「起こらないから奇跡っていうんです」
それは昔、彼女が言っていた言葉。
あの公園以来、ほぼ2ヶ月ぶりに会う彼女は少しやつれた様に見えた。しかし、以前のような儚げな印象は感じない。
「……そうだったな」
俺は恐る恐る彼女へと近づいていく。触れれば消えてしまうような気がして。目の前の彼女は俺が作り出した幻だったような気がして。
彼女と別れてから、彼女の姉も学校へ来なくなった。だから俺は、彼女がここに居る事が未だに信じられない。
「でも……私…嘘つきですよね…」
彼女は苦笑を浮かべている。しかしその瞳が潤んでいる事は隠し切れていない。
彼女の息遣いを感じる距離まで近づき、ようやく彼女の存在を頭が受け入れ始める。俺は今、彼女の言葉を嘘にしてくれた事を信じてもいない神様に心の底から感謝したかった。
「ああ、そうだな」
彼女もまた少し、ほんの少しだけ俺に近づく。
彼女を抱きしめたい。俺たちの再会劇は、そんな感情を抑えきれなくなる瞬間まで続くのだった。
クアンドレント
学校の裏庭。
かつて彼女と出会い、多くの時を共に過ごした場所で俺は人を待っていた。相手はもちろん、彼女こと美坂栞である。
「あ"〜」
たくさんの生徒の登校する中、栞と抱き合い、泣きじゃくった記憶を反芻しながら、俺は1人悶絶する。あの後、美坂チームの面々にからかわれ続け、クラス替えがあったにも関わらず、クラス内で俺の顔を知らないヤツはいない状態になっていた。既に全校に知れ渡っているとかいないとか。
少し冷静さを取り戻した頃、俺はベンチに腰掛けた。入学式からさまざまな説明まで、1年生はやる事が多いらしく、栞が来る気配はまだない。どうやら入学式とは、2度目だからといって短縮されるものではないらしい。
「あーあ。暇だな」
「・・・暇?」
「うおっ」
気がつくと、目の前に人影があった。
まったく気配を感じなかったので、俺は大げさに驚いてしまう。
「・・・よう」
「よう。って、舞か」
彼女は川澄舞。18歳。
栞との別れの数日後に夜の学校で出合った自称魔を狩る者であり、今年の俺のクラスメイトでもある。18歳という年齢に違和感を感じる人もいると思うが、彼女は別に4月の早生まれと言う訳ではない。じゃあ何かと言うと、留年生である。成績がギリギリな上に、普段の素行が悪く、そこにダメ押しで何やら事件を起こして留年が決定したらしい。
「まさか同じクラスになるとは思わなかったな」
「うん」
彼女には親友がおり、その親友である倉田佐祐理さんを含めた3人で学校で一緒に昼食を摂った事も数度ある。その時には舞の留年は決定していた為、来年の同級生という縁で卒業式の後もたまに一緒に食事を摂ったり、遊んだりと、佐祐理さん共々仲良くさせて貰っている。
「あの子は?」
「ん? あぁ。お前も見てたのか?」
「うん」
教室ではずっと美坂チームにからかわれていた為ほとんど会話が出来なかったのだが、どうやら彼女もあの現場にいたらしい。舞たちに栞の話はしていないので、事情はわからなくて当然だ。
「いや、あれはなんつーか」
「ずっと落ち込んでたのは、あの子のせい?」
舞はいつの間にか隣に座っていた。そして身を屈めて、俺の顔を覗き込むように見上げている。
判ってはいたが、やはり目に見えて落ち込んでいたらしい。あえてそれには触れず、温かく迎え入れてくれた2人に、俺は再度、無言で感謝をした。
「あー。なんつーか。そんな感じだ」
「そう・・・」
少し複雑そうな表情で舞はそっぽ向いてしまう。何が気に障ったのか判らないが、とにかく俺は話題を逸らしておく事にした。
「そういえば、佐祐理さんは元気か?」
「・・・この前会ったばかり」
「そうだったか?」
「そう」
記憶を手繰ってみる。たしか前回会ったのは引越しの時だ。彼女たちは2人で暮らす計画を前々から立てており、それは彼女の留年が決まっても中止される事はなかった。舞自身、1人暮らしだったらしいのでそれに問題はなかったんだそうだ。
「一週間くらい前だっけか?」
「・・・5日」
思い出してみると、確かにそのくらいだったような気がする。あれ以降、片付けやら新生活の準備やらで忙しそうなので、あの部屋には行っていない。さすがに女性の荷物整理を手伝うわけにはいかないからな。
