死を奉る神殿が聳え立つ樹海。
人気は普段から常に無く、棲みつくのは魔を帯びた獣のみだ。
誰も近寄ろうとしない理由はただ一つ、この樹海の特徴とも言える神殿にある。
死を奉る神殿。この世界における、人々が恐れる「死」の象徴に好き好んで近付く輩など滅多にいない。
この樹海に人がいるとすれば、それは間違いなく死の神殿に用がある人間だろう。
今、この樹海に姿を見せているのは二人の神殿の人間だけである。
死の巫女、ステラと死神の騎士、ディーター。
神殿で死を司る巫女とそれを守る騎士だ。
今はもう無きに等しい世界の理を守り続ける、世界の抱える闇である――――。
死の神殿
もう何度目かも分からない朝を迎え、ステラは目を覚ました。
神殿の一室に備え付けられたベッドに横たわったまま、ステラは天井を見上げ続けている。
太陽光を神殿に取り入れる窓からは朝を告げる眩しい光がステラを照らす。
毎日、毎日、何の変化もない日常。
もう自分の年齢さえ分からないほど、見飽きた光景だ。
20歳までは数えていたのだが、もう数える気さえ起こらない。
ただ、数えていたのはそう遠い話ではないと思うのだが、自信はない。
つい1年ほどしか経っていない気もすれば、もう10年も経ったような気もする。
もはや興味のないことなので、今はステラ自身思い出す気はない。
今のステラにとっては、次の死の巫女が選ばれてくるまでここを見届けることが全てである。
娯楽と言えば自分を守ってくれる騎士との話ぐらいで、それもいつまで続くか分からない。
「……ん。そろそろ起きようかな……?」
軽くあくびをした後、背筋をぐっと伸ばしてから起き上がる。
ふらっと身体を揺らしたが、低血圧なのか普段のことなので問題はない。
ベッドから起き上がると、いつもの服に着替えを済まして、長い黒髪をヒモで縛ってから廊下へ出る。
着替える最中、鏡に自分の体型が映り溜息を吐くのもつまらない日常の範囲である。
神殿の構造は至ってシンプルにできている。
帝国のお城などは襲撃や奇襲に備えて複雑な構造になっていると聞くが、神殿は襲撃を想定してできていない。
神殿が建てられた当時、世界は一つの理を中心に回っていて、その理そのものである神殿を襲うなどと考えられなかった。
大陸、いや、世界そのものが一つの国として纏まっていた時代には戦争も起こらず、小競り合いがせいぜいでだったのだ。
王国、帝国、宗教国――――世界がばらばらに散ったのは、とある事件がきっかけである。
狂人、ヴラド。
死の神殿と対になる生の神殿、決して軽々しく触れてはならないその領域を荒らしまわった愚か者だ。
遥かなる昔、狂人ヴラドの時代までは生の神殿・死の神殿の二つが存在しており、かつ、機能していた。
今では誰もが笑い飛ばすだろうことは容易に想像につく大きな理が、この時代では正常に機能していたのだ。
いや、或いは異常だったのかもしれない。
生の神殿では生まれ行く者を選択し、死の神殿では死にゆく者の魂を制御していたのだから。
自分達に都合の良い者を生み出し、死に行く先を選択して死後の世界をも都合の良い者に変えていく……。
それが永遠に続くのだと、この時は誰もが疑わなかった。
思考停止していたのかもしれない。
平和が続き、何の異常もない世界を疑うことを必要としなかったからもあっただろう。
だから、ヴラドのような狂人が選出されてしまった。
ウラドの罪とされるのは生の神殿の巫女を抹殺するよう、自分の配下に命令して生の神殿の機能を壊しただけではない。
今の世界を疑うよう、人為的に思考の操作された人間を数々と生み出し、世界を乱したのだ。
思考のずれた人間達はやがて世界を砕き、国という破片を作りだした。
国という破片からは戦争という異物が生み出され、世界はこれ以上とないほどに乱されていく……。
それが、ヴラドの最大の罪……。
今や生の神殿は存在せず、死の神殿は人々の畏怖の対象として、残されている。
機能こそ残ってはいるが、それすらも畏怖されるべきものとして利用されているのみだ。
廊下から中央へ、一回り大きな廊下へと出た。
ここから右に行くと出入り口へ、左に行くと神殿の中央部へと出る。
出入り口をステラは数回しか使ったことはなく、もはや神殿の外がどんな光景だったか覚えていない。
一度抜け出そうと悪戯心を出したこともあるのだが、あっさりとディーターに見つかったことが記憶に新しい。
「おはよう、ディーター」
「……ん。起きたのか」
赤髪の後頭部が静かに揺れた後、返事が返ってくる。
腰には帝国で登用されている大剣を身に着け、赤い鎧を着込んでいる。
印象は赤。
遠めに見たら赤一色だろう、その剣士こそが死神の騎士、ディーターである。
