噂話をされるのには慣れている。
俺は元々不良のレッテルを貼られている問題児でるし、クラスではいつも春原と一緒に馬鹿な事ばか
りやっている。
あまり人には言いたくはないが、彼女である藤林杏と付き合う際にも色々とややこしい事があった。
意識的にではないが、比較的話題になりやすい存在であるのは自分でも認識している。
だから……噂話をされるのは慣れている。
それ自体は何の自慢にもなりはしないと思うが、自分に対する噂話について耐性を持っていると思え
ば悪いことではあるまい。
つまりは親しくもない他人に何を言われても、必要以上に気にかけることもない。
自分のペースを乱される事がないから、我が道を行ける。
ほら、なんとなく強靭な精神を持ってるみたいで格好がいいではないか。
だからさっきからクラスの女子がこっそりと俺を見て、ヒソヒソと呟きあっているのもたいして気に
もしない。
「岡崎君、藤林姉と別れちゃったって噂本当なのかな……」
「違うんじゃない? このお昼休みもさっきまで一緒にいたみたいだけど」
俺は聞こえていない振りをしながら、心の中で苦笑した。
また随分とくだらない噂が流れているもんだ。
どこからそんな噂が流れているかは知らないが、俺と杏の間には何の問題もない。
我ながら恥ずかしい表現だがラブラブってやつだ。
口喧嘩はよくするほうだから、そういう誤解をされやすいとは思うが、それは俺達なりの一種のコミ
ュニケーションだ。
俺も杏も我が強いほうだからな、確かに頻繁に衝突もする。
しかし、それもお互い本質を理解しあった上あり、すぐ仲直りもする。
昔から言うだろう? 喧嘩する程仲がいいって。
俺達がまさにそういう関係だ。
だから、女子達が何の根拠もない噂話をいくらしようが気にもならない。
昼休みも終わり五時間目がもうすぐ始まる。
次は大嫌いな数学の授業だ。
腕組みをしながら机に座って、居眠りの準備を始めていた俺はそのまま目を閉じる。
噂話など無視して、五時間目はこのまま寝て過ごすつもりだった。
すでに腕を枕に、机の上に突っ伏している。
「やっぱり岡崎君の噂は嘘なのかな?」
「いくらなんでもねえ」
俺がもう寝てると思ってるんだろうか。
女子達はヒソヒソ話を続けている。
本当は聞こえないくらいの小声なんだろうが、自分の噂話に対しては聴覚が敏感になるのか、よく聞
こえてくる。
まあ、それもあと少しの話だ、寝てしまえば何も気にならない。
くだらない噂話に惑わされて眠れなくなる程、細い神経はしていない。
余裕で無視して見事爆睡してやる。
俺がそう決め込むと、だんだんと睡魔が襲ってくる。
いい感じだ、これはぐっすりと眠れそうだ。
今日は春原もサボりでいないし、暇である。
いっそ起きたら放課後なら素晴らしいのだが。
そんな事を考えているとゆっくりと意識が薄れていく。
もう一度言おう。
俺は噂話には耐性があるのだ。
必要以上に気にしたりは決してしない。
俺はクールだ。
「やっぱり嘘だよね。岡崎君が藤林姉と別れて…」
「うん。春原君と付き合い始めただなんて」
…………すみませんでした。
前言を全て撤回。
俺は一瞬にして意識を覚醒させると立ち上がり叫んだ。
「いくら何でもその噂話は気になるわぁぁぁ!」
ちょん切らないで!
「あはははははっ、大爆笑だわ」
「お姉ちゃんっ、朋也くんが困ってるよ」
その日の放課後。
俺の話を聞いた杏が豪快に大爆笑をしてくれた。
それをあたふたとしながらも、椋が止めようとたしなめる。
「だって……あははははっ」
「お、お姉ちゃん」
「まったく、笑いすぎだろ」
杏と椋の間に立ち、両手に花状態で俺は溜息をつく。
俺達三人はよくこうして一緒に帰る。
椋と別れ、その双子の姉である杏と付き合いだしてからは気まずい関係が続いたが、すでに完全に和
解し、仲の良い友人の関係が続いている。
今日も一緒に帰宅する途中、昼休みに聞いた噂話を話したとたん、杏がこれである。
俺と春原がカップルになるという設定がよっぽどツボだったのだろう。
お腹を抱えてしばらくの間笑い続けたていた。
女の子があまりに大きな声を出して笑うため、俺達と同じく帰宅途中の生徒の視線がチラチラと集ま
ってくるのを感じる。
照れ屋である椋の顔がどんどんと赤く染まっていく。
「あわわっ。もうっ、お姉ちゃん!」
「だってさ、朋也と陽平がカップルよ! ありえないわ」
「男同士だとかそういう次元じゃなくな」
俺が男同士という言葉を出した直後、椋がポッと顔を赤らめた。
そして思いっきり俺から目を逸らす。
コイツ……今想像しやがったな。
俺と春原のラブシーンを。
「お、男の人同士の恋愛ですか。想像してみたらすごいですね」
「嫌な想像しないでくれ」
椋がどんな想像をしているか考えるだけで恐ろしい。
まあ、嫌な例えだが、俺が万が一ホモだったとしても、絶対に春原とだけは付き合わない。