「ふむ。そうか」
「そう。ところで祐一」
「ん?」
「あの子は祐一の彼女なの?」
珍しい舞の自主的な発言と、それ以上にその内容に俺はすごい勢いで驚いた。具体的には、ベンチから勢いよく立ち上がってしまうくらい。
「あー、いや。どうなんだろ?」
「違うの?」
「あー、んー」
期間限定の、普通の付き合い。ドラマが大好きで、その影響を多大に受けている彼女の"普通"が果たして本当に普通だったかという疑問はさておき、あの頃の俺たちは確かに付き合っていた。例えそれが仮初でも。
「付き合ってはいたな」
「・・・今は?」
俺の曖昧な言葉に、舞は容赦なく追い討ちをかける。
期間限定の付き合いであったのだから、今は付き合っていないとも言えなくはない。一度だけ約束を破ってお見舞いに行った時に、彼女の姉である香里に「栞のお見舞いには絶対こないで。それがあの子の望みだから」と追い返された。その事から俺は、さっきまではあの約束がまだ有効なのだと思っていた。今日再会するまで俺は、彼女が無事だった事すら知らなかったのだ。
あの公園で、生きたい、と言っていた彼女。それが叶った今、彼女にとって俺はどのような存在なのだろう? 生き急ぐ必要がなくなり、学校にまで通えるようになった彼女にとって、俺は唯一の存在ではなくなってしまったのだ。
「んー。とりあえず付き合ってないんじゃないかな?」
「そうなの?」
舞の返答を受け、俺は改めてその事について考えてみる。俺と栞の関係はあの公園で一旦終わっている。だから彼女と俺は、もう一度お互いの意思を確認し合わなければならない。それが果された時に初めて、俺たちは胸を張って「付き合っている」と言える関係になるのではないだろうか。
「あぁ。栞と俺は、今んとこ付き合っていないって事になると思う」
ドサッ
近くで物音がした。音の方へと視線を向けると、そこには栞がいた。その足元には、アイスが大量に詰まっていると思われる紙袋が落ちている。
「ゆ、祐一さん・・・」
「・・・あ」
蒼白な表情の栞に、俺は先程の自分の言葉を思い返す。それは栞の居場所を一方的に否定する言葉。俺にそんなつもりはなかったとは言え、彼女が今も俺を想ってくれているのならば、それは十分に誤解を招く言葉。どうやら彼女は最悪のタイミングでここにやって来たらしい。
俺がそこまで考えている間に栞はゆっくりと振り返り、今にも駆け出そうとしている。
「ちょっ、待てっ」
「はい。待ちます」
栞を追いかける為に走り出そうとしていた俺は、派手に、ずるっ、とずっこけてしまう。栞さんや、本気で逃げる気はないなら逃げるような素振りを見せないでください。いや、もしかしたら呼び止められる事を前提に逃げる振りをしただけかもしれない。栞ならその可能性も十分ありうる。
「で、その人は誰ですか?」
「あー。こいつは川澄舞。俺のクラスメイトだ」
「・・・舞でいい」
「あ、はい。私は美坂栞です。栞でかまいません」
「・・・わかった」
「あー、こいつは無愛想だけど、気にしないでくれ」
相変わらず素っ気無い舞の台詞に、申し訳程度にフォローをいれておく。少しだけ、佐祐理さんの気持ちがわかったような気がする。
「はい。では私は舞さんと呼ばせて貰いますね」
「・・・かまわない」
先程の緊迫感はどこ吹く風。そんなゆるみきった空気を元に戻したのは、やっぱり栞だった。
「で、祐一さん?」
「あー、いや」
先程の台詞の真意を問いただしているつもりなのだろうが、いかんせん、顔の造りが子供っぽい栞が睨んでも怖くないどころか、愛らしい雰囲気だ。これが香里のような美人が相手なら、ぞっとするような怖さを醸し出すに違いない。
「って、祐一さん。何を笑ってるんですか!!」
「いや、悪い。ちょっとな」
そうして頬を膨らませる姿も可愛いかった。どうやら俺の思考はとろっとろに蕩けているらしい。
彼女が怒ってくれる。それすらも俺にとっては最高に嬉しい出来事だ。自惚れかもしれないが、たぶん彼女は嫉妬してくれているのだ。これ以上嬉しい事が他にあるだろうか?
