鳥のさえずりの聞こえるのどかな広場に、二人の女がいた。
一人は実に楽しげで、鼻歌まじりに何か手荷物をあさっている。
若く引き締まった肢体をのぞかせ、それに似合わぬ無骨過ぎる大剣を背にかけている女武士だ。
もう一人はしかめっ面でその女を睨んでいる。
ゆったりとした服と腰に下げた刀が特徴的な女武士。
彼女は得物を大きく一振りし鞘にしまうと、不満そうに声を出した。
「カルラ、もう一度聞く。今回こそはただ野盗が立ちふさがっただけなのだな」
「ええ、もちろんですわ」
「そこまで言うのなら妙に遠回りだった道程やら、何故か待ち伏せしていた野盗やらには目をつぶろうか」
「ええ、そうしなさいな。ふふ、酒菜酒菜酒菜〜♪」
カルラといわれた女は実に愉快だという調子で歌を口ずさむ。
そしてあさっていた荷物から小さな布の袋を取り出し、中身を口へ運んだ。
「くっ、百歩譲ってその手に持ったつまみも見逃そう。だが……」
ちょいとそれを食べると、今度はもう片方の手に持った瓶をぐいっとあおる。
その液体は実に美味そうにのどの奥へと消えていく。
「だがなにかしら? あら、このお酒いけますわ」
「だ、だが……」
カルラの腰には同じ酒瓶がいくつもぶら下がっていた。
それは昨日までろくなものを食べていなかった一行には、まったくそぐわない嗜好品。
そう路線なんて先日の時点でもはや尽きていた。それでも旅は続く。なぜなら
「ふふ、トウカもようやく高く売れましたわね」
「……うぁぁぁぁぁ、やっぱりまた某を酒で売ったのかー!?」
トウカがしばしばドナドナ売られていくからだ。大半が酒で支給されるのだが。
わかたれたもの
「うおい! テメーらいつまでもオレ様を無視してんじゃネーぞォ!? なに和んでやがるっってか情景描写も鳥のさえずりとかフザケすぎ! テメーら累々と横たわる仲間が見えネーのかって!」
「五月蝿い」
「五月蝿い」
「うっ」
言い合いを始める女二人の足元には、無様に踏みつけられる一人の野盗の姿があった。
そして確かに周りを見渡せば累々と横たわる野盗の群れ。
そう、この草原ではつい先ほどまで戦が繰り広げられていた。
戦といっても大勢の野盗に対し2人の武士というあまりに圧倒的なものであったが。
もちろん、圧倒的なのはカルラとトウカ。
たかが野盗では死闘をくぐり抜けたこの二人の相手として大いに不足だ。
「それに何が高く、なんだ? 某の価値はたかが酒瓶数本分か!?」
「たかが? いやですわー酒の価値が分からない女は。知りませんの? 酒に疎い女は子供ができないって」
「な、なんだと!? いやまて、この女の言うことは当てにならん……」
「フフ、酒を飲んでかつ子種を口から受けることで女は母になるのですわ……アノ時、あなたがあるじ様に抱かれたアノ時、子が出来なかったのもひとえにあなたの準備不足、酒不足」
「そ、そうだったのか!?」
「そう、すなわち酒とは母なる証! 生命の素! その価値は命より重い!」
「おお!」
「つまり、それだけの宝数瓶分もの価値があるあなたはすばらしい武人だということですわ」
「なるほど。それを知らずに、某はまだまだ未熟者だな……」
衝撃の事実に思わず己の未熟を恥じるトウカ。
ああ、酒とはかくも偉大なものなのか。
カルラのあおる酒から後光さえ見える気がする。
「いやいやいや、んナわけあるかー!? っていうかだからオレ様を無視スンナー!!」
「五月蝿い」
「五月蝿い」
「ぎゃぼ」
「というかやはり嘘か。そ、某としたことが……」
柔らかいものを踏みつける足に力を込めつつ、トウカは拳を握り締めてぷるぷる震える。
それをクスクスと笑いながら眺めるカルラ。
そこからは「面白いおもちゃですわ♪」なんて雰囲気がありありと見てとれる。
カルラがトウカを連れているのは何も酒の為だけではなく遊びの為でもあるとか。
「う、う、う……オレの人生どこで間違えたんだろう」
でもそんなトウカより憐れな者が彼女らの下に一人、怒鳴る気力ももはやなく。
「さてと、そろそろ足をのせているのも疲れましたわ。本題に入りましょうか」
「構わんが、この件は後で追及させてもらうからな」
二人はいい加減に可哀相になったから……などではなく、本気でマイペースに男に注意を向けることにした。
男は所々壊れかけた黒い軽鎧を身に着け、まぁまぁ立派な鉄兜を身につけている。
その防具に記された紋章は共に異なるもの――異国の装備の掛け合わせ。
恐らく戦場であさったか、落ち武者から直接奪ったか。最近の野盗によくある装備だ。
剣の腕から見ても大戦時に逃げ隠れし、治安の悪化した今になって動きを活発化した最低な部類の奴らとわかる。
治安の悪化――クンネカムンに蹂躙され、統治機構を失った地域はいま酷い状態にある。大戦に勝利した国々も自国の被害から、他の地域へ注意を向ける余裕はない。中心国であったトゥスクルも強いカリスマを持った皇を失い、シャクコポル族の受け入れで精一杯の状況だ。
「ち、ちくしょう。殺すなら殺せ!」
「わかりましたわ」
「そうか、では介錯してやろう」
「わーウソウソ! ごめんなさいごめんなさい、目が怖いよ? ああ剣しまってしまって! やだなぁお姉さん方、あはははは」
オンカミヤリューが新たな大僧正のもと良くやっているものの、復興にはまだ遠い。
全てがこのような三流なら苦労はしないのだが。
ともかくそのような状況の中、二人は各地で落ち武者や盗賊を鎮圧し回っている。
「冗談だ、貴様のようなやからを斬ると刀が穢れる」
「死ぬのは勝手ですわ、でも有り金全部出してからになさい?」
「か、金なんてネーよ! あるならわざわざ襲わないって」
カルラは満面の笑みを浮かべながら男の胸倉を掴んで脅迫した。
横でトウカが馬鹿らしいと言わんばかりにそっぽを向くが、お財布事情がまずいのは理解しているからか横目でそちらを伺う。
そのようなことは武士の道にもとるのだが、カルラの無駄遣いのせいで止めるに止められない。
「フフ、嘘は吐かないほうが身のためですわよ? ずいぶん手馴れていましたから、今まで相当襲ったのでしょう。出しなさい」
「ななないって。ほんと、ないんだヨォ!」
「ふぅ、仕方ありませんわね。地獄の沙汰も金次第、あれば少しはお仕置きを手加減しようと思ったのですけれど」
カルラの笑顔から黒い気配が立ち込める。これはお仕置きに思いをはせる顔に違いない。
男は思った。ああ、死んだなと。