絶対にご主人様と下僕という今の関係は変わることはないだろう。
だって、あいつ馬鹿だし。
別に普通程度の馬鹿なら気にはしないが、春原は超一流の大馬鹿だ。
馬鹿は伝染病ではないが、春原の馬鹿菌は強力そうだ。
キスとかしたら粘膜感染とかしそうだし。
って、我ながらこの想像はかなりきついな。
椋のおかげで俺の想像がとんでもないところに行き着いた頃、ようやく杏の笑いが収まった。
「ま、もしそうなったらいくらあたしでも身を引くわ。だってその方がおもしろそうだしね」
「おいおい」
とんでもなく嫌な事をいう杏。
俺が困ると椋は遠慮がちにフォローを入れてくれた。
「嘘ですよ…お姉ちゃんが絶対黙って引き下がるわけがありません」
めずらしくツッコミを入れる椋。
まあ、確かに俺もそう思う。
とりあえず俺か春原のどちらかが撲殺されるよな。
あるいは両方か。
「まあ」
妹の言葉に杏が考え込む。
そしてしばらくすると大げさに肩をすくめる。
「あたしを捨てて朋也が選ぶ相手があの陽平じゃ、確かにちょっと納得できないわね」
「杏なら俺も春原もボコボコにしちまうだろ」
「そうね。二度とふざけた事が出来ないようにハサミでちょん切ってやるわ」
とんでもない事をサラリと宣言する。
一瞬何をちょん切るのかを想像して、恐怖を感じた俺は、とっさに股間のあたりを手で隠す。
いや、そんな展開は絶対ありえないが、男として無意識に防御体制に入ってしまった。
俺のそのポーズを見て杏が少し可笑しそうに笑い、椋が顔を赤らめた。
「あ、でも朋也か陽平の片方だけちょん切ったら、ホンモノになっちゃうから余計にまずいわね」
「おいおい」
「そうなったら、いっそ二人まとめて」
「お、お、お姉ちゃんっ」
もはや恐怖で声も出ない俺の横で、椋が珍しく大声を出すのであった。
「うわっ、何? そんな噂がながれてるの?」
「最悪だよな」
藤林姉妹を家まで送った俺はそのまま実家に戻ると、着替えだけ済ませ、いつも通りに春原の家でま
ったりしていた。
春原の家の万年コタツで暖まりながら、暇つぶしに噂話をしてやる。
「本当に最悪だよ」
春原が”げぇ”と舌をだし、嘔吐する真似をした。
下品なポーズだが、まあ気持ちは分かる。
さすがに俺も文句はいえない。
しばらく様子を見ていると春原が大げさに溜息をつく。
「そんな噂が流れたら僕のさわやかなイメージが崩れちゃうよね」
「大丈夫だろ」
「なんでさ? だってホモ疑惑だぜ?」
「だって最初から存在しないモノは崩れようがないだろ」
「なんでだよ! 大量に存在するだろ!」
ぐわっと目を見開き、間違った妄想に基づいたツッコミを入れてくる春原。
ひょっとしたらこいつは、さわやかって言葉の意味を、可哀想な人とかと間違えているのだろうか。
なんとなくムカついたので、見開いた両目に右手で目潰しを食らわしてやる。
「おら」
「ぐわぁぁぁ! 失明するぅぅぅ!」
両目を押さえゴロゴロと狭い部屋を派手に転げまわる春原。
「人間の眼球って生暖かいんだな。知ってたか春原?」
「冷静にそんな恐ろしい報告をするなぁぁぁ」
豪快にツッコミを兼ねた絶叫が響き渡る。
人がせっかく好意で教えてやったのに、なんて酷い奴だ。
これはこれでやはりムカついたので今度は近くに転がっていた英和辞典を投げつけてやる。
「うるさいぞ」
「ぐはっ!」
英和辞典は見事に転げまわる春原の頭部に命中する。
しかもちょうどいい具合に角から。
短い悲鳴をあげたあと春原は動かなくなった。
本来は彼女である杏の必殺技なのだが、俺も見慣れている間にコツが分かってきたようだ。
ちょっと気分が良くなったので、コツを忘れないうちに第二投目である広辞苑を投げつけてみる。
すでに動かない的となった春原の頭部に再び角から命中する。
うん、いい感じだ。
さらに第三投目といきたかったが、あいにく近くに手頃な辞書がない。
春原が反応しないのもつまらないので、あきらめる。
代わりに近くに転がっていた雑誌を拾い読み始めた。
しばらくの間、たいして興味もない雑誌を読みふけっていた俺だったが、ふと疑問に思う。
「そういえば、なんでそんな噂が流れたんだろうな」
「これだけの事をやっておいて自然に話を戻しますか!」
あ、復活した。
頭部を押さえながら再生した春原のツッコミを無視して俺は尋ねる。
「どうしたんだ? 目が真赤だぞ。泣いてるのか?」
「アンタが目潰ししたんでしょうが!」
そういえば、そうだったかな。
雑誌を読んでいる間に忘れていた……あまりに些細なことだったから。
「噂の原因に心あたりないか?」
「だから自然に話を戻すなよ!」
「うるさいな。なら不自然に話を戻すとしよう」
「へ?」
俺はゆっくり立ち上がると、春原の顔面にヤクザキックをお見舞いしてやる。
”げふっ”と蛙が潰れたような醜い悲鳴を上げ、春原がダウンする。