「いいですよ。舞さんに聞きますから。ねー、舞さん?」
「・・・・・・」
舞は少しだけ表情を硬くし、身構えながら栞を見つめている。最近、無表情な彼女の微細な変化も判るようになってきた。佐祐理さんにはまだまだ叶わないが。
「えっとですね。祐一さんとはどこで出会ったんですか? ちなみに私は道を歩いている時に、どさーって雪をかけられました。ドラマみたいな出会いですよね〜」
質問している事をそっちのけでしゃべりだす栞。舞はそれにいやな顔をするでもなく、真剣に耳を傾けており、栞はそれをいい事に俺との出会いの一部始終を、余すことなく語っている。
「そしてここで再会したんです。それで、舞さんはどうでしたか?」
「・・・私は夜の学校だった」
そして訪れる沈黙。
でも、夜の学校が連想させるものって、ヤバくないか?
「え、えっと。そこで何をしてたんですか?」
「・・・・・・・・・運動」
悩んだらしく、舞は返答までにかなりの間を要した。どうやら"魔"については語る気がないらしい。確かに栞が"魔"の事を知れば、「ドラマみたいで格好いいですぅ」とか言って学校までついてきそうだ。舞、ナイス判断。
「えぅ。じゃあ祐一さんはなんでそんなところにいたんですか?」
「あーいや。なんとなく、お前と歩いたのを思い出してな」
「あ・・・」
栞との思い出を辿る最中に出合った非日常。俺は押しつぶされそうな心をごまかす為にそこへ身を投じた。
「えっと、じゃあその後も夜の学校で?」
「・・・そう」
「それじゃあ、祐一さんと夜の学校で何をしてるんですか?」
「・・・運動」
いやいや、その答えはさすがにマズいだろう。とはいえ、何を言っても言い訳にしかなりそうにないので、俺は黙って成り行きを見守る事にする。
「そ、それってどんなですか?」
「・・・秘密」
「そ、そんな・・・。あの、もしかしてそれって、激しかったりしますか?」
「・・・激しい時もあるし、穏やかな時もある」
「・・・・・・祐一さん?」
栞はとてもいい笑顔でこちらを振り返る。顔は笑っているのだが、目が笑っていない。そのギラついた瞳は、栞が香里と同じ遺伝子をひいている事を如実に物語っていた。前言撤回、本気で怒ると充分怖いです。
「それから、お昼を一緒に食べた」
「あ、それは私もやりました。がんばってお弁当を作りました。おっきいのを」
「・・・おいしそう」
「今度、ご一緒しましょうか?」
「うん」
うまく話が逸らしてくれた舞に、俺は心の中で拍手喝采を浴びせておく。舞がそんな器用な事が出来るとは思えないので、きっと偶然だろうけど。
「そ・れ・で。祐一さん?」
「はい」
しかしそれは長くは続かなかった。声と共に俺へと向き直った栞は再度同じ表情をしており、笑顔のまま目だけが笑っていない。その表情に、俺は1つの確信を抱く。こいつは正真正銘、美坂香里の妹だ。
それを受けて俺は、頬を引きつらせながらもなんとか笑顔を作ろうとする。きっと失敗しているだろうが。
「祐一さん、やっぱり私じゃダメですか?」
「なっ!? しお、違っ」
一転、俯いてしまった栞に、俺は焦りすぎて口が上手く回らなかった。彼女に伝えなければいけない事はたくさんあるのに、伝え切れない事がもどかしい。
「だって祐一さん、私とは付き合ってないっていったじゃないですかっ」
「いや、違うんだ。そうじゃなくて」
「じゃあ、あれは嘘だったの?」
舞が乱入し、俺の混乱に拍車をかける。なんで修羅場みたいな事になってるんだ?