初めはたかが女と侮っていたけれど、とんでもない。
トゥスクルのカルラといえば鬼神のごときと聞いてはいたが、まさに言いえて妙だったのだから。
大の男でさえ振るうこと敵わぬような大剣を軽々と振り回し、次々と叩き伏せていった光景が脳裏によみがえる。
この女なら禍日神だって手玉に取れるかもしれない。
「で、縦と横どちらが好みかしら?」
「は、へ?」
「だから、縦回転でぶっ飛びたいか横回転でぶっ飛びたいか選ばせてあげますわ〜」
「ひ、ひぃ!?」
――落ち着け、落ち着け。クールになるんだ野盗その一。
縦回転とはすなわち縦に回ること。人が縦に回るっていうと暴走した水車のごとく飛んでいくってことだ。
横回転とはすなわち横に回ること。人が横に回るっていうと……水切りの石のごとく飛んでいくってことだ。
うふふ、そういえば昔は水切りで遊んだものだ。
水車遊びと水切りなら水切りのが楽しいじゃないか。
よし、ここは横回転だ。――
「よし、ここは横……ってどっちにしろ死にますがな!?」
「つっこみが遅いですわ」
つまらなそうに酒を口に運ぶカルラ。
あたかも宴会の芸がつまらなければ殺してしまうような暴君だ。
男はふと、この女に仕えられていたというトゥスクルの皇を思う。大変だったのだろうなぁと。
「あ、そうだった。そうだ、こうしよう!」
「あらなにかしら?」
「オレ様はお前たちがほしがる情報を持っている。それで手を打たないか?」
男はその時、ふとあることを思い出した。
件のトゥスクルの皇のことだ。
男は不適に笑う。
噂ではこの二人は皇に捨てられたとか。それで未練がましく追いかけてるとか何とか。
あの男の情報はのどから手が出るほどほしいはず……!
「殴りますわよ」
「いってぇ! ますわよってもう殴ってるじゃんよ!」
「なにやらむかつきましたの。で、情報って?」
「ふふふ……聞いて驚け! トゥスクルの王が戻ってきた、かもしれないって情報だ!」
「なっ!?」
「っ! あらあら、詳しく聞かせてもらおうかしら」
トゥスクルの皇――かつて二人がそれぞれ聖上、あるじ様と呼んで仕えた人物。
二人はその言葉に驚きを隠せず動揺を見せた。
トウカはカルラが話している間に少し離れた位置へいっていたのだが、すぐさま飛んで戻ったほど。
「ククク、聞いて驚け……」
トウカたちは二度と盗賊行為を働かぬよう言い含め、男たちを解放した。
先の戦争で農地が荒れに荒れたため、やるべきことはいくらでもあるのだ。
そして男たちを見送り、しばらく逡巡したあとトウカが口を開いた。
「さて行こうか、カルラ」
「そんなに急ぐ必要はありませんわよ?」
「いいや、急ぐべきだ。さぁ、さっきの男が言っていた仮面の男の下へ」
先ほど男が話した内容はこうだ。
いわく、ここから西へ向かった山中に戦後しばらくしてとある男が現れた。
いわく、その男は近辺のならず者どもをまとめ上げ、巨大な盗賊団を作った。
いわく、その盗賊団は奇妙な力を使って瞬く間に勢力を拡大した。
いわく、その男は仮面を被っていた。
「奇妙な力を使い一大勢力を作り上げた仮面の男、ね」
「さぁ、いくぞ! 時間が惜しい」
時刻は正午を回ったところ。急げば日が沈む前に余裕でたどり着ける場所だ。
しかしトウカはどうしても急いてしまう。
その男はどうもハクオロと一致する点が多すぎるのだ。
ハクオロは不思議な知識をもって小さな村を豊かにし、人々をまとめ上げて国を成した仮面の男。
影を重ねない方がおかしい。
なのにカルラはいまいち乗り気ではなく、トウカをいらだたせる。
「まったく、生真面目ですわね」
「カルラ殿が不真面目すぎるのだ! さぁ、さぁ!」
このあたりの性格はトウカとカルラで正反対である。
そのためよく意見がぶつかるのだが、たいていカルラにもてあそばれて終わる。
しかし今回ばかりはトウカもあとに引けない。
受け流そうとするカルラに食らいついて説得する。
大体今回はカルラの「サハリエ・ナトゥリタ」のことではないか、然るべきである。
「しかたありませんわね」
「よし、わかってくれたか……」
「ええ、さぁじゃあいきましょうか。仮面の男……退治へ」
「うむ、いざ……退治へ」
まったくもってけしからん。それがトウカの心情だ。
それほど符合が一致して盗賊稼業などでは聖上の名を汚すではないかと。
先ほどの男もまったくけしからない。
その盗賊団は周辺住民を次々と襲い、挙句オンカミヤリューからの救援物資まで奪い始めているという。
聖上がそんなことを許すはずがないのだ。
それ以前に聖上が盗賊などの頭になるものか。
カルラはあまりやる気がないのだが、それは別にその男が直接ハクオロ皇を名乗ったわけではないからだ。
さすがのカルラもあるじの名を盗賊ごときが語れば容赦はしない。それはもうトウカ以上に。
今回はそういう状況とは違うのだから、正直酒を飲んでのんびりしてからにしたい。
だが、トウカがここまで燃えているのなら仕方がない。
そのトウカは時間が惜しいとばかりにもう歩き出していた。
聖上の名を汚したばかりか行った非道の数々、捨て置けぬ……などと息巻いている。
「やれやれ、やっぱり……飽きませんわね」
カルラはポツリと呟いて、先へ行くトウカの後を追った。
アア、それは圧倒的な力だった。
暴力の嵐。
一度放たれれば反応することすら敵わない凶器。
それはやすやすと屈強な戦士を追い込んでいく。
最初に犠牲になったのは、トウカ。
「たのもー!」
なんて馬鹿正直に正面から奴らのアジトである砦に入ろうとしたのが運の尽きだ。
そびえたつは立派な石の砦。100人程度の篭城は可能にするだろう。
「某はエヴェンクルガの武士トウカと申す! 貴様らの悪行、聞かせてもらった! 某は……」
なんてそこで長々しく口上を垂れていたら先制攻撃されるのは当たり前。
砦の門を見張っていた男が懐から何かを取り出した。武器だろう。
だが、それはトウカにとって何の問題もないことのはずだった。
距離も十分にある。
一介の落ち武者程度ではいくら隙をついたとしても、トウカにかすり傷一つ負わせることは出来ないのだから……。
「痛!?」
「トウカ、下がりなさい!」
それが、この無様。
右肩を赤く染めたトウカを下がらせ、カルラは自分も木の陰に隠れた。
いったい何が起きたのか。トウカがそうやすやすと攻撃を食らうなんてありえない。
まさか相手がゲンジマル級の武士だとでも言うのか?