「岡崎! 何を……」
「で、春原」
怯えた表情で迫り来る俺を見つめる春原を、覆いかぶさるように押し倒し、力一杯にプロレスの肩固
めをきめてやる。
自分で思っていた以上に効果があったらしく、すぐに春原が俺の肩をバンバンと叩きギブアップしよ
うとする。
が、当然のように無視する俺。
いい具合に春原の首が絞まっていくのを感じながら、再度問う。
「噂の原因に心当たりないか?」
「く、苦しい……本当に不自然に話を戻すなぁ……心当たりならありますから」
「よし、聞こう」
ほんの僅かだけ、技の力を緩めてやる。
すると呼吸困難で顔を真赤にしていた春原が、息も絶え絶えに答えてくれた。
「これだけ頻繁に僕の部屋に入り浸っていたら……ぐふっ、変に思われても仕方ないですよね……」
「あぁ」
言われて見ればその通りだった。
元々俺は半同棲といっても過言ではないくらいに、この春原の部屋にいる事が多い。
さすがに杏と付き合うようになってからは減ってはいるが、それでもかなりの時間をここで過ごして
いる。
親父のいる家に帰りたくないという感情は……何ら変化してないからだ。
ここに入り浸っているのは元々だが、杏と付き合うようになってから更に注目を集めるようになって
しまったから、そんなふざけた噂が流れてしまったのかもしれない。
「なるほどな、なかなか鋭いじゃないか」
「そんな事はどうでもいいから、いい加減にそのフィニッシュホールドを解除してくれぇぇぇ!」
思ったよりいい感じに技が入っているので、多少もったいない気もしたが……
春原がそろそろ本気でやばそうだ。
顔色が黄色人種ではありえない色に変化してきているし。
今現在は紫色人種って感じだな。
俺がしぶしぶながら納得して、春原から離れようとしたその瞬間だった。
何の前触れもなく、”バンッ”と大きな音をたて部屋のドアが開かれたのは。
「春原! 何を叫んでんだよ」
そこに現れたのは、この部屋の隣に住むラグビー部の男子。
俺達の騒ぐ声が薄い壁をこえて伝わっていたようだ。
こうやってこの部屋で騒いでいると、この男が飛び込んでくるのは、いつものことである。
そしてブチ切れして、そのまま春原をどこかに連行していくのが、お約束の展開だ。
「いつもいつもうるせぇ…んだ…よ……」
だが今日のラグビー部はちょっと様子がおかしかった。
春原を押し倒した俺の姿を見た直後、ゆっくりと制止したのだ。
「ん?」
再び動き出したのは、俺が不思議に思い、首を傾げた瞬間だった。
ラグビー部は顔を青くして、ゆっくりと俺達から目を逸らす。
そしてとんでもない事をつぶやいた。
「やっぱり、噂は本当だったのか」
「おい!」
とっさにラグビー部の言葉の意味を察した俺は、慌てて春原から離れる。
そして俺は理解した。
春原を押し倒していたこの瞬間に、ラグビー部が登場したのは……最悪のタイミングだった事に。
肩固めでギブアップを取ったこのポーズは、客観的に見れば俺達二人は抱き合っているようにしか見
えない。
この状況では最近流れ始めた、例の噂を信じる奴もいるかもしれない。
俺が誤解を解こうとこの状況を説明しようとした瞬間だった。
ラグビー部を恐れ混乱した春原が、より事態を悪化させる説明を発したのは。
「ぼ、僕は悪くないんですよっ! 岡崎に強引に押し倒されただけなんです!」
「こらっ!」
あわてて春原を黙らせようと顔面に鉄拳を叩き込む。
俺は慌ててフォローの言葉を捜したが、すでに手遅れだったらしく……
「……邪魔したな。どうぞごゆっくり」
ラグビー部は俺と視線も合わせないまま、逃げるようにドアを閉じていなくなってしまった。
俺に打たれた顔面を押さえ悲鳴をあげて転げまわる春原に、トドメの一撃であるエルボードロップを
食らわして、動かなくなった事を確認した後。
すでに閉じたドアを見つめながら、俺は放心状態で股間を押さえて呟くのだった。
「最悪だ。杏にちょん切られる」
「岡崎君のあの噂、本当だったらしいね」
「うん。昨日ラグビー部の人が、二人が抱き合ってるシーンを見たらしいよ」
昨日はただの噂話という口調だったクラスの女子達。
今日は、確信に近いというような口調で話し合っている。
まあ無理もない。
もちろん誤解なのだが、有力な目撃情報があったのも事実だ。
ある程度は昨日の噂が広まる覚悟はしていた。
いや、していたはずだった。
ただ、これ程までとは思っていなかっただけだ。
噂が広がるスピードというものを甘く見ていた。
めずらしく朝のホームルームなどに参加した俺。
昨晩の一件の後、誤解を解こうとラグビー部の部屋を訪ねたが、何故か居留守を使われてしまった。
まあ、変態と思われて、接触を避けられたのだろうな。
だから俺は明らかに誤解をしている目撃者に、まだ何の説明もしていないのである。
