待て! は、腹がよじれて・・・くくっ、くっはっはっはっはっは!」
よほどツボにはまったのだろう、娘の笑いは収まらない。それがまるで自分を馬鹿にされているように感じられたのだろう、さらに顔を歪ませながら浪人は刀に手をかける。
だが、抜こうとしたところでその動きが止まる。
娘の手が、浪人の刀の柄を押さえており、抜くことができなかったのだ。
「ふー・・・はー・・・・・・こんなに笑ったのは、久方振りじゃ・・・。して、何用じゃ、お主?」
適当にあしらわれているように感じた浪人はますます怒りを強め、腹立たしげに着物の一部を指す。
濡れている部位を示しながら文句を並べ立てる浪人に対して娘は「それはすまなんだ、許せ」と軽く謝礼を述べる。だがそのぞんざいな態度に、浪人は一層激昂した。
刀の柄を押さえている娘の手を払いのけ、一歩下がって改めて刀を抜き放った。
肩を竦めて「やれやれ」などと言いながら娘は湯飲みに僅かに残っていた茶を飲み乾すと、お代を湯飲みと共に横に置いて立ち上がる。
「たかが茶がかかったくらいで騒がしい輩じゃ。抜いたからにはただで済むと思ってはいまいな?」
白刃を前に少しも怖気付いたところもなく歩み寄る娘に、浪人の方が戸惑い、数歩後退する。
相手が下がった分だけ、娘の方が前進する。しばらくそれを繰り返すと、浪人の方が土手際に追い詰められた。背後は田んぼになっている。
端から見ればおかしな光景だった。刀を持った浪人が、若い娘に怖気付いている。どう見ても、構図が逆だった。
道行く人々は、何事かと遠巻きに見ているが、近付いてくる者はない。
やがて奇妙な緊張感に耐えられなくなったか、浪人が刀を上段に振りかぶる。だがその瞬間、娘の抜き放った刀の切っ先が浪人の喉元に突きつけられた。
あまりに鮮やかな抜き打ちに、ある者は恐れを抱き、ある者は見惚れた。
恐れを抱いた者の最たるは言うまでもなく、切っ先を突きつけられた浪人である。刀を振りかぶった姿勢のまま、顔全体から脂汗を流している。
「次はもう一足踏み込むが、如何致す?」
軽く釣り上げられた口元とは違って笑ってはいない娘の眼は、その言葉が本気であることを告げていた。
浪人は這う這うの体で逃げ去り、娘は刀を納めながら茶屋の前まで戻る。
事の間もずっと変わらず腰掛けたままでいた侍は、置いてあった笠を手にして立ち去ろうとする娘に向かって問いかけた。
「そなたの、名は?」
肩越しに振り返った娘は、不敵に笑みを浮かべながら名乗った。
「宮本沙織」
時は江戸、徳川幕府の治世――。
泰平の世とは言えども、豊臣家の滅亡で乱世が治まってよりまだ僅かに二十余年。その間、幕府によって改易された大名は数知れず、戦乱の中で主家を失った者も合わせ、天下六十余州は浪人で溢れ返っていた。
いまだ乱世の気質が収まらぬ彼らは武勇をもって身を立てようと、多くの者達が武芸者としての道を選んでいた。
そんな彼らの間で、既に伝説に近い形で知られている、一人の剣豪がいた。
その名も、宮本武蔵。
今はとある大名家の客分として、既に隠居に近い身となっているが、その鬼神か天狗かと謳われる剣名は全国に轟き、天下第一の剣として知られる将軍家剣術指南役の柳生でさえも、その道を譲るとさえ言われている。
まさしく、当代最強の武芸者である。
そして、その武蔵が生涯最大の勝負をした相手と言われているのが、巌流佐々木小次郎だった。
四尺余りの大太刀を自在に操り、空を飛ぶ燕をも斬ると謳われたこの剣豪に、巌流島において歴史に残る激闘の末、武蔵は勝利した。
この一戦こそが、武蔵の名を轟かせた一世一代の大勝負であった。
だが、そこには大きな誤りがあった。
小次郎は一角の武芸者ではあったが、四尺の太刀はただ相手の機先を制するためのみの、謂わばただのはったりであり、無論飛ぶ燕を斬るなどと、到底適わぬことであった。ありがちな、こけおどしの剣豪だったのである。
かつて京の都で名を馳せた吉岡一門をたった一人で壊滅させた武蔵にとって、小次郎は死力を尽くす必要もない相手でしかなかった。だが、小次郎の仕えていた大名家が自分達の家名を少しでも保とうと、小次郎は武蔵の生涯最大の宿敵であった、という風聞と広めたため、武蔵の名が高まると共に小次郎の武名も轟き、武蔵と対を成すもう一人の伝説的剣豪が誕生したのである。
作り上げられた架空の名勝負、巌流島の決闘より、早二十余年の月日が流れていた。
東海道での出来事から一月余り。五尺太刀を背負った浪人“佐々木小次郎”は畿内を抜け、山陰方面に差し掛かっていた。通り掛かった地は、外様大名金成藩の城下、冬木と呼ばれる町であった。
領内に入った時から感じていたが、城下町へと至って尚更目についたのが、民の貧しさだった。噂によればこの藩の現当主は、幼い頃は神童と呼ばれ、先を楽しみにされていたと言うのだが、家を継いだ途端の放蕩三昧。特に藩主は無類の刀好きらしく、刀狩りと称しては全国各地から名刀や珍しい刀を探し出しては収集しており、その資金繰りのために年貢や税を限界以上に納めさせているとのことだった。
民を哀れとは思ったが、だからといって悪政を布く藩主を討とうなどと思うほど、小次郎は正義感が強いわけではなかった。
ゆえに、早々と町を抜けてしまおうと思ったのだが、道を歩いていると不意に十人ばかりの武士に行く手を塞がれ、周囲を取り囲まれた。身形から浪人者ではなく、藩に仕える武士と思われた。
「はて、咎めを受けるような覚えはないが、何用かな?」
小次郎は本当に身に覚えがなかった。旅の最中に浪人者と諍いを起こし、これを斬り捨てたことは幾度かあったが、この領内に入ってからはまだ一度もない。
「その刀を置いて行け。大人しく従えば手荒な真似はせぬ」
「これは異なことを。浪人とはいえ私も武士の端くれ、その魂たる刀を置いて行けとは、如何なる故あってのことかな?」
「世にも珍しきその長尺刀、我らが藩主金成亀貞様が御所望である」
「なるほど、噂に違わぬ藩主と見受ける」