畏怖されし死の巫女を死神と揶揄され、その死神を守る騎士を人々は死神の騎士だと呼んでいた。
死の巫女を死神と呼ぶのは死を司っている、というイメージだけが先行しているのだろう。
今では死の神殿の機能は使われておらず、ただ死に行く魂を見届けるのみに留まっている。
だが、先行されたイメージは変わらない。
むしろ死の象徴として畏怖されることそのものが、死の巫女の現在の役目に近い。
「よく眠れたか?」
「うん。とっても。ところでディーターはいつ眠っているの?」
いつも投げかける疑問。
この神殿に一人しかいない騎士はいつ眠るのか。
「深夜は眠ってるぞ。気配があれば起きるから、ステラにはいつも起きてるように見えるんだろうな」
「……むぅ。ずるい。私ばっかり寝顔見られているわ」
「そりゃあ、起こしてと頼むからだろう。どうせすることがないから寝ていればいいんだ」
「それはどうだけど……」
ステラは言葉に詰まる。理由なんて、本人に言えるはずもない。
私の寝顔見てドキドキするかな〜、なんてバカな発想が始まりだった。
普段と変わらぬ表情、しかもちょっと冷めた表情で起こすディーターを見て気分が萎えたぐらいだった。
ちょっとぐらい、どぎまぎしてくれてもいいのに、なんて考えると悔しくなって――――
「起こしても、すぐにまた寝たこともあったよな。結局、何で起こしてなんて頼んでるんだ?」
「か、関係ないでしょ」
――――次はちょっと服装を乱して実験してみたほどだ。
具体的には胸元を少し開放してみたり、またある時はあえてふとももまで露出させてみたり。
結果は全て失敗。
(うわ……)
思い返せば自分のことながら恥ずかしい真似を……。
ステラは心の中で頭を抱えつつ、表情にでないように工夫しながらディーターの顔をちらっと見る。
いつも通り、笑顔に見えるような無表情に見えるような微妙な表情だった。
だが、こう話している今でも、周りに気を配っているに違いない。
ステラは護衛の邪魔かな……と遠慮しつつ、だけど、ディーターに構うのは止めなかった。
他にすることがない。
第一、死の神殿に近付こう人間などいるはずもないと、ステラは思っていた。
この二十年間、ステラを殺そうとしにきた人間をステラは知らない。
実際は何人かいたのだが、人知れずディーターが追い返している。
「ねぇ、ディーター。私、いつまでこうしているのかな……」
「さぁな。ま、お前がここを去るまで俺が一緒にいてやるさ。それでは不満か?」
「当たり前でしょ。……もしかして、口説いてる?」
「鏡を見てから言え」
物心ついたころからステラはここにいる。
その頃にいた騎士はディーターではない。
数年に一度だけ騎士は交代しているが、ディーターがここに来たのはたしか3人目の騎士だった。
ステラが16歳の誕生日の時に来たのをよく覚えている。
「――――ステラ」
ディーターが唐突に、名を呼ぶ。
ステラは一瞬だけキョトンとしたものの、その真剣な眼つきに思わず息を呑んだ。
ただごとではない、と理解したのだろうか。
その迫力に少し圧されて、ステラは後退する。
「……何かが来る。部屋に戻っていろ」
腰に差した大剣を手にかけ、出入り口を鋭く見つめる。
ステラは黙ってこくこくと頷くと、物陰に隠れて様子を見る。
本当は部屋に戻っているべきだったのだろうが、あの部屋にいたのでは逃げ場がない。
ステラは独断ではあるものの、咄嗟に部屋へ戻るべきではないと判断した。
「来たか」
剣を抜き、構える。
侵入者は銀髪の男だった。
特に武器を持っている様子がないことから、魔術師の類だろう。
だが、迂闊に近付くのは危険である。
もし暗殺者である場合、武器を隠し持っている可能性もある。
考えにくいことではあるが、トラップを張っている可能性もあるだろう。
ディーターは警戒しながら、侵入者と対面した。
「ディーター、死の巫女はまだ生きているのか」
侵入者は静かに告げる。
ディーターは、驚きの表情を作ったが、すぐに表情を消す。
侵入者は鎧を着けておらず、マントを羽織っている。
一撃、それだけで相手を殺せる確率は高い。
ゆっくり狙いを定めながら、ディーターは口を開いた。
「……貴様。何故、俺の名を知っている?」
「なんだ? まだ殺してなかったのか。甘い奴だな……」
「!」
ディーターは剣を振るう。
目測で5m足らず――――その距離を一気に詰め、大剣を振るった。
必殺の間合い、避けられるだろう速さを持って振るったその剣を侵入者はあっさりと宙へと飛んで避ける。
着地をする前に侵入者の右手に炎を浮かべ、火炎弾を投げつけてくる。
――――魔術師か!