いやそれもない。門からこちらを狙っている男はどう見ても力を感じない。
奴が何か金属の筒をトウカへ向けると、耳をつんざく爆音が轟き気づくとトウカが肩をやられていた。
思い出せ、何があったのか。そして次にいかすんだ。
さもなければ次にやられるのは自分……。
「コソコソ隠れてんじゃねぇ!」
男がそう叫ぶと、またも爆音。
筒の先が光ったかと思うと、同時にカルラが身を寄せていた木が鋭くえぐれていた。
カルラはすぐさま身を翻し、他の木へと移る。ここは比較的に木が多い。
よもや敵地で地形に助けられようとは。
「くぅ……馬鹿な、あれはいったい!?」
「トウカ、大丈夫ですの!?」
「あぁ、かすり傷だ。それより気をつけろ、カルラ。あれが『奇妙な力』というやつだろう」
「そうですわね。それでその右肩……攻撃を受けて、正体に繋がるものは?」
トウカは血の染み出る箇所に手をやる。
傷はそこまで酷くない。右肩の稼動に多少の違和感は否めないが、幸い刀を握るのは左腕だ。
この傷はいったい何なのか。
「これは……槍、か? 高速の突きを受けたときの感覚に似ている。あの射程距離から術法や弓かと思ったが、これは小さな穂先が肩をえぐったかのようだ」
「馬鹿な、あんな場所から槍が。しかもあんな下らない男から? ありえませんわ」
「某の脚でもかなりの踏み込みが必要な距離だな。確かにただの槍であることはありえない。また音はあの妙な筒から聞こえたようだが、術法という感じもなかった」
「火神が集まったという感じもありませんでしたしね。となるとあの筒から物理的な力で高速の槍の穂先のようなものが飛んできた、ということになりますわね」
「たいして解決にならないな、すまない」
二人がそう話している間に、扉には騒ぎを聞きつけた男たちが群がってきていた。およそ数十にも及ぶ。
そのほとんどが先の男と同じ金属の筒を持っている。
あれが全てその『奇妙な力』だとすれば、このままでは逃げることさえ難しいだろう。
「まずいですわね……」
「これも全て某の責任だ。おとりになろう、カルラ殿は逃げるんだ」
「ふふ、馬鹿なことを。そんなことをしたら、それこそあるじ様にしかられますわ」
「しかし……!」
「おしゃべりはソロソロしまいにしな!」
またの轟音。そしてえぐられる木々。今度は複数の「槍」が飛んできた。
やはり奴らのほとんどがあの武装をしている。
その筒が強力な攻撃をなしていることは分かるのだが、攻撃が見えない。
木々が崩れる箇所を凝視するが、確かに高速で何かが飛んできているということしか分からない。
絶体絶命、打つ手はないのか。
なんとしても見つけなくてはならない。
「しかた……ありませんわね」
するとカルラは何を思ったか、一言呟くと急に木から身を乗り出した。
そこは暴力の嵐。何年もの歳月をかけて培われた頑丈な幹をやすやすと削り取っていく凶器の渦。
次の犠牲者は、カルラ。
「カルラ!」
トウカは慌ててカルラの傍へと駆け寄り、木の陰へ引っ張り込む。
ぬるりと生暖かい感触が手に伝わった。血だ。
引き込まれたカルラの上半身は無残にも血でまみれていた。
「何を馬鹿なことを……某におとりになるなと言いながら自分がするのか!?」
「いやですわ、ただちょっとばかり体が痒かったんですの。中ればちょうど良いかと……」
「カルラ!」
何とか致命傷はうけていなかったが、腕と顔に切り裂かれたかのような傷跡が刻まれている。
このくらいなら生死どころか戦闘にも支障がないのがカルラではあるが、無茶をしたことには変わりない。
一歩間違えれば頭をえぐられていたかもしれないのだ。
「何とか無事ではあるようだな」
「ふぅ、集中して挑めばもっと避けられると思ったのだけど、無理ですわね。今の感じだと音と攻撃はほぼ同時。音速の攻撃というところかしら」
「まったく、無謀をしてくれるな」
攻撃の嵐はやまない。そのうえ盗賊の一部が徐々にこちらへと接近してきている。
包囲されればこの木々も盾にならないだろう。かといって包囲を抜け出すにはこの嵐をどうにかしなければ。
木片が飛び散り、カルラの頬を打つ。
だが、そこでカルラは不適に笑った。
「ふふ、あなた以上にあいつらはうっかりですわね」
「な、なんだいきなり。頭にでも攻撃されたのか?」
「今からこの難題、解決して差し上げますわ。よく御覧なさいな」
盗賊どもの攻撃はなお続く。一歩踏み出せばそこは死地。
見ろといわれても、うかつに乗り出せばカルラの二の舞。
この状況をどうするというのか。
「手品は、そう何度も見せるものじゃありませんの」
「え……?」
「こうなれば実際に放たれているものが槍であれ、術法であれ、関係ありませんわね」
そういうとカルラは機を見計らい、再び木から身を乗り出した。
「っ!?」
今度こそ死んだ。トウカにはそうとしか思えなかった。
思わず目をそむける。
自分で音速の攻撃と言いながら、何故そこへ飛び込むような真似をするのか。
「よっと、二人ほどやれましたわね……っと、御覧なさいといったでしょう」
「な、無事だったのか?」
だが意外にもカルラは死ぬどころか傷を増やすことさえなかったではないか。
しかもいま確かに敵をやったと。
この攻撃をかいくぐるだけではなく、敵に反撃をしたというのか。
「いったいどうやって?」
「まず大切なのは音ですわね。攻撃と同時のこの音は一定の間隔で数が少なくなる。それに注意すれば攻撃の隙間を感知できる。だから攻撃が薄いところを狙うのはたやすいんですの」
「た、確かに。しかしそれでも乗り出した身を引く前に攻撃されるような?」
「だから、御覧なさいと」
そういうと今度は大胆にも木から木へ移るように移動していく。
攻撃の静まる機を上手くつき、あざ笑うかのように姿をあらわしては消す。
そしてそのたびに奴らのくぐもった悲鳴が聞こえるではないか……!
