目の前に釣り下がった一本の麻縄。その先端はきれいなリング状になっている。
わざわざ天板をぶち抜いて、梁に縛り付けて準備した首吊り縄。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、風も無いのにかすかに揺れている。
リングの真下に椅子を置き、その上に登る。
「……気分だけ味わってみるだけだって」
誰に当てたわけでもない言い訳を吐いて、首にリングをかける。
これで今立っている椅子を蹴飛ばせば、俺は見事に宙ぶらりん。
だけど、そこまでするつもりは無い。
あくまでも、自殺者の気分を味わってみようと思ってやっている悪ふざけなのだ。
「遺書も書かずに自殺が出来ますかってんだ」
柳田昌也・十七歳。
人生まだまだやりたいことはたくさんある。恋とか恋とか恋愛とか。
あぁ、こんなことばかり考えてるから昼間の噂の衝撃がでかすぎるんだよなぁ……
顎を引くと、首に毛羽立った麻縄が食い込んでくる。
更に力を入れてみる。息苦しく感じて力を抜いた。
……相当な覚悟がないと首吊りは出来ないな。
どうしてもここから一歩、宙に踏み出す勇気が沸いてこない。
なるほど煉炭が流行る理由もよく分かる。
とりあえずは自殺者の気分を少しでも味わえたので、さっさと椅子から降りることにしよう。
もちろん首からリングを外して。まだ死ぬ気は無いからな。
そう思い、両手を己が首にかかった縄にあてがえようとしたその時。
「え」
グラッ、ふとした弾みでバランスを崩し、勢い余って椅子を蹴飛ばしてしまう。
「んがっ!!」
食い込む麻縄、絞まる気道。
暴れれば暴れるほど、天井の梁がギギギと軋む。
助けを呼ぼうにも声が出せないこの状況。
それに声が出たところで、現在我が家には俺以外の誰もいない。
……ヤバイ、これ、本格的に首吊り自殺だ。
意識も軽く遠のき、身体にも力が全く入らない。
背中をじっとりと濡らす、吹き出てきた冷や汗。
……このまま俺、死んでいくんだ。
そう思うと何もかもがどうでもよくなってきた。
そして浮かぶ微妙な微笑み。
気分を味わうだけだと言って、心のどこかでこうなることを望んでいたのかもな……俺。
「……あー、これは安いや」
意識がだんだん地の底へ堕ちていくように感じたその時、突如目の前に人影が現れた。
そこにいるのは……一人の少女。しかも、とびきり極上の美少女。
目鼻立ちのハッキリした童顔の小顔に、肩にかかるくらいの長い黒髪。
その髪よりも更に黒いワンピースを来た彼女は、天井から吊り下がった俺を
どこか憐みを含んだ表情で見上げている。
……とうとう幻覚まで見始めたか、俺。
そりゃこんなかわいい娘と恋してキスしてナニしたい桃色妄想は抱いていたけど、
こんな最期の時に妄想を具現化して見せるだなんて、ニクいことしてくれますねぇー俺の脳。
ただ一つ気になるのは、彼女の手に、その容姿には決して似合わない
二メートルはあろうかと言う巨大な鎌が握られていること。
……なるほど、死神少女のお迎えと言う趣旨か。
その鎌で俺の命をザックリと、これまた粋な演出だこと。
しかしまぁ……最期の最期に走馬灯でも何でもなく、
こんなダメ妄想にふける俺の人生って、どうしようもなく不毛だったんだなぁ……
「てやっ」
「!?」
ゴトンッ!!
次の瞬間、俺の身体は尻から床に垂直落下。
たかだか数十センチの落差だが、激痛が全身を駆け巡る。
「ゲホッゲホッ!」
加えて、先程まで喉を締め付けていた縄の圧力は開放され、思わずむせ返る俺。
数分振りに吸う酸素がこんなにもうまいものだなんて。
……って、何で俺、生きてるんだ?
確かにさっき、目の前に死神少女の妄想が現れて、その鎌を俺に目掛けて振り下ろしたはずだが……
ぶった切られたのは俺の命ではなく、俺の命を奪おうとしていた麻縄。
「ったく、何やってるんでしゅかあなたは」
恐る恐る顔を上げると……そこには、先程見た妄想と全く同じ死神少女が立っていた。
「せっかく死臭がしたと思って飛んできたら単なる自殺。もっとマシな死に方してくだしゃいよね」
「え? あ、その……」
「ふむ、柳田昌也くんでしゅか。まだまだ人生これからなのに、若い命を粗末にしないの」
机の上に置いてあった生徒手帳を手に取り、俺を叱るこの少女。
その口調は、なぜか舌っ足らずな『でしゅましゅ口調』
……まだ幻覚が続いているのか?
いや、今さっき床に落ちた時には確かに痛みを感じたので、夢ではないと思う。
ならこの目の前にいる、巨大な鎌を持った見ず知らずの死神みたいな少女は一体……
「ハハァーン、その顔、『お前、誰だ?』って言いたげでしゅねー」
「そ、そうだけど……」
「ま、助けたついでに教えてあげましょうか」
そう言って、身長百五十センチほどの彼女は答えた。
「私の名前は神代伊吹。とりあえず、死神やってましゅ」
恋に恋する死にぞこない
自殺未遂を図った俺の目の前に突如として現れ、
その命を救ってくれた自らを死神と名乗る少女。
俺は一階のキッチンから取ってきたジュースと茶菓子を、
目の前にちょこんと座っている彼女の前に差し出した。
「何か悪いでしゅね、変に気使わせちゃって」
「いや、一応命を救ってもらったみたいですし……」
ぎこちなく笑顔を作ってみせる俺。
それにはお構いなく、さっそく煎餅をボリボリと口に運んでいる伊吹さん。
その姿は全くもって死神には見えない。
だが、そんな彼女の脇に置かれている巨大な鎌が、彼女が死神である確固たる証拠であった。
……彼女の説明を信じるのであれば。
伊吹さん曰く、死神とは死んだ人間の魂を刈り取ることを生業とする神々の総称とのこと。
人間は普通、死ぬと魂がふわりと肉体から分離して天上へ行くものらしいが、
肉体にへばり付いてなかなか離れない魂もよくいるそうで。
そんな『死にぞこないの魂』を、あの巨大な死神の鎌で切り離すのが死神の仕事だという。
死神にはそうした死の臭いを嗅ぎ分ける能力があり、
その臭いを頼りに、肉体から分離しきれない魂を見つけ出して日々救っているとか何とか。
それで彼女は、先程偶然うちの近くを通りがかった時に俺の死臭を察知、
颯爽とこの場に現れましたーと言うことらしい。
ちなみに神代伊吹と言う名前は、人間界で活動する上での俗称だという。
死神のくせに『生命の息吹』と同じ読みとはこれいかにと、当の本人は不服に感じているらしいが。
「ふぅ〜」
コップに入ったオレンジジュースを飲み干し、軽く一息つく自称・死神さん。
俺は、先程説明がなかった当然の疑問を彼女にぶつけてみた。
「あの……質問、いいですか?」
「ん、何?」
「……いや、死人の魂を刈る死神さんが、何で首を吊ってた俺を助けたんですか?」
「んー……染み臭い話になるからあまり言いたくはないんでしゅけどねぇ……」
と前置いたものの、彼女は続ける。
「私たち死神って、さっきも言ったようにこの死神業で生計を立ててるんでしゅよ。毎月ちゃんとお給料をもらってね」
「き、給料制ですか」
「で、この仕事には毎月ノルマがあってね。それを達成しないと基本給ダウン。世知辛い業界でしゅよ、ホント」
どこか遠い目をしながら語る彼女。
どうやら、あまり芳しくない思い出があるようだ。
「ノルマって……毎月何人の魂を刈ったとか?」
「いや、闇雲に数を刈ってもしょうがないんでしゅ。私たちが刈る魂にはそれぞれ点数が付いててね。その点はその人の死因やこれまで歩んできた人生とかで決まるんでしゅけど、それを毎月最低何点取りなさいって言うのがノルマ。変な制度でしゅけどねぇ」
「な、何か大変そうですね……」