ディーターは一歩後退して、再び侵入者に狙いを定める。
避けられたのは意外だったが、接近戦ではこちらに分がある。
剣士と魔術師ならば、接近戦で魔術師が剣士に敵うことはない。
相手が着地した瞬間、その一瞬に切り裂く。
ディーターはそう狙いを定め、大剣をぐっと握り――――
「!?」
――――更に後退した。
追撃の炎がディーターを狙うように天井から舞い落ちる。
蒼白く輝く火炎の魔術を見て、ゾッとした。
もし、あのまま大剣を振るう為に一歩、踏み出したら。
あれはディーター自身を焼き尽くしただろう。
侵入者は魔術に長けた人間――――そして、恐らく王国の手の者だろう。
ディーターは王国から派遣された騎士だ。
最も死の巫女と関わる任務を引き受けるほど酔狂な騎士であり、それなりに名は知られていただろう……だが。
いかに名が知られていようと、ディーターを一目見て分かる人物は実際に会ったことのある人間か――――
「誰に、何を命令された!? ……答えろ!」
「おいおい、とぼけるなよ」
――――誰かに命令され、資料であらかじめ知らされている人間。
だが、侵入者とディーターの間に話が成り立たない。
ディーターにとっては侵入者が、侵入者にとってはディーターの言っていることが出鱈目だからだ。
侵入者はゆっくりと地面に着地する。
重力制御の魔術だろうか。
詠唱無しで魔術を行使できる魔術師となると相当厄介である。
ディーターは相手の力量を測る為の一撃を、振るう。
距離は一瞬の詰められる程度、さしたる問題はない。
だが、大剣は同じ剣によって、止められた。
侵入者のマントの下から急に現れた剣は宙に浮き、ディーターの大剣を何事もなかったかのように遮っている。
「魔剣か……!」
現れた剣は大剣を上に弾くと、身体を下に沈ませディーターの足に向かって一閃する。
まるで達人の動きを真似たかのような動き、だが。
ディーターとて、ただの剣士ではない。
神殿を守る者として、それに見合う実力も併せ持つ立派な騎士である。
上に弾かれた大剣を振り下ろす。
狙うは魔剣――――ディーター自身にその刃が襲い掛かる前に一気に叩き落す!
大剣によって叩き落された魔剣が地面へと衝突し、その反動で再び浮遊してくる。
まだ魔剣の動きに止まる様子もなく、今度は切り裂く動きではなく、突きの弾道でディーターの腹部へと突っ走る。
ディーターは真横へと大地を蹴り、突きを避けるとその無防備な魔剣の柄へと手を伸ばした。
だが、火炎の魔術がそれを遮り、ディーターは慌てて手を引っ込めた。
その間に魔剣は方向転換し、再びディーターと対峙する。
冷や汗が流れた。
ディーターの背後には魔術師が、手前には魔剣がこちらの隙を窺っている。
まさに前門の虎、後門の狼と言った状況に流石のディーターも焦らずにはいられない。
「…………」
どちらかに集中すると、残った方に攻撃される。
それを防ぐには常に両方に気を配るしかないだろう。
どちらか、だけならディーターでも対応できる。
だが、両方となると……苦戦は必至である。
場が、停滞する。
先に動くのはどちらか。
硬直していた場を動かしたのは魔術師だ。
焼尽の風がディーターに吹き付ける。
風が空間を切り裂くように、一つの刃となってディーターを襲う。
それと同時に、魔剣も動いた。
「ちぃっ!」
右に避けようとしたディーターの逃げ場を潰すように、魔剣はディーターに右から振るわれる。
それをしゃがんで避けるが、しかし焼尽の風は間に合わずディーターの頬を掠めた。
頬に赤い線が入る。
傷口から血が滴り、風の魔術が持つ熱によって火傷を負う。
風の第二波がディーターへと襲い掛かる。
それと同時に、再び魔剣が動いた。
ディーターは風を壁際まで飛んで避けると、突きの動きで襲ってくる魔剣を左に避ける。
魔剣は勢いを消しきれず壁に突き刺さり、ディーターは魔剣を壁に捻じ込むように蹴った。
完全に沈黙した魔剣を横目に、そのまま魔術師へと対峙する、はずだった。
「な……! 逃げるのか!」
「今日はここまでだ。だが、次までには終わらせておけよ」
「何の話だ!」