「馬鹿な! 奴も銃を持っていやがるのか?」
「ぐぼっ」
「ひるむな! 相手は一人、弾切れを狙うんだ!」
「ぐぎゃ!?」
「遅いですわ!」
驚くべき光景が展開された。
次々と倒れていく盗賊ども。
男たちは懸命に攻撃を放つが、それよりもなお早くカルラが攻撃を放っているのだ。
カルラの攻撃はいわゆるラカンセンであった。高速で硬貨を投げつける攻撃。
カルラはそれに熟達しているらしく、遠距離からただの一撃で賊を無力化してしまっている。
とはいえそれは常人には目で追えぬが、トウカならば目で追える程度である。
奴らの攻撃は音速であり、カルラのそれよりも圧倒的に速い。まともに撃ちあえばカルラの敗北が道理。
だが、圧倒的に早かったのだ。
男が鉄の筒を構えたときにはもうカルラの腕が振られている。
振られた腕は硬貨に木を穿つほどの力を与え、放たれた閃光は一直線に敵を撃つ。
男は攻撃を放つ暇などなく一撃で悶絶し、倒れるばかり。
後はもう一方的な展開であった。
盗賊どもが倒れるたびに攻撃の手が薄れ、カルラの攻撃が容易になっていく。
もはや隠れる必要もないほどにまで追い詰めていった。
「トウカ、あなたもおやりなさいな」
「いやしかし、あいにくそのような特技は」
「ああ、これはこれで熟練が要りますわね。ふふ、スオンカスも役に立つものですわね……」
「何か言ったか?」
「なんでもありませんわ」
スオンカス――かつて奴隷の国ナトゥンクを治めた皇。
カルラとは望むと望まざるに関わらず深い関係を持っていた。
その彼が得意とした武器が腕の一振りで繰り出す高速の投げナイフ。
カルラのラカンセンはその技術の流用だ。
その動作は実に一工程。
そこでようやくトウカにも奴らが使う「銃」とやらの弱点が見えた。
一見簡単に見えて実は工程が多いのだ。構えて狙いをつけてさらにもたもたして放っている。
それではいくら攻撃自体が高速でもカルラにつぶされてしまう。
なるほど、確かに放たれるものが何であれ関係ない。
攻略法は実に単純。やられる前にやれ、だ。
「む、カルラ殿に気をとられている今ならば可能か」
そう思うと行動は早かった。
木々を縫うように足を運び、盗賊へといっきに迫る。
確信していた圧倒的優位をひっくり返された盗賊たちは浮き足立ち、トウカの行動に気が付かない。
ようやくトウカの姿を認識したときにはすでに彼女は眼前で刀を振るっている。
2,3人斬った後はさすがに警戒されたが、ここの男たちではトウカの踏み込みにまったく対応できなかった。
銃を構えることは出来ても放つことは出来ない。そもそもトウカの足捌きに狙いをつけることさえ敵わない。
狙いをつけたと思っても後ろから斬られているようなことさえあった。
さすがにそれほどまでに練度が低いものばかりではなく、多少の傷は負った。
されど慣れていくうちにトウカも完全に発砲のタイミング掴み、まともに撃たせることはない。
そうしてついに二人は門の中へまで突き進んでいく。
カルラが遠距離から狙撃し、トウカが残りに斬り込む。もはや雑兵では二人を止められなかった。
かくして、初戦はあまりにあっけなく終わってしまうこととあいなった。
「さぁ、知っていることを全て吐きなさい。潰されたくないでしょう?」
「ひ、ひぃ! つ、つぶれ、る……」
「まったく、今日は脅してばかりだな。やはりこの手のことは気が進まん」
「男でいたければとりあえずこの銃とやらのことを教えなさいな」
砦の外に出ていた連中はあらかた片付けた。
残ったのは今カルラに大事な部分を握られているこの男だけだ。
かなりの数が外へ集まったから、中にこもっているのは少数だろう。
待ち伏せによる突然の発砲は怖いが、狭い分有利な面もある。
もはや勝利は近い。後は親玉の仮面の男を懲らしめるのみ。
「お、教えますからぁ! こ、こ、この銃というのはですね……」
……
……
そうして分かったことはこの「奇妙な力」のこと。
あいにく出所は首領が全てを握っているらしく不明なままだったが、武器としての性質は大体把握した。
まず名前が銃であること。
火薬の力を使って小さな鉛の弾丸を飛ばす武器。
発射は撃鉄という部分を起こしたのち、引鉄という部分を引くことで発射されるとのことだ。
連続攻撃は最大で6発まで。ただし一度放つごとに撃鉄を起こしなおす必要があるようだ。
そして撃ち終えると弾を補充する必要がある。
「なるほど、助かった。もはや銃も恐れるに足らず」
「そうですわね。連射に時間がかかるなら引鉄に注意して初弾を何とかすれば、たとえ遠距離からでも斬り伏せることが可能ですもの」
「で、では私はこれで、さ、さようなら!」
男は説明を終えると脱兎のごとく逃げ出していった。
彼女らはそれに一瞥もくれず、仮面の男が潜んでいるであろう砦を見つめる。
「じゃあソロソロお邪魔しようかしら」
「ああ、暗くなる前に終わらせようか」
いざ、決戦へ。
「これはこれは、ハッ……大戦の英雄様方ではないですか。部下から聞いていましたが、まさか本当にいらっしゃるとはネェ」
嘲るように男は言った。
彼こそが仮面の男――この盗賊団の首領。
やはり彼はハクオロではなかった。
その仮面はどくろを模した風体の気味が悪いもの。
さらに布で頭の上半分を大きく覆い隠している。
その下の表情は見えはしないが、醜い笑みを浮かべていることだろう。
「ようこそ我が城へ。大したおもてなしも出来ませンが、どうぞごゆっくり」
砦に侵入した後はすんなりとここまで来れた。
と、いうのも残った勢力のほとんどがこの広間に集結しているからだ。
総勢10といったところか。実に少ない。
きっと英雄トウカとカルラが銃をものともせずに来ていると聞いて、怖気づいたのだろう。
だが残った兵は中央の仮面の男に従い、こちらへ銃口を向ける機会を今か今かと伺っている。
「アァ、申し送れました。ワタクシはシルシムと……」
「御託は結構ですわ。あなたが臭い息を吐いていると思うと虫唾が走りますの」