あまりにもしみじみと語る彼女に、思わず同情の念を抱きそうになる。
だがこれまでのダウーンとした表情から一変、途端に笑顔になる死神さん。
「でもね、今月はその成績がとっても良いんでしゅよ。もうお給料日が楽しみで楽しみで。だから今、とっても機嫌がいいんでしゅ、私」
「そ、そうすか」
「そんな時に首を吊ってたあなたを発見。とりあえず魂の点数を見たら、わざわざ刈るほど高い点じゃなかったから助けてあげたんでしゅよ。ま、一言で言えば気まぐれでしゅ」
「気まぐれ……ですか。ちなみに魂の点が高くないって、具体的には……?」
「2点」
「……まぁ、魂の相場ってのを知らないから何とも判断できないけど」
「ちなみに昨日刈った吉田さんがだいたい平均点かな。それで48760000点」
「俺低ッ!!」
絶望的に低い俺の魂。
……何か生きてく自信無くすなぁ。
「でも……こんな話、俺なんかにペラペラと喋っちゃって大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫、別に守秘義務とかありましぇんから。それに、人間さんにも死神への変な誤解を解いて欲しかったでしゅし」
「誤解、ですか」
『死神=人殺し』と言う世間一般のイメージを、当の死神たちは嫌がっているそうで、
何とか本当の死神と言うものを理解してもらいたいと、先程の説明の中でも彼女は何度も繰り返していた。
まぁ、全てが全てにわかに信じがたい話ではあるのだが。
「それはそうと、柳田くんだったっけ」
「な、何でしょうか……?」
急に名前を呼ばれ、つい身構えてしまう。
そして彼女が続けた質問がこちら。
「何で自殺なんかしようとしたんでしゅか?」
「……それ、言わなきゃダメすか?」
「ダメ」
ニッコリ笑いながらもしっかり鎌を握り締める死神さん。
……言わなきゃ殺されるな。
「なになに? いじめ? 校内暴力? 将来への不安?」
「……やけに楽しそうですね。いや、そういうんじゃなくて実は……」
「フムフム……好きな娘に彼氏がいると言う噂を聞いて死にたくなった……?」
「……ハイ」
「そんな下らない理由で……あのまま殺しときゃよかった」
そう蔑んだ瞳で俺を一瞥する彼女。
何気に恐ろしいことも言われたような気がしたが……
「……ま、せっかく助けてあげた命なんでしゅから、今度また粗末にしようものなら、地獄に送るどころじゃ済まないでしゅからね」
鎌を目の前にちらつかせながら言われた脅し文句に、脊髄反射でうなづく俺。
それを見て満足したのか、伊吹さんはゆっくりと立ち上がった。
「んじゃ、そろそろお暇しましゅね。もう会うこともないと思いましゅけど元気に生きて……って、あ、ああぁー!!」
突然素っ頓狂な声をあげる死神さん。
「ど、どうかしたんですか?」
「か……鎌が……刃こぼれしてるぅぅぅー!!」
手元に鎌の刃先を持ってオロオロしている彼女。
……あ、確かに。中央の刃が若干欠けているように見受けられる。
「元々物を切るようには出来てないけど、まさかこの程度で刃こぼれするなんて……」
「でも刃こぼれって言っても、そんなに大したことなさそうですけど」
「見た目はそうでも魂を刈る時にはこの傷が致命的なんでしゅ! あぁー、もうどうしてくれるんでしゅかぁ! 弁償、弁償しなしゃいよ!!」
「え、えぇ!? そんなムチャクチャな……」
「命を助けてもらっておいてその言い草は無いでしょ! あのまま見殺しにしといてもよかったんでしゅから」
「うっ……」
それを言われると返す言葉がない。
「あぁー……修理にどれだけかかることやら……」
頭を抱えていた彼女だったが、やがて鎌を持ったまま勢いよく立ち上がり、一言。
「……とりあえず今日は帰りましゅけど、また今度、修理代請求に来ましゅからね」
「え……?」
ドスンドスンと荒々しい足音を立てながら、部屋を出て行く伊吹さん。
「請求って、ちょっと……!」
すぐさま俺も彼女の後を追って廊下に出たが、その時にはもう誰もいなかった。
「……」
目の前に突然現れて、突然消えていった神代伊吹と名乗る少女。
……今になって思い返してみても、先程までの彼女とのやり取りになかなか実感が持てない。
だが、バッサリ切られた一本の麻縄、彼女が食い散らかしたお菓子の袋。
この部屋で何かがあったことは確かな訳で。
「死神、ねぇ……」
うっすらと縄の跡が残る首筋をさすりながら、ポツリとつぶやく俺であった。
だがそんな死神さんは、思いのほか早く俺の前に再登場することとなる。
首を吊った翌日、学校から帰宅し二階の自室に戻ってくると、
そこには二十四時間前と同じく、自称・死神、神代伊吹の姿があった。
「のわっ!?」
「何でしゅか、その化け物でも見たかのような驚き方」
ベッドにちょこんと腰掛けている、化け物よりよっぽど性質が悪いと思われる死神の少女。
服装などは昨日と全く同じだが、ざっと見た限りあの巨大な鎌は見当たらない。
「と言うわけで、早速修理代請求に来ましたよ」
「え」
そう言って一枚の紙を手渡してくる伊吹さん。
それは、ご丁寧に俺の名前が明記された、
「……せ、請求書」
「結構かかったんでしゅからね。鍛冶屋で打ち直しとかしなきゃいけましぇんし」
そこに記載されてある金額は……32万円。
中途半端にリアルな数字だ。
「鎌を修理に出してる間、私、死神業が出来ないんでしゅよ。その期間の保障も本当なら求めてやろうと思ったんでしゅけど、さすがにそれは学生の身には厳しいだろうなぁーと思って免除してましゅ。感謝しなしゃいよ」
「い、いや、これでも十分厳しい金額ですけど……」
確かに刃こぼれさせた責任は重々感じているし、弁償することに対して抵抗があるわけではない。
ただ、32万円は仮に貯金を全部下ろしても、なかなか払える額では……
「一括で払うのが無理なら、分割払いでも許してあげましゅよ。月々3万円とかで」
「で、でも俺、特にバイトとかもしてないし……」
「ならしなしゃいよ、バイト。それで稼いだお金を毎月の返済に当てて」
「は、はぁ……」
その後、振込先口座の指定など、生々しい返済の話があれよあれよと進んでいく。
まさかこんな話になろうとはねぇ……
「ま、だいたいこういう感じで。あとはあなたがバイト先を決めることくらいかな」
「……ですね」
しかしまぁ人生初バイトの目的が、損害賠償の為だとは……
とここで、彼女が思い出したようにこう言った。
「あ。そういえば、うちの近所の喫茶店がバイト募集してましたね。確か時給900円で、高校生のバイトにしちゃ悪くないでしょ」
「……確かに。いやその前にうちの近所って……伊吹さんどこ在住なんすか?」
「んーと、駅前近辺かな。ま、死神って言っても生活拠点は完全にこっちの世界に移してましゅからね」
彼女の話を聞けば聞くほど、これまで俺の頭にあった死神像がどんどん崩れていく。
いや、聞けば聞くほど目の前のこの少女が死神だと言うことに疑念を抱いていくのだが。
「……じゃあ、とりあえず場所教えてもらえますか?」
「そうでしゅね。じゃ、今から行きましゅか」
「え、今から?」
「何ごとも早いに越したことはないでしゅし。ささ、動いた動いた」
と言うわけで俺は伊吹さんに連れられて、そのバイト募集をしている喫茶店まで赴くこととなった。
が。
「……あー、やっぱりいいです、俺。他のバイト先探します」
「えー? せっかく来たのに何そのつれない態度」
「いや、まぁちょっと……」
駅前通にある喫茶『めるへん』
店先には確かに、アルバイト募集と書かれた紙が貼られている。
「何が不服なんでしゅか? 別に変な店じゃないでしゅよ、ここ」
