「何泣いてんだよ、恭介?」
「え……?」


 目元に手をやれば、そこは確かにしっとりと濡れていた。


「何で俺泣いてるんだ?」
「知るかよ。さっきまでグースカ寝てたと思ったらいきなり泣き出しやがって。聞きたいのはこっちだっつーの」


 友則はやれやれと首を振ると、壁にもたれかかっていた背をずりずり動かして、地面に寝そべった。

 恭介もそれにならい、床に倒れ込むと突き刺さる眩しい太陽光線を手をかざして回避し、そのままなんとなく、自分の掌を呆、と眺めていた。

 夏に近付いた屋上の風は心地良く、襲い掛かる睡魔に特に抗いもせずに目を瞑る。


「なー、友則」
「んだよ」
「やっぱ何でもない」
「ワケわかんねぇ」


 ここは、あまりにも平和だった。




















泡沫




















「……それで、ずっと眠ってたの?」


 昼休み。

 自らの腹の虫の鳴く大きさで目覚めた恭介と友則は、食堂で買ってきたツナサンドを齧りつつ、お弁当を広げた明乃に四時間目の授業をサボったことについての尋問を受けていた。

 ちなみに一緒に机を並べて座っている恵と可憐は非難めいた視線を二人に注いではいるものの、特に何を言うでもなく黙々と自分の食事に集中している。

 明乃と違い、この男二人に何を言ってもどうせ聞かないことを理解しているからだ。

 無論その辺りの機微が分かろうはずも無い明乃は、


「もうっ、本当に心配したんだよ? 先生の額に青筋が見え隠れしちゃってるのを見たときは本当にどうしようかと」
「友則、そっちのクリームコロッケくれ」
「んじゃーエビフライと交換な」
「人の話を聞きなさーい!」


 明乃が両手をブンブン振り回して怒鳴るが、まるで怖くない。

 むしろ童顔の明乃が怒ってもハムスターか何かの愛玩動物が暴れているだけのような雰囲気があり、見ている者の心を和ませる効果しかない。

 これはアニマルテラピーとして売り出したら金になるんじゃないか。

 と、本人が聞いたら泣き出しそうなことを考えつつ、恭介の視線は手を振り回す拍子にバインバインと上下する明乃の巨大なバストに釘付けだった。

 バインバイン。

 バイーンバイーン。


「恭介」


 それに気付いた恵が眉根を寄せ、恭介にだけ聞こえる声の大きさで彼の名を呼ぶ。

 振り向いた恭介に向かって、


(……エッチ)


 とアイコンタクト。


(エッチじゃない)


 恭介も負けじと、アイコンタクトを返す。


(嘘。明乃の胸、見てたじゃない)
(見てない)
(見てた)
(違う)
(じゃあ何を見ていたの?)
(……)
(ほら、やっぱり)
(……せ)
(せ?)
(……制服のリボンだ)
(は?)
(あのバナナを彷彿させる黄色、触り心地の良さそうな質感、風に揺れてひらひらする様がまさにワンダホー!)
(……)
(そ、そんなあからさまに馬鹿にした目で見るなよぅ!)


「……貴方達、何をしているの?」


 ずっと見つめ合って、目を不自然に開いたり閉じたりしている二人を流石に見るに見かねたのか、可憐が怪訝そうに尋ねた。


「え!? え〜っと、今はミニトマトを食べててそれでっ」
「お前じゃない」


 まったく関係無い明乃が慌てて答え、恭介がそんな明乃の頭にチョップでツッコミを入れた。










「おや、あの見慣れた後姿は……」


 昼休みも終わり、移動教室の古典も終了。

 清水寺から追っ手をかわすために飛び降りた古代の偉人に思わず手に汗握るほど感情移入してしまったので、大変気分が良い。

 俺もああいう風に屋上からダイブしてぇ、なんて物騒なことを考えつつの教室への帰り道、知った顔が前方を歩いているのを発見する。

 ちはやと珠美だ。

 恭介は無意識のうちに気配と足音を消しながら、ゆっくりと二人に近寄っていた。


「それであたしのナイスハンドリングワークで氷山を回避して」
「それじゃドラマにならないよ〜」


 二人はどうやら映画の話で盛り上がっているらしい。

 以前、恭介と珠美で一緒に見た豪華客船沈没ものだ。

 話に混ざりたい気持ちをグッと堪えつつす〜っと珠美の後ろに陣取る恭介、横のちはやが気付いて声を上げる間も無く、


「うりゃ」
「うわわわわわ〜!?」


 容赦の無い膝カックンを仕掛けた。

 子供である。


「や〜い引っかかった引っかかった〜」
「お、おのれ恭介〜!」


 バランスを崩して廊下にへたり込んだまま、珠美が恨めしそうに恭介を睨みつける。

 心底嬉しそうな表情を浮かべて逃げ出す恭介。

 ちはやは自分の兄の子供っぽさに、ただ呆れて苦笑いを浮かべるだけだった。










 下校時刻。

 掃除があるため学校に残らなければならない恭介を薄情にも一人残し、新作ゲームのプレイのためにゲームセンターへと向かった友人+妹に呪いの言葉を延々と清掃時間中に呟き続けていた恭介は、モップをロッカーに片付けるとうんと伸びをした。

 今頃みんな盛り上がってるだろうか。


「……」


 想像したら泣きそうになったのですぐ止めた。

 早く自分も向かうことにしよう。

 そう恭介が思い立ったところで、


 ブルルルルルルルル!


