想いは、伝わる
確か、凪沙と付き合いだしたのも梅雨時だったっけ。
帷と初めて会ったのって今日みたいな雨の日だった。
あの時は今みたいに雨は降ってなかったのを覚えてる。
あの時の事は忘れらない、目を閉じるだけで私はあの時の事を思い出せる。
あの頃はただ一緒に、傍にいるだけでお互いの事がわかっている気がした。
あの頃から私は、彼をずっと追い求めた。
だけどそれはただの思い違いだった。
だけど追い求めた彼はもういなかった。
『でも、もし叶うのならばこの想いをあの人へ』
『伝えたい』
「毎日毎日、よく飽きもせず降るもんだね」
学校の窓から空を覗きながら宵野帷はぼやいていた。
降り続く雨も今日で三日目になる。多くの生徒はただ単に鬱陶しく思っているだろうが、帷は違った。
「梅雨なんて来なければいいのに」
帷の目はもう雨雲を見ていなかった。ここでは無いはるか遠くを観ていた。そうすれば過去が見える気がすると帷は思っていた。しかし、そうやって本当に過去が見れた事はまだ一度もなかった。
集中すること数分、帷に黒い影が近寄ってきた。帷はそれに気づく事なく未だに空を眺め続けていた。ついに横までやってきた黒い影は、天に届けといわんばかりに腕を振り上げ、そして握り締めた筒を一気に振り下ろした。
軽快な音に続いて騒々しい音が教室に響いた。
座った体勢のまま倒れた帷を、黒い影が見下ろしていた。
「宵野、空を見るのはいいがそれは休み時間だけにしろよ」
筒にした教科書を元に戻しつつ教師は呆れた物言いで教卓の方へ帰っていった。微かな笑い声が聞こえる中で、帷は倒れた椅子と机を直しまた空を見つめ始めた。教師ももう何も言わなかった。
一分もたたない内にチャイムが鳴り教師が何か言っていたが、帷は聞いていなかった。
「雨なんか降らなければいいのに」
休み時間になると、帷は空を見ない。理由は帷の横にいる女子生徒だ。
彼女、浮道凪沙は今月で付き合い始めて一年となる帷の恋人である。帷が何も言わなくても凪沙は横に居てくれる。帷は凪沙が隣に居る時だけは空を見上げない、なぜならそこには居場所があるから。
休み時間が終わると凪沙は席に戻って行く。帷は凪沙が席に着くのを見届けるとまた空を見上げる。凪沙はそんな帷を横目で確認して小さくため息をついた。
授業終了のチャイムが学校全体に鳴り響く中で帷は一人席を離れず空を眺めていた。
「帷、帰るよ」
凪沙の声を聞くと帷は立ち上がって、今日一番の笑顔を向けた。
梅雨時の帷の楽しみはこの帰り道だけだった。
雨の中を二人は並んで歩いていた。その歩みは速くもなく遅くもなく一定のペースで、その時間を楽しんでいた。会話は少なく沈黙の時間が続いても帷は気にならない。凪沙がいてくれるだけで満足だった。でも凪沙はそうではなかった。
「ねえ帷、いい加減授業中に空見るの止めなさいよ」
帷は不思議な顔をして凪沙を見ていた。
「そんなに見てるかな?」
「見てない時の方が少ないよ」
冗談のつもりか帷は首をかしげて思い出そうとしていた。
「本気でそうしてるの」
今日の凪沙は何かが少し違っていた。
「いつまでそうしてるつもりなの、いつまで見てれば気がすむのよ」
「今日は食い下がるな」
帷はいつもと態度の違う凪沙を怪訝に思う。
「答えてよ、私じゃダメなの? 私じゃ役に立てないの?」
凪沙の目には涙が溜まっていた。帷はいきなりの事態にどう対応すればいいか分からなかった。
「何言ってんだよ、俺はおまえがいてくれるだけでいいんだよ」
「じゃあ何で、何で空を見るのを止めないのよ」
「おまえには関係ないだろ」
帷は少し声が荒くなっていた。
「関係なくないわよ、私は帷の彼女なのよ。貴方の事をもっと知りたいし、私の事をもっと見てほしいの」