どこで目に止まったか耳に入ったか知らぬが、五尺の大太刀は確かに珍しい。刀好きの藩主が欲しがったとしても不思議ではなかった。
「ただで渡すのが不服と申すなら・・・十両」
「申し訳ないが、この刀を手放すつもりはない」
「二十両」
気前の良いことだった。貧乏浪人からすれば一両でさえ当分生活に困らぬほどの大金である。それを十両二十両などと、よほど金銭を貯め込んでいるらしい。それもこれも、全て民から巻き上げたものであろうが。
いずれにせよ、小次郎は首を縦に振る気は毛頭なかった。
「残念ながら、我が愛刀は世に二つとなき品ゆえ、たとえ何万両積まれようとも、譲ることはできぬ」
「どうしても渡せぬと?」
「御免こうむる」
周りを囲む武士達の気配が変わった。どうやらこのまま「では致し方ない」で済ませてはくれないようであった。いずれも刀に手を掛け、鯉口を切っている。
四方から殺気を向けられても、小次郎は平然としたものだった。ただ、軽く左右に目をやって辺りの地形を確認する。両足の幅も自然と開いており、いつでも動けるよう僅かに膝を曲げておく。
相手は前に六人、後ろに四人。真っ当な侍を集団で囲んで襲うならば、はじめに仕掛けるのに最も適しているのは左斜め後ろにいる者である。これは本来刀は左腰に佩くものであり、そこから抜刀するとなるとどうしても抜いた位置から最も遠いそちらへの対処は一呼吸遅れる。だが小次郎の場合は右肩の後ろに柄が来るように刀を背負っているため、その限りではない。
はじめに襲うべき死角は、従来の逆、右斜め後ろであった。
読みの通り、武士達は一斉に抜刀すると、右斜め後ろの者が逸早く振りかぶって襲い掛かってきた。小次郎は刀は抜かず、一瞬の迷いもなく向かってくる相手の方へ体を投げ出し、振りかぶった相手に全身でぶつかっていった。
まさか刀を振りかぶった相手の方へ飛び込んでいくとは思わなかったか、武士達は虚を突かれて動きが止まった。その隙に体当たりした相手に当て身を喰らわせ、包囲の穴から後方にいた残り三人の背後へ回り込む。立て続けに二人を当て落とし、三人目がようやく刀を振りかざしてくるのを避けつつその腕を掴み取り、回転させるように投げ飛ばして背中から地面に落とした。
一瞬で四人を倒した鮮やかな手並みに、残りの者達の間で動揺が走る。
相手の腰が引けている内に逃げ出そうと下がりかけた小次郎だったが、不意にその足が止まった。
「なかなかやるじゃねぇか」
武士達の後ろから、朱槍を肩に担いだ侍が現れた。左右に開いて道を空けた武士達の態度から、彼らの仲間であることが察せられた。その僅かな動作、野性味溢れる獰猛な視線に込められた殺気から、一目で小次郎はこの男が只者でないと見抜いた。
それは相手の男も同じようで、最大限に警戒しながら近付き、間合いより大きく手前で立ち止まった。
「近頃は武芸者なんつっても見掛け倒しばかりで、腕の立つ奴にはなかなか会えねぇが、あんたは骨がありそうだ」
「そういうお主も、大した使い手をお見受けした」
「名を聞いておこうか」
小次郎はゆっくりと右手を柄に、左手を鞘に掛ける。
そして、五尺余りの大太刀を一息で抜き放った。現れた刀身は、従来のものからかけ離れて長いというのに、まるでその長さこそが理想であると思わせるほどに見事なものだった。
「佐々木小次郎」
「ハッ、大仰なのは格好だけじゃなく名前もか。だが今の抜刀を見ただけで、あんたがただの見掛け倒しじゃないことはわかるぜ」
長い刀の扱いが難しいのは、普段振り回す際のことはもちろんだが、何より抜刀にこそあった。立ち合いが常に刀を抜いた尋常の状態から始まるとは限らない。ゆえに抜刀の速さが、そのまま勝敗に繋がることはいくらでもあった。長過ぎる刀はそれだけ抜刀に遅れが生じ、その一瞬の遅れが致命的となる。
だが小次郎の抜刀は遅いどころか、抜く手も見えぬほどに速く、一切の隙もなかった。
右手をだらりと下げ、構えらしき構えを取らずに立つ小次郎に対し、相手は担いでいた槍の穂先を地面に向けるようにして構える。
「宝蔵院流、青江犬千代・・・参る!」
「時化た町じゃな、団子一つ売っておらんではないか」
宮本沙織は冬木の城下を歩きながら悪態をつく。相変わらずの女子らしからぬ物腰と格好だが、この藩の民はそんなことを気に留める余裕もないほどに貧しく見えた。よくも今までこれほどの圧政の中、一揆が起きなかったものである。
いや、起こしたくても起こせなかった、というのが実情であろう。
かつて太閤秀吉は、一揆が起きぬよう、刀狩りと称して農民から武器を取り上げる政策をしていた。ここの藩主は単に己の趣味で刀を集めているだけだが、それが結果として同じ効果をもたらしているようだ。結果として平穏なのは良いが、己の享楽のためにこうも民を苦しめるはやはりいただけない。もっとも、旅の最中に通りかかっただけの佐織にはあまり関係のないことであった。
団子屋の一つも開いていない時化た町に長居をするつもりはなかった。
さっさと通り抜けようと思っていると、道の先に人だかりができているのが見えた。何か騒ぎでも起こったのかと思い、沙織は目立たないように人の隙間から先を覗き見る。
「む、あれは・・・」
見覚えのある後姿が見えた。
あのいでたち、特に尋常でなく長い刀は忘れようとしても忘れられないものだった。間違いなく、騒動の種となっている片割れは、一月ほど前に出会った“佐々木小次郎”と名乗る侍だった。
奇妙な縁があるものだった。これも名前の言霊によるものだろうかと思っていると、小次郎と相対しているもう一人の姿も目に留まった。朱色の槍を肩に担いだこちらの男は、どうやら城に仕える武芸者の類に見えたが、一目見て並の使い手ではないことがわかった。
しばらく見ていると、小次郎が刀を抜いた。
五尺の太刀を、まるで苦もなく抜く様を見て、佐織は少し感心した。あの長さを少しも持て余していない。ただの見掛け倒しではないと思ってはいたが、ひょっとすると想像以上かもしれなかった。
小次郎が刀を抜くと、相手の男も槍を構え、名乗りを挙げて踏み込んだ。
(速い!)