一瞬、侵入者を追うかどうか悩んだが、止めた。
侵入者が一人だけとは限らないし、何よりステラの安全を確認するのが先だ。
ディーターは振り返り、廊下の先へと歩き出す。
そこの角にステラは隠れている、はずだ。
だが、廊下の角へと近付くにつれて違和感は少しずつ大きくなる。
ステラには部屋に戻れ、と命令したが、部屋には戻らず、この先に隠れたのを確認している。
だが、気配が感じない。
「……ステラ?」
ディーターが覗き込む。
だが、やはり誰もいなかった。
「部屋に戻ったか……?」
そのまま、ステラの部屋へと歩き出す。
嫌な予感がする。
例えば――――ステラが部屋にいないとか。
ディーターは早足でステラの部屋へと向かう。
段々、速度が早くなり、ステラの部屋の前へ到着したころには駆け足に近かった。
「ステラ、いるのか?」
……返事は、ない。
扉は閉まっている。
いくら天窓があるとはいえ、そこから出入りするのは不可能だろう。
中は密室。中から鍵を閉めたなら、まだ中に人はいるはずである。
扉を叩き、もう一度呼びかける。
今までこの扉の鍵が閉まっていたことは、記憶を探る限りは一度もない。
「ステラ?」
もう一度、呼びかける。
場合によっては扉を壊してでも入らなければならないかと思案する。
だが、その前に。
「……何?」
ステラの声が誰何した。
ディーターは安心して溜息を吐く。
どうやら無事のようだ。
「ごめん、ちょっと緊張しちゃって……もうちょっと寝てていい?」
やや普段とは違う―不安というか不信というか形容しがたいのだが―ステラの声が響く。
ディーターはしばらく悩んだ後。
「ああ、寝てろ。どうせすることもないんだしな」
とだけ告げて、その場を去った。
侵入者のこともあって、考えることはいくらでもある。
しばらくそっとしておいても大丈夫だろうと判断して、その場を去った。
ディーターとしても、侵入者の目的など考えることは沢山ある。
その日、結局ステラが部屋から出てくることはなかった。
ステラは一人、ベッドで横になりながら天井を見つめていた。
天窓からは月明かりが差し込んできて、そこから覗くのは満天の星空だ。
『ディーター、死の巫女はまだ生きているのか』
侵入者のその言葉を、ステラには投げ捨てるように声に聞こえた。
さっさと死ね、と言われたような気がして、ステラには恐ろしく響いている。
何故、侵入者はディーターの名を知っていたの……?
ステラには分からない。
ディーターも同じ疑問を抱いたようだが、それが演技にも見える。
『なんだ? まだ殺してなかったのか』
あの時、一瞬だけ侵入者と目があった。
それを受けて、侵入者はそう言ったのだ。
あれが演技には見えない。
少なくても、あっさりと演技で言えることではない気がする……。
殺す? 誰が……?
ステラには、分からない。
今までステラを殺せる機会があった……いや、あるのは――――ステラには一人しか思い浮かばない。
ディーター。
王国から派遣された騎士で、最も信用できる頼りにできる人。
……信用して、いいんだよね。
ステラは枕に顔を沈めながら、返事のない問いを口にした。
返事を期待している訳ではない。
そもそも相手がいないのだから返事が返ってくるはずがないのだから。
「じゃあ……でたらめ?」
分からない。
何度考えても同じ考えが浮かんでは消え、そして浮かんでまた消えた。
ステラは結論が出ないまま、眠りこんだ……。
眠ってから何時間経ったのか、あるいは数十分しか経っていないのか。
ステラには判断がつかなかったが、一度だけ目を覚ました。
月明かりが差し込み、ステラを照らしている。
まだ、朝日も姿を見せていない時間帯だ。
雲ひとつない夜空で、星の数を数えることもできなくはない。
ステラは昔、見える範囲で全部数えようとしたこともあったが、挫折している。
(誰か、いる……?)
静かな空間、なのに誰かが近くにいるような気がしてステラは硬直する。
寝返りをうつ振りをして、扉へと視線を向けた。
扉が、開いていた。
そこから赤い鎧がすぅっと消えていくのが視界に入る。
(……ディーター?)