正直に言うと、昨日の事が誤解されたまま、杏や椋の耳に入ったりしないか不安だった。
だから今朝は珍しく早起きして様子を探りにきたりもした。
残念ながら今朝もラグビー部を捕まえる事はできなかったが、朝のホームルームのその時には、明ら
かにクラスでその話をしている奴はいなかった。
それは断言できる。
だから俺はラグビー部の誤解を解きにいくのは昼休みにして、午前中は放置しておく事にした。
それで問題ないだろうと安心して、午前中の授業を聞き流していたのだが……
四時間目が終わろうとしている今現在。
「しかし、信じられないよな」
「藤林姉を捨てて、あの春原とはな」
何故か、昨日の一件をクラス全員が知っていた。
マジで恐ろしい。
授業もそっちのけで、ヒソヒソとクラス中が俺の噂話で持ちきりだ。
「岡崎君ってどっちも大丈夫な人だったんだ」
「ハイブリット式だね……すごいね」
すごくねぇ。
何がハイブリット式だよ、定義がわかんねぇよ。
俺は心の中でツッコミながら、必死に打開策を考える。
とりあえず、みんなに事情を説明しようとも考えたが、この状況では墓穴を掘りかねない。
正直、どちらかというと浮いてる存在である俺が、疑われず説明する方法が全く思いつかない。
噂が自然消滅するのを待つというのも考えたが……
いくら何でもホモ疑惑はちょっとな。
放置したまま学校社会という閉じられた空間の中で、人間関係を維持する自信がないです、マジで。
ふと自分のとなりにある春原の机を見てみる。
もうすぐ昼休みだというのに、まだ登校すらしていない。
いっそ、俺もサボってしまおうかと考える。
「岡崎の奴、春原の机を見つめてるぞ」
「きっと、寂しいんだよ……恋人が側にいなくて」
っていうか、いっそ旅に出たい。俺を知る人間が誰もいない遠くへ。
そして新しい自分探しをしたい。
やっぱ日本海側、それも寒いところがいいなあ。
……って、俺は失恋傷心のOLかなんかかよ。
危うく現実逃避しかけていると、ふと椋がこちらを見ている事に気がついた。
めずらしく授業中によそ見をしていた椋は、俺と目が合うと慌てて視線をそらす。
見たのは一瞬だったが、泣きそうな表情をしていた気がする。
いや、正直言うと俺もいろんな意味で泣きそうだが。
それはともかく椋が悲しむのは無理もない。
そりゃ、元カレがホモに走ったら引くよ、ドン引きだよ。
しかも自分を捨てて、今は自分の双子の姉と付き合ってる元カレがだよ?
どんな複雑な人間関係なんだよ、ドラマテックが過ぎますわ。
奥様方が夢中の人間関係ドロドロのお昼のドラマも、裸足で逃げ出すっての。
しかもこれは現実なんだから、夜道で背中から刺されても文句は言えん。
やはり放置してはおけない。
藤林姉妹にだけでも事情を説明して置かなければ。
担当教師が退室して、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
それをうっすらとした意識の中で聞きながら、俺がそう決意した時だった。
”ドカン”という爆発音にも似た大きな音が教室内に響き渡ったのは。
決して古くもなく安普請でもない教室が確かに大きく振動した。
教室中の机の位置がズレ、天井からはパラパラと大量の埃が舞い降りてきた。
「なんだ! 地震か?」
「おい、あれ」
クラスの全員が、その爆音が教室のドアを、叩き壊しかねないようなありえない勢いで開いた事が原
因だと気がついたのは……
「朋也! どういうことよ!」
「杏っ」
般若の形相で飛び込んできた藤林杏を見た瞬間であった。
教室中の空気が確かに凍りついた。
恐ろしい程の殺気を放つ杏にクラス中の視線が集まる。
俺だけはあまりの恐怖に思わず視線を逸らしてしまったが。
「修羅場だ、岡崎の奴……死ぬな」
「うん。あの藤林姉から出ているのは、間違いなく殺意の波動だもんな」
同情するようなクラスメイト達の声を、恐怖で薄れ行く意識の中で聞いていた俺は……本能的に両手
で股間を隠すのであった。
「どういうことか説明してもらうわよ!」
「お、落ち着け」
昼休みの屋上。
杏に無理やり人気のないこの場所に連れて来られた俺は、屋上を囲むフェンスの一角に追い込まれて
いた。
はっきり言って杏は激怒している。
顔は真赤に紅潮し、額には青スジを立て、自分自身の奥歯を噛み砕きそうな程、ギリギリと歯を食い
しばっている。
マジで怖いんですけど。
俺の心臓が並み以下の根性しか持ち合わせていなかったら、生きることを止めていたと思いますデス
、ハイ。
特に怖いのが右手に装備されている分厚い辞書だ。
こんな至近距離であれの直撃を受けたら……頭蓋骨陥没くらいならしそうだ。
そうなったら春原以外の人間ならマジで死ぬだろう。
良く見たら辞書のタイトルは『家庭の医学』と書いてある。
何? 俺に重症を負わせてもすぐに治療は出来ますって流れ?