見事な突きだった。速さに鋭さ、そして相手の芯を捉える正確さを備えた一撃である。
繰り出された槍を、小次郎は右足を一歩引いて体を開き、最小の動きでこれをかわしてみせると同時に、下から跳ね上げるように刀を振るい、相手の脇腹を狙う。しかし小次郎はこの刀を半ばで止めた。振り上げかけた手元に、槍の穂先が突きつけられていたのである。相手は今し方繰り出したばかりの槍を手元に戻し、即座に次の突きを放っていたのだ。
何という槍の速さか。連続して繰り出される槍の速度はまるで雷光であった。
だが、小次郎も並ではなかった。手元を狙った二撃目を受けることなく腕を引き、さらにその勢いをもって左足を軸に体を一回転させながら右足で踏み込み、相手の槍を掻い潜って横へ滑り込んだ。
こちらも凄まじい速さである。その体捌きはまさに疾風だった。
振りかざされた小次郎の刀を、相手は再び槍を引いて柄の部分で押さえる。金属音が鳴り響いたところを見ると、槍は柄の部分まで鉄製となっているようだ。
互いに押さえ合ったまま、両者は動かない。
(近過ぎるな・・・)
立ち合っている二人の得物はいずれも長物である。槍はもちろんのこと、五尺の太刀も感覚としてはほとんどそれに近い。密着した状態からでは、お互い必殺の一撃は放てない。どちらも一度下がりたいところであろうが、その際の呼吸を誤れば、致命的な隙を生むことになる。ゆえにどちらも軽々しく動けず、しばし硬直状態が続いた。
静止していた時間は長かったが、離れるのは一瞬だった。
まったく同時に、まったく同じ速さで後退し、十分に間合いを取った瞬間、即座にまた踏み込む。
一転して激しい攻防となり、雷光の如き打突と、疾風の如き斬撃の押収が行われる。
両者共に一歩も譲らず、風を切る音と、地面を踏みしめる音だけが辺りに響き渡っていた。
いつ果てるとも知れない攻撃と回避の凌ぎ合いだったが、またしてもまったく同時に引き合い、互いの間合いから僅かに外れた位置で動きを止めた。
間合いを取った状態で、小次郎と犬千代は相手の出方を窺う。そうしながら、互いに相手の力量に内心舌を巻いていた。
犬千代の放つ打突の速さは雷光の如しだが、何よりその槍捌きは凄まじく攻撃的だった。元来遠い間合いにおいては無類の強さを誇るが、懐に入られると弱い槍を扱うならば、相手を己の間合いの内へ入れないよう、引きながら踏み込んできた相手を迎え撃ち、突きと払いを使い分けていくのが定石のはずだった。だが犬千代はそれを無視し、ひたすら前へ前へと踏み込みながら突きも払いも繰り出してくる。攻めて攻めて、間合いの内側に入る隙も与えず一気に敵を打ち倒す槍であった。
小次郎の体捌きは風に揺れる柳の如く捉えにくく、その疾風の如き速さと共に脅威であった。どれほど攻撃しても手応えがなく、僅かでも隙を見せれば鋭い斬撃が襲い来る。常軌を逸して長い刀は槍の間合いを持つと共に刀の特性も持ち合わせており、非常に攻略しにくい。ましてや、それをこうも自在に操られては恐れ入るしかなかった。
「大したもんだぜ。本当にそんな大太刀を自在に操れる奴がいるとはな」
「お主の槍捌きにも感服した。特にその速さ、追い切れぬな・・・」
どちらも次の一手を決めかねていた。
このまま小手先の技を繰り出していてもおそらく千日手、いつまで経っても決着はつかないだろう。ならばどうするか。
先に答えを決めたのは犬千代だった。
「次で幕引きにしてやるぜ。この一撃でな」
槍の穂先をさらに深く、地面につくほどに下げ、全身も深く沈み込ませて犬千代は構える。高まった気配が、その構えから繰り出される一撃が持つ威力を知らしめている。
「ならば私も、相応の技で応えねばなるまい」
対する小次郎は半身になり、両手を刀の柄にかけ、顔の高さで水平に構える。これまで構えを取ることのなかった小次郎が取った構えもまた、尋常ならざる気配を放っていた。
両者が発する必殺の気迫に呑まれ、周囲で見ていた者達が知らず数歩下がっていく。
「秘剣“燕返し”」
「へっ、飛ぶ燕を斬るとかいう技か。本当にそれで斬れるのか?」
「さてそれは、お主の身をもって確かめてみてはどうかな」
「ほざいたな。貴様こそ喰らうか、我が必殺の“迎菩瑠倶(げいぼるぐ)”を」
一触即発。
重苦しい緊張感の中、誰もが息をするのを忘れて二人の挙動を見守っていた。皆一切音を立てないように佇み、息すらも止まる思いだった。
僅かでも音を立てたら、その瞬間に弾ける。
そして両者の刀と槍が繰り出されたら、どちらか一方が死ぬだろう。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
長い時間が経過した。
実際にはほんの少ししか経っていないが、もう一刻以上が過ぎているように感じられた。それほどの緊張を強いられているのだ。
見ているだけの者達でそうなのだから、当人達にかかる重圧たるや想像を絶する。
だが小次郎も犬千代も涼しい顔をしており、そこに浮かぶのはただ相手に対する明確な殺気のみであった。そして、己の命が懸かっているというのに、その表情はどこか楽しげでさえあり、見る者に寒気を覚えさせた。
修羅が二匹、向き合っていた。
「はい、そこまで」
そこへ唐突に手を叩く音が響き、一人の少女が歩み出てきた。
殺伐とした空気が、その少女の登場によって静かに霧散していき、場を支配していた緊張感から解放された皆が安堵の息を吐く。
「槍を引きなさい、青江」
「今いいところなんだ。あんたといえども邪魔はさせねぇぜ」
「殿の命よ。いいから黙って引っ込みなさい、犬っころ」
「・・・・・・チッ」
舌打ちしながら犬千代が槍を引くと、最後に残っていた緊張の糸が切れ、空気が平静なものに戻った。小次郎も構えを解き、刀を鞘に納めた。
少女が小次郎の前に進み出る。見目麗しいのは確かだが、それ以上に人目を惹くのは、雪のように白い髪と肌だった。
「私は可憐と申します。まずは非礼をお詫び致します」
「して?」
「佐々木小次郎殿と申されましたね。殿がお召しです、御同行願えますか?」
「刀の話ならば、先ほど言った通りだ」
「それは構いません。殿が御所望しているのは、あなたの腕前の方です」
「ふむ」
小次郎は少し考え込んだ。
腕を見込まれた、というならば或いは仕官の話もできるかもしれない。武芸者として剣術修行に明け暮れること以外に特に興味を持たぬ男だが、一介の浪人者である以上、仕官の話があるならばそれはそれで好ましくはあった。
「ならば、参ろうか」
「では、こちらへどうぞ」
人込みに紛れて一連の出来事を見ていた沙織は、小次郎が可憐と名乗る白い髪の娘に連れられて行くと、静かにその場を離れた。