見間違えるはずは、ない。
あの赤い鎧は見慣れたものだ。
扉が開いていたということはここにいた、ということだろうか。
何のために、ディーターがここへ……。
(嘘……だよね)
今更、寝顔が見られたとかそういうことで恥ずかしがるつもりはない。
夜這い、という線もディーターに限って……ないとは言わないが可能性は薄い。
だったら……。
私を、殺しにきた?
しかし、私は生きている。
隙だらけで寝ている私を殺すのは容易に行えたはずなのに、だ。
だったら……殺しにきたのではないのならば。
どうして、ディーターはここに来たのか。
太陽の光が寝顔に差して、ステラは目を覚ました。
眠れなかった……。
ステラはベッドから起き上がると、鏡を覗き込み表情を確認する。
いつも通りの表情を、なんとか作れているらしい。
目の下にクマはできていない。
「うん、大丈夫」
意識的に声を出して、ステラは自分を元気付ける。
結局、昨日は色々とあって着替えをしていない。
……水浴びもしてないなあ。
時間は分からないが、どうせすることもない。
ステラはよし、と思考に一段落つけると、着替えを持って大浴場へと向かった。
かつては、巫女やその世話係など大人数が使ったらしいその浴場は20人程度なら容易に収容できるほど大きい。
今は死の巫女とその護衛の騎士しか使っていない。
性別の違いから当然、別々に入っているのでその広さを一人で使っていることになる。
よく考えたら寂しい光景だと、ステラは思ったがディーターに、一緒に入ろうなどと言えるほど恥知らずではない。
扉を開けて部屋を出て、中央廊下を挟んだ向こう側。
その廊下の先に大浴場がある。
手前には鏡のついた大きな扉と、壁全体に展開された大鏡の部屋。
この着替えに使う部屋の先に、大浴場が存在する
「……しかし、悪趣味と言うか……むー」
ステラはこの鏡に囲まれた部屋があまり好きではない。
何が悲しくて自分の裸体なんて強調されねばならんのだ、と常々思う。
もともと浴場は儀式に使う為の部屋も兼ねているのだとステラは聞いているが、今は儀式自体が行われていない。
そういえば、この着替えの部屋も、儀式用に合わせて作ったのだと聞いている。
(合わせ鏡……っていうんだっけ?)
最も使っていないのだから、かつてはどう使われていたのか知る由もないのだが……。
ステラは着替えを籠へと突っ込むと、容易していたタオルを巻きながら、浴場へ――――
「?」
「!?」
ばったり。
ごつん、と何かにぶつかりステラは尻餅をついた。
生暖かいような感触。
壁にしては柔らかく、かと言って柔らかすぎず。
……前を、見る。
そこにはディーターが、少し顔を赤くして立っていた。
一糸まとわず。
「きゃー!」
ある種、お約束的な悲鳴が木霊する。
自分でも可愛げがないと後日、思い返して思うが今のステラにそこまで気を配る余裕はない。
ディーターは何も反応せず立っているが、もしかしたらディーターはディーターなりに動揺しているのかもしれない。
一方、ステラもほとんど同じような反応をしている。
尻餅をついたまま微動だにしないが、その表情は動揺一色に染まっていた。
(あ、あ、あ、あ……)
ステラは尻餅をついていて、当然視界は下から上を見上げているわけで――――。
そして目の前にはディーターが何もまとわずに棒立ちしているわけで――――。
ステラの視界には、当然アレが見えちゃっているわけで――――。
「さ、さっさと隠してよっ」
ステラは目を横に背けながら、懇願の声を上げる。
視界の先にある鏡にディーターが移り、慌てて目を後ろへと背けるが、今度は鏡にディーターが正面から移り顔を真っ赤にする。
そして首をぐるぐると回して、あっちこっちと目を背けるが……当然、鏡張りのこの部屋で目のやり場なんてあるはずもなく。
最終的にステラは自分の目を両手で覆うことで、落ち着いた。
「ふっ」
そんなステラの様子を見て、ディーターは鼻で笑う。
最初からそうすればいいのに、とは思うのだがあえて何も言わない。
今笑ったでしょ、という声を無視して、ディーターは自分の置いた着替えの元へと歩き出した。
「今日は起きるのが早かったんだな」
「……うん、ちょっとね。ディーターはいつも水浴びはこの時間に?」
「ああ。言っておくが俺のせいじゃないぞ、今日は。自業自得だ」
ディーターはゆっくりと着替えながら、口を開く。
鏡には相変わらず両手で目を覆っているステラが移っていた。
「う、うっさい……まさかこんな早朝から入ってるだなんて思わなかったのよ」
「だろうな」
ディーターは着替えを済まし、入り口へと向かう。
ステラの為にも、さっさとここを離れたほうがいいだろう。
そんなディーターとは裏腹に、ステラは一つ、聞きたいことがあって呼び止めようか悩んでいた。
ディーターが扉を潜っていく音が耳に入り、ステラは思い切って口を開く。
「……ディーター、き、昨日の夜、夜這いしなかった?」
あくまでも冗談っぽく、だけど、今一番聞きたい答え。
昨日、ディーターは本当に部屋へ来たのか。
来たのなら、なんのために。
「ふっ。そんなわけないだろ? されたいのか?」
「なんでそうなるのよ」
「なら、問題ないだろ。そもそも昨日はずっと出入り口を見張ってたぞ」
うまく誤魔化された気がして、ステラは落ち込む。
たしかに赤い鎧が見えたのだけど、とステラは思う。
あれは間違いなく、ディーターだった。
では、何故。
何故、ディーターは嘘をついたのか。
……信用して、いいんだよね?