「だからまぁ、いろいろと……」
ここだけは勘弁してください死神さん。
何故ならここには……
「とりあえず話だけでも聞いてみましょうよ。ささ、とりあえず中入って」
「お、押さないでくださいよぉー」
カランコロンカラン。
「いらっしゃいませー」
レトロな感じのする小洒落た店内に、かわいらしいウエイトレスの声がこだまする。
うん、ものすっごいかわいらしい声ね。
そして、いわゆるメイドさん風のフリフリな制服を着た、
超絶美人なウエイトレスさんが話しかけてくる。
うん、ホント超絶美人ね。
「あ、柳田くん……だったっけ?」
「ハ、ハハハ……どうも」
たった一言会話を交わしただけで、俺の顔はどうしようもなく赤面している。
ビバ純情少年・柳田昌也。
「ん、知り合い?」
「ま、まぁ……」
知り合いも何も、今はまだ知り合いだけど、
いつかはそのラインを踏み越えたいと心から思える相手と言いますか何と言いますか。
「えっと、お席はこちらの方に」
「あ、私たちお客じゃなくて、アルバイト募集の紙を見て来たんでしゅよ」
「そうなんですか、じゃあちょっと待っててくださいね。今店長呼んで来ますから」
そう言ってウエイトレスさんは店の奥へと消えて行った。
「……さっきから何で顔真っ赤にしてるんでしゅか?」
「いや……だからここでバイトするのは勘弁してくださいよ……」
とりあえず空いているテーブル席に腰掛ける俺たち。
ただ店内には俺たち以外の客は誰もいないので、全てが空いている席ではあるが。
「原因はあのウエイトレスの娘? 何か知り合いのようでしゅけど」
「……昨日首吊った理由言いましたよね、好きな娘に彼氏がいると言う噂を聞いたからって。……で、その好きな娘が、あの娘」
「ええっ!?」
彼女の名前は柚木詩織。
俺が片思いしている女の子です。
「駅前の喫茶店ということでまさかとは思ったんだけど……、ものの見事に彼女のバイト先の店だからなぁ……」
「えーと、好きな娘と一緒のバイト先って、普通うれしいことじゃないんでしゅか?」
「いや……さっきの様子見てたら何となく分かると思うけど、俺の場合、それ以上に気恥ずかしさが先行してどうしようもなくなりそうで。それに昨日彼氏持ちって話聞いたばっかりだから、その顔を見てると寂しくなってくるしなぁ……」
「……アンタ、どうしようもないヘタレでしゅね」
完全に蔑んだ目で俺を見る伊吹さん。
ごもっとも、当方意気地も何もありゃしない屑のような男ですよ。
彼女とは学校でも隣のクラスで、接触する機会はゴロゴロ転がっているのに、
その勇気が出なくて近づけない。
そのくせ彼氏持ちだなんて聞いたら自殺に走ってみたり……ホント、ヘタレだよな俺。
「うん、何か命助けてすっごい損した気分でいっぱいでしゅ」
「……」
「でも、そんな自分を変えたいとは思っているんでしゅか?」
「そ、それはもちろん……」
「だったらなおさら、ここで働いた方がいいでしゅよ。と言うか働きなしゃい。そうじゃないとあなた一生そのまんまだと思いましゅから」
「で、でも……」
「でもでも何でもないの! あー、そのヘタレ根性鎌でぶった切りたいでしゅよホント……」
「お待たせしてごめんなさいね」
とその時、柚木さんがエプロン姿の中年男性を連れて店の奥から戻ってきた。
「えー、マスターの立花です。二人ともバイトの募集を見て来てくれたそうだけど」
「あ、バイト希望で来たのはこちらの柳田くん。私は単なる付き添いでしゅ」
「え、そうなの?」
「あ、いや、まぁ……」
柚木さんに尋ねられ、思わず頷いてしまった俺。
まだ何とも決めかねているのに……
「そうかいそうかい。いやぁー、ちょうど男手も欲しいなぁと思ってたところだからねぇー。柳田くんって言ったっけ?」
「ハ、ハイ……」
「んー、今ひとつ覇気がないな、君。男ならもっとドーンと構えてないと」
そう言って俺の肩をバシンバシン叩いてくる立花マスター。
細身だが想像以上に力はあるようで。つかちょっと痛いんですが。
「ま、そんな声を張り上げるような仕事じゃないけどさ。とりあえず希望するのであれば採用しますよ。柚木さんとも顔見知りのようだしね」
「あ、ありがとうございます」
特に望んだ訳でもないが、あっさりと採用決定。
今更『やっぱりいいです』なんて言えないしなぁ……
「ちなみに、君はバイトの方に興味はないかな?」
「え、私でしゅか?」
突然話を振られ、面食らった様子の伊吹さん。
「いや、似合いそうなんだよねぇー、うちの制服が。女の子は柚木さんが着てるこの制服を着るんだけど、どう、着てみたいと思わない?」
「き、着てみたいって……」
俺と話していた時とは一変、でれぇーっと鼻の下を伸ばした表情で話し出す立花マスター。
「あーあ、始まった、マスターの『かわいい娘にはメイド服を着せろ病』」
「え?」
俺の隣に来て、小さな声で耳打ちしてくる柚木さん。
「マスターね、自分好みのかわいい娘を見つけると『うちの制服着てみない?』って声懸けに行っちゃうのよ、お客さんとか誰彼構わずに。いつもは紳士な人なんだけどねぇ」
「そ、そうなんだ……」
話の内容なんかどうでもよくて、
柚木さんがこんなに近くで俺に話しかけているという事実が俺の顔面を熱くさせていた。
長い髪から伝わってくるほのかなシャンプーの香り。
僕ちんコレだけでご飯三杯はいけそうです。
一方、マスターの勧誘はまだ続いているようで。
「今うちのウエイトレスは柚木さん一人しかいなくて何かと大変なんだよ。柳田くんだったっけ、彼にも手伝ってもらおうとは思ってるんだけど、やっぱり店にはかわいい華が欲しいじゃないの。どう、うちで働いてみる気ないかな? いや別に働かなくてもいいや。ちょっとあの制服を一回着てみる気はないかな?」
「わ、私は別に……」
「マスター、いい加減にしておかないと。彼女、困ってますよ」
「いや、一回だけでいいんだ、着てみるだけで!」
……この人、重症だな。
だがそんなマスターの熱意に折れたのか、伊吹さんの返答は思いもよらないものであった。
「……き、着てみるだけだったら別にいいでしゅけど」
「ほ、本当に!!」
「あの服には……ちょっと興味はありましゅし……」
若干もじもじしながら答える伊吹さんの姿は……かなりかわいい。
加えて舌っ足らずな口調が更にロリ分を醸し出していると言うか何と言うか。
あーあ、立花さん、客には絶対見せられない緩んだ顔になってるよ。
「伊吹さん……マジすか?」
「べ、別にいいじゃないでしゅか、一回くらい着てみたいって思っても」
小声で語る俺たちの話を、マスターの歓喜に喘ぐ咆哮が遮る。
「よしよしよーし! じゃあ早速奥の更衣室の方で着替えていらっしゃい。柚木さん、案内してあげて!!」
「……まさかホントに着るとは。と、とりあえずこっちです」
柚木さんも面食らった表情で、彼女を店の奥へと連れて行くのであった。
「いやぁーかわいいんだろうなぁーあの娘のメイド姿ッ。……あ、そういやまだ名前聞いてねえや。山本くん、あの娘の名前って何て言うんだい?」
「神代伊吹って言います。あと、山本じゃなくて柳田です、俺」
「伊吹ちゃんかぁ〜、柚木さんももちろんかわいいんだけど、あの娘は更に幼さが増されたって感じで……あぁー堪らんなぁ〜、そう思うだろ、島原くん」
「柳田です。島原ってどこから出てきたんですか……」
とまぁ先程から立花のオッサンはずーっとこんな感じで、
伊吹さんたちの着替えが終わるのを今か今かと待っている状況。
それはそうとして、俺たちが入店して以降全く客が入ってこないのだが……この店、大丈夫か?