「む」


 現在マナーモードに設定中のケータイが鳴動した。

 ポケットに手を突っ込んで確認すると、『志乃』という名前が表示されている。

 首を回して近くに教師がいないことを確認すると、恭介は通話ボタンを押した。


「もしもし」
「あ、恭介くん?」
「ただ今出かけております、御用のある方は『あは〜ん恭介愛してる〜』と悩ましげな声で前置きしてからメッセージをどうぞ」
「あは〜ん恭介あ」
「やっぱりいいです済みませんごめんなさい俺が全面的に悪かったです」
「ちぇ」


 何故か残念そうな舌打ちが聞こえた。


「それで志乃さん、何の用ですか?」
「ん〜、そこに明乃いる?」
「明乃? いえ、いませんが」
「そう……これから会う予定は?」
「一応ありますけど」


 明乃だけゲームセンターに行かなかったということは無いだろう。

 そう考えて恭介は答えた。


「良かった。じゃあ明乃に、今日は遅くなるから夕御飯先に食べておいてって伝えてくれる?」
「構いませんけど……明乃に直接伝えられたらどうですか?」
「それがあの娘、ケータイの電源切ったままにしているみたいで」


 ははぁ、と納得する。

 ドンくさい明乃のことだ、学校で律儀にケータイの電源を消して、それからずっと忘れてしまっているのだろう。

 明乃らしい。


「分かりました、伝えておきます」
「助かるわ。じゃあお願いね」
「はい」
「今度デートでもしましょうね」
「……考えておきます」
「うふふ、それじゃあね」


 最後にそんな笑い声を聞いて、恭介は志乃との通話を終えた。


 ツー、ツー、ツー


「……」


 その無機質な機械音は、何処までも寂しかった。










 夕日が照らし出すオレンジの町を歩く。

 何台もの車が車道を走り、小学生らしき集団が恭介の脇を駆け抜け、伸びた影は悪魔のようにドス黒い。


『いつまでそうしているつもりだ?』


 突然、影が尋ねてきた。


「分かってるさ……」


 恭介はさして驚いた様子も見せず、疲れた顔で応じる。

 分かっていた。

 この世界が、嘘で塗り固められた虚構の世界だということに。

 ただ、気付きたくなかった。

 ずっとこの世界で生き続けることが出来るなら、辛い現実を直視せずに済むのだから。


「でも……そういうわけにもいかないもんな」
『そうだ。早く私を殺しに来い、少年』
「言われなくても殺してやるさ……岸田」


 憎んでも憎みきれない男の名を呼ぶ。





 そして恭介は、現実へ舞い戻った。















「……て……け」
「……」
「起きて……恭介」
「ん……」


 うっすらと目を覚ます。

 視界の隅に、ボロボロの制服を着て、顔を血や泥で汚した恵の姿が入った。

 恭介も酷い有様だ。

 服はあちこちが切り裂かれ、こびりついた血でギトギトになっている。

 周囲に目を向ければ――

 明乃が部屋の隅で倒れていた。

 裸に毛布一枚をかけられた志乃が焦点の合わない瞳で虚空を眺めている。

 下着姿の可憐が憔悴した顔で床にへたりこんでいた。

 珠美とちはやは死人のように青白い顔で眠りについている。

 友則は両手両足を拘束されたまま、グッタリとしていた。



 これが、現実なんだ。



 楽しい思い出となるはずだった旅行が、突如として地獄と化した。

 岸田洋一という名の悪魔は己の欲望を満たすため、殺戮と陵辱の嵐を巻き起こした。

 悲哀の叫び。助けを求める声。裏切られた信頼。

 戦い、敗れ、絶望し、それでもここまで頑張って来れた。


「……それも、もうすぐ終わる」


 岸田洋一の死という、絶対的な結果によって。 

 恭介は頭を振って眠気を振り払うと、ゆっくりと立ち上がった。

 恵が恭介の右手に、黒い長剣を握らせる。


「もうすぐ岸田が来るわ」
「ああ」


 不思議と恐怖感は無かった。

 クロスボウを構えている恵に微笑みかける。


「必ずあいつを殺して、お前を取り戻してみせるさ」
「期待してるわ」


 恵も不敵な笑みを浮かべ、そっと恭介の頬にキスをくれる。













 さぁ、行こう。



 先程までの嘘を本当にするために。



 未来を取り戻すために。
















 自分達の陣地であるモニタールームの扉を開く。

 そこから先は――








 嘘じゃない、紛れもなく現実の戦いが始まる。