声にならない声を上げる。
当然ながら、答えは返ってこない。
「そうそう、ステラ。お前、やっぱり胸ないのな」
「ばかっ!」
タオルが外れているのに気付き、慌ててタオルに手をかけて叫んだ。
水を浴びながら、ステラは考えにふけっていた。
肌をするーと滑り滴る水もいつも通り、自分を憂鬱にさせる。
「ひっかかる所もないからなぁ……」
もう少し大きいとやっぱり違うのだろうか、とステラは考え、その思考を断つ。
そんなこと考えている場合ではない。
何故、ディーターが嘘をついたのか。
部屋に来ていない……はずはない。
朝、起きていたら扉は閉まっていた。
昨日、目が覚めた時は開いていたから少なくても誰かが閉めたはずだ。
そうでなくても、昨日、たしかに赤い鎧を扉の向こうには見た。
二度、ディーターは私の部屋へ近付いているはず。
(……殺しに、来たとか)
どうしても、そういう思考が混じってしまう。
昨日、侵入者の会話を聞いて以来、自分はおかしくなっている。
ディーターを信用できなくなった……。
王国から派遣された騎士は、ディーター以前は事務的にこなしている者ばかりだった。
死の巫女、というせいもあるだろう。
騎士としても、死の巫女というのは不気味な存在に移っているのだ。
だから王国の騎士に殺されていたとしても別に不思議ではない。
ただディーターが今までの騎士とは違い、比較的友好的だったから信じたいだけで……だけで。
(ディーターは、そうではなかったのかな)
友好的、と思っていたのは自分一人か。
自分でも変な話だと思うのだが、昨日の侵入者の発言が耳に残っていて、ディーターを疑う自分がいる。
清めの水を止めてから、思考を断ち切る意味も込めてステラは浴場から上がる。
このまま浴場にいるとディーターをもっと疑ってしまうかもしれない……。
意図的に思考停止させて、ステラは着替えた。
ステラがディーターを疑っているからか、朝食の場はいつもに増して静かだった。
ディーターもステラも、もくもくと朝食にありついている。
心なしかステラの顔が赤い気もするが、それは疑っていることとは別件だろう。
「……そういえば、遅いな……」
ディーターが呟く。
一瞬、ビクッとステラが反応して、何が? とだけ呟いた。
「何がって……食料だ。王国から定期的に食料が届けられるはずだろ? そろそろ次の分が来てもおかしくないんだが……」
そこまでディーターが言った時、背後から声が響いた。
ステラの声でもディーターの声でもなく、第三者の声だ。
そして、つい最近聞いた声でもある。
「――――おいおい、止めたのは自分だろうが」
「!?」
後ろから響く声に、ステラは思わず席から立ち上がる。
ディーターは服が汚れることを承知の上で、テーブルの向こうからステラを抱き寄せた。
「あ……」
驚きのあまり、声が漏れる。
ステラはテーブルを超えて、ディーターの元へと抱き寄せされる。
スカートの裾がパンのバターにべったりとつき、テーブルの上の食料はステラに一掃され床へと落下した。
「くそ、重いぞ!」
「余計なお世話よ!」
ステラは足が床に着くと咄嗟に距離を離した。
先ほどの声の本人はもう誰か分かっている。
二人の目線の先に、昨日の魔術師が立っている。
ディーターは机を隅へと蹴り、広い空間を確保すると口を開いた。
「何の話だ?」
「……何のって決まってるだろう? お前が、王国からの食料を止めているという話だ」
「ふざけるな、何故そんなことをする必要がある!」
ディーターは憤怒の表情を見せながら、怒鳴る。
昨日からステラが自分を疑っていることに気付いている。
夜、ステラが無傷なことを確認する為にこっそり部屋へ入ったのだが、どうやらステラは気付いたらしい。
だが、あえてディーターは普段通りを装った。
下手に弁解するよりは、そのほうがいいと思ったのだ。
「死の巫女を殺す為だろう。お前に与えられた任務はそれだ。いつまでも死の巫女を殺さないから、俺が派遣されただけのこと」