「お待たせしました〜」
柚木さんの声と共に一斉に振り返る男二人。するとそこには……
「うぉぉぉぉー!!」
メイド服に身を包んだ伊吹さんの姿。
オーナーが絶叫する気持ちは分からなくもない。
「素晴らしい、素晴らしいよ伊吹ちゃん! やはり私の目に狂いは無かったか、うん」
「いつの間に彼女の名前聞いてたんですか。でも確かに伊吹ちゃんすっごくカワイイ! 女の私でも嫉妬するくらいに似合ってるもん」
「……ありがとうございましゅ」
ただ、俺は当の伊吹さんの対応に妙な違和感を感じていた。
そこに先程の乙女な様子は見受けられず、別に喜ぶわけでもなく淡々とマスターたちとの会話を繰り広げている。
「……伊吹さん、どうかした?」
「え? あ、いやいや、何でもないでしゅよ、何でも」
「?」
さも何かあったかのようなリアクション。なんだか気になるところだが……
「それはそうと立花さん、ちょっといいでしゅか?」
「ん?」
「さっき私にもバイトしないかって言いましたよね。その話……引き受けてもいいでしゅか?」
「え、えぇぇ!?」
な、何で伊吹さんまでここでバイトを?
「もちろん、いやむしろ大歓迎、是非とも働いてください!! 柚木さんもいいよね?」
「う、うん。やっぱり女の子の同僚が欲しかったですし」
諸手を挙げて歓迎ムードの喫茶『めるへん』一同。
それに対して、
「ありがとうございましゅ」
とは言うものの、相変わらず微妙な表情の伊吹さん。
「……どうしたんすか、急にバイトするって?」
「……鎌が無い以上いつもの仕事が出来ましぇんから、その間の時間つぶしって感じでしゅね。それにこのかわいい制服に惚れた、って言う答えじゃダメでしゅか?」
「いや、ダメってことは無いけど……」
小声で話しかけてみるものの、彼女の真意は掴めないまま。
そんな何とも言えない状況の中、二人の『めるへん』新人バイトが決定したのであった。
『めるへん』でのアルバイトは週五日。
平日は学校が終わってからの午後五時から、閉店する午後八時まで。
週末は朝の十時から夜の七時までの時間で勤務している。
やっている仕事はと言うと、俺の場合は主に皿洗いだったり厨房での野菜の皮むきだったりの裏方業務。
やはり客前に出るのは、柚木さんに伊吹さんという店の華二人であった。
ただこの店、客の入りが絶望的に悪い。
店自体もテーブル席・カウンター席合わせて十五席という小さな店なのだが、
一時間に一人客が来たらいい方。休日のランチタイムでも席が満席になることはまず無い。
よくこれでバイト三人も雇っていられるなと思う。
しかし、ここでアルバイトを始めたことは確かに大正解だったと思う。
仕事自体が暇だということもあるが、
柚木さんとも友達未満の状態から友達のレベルまで関係を引き上げることに成功。
学校で会っても普通に会話を交わせるようになったことは、ヘタレの俺にとっては大発展である。
ただ、そこから次の友達以上恋人未満、及び恋人レベルに持っていくのはかなり厳しいと思われ。
本人には怖くて未だに聞けていないが、やっぱり彼氏がいるという噂だからなぁ……
一方の伊吹さんも、ものすごく普通にこの場に馴染んでいる。
自分の設定は『柳田くんの幼馴染で市内のお嬢様女子校の生徒』と言うことにしているらしく、
実際に俺にもそういう設定でと口裏合わせを強要されている。
バイトを始めた当初は、あの何とも言えない無感情っぽい言動だったものの、
気が付けばすっかりここでのバイトを楽しんでいるように見受けられる。
特に柚木さんとはかなり仲良くなっているようで、暇さえあれば女同士、雑談に花を咲かせている。
立花マスターは……特に触れなくてもいいか。
バイトを始めて三週間ほどが過ぎたある日のこと。
今日も今日とて閑古鳥が鳴く喫茶『めるへん』
マスターをはじめ四人の従業員は、ただただ暇をもてあましていた。
「……と言うわけで今年のセ・リーグは極端に打撃に傾いた試合が多いんだよなぁ。そりゃまぁ打ち合いも派手でいいけどさ、もっとこう均衡状態の中で一点を争うような締まったゲームも見たいわけよ」
「まぁ、野球とかあんまり分かんないんで何とも言えませんけど」
実際にバイトを始めて分かったことだが、
この立花と言う人は、相手の反応などお構い無しに己の喋りたいことを喋る人のようで。
加えて他人の話は全く聞かない、そりゃ嫁さんも子供連れて出て行きますよ(本人談)
「しかし……これだけお客さん入らなくて本当に大丈夫なんですか、この店?」
「んー、ぶっちゃけ大丈夫じゃないね。半年は絶対もたないと思う」
「いや……だったら何とかしましょうよ」
「何とかしてるじゃないの。こうしてかわいい娘を二人も雇って、更にメイド服まで着せて客にアピールしてるんだから」
「それは単にマスターの趣味でしょ……」
「あー、いっそのことメイド喫茶にでも移行するかなぁー」
カウンターの向こうでは、二人のかわいらしいメイドさんが化粧品云々の話で盛り上がっている。
「んじゃちょっと買出し行ってくるから、山城くんはとりあえずフロアの掃除でもしてて。あの暇そうな二人にも声かけてさ」
「分かりましたー」
そう言って店の奥へと消えていく立花マスター。
名前を間違えられるのは今に始まったことではないので、もういちいち突っ込まないことにしている。
「でも、買出しって普通バイトの仕事だよなぁ……」
何の躊躇もなく責任者が不在になる飲食店。
何となく流行らない理由も分かる気がする。
とりあえず掃除でもするか。
そう思いフロアの方に出ると、聞きなれない携帯の着メロが聞こえてきた。
『Mein
Vater , mein Vater, siehst du nicht
dort……』
「もしもし神代でしゅ。あ、どうもお世話になりましゅー」
シューベルトの『魔王』だよな、今の。
死神さんらしいと言うか……
「あ、今日中には届く、そうでしゅかぁーどうもどうも。はい、分かりましたぁー、それでは失礼しまーしゅ……」
ピッ。
「伊吹ちゃん……すごい着メロだよね、それ」
「ハハハハ……」
柚木さんの問いかけに乾いた笑いを上げて対応する伊吹さん。
と、何かこちらに向かって目配せしてきている。ちょっと来いと言うことだろうか。
「あ、ちょっと厨房の方見てくるから、詩織ちゃんはフロアの方お願いしましゅね」
「うん、分かった」
そして厨房の方に入っていく伊吹さん。俺も少し間を置いてその後を追った。
「え、鎌の修理が終わった?」
「さっきの電話、鍛冶屋の人からだったんでしゅけどね。これでやっと、死神業に復帰できましゅ」
「じゃあここのバイトは……」
「とりあえず今月いっぱいで。マスター帰ってきたら言おうと思ってましゅ」
「そっかぁ……」
「これでいつものノルマに追われる生活に逆戻りでしゅよ。ま、その分よっぽどいいお給料もらえるんでしゅけどね」
そう言ったきり無言の時が流れる。
お互い口には出さないが、それぞれ何とも言いがたい寂しさを感じ取っているようだ。
「とりあえず報告だけはしておこうと思って。……一人になってもバイト辞めずに返済の方、続けてくだしゃいよ?」
「わ、分かってますよもちろん。それに柚木さんがいるから一人になるってことは無いし」
だがそんな俺のセリフに対して……
「……いや、一人になりましゅから」
「え?」
意味深な返答の伊吹さん。
「そ、それってどういう意味……」
「もしもし、あ、マサルさーん。どうしたんです、こんな早い時間に?」
二人の会話を遮るように、フロアの方から聞こえてきた柚木さんの話し声。
扉の影からこっそり様子を伺ってみると、彼女も携帯電話で誰かと話しているようだ。
「明日? うん、バイト休みだけど。……え、デート?」
「!?」
思わず身を乗り出す。
どういうわけか、伊吹さんも俺と同様その話に聞き耳を立てている。
「あー、なるほどそういうことね。うん、行きましょう、デート」
デデデ、デートって……、電話の相手は噂の彼か!?
