俺がまだガキだった頃、傷つけてしまった少女がいた。
 本当はその子を好きで好きでしょうがなかったのに、幼い俺には、その子に構う方法がいじめることしか思いつかなかった。
 自分が怪我をして初めて、自分がしていたことの酷さに気づいたのに、その時にはもう、彼女は遠くへ行ってしまっていた。
 俺のせいだ。俺のせいで、彼女は遠くへ行ってしまった。
 彼女が帰ってくるためには、俺が変わらなくちゃいけない。
 今度は俺が、いじめっこの“男の子”から、彼女を守る“男”になる。
 そんな誓いを、俺は密かに立てていたのだ。




 随分と懐かしい夢を見た。あれは小学校の時分だったろうか。
 あの頃の誓いを守り続けているあたり、俺も結構律儀なものだ。
 着替えを済ませて食卓に出ると、朝食が食卓の上に置いてあった。
 どうやら今日も先に出て行ったらしい。俺としては好都合なことだが。
 ハムエッグに味噌汁という和洋折衷な感じが拭えない朝飯を食い、歯を磨いて用を足して出発。
 当然家を出るときにに鍵をかけることを忘れない。
 ガチャリ、という音が聞こえた後、一応開けようとしてみるが、当然開かない。
 鍵を再三確認したので、風見学園に向けて歩き出す。
 といっても、正確にはバス停に向けて、だが。
 西の住宅街に住む生徒は、距離があることと、学園に生徒が利用可能な駐輪場が無い関係上、バスを利用している生徒が多い。
 そして俺もご多分に漏れず、バスのお世話になっている。

「あ、先輩! おはようございます」

 バスを待っていたら、ちょいと離れたところから声をかけられた。
 振り向いて手をあげてやると、生えているならしっぽでも振りそうな勢いで駆け寄ってきた。
 通称わんこ、後輩の天枷美春だ。

「一緒に行きましょう……って、わわ!」

 そもそもこのバスに乗らなければ学園には行けないぞ、というツッコミをすべきかどうか悩んでいる暇も無く、美春が視界から消える。
 転びそうになっているのだと気付いて、倒れこむ体を、制服の後ろ襟あたりを掴んで引き起こしてやった。

「あ〜、助かった。ありがとうございました、先輩!」

 答えるかわりに、美春の足を見つめてやった。
 俺の意図を察すると、美春はばつが悪そうな顔をした。

「そりゃ、落ち着きが無いっていうのはわかってますよ。音夢先輩にもよく言われますし、年中足に包帯巻きっぱなしですし」

 どうにも落ち込ませてしまったようなので、まぁ気にするな、と頭に手を置いて髪をくしゃくしゃとしてやった。
 美春はなんとか機嫌を直したのか、転びそうになったことは音夢先輩には内緒にしておいてくださいね、と呟き、そうこうしてるうちにバスが来た。
 二人して乗り込むが、一緒に乗る人間も、乗っていた人間も多いので、結構混んでいる。
 付属や本校の制服で押し合いへし合いして、学園に着くまでには少しばかり体力を消費したりする。
 俺のすぐ横で人波に揉まれまくっていた美春は、体が小さい分俺よりも疲れていそうなのにも関わらず、バスを降りるとすぐに駆け出した。
 駆けて行ったその先を見て理由を知り、俺はバスに乗る前に美春にした時と同じように片手を上げた。

「おはようございます、音夢先輩!」

「おはよう、美春。それに、田端君。美春と一緒のバスだったんですね」

 頷いて返す。
 一日に一言しか喋らないという誓いを立てている俺、田端の朝は割といつもこんな風に始まる。





 言の葉一片





 校門を過ぎたところで教室、というよりそもそも校舎の違う美春と別れ、朝倉音夢と一緒にクラスに入った。

「おはよう、朝倉妹。それに田端か。来る方向は逆だから、たまたまそこで出会った、というところだな」

 俺と同じく西の住宅地に住んでいる、正確に言うなら分譲マンション住まいで、俺より学園から家が遠いはずの杉並が既に教室にいた。
 バスで会ったことが無いのだが、この男、よほど早く来ているのか、それともまさか歩いて来ているのか。
 結構な距離があるが、杉並という男は常識では量れないところがあるから、絶対に歩きではないという確信は持てない。