「俺にはおまえが必要だ。それで良い、じゃ駄目なのか」
凪沙は俯いて何かを堪えるように震えだした。心配になった帷は凪沙の肩に手を置こうとしてはじかれた。顔をあげた凪沙の目は真っ赤になっており幾筋もの涙が頬をつたっている。声をかけられない帷に凪沙は諦めたような笑顔を見せた。
「やっぱりあの時の帷はもういないのね」
それだけ言い残すと凪沙は傘を投げだし雨の中を走り去った。
唖然として凪沙を見送った帷は主人がいなくなった傘を拾いあげ呟いた。
「だから雨は嫌いなんだ」
拾った傘の持ち主の顔が思い浮かび傘を強く握る。
「俺は何て言えば良かったんだ」
そしていつにも増して空を、より遠くを、今じゃない過ぎていった時間を見ようと呆然と見続けた。
「教えてくれよ母さん」
答えてくれる者は何一ついなかった。
次の日、凪沙は学校に来なかった。理由は風邪だと教師は言っていた。帷は以前も増して空を見続けていた。例えそこに答えがないのわ分っていても見るのを止めなかった。
次の日もまた次の日も凪沙は学校に来なかった。その間も雨は止むことなく降り続いていた。
凪沙と喧嘩して早四日が経った。今日は日曜日だが雨は止まない。これで降り続けて一週間になる。帷の母親が事故にあったのも梅雨時の一週間雨が降り続けた日だった。
帷は布団にくるまってじっとしていた。今日という日が少しでも早く終わることを願って身体を丸める。目を固く閉じ身動き一つしなかった。
気が付くと帷は公園にいた。ここはよく覚えている。母親が生きていたときには毎日のように迎えが来るまで遊んでいた。
そこには母親と手をつないだ子供の時の帷がいた。それを見てこれが夢だと気づいた。二人ともとても楽しそうな顔をしていたがそれを見た帷は懐かしさと共に心が締め付けられた。夢だというのに息苦しかった。でもこの夢にはもう一人、笑いあう親子を羨ましげに見る少女がいた。そんなに離れていないはずなのに帷には少女の顔が見えなかった。
そんな少女に気づいた少年時代の帷は母親から離れ少女の元に駈けていった。そして少女に話しかけていた。何を言っているか全く聞こえなかったが、少女に笑顔が戻って行くのが分った。いや帷はこの瞬間を知っていた。
「この時確か俺は」
微かに残る記憶をたぐり寄せ、思い出す。そしてもう一人と合わせるように言葉を紡いでいった。
全てを言い終えたら、今まで見えなかった少女の表情が見えた。その顔を見た帷は気が付いた。
「そうだ、俺はこの時にあいつと約束したんだ」
隣を見ると母親は子供の帷ではなく今の帷を見て笑っていた。
「今の気持ちを忘れちゃ駄目よ」
帷はそんな声が聞こえた気がした。公園と共に急に遠ざかって行く母親に帷は必死に手を伸ばす。
「母さん」
「言葉にしなきゃ伝わらないこともあるの。それだけは気を付けなさい」
そのまま帷の意識は暗闇の中に落ちていった。
気が付くと外はすっかり暗くなっていた。時計を見ると既に八時を回っていた。
帷はすぐさま携帯電話を取り出して凪沙に電話をかけようとするが手が止まる。ボタンを一つ押せば凪沙の携帯に繋がる。だが帷はいつまで経ってもそのボタンを押せなかった。
「俺は何がしたいんだ」
帷は携帯をベッドの上に放り出し部屋を出た。次に部屋に戻ってきたときには古めかしいレコーダーと一つのカセットテープを持っていた。帷はレコーダーの電源をつなぎテープをセットした。二度ほどテストをして正常に録れていることを確認したら、レコーダーの前で深呼吸をして自分を落ち着けた。そしてゆっくりとしゃべり出した。
「俺は……」
帷が自分の想いをテープに込め終わった時には既に十時を回っていた。帷は焦っていた。