「うん……うん……、じゃあ一時に駅前の噴水広場ね。わっかりましたぁー、それじゃまた明日ね、バイバーイ」
ピッ。
「さーて、どうしよっかなぁー……」
電話を切った後も柚木さんは、鼻歌交じりで機嫌よさそうに携帯を弄っていた。
「デート……」
「デート、でしゅか……」
二人同時につぶやく。
「……って、何で伊吹さんまでそんな深刻そうな表情してるんですか」
「え、いや、ちょっとね……」
言葉を濁す伊吹さん。
その後幾許か間を置いてから二人とも厨房から外に出、
先程同様にバイト三人、怠惰な時間を過ごすのであった。
無論、誰一人としてデートの件には触れずに。
翌土曜日、時刻は午後十二時五十分を回ったところ。
休日ということもあり駅前の噴水広場は多くの人でごった返していたが、
そんな中でも一際輝く女性は、柚木詩織その人。
淡いグリーンな薄手のカーディガンに、膝丈な白いスカートという何とも春らしいトータルコーディネート。
俺がもしファッションチェックする立場なら、問答無用で特Aランクを付けさせて頂きますッ……と言うくらい、私服姿の彼女はかわいかった。
そんな彼女を建物の影からこっそり観察している俺、柳田昌也。
柚木さんの彼氏とはどんなくそったれ野郎なのか是非とも確認してやろうと思い、
その様子を伺っているところである。
「しかし十分前に来ていないとは、ホントくそったれ野郎だよな。俺なら二時間前から待ちぼうけしてるぞ絶対に」
「……何さっきから小声でぶつぶつ言ってるんでしゅか。気持ち悪いでしゅよ」
「ぬわぁ!?」
突然の問いかけに後ろを振り返ると、そこには……
「な、何で伊吹さんがここにいるんですか!?」
「それはこっちのセリフでしゅ。いや、ある程度ここにいることは予想してましたけど……」
首を吊った当日に見た、あの全身黒の死神ルック(本人曰く)で登場の神代伊吹さん。
「もしかしたらデートのショックでまた自殺を図ってましゅかなぁーと心配してたんでしゅけど、ちゃんと生きてた、良かった良かった。ただまぁ、だからと言ってストーキングはどうかなぁとは思いましゅけどねぇ」
「し、死にませんよもう、それにストーキングだなんて人聞きが悪い、俺はただ単に彼女が変な男に弄ばれて無いか心配だから、こうして保護者的感覚で様子を伺ってるだけで……」
「それをストーキングって言うんでしゅ」
「うっ……」
一方的に言い包められるのも癪なので、俺も彼女に言い返してやる。
「そ、そういう伊吹さんこそこんな所で何やってるんですか! まさか偶然通り掛かっただけって言うわけないですよね。それに……」
それに、彼女の背中にたすきがけされた、黒い布で巻かれた物体。
一見、袴姿の部活動生が持っている長刀にも見えるが……
「それ、死神の鎌ですよね。何でそんなものを持ち出して……」
「……私はいつもの死神の仕事をしに来ただけでしゅ」
「いや、だったら何でこの駅前に」
「……」
沈痛な面持ちで押し黙ってしまう彼女。
そんな表情されたら余計に気になってしまうんだけど……
とその時、柚木さんの方に動きが見られた。
何やら駅の方向に向かって笑顔で手を振っているではありませんか。
「マサルさーん、こっちこっちー」
彼女の視線の先を追うと、噴水に向かって走ってくる男の姿。
「いやぁーゴメンゴメン、ちょっと遅れたかな?」
「大丈夫ですよ。まだ一時にもなってませんから」
柚木さんの目の前でゼェゼェと息をつく、黒いTシャツの上にチェックのシャツを羽織り、
履き古した感のあるジーンズ姿の短髪小太りなこの男。
これが……柚木さんの彼氏?
「……うそぉ。俺、コイツには勝ってる自信あるぞ」
驚いているのは伊吹さんも同じく、俺の隣でぽかーんと口を開けている。
「しかも見た感じ同年代には見えないし……、下手したら三十近いんじゃないか?」
「……」
無言になる伊吹さん。
チラッと伺うと、眉間に軽くしわを寄せて、何かを考え込んでいるようにも見受けられる。
一方の柚木さんは、この年上と思しき『マサルさん』とものすごく親しげに語り合っている。
あ、テメェ、気安く彼女に触るんじゃねぇよ! って何楽しそうに小突きあってるんですか!