「おはようございます、杉並くん。その通りですけど、わざわざ解説していただかなくっても結構ですよ?」

「なぁに、俺の頭の体操だ。独り言とでも思ってくれていい」

「そうですか。ちなみに、兄が来ていない理由はわかりますか?」

「朝倉妹と一緒に出てこなかっただけだろう。遅刻するかしないかまで予測して欲しいか?」

「はぁ。結構です」

 少々疲れた感じのため息をついた朝倉音夢は、俺の一つ前の席を一瞬睨みつけた後、自分の席に座り、寄って来た女子と雑談を始めた。
 杉並はというと、席に着いた俺の真横の席の椅子をこちら向きにし、俺と話し込む態勢を作っていた。

「よう、田端。昨日のアレは見たか?」

 俺は杉並が好むエスパーといった人種ではないので、前触れもなくアレとか言われてもわかるわけがない。

「ドキュメント番組で、怪奇事件特集をやっていただろう。『ヌー』編集者のコメントなども聞けて、なかなかの出来だったぞ」

 いや、ドキュメント番組自体結構な数があるし、しかもそんな内容の番組を多分見ていないのだが、そんなことのために今日の一言を使うのはバカバカしいので、首をかしげるポーズだけをとっておく。

「なんだ、見ていないのか。工藤も見ていないと言っていたし、やはり朝倉が来ないと盛り上がりに欠けるな」

 つまらなそうな顔をして言う杉並。盛り上がるかどうか以前に、純一が見ているとも限らないと思うのだが。

「フッ、あの男も伊達に俺の親友ではない。たとえ朝倉妹と壮絶なチャンネル争いになろうとも、怪奇事件特集を見たはずだ」

 百歩譲って見ていたとしたら、朝倉音夢も見ていることになると思うが。と視線で訴える。

「朝倉妹の場合、怪異なんてそんなもの存在しないと頭から決めてかかりそうでな。言い合うのも一興ではあるのだが」

「何を言い合うんですか?」

 ぶつくさ呟いていた杉並に歩み寄って話しかけた奇特な人物は、白河ことり。
 本校1年で初めて同じクラスになったが、学園のアイドルといわれるのも納得の見た目と品行方正ぶりだ。

「おお、白河嬢。昨日のドキュメントを見たか?」

「ドキュメント? ああ、怪奇事件特集のこと?」

「おお、見ていたのか!」

「たまたまかかっていただけで、そんなに真剣には見てないけどね」

「いやいや、たまたまだろうと見ていたという時点で、白河嬢には中々見込みがあるぞ」

「何の見込みなのかな……。とりあえず、私の席からどいてくれると嬉しいんですけど」

 以前、俺がさくら先生のチョークに被弾したとき、わざわざ離れた席から寄って来てくれた白河は現在、席替えによって俺の隣の席になっている。
 俺の机は黒板に対してクラスの左端にあるので、右側にしか隣の席は無く、つまり、杉並が現在座っている席こそ白河の席だ。