攻撃と治療の両方が同時にできるのは確かに便利だとは思う。
でもそんなものをぶつけられたら、家庭で使える医学くらいでは治らないと思うのは俺だけだろうか
。
必要なのは運が良くて救急車、悪ければ霊柩車だ。
そんな事を考えていると余計に怖くなってきた。
あまりの恐怖にこのままフェンスをよじ登って、イチかバチか鳥になろうか迷った程だ。
少なくともこの状況をなんとかしなければ、俺は鳥ではなくお星様になるだろう。
「学校中に彼氏のホモ疑惑が飛び交ってるこの状況で、誰が落ち着いてられるのよ!」
「ごもっとも…」
本当にそうだよな。
妹から奪い取った彼氏を男に取られたら、それはもう一つの伝説だわ。
魔王を倒すより語り継がれるかもしんない。
ドラ○エV風に言うなら、そして伝説へ…だよ。
とにかく俺は伝説の一部になどなりたくないので、自分の身の潔白を証明するため杏をなだめるよう
に話しかける。
「落ち着いて聞いてくれ。俺は春原なんかとデキてはいない」
「ホントでしょうね?」
「俺の恋人は杏、おまえだけだ」
俺ができるかぎり優しくそう言ってやると、杏の表情が代わる。
基本的に杏はこういう言葉に弱い。
案の定、怒りの表情が、照れや安堵を含んだものに変わっていく。
まだ少しだけ不安げな表情をしたままだが、とりあえず振りかぶった辞書をゆっくりと下ろす。
「でも、昨日ラグビー部の男子が、朋也と陽平がチチクリ合ってるところを見たって」
「チチ……おいおい」
「しかも、二人とも全裸で」
噂って怖い……
どこまで一人歩きしてしまうのか。
「一説では、フンドシだけ巻いてたって話もあるけど。しかも二人で一本を分け合って」
「どんなプレイだよそれは! 俺達がどんなシュチュエーションを想定したことになってるのか、逆に
聞きたいわ!」
「し、知らないわよ」
噂はどうやら一人歩きどころか、盗んだバイクで走り出してる感じなんですけど。
もうそれはホモの密会じゃなくて、怪しい宗教の儀式かなんかだろ。
想像しただけでもう一回大空に向かって羽ばたきたくなった。
っていうか、明らかに故意に情報が捻じ曲げられてるよなそれは。
俺は急激な眩暈を感じながらも、なんとか意識を保つ。
「違うの?」
「違うわっ! 冷静に考えてみろ……俺達がそんな事してると思うか?」
「冷静に……」
俺の言葉に杏が考え込む。
冷静に考えればそんなことがありえるわけがないと気がつくだろう。
イヤ、ホントマジでホモネタは勘弁してください。
しかし、杏から発せられたのは俺の期待を裏切る言葉だった。
「……悪いんだけど、考えれば考えるほど怪しいわっ」
「おいおい」
「二人っていつも馬鹿ばっかりやってるし、変にスキンシップも多いし」
キャー! 信用されてねぇ!
馬鹿なことはともかく、普段の俺たちのやりとりをスキンシップと言いますか?
自分で言うのもなんだが、あれはただの虐待だぞ。
はっきり言って訴えられたら100%負ける程に。
「やっぱり二人はラブラブなのね!」
「んなわけあるかっ」
「許せないわ……この裏切り者!」
再び手に持つ辞書を大きく振りかぶる杏。
慣れのせいなのか、はたまた生存本能のなせる技か、俺はとっさに横っ飛びをする。
ほんの一秒前まで俺の顔面が存在した場所を、ものすごい勢いで通過していった『家庭の医学』。
それはそのまま屋上のフェンスを突き破り、大空の遥か向こうに消え去る。
「避けたわね……朋也」
「避けるわ!」
もし直撃を受けたら頭蓋骨陥没どころか首から上が消えてなくなったはずだ。
だって弾丸ライナーで消え去ったんだぞ!
穴の開いたフェンスからは焼け焦げたような匂いがするんだぞ!
俺自身が大空に向かって羽ばたこうとしなくてよかった。
仮に飛べたとしても撃墜されたよ、確実に。
っていうか、あのまま『家庭の医学』がどっかの飛行機とか叩き落としてたらどうしよう。
明日の一面は”ついに日本でも大規模テロ発生”とかですか?
「朋也……何か言い残すことはある?」
「頼むから聞けよ! 俺の話を!」
運良く辞書の次弾装填は行われなかったが、完全に我を失った杏がポケットからついに取り出した。
俺が辞書以上に恐れていた恐怖のアイテムを。
そう、ハサミだ。
「ま、待て! 落ち着け」
「覚悟はできた? 出来てなくても関係ないけど」
「ままま、待ってくれ」
「問答無用!」
どうやら聞く耳を持つ気はないらしい。
ゆっくりと迫ってくる杏から逃げようとして後ずさりをした瞬間、背中に触れたフェンスが”カシャ
ン”と音を立てる。
ここは屋上、逃げ場はない。
杏が近づいてくる。
手に持つハサミで空気をサクサクと切るマネをしながら。
こわっ! なんかすげーくだらない事で人生最大のピンチなんですけど!