「おもしろいな」
今し方見た立ち合いは、決着こそつかなかったが稀に見る達人同士の勝負であった。同じ武芸者としてこれを見て心躍るのはもちろんのこと、今後の展開も楽しくなる予感があった。
相手の青江という槍使いの腕も大したものだったが、特にあの“佐々木小次郎”と名乗る侍の技には目を見張らされた。尋常ならざる大太刀を苦もなく自在に操るとは、驚嘆に値する腕前である。加えてあの体捌きは、誰でも真似できる類のものではない。あれほどの使い手を、沙織は師以外ではじめて目の当たりにした。
一月前に会った時は刀に興味を持って声をかけただけだったが、今度はあの男自身に興味が沸いた。
藩主に呼ばれて城へ向かったようなので、佐織もそれを追うべく横の路地へ入ろうとした。
その時ふと不思議な気配を感じて振り返る。
佐織が身を潜めていた場所とは道を隔てて反対側の物陰に、編み笠を被った侍がいた。姿を見たのは一瞬で、すぐに立ち去ってしまったが、その際に顔が見えた。
「隻眼・・・?」
編み笠の下から覗いた侍の顔は、左目が眼帯で覆われていた。
珍しいことではあるが特に気にすることでもなかった。だが妙な引っ掛かりを覚えつつ、沙織はその場を離れ、裏道から城を目指した。
城内に忍び込んだ沙織は、庭に面した一間に控えている小次郎の姿を隅に潜んで見ていた。まずもって何とも、奇妙な部屋である。壁一面に刀や槍といった武器が隙間なく飾られているのだ。さらに畳の端にも、通り道以外には所狭しと、同じく様々な武器が並んでいる。噂の通り、ここの藩主は本当に無類の刀好きであるらしい。普段から刃物に触れ慣れている者ならばともかく、普通の人間には居心地の悪そうな部屋だったが、その点小次郎や佐織のような者にはそれほど気にはならなかった。
小次郎の他には、あの青江という槍使いの武士が一人いるだけである。つい先ほど命のやり取りをしたばかりだというのに、この二人の間に流れる空気はごく自然なものだった。まるで遺恨の類を残していないのが潔く、見ていて清々しい。
しかし、武芸者というのは難儀な気質の持ち主でもあった。
もしも、今一度立ち合う機会に恵まれたならば、今度は必ず相手を倒す気で二人ともいるに違いなかった。
静かに座しながら、小次郎は槍を捌いて斬る様を、青江は柳の如き動きを捉えて貫く様を脳裏に思い描いているはずである。人の殺し方を考えているというのに、表から感じられる気配に微塵も変化が感じられない。どちらもまさに、真の武芸者たる気質を備えていた。
「殿の御成りです」
やがて、小次郎を案内した後、ここでしばらく待つよう言い置いて奥へと向かっていった可憐という娘が戻ってきた。廊下の先から人の気配が近付くと、小次郎と青江が平伏する。
足音を響かせて現れた藩主と思しき男を見て、佐織は思わず絶句した。
「むはっ」
というよりも、まずは目を覆った。
この藩主を一言で表現できる言葉があった。それは「金」である。とにかく「金」なのだ、誰が何と言おうと「金」なのだ。何がと言って、全てであった。まずは格好である。着物から袴まで尽く金色に染め上げられており、羽織に至っては無数に金箔をちりばめていて、光を反射するため直視に堪えぬほどに眩しい。さらには髪にまで金箔を貼り付けているのか、金色の輝いていた。手にした扇も、腰に差した脇差の拵えも、全て金色だった。
「苦しゅうない、表を上げよ雑兵」
そして態度である。如何にも「我(オレ)は金を持っているから偉いのだ、敬え」と書いてあるかのような顔をしている。
あまりに金金しいので、佐織は思わず目を覆ったのだ。ちょうど角度的に陽の光が反射してくる位置取りにも問題があった。だが、今動いては確実に気付かれるので、仕方なく身を低くして上手く眩しいのを避けながら様子を窺うことにした。
言われた通りに顔を上げた小次郎の表情は普段と変わりなかったが、僅かに目を細めているように見えた。
「我が金成亀貞である。佐々木小次郎と名乗る輩はその方か」
「如何にも。佐々木小次郎にござりまする」
「犬めと互角に渡り合ったそうだな。なかなか腕が立つと見える」
「恐れ入りまする」
頭を垂れる小次郎を見て満足げに頷くと、亀貞は可憐に向かって軽く手を挙げてみせた。可憐は一礼して下がると、程なく大きめの籠を持って戻ってきた。
籠の中に入っているのは鳥、燕であった。
「その方が佐々木小次郎ならば、燕返しとか申す技で飛ぶ燕を斬るという。真か?」
「さて、それは・・・」
「見せてみよ。この通り、燕を一羽用意してやったわ。これを庭に放すゆえ、その珍しき刀で斬ってみせよ。見事成し遂げてみせたならば、金でも禄でも望むままに取らせてくれる」
いかにも道楽好きな殿様らしい申し付けだった。
刀好きならば、それにまつわる話も数多く聞き及んでいよう。巌流島で宮本武蔵と立ち合った佐々木小次郎の愛刀、四尺余りと言われる物干し竿、そしてそれをもって飛ぶ燕を斬るという話も知っているに違いない。それで同じ名前と長尺刀を持つ男の話を聞き付け、このような趣向を思い付いたものを見える。
この“佐々木小次郎”がどう出るかが見物だった。相手は仮にも大名家の藩主である。下手に逆らえば首が飛ぶ。それに本当に飛ぶ燕が斬れるのかどうか、佐織にも興味があった。
小次郎は膝の前に両手をつき、頭を下げた。
「お断り申します」
「何?」
はっきりと拒絶の意を示した小次郎に対し、亀貞が顔をしかめる。
「私の技はあくまで剣術のそれであって、見世物の類ではござらぬゆえ」
「ほう」
亀貞は手近に立て掛けられた刀を手に取ると、鞘から引き抜きながら小次郎の下へ歩み寄り、首筋に刃を当ててみせた。
「正宗だ。よう斬れるぞ。その方の首も難なく刎ねられよう」
表情一つ変えない小次郎を、亀貞が冷ややかに見下ろす。
「さて今一度申し付ける。その方の燕返しとやら、今この場で見せてみよ」
「お断り申します」
一度目と寸分も変わらぬ口調で、やはり小次郎は要求を拒否した。亀貞は眉をひそめ、刀を握る手に力を込める。あと僅かでも押し込めば、首筋の脈を掻き切ることができよう。
そのままの体勢で、しばらく両者共に動かなかった。
小次郎は座したままじっと前だけを見詰め、亀貞は鋭い目でその姿を見下ろしている。
やがて亀貞は「ふんっ」と鼻を鳴らして刃を引き、刀を鞘に納める。次いで小次郎が脇に置いていた大太刀を引っ掴むと、上座へ戻っていく。
「犬、そやつを牢に放り込んでおけ。我に逆らうとどうなるか、明日にも民どもの前で見せしめに首を刎ねてくれる」