カルラが男の声をさえぎった。
カルラにしてみればこんな小汚いところでゆっくりしてやる義理はない。
積極的に相手を挑発していく。
「フン、さっさと死にテェってか?」
「どちらがかしらね?」
トウカにしても、さっさと終わらせたいところなのだが、何かが妙に引っかかっていた。
この気配、何かがある。トウカの第六感がそう告げるのだ。
そうこうトウカが悩むうちに、カルラとシルシムの話は進む。
「ハッ! 英雄様は話が早いネェ。まんまとおびき寄せられたとも知らずにヨォ」
「ずいぶん余裕ですこと。おびき寄せたところで自慢の銃兵たちはもはや役立たずですわよ?」
「10いりゃあ十分だ。こいつらに銃を与えたのは誰だと思ってる? このオレ様だ。誰よりも銃を扱える」
「あなたのような下衆がどうやってそんなものを手に入れたかは、多少興味がありますわね」
そう言いながらもカルラは男の強さを感じ取ったのか、先ほどまでの余裕をひかせていく。
次第にカルラへと集まる火神。
シルシムもまた火神の属性なのか、互いが互いに熱を高めあい、火花を散らす。
「クク、ちょっと山を掘ったら遺跡が出てきてなぁ、ありゃあ儲けもんだったぜ」
「遺跡……なるほど、オンカミヤリューの遺跡のようなものかもしれませんわね。なんにせよ、あなたのような下衆が扱うべきものではないですわ」
オンカミヤリューの遺跡――得体の知れぬ道具が点在し、ありえぬような現象が引き起こされる地。
かつて彼女らトゥスクルの英雄たちが大戦の最後にたどり着いたのもそこだ。
確かにそのような場所が他にもあったなら、「奇妙な力」の一つや二つ手に入れることも不可能じゃない。
「その上さらにカルラとトウカの首を取ったとなりゃあハクもつくってモンだ。イヤァ、仮面の男なんて噂を流せば誰か馬鹿が来るとは思っていたが、よもやカルラとトウカとは……やっぱオレはツイてるね」
「ツイてない、の間違えですわね……」
「ケッ。やってみねぇと、わからネェぜ……やれっ!!」
その怒号と共に銃で武装した盗賊どもが一斉にカルラへと銃口を向ける。
まずい。いくらなんでもあれだけの数をカラル一人に任せるわけにはいかない。
トウカもなんとか不安を振り払い、シルシムを牽制しつつ斬り込んでいく。
激しい銃撃音がむなしく轟き、骨を砕く音が鈍く響く。
放たれた硬貨が鋭く身を穿ち、次々と盗賊は倒れてった。
その間30秒もあっただろうか。
シルシムがほとんど動くまもなく、その手下どもは、用を成さなく成り果てた。
「やる、ねぇ」
「あとは貴様だけだ、シルシム」
トウカは胸につかえるものを残しつつ、シルシムへと刀を向ける。
カルラも手のひらで硬貨を転がし、必殺の一撃を構える。
「さて、残りの硬貨も一枚だけ……はぁ、とんだ無駄使いでしたわ」
「おやおや、今日の酒代は十分かぁ? カルラ殿ヨォ」
しかしシルシムはこのような状況になっても余裕を崩さなかった。
先程の攻防にしても、動けなかったというより動かなかったという風だ。
その不気味な態度にトウカはやはり不安を募らせる。
「今日の酒代……あなたの命で償いなさい」
だがそんなトウカをよそに、カルラはすぐさま無造作に腕を振り上げた。
それはトウカでさえ予測できなかったほどの突然。
よほど早く終わらせたかったのか。
最後の一枚は簡単に力を解き放った。
放たれる凶弾は無慈悲にもシルシムの頭へと吸い込まれ……
しかしただむなしく頭を覆う布だけを切り裂いた。
「何!?」
「馬鹿、な。私の攻撃を」
「遅いな」
カルラの顔から勝利を思っての笑みが消える。
放たれた硬貨は今まで例外なく敵をぶち抜いてきた。
それを軽く顔を捻るだけで無効化してみせたのだ。
むなしく宙をくりぬいた硬貨は壁に当たり、高い金属音を広間に響かせた。
「クク、お前らの技はさっきので見せてもらった。たいしたこたぁないな。3人程度で十分だったかもしれん」
固定していた布が裂かれ、仮面がことりと床に落ちた。
アア、そこにいたのは――ありえない種族。
トウカの顔が驚愕に歪んだ。
それは武士の種族。刀を用い、義を貫く正義のもの。
それが、何故。
「貴様、エヴェンクルガ……!」
布の下にはエヴェンクルガ特有の耳、そして仮面の下には鋭い鷹の眼。
歳は40に近いであろうが、その風体からは衰えをまったく感じさせない。
「これはこれは、驚きましたわ。よもや盗賊につくエヴェンクルガがいようとは、ね」
「ありえない! 我々エヴェンクルガには貫かなければならぬことがある。それに銃などという外道に手を出すなんて……」
「ハッ 寝ぼけたこと言ってんじゃネェぞ、若造!」
シルシムはそう一喝すると、すっと懐に手を入れた。
銃を出すのだろう。それを察知した二人も身構える。
本当にエヴェンクルガだというのなら実に厄介な相手だ。
その実力はトウカもカルラもよく分かっている。
先程の回避行動から見ても、少なくとも余裕を見せられる相手ではい。
「寝ぼけたことだと? 貴様エヴェンクルガを何だと心得る……貴様には部族の誇りがないのか!?」
「くだらないね! 義だとか忠だとか、テメェら言ってることが古いんだよ」
「お、己は!」
「オラ、無駄話はしまいだ若造」
シルシムはついに銃を抜いた。
右手で銃を握り、肩の上で左手を撃鉄に当てる。
そこから振り下ろしながら狙いをつける構えなのだろう。
トウカたちも鋭く反応し、次の瞬間に備える。
「カルラの銭投げは厄介だったが、あれで最後だってな? オレと違って運がネェな、テメェら」
「トウカ、私の大剣ではあの男の隙はつけませんわ」
「ああ、ここは某に任せて下がれ」
すっとトウカが前に出る。
体を引き絞りいつでも動けるように備え、じっと銃を握る右手に注目する。
距離はおよそトウカの踏み込みにして6歩。
連射に時間がかかるなら、初弾さえ回避できれば斬りつけることが出来るはずだ。
狙うは銃を構え、引鉄を引き絞る直前の隙。
一度撃てば斬られる前にもう一度撃つヒマなど、与えはしない!