「……煉炭買って来ようかな」
「今度は見つけても助けましぇんよ」
そうこうしている間に、商店街の方に向かって歩き出すご両人。
「ヤバイ、見失う」
慌ててその後を追う俺、そして伊吹さん。
その表情はどこか苦悩に満ちている感じがして、先程から気になって仕方無いのだが。
「……助けるわけじゃないんでしゅから」
「え?」
「な、何でもないでしゅよ! ささ、早く追っかけないと!」
駅前から東西に伸びる、この街きってのアーケード街。
その中を和気藹々と進む、柚木さんご一行。
道中、ブティックやアクセサリーショップと言ったウインドウショッピングの定番を見て回る二人の姿は、
悲しいかな、どこをどう見てもデートそのものであった。
そんな二人をこそこそと追い続ける俺と伊吹さん。
何の為に追っているのかと言われれば返答に詰まってしまうのだが、
あえて言うならば、彼女に対する諦めを付けるためなのかなぁ……
一方の伊吹さんはと言うと……相変わらず険しい表情をしたまま。
話しかけても必要最小限のことしか答えないので、
こちらとしてもその真意を掴みあぐねている状態であった。
「……あ、今度はあの店に入るな」
前を行く二人はオープンテラスの喫茶店へと入っていった。
すかさず俺も後を追い、アイスティーを片手に、
彼女の視界からはちょうど死角になる斜め後ろの席に陣取った。
ちなみに伊吹さんはオレンジジュースを片手に。
「……それにしてもいい店だな、この店」
バイト先が同じく喫茶店と言うことで、ついつい『めるへん』とこの店を比べてしまう。
オープンテラスと言うことで開放感が非常にあるし、それでもって各テーブルは清潔に保たれている。
ただ時間帯が悪いのか、客は半分入っているかどうかと言ったところであった。
一方我らが『めるへん』はと言いますと……立花のオッサンが舞台を見に行くと言うことで本日臨時休業。
流行る流行らない以前の問題だな。
「……」
「……ホントさっきから押し黙ってますけど、何かあったんですか?」
伊吹さんの前に置かれたオレンジジュースは、一向に中身が減る気配が無い。
「私のことは気にしなくていいでしゅから。それよりも向こうの様子を見てた方が」
「ま、まぁそうですけど……」
視線を斜め前方に戻すと、相変わらず柚木さんがマサルと呼ばれる男と楽しそうに談笑している。
「ホント、何で柚木さんがあの男を選んだか理解できねぇな……」
「……」
見れば見るほど普通の三十路にしか見えないマサル。
ただまぁ、どことなく人柄は良さそうな感じはするが。
そのマサルは、おもむろに今まで床に置いていた自分のセカンドバッグをテーブルの上に移動させた。
「今日日セカンドバッグて。お前はどこぞのボンボンかっつーの」
「ん、何か出しましゅよアイツ」
バッグのファスナーを開けるマサル。その中身は俺の席からは影になって見ることが出来ない。
向かいの伊吹さんの席からならちょうど見えるんだが……
「あ! ……やっぱりあの男!!」
「え、何……ってちょっと!?」
ガタンッ!
勢いよく立ち上がった伊吹さんは、こちらの制止も聞かずに真っ直ぐ二人の座る席に向かって走り出した。
「え、伊吹ちゃん……?」
先に気が付いたのは柚木さんの方。続けてマサルがこちらを振り返ろうとしたその時。
ガシャーン!!
「いいっ!?」
背後からの強烈な体当たりが、テーブル席もろともマサルの身体を吹っ飛ばす。
一気に騒然となる店内、慌てて俺も伊吹さんの下に駆け寄った。
「何やってるんすか伊吹さん!?」
「離れて詩織!! この男、あなたを殺そうとしてるんでしゅよ!!」
「こ、殺すって伊吹ちゃん、何を……、それに何で柳田くんまで……?」
当惑しきりの柚木さんの足元で、ゆっくりと身体を起こすマサル。
「痛つつ……な、何なんだよ一体!?」
彼女は呆然としているマサルに対して吼えた。
「詩織を殺そうったって、そうは行きましぇんからね!!」
「え、ええぇ!? な、何を言い出すんだアンタ、そんな人聞きの悪いこと……」
「じゃあこのバッグの中のこれはどう説明するんでしゅか!」
そう言って地面に転がっていたセカンドバッグを拾い上げ、伊吹さんが取り出したもの。
それは……
「け、拳銃!?」
テレビなんかでよく見かけるような、黒光りする拳銃が彼女の手の中にあった。
「こんな物をバッグの中に忍ばせて……一体何に使うつもりなんでしゅか!!」
「何に使うって……あ。あのー、それ、モデルガンなんですけど……」
「そんな見え透いた嘘が通用するわけ無いでしょ!!」
「いやいや、本当だって。よく見たら分かると思うけど」
「まだ言いましゅかこの男は……って、あれ?」
手元の拳銃を、持ち上げたり回したりしながら、もう一度よく見直し始める伊吹さん。
何かおかしい所にでも気付いたのだろうか……
「って、何で俺に銃口向けてんすか!?」
「……」
「だから何で無言で引き金引こうとしてるんで……って、うわぁぁぁ!!」
ズキューン!!
額に感じる熱い衝撃、そして地面に転がった一粒のオレンジ色をしたBB弾。
「……え、BB弾?」
「だから言ったろ、モデルガンだって。ったく、何が何だか……」
身体についた埃を払いながら、伊吹さんの方を軽く睨むマサル。
その伊吹さんはと言うと……ただただ真っ赤な顔でうつむいていた。
「……とりあえず、二人とも、何がどうなってるのか説明してくれるよね?」
「……ハイ」
ニッコリ笑った柚木さんの笑顔が、今はただただ恐ろしい……
上空の日もだいぶ西に傾いてきた頃。
場所を公園のベンチに移し、柚木さんたちに弁明を行う俺たち二人。
「……じゃあ、私が変な男と付き合ってるんじゃないかって心配して、こっそり後をつけて来てたってこと?」
「それで大さんのバッグの中に拳銃を確認して、危ないって思わず飛び掛ってしまったんでしゅ……。ホント、ごめんなしゃい」
「それはもう別に構わないって。誤解を招くようなモノを持ってた俺も悪くないとは言えないし」
頭を下げる伊吹さんに対して、寛容な態度で接する山越大さん。
彼は柚木さんの彼氏ではなく、柚木さんのお姉さんの彼氏だそうで。
そのお姉さんが近く誕生日を迎えるということで、本日は二人してプレゼント探しに来ていたとのこと。
それをデートだのどうだのと勘違いした俺たちが、勝手にエキサイトしていただけなのだ。
「でもまぁ二人には僕が詩織ちゃんの彼氏に見えたんだよね。それはつまり、まだまだ僕も若く見えたってことかな、ハハハッ」
そう言って笑う大さんはそれはもういい人で、先程の喫茶店での無礼も笑って許してくれている。
そんな人を一度でもくそったれ野郎扱いした過去の自分をぶん殴ってやりたい気分だ。
ちなみに彼の趣味はサバイバルゲームで、モデルガンを持っていたのは、
この後家に戻る前に同志の元へ行って、メンテナンスを依頼するためだとか。
ただ、普通は持ち歩かないよな、そんな物。
「まぁ心配してくれるのはありがたいんだけど、伊吹ちゃんのそれは行き過ぎた心配だからね」
「うん、本当にごめんなしゃい……」
「で、一方の柳田くんは何でつけて来たのかなー?」
「そ、それは……」
次はあなたよと言うことで話が振られ、いよいよ逃げ場が無くなりました。
伊吹さんが正直に答えた以上、俺も本当のことを話さないわけにはいかないよなぁ……
それ即ち、完全な興味本位でのストーキングを告白するわけで、
軽蔑されるどころじゃ済まないだろうな。
ただ、悪いのは間違いなく俺自身。ごくりと口内に溜まった唾を飲み込み、覚悟を決めた。
「俺は……」
「柳田くんは私が無理矢理誘ったんでしゅ、一緒に詩織の後をつけようって。ね?」
「え……」
突然の伊吹さんによるフォロー。
話を合わしとけって言う表情でこちらを一瞥する。
「同僚が変な目にあってるかどうか心配じゃないの、とかいろいろ言って無理矢理家から連れ出してきたんでしゅ。そうでしゅよね?」
「え、あ……うん、そういうこと」
「……ホント?」
「う……うん、ホント」
疑いの眼差しに彼女の目をしっかりと見ることは出来なかったが、
俺の代わりに伊吹さんが彼女の目をしっかり見据えていた。