座敷牢へ連れてこられた小次郎は、大人しくそれに従った。連行してきた犬千代が、小次郎を牢に押し込みながら「大人しく言うことを聞いてれば命を粗末にすることもなかったのによ」と馬鹿にしたように言った。だが去り際に薄く笑って「ま、気持ちはわかるけどな」とも言って肩を竦めていった。
壁に背を預けて座した小次郎は、静かに瞑目した。
すぐ近くで見張りをしている者はいないようだ。無用心なことだが、刀を取り上げてしまえば何もできないと思っているのかもしれない。いずれにせよ、抜け出すならば夜になってからの方が都合が良いので、小次郎はそれまではそこにいることにした。
一人で瞑想に耽るのは珍しいことではないが、普段山河に囲まれている時と比べて、座敷牢は少々趣が足らず、退屈であった。外であれば、人が一人もおらずとも、花鳥風月を愛でているだけで何日でもこうしていられた。
自然は良いものである。
やはり無欲の中にこそ無我の境地はあるものだった。此度のように、上手い話に軽々しく乗ったのが誤りであった。もっとも、この状況はこの状況なりに楽しいと感じているのだが。
「お主、阿呆であろう」
ふと、頭上から声がした。
天井裏に誰かいるようだが、声をかけられるまでまるで気配を感じなかった。小次郎ほどの武芸者にも悟られないほど完璧に気配を消すとは只者ではないが、声は若い女子のものだった。しかも、小次郎はその声に聞き覚えがあった。
「いつぞやの傾(かぶ)いた格好の娘か」
「お主に格好のことを言われとうはないわ」
およそ一月ほど前、東海道を旅していた折に茶屋で声をかけてきた、宮本沙織と名乗る娘だった。その場限りで別れた相手だったが、これほど離れた地で再会するとは、不思議な縁である。
「此度は何用かな?」
「うつけ者を笑いに来たのよ。何を大人しく捕まっておるのやら」
「そうだな。あの藩主殿のいでたちに目が眩んでおったようだ」
「あー、あれには呆れたわ。わしもお主も、あの殿様の前では霞んでしまうわな」
沙織は押し殺した声で笑っていた。小次郎もつられて藩主の姿を思い出し、僅かに口元を釣り上げた。
「本当のところはどうなのじゃ?」
「何のことかな?」
「燕じゃ。斬れるのか?」
「燕か・・・」
しばし虚空を睨みながら、小次郎は黙考する。脳裏に、その光景を思い描いているのだろうか、やがて薄く笑って肩を竦めた。
「無理だな」
「無理か」
「空は高い。そこを自由に翔ける燕を斬るには、人の身は小さすぎる。刀の尺も、まだ足らぬであろう」
「はっはっは、いくらお主でもあれ以上長くては到底扱えまい」
「然り。あの長さが限界であろう。つまり、飛ぶ燕を斬るなど到底成し得ぬことというわけだ」
「そうであろうとも」
納得したように、佐織は天井裏でうむうむと頷いている。
それからしばらくは沈黙が続いた。小次郎から話しかけることはなく、佐織も口を開かない。立ち去ったかとも思ったが、僅かな気配はまだ小次郎の頭上にあった。
再び瞑想をしていると、また沙織が語りかけてきた。
「退屈凌ぎじゃ、問いに答えた返礼に、一つおもしろい話を聞かせてくれる」
小次郎は返事をしなかったが、沙織は一人語りのように話し始める。
「わしの師にして養父はの、宮本武蔵と申して、日の本一の武芸者じゃ。その師が、わしが生まれるよりも前に、佐々木小次郎と申す者と立ち合ったそうじゃ。巌流島の決闘と言えば、お主も武芸者の端くれとして聞いたことはあろう」
問われるまでもないことだった。
勝者であった武蔵自身が触れ回ったという話は聞いたことがないが、不自然なほどに広く語り草となっている決闘である。
かつて京の都で名を馳せた吉岡一門に単身挑み、これを潰して一躍有名になった武蔵と立ち合ったのは、四尺余りの大太刀で空を飛ぶ燕を斬るという妙技を操る武芸者で、名を佐々木小次郎と言った。決闘の場であった巌流島に刻限より遅れて到着した武蔵は、刀を抜いた後に鞘を捨てた小次郎に対し、生き延びる気がないものとして「小次郎敗れたり」と告げ、動揺を誘ってこれを打ち倒したという。
よく考えれば奇妙な話である。たかが一介の武芸者同士の勝負がこれほど広く語り草になっていることもそうだが、何よりその内容である。鞘を捨てたのを見ただけで「敗れたり」などと、あからさまな挑発である。長い鞘を背負ったままでは立ち合いの邪魔になるから遠くへ放ったまでのことであろう。刻限に遅れて相手を苛立たせ、挑発を用いて動揺を誘ってまで勝とうとする武蔵も大した臆病者なら、その程度で動じる小次郎も武芸者としての底が知れるというものだった。
名勝負などと持てはやされているが、どちらにとっても美談とは言い難いものであるゆえ、武蔵も自らこの勝負に触れたことはないものと思われた。
「察しの通り、養父上はこの勝負のことは、わしと義兄伊織の前で一度語ったきりじゃ。四尺余りという大太刀と、それを自在に操り飛ぶ燕を斬るという相手を必要以上に恐れ、考え得る限りの策を弄して勝負に臨んでみればこれがただのこけおどし。語るに落ちるつまらぬ勝負であったそうじゃ」
佐織自身も、その話に大した思い入れもないような口調であった。だが養父上と呼ぶ時の佐織の声には、僅かに崇敬の色が混じっていた。彼女にとって師にして養父である男はやはり偉大で、その武勇伝となる話は他にいくらでもあるのだろう。
世にもっともよく知られる宮本武蔵の名勝負は、真実を知る者にとっては獲るに足らぬ話、この出会いがなければ思い出すこともない程度のものであった。
「佐々木小次郎などというのはな、ただの大法螺吹きじゃ」
「左様か」
語り終わると、また二人とも黙り込む。
そうしてしばらくすると、天井裏の気配は完全に消えていた。小次郎は気にすることもなく、ずっと瞑想を続けていた。
陽も落ちた頃、小次郎は人の気配を感じて目を開いた。
座敷牢の内には灯りがなく、外の月明かりだけが僅かな光源となっていたが、小次郎にはそれだけで十分数間先は見通すことができた。その小次郎の目が、牢の格子戸が開いているのことに気付いた。
音を立てずに立ち上がり、座敷牢を出る。
気配の主は、廊下を進んだ先に物陰にいた。背を向けているため顔は見えないが、編み笠を被っている風体から、城の武士でないことは明白だった。
小次郎は、そちらへ向かって歩み寄ったが、編み笠の侍の間合いの内には決して入らなかった。互いに殺気はなくとも、不用意に踏み込めば斬られる。そう本能的に感じさせるほどに、その侍の放つ気配は鋭利なものだった。それでも明らかに抑えているのがわかるのだから、尋常ならざる使い手に違いなかった。
「礼を述べるべきかな?」