「栞は祐一の彼女じゃないというのは、嘘なの?」
「いや、それは、その・・・」
真っ直ぐ、そして真摯に俺を見つめ、でもその表情には少しだけ陰りが見て取れた。純真で根が素直な舞。そんな彼女と見詰め合いながら「さっきのは嘘でした」という事は、それ自体が決して許される事のない罪悪であるかのように感じてしまう。
「嘘ではない、と思う」
「そう」
静かに見詰め合う2人。心なしか潤んでいる舞の瞳を、素直に綺麗だと思った。
先程考えたとおり、俺と栞はお互いの意志を再確認すべきなのだ。古い約束に縛られず、新しい関係を築く事こそが、今の俺たちにとって最も大事な事なのだ。そう自分に言い訳しながら俺は、舞から視線を外すべく目を閉じる。
「・・・祐一さん」
栞の言葉を受け、俺は小さく深呼吸をする。少しだけ落ち着いた動悸をきっちり3つ数えた後、俺は栞を見据えて口を開く。
「栞、聞いてくれ。俺たちの関係は期間限定だっただろ? だから――」
「そうですよね」
これからまた、あの時とは違う、新しい関係を築いていこう。俺の口が紡ごうとした言葉は途中で遮られ、栞に伝える事は叶わなかった。
「やっぱり、胸ですか!?」
「これから、って、はい?」
「やっぱり胸が大きい人がいいんですね。そうなんですね? 私なんて、どーせ」
栞はそう捲くし立て、舞の胸が親の敵でもあるかの様にものすごい形相で睨みつける。確かに舞はスタイル抜群で、胸も大きいが・・・。
「・・・やっぱり」
「い、いや。これはだな」
栞に釣られて舞の胸を凝視してしまった俺は、慌てて視線を逸らす。どうやら見入っていたと勘違いされたらしい。いや、そりゃ興味はあるけどさ。って、舞も腕を組んで胸を隠すんじゃない。俺が悪いみたいじゃないか。
「酷いですぅ。お姉ちゃんにいいつけてやりますぅ」
「いや、ちょっとまて。胸は関係ないだろ」
「うぅ。どうせ私の胸は小さいですよぉ」
拗ねた顔で問い返す栞は、やっぱり抱きしめたくなるくらい可愛かった。同時に、こんな状況でも結構冷静な思考が出来るものだなと言う感想も思い浮かぶ。出来ればその冷静な思考を、少しくらい目の前にあるやっかいな事態の解決の為にあてて欲しいものだ。
「別に小さくてもいいだろ。俺は別に気にしないし」
「あー、小さいっていいましたね? いいましたよね? そんな事いう人嫌いです」
ある意味どんどんと泥沼へとはまっていく会話。アイスでも奢れば機嫌を直すだろうかと考え、そんな子どもじゃないと怒られそうだなと思い、苦笑する。アイスで思い出したのだが、栞が持ってきたアイスは未だに地面に捨て置かれている。あまり長く放置すると溶けるかもしれない、とそんな心配をしてしまう。
「栞は祐一の事嫌いなの?」
俺が言葉を捜している隙に、舞が会話に割って入る。出来ればこれ以上事態をややこしくして欲しくはないのだが。
「私は祐一の事、嫌いじゃない」
「わ、私だって祐一さんの事――」
「佐祐理も祐一の事は好きだと言っていた」
舞からの予想外すぎる言葉に、事態は更に一転する。しかも悪い方へ。
こいつの行動は常に読み辛いが、今日は格段に読め無さ過ぎる。一体何を考えているのだろう?