「おお、これは済まなかったな。俺としたことが、ついつい興奮して我を忘れていたようだ」

 杉並は即座に席を立つと、椅子の向きを直し、背もたれを持ち、白河が座る時にかすかに椅子を動かすという無駄に紳士な技術を見せた。

「丁寧にどうも。杉並君、田端君、改めて、おはようっす」

「うむ、おはよう、白河嬢」

 爽やかに答える杉並に対し、俺は軽く頷いて、おはようという言葉の代わりとした。

「朝倉君はまだ来てないんだ?」

「見ての通りだ」

 杉並と白河の視線が、先ほど朝倉音夢も睨んでいた俺の前の席、つまり純一の席に注がれた。

「朝倉も来れば、白河嬢も交えて4人で怪異について夜を明かしてでも語れるというのにな」

「いや、さすがに夜通しは遠慮したいかなぁ……大体、4人って、朝倉君はともかく、田端君の意思を確認してないですよね」

「田端なら嫌とは言わんさ」

「良いとも言わないと思いますけど」

 どちらにしてもこんなことで“言う”気はないので、代わりに教室入口を指差してやった。
 杉並と白河の視線の先には、夜通し語るかもしれない相手、純一が到着していた。

「な、なんとか、セーフ……か?」

 肩で息をしながら入ってくる純一は、額に浮かんでる汗からも、遅刻との過酷な勝負を乗り越えてきたことが伺えた。
 朝倉音夢と一緒に来ればそんな苦労はしないだろうに。

「おはよう、ことり、杉並、田端。なんか、変わったメンバーだな?」

「おはようございます、朝倉君。杉並君がいることを考えなければ、席通りに座ってるだけですよ?」

「それもそうか。で、杉並はなんでこの教室にいるんだ」

「付属以来ずっとクラスメイトをしている親友に対するコメントとは思えんな。が、今は捨て置く。朝倉よ、昨日のアレは見たか?」

「お前と親友だったかどうかはともかく、アレじゃわからないっつうの」

「昨日の夜のドキュメント番組でね、杉並君の好きそうな特集をやってたんですよ」

「見てない。昨日の夜は音夢がドラマをずっと見てたからな」

 杉並は、純一のその言葉を聞くと、なんということだ! と大げさにリアクションをとり、

「おのれ朝倉妹め! あんなに素晴らしい番組を見ずにドラマにかまけるなど言語道断!」

「そんなに素晴らしい番組だったのか?」

「ん〜、私にはよくわからないです」

「白河嬢までそんなことを言うとは! 世も末だな……」

 杉並は度重なるショック(?)ですっかり意気消沈してしまったようだ。

「田端に二言以上喋らせつつ、ミステリーについて話せるという一挙両得なアイデアだったというのにな」

 つまらなそうな顔でそんなことを呟く。
 どうやらそんな意図が隠されていたらしいが、杉並の言葉から察するに語り明かすことは自然消滅のようなので、まぁ反応する必要もないだろう。

「田端に二言以上喋らせるか……それは興味があるな」

「私もちょっと興味あるかも」

 二人ともそこに反応するのか。
 まぁ、純一は長い付き合いだし、白河は短い付き合いだし、どちらにしても俺が一日に一言しか喋らないという事実を知っていれば気にしていてもおかしくはないのだが。

「二言話せとまでは言わないけどさ、結局、田端はなんで一言しか喋らないんだ?」

「……」

 それは、純一に対しては、二番目に語る相手としてふさわしくない気がして、俺は沈黙を守る。
 その意思というか意地というか、そんなものをこめた目を見て、杉並は嬉しそうに笑う。

「そんなに隠されると一層知りたくなるのが人の業。なんなら賭けでもして……」

「は〜い、朝倉くん、杉並くん、田端くん! もうHRの時間ですよ〜、席についてねー!」

 杉並の言葉を遮ったのは、いつの間にか教壇に立っていた金髪少女、我らが担任芳乃さくら先生だ。
 年齢が同じだし、背丈なんてクラスの誰よりも低く、先生なんて嘘としか思えないが、常識が通じないのが初音島、そして風見学園なのだった。

「先生、俺と田端は席にもともとついてるんだけど」

「口答えしなーい。先生が来たら白河さんみたいにちゃんと前を向いて静かにしてなきゃダメだよー」

 白河がこちらの方を見て舌をぺろと申し訳無さそうにもイタズラっぽく出している間に、杉並も席に戻っていた。
 他の連中もいつの間にやらちゃんと着席していて、それに気付いた瞬間、HR開始のチャイムが鳴った。

「じゃ、まずは出席とるねー。朝倉君……」

 純一や杉並が煽ったからか、芳乃先生の姿を見たからか、はたまた、朝見た夢のせいか、俺は、誓いを思い返す。



 “男”になろう、と決めたときにぶつかった最大の問題は、どういう奴が“男”だかわからなかったことだ。
 物理的な意味で女の子を守れる、ということで体を鍛えるくらいは当たり前だ。
 けれど、腕っぷしが強いだけで“男”なら、好きな子をいじめるバカないじめっ子だって“男”になってしまう。
 何かあるはずだ、“男”と“男の子”を分ける、何か大きな違いが。
 俺はそれを探して、探して、探して、そして、とうとう見つけた。
 『男に二言は無い』
 あの言葉を見つけた瞬間には、体に電撃が走ったものだ。
 ちょうど今、額に受けた衝撃のように。



「田端く〜ん、ボク、もう3回も呼んだよ〜?」

 昔のことを思い返しているうちに、自分の出席順が来ていたらしい。
 さくら先生が投げたチョークのダメージでぐわんぐわん揺れる視界に、なんとかさくら先生の姿をとらえて、返事代わりに手を上げた。