「でたらめを……!」
ディーターは剣を抜く。
今すぐにでも斬りかかれる体勢で、ディーターは再び論戦に向かう。
「そうやって人を騙して、隙を作る気か。そもそも王国が死の巫女を殺す動機がない」
「動機ならあるだろう? 宗教国カタンが王国モノポリーに対して戦争を仕掛けたことは知っているはずだ」
「……戦争?」
ステラは疑問を口にする。
ずっと、物心ついた時から神殿にいるステラは世界の情勢など知る由もない。
魔術師は語る。
王国モノポリーに対し、宗教国カタンはとある考えの違いから戦争に発展したという。
モノポリーの王は、生の神殿を再建しようと宣言し、それに反発したカタンが宣戦布告したらしい。
本来ならモノポリーの圧勝で終わるはずだった戦争は、帝国ライフゲームの介入によって長期戦へと持ち込まれる。
ライフゲームとカタンは同盟を結び、同時にモノポリーを攻め込んだ。
神殿の守りが手薄なのは戦争中で、騎士を寄越す余裕がないのだと魔術師は言う。
「生の神殿を建てる……?」
「ああ、一昔前なら反発もなかっただろうがな。あのヴラドの凶行以来、少なからず生の神殿に反発する人間はいるのさ」
「どうして……そんな」
「当たり前だろ。生まれる子の選択だと? 狂ってるとは思わないのか?」
魔術師が言葉で弾圧する。
ステラは何も言わず、思考にふける。
しかし、言い返す言葉は思いつかなかった。
それを見かねてか、ディーターが代わりに口を開く。
「ヴラドのような悪人が生まれないようにする為、いわば必要なことだ。悪人を消して何が悪い」
「正確には悪人になる可能性が高いから、だろ。まだしてもいない行いに対して捌かれるなど変だと思わないのか?」
「……貴様は、狂人を、ヴラドを肯定しようと言うのか?」
「そういう人間も国単位でいるってことさ」
ディーターは剣を抜き、一閃する。
だが、魔力の盾の拒まれ、剣は弾き返された。
魔術師は魔術の盾を具現化させたまま、警戒する。
その魔術師に対して、今度はステラが口を開いた。
「生の神殿を再建する……それが私とどう関係するんですか?」
「ああ? 知らないのか? 生の巫女の血は既に絶えているが、生の巫女を作る方法は他にあるんだ。あんたがいれば、な」
ステラは首をひねる。
自分は死の巫女であり、生の巫女とは対極に位置する人間だ。
一体、どうやって、と考えた所で、一つの考えが頭に浮かんだ。
ステラは自分の考えに慄き、一歩後退する。
「まさか……」
「そのまさかだ。死の神殿は最も霊界に近い場所なんだぜ? だったら――――死んだ巫女を呼び戻すこともできらぁな」
「……生きている、魂に穢れのない処女を生贄にして、その処女に生の巫女の魂を定着させる……そういうことですか?」
「ああ、なんだ。やっぱり知ってるんじゃねぇか。それを阻止するのが俺達ってことだ」
ステラは更に後退する。
逃げないと、だめだ。
ここにいては、殺される。
「……墓穴掘ったな、魔術師! 俺が――――王国の騎士がステラを殺すはずが」
「てめぇが王国の騎士、という前提が違う」
ディーターの言葉を、魔術師の言葉が切り裂いた。
魔術師はマントから二つの魔剣を取り出し、ディーターへと差し向けた。
ディーターは魔剣へと意識を向ける。
一つ目の魔剣がディーターへ向けて突撃してきた。
大剣で魔剣を背後へ受け流し、二つ目の魔剣へと備える。
ステラは離れた場所で、ディーターと魔術師の二人を視線で追っている。
どちらを信用すればいいのか。
魔術師の言葉を信用して、ディーターと魔術師の二人から逃げ出すか。
ディーターを信用して、守ってもらうか。
「ステラ、俺は王国の騎士だ。信じろ、守ってやるからこっちに来い!」
魔剣は二つ。
更に魔術師もいるこの状況で、一人にする訳にはいかない。
一人にすれば、ステラは殺される。
「そうか、自分の手で殺すことを選んだか、ディーター!」
魔術師は嘘で翻弄する。
ディーターの名前を知っていたのは気配を隠して、最近見張っていたからだ。