「祐一は佐祐理の事好き?」
「あ、いや。ちょっと待て」
「嫌いなの?」
「好きは好きだが、意味が・・・」
栞の視線が再度硬化する。その視線に耐え切れなかった俺の言葉は、尻すぼみに小さくなっていく。
栞の視線はとても痛いのだが、ここで好きじゃないとも、ましてや嫌いなどと答える事は俺には不可能に近い。恩を感じているというのもあるが、2人ともとても魅力的な女性なのだ。そんな彼女たちの好意を無碍にするヤツは男じゃない。たぶん。
「私は?」
「あー、うん。嫌いじゃないぞ?」
さすがに栞の視線に耐え切れず、好きと言う言葉は避け舞の十八番(オハコ)を真似てみる。それを聞いた舞は「そう」とだけ答え、心なしか少しだけ残念そうにしている。
しかし今の栞は、そんな俺の発言よりも違うところに興味が向いているようだった。
「ところで祐一さん。佐祐理、って誰ですか?」
「あー、いや。佐祐理さんはだな。えーっと」
「私の親友」
戸惑っている俺に、舞から助け舟が出される。佐祐理さんといえば、俺も聞きたい事があるのだと思い、俺はとりあえず聞いてみる事にした。
「なぁ、本当に佐祐理さんが?」
「・・・?」
「俺を好きって言ってたのか、って事」
「うん」
頬が熱くなり、鼓動も早くなるのがわかる。美人で、性格もよくて、頭もよくて。そんな人に好かれていると言う事実は、栞の存在を差し引いてもとても嬉しい事だった。いや、でもきちんとお断りするつもりだぞ? 断じて心揺れたりしてない。本当だぞ?
「舞さん。その人はどんな人なんですか?」
「・・・美人」
「ま、舞さんよりもですか?」
「うん。それに料理が美味しい」
「うぅ・・・。あの、もしかしてスタイルもよかったりします?」
「いい。成績も学年トップだった」
「えぅぅぅ」
唸り声を上げる栞に、舞はとどめとばかりに自分と佐祐理さん、そして俺が写っている写真を取り出す。本人は好意のつもりだろうが、それは確実に止めだった。もちろん俺にとっても。
「祐一さん。仲よさそうですね」
「は、ははははは」
ジト目で俺を睨む栞の手には1枚の写真。それは引越しの時に撮ったもので、俺の両側に2人立っており、佐祐理さんは俺の腕に自分の腕を絡ませている。少し前まで持ち歩いていたのは舞と佐祐理さんとのツーショット写真だったはずなので、油断してしまった。入れ替えたと知っていたら、全力で阻止したものを。舞、恨むぞ。
「だから栞」
「はい?」
「祐一は渡さない」
「え? えぇぇぇぇ!?」
驚いたのは俺も同じだったが、栞のように大声を出して驚く事だけは堪えた。それにしても、舞からそんな言葉が飛び出るなんて、思いも寄らなかった・・・。
「わ、私だって!」
「栞は祐一の事、嫌いだって言った」
「えぅ。そ、それは・・・」
「だから、私たちが貰う」
俺は物じゃないんですが、とか俺に選択権はないんですか、とか言いたい事はたくさんあるのだが、とりあえず静観する事にする。栞が俺のことをどう思っているのか。それが知りたかったからだ。
「ダメです。祐一さんは私のモノです」
「・・・祐一は嫌いじゃなかったの?」
「嫌いじゃありません。むしろ大好きです!」
栞から零れた言葉に、俺は不覚にも泣きそうになってしまう。2ヶ月間、会えない間も栞は俺を思い続けてくれていたのだ。そして同時に罪悪感が芽生える。その間、舞や佐祐理さんと楽しく過ごしていた事への。
「・・・嘘だったの?」