「いらぬ。だが少しでも恩を感じているならば、城内で些か騒ぎを起こしてもらいたい」
「ほう、何が目的なのか。いや、詮索は無用だな。いずれにせよ、刀を取り戻さねばならぬ」
「お主の刀ならば、お主が藩主に謁見した部屋に置いてある」
「かたじけない」
軽く頭を下げると、そのほんの一瞬目を離した隙に、侍の姿は掻き消えていた。
青江という槍使いといい、宮本武蔵の養女にして弟子だという宮本沙織といい、今の侍といい、世は広い。まだ見ぬ強者は数多くいると見える。
知らず昂ぶりを覚えつつ、小次郎は先ほどの部屋を目指した。
無数の武具に囲まれた部屋で寛ぎながら、新たに収集品の一つとして加わった五尺の大太刀を眺めていた藩主亀貞は、庭の方からざわめきが近付いてくるのを感じて顔を上げた。
何事かと思い、刀を鞘に納めようとして、その長さゆえに手間取る。面倒なので抜き身を手にしたまま立ち上がった。騒ぎの元凶となっている者をこれの試し斬り代わりに斬ってくれようと思いながら縁側に出る。
「何事か、騒々しい! ・・・むっ」
答えの代わりに、家来衆が数人、後ずさるように庭先にやってきた。その向こうから姿を現したのは、座敷牢へ入れておくように命じてあった佐々木小次郎であった。
「貴様・・・」
「藩主殿、佐々木小次郎、刀を返してもらうべく推参致した」
「痴れ者が! 雑兵風情が誰に向かって物を言っておる! 捕らえよ、いや、構わん斬り捨てい!」
命令を受けた武士達が次々に抜刀する。中には昼間、城下で小次郎の腕前を直に見ていた者もいたのだが、今は丸腰のため脅威はないと思っているようだ。小次郎が城下で刀を抜いたのは犬千代が現れてからで、それまでは全て無手であしらっていたことは失念している。
一人目が気合を発して斬りかかる。小次郎は軽く上体を捻っただけでこれをかわし、踏み込んできた相手の足に自分の足をかけて転ばせた。
続けて二人目が刀を振りかぶったところを狙って手首を掴み、投げ飛ばすと同時に刀を奪い取った。あっという間に、相手が丸腰ゆえの優位が消えたことで、武士達の間に動揺が走る。小次郎は腰の引けている相手に向かって奪った刀を向けつつ、薄く笑ってみせる。
「ええいっ、何をしている! とっとと斬らぬかっ!」
主の叱咤を受けた武士達は、己を奮い立たせるように声を張り上げ、一斉に斬りかかる。
片手で構えた刀で正面から来る相手の剣を弾くと同時に胴を斬り、続け様に向かってくる相手の方へその体を蹴り飛ばす。二人がもつれて転んだ隙に、また別方向から斬りかかってきた剣をかわし、相手を斬り捨てる。
さらに一人二人を倒していき、最後に残った二人が折り重なるように転ばせたところで、二人まとめて貫き、刀を手放した。
僅かな間に十人余りいた武士は全員死んだか気絶したかで倒れ伏し、立っているのは小次郎と亀貞の二人だけとなっていた。
「おのれ・・・であえであえ!」
苛立つ亀貞はさらに人を呼ぼうと声を張り上げるが、誰も来る気配はなかった。
「ここへ来るまでの間にも幾人か倒してきたのでな、当分は誰も来ぬであろう」
二、三十人はいたはずだというのに、小次郎は涼しげな表情でそう言った。亀貞は目の前の曲者と、不甲斐ない家来に腹を立てて眉をひそめた。生き延びた者も全員切腹させてくれると思いながら、まずは曲者を始末するのが先決だった。
「ならば我が手で直々に葬ってくれる! 貴様の刀でなっ!」
鞘を投げ捨て、亀貞は両手で持った刀を振りかぶる。だが、そのまま踏み出そうとすると、切っ先が鴨居に引っかかって動けなくなった。
よろめく亀貞の眼前に、小次郎は迫った。
「私の刀は長いゆえ、狭い場所で扱う時は気をつけられよ」
「ちぃっ!」
柄に小次郎の手がかかると、亀貞は小次郎の大太刀から手を離し、後ろへ跳び下がる。
下がりながら手近にあった手槍を引っ掴み、小次郎目掛けて投げ放つ。小次郎は鴨居に引っかかった刀を手元に引き寄せると、柱と天井に当たらないよう、長い刀を巧みに操って投擲された槍を弾き落とし、縁側から庭へと下がった。
逃がすまいと亀貞はさらに刀を二振り手に取り、縁側まで戻る。そこで切っ先を向けられ、ピタリと動きを止めた。
小次郎は刀を顔の高さで水平に構えている。
「御所望の秘剣“燕返し”、この場でお見せ致そう」
「どこまでも我をこけにする・・・万死に値するぞ、雑兵ッ!」
不敵に笑う小次郎。その余裕が気に食わず、亀貞は荒々しく刀の鯉口を切る。そして片方を横に払って鞘を捨て、もう一つの鞘は構えている小次郎目掛けて投げつけた。
横へ投げ捨てた鞘が鳥籠に当たり、倒れた籠から慌しく燕が飛び立つ。
自分の方へ飛んでくる鞘を体捌きだけでかわした小次郎に向かって、亀貞は両手の刀を振りかぶって斬りかかる。
ただの道楽藩主というわけではないようで、その剣は侮れない速さと鋭さがあった。
小次郎は少しも動じることなく、刀を振るった。
一ノ太刀で左の刀を叩き折り、二ノ太刀で右の刀を弾き飛ばす。そして三ノ太刀を放つ瞬間、室内から飛び立った燕が両者の横を抜けていった。
だが、燕が空へと至ることはなく、真っ二つに裂けたその身は両者の横に音を立てて落ちた。そして小次郎が振るった刀の切っ先は、一瞬の三連撃を前に硬直している亀貞の眼前で寸止めされていた。
物陰に潜んでそれを見ていた沙織は、目を見張った。
見間違いなどではありえない。現に、証拠となるものがしっかりと地面に落ちている。刀を水平に突き出した小次郎と、切っ先を突きつけられている藩主の横に、真っ二つに斬られた燕の死骸があった。
(斬った! 燕を斬った!)
あの“佐々木小次郎”と名乗る男、今確かに燕返しと称した剣で、室内から飛び立った燕を両断していた。
偶然ではない。沙織の目にははっきりと、あの男がはじめから藩主ではなく、飛んでくる燕を斬るつもりであったのが見えていた。藩主の剣を弾いたのは、ただ己が身を守るためのみであった。
巌流島にて武蔵と戦った剣豪、佐々木小次郎の伝説は沙織にとってはただの嘘っぱちだった。そんな伝説にあやかるかの如く噂にある通りの格好と刀、さらには同じ名前を持つ侍がおかしくて、ほんの少し興味を抱いただけだった。長い刀を持て余すこともなく、只者でないことがわかった後でも、こけおどしの剣豪の真似をしている男として、どこかでこの“佐々木小次郎”のことを蔑む心があった。
けれどそんなものは全て吹き飛んで、佐織は男の剣技に見惚れた。
心が昂ぶりを覚えて血が滾った。握り締めた掌に汗が滲む。顔には自然と笑みが浮かんでいた。
(真の佐々木小次郎の話は、偽りであった。じゃが今、わしの目の前におる偽りの“佐々木小次郎”・・・この男こそ、真であった!)