「次からはちゃんと一回で返事してね。ええと、次は……」

 ああ、さくら先生の声が遠い。
 さくら先生のチョークの威力は、警戒していない状態で受けるとなかなかに壮絶で……なんだか意識が遠ざかりそうだ。
 最初に呼ばれて早々寝息を立てている前の席に倣って、HRは意識を沈めておくか……。



 『男に二言は無い』
 『男は寡黙であれ』
 『男は目で語れ』
 この世の中、そういう教訓は多いらしくて、けれど、俺にはその教訓こそ、真の男らしさだと思えた。

「男に『ふたこと』はないか……よし、一日一回しか喋らない!」

 そんな誓いを立てた俺は幼かった。
 周りはいきなり喋らなくなった俺を変な目で見たが、これが“男”になることなんだと割り切って、言いたいことの殆どはとにかく視線にこめた。
 おかげで、喋らなくても殆ど視線だけで相手に伝えられるという特技まで身についてしまった。
 もちろん、今は『男に二言は無い』という言葉のちゃんとした意味を知っている。
 二言っていうのは、言い直しをしないという意味で、一日に二回喋らないという意味じゃない。
 けれど、一日に一度しか喋らないと決めた誓いを覆すことこそ、『男に二言は無い』を破ることになる。
 だから、俺は頑なに守り続ける。
 ただ、時々不安になることがある、それは……



「じゃ、HR終わりにするね。週番の人、号令よろしく〜」

 さくら先生の声で目覚めて、白河の号令で起立礼着席。
 はて、俺は何を不安に思っていたのか、と考えるヒマもなく、1時間目が始まってしまった。
 悩みも無さそうにHRから寝っぱなしの純一が、少し羨ましかった。



「お、もう昼休みか。今日は時が経つのが早いな」

「朝倉君はずっと寝てたもんね……」

「さぁ、ことりの言うことは無視して購買にでも行くか、田端」

 白河の言うことはもっともだけどな、と肩をすくめつつ、すぐに購買に行く予定も無いので首を横に振っておく。

「ん? 弁当でもあるのか? それとも食堂か? 外って手もあるが」

「あのー、朝倉君。今日って何曜日かわかってる?」

「え?」

 純一がまぬけな顔をしていると、ドアからさくら先生が入ってきて、教壇に立った。
 それを見て、ああ、そっか、今日って土曜日だったのか、と寝ぼけていた頭が覚めたのか、本当に忘れていたのか呟いていた。

「じゃ、終業HR始めるよー」

 土曜日は風見学園は本校だろうと付属だろうと半ドン、つまり午前で授業は終わりなので、4限終了と共に終業HRの時間となる。
 食事はどこでとるにしてもその後なので、俺はさっきの純一のセリフに首を横に振ったのだ。

「んー、連絡事項は無いから、じゃあ皆、いい日曜日を過ごしてね〜。週番、号令〜!」

 今は産休に入った副担任・佐伯暦先生の超短時間ホームルームを受け継いだかのような短い終業HRの終わりを告げる白河の号令がかかり、俺たちは放課後を迎えた。
 近くの誰かと話をする者、帰るのか部活に行くのか食堂に行くのかカバンを持って教室を出る者、ぼーっとしている者という大体三種に分かれる。
 俺はというと、

「じゃ、今度こそ食堂に行くか」

 という純一の言葉に便乗して、カバンを持って食堂に行った手合いだ。
 杉並は『ヌー』の特別増刊号の発売だと言って消え、朝倉音夢もやんごとなき用事(純一曰くドラマの再放送)があると言って兄を置いて帰ったので、他の連れ合いは白河だけだ。

「それにしても、朝は驚いちゃいましたよ」

 食堂のそばをつるつるとすすりながら、白河が俺に語りかけてきた。
 はて、なんのことだ? と首を捻ると、

「ほら、ホームルームの時、芳乃先生のチョークを受けて、しかもその後ちょっと……」

 白河が言い淀んだのは、俺が気絶したことに気付いているからなのだろう。
 他の席ならいざ知らず、隣の席の白河には、俺がただ顔を伏せたのではないことがわかってしまったのか。