「う、嘘っていうか。その・・・」
さすがに「キメ台詞(?)です」とは言えないのか、たじろぐ栞。一報、舞の方は真顔で栞の事を見つめている。
「嘘つきは泥棒の始まり」
「そ、そんな事いう人嫌いですぅ」
本日二度目になる栞のキメ台詞(?)が、中庭に響きわたる。
舞はそれも真に受けたのか、少し落ち込んだような表情だ。
「あー、舞。別に本気で嫌ってる訳じゃないと思うぞ?」
「・・・そうなの?」
「そうそう。なぁ、栞?」
「え? あ、はい。舞さんの事は好きですよ?」
どうやら俺のフォローと栞の言葉で納得してくれたらしく、舞はいつもの無表情へと戻る。
しかし、俺が言葉を挟んだせいで栞の標的は再びこちらへと移ってしまう。
「ところで祐一さん?」
「ぎくっ」
わざとらしく声にだしてみたのだが、想像以上に胡散臭かった。
栞はそんな俺の反応など無視し、先程の鬱憤を晴らすかのように目を細め、ちくちくと刺さるような視線で俺を睨んでくる。唯一の救いは先程のように恐怖を感じる程の視線ではなかった事だ。
「佐祐理さんという方とも、とーっても仲が良さそうですね?」
「あ、いや。栞。それはだな」
「言い訳はみっともないですよ?」
「た、確かに仲はいい。でもな、俺は全然そんなつもりじゃ――」
「祐一は、佐祐理の事嫌いなの?」
舞の言葉に遮られ、俺は言葉を続けられなくなる。物理的にと言うよりも、精神的に。
「いや、佐祐理さんの事は好きだぞ? でもな」
「3人で暮らすのは、やっぱり無理なの?」
「・・・いや、それは断ったはずだが?」
「そんな仲だったんですか?」
栞の目が怒りから蔑み、軽蔑の眼差しへと変化する。これは本格的にヤバイ兆候かもしれない。
「いや、それは舞と佐祐理さんが一緒に暮らすって話をしてた時に出た、冗談というかその場の雰囲気で出た話と言うか」
「私たちは本気」
俺の懸命な言い訳、もとい弁明も舞の言葉に一蹴されてしまう。悪意がまったく感じられないところが、とても恨めしかった。
「祐一さんの浮気者」
栞が小さな声で呟く。
俺は大声で「違う」と叫びたい衝動をなんとか抑え、弁明を続ける。
「栞、聞いてくれ」
「・・・もう、いいんです」
栞は俯き、今度こそ本当に走り出してしまう。
俺はそれに驚き、ワンテンポ遅れて追いかけようと足を踏み出す。
「待て、栞!」
そして次の瞬間、予想外は方向から栞へと手が伸ばされる。その手に引き止められ、栞は少しつんのめりながらその場に静止した。
「舞・・・?」
舞は何も言わず、栞を抱き寄せる。そうしてその頭をゆっくりと撫でた。
「祐一」
「・・・なんだ?」
「祐一は大事な事を忘れてる」
俺はその言葉の意味がまったく理解出来なかった。でも舞はそれを語らず、ただ俺を見つめ続ける。俺は走り出そうとしたままの間抜けな格好で舞の言葉の真意を必死に考えた。
舞の胸の中にいる栞へと目をやると、その瞳は涙で濡れていた。
「祐一は言い訳ばかり。男らしくない」
「・・・あ」
言われて見て初めて気づく。確かに俺は、栞に言い訳しかしていない。俺が伝えるべきは、そんな事ではないと言うのに。
「栞、聞いてくれ」
「・・・なんですか?」
舞に背中を押され、俺の前へと進み出る栞。泣き顔も可愛いな、などと考えながら俺は、ただ思っている事を口に出した。
「栞、会いたかったぞ。大好きだ」
「・・・・・・はい、祐一さん。私も会いたかったです。大好きです」