「……ま、今回は二人とも許してあげる。でもまた今度同じ様なことになったら、その時は承知しないからね?」
「ありがとう、詩織!」
柚木さんの手を取り感謝の意を示す伊吹さん。
俺もその横で彼女に向かって頭を下げた。
「……伊吹さん」
その後、柚木さんが大さんに話しかけている隙を見て彼女に声をかけた。
「さっきは助けてくれてありがとう。でもまた何でフォローを……」
そんな俺の問いに、彼女は小さな声でこう答えた。
「……私なりの罪滅ぼしでしゅ」
「え?」
「二人とも何やってんのー? ご飯食べに行こー」
「あ、うん!」
俺の疑問に答える前に柚木さんの呼びかけに応えて、彼女の元へ小走りで行ってしまった伊吹さん。
「柳田くんもほら、早くー」
「わ、分かった」
慌てて俺も三人の後を追った。
しかし罪滅ぼしって一体……
「今日は本当にご迷惑おかけしました!」
「ハハハ、だからそれはもういいって」
「いや、自分の口からはまだ謝罪の言葉を述べてませんでしたから」
「まぁ、いいってことよ」
大さんに対して、再度深々と頭を下げる俺。
俺のほうが勝ってるだのセカンドバッグがダサいだの、心の中で密かに思った非礼を詫びる意味も込めて。
あの後俺たちは四人揃って、近くのレストランで夕食をとった。
そこで小一時間ほど談笑をして店を後にし、電車の時間が来たとのことで大さんが撤収することとなった。
「それじゃそろそろ行くね。二人とも、詩織ちゃんをよろしくお願いします」
「大さん、その言い方は何か保護者くさいよー」
「ハハハッ、まぁ近いうちに僕もきみのお義兄さんになるわけだし、そうなったら立派な保護者の一人だよね」
「え、それって……」
「じゃ、またね〜」
「あ、ちょっと大さん!!」
そう半ば逃げるような足取りで、大さんは駅の方へと行ってしまった。
「……お義兄さん?」
「大さん、さっきお姉ちゃんのプレゼントを選んでる時に指輪がどうのこうのって言ってたの。給料の三ヵ月分ならだいたいこの位かなぁー、とか」
「それってつまり……そういうことでしゅか」
誕生日プレゼントはプロポーズ。
あの人は俺なんかが適う相手じゃないな。
日はすっかり沈んで、街灯がその仕事を果たし始めた頃。
「それじゃ、私たちもそろそろ帰ろっか」
「そうでしゅね。明日はバイトもありましゅし」
伊吹さんの表情に、先程までの曇りは見られない。
見られるのは、バイト先で見せるいつものあの笑顔であった。
「途中までは柳田くんも一緒だよね。じゃ、行こ?」
「そうだね」
この日初めて柚木さんの隣に並んだ。
相変わらず話しかけている数は逆隣の伊吹さんに対しての方が多いけど、
こうして隣にいられるだけでも十分幸せ。
おまけに、例の彼氏がいるという噂も、真実ではないと分かって二重の幸せ。
この恋、まだまだこれからが本番だなっ。
「あっ」
チャリンチャリーン、硬貨がアスファルトの上を転がっていく。
どうやら伊吹さんのポケットから零れ落ちたもののようだ。
「ちょっと拾ってきましゅね」
そう言って伊吹さんがちょこまかと歩道の隅へ走っていく。
思いのほか遠くまで転がっていったようで、
俺たちから十数メートル離れた場所で、やっとその足は止まった。
「フゥー、やっと追いつきましたよ」
その時だった。
「っ!?」
眩い閃光が前方から迫ってくる。
車のヘッドライト、そう気付いた時には既に黒い車体が彼女たちの前に大きく近づいていた。
「そんな……こっちが本当の死の臭い……」
十数メートル先にいる二人の姿を見つめながら、神代伊吹は力なくつぶやいた。
「避けられない!?」
迫りくる暴走車を眼前にし、絶望に襲われる俺。
だが横目で隣を見ると、これから来るだろう恐怖に身を縮めている柚木さんの姿が。
せめて、彼女だけでも助けなければ……
そう思った刹那。
自然と両腕が彼女の身体をしっかりと抱きしめ、己が身は真横へと跳躍していた。
そして、背中に鈍い痛みを感じた瞬間、俺の意識は断絶した。
「……ん」
目を開けると、そこにはただ白い世界が広がっていた。
そして、聞こえてきた彼女の声。
「柳田くん!?」
右から柚木さんの声が聞こえてきた。
視線をそちらへ向けようと首を動かすと、
「っ!?」
強烈な痛みが首筋から全身を駆け巡る。
「やっぱり痛む? ゆっくりでいいよ、そう、ゆっくりと……」
激痛を堪えながら優しい声のする方へ、ゆっくりと首を傾ける。
そこには……
「柳田くん……起きてくれたんだね」
俺の右手をしっかりと握った柚木さん、その目には溢れんばかりの涙が溜まっている。
その隣には、窓を背にして立っている伊吹さんの姿。
逆光となっているため、その表情は見て取ることができない。
「ここは一体……?」
「病院だよ。柳田くん、土曜日の夜、車に轢かれそうになった私を庇ってくれて……うっ、ううぅ……」
「え、車……」
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
声を押し殺してむせび泣く柚木さん。
握られた手から、熱いくらいの温もりが伝わってくる。
「……柳田くんは、あの日車に轢かれそうになった詩織を庇って吹っ飛んだんでしゅ。おかげで彼女は無傷で済んだんでしゅけど……。それでも奇跡的に軽症なんでしゅよ。全身を強く打ったけど、幸い頭は無事でしたから命に別状はないって。それでもこの三日間、全く目を覚まさなかったんでしゅけどね」
「え……」
伊吹さんの説明で、その土曜日の出来事が鮮明に思い起こされてきた。
俺、事故って入院していると言うことか。
「ホント、起きてくれてよかった……」
「彼女、この三日間泊まり込みで、あなたの手を握り続けてくれたんでしゅよ」
「ううっ……」
先程からボロボロと大粒の涙をこぼし続ける柚木さん。
その姿を再び見ることが出来ただけでも、俺の胸の中はいっぱいになっていた。
「……俺も、柚木さんが無事でよかった」
「柳田……くんッ」
「……すっごくいい場面を邪魔するようで悪いんでしゅけど、先生たち呼んで来てくれましぇんか、詩織」
「え……私が?」
「……ゴメン、ちょっと私も話があるから」
「う、うん……」
いつにも無く真摯な表情の伊吹さんを見て、柚木さんはゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、みんなに伝えてくるね」
そう言って彼女は病室から出て行った。
「な、何か改まった感じだけど、話って何?」
「……柳田くん」
伊吹さんはゆっくりとしゃがみ込み、床から何かを掴んで再び立ち上がった。
彼女の手に握られていたのは……死神の鎌。
「え……」
「事故があったあの時、あなたの魂の点数は、六億点を越えていたんでしゅよ」
「ろ、六億点!?」
以前首吊り自殺を試みた時は確か二点で……、実に三億倍ですか。
「魂の点数は、その人の死に様に大きく関係してくるんでしゅけど、あの時のあなたの死に様は、人を庇ったという最高クラスのものでした。それで点数も破格の六億点だったんでしゅ」
「なるほど……って、し、死に様!? え、じゃあ俺、死んだの!?」
「……あの時私が救急車を呼ばなければ、間違いなく死んでました。事故の後すぐの対応でしたから、あなたは一命を取り留めることができたんでしゅ」
「そ、そうなんだ……ありがとう」
「……お礼なんて言わないでくだしゃい。一度はあなたをこのまま殺して、六億の魂を刈り取ろうと考えたんでしゅから」
「でも、実際は助けてくれたじゃないですか。そういやこれで伊吹さんに命助けられたの二度目だよなぁ。いやいやホント、ありがとうございます」
「……私、死神失格でしゅよね」
ポツリとつぶやいた彼女。その表情は、途方もなく暗い。
「……私が『めるへん』でバイトを始めたホントの理由、教えてあげましょっか」
「え?」
「確かに制服がかわいかったと言うのも一因ではあるんでしゅけど、本当はもっと酷いこと考えていたんでしゅ」
「酷い、こと……?」
「着替えるため詩織に更衣室に連れて行ってもらったんでしゅけど……、その時感じたんでしゅ、彼女からするとてつもなく良質な死の臭いを」
「え……」
良質な、死の……臭い?