俺が両手で股間を隠しながら杏を納得させる方法を必死に考えていたその瞬間。
「待って! お姉ちゃん!」
絶妙のタイミングで救いの女神が登場した。
俺を追い詰めている人間凶器の妹だ。
俺と杏が彼女の名前を同時に叫ぶ。
「椋っ!」
俺を守るように、杏の目の前に飛び出してきてくれた椋。
その小さな細い体で両手を大きく広げ、二人の間に立つ。
その姿からは”ここは一歩も通さない”という意思が力強く感じられる。
なんとも予想外の展開だ。
「落ち着いてお姉ちゃん」
「止めないでよ!」
「そんなことしたら駄目だよ」
自分を強引に押しのけようとする姉に対して、意外にも強気の態度に出た椋。
なんと杏の持つハサミを奪い取ったのだ。
そしてフェンスの向こうに放り投げた。
「なにするのよ!」
「お姉ちゃんこそ何をしてるの」
俺は二人に気づかれないように安堵の溜息をつく。
ハサミを屋上から放り投げるという行為は危険で褒められたものではないが、緊急事態ということで
勘弁して欲しい。
もし椋が助けてくれなかったら俺は大切なモノを色々と失っていたかもしれないのだ。
本当に色々と……危なかった!
「助かったよ、椋」
「いいえ。私が止めなければ身内から猟奇殺人者を出すところでしたから……ちょん切っては駄目です
よね」
引っ込み思案の椋にしてはめずらしくしっかりとした口調である。
でも、その表現は怖いって。あんまり想像させないでほしいんですけど。
あと、椋のイメージが崩れるんであんまりギリギリの発言は控えて欲しい。
めずらしく強気の妹に、杏は一瞬戸惑っていたようだが、逆に説得し返すように話を始めた。
「でもあたしには許せない。その男はホモだったのよ」
「それでも駄目……ちょん切っては駄目」
「だって悔しいじゃない! 裏切られたのよあたしも……椋もね!」
「それでもちょん切っては駄目だよ!」
椋の言葉に押されているのだろうか、杏は俺達から目を逸らし、視線を足元の地面に落とす。
基本的に杏は妹の椋には甘い。
普段は控えめなこの妹にここまで強気に出られては、引くしかないだろう。
あと、どうでもいいんですけどあんまり、ちょん切るちょん切ると連発しないでください。
想像するだけでそろそろ泣いちゃいそうなんですけど。
「それくらいやってやらないとあたしの気がすまないわ……」
「冷静に考えて! 朋也くんのをちょん切ってしまったら一番困るのはお姉ちゃんでしょ……もう、な
んか色々と使えないし!」
何言ってんだ! この清純派妹キャラぁぁぁ!
色々って何!?
さっきから微妙におかしいぞおまえ!
「……た、確かに困るわね。椋の言う通りだわ」
姉のほうも真顔で肯定すんなよ!
何? 今の発言の真意は何ですか!?
卑猥な想像をしてしまったのは俺が思春期真っ只中だからですか!
ツッコミたいけど、二人がすごい真顔だからツッコミ入れられねぇぇぇ!
「それに考えてみて。朋也くんは真性のホモじゃないと思うの」
「それはわかるけど」
「どっちも大丈夫な人だったら、まだ社会復帰は可能だと思う」
なんて事を言うんだ元カノ!
社会復帰って、それじゃ俺完全に可哀想な人じゃん……
さすがにスルーできなくなってきたので、とりあえず口を出す。
「おい椋! 俺は完全にノーマル……」
「ですから朋也くんは黙っていてください!」
ようやく頑張って割って入ったら、マジ切れされたんですけど。
本当に椋は俺を助けてくれるのかどうか不安になってきた。
はっきり言って椋の中で、俺がどういう位置づけなのかが気になってしょうがない。
なんで俺がホモって前程で話を進めるんだ?
姉の方が物理的ダメージを狙ってるとしたら、妹の方は精神的ダメージを狙ってるのではないかとさ
え思える。
何? これひょっとして新手のイジメ?
俺の不安をよそに椋は真顔で姉の説得を続ける。
胸の前でコブシをギュッと握り締め、何かを決意したような表情で。
「それに朋也くんの気持ちも考えてあげて」
「どういうこと?」
「人を好きになるって感情はどうしても止められないものなんだよ……お姉ちゃんならそれが誰よりも
わかるでしょ」
「椋……」
「わかってあげて欲しい」
椋の熱い言葉に胸を打たれたらしく硬直する杏。
そして少し涙ぐんだ瞳を隠すように、俺達にくるりと背中を向けてしまう。
杏が反論をできなくなってしまうのも無理はない。
俺と杏が付き合うまでには、椋を交えて色々あったから、今の言葉の意味はとてつもなく重い。
俺や杏が簡単に聞き流せるものではない。
きっと今のは椋が自分を納得させる為にも使ったものなんだろう。
そうやって自分を納得させ、断腸の思いで俺達を認めてくれたんだろう。
いい言葉だ……本当にいい言葉なんだけど……
何? ひょっとして俺がどうしても止められないくらい、春原の事を愛してることになってんの?