「あぁぁぁぁぁぁ!」
「ハッ!」
トウカの裂帛の気合が広間を震わせた。
同時にシルシムが狙いをつけ、まさに撃たんとする。
しかしそれこそをがトウカの待つ好機。
「死ね!」
シルシムの呪詛と共に、もはや耳慣れた爆音が轟く。
銃口の向いた先を蹂躙せんと弾丸が放たれる。
しかし、そこにはもはや何もない!
トウカは引鉄がひかれると共に身をかがめて大きく踏み出し、初弾を回避したのだ。
そのままさらに踏み込み、今まさに必殺の一撃をシルシムに叩き込む……
「あばよ、後輩」
ああだけど、何故か視線の先には銃口が黒く光っていて。
まだ数歩しか踏み出していないのに、シルシムはもう次の銃撃を用意していて。
周りの世界が実にのんびりと見える。だけど体はそれに対応してなくて。
奴の嘲った顔が実に不愉快なのに、何もできなくて。
小さな、悲鳴が聞こえた。
「がはぁっ、はぁ、はぁ……某、は?」
でも生きていた。
反応できなかったのに?
はっきりとしていく意識を総動員して状況を把握する。
すると何故か腕に生暖かいぬるりとした感触。
「カル、ラ?」
今度のそれは先程の比じゃなかった。
どんどんと流れ行く赤い液体は急速にカルラの体温を奪う。
いつのまにかトウカは横へ大きく吹き飛ばされて、覆いかぶさるようにカルラが倒れていた。
アア、この状況は同考えてもトウカの失態。
「まったく、あなたは……なにをしてます、の?」
「カルラ! 庇ったの、か?」
「フフ、まったく、相手の力量を見誤るなんて……トゥスクルの武士にあるまじき、ですわ」
先程の初弾回避はシルシムに回避させられた形だった。
油断を誘うために。
奴は今までの手下どもとは練度がまるで違った。
その連射は実に滑らかで高速。一歩踏み込む時間があれば次弾を準備している。
その後の発射も実にすばやかった。初弾こそ手下たちと同水準だったが、2弾目はそれとは比較にならない。
そして油断したトウカに必殺の攻撃を余裕をもって繰り出すことに。
死ぬはずだった。
それを、危険を察知したカルラが突き飛ばしたのだ。
何たる失態。己の力を過信していた。相手がエヴェンクルガであることは分かっていたのに。
「馬鹿な、何故……」
「あなたのほうが奴に勝つ見込みが強い、それだけの、現実的選択……ですわ」
代わりに弾丸を受けたカルラは重傷。
血が、止まらない。意識がこぼれていく。
急な手当てを要することは明白だ。
「カルラ、肩につかまれ。逃げるぞ!」
「何を馬鹿なことを……」
「分からないのか? すぐに手当てが必要なんだ!」
トウカはとにかくカルラの手を持ち上げ、担ごうとする。
しかし、カルラは力ない腕でその手を振り払った。
「あなたこそ理解なさい! 民を見捨てるつもり!?」
「っ!?」
カルラは鋭い声で一喝する。
「あるじ様の名を汚すとか、重要なのはそういうことではありませんの。確かにそれだけの理由なら逃げるべき。でもこの男は、民を虐げる」
「そ、それはそうだが……」
「部下さえ切り捨てるような男が調子付けば、この辺りがどうなるか分かるでしょう? オンカミヤリューの兵も奴には苦戦するでしょう。ここで見逃せばきっと、たくさんの人が死ぬ。」
「あなたはそれを許しますの? あなたの義は、その程度ですの?」
カルラの口調は厳しいながらも優しい響きを持っていた。
民を見捨てるのか、それとも厳しい戦いを仕掛けて仲間の命を危険に晒すのか。
正義はどこにある?