これほど激しく感情を揺さぶられたのは、生まれて二度目だった。一度目は師、武蔵とはじめて出会った時。崇拝し、いつかその高き頂を越えてみせると心に刻む日の本一の剣豪に抱いたのと同じ興奮が、今この佐々木小次郎という音をお前にして心を満たしていた。
普通の女子であれば、それは恋心とも呼ぶべき心の昂ぶりなのだろうが、沙織が恋するのは男にではなく、その剣にこそであった。
沙織は物陰から飛び出て、大股で小次郎の下を目指して歩んでいく。
それに気付いた小次郎と藩主が沙織のことを見やる。小次郎の表情に変化はなかったが、藩主の方は訝しげに眉をひそめた。何事か藩主が喚いているが、沙織は右から左へ聞き流して、腰の二刀を抜き放った。
片方の切っ先を小次郎に向けて突き付けて、沙織は高らかに叫び声を上げる。
「佐々木小次郎! このわしと、いざ尋常に勝負致せっ!」
騒ぎに乗じて無人となっていた奥の一室へ忍び込んだ編み笠の侍は、探し出した一冊の書の中身に目を通すと、それを懐へ忍ばせた。
「そいつをどうしようってんだい?」
右肩越しに侍が振り返ると、襖の淵に寄りかかるようにして青江犬千代が立っていた。肩には抜き身の槍を立てかけており、いつでもやれるとばかりに殺気を漲らせている。
睨みつけてくる犬千代に対し、侍は編み笠の淵に手を掛けながら立ち上がった。犬千代も襖から背を離し、正面から侍と相対する。笠は深く被られているため、犬千代からは相手の顔は見えない。目の動きが読めないため、僅かに相手の気配を量りかねる。
「おまえが懐に入れたそいつは、この藩の悪政を証拠付けるものになる。それを盗み出して、どこへ持って行くつもりなのかねぇ?」
挑発するつもりで声を掛けてみせるが、編み笠の侍から答えはない。
「だんまりか。ならこっちから言ってやろうか――」
言いかけた瞬間、侍が腰を落とすと同時に前に向かって編み笠を投じた。
「やはり! 公儀の隠密か!」
槍を引きながら腰を落とす犬千代は、眼前を舞う笠に視界を遮られる。その向こう側で、侍が刀を抜いて前へ踏み出すのが気配でわかった。
笠を投げる間合いと位置が絶妙で、犬千代の動きを迷わせる。槍で笠を払えば隙が生じる。避けた場合でも同じだった。どう動いても、僅かな隙を突かれ、斬られる。ならば、笠ごと相手を貫くか。仕留めるならばそれしかあるまいが、もしも外せばその場合にも隙を見せることになる。あとは後ろへ跳んで完全にかわすか。だがその場合は逃げられる可能性が高い。
判断は一瞬だった。犬千代の流儀に、後退の二文字などない。
前へ踏み込むと同時に、片手で槍を突き出した。狙い違わず、笠を刺し貫いた槍は的確に相手の芯を捉えていた。
獲ったという確信を抱く直前、全身を駆け抜けた悪寒に、犬千代は全力で体を引いた。
下から掬い上げるようにして繰り出された相手の太刀は、総鉄製の槍の柄を半ばから両断した。刹那でも体を引くのが遅れていれば、胸元まで深々と斬り裂かれていた。
肝を冷やす犬千代の横を、疾風の如き速さで侍は駆け抜けていった。すれ違う際に、一瞬だが犬千代は侍の顔を見て、驚きに目を見開いた。
侍は、隻眼だった。
さらに、左目を覆う眼帯に描かれた紋には、見覚えがあった。
「てめぇっ、柳生・・・!!」
公儀の隠密、隻眼、そして犬千代に冷や汗を掻かせるほどの太刀筋、間違いない。
柳生十兵衛三厳。
将軍家剣術指南役にして幕府総目付、柳生但馬守宗矩の嫡男。柳生新陰流の比類なき使い手として名の知れた剣豪である。表向きは三代将軍の勘気を蒙って柳生の庄にて蟄居中ということになっているものの、以前より大名取り潰しを目論む但馬守の手足となって隠密の働きをしているという噂はあった。どうやら本当だったらしい。
「柳生に目を付けられたのが運の尽き。成金大名もこれで終わりね。まぁ、十分約には立ったからいいですけど」
廊下を歩いてきた可憐が十兵衛の逃げ去った方を見ながら言う。その顔を前に向けると、蔑むような視線で犬千代を見据えた。
「それにしても、ああもあっさり逃がすなんてだらしがないわね、この駄犬」
「うるせぇ。ちっと油断しただけだよ」
とは言うものの、噂に違わず大した腕の持ち主であった、柳生十兵衛。
雇い主であったこの藩が取り潰しになるのはどうでもよかった。所詮は仮の主君に過ぎず、犬千代の真の雇い主はこの可憐という少女だった。彼女はキリシタンで、幕府から弾圧を受けている多くのキリシタンが安定した暮らしを得たり、海を渡って弾圧から逃れるための資金集めをしており、そのために金成亀貞に目を付けて取り入っていたのである。もっとも犬千代にとっては、そうした事情もどうでもよい。
ただ犬千代の脳裏にあるのは、今し方見た凄まじい太刀筋のみであった。
この数ヵ月後、金成藩は取り潰し、お家断絶となるが、その時城内に可憐と犬千代の姿はなかった。
「何だ貴様は小娘! 誰の許しを得てぶほはぁっ!!」
騒々しい藩主の顔面に、沙織は刀の柄頭を叩き込んだ。藩主は吹き飛んでいき、立て掛けられていた無数の刀と襖を薙ぎ倒し、仰向けに転がって気絶した。
そちらへはそれ以上目もくれず、庭の一番広い位置まで移動して小次郎と対峙した。
建物からも、庭木からも離れたその場所ならば、小次郎の長い刀も一切周りを気にすることなく全力で振るえるはずだった。立ち合いにおいて、己に有利な、相手に不利な地の利を活かすのは定石であり、彼女の師武蔵も常にそれを心掛けていた。だが沙織は、その点だけは師とは違っていた。
立ち合うからには、己も相手も最高の状態で、全てを出し切って勝負をしたかった。
それで死んだとしても後悔などない。
元より、実の父が仕えていた主家は潰れ、主を追って父は切腹、放浪の末に母も病で死んだ。武蔵に拾われなければ、沙織もいずれのたれ死んでいた身である。
はじめて武蔵と出会った時、その剣を見て一目で惚れた。一太刀一太刀に、己と相手の命を懸けて振るう剣の美しさ、尊さ、気高さに打ち震えた。その剣を極めることに、自分の命を全て捧げるとその時決めたのだ。
だから沙織は恐れない。
武芸者同士が、磨き上げた技の全てを出し切って剣を交える時の、死の隣り合わせの興奮の果てにこそ、目指すべき境地がある。その究極のための勝負である。何を恐れることがあろうか。
相手を斬るか、己が斬られるか、或いは共に果てることもあるか。
いずれにせよ、この男とならば行けると思った。勝負の果てに、究極の境地へ。
「二天一流、宮本沙織・・・いざ!」
沙織の二刀はいずれも同じ長さである。二尺一寸は主流のものより僅かに短い。
左手の刀は正眼の高さに構えて相手の眉間に切っ先を向ける。右手の刀は、左を前に半身となった体に隠すようにして脇に構える。前に構えた左の刀で防御、牽制を行い、右の剣で決めにいく。武蔵が考案した二天一流の基本的戦法である。沙織の剣は、そこから自分なりに改良を加えた亜流だった。
対する佐々木小次郎は、何も言わず、応じるように構えを取った。軽く腰を落とし、刀は顔の高さで相手に切っ先を向けて水平にする。
「佐々木小次郎、秘剣“燕返し”でお相手致そう」
月下で対峙する二人の放つ剣気が、風もないのに周囲の草木を揺らす。互いに相手のそれを感じ合い、肌がざわついた。
小次郎もまた、沙織と同じであった。互いに全力を出し切る命を懸けた勝負の果てにこそある究極の剣の境地へと至るべく、共にそれを目指し高め合うことのできる相手を求めていた。
今この時に、この相手と廻り会えたことに、二人は歓喜していた。
皮肉にも、偽りで塗り固められた架空の名勝負、二天一流と燕返し、その真の勝負が今、人知れず行われようとしていた。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
じっと構えたまま佇む。
勝負は一瞬である。
元より、時間をかければ人がやってきて勝負に水を差されることとなる。それ以上に、小次郎は既に必殺の構えを取っている。秘剣と自ら呼ぶ技を出すからには、それは必殺。燕返し、決まれば小次郎の勝ち、かわして斬り込めば沙織の勝ちである。
既に一度見て燕返しの性質はわかっている。
斬り下ろしの一ノ太刀、斜め斬り上げの二ノ太刀、そして横薙ぎの三ノ太刀。その超高速の三連撃。しかしおそらく、藩主相手に見せたものはまだ本気ではあるまい。真の燕返しは実際に見たものより、倍は速い。それを念頭に置いた上で、沙織は攻略法を一瞬で心の内に浮かべる。
一ノ太刀で受け止めて鍔迫り合いにはできない。小次郎は細身とはいえ、力勝負では女子の沙織に勝ち目はなかった。ならば二刀を最大限に活かして受け流しつつ、切り返しの隙を狙って斬りつける。
脳裏に相手の剣をかわし、己の剣を打ち込む様を思い描いた瞬間、沙織は鋭く踏み込んだ。
相手の長い刀の間合いに入ると、即座に頭上から一ノ太刀が襲ってきた。まず、見た目以上に相手の間合いを広く感じた。既に相手の切っ先が届く位置にいながら、自分の刀が相手の体に届く位置が果てしなく遠く見えた。だが、沙織は迷わず前へ向かって体を押し出した。
左の刀を斜めにして頭上に突き出し、一ノ太刀を受け流す。
切り返される前にもう一歩踏み込もうとするが、実際見たものの三倍増しで予測していた速さのさらに上を行く速度で、斜め下から二ノ太刀が繰り出されてきた。
体を捻って右の刀を前に出し、二ノ太刀を受け止める。やはり力勝負では、ましてや片手では勝負にならない。受けた一撃の重さで体勢が崩れそうになるのを気合で踏み止まり、身を深く沈めつつ、相手の太刀を頭上から受け流した。
地面に沈み込む形になった沙織は、その反動を利用して加速し、最後の一歩を踏み出そうとした。
そこへ襲い来る横薙ぎの三ノ太刀。
ギィンッ!