「急がないと、今日中に渡さないと俺はまた大切なモノを失ってしまうかも知れない」
帷はすぐさまテープを封筒に詰め家を飛び出した。
雨は未だに降り続いていたが帷は傘も持たずに走っていた。凪沙の家を目指し一秒でも早く着くために、ただただ走った。しかしそれがいけなかった。後少し、ほんの少しだけ注意していれば。
凪沙の家の近くの十字路に雨の音を切り裂くブレーキ音が響いた。
帷はもう一度だけ凪沙の笑顔が見たいと心の底から願った。
月曜日、凪沙は病院の廊下を走っていた。目指すのは帷のいる病室。病室に入るとそこに帷はいた。でもそこにいた帷は空も見ていなければ凪沙も見ていなかった。ただ静かに寝息をたてているだけ、ただそれだけだった。
凪沙はベットのシーツを掴みそのまま顔を押し付けた。
「帷、何寝てんのよ。私を一人にしないって言ってくれたじゃない! 約束を破るつもりなの!」
凪沙の声はだんだんすすり泣きに変わっていった。その泣き声を止めたのは見回りの看護婦だった。
「あなたって、もしかして浮道凪沙さん?」
戸惑いながらも一応頷く凪沙に看護婦は嬉しそうだった。そして備え付けの引き出しを漁りだした。
「丁度よかった。コレ、彼が事故にあったときも離さずに持ってた物なの」
取り出されたのは茶封筒に包まれた物だった。看護婦はそれをヒラヒラさせた。
「勿論あなた宛よ」
そして看護婦はそれを凪沙に手渡した。受け取った凪沙は中を確かめた。そこには一つのカセットテープが入っていた。それを見た看護婦は、
「もしそれが聴きたくなったらナースステーションに来たらいいわ」
凪沙は出て行こうとする看護婦を呼び止めた。
「ありがとうございます」
軽く手を振りながら看護婦は部屋から出て行った。
それから数分間、凪沙は帷の寝顔を見ていた。そして凪沙はナースステーションに足をむけた。
ナースステーションでは気を遣って貰い小型のラジカセを貸して貰い病室で聞けるようにしてもらった。
凪沙は息を呑み再生ボタンを押した。流れてくる声は五日ぶりにきく帷の声だった。
いつものような言い訳がましい言葉が続いていて凪沙は聞くのを止めようと思った。
「いや違うそうじゃない、俺が言いたいのはこんなことじゃない」
真剣に悩む帷の声に凪沙は次に出てくる言葉をまった。
「俺は忘れていた、子供の頃に君に言った事をだけど俺は思い出した」
続く言葉を凪沙は覚えていた、忘れるはずがなかった。
「君が悲しい顔をしないように俺がずっと側にいるよ」
一拍の間をおいて声が続く。
「もう俺は約束を忘れない、そして俺には君が必要なんだ。これからも俺の側にいてくれ」
最後は今までで一番優しい声だった。
「君と離れるなんて考えられない。好きだよ凪沙」
凪沙は寝ている帷を叩いた、力の限り叩いた。
「思い出したのに、また約束してくれたのに、それなのに私をまた一人にする気なの」
シーツにしがみつき、言葉にならない声を帷に飛ばし続けた。でも帷は何の反応も返してくれなかった。
「帷、こんなに好きなのに。一人はもういやだよ」
凪沙はそうしてシーツを濡らし続けた。一体どのくらい泣いていただろう。時間の感覚が無くなった頃に、凪沙は頭を優しく撫でられた。凪沙は顔をあげた。そこには子供の頃の帷がしていた笑顔がそこにあった。
「俺も大好きだ、もう絶対に一人になんかさせない。俺が守ってやる」
帷は凪沙を胸に抱き締め一度だけ空を見た。
雨は止んでいた。赤々と燃える夕日に虹がかかっていた。
(まるで母さんが笑ってるみたいだな)
「見て見ろよ凪沙、虹が綺麗だよ」
(母さん、俺は凪沙を守ってみせるよ)
帷はそう心に誓った。二人は寄り添い、いつまでも夕日にかかる虹を眺めていた。
そして、どちらからともなく言葉は出ていた。
『好きだよ』