気配を隠す魔術を使い、様子を見て、そして昨日、ついに実行に移しただけ。
昨日は二人を疑心暗鬼にさせ、信用を崩すのが目的だった。
(……ごめんなさい)
ステラは逃げ出す。
隙をついて、この部屋から南へ、出入り口へと走る。
ディーターを、信じることができなかった。
心の中で、何度も何度も謝罪しながら逃げる。
魔術師から、魔を帯びた剣から、――――死神の騎士から。
だから、
「あ……」
巫女の腹部を、魔剣に貫かれる。
魔剣が腹部から消え、もう一度、背中からばっさりと切り裂いた。
視界が、反転する。
赤く、よどんだ世界。
ディーターはこっちへ駆け寄ろうとしているのが見えた。
だが、もう一つの魔剣と魔術師によって道を塞がれている。
「簡単な仕事だったな……」
魔術師が呟く。
仕事開始からたった一日だ。
「ステラ!」
ステラの元へ、ディーターが駆け寄る。
既に魔術師は止めようとはしなかった。
魔剣が立ちふさがろうとしたが、それを魔術師が制す。
魔術師はステラへと投げ捨てるように言葉を口にする。
「もっと信用してやれよ、自分の騎士をな」
「……」
「そもそも戦争云々、あれ嘘だぞ。生の神殿を再建しようというのなら、ここの守りがこんなに薄いはずがない」
ステラは何も言わない。
ステラが思うことはただ一つ、ディーターへの謝罪のみだ。
「たしかに生の神殿の再建をしたがる王や、それを阻止する王もいるが……それは別件だ」
魔術師は補足するように呟く。
生の神殿を再建したがる、王国の王。
武力を背景に圧力をかけて、それを阻止する帝国と宗教国の王。
たしかに実在する。
が、それを理由に戦争をしたことは、ない。
世界情勢に疎くなったディーターとステラだからこそ騙されただけのことだ。
神殿の守りが手薄なのも、死の神殿に騎士が近付きたがらないだけのこと。
「……ごめん、ね、ディーター。私、信用しき、れなかった……」
「ああ……。俺も、信用できないような言動をして悪かったな」
ディーターも謝罪する。
もうステラは助かる余地はないだろう。
それが分かっているから、魔術師も放置しているのだ。
魔術師は魔剣に合図を送る。
ディーター相手に、まったく敵わなかった魔剣があっさりとディーターを貫いた。
「……ディー、ター。血、ついてる、よ」
ステラが、呟く。
刺されたというのに、悲鳴一つあげず、ディーターは軽口でそれに答えた。
「ばか、赤いのはいつものころだろ。血じゃねぇよ」
「……無様な話だな」
あっさりと生きることを諦めたディーターを、魔術師は軽蔑する。
いろいろ小細工はしたものの、こんなに簡単に死の巫女を殺せたのは拍子抜けだ。
「死の巫女を殺した……それがどういうことか分かっているのか」
死を直前にして、ディーターが問いかける。
魔術師は無視しようかとも思ったが、相手するのも一興かと思い直し答えた。
「死の巫女の血が途絶えた、ただそれだけだ」
「生の神殿も、死の神殿も消えた。もう復活することもないのだ、ぞ……?」
「いらぬ。もとよりそのシステムが狂っていただけの話だ」
巫女を殺したのは、魔術師の独断だ。
このことを国に戻って報告しても、何も変化はないだろう。
死の巫女が生きているかのように振舞って、皆の憎悪を架空の巫女へと向け、世界は平和を保つのみ。
死への恐怖、恐れから出る憎悪を引き受ける人間が、生身の巫女から身をもたぬ架空の巫女へと変わっただけのこと。
変わったことはそれだけではない。
「……返事はない。完全に息絶えたか」
狂った世界の歯車は、元へと戻る。
狂った歯車は完全に除去されたのだから。
平和を保つ狂った世界と、混沌を呼ぶ正常な世界。
どちらが正しいのか、答えはでない。
ただ魔術師は後者を信じ、騎士は前者を信じていただけだ――――。
魔術師は興味の失せた人形を見るような目つきで二人を見た後、神殿を後にする。
何千年と続いた狂った世界の歯車は、完全に息を引き取った。