「某は」
「義を貫きなさい」
「だが……失敗すればカルラも死ぬ」
「アア、もしかしてそんなことで逡巡しておりますの? ……馬鹿な子」
彼女は力ない手でトウカの髪をなでた。
口の端からは一筋の血が流れ、全身が寒さに震える。
だがそこに死への恐れはない。
「あなたは強い。この私が認めてるんですもの。あんな男に負けるはずがありませんわ」
「某はとんだ馬鹿をしでかしたんだ!」
「あなたのうっかりなんて計算のうち。次は大丈夫ですわ。それともあなたは失敗を恐れて民を見殺しにするような女なんですの? そんな女、私の……戦友にはいませんわ」
「カル、ラ」
「さぁ気合を入れなさい、トウカ。あなたなら……できますわ」
そしてついにカルラは意識を手放した。
ぽとりと落ちる彼女の手を、トウカは呆然と見送った。
「は、は、はははははっ! やった、やったぞ!! あのカルラをッ」
「……れ」
「やはりオレは強い! オラ、テメェもかかってきて構わんぞ?」
「……黙れ」
「ははは! しかしかの英雄殿を倒せる程とはな。国に逆らうどころじゃない、この力をもってすれば一国の王になることだって可能なんじゃないか!?」
「黙れと……言っている!」
トウカは眼光鋭くシルシムを睨みつけた。奴の下卑た笑いが頭にくる。垂れ流される低俗な思考が我慢ならない。
なにより、力不足から戦友を傷つけた自分が……許せない。
絶対に奴を倒す。その決意を込めて、立ち上がった。
彼女は自分になら出来るといった。その想いに答えなければ。
「フン、まーたやる気か? 馬鹿が。何で追い討ちしてないと思ってんだ。目の前から失せれば今回は見逃してやるってンだぜ。まったく、なんだってンだい」
「義を貫く」
「ハ? オレに挑めばその女も死ぬぜ? こっちが満足してるうちに消えろ」
「銃の力が証明された以上、これから更なる非道を尽くすということだろう? 見逃さば義を欠く」
自分にはカルラのような正確な投擲武器もない。もはや体も傷だらけだ。
だが、この心だけは決して折れない。折れてはならない。
もはや自分の力を信じることは難しい。
されど、カルラが自分の力を信じるというのなら応えるが戦友。
そここそがトウカが貫くべき正義の道。
トウカは再び刀に手をかけた。
「なるほど義、ね」
「そうだ。エヴェンクルガの、トゥスクルの武士として、そしてカルラの戦友として某は命を賭けて貴様を……討つ」
体はまだ動く。
ならば部族の裏切り者を、民草の敵を、彼女の仇を討たずして何が武士か。
ここで戦わざることは主への不忠でもあろう。
いまは失われた温もりをふと思い出す。某に、力を。
「……義だとかそういうのはヨォ、くだらないっッてンだろが」
「下らなくなどない! 貴様はそんなことさえ忘れてしまったのか!」
「違うね、くだらないと気づいたンだよ。現にテメェはここで命を賭けることで友人の命まで危険に晒してンだ。義なんざじゃ幸福は得られないンだぜ?」
「カルラの命も救ってみせるさ。彼女が出来ると言ったのだから。ここで戦友の言葉に賭けられぬ者ならば……得られるものなど何もない!」
「若造が……」
トウカの言葉にいらつき、睨みつけるシルシム。
だけどトウカはひるまない。
もはや退く道はない。
奴を見ろ、奴だけを見ろ。どんな小さな活路でも良い。見出すんだ。
これは勝利を約束すべき戦いなのだから!
「某はエヴェンクルガが武士トウカ! ウンケイの娘にしてハクオロが忠臣。いま義を貫かんがため、参る!」
トウカは高々と宣戦を布告した。
己を支える誇りを胸に、いま一世一代の戦いを。
「ふざけンな!」
だがそこでシルシムは急に声を荒らげた。
「貴様らエヴェンクルガのそういうところがオレは大嫌いだったんだ! 義で一体何ができるってンだ!? 分からせてやるよ、貫くは銃弾……貴様の体をな!」
みるみる彼から余裕が消えていく。
嘲笑は怒号へと変わり、戯れ言は呪いの言葉へと変わった。
彼はその目に強い光を宿し、銃を握りなおす。
体中に怒気をめぐらせ、周囲の火神をいきり立たせていく。
発された気配が肌を焼き、トウカは思わず後ずさりそうになるのを必死にこらえた。
「クッ!?」
「貴様は義を貫くその道で、己の命と仲間の命も貫き殺すことになるのさ!」
この激昂は何なのか。
トウカには分からなかった。
何故この堕ちた男がそれだけの力を出せるのか。
この空気を震わせる力、まさに歴戦のエヴェンクルガが持とうかというそれではないか。
それだけの力を持つ男ならば、何故。
「さぁ、英雄殿がいったい何をできるのか、見せてみな!!」
シルシムはだらりとぶら下がっていた右腕を左肩まで振り上げ、まさに銃を構えんとする。
そうだ、今はそのような思考を許された時間ではない。
彼には彼なりの事情があったのかもしれない。若輩の武士には分からぬ何かなのかもしれない。
だが、何があろうと今負けられないことは同じ! 勝ち生き残るが使命!
感覚を研ぎ済ませろ。
これより先は一つのズレが生死を分かつ、細い細い綱渡り。
戦闘に関しない全ての余計な思考を除去。
呼吸をする暇があれば剣の呼吸を感じろ。
いままでの経験からして銃を打つ動作は全部で4段階に分けられる。
撃鉄をおこす・狙いをつける・固定する・引鉄を引く、だ。「引鉄を引く」は射線上への攻撃と同義と見ていい。
先ほどの失敗から学ぶに、シルシムに関して注意しなければならないのは、この動作がほぼ2段階になっていること。
まず一番の違いとして、銃を固定するという動作がない。
銃というのは発射すると大きな反動がかかるようで、力を込めて持たないと狙いがそれるのだろう。
しかし奴はそれを意識せずとも狙いをずらすことはない。
手下たちとは練度も違うのだろうが、なによりそれを可能とする強靭かつ柔軟な筋力を持っている。かつて剣士としての彼を支えたであろうものを。
またそれ故に全体の動作も非常に素早く滑らかで、引鉄は狙いをつけながらすでに引き絞られている。
わずかな時間差はあるものの、銃口が狙いをつければ次の瞬間攻撃は放たれる。
シルシムが怨嗟のこもった目で照準を定めている。狙うは、眉間。
一秒もしないうちに爆音が轟き、高速の凶弾がトウカを穿つだろう。
高速で思考を展開させながらトウカも武器を握る手に力を込める。
わずかな時間差……問題はその隙を狙えるか、だ。
少しでも早ければ奴は走り出したトウカをゆるりと狙い直すだけ。
遅ければ当然頭蓋を砕かれる。
先ほどの初弾はわざわざ四段階で撃ってきた。そのため二段階で放たれた四弾目に虚をつかれた。
だが、油断なくともシルシム本来の銃撃を一度でもかわすことは困難。
本当にわずかな瞬間をものにしなければならない。
もちろん、初弾をやり過ごしただけでは終わらない。
シルシムと手下の2番目の違いは、とにかく連射が効くということだ。
撃った直後からすぐに撃鉄をおこし、次に備える。
その隙は他の動作にまぎれ、ほとんど無いようなもの。
必ず二撃を相手しなければなるまい。
ではどう二弾目を処理するか。
奴との距離はおよそ大きく四歩分。
初弾をかわすと共に踏み出し、一歩。
奴が狙いを修正しようと銃を動かし始めるところで、二歩。
照準が合うところで、三歩。
そこでまたこの刹那の勝負……再び引鉄を引ききる前に、銃弾が放たれる前に、斬ることが出来るのか。
正直、難しい。
アア、だがもはや迷う暇などない。
――貴方なら……できますわ――
カルラの言葉……ただ信じて進むのみ。
シルシムは斜めに振り下ろすように、狙い定めた眉間へと銃を滑らせていく。
トウカもまた全身に力をため、引き絞られた弓のごとく機会をうかがう。
まだだ。
いまはまだ早すぎる。
わずかな間に放たれるであろう弾丸、打ち抜かれる恐怖が体をせかす。
遅すぎれば当然初撃で死にまみえる。
だがギリギリまで引きつけなくてはならない。
まばたきをする暇さえなく、全ての神経を総動員してその機を待つ。
銃口がゆっくりと眉間へ向く。
まだだ。
いま動けば一撃目さえかわせない。動いた先を狙われる。
銃口の修正の自由は与えるな。
まるで銃口から死神の手が伸びるかのように感じる。
トウカを砕き殺すであろう黒い気配。
ウゴキタイ。
だが体躯という弓を引き絞る手が震えても、血が滲むまで耐えるんだ。
いま必要なのは更なる集中。
ほんの十分の一秒先の死が怖いのなら、百分の一秒の世界に住めばいい。
一秒を一分一時間へ引き伸ばせ。相手の呼吸さえ読み取り、全てを予測しろ。
歪んだ笑みを浮かべ、トリガーに手をかける
まだだ。
初弾を避けたとしても二弾目に対処できない。
相手の予測の範疇に入ってはいけない。ここで回避動作をとるのは先と同じ徹。
ダケドスグニヨケナイト。
ますます迫る死の気配は、トウカの脳裏に無様に打ち抜かれる映像を流す。
ああ、だがこんな映像を見ている暇なんてあるのか?