やっぱりこれはイジメかもしれない。
「わかって……お姉ちゃん」
相変わらず真顔の椋は背を向けたままの姉に搾り出すような声を上げる。
しばしの沈黙。
若干引き気味の俺でも永遠のように長く感じる、わずか数秒。
その後、杏がゆっくり振り向いた。
その大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな程大粒の涙がたまっている。
「ごめんね……椋」
しかし、涙ぐんだ瞳で精一杯の笑顔を浮かべる杏。
妹の為、必死に笑顔を見せようとしているのが伝わってきた。
いいシーンだ……本当にいいシーンなんだけど……
あえてツッコミを入れたい。
何、その素敵な泣き顔? やっぱり本気で俺をホモだと疑ってるわけ?
だとしたら泣きたいのは俺なんですけど。
「椋にあれだけ悲しい思いをさせてまで朋也を選んだあたしが、簡単に諦めたら駄目だよね」
「お姉ちゃん……」
「朋也はあたしが必ず社会復帰させるから、許して椋」
「頑張って、お姉ちゃんならきっとできるよ」
そう言って二人は力強く抱きしめあう。
感動のシーン…………じゃないと思います。
確信したこれはイジメだ。
っていうかせめてイジメであって下さい。
目の前のシーンを本気で二人がやってるのなら、俺は完全にイタイ人だと思われてる事になると思う
んですけど。
このままでは離脱もしていないのに社会復帰させられる。
とにかくこの場から全力疾走で逃げ出したい。
もしくはこいつら姉妹を困らせるためだけに、屋上から羽ばたいてみようか。
俺が本気でそんなことを考え始めた頃だった。
椋以上に見計らったような絶妙のタイミングで、ある意味救世主が現れたのは。
「あれ? 三人とも何やってるの?」
「春原!」
……………………………………………………え?
この何がなんだか分からない場に現れたのは、金髪のやはり何がなんだか分からない生き物。
その生物は俺が叫んだようにもちろん春原なんだが……奴の突然の呼びかけに誰もまともに返事を返
せなかった。
奴を見た瞬間に俺達三人が凍りついたからだ。
戸惑い、顔を見合す藤林姉妹の横で、俺も一瞬思考が停止しそうになった。
笑顔でこちらにむかって歩いてくる春原とは対象的に俺達は硬直して動けない。
突然のもう一人の主役の登場だ。
言いたいことなら山程ある。
本来ならここでこの混沌とした場をより混乱させるであろう存在。
ホモネタのひとつも披露したり、杏に辞書を投げつけられたりと、ドタバタ騒ぎを更に大きくするで
あろう存在。
そして、オチに向かって一直線……っていうのが通常の流れであり、春原の役割なんだと思う。
こんなおいしいタイミングで現れたからには、そうするのが義務だろうし。
奴の声が聞こえた一瞬、正直に言うと俺は安心さえしていた。
ああ、これでようやく状況が変化すると。
しかし、現在の春原の持つ最大のツッコミドコロのせいで、俺達三人は何も言葉を発せなかった。
正直俺はこの悪友の存在を甘くみていたかもしれない。
あれだけ大騒ぎになっていたこの場を停滞させる、衝撃的な登場をやってのけたのだ。
信じられない事に、これまでの流れやお約束等の全てを帳消しにされる登場を。
「春原……か、顔が」
「何? なんかついてる?」
おそろしく気軽に尋ねてくる春原に対して、俺達三人は同時に”コクコク”と猛スピードで何度も頷
いた。
奴が……顔面を血まみれにしていたから。
それも肌の色が分からないほど大量に出血していた。
原因は明らかだった。
だから余計に三人とも何も言えなくなった。
頭に突き刺さってるのだ……ハサミが。
そう、椋が先程この屋上から放り投げたハサミがそれはもう深々と。
「どうしたのみんな? お化けでも見たような顔で」
明らかに致死量としか思えない出血で不思議そうに首を傾げる春原。
はっきり言おう。
もはやホラー映画だ。
ハサミは刃の部分が見えないほど、根元まで突き刺さっているし、血も噴水みたいに景気良く流れ続
けている”ぴゅー”って。
それを見てハサミを投げ捨てた張本人である椋が、腰を抜かしたのか膝から崩れ落ちそうになった。
それをなんとか支えようとした杏だったが、本人の腰もとっくに抜けていたらしく、二人同時にペタ
ンと地面に座り込んだ。
無理もない、俺も立っているのがやっとの状態だ。
「どうしたの? 三人とも大丈夫?」
「お、おまえが大丈夫か?」
あまりにスプラッタな春原の風貌に冷静さを失いかけながらも、俺は必死に声を絞り出す。
明らかに平気なわけはなかったのだが、聞かずにはいられなかった。
もしかしたら、あの刺さったハサミは春原のネタで、ツッコミ待ちかもしれない……そんな淡い期待
もあった。
どうやら違ったようだが。
っていうかなんで普通に動いてるんだろうこの生き物は。
俺の疑問もよそに再び首を傾げる春原。
「大丈夫って何が?」
「い、いや頭……」
「何だよ、失礼な奴だな岡崎は……その言い方じゃ僕の頭が変みたいじゃないか」
「いや、今日のおまえはもう、その他色々な意味でも頭がおかしいよ……」
俺が自分の頭を撫でる仕草をして見せると、春原も同じように自分の頭に手を伸ばす。