「ん? 田端、またさくらのチョークくらったのか?」

「いや、同じクラスで同じホームルーム受けてたじゃない……って、朝倉君は最初に呼ばれた後に寝てたんでしたっけ」

「寝付きがいいだなんて、そんなに褒めないでくれ」

「いや、褒めてないから」

 なかなか軽快な漫才だ。夫婦漫才?
 お互いにボケもつっこみもこなす高度なコンビだな。

「さくらのやつ、あんまりチョーク投げるなって言っておいたのにな……。大丈夫か、田端?」

 髪をかきあげて、大丈夫だと見せ付けてやる。

「うん、腫れたりもしてないみたいですよ」

「まぁ、なんか異変があったら保健室なり病院なりに行ってくれ。悪かったな、田端」

 純一の言葉に、首を横に振る。
 謝られることではないし、もし謝られるとしてもそれは、純一に言われることではないのだから。
 そう、それは、ちょうど食堂の入口からこちらを見ていた……

「……!?」

 俺の視線を感じたのか、他に何か意図があったのか、去っていく人影。
 ガタリ、と席を立ち上がり、その人を追いかけようとする。

「田端君?」

 白河の言葉に振り向く時間は無い。
 今、追いかけなくてはいけない、そう何かが俺に告げる。

「田端、お前の食いかけのカレーどうするんだよ」

 袖を掴んで注意を引く純一の腕を振り払う。

「やる!」

 一言、純一の顔すら見ずに言い放って、食堂を走り去った。

「……田端君の今日の一言?」

「だよなぁ。……カレーうどんにでもして食うかなぁ」




 人影の走りは、歩幅の狭さもあいまって遅く、最初の距離は長めだったものの、なんとか見失わずに済んだ。
 行き着いた先は、彼女の根城、生物準備室。
 かつては白河……現在は佐伯暦先生の根城だったが、産休に入った先生の代わりに、植物学の権威である彼女が研究室代わりに入った場所。
 主の名前は、芳乃さくら。
 その正体は、俺が誓いを立てた少女その人である。

「……」

 深呼吸をしてノックする。いや、しようとしたら、内側から開いた。

「お兄ちゃん!?」

 期待に目を潤ませたさくら先生には悪いが、俺は彼女の『お兄ちゃん』ではなかった。
 さくら先生は一瞬だけ落胆の表情を見せて、でも次の瞬間には笑顔を作り、

「どうしたの、田端くん? 玄関先で立ち話もなんだから、中に入りなよ〜」

 と、努めて明るい声で言った。
 言いたいことはあるが、確かに入口で話しても仕方はなさそうなので、中に入る。
 さくら先生はぴょこぴょこと髪とリボンを揺らしながら歩いていき、奥にある椅子に腰掛けた。

「ソファでも、パイプ椅子でも、床でも、適当に座っていいよ〜」

 先生より上等な椅子に座るのは何か変だし、かといって床に座りたくはないので、無難にパイプ椅子を広げて座った。
 さくら先生は座ったまま椅子のキャスターをころころと転がし、俺の目の前まで来た。

「で、何の用かな? ボクに答えられることならなんでも相談に乗っちゃうよ〜」

 はて、改めて言われてみれば、俺は何故ここに来たのか。
 食堂から去っていくさくら先生を見たとき、衝動的に追いかけなくてはいけないと思ったのだが、実際に追ってみたら、やるべきことは見つからない。

「あ、もしかして朝のshootのこと? んー、手加減を間違えちゃったかな?」

 いや、それは違う、と答えるヒマもなく、さくら先生は俺の額付近の髪をどけ、見上げてきた。
 主に座高のせいで見上げる目線になっているのだが、美少女……というと本人は機嫌を損ねるだろうから、美人に見上げられるというのは、クルものがあって、少し顔を逸らす。

「わ、顔をそらしちゃわかんないよ。ちゃんと見せてくれないと、ボクだって困っちゃう」

 そう言うと先生は立ち上がり、がっしりと俺の顔を両手で挟み込み、指でなんとか髪を持ちあげて俺の額を凝視した。

「んー、何かなってるかなぁ? ハレたりはしてないと思うんだけどにゃ〜」

 ぺたぺたと柔らかい手で触り、「痛い?」と聞いてくるので、動かない首の代わりに視線を横に動かして否定する。
 さくら先生はそっか、と言うと手を離して元通り椅子に座った。