語彙の足りない、ただ感情を伝えるだけの言葉。でもそれは、俺たちにって一番必要な言葉だった。
格好をつけた再会は、確かにドラマチックだった。でも、俺たちは伝えるべき事を何も伝えられていなかった。だからこれが、"俺たち"の本当の再開。
「祐一さん・・・」
「栞・・・」
徐々に2人の距離が近づき、やがてお互いの鼓動が聞こえはじめる。栞は目を閉じ、俺もまたそれに倣う。そして俺の唇に、柔らかく、でも少し硬い感触が触れる。
「って、硬い?」
「それはダメ」
目を開くと、舞が掌で栞の口を塞いでいた。どうやら俺が口付けたのは舞の手の甲らしい。
「はひふふんへふは」
「ダメ。祐一は私たちのモノ」
「はへへふ。っへ、ひひはへんへほははひひへふははひ」
「・・・わかった」
どうやら意思疎通が出来ているらしく、2人は2、3言葉を交わす。察するに、栞の抗議により舞が手を離した様だ。よっぽどきつく抑えられていたのか、栞は少し痛そうな表情で唇を押さえる。そんな表情すら可愛いと思う俺は、少しヤバいヤツかもしれない。
「はぁ。ありがとうございます。じゃなくって、舞さん。祐一さんは私の恋人ですから、ダメです」
「・・・今は違う」
「そ、それはそうですけど・・・。相思相愛なんですから、すぐに元サヤです!」
「私と佐祐理も相思相愛」
「う・・・」
どうやら雲行きが怪しくなってきたようだ。身の危険を感じた俺は、先人の知恵に従う事に決め、それを実行に移す。三十六系逃げるに如かず、である。
「そ、そうだ祐一さん。祐一さんはどっちが、って、あぁ!」
「祐一、敵前逃亡は士道不覚悟」
逃げ切る前に気づかれ、俺は後ずさる足を止めて2人を見据える。とりあえず舞、俺は士道を志した覚えはない。
「あっ、UFO」
「・・・そんな子供だましにはひっかかりませんよ」
「・・・祐一、子供」
舞あたりはひっかかってくれると信じていたのだが、どうやら読みが甘かったらしい。
じりじりと詰め寄ってくる2人を見据え、俺は急いで次の手を考える。普通に栞を選べば万事解決なのだが、それを今ここでする気にはならない。優柔不断だと言われそうだが、したくないものはしたくないのだから仕方ない。
「あっ、牛丼とアイスが飛んでる」
「えぇ!?」
「!?」
まず引っかからないだろうと思ったが、藁にもすがる気持ち、というか半ば自棄で叫んだ言葉に2人は過剰反応してくれた。俺も一瞬呆気に取られたが、すぐに立て直しこれを好機にと全力でこの場を離脱する。
「どこですか!? って、祐一さんが逃げました!」
「・・・祐一の嘘つき」
嘘つきでもなんでもいいから、俺はこの場を離れたかった。追いかけてくる2人をちらちらと振り返りながら、俺はグラウンドの方へと向う。
「えぅ。二股。いえ、三股しようなんて、祐一さんは鬼畜ですぅ」
「佐祐理を泣かせたら許さない」
2人が叫びながら追いかけ、俺が逃げ回る。
全力疾走しながら俺は、なんだかとても楽しくて仕方なかった。これからしばらくは退屈せずにすみそうだと思い、自然に笑みが零れる。
結局追いかけっこは栞が体力の限界に達した事で、すぐに終わりを迎える。その後は何故か佐祐理さんの待つ部屋へと行く事になり、そこで佐祐理さんの手により更にややこしい事態を招くのだった。
しばらく後、相沢祐一に「女ったらし」「三股男」などと、不名誉な称号が与えられ、全校の男子を敵に回す事になるのだが、それはここでは関係のない話である。