「寝癖?」
「違う!」
自分で手を触れてようやく気がついたようだった。
「うぉ! なんか僕の頭に突き刺さってるよ」
「そうだな……ハサミが」
「マジかよ最悪! どうりでさっきから頭のテッペンが気になると思ってたんだよ」
「え、何? それだけ?」
平然と言い放つ春原。
今日ほどこいつを大物と思ったことはない。
だって明らかに脳まで達してるぞ、あれは。
これからは奴をまとも人間とは思わないことにする。
いままでも一度も思ったことはないけど。
「よかった……もしかしてテッペンから禿げてきたかと心配してたんだけど」
「心配するところそこかよ!」
「そうだね。後で一応保健室に行ってくるよ、やっぱり頭にハサミが突き刺さってたらよくないよね」
「はい……よくないですね」
そのまま平然と会話を続けようとする春原に思わず敬語になってしまう俺。
とりあえず一生懸命考える。
……一体俺はこの展開をどうしたらいいんだ。
もはや何もかも投げ出したい感じではあるが……
俺のすぐ側で震えてる藤林姉妹に、事態の収拾を期待するのは酷というものだろう。
本来気の弱い椋は今にも気を失いそうな程に顔面蒼白だし、普段は強気の杏でさえ唇をワナワナと震
わせている。
やはり俺がきっちり最後までツッコミを入れてこの場を収集するしかない。
春原は実にパーフェクトなギャグキャラなんだ。
このギャラリーがドン引きの、あまりにもありえない展開もきっちりとツッコミきってやれば笑い話
になるはずだ。
それが春原陽平って奴だ。
ちょっと屋上が血の海になってきてるくらいなんだ。吐きそうなほど濃厚な血の匂いがなんだ。
これは春原流の新しいギャグだ……ちゃんとツッコミ入れてやらないと!
もうお願いしますから、そういうことにしといてください。
勇気出せ俺! 負けるな俺! ホントマジで頑張ってください俺!
俺は相変わらず平然としている春原に向かって思いっきり走り出す。
「お、岡崎?」
「春原ぁぁぁ!」
突然向かってくる俺を見て、慌てふためく春原。
そんな春原の胸倉を”ガシッ”と掴む。
人生でこれ程までにツッコミを入れるのに勇気を振り絞ったことはない。
春原、おまえはやっぱりすごいよ。
今日ほどおまえという人間のでっかさを感じたことはなかったよ。
でも……でも……
「いくら何でもそりゃねーだろ!」
「な!」
俺は持てるすべての力を注ぎ込んだ背負い投げで、春原を屋上のフェンスの向こうに投げ飛ばした。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
何度かそれを想像していた俺に代わり、見事屋上から羽ばたいていった春原。
わずかな間、下へ下へと遠ざかっていく奴の悲鳴が聞こえていたが、何か鈍い音がしたあと後、それ
も聞こえなくなった。
直後、春原が落下していったグラウンドの方からいくつもの絶叫が聞こえた。
「……」
俺はグラウンドからの鳴り止まない悲鳴を聞き流しながら、しばらくの間を肩で息をしながら無言で
立ち尽くす。
突然の暴挙に走った俺を見ていた藤林姉妹は、同じ顔で同じようにポカンと口を開けたまま俺を見つ
めている。
二人のリアクションはおかしくもなんともない。
俺が取った行動は確かにありえないものだ。
っていうか普通なら殺人事件だよな。
確かに普通の人間なら屋上から落とされたら死ぬだろう。
だが俺は信じていた。
この世に深く浸透している、ギャグキャラクターは絶対に死なないという鉄則を。
そして悪友は俺が知る限りでは地球上で最強のパーフェクトギャグキャラクターである。
数秒後。
「こら岡崎ぃぃぃ!」
……見事悪友は俺の期待に応えてくれた。
「鬼ですかあんたは! 危うく死んでしまうところでしたよね僕!」
やはり春原は無事だったのだ。
グラウンドから聞こえてくる春原の声を聞きながら、俺は内心安堵の溜息をつく。
そして、ゆっくりと藤林姉妹の方を振り向いて尋ねるのだった。
「本気でいると思うか……あの春原という生き物に惚れる奴が?」
同じ顔の双子の姉妹は、同じような引きつった苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと首を横に振り……
同じ台詞を呟くのだった。
「すみませんでした……」
とりあえず彼女とその妹には俺の無実を信じてもらえたようだ。
こうして俺のホモ疑惑というありえない濡れ衣で始まった一件は、ありえない展開、ありえないオチ
と繋がって終わりを、迎えるのだった。
よく考えたら学校中に流れた噂の方はまったく解決してないけど、もうどうでもいい。
ちょん切らないですんだし……っていうか、何もかもがありえねーし。
あいかわらずグランドから聞こえてくる、春原の抗議の叫び声を聞きながら俺は意味もなく空を見上
げる。
雲ひとつない晴れ渡った空の青さがやけに目に染みる。
そしてこの果てしなく広い大空に向かって叫んでみることにした。
他の誰にツッコミを入れたらいいのか分からなかったし。
「めでたしめでたし……って、いくら何でもこりゃねーだろ!」