「痛かったならごめんね。チョークを持つとついつい力が入っちゃって」

 謝らなくていい、あれは俺がぼうっとしていたのが悪いんだから、先生のせいじゃない。だから、謝らないで。
 そう言おうとして、奥歯を噛み締めた。

――俺は、さっき今日の一言を使ってしまったじゃないか。

 いくら焦っていたとはいえ、一日たった一回の大事な言葉を、あんなタイミングで使ってしまったなんて!
 あんなたった2文字の言葉のために、ちゃんと言わなくちゃいけないことを言えない。
 なんて、なんて愚かなんだ、俺は。
 ぎりり、と強く歯噛みする。

「あ、あの、田端くん。もしかして、やっぱり痛かったの? なんだか辛そうな顔してるけど」

 違う、そうじゃないと、大声で伝えたい衝動を抑えて、激しく首を振る。
 頸を痛めたって構わない、彼女に、俺の意思を誤解させてはいけない。

「あ、あの、田端くん?」

「おーい、さくら〜……って、え、田端?」

 妙な空気が流れそうになったところに、純一が闖入し、なお妙な空気になりそうになるが、

「朝倉くん! 入るときはノックして! それに、今は入っちゃダメ!」

 さくら先生が珍しく裂帛の気合を発し、純一は慌てて退散した。

「ごめんね。お兄ちゃんったら、空気読めなかったみたい」

 さくら先生が、今度は別のことで謝る。
 自分のことではないのに謝るのは、まるでさっきの純一のようだ。
 そして、似ているのは当然か。
 二人は、幼いときから、今も尚、想い合っているのだから。

「……」

 ああ、今、とても言いたいことがあるのに。
 それを黙っていなくてはいけないのが、男というものなのだろうか。

「いいんじゃないかな」

 俺の心を見透かしたように、さくら先生が言う。

「何を迷っているかわからないけど、田端くんは、何かどうしてもしたいことがあるんじゃないの?」

 けれど、それは、俺が勝手に立てたとはいえ、君への誓いを破ることだ。
 他ならぬ、君に恋人がいる今でも愛しい君を、裏切る行為だ。

「男はタフでなければ生きていけない、って言葉、知ってる?」

 知っている、と頷く。
 続きは『優しくなければ生きていく資格がない』だ。

「田端くんは、自分に優しくしてもいいんじゃないかな。ボクは、自分を殺しちゃってる今の君が何をしたいのか、とっても気になるよ」

 その言葉は多分、一言しか喋らないことへのこだわりだけでなく、
 『昔』のいじめっ子のガキではない、『今』の俺を見せて欲しいという、願いなのだと、
 彼女の優しさなのだと、わかる。
 覚えていたんだ、彼女も。
 昔、自分を苛めていた相手を覚えていて、それでも笑顔を向けて、相談に乗ると言い、今、俺への助言をくれた。
 彼女は、苛められていた『女の子』から、既に一人前の『大人の女性』になっていたのだ。
 そんなことに今気付くなんて、俺は成長できていなかったのではないだろうか。
 彼女を守るだなんて息巻いていたくせに、ああ、情けない。
 情けないから、俺に『言える』ことは、たった一つだった。
 ルール違反の一言、それは――

「ごめんなさい」

 朝、ぼうっとしていたことだとか。
 昔苛めていたことだとか。
 今、守れていないことだとか。
 誓いを破ってしまったことだとか。
 他にも、謝らなくちゃいけないことが、きっとあって。
 多くを語ることを長らく忘れてしまった口は、その一言をやっと搾り出した。

「……」

 さくら先生は、俺の言葉を聞いた後しばし目を瞑り、いつもは見せない大人な感じの顔をして、

「許してあげるよ、全部」

 そう、神聖さすら感じさせる声で言った後に、

「だってボク、大人だからね!」

 一変していつもの子供っぽい笑顔に戻った。
 その幼さという偽りの仮面は、幼い日に俺が与えてしまった心の傷への防衛本能なのだろうか。 
 それとも、朝倉音夢がそう振舞うように、大事な純一以外には本性をなるべく見せないようにしているのだろうか。
 あるいは、あの幼い日もあるがまま受け入れているという、俺への免罪符なのだろうか。
 真実はわからない。気にならないと言えばきっと嘘だけど、聞くことが正しいとは思えない。
 そんな野暮なことをするのは、男らしくないだろうから。