二刀を交叉させて、沙織はこの一撃を受け止めた。
そのまま刃を滑らせて斬り込もうと試みて、できなかった。威力を殺しきれず、堪らず地面を蹴った沙織は、小次郎の太刀を受けた反動と合わせて大きく跳び下がった。
後退した沙織の左袖は裂けており、その下の左腕からは血が滲み出ていた。傷は浅いが、対する小次郎の方は無傷である。
「引き分け、だな」
「世辞はよせ。わしの負けであろう」
「いや、本気の“燕返し”で斬れなんだ相手はそなたがはじめてであった。勝ちとは言えぬ」
互いに相手を斬るつもりで挑んで、それを果たせなかった。どちらにも勝ちはなく、引き分けと言えた。
仮にこのまま続ければ、片腕に傷を負った沙織の方が遥かに不利だった。燕返しを破る手立ても見えぬ以上、沙織はむしろ己の負けと思っていた。だが小次郎は、必殺を期して放った技をかわされながら、尚勝ちを得ようと次の太刀は出すまい。
結局二人とも、勝ち負けなぞ二の次なのだ。
沙織は燕返しの妙技の凄まじさに、小次郎はそれをかわしてみせた沙織の動きに、いずれも深く感じ入っていた。
そこへ、複数の人間が近付いてくる気配がした。
異変を感じ取り、この本丸以外の場所に詰めていた者達がやってきたのだろう。これ以上長居は無用だった。
「逃げるか」
「うむ、勝負は一時お預けじゃ」
小次郎と沙織は刀を納め、塀の方へ向かって駆け出した。
「そうじゃ小次郎、わしは今後お主について行くぞ」
「む?」
「お主の剣に惚れた! 嫌じゃと申してもついて行くゆえ、覚悟致せ!」
「左様か」
二人が姿を消した後、やってきた武士達は屋敷周りの惨状に顔をしかめつつ、気絶している藩主を見つけると口々に「殿!」と叫びながら駆け寄っていく。さらに曲者を探して方々へ散るが、何者も捕まえることはできなかった。
このような事態を公にすることもできず、藩の面目を守るため全てなかったこととして処理した金成藩だったが、数ヵ月後、幕府によって取り潰されることとなる。
「そういえば小次郎、お主嘘を吐きおったな」
冬木の城下を離れてからおよそ一日後の昼下がり、小次郎と沙織は街道上を並んで歩いていた。沙織の手には途中で買った団子があり、それを口に運びながら憮然とした顔で隣の男に語りかける。
「燕は斬れぬと申しておったくせに、斬れたではないか」
「たまたまよ。間合いの内へ入ってきたから斬れたまでのこと」
「食えぬ男じゃ。即ち間合いの内へ入ったものは何であろうと斬れるということではないか。燕返し、恐ろしい秘剣よな」
「あれは、まだ完成してはおらぬ」
「何じゃと?」
あれほどの剣を見せておいて、未だ完成ではないという。
事も無げにそう語る小次郎の顔を、沙織は団子を口に運ぶのも忘れて見上げる。
「既に十分無敵の秘剣だったではないか」
「だが、沙織殿にはかわされた」
「わしは二刀じゃ。かわすことに全力を尽くせばあのくらいはできる」
しかし、あれを突破して斬り込む自信は沙織にもなかった。無論、今後の課題としていずれ破ってみせるつもりではいたが。
「私が理想とするのは、間合いに入ったからには決して回避できぬ剣だ」
「その剣とは?」
知らず興奮を覚え、沙織は逸る気持ちで先を促すように問い詰めた。
絶対にかわすことのできぬ剣、それは全ての武芸者が至ることを目標とする境地に違いなかった。沙織はおろか、彼女の師たる日の本一の武芸者武蔵でさえ未だ至ることなく、日々その境地を目指し、老いて尚修行に明け暮れている。
誰もが夢想する、どんな敵をも打ち倒す究極にして必殺の一刀、この男ならば本当にそれを会得できるかもしれないと、期待を込めた視線を向ける。
「もし三つの太刀筋を寸分の差もなく同時に放つことができたならば、何人もかわせぬとは思わぬか?」
「・・・・・・・・・」
小次郎の言葉を聞いた沙織はしばらく呆けた顔をしていたが、不意に残りの団子を全て口の中に放り込み、手首の返しだけで手にした串を、一切の遠慮手加減もなしに小次郎の目を狙って投げつけた。小次郎は向き直りもせずに、指先でそれを掴み取った。
「お主阿呆であろう。そんなことが可能ならば誰も剣術修行で四苦八苦したりせぬわっ!」
柳眉を逆立てて激昂する沙織に対して、小次郎は薄く笑ってみせた。
「違いない」
「まったく・・・自身ありげに何を言うかと思えばただの夢物語か、やはり佐々木小次郎は大法螺吹きじゃ」
「左様か」
時は江戸のはじめ、武芸者達の時代――。
伝説の剣豪、佐々木小次郎の名を騙るこの男が、人の領域を超え、その境地に達するのは、まだ遥か先の話であった。
了
※この物語はフィクションです。作品中に登場する地名、団体名、人物は実在のものとは一切関係ありません。また二次創作ではありますが、誰かに似ているような、どこかで見たような気がしても、一人を除いてFate/stay nightならびにFate/hollow ataraxiaの登場人物との関連性は皆無です。