「死神が嗅ぐことが出来る死の臭いは、死の直前のものだけじゃないんでしゅ。ごく稀に、今後近いうちに予定されている死の臭いも嗅ぐことが出来て、この場合、その死で得られる魂は大抵が一億点を越える超優良品なんでしゅよ。そんな臭いを、彼女から感じた」
「え……」
「あの時ちょうど私、死神業が出来ない状態でしたから、来月のノルマ達成は絶対困難だなと思ってたんでしゅ。そんな時に感じた、詩織の死の臭い。鎌が直ってまた死神業が出来るようになったら、真っ先に彼女の魂を刈ろう。そのためには他の連中よりも彼女の近くにいよう。そう思ってバイトを引き受けたんでしゅよ」
「……」
「いわば、嘘ついてバイトに入ったんでしゅよ。だけど……彼女と仲良くなるに連れて、この娘を死なせたくない、助けてあげたいって言う気持ちが心の中に芽生えちゃって。それで死の臭いが一番濃くなったあの土曜日、こっそり彼女の後を付けることにしたんでしゅ」
それであの時、大さんのモデルガンに対してあんなに過敏に反応したと言うわけか。
「肉牛を育てている牧場の人が、その肉牛に情が移っちゃって屠殺できなくなるのと同じ。死人の魂を刈ることが仕事なのに、情が移ってその人を助けちゃった。あなたの場合もそう。ホント、死神失格でしゅよね……」
自嘲気味に笑う伊吹さん。
そして一言。
「私、どうしたらいいのかな……」
人間と長く交わりすぎたためか死神としての自分の存在に疑念を抱き、
己の進むべき道を完全に見失っている。
今の彼女は、そういう状態。
すがるような目でこちらを見つめてくる伊吹さん。
ここで俺が『なら死神なんか辞めちゃったら?』と言えば、
おそらく言われた通りにそのまま死神を辞めてしまうだろう。
でも……それでいいのだろうか。
「悪いけど……、俺には何も答えられませんね」
突き放すような言い方だが、自分の道は自分で見つけていくしかない。
他人に決めてもらうものではない。
彼女だって、分かっているはずだと思う。
「……うん、自分のことくらい、自分で考えなきゃダメでしゅよね。……変なこと聞いちゃってゴメン」
そう頷く彼女の横顔は、先程よりは明るくなっていた。
だがその顔が本来の明るさを取り戻すには、もう少し時間がかかることだろう。
そんな彼女に俺がしてやれることと言えば、応援してあげることくらい。
「俺でよければ、愚痴ぐらいなら聞きますよ。だから……頑張れ」
「……はい」
差し出した右手。
それに彼女の左手が重なり、俺たちはがっちりと握手を交わした。
「……二万円、ですか」
「あれだけ働いてくれたのにこの額は確かに安いとは思う。だけどねぇ、これでも必至に工面したんだからね」
二週間ほどの入院生活を終えた翌日、俺はバイト代を貰いに喫茶『めるへん』を訪れていた。
途中入院すると言う不運もあったが、時間にしてかれこれ六十時間以上はバイトに費やして来ていた。
だが、今こうして手取りで渡されたのは、一万円札がたったの二枚。
「まだバイト代が出るだけありがたいと思ってくれよぉ……」
情けない声をあげる立花オーナー。
だがそれも仕方の無いこと、喫茶『めるへん』は業績不振により、
本日を持って閉店することと相成っていたからだ。
「いやぁ、半年もたなかったなぁーハハハハ……」
乾いた笑いが薄暗い店内に寂しく響く。
「仕方ない、次はメイド喫茶を開くか」
「……それ、本気だったんですか」
「のわっ!?」
帰宅して自分の部屋に戻るとそこには、例の如く死神少女の姿があった。
「バイト代貰ってきたんでしゅよね? 鎌の修理代請求しに来ましたー」
「え、銀行振り込みにしろって言ってませんでしたっけ……?」
「まぁちょっと近くを通り掛かったから、そのついでに貰っとこうかなぁーと思ったんでしゅよ」
「はぁ」
あれから伊吹さんはとりあえず死神業に戻って、日夜ノルマに追われる生活を続けている。
そしてたまに俺の前に現れて、死神の愚痴を垂れたりして過ごしている。
また柚木さんとの交流も普通に続いているらしく、
休日などはよく二人して買い物に出かけたりしているそうで。
「しかしあなたも甲斐性の無い男でしゅねぇー。命の恩人なんて普通は立たない最高のフラグでしゅよ? それでも全く詩織との関係に進展無しって、一体どういうことでしゅか」
「あーもう、そんなことどうでもいいじゃないですか! ハイこれ、貰いたてのバイト代全額」
彼女の目の前にそのまま二万円を差し出す。
「あれ? これで全額でしゅか?」
「そうですけど何か?」
「いや、私たちが貰った額より少ないなぁと思って」
「え!? い、いくら?」
「普通に六万円ほど貰いましたけど」
「あ、あのクソオヤジー!!」
男女による著しい賃金差別だと、労働基準局に訴えたら通るだろうかしら。
「……まぁ、今月はこれだけで勘弁してください。また新しいバイト探さないとなぁ」
「あー、その返済の件でしゅけど、もうこれで完済ってことにしてあげましゅ」
「え? いやまだ三十万近く残ってるんじゃ……」
ゆっくりと首を横に振る伊吹さん。
「あなたには何かとお世話になりましたし、その分を相殺して、この二万円だけで弁償はおしまいってことでいいでしゅよ」
「そ、そうすか……」
これまた何ともありがたい計らいで。
でもそれならいっそのこと、弁償そのものを無かったことにしてくれたらありがたいのだが、
そこまで言うのはさすがに虫が良すぎるか。
「打ち直したら鎌の切れ味も増したみたいでしゅし。おかげで昨日もバッサバッサの大収穫でしゅよ」
「その様子だと、何だかんだ言ってこれからも死神業でやっていくんですか?」
「うーん……まだ何とも言えない。でもしばらくはこっちの仕事やっていこうと思ってましゅ」
そう言って笑う伊吹さんの表情は、いつか見せたあの明るい表情に戻って来ているような気がした。
「……切れ味が良くなったって、ちょっとその鎌、見せてもらっていいですか」
「ん、どうぞ」
彼女から鎌を受け取る。
「……まぁ素人目には分からないけど。何か試し切りしていいすか?」
「ダメ!! だからあくまでも物質を切るようには出来てないんでしゅから。もうそんなこと言うんだったら返してくだしゃい」
「うわっ、ちょっと引っ張らないでって……あっ!」
思わず持つ手を離してしまう。
鎌は床へとゆっくり落下していき……
バキッ!!
「あ、ああああぁー!?」
今度は鎌の柄がバッキリ二つに折れてしまった。
「あららー、ものの見事にやっちゃったなぁ」
「何のんきに言ってるんでしゅか! 弁償しなしゃいよ、弁償!!」
「いや、それはさっきもういいって言ったじゃないですか」
「それとこれとは話が別でしゅ! 今度はびた一文負けませんからね!!」
「えぇー、そんなぁー!!」
こうした具合で、俺と死神さんとの腐れ縁はまだまだ続きそうです。