「ああ、そうだ、田端くん。今だから言えるんだけど」

 なんですか? とクセになってしまっている無言で返すと、先生はより良い笑顔を浮かべ

「一日一言にこだわるのって、意地張ってる“男の子”って感じで可愛かったよ」

 その言葉を聞いたとき、もう一回額にチョークを受けたみたいな衝撃が走った。
 気絶したときに思っていた不安が、それだったのだと気付いた。
 意地を張っているのって、男らしいと言えるのだろうか、という不安。
 そして、それは不安的中というか、誓いを立てた相手に思いっきり笑われたわけだ。

「って、あれ、田端くん。もしかして怒っちゃった?」

 何も言わずに肩を震わせる俺に、さくら先生が不安そうな声で話しかけるが、そうじゃない。
 俺は、声も上げずに笑っているのだ。
 今までの自分と、そして、今もなお、意地を張っている俺が、あまりに滑稽で。
 繰り返すほど笑いが止まらない。
 こちらを覗き込んださくら先生は、俺が笑いで震えているのがわかったようで、

「あははははは!」

 と一緒になって笑ってくれた。
 ああ、滑稽だった俺との別れを充分に笑ってくれ!
 たっぷり5分ほど笑い続けて、お互いに息が切れ、筋肉が引き攣りそうになった今この時、俺は一言にこだわっていた愚かしい俺と別れた。

「……」

 ただ、別れたはずなのに、もうすっかりクセになったらしい無言は、席を立つときにも発生した。
 もっとも、笑いすぎで腹筋が痛くて、立つのがやっとだったのもあるのだが。

「田端くん、相談はもういいの?」

 さくら先生も、ゆっくりと立ち上がると、俺に向かって手を伸ばした。
 俺を支えに立つつもりではなく、それは俺の手に向かって伸ばされて、つまり握手をしようとしていた。
 わけもわからず、とりあえず差し出された手を握っておく。

「握手の契りで、これからボク達はFriends! OK?」

 ああ、俺はこの人に一生頭が上がらない。
 許してもらった確かなカタチ、そして、新しい俺たちのカタチをもらってしまったのだ。
 俺は、オーケーと言えただろうか。
 強く手を握って、強く上下した。
 手を離すのは少し惜しかったけど、“友達”である俺は、彼女の手を長々握り続ける権利を持たない。
 そんな権利があるのは、

「お、終わったのか」

 かったるいという言葉が口癖の割に、静かに廊下で待ち続けるだなんて律儀なところもある、この男だけなのだ。

「待っててくれたの、お兄ちゃ〜ん!」

 俺の横を走り抜けたさくら先生は、そのままの勢いで純一の腰に抱きついた。
 それはまるで、この世の幸せ全部を持っているような笑顔で。

「こら、さくら! 人目があるだろ、離れろ!」

「う〜、残念。じゃあさ、人目がないところに行こうよ」

「いや、まぁ、そのつもりで来たんだけどさ、仕事は?」

「今日はちゃんと終わらせてあるよん。ささ、お兄ちゃん、帰ろうよ!」

 よほど純一と二人の時間が欲しいのだろう、さくら先生は、やっぱり『女の子』なのだと感じた。

「わかったよ。っと、田端、カレーうどん、うまかったぞ、ありがとな」

 気にするな、と答えてやろうかと思ったら、話も聞かないままにさくら先生と連れ立って歩いていってしまった。
 今度は腰ではなく、手を繋ぎあって、恋人として、とても自然に振舞って。

「……」

 もう、現実を直視してもいい頃だろう、俺。
 一言にこだわり続けるガキをやめた以上、こちらも諦めるいい潮時じゃないか。
 今この瞬間を逃せば、きっと、ずるずる引き摺り続けてしまう。
 だから、俺は宣言しよう。
 芳乃さくらを守る、その役目を、俺は放棄する。
 彼女が転校する前から、一度帰国してアメリカに戻ったときにも、ずっとずっとそうだったように、それは純一の仕事でなければならないからだ。
 横恋慕の時は終わり。ただ、彼女に告白すらできずに振られただけの男になろう。
 そしてこのタイミングで、
 一言しか喋らなかった少年に、恋心と失恋を教えてくれた彼女に感謝して、
 遠くなっていく背中に、新しい俺、一人の男としての一言を、送ろう。

「――――君に、幸あれ」