おびえる本能を打ち負かせ、鋼鉄の意志で体を支配しろ。
筋繊維一本一本の動きを把握、いま全てを一つの武器となす。
銃口が1センチ動く。
まだだ。
引鉄が絞られる。
まだ。
銃口が5ミリ動く。
まだ。
重さを増す引鉄がさらに絞られる。
まだ!
銃口が1ミリ動く。
まだ!!
わずかな瞬間が流れる。
まだっ!!
次の、刹那。
いまだッ!!
銃口が完全に狙いをつけたその瞬間、引鉄がひかれきるその直前。
トウカは左足を大きく斜め前方へ踏み出した。
シルシムの放った弾丸はトウカの髪だけが漂うその空間をいく。
回避、成功。
踏み込んだ足が鳴らした音は炸裂音にかき消され、トウカの耳をうった。
だがそれでもひるむことなくトウカはさらに体を沈め、右足を大きく繰り出す。
シルシムもまた回避に驚き手を止めることはない。
反動でぶれる銃を無理矢理押さえ込み、すぐさま狙いを修正する。
――速い。
その動きはトウカの予想以上に手馴れている。
銃口はすぐさまトウカを追いかけた。
すでに撃鉄も起きている。
だが踏み出した足はまだ地を蹴っていない。
間に合うのか。
――いや、それを間に合わせてこそエヴェンクルガの武人。
トウカは全身に更なる意思を込める。
限界はまだこんなものではない。
この脚は騎馬よりもなお速く走るはずだ。
銃口が眉間を捉えんとする。
……そんなもの、外してみせる。
トウカの脚は更なる加速を得、ついに地へ踏み込んだ。
そしてその動きは一瞬、されど確実にシルシムの意識をも超えていた。
いままでの遅れを取り戻し、逆に先を行く。
踏み込んだ足を強く蹴りこみ、全身のばねから力を伝える。
刀を握る左腕をわずかに引き、最初で最後の一撃を構える。
それこそ放たれる弾丸のように――いま、トウカの三歩目が繰り出された。
シルシムはもはや遅れを取り戻せない。
――だが、彼もまたエヴェンクルガの武人。
その意識は加速し、右腕は銃を狙いへと無理矢理に収めていく。
狙いは瞬間的に修正されていき、引鉄に力が込められる。
トウカも最後の一歩を踏み出すと共に、低く沈み込んだ姿勢から渾身の突きを繰り出した。
全身から力をひねり出し、最小限の動きから最速の攻撃を。
解き放たれた牙は空をうがってシルシムへと向かい、その体を貫かんする。
だが同時にシルシムが完全に狙いを修正。引鉄はもはやひかれ始めている。
――間に合え。
疾く、ただ疾く。剣先はまっすぐに奴の小さな武器へと向かう。
だが、それよりもなお早く……凶弾は、放たれた。
その時、初めてトウカは銃弾というものを眼前で視認する。
ほんの小さな鉛の粒。
冗談みたいな小ささの凶器。
極限まで高められたエヴェンクルガの動体視力が可能にした奇跡の認識だった。
だがそれは音速を超えてトウカへと迫る。
いま反応したところで、動いたときには寸分たがわず眉間を撃ち抜いていることだろう。
そう、だから――やはり勝負はすでに決まっていたのだ。
銃は発射の衝撃でわずかにぶれる。
冷たい鉛の銃弾は時間の流れを無視するかのごとく突き進む。
音よりも速く岩をも砕く力がトウカへ肉薄する。
そして――
・・・・・・・ ・・・・・・・
銃弾はトウカの両頬を切り裂き、後方へと逸れた。
勝利を確信していた男は顔を驚愕に歪める暇もなく、
死を告げたはずの爆音がむなしく響くなか、
銃口の上をかすめるように伸びた鋼鉄の刃に、
その胸を――貫かれた。
「ガはっ」
シルシムは呆然としながら吐血し、ひざを崩す。
胸を鋭くえぐられた彼にこらえる力はなく、そのままドサリと後ろへ倒れた。
刀が抜けると共に大量の血が噴出し、トウカを赤く染める。
「あ……オ、オレは?」
「貴様の――いや貴殿の、負けだ」
その出血はじきに致死量となる。急所を貫かれ、言葉を発していることはほとんど奇跡的なことだ。
トウカは刀を引き戻し、ゆっくりとシルシムの元へと歩み寄る。
「そう、か。ああ、そうだった。はっはは……恐れ入ったよ。まさか銃弾を――切り裂くとは」
「恐れ入ったのはこちらの方だ。貴殿の技量、驚異的だった。某ではどう足掻いても二弾目を撃たせないことは無理だった程に。だから……斬るしかなかった」
「あの突きは銃弾をわける分水嶺の意味もあったのか」
トウカは割れた銃弾に裂かれた頬をなでる。
そんなトウカを口元を緩めて眺めるシルシム。
そこには先ほどまでの怒りはもはやなく、自らを嘲るような笑みを浮かべていた。
「ああ。ちょうど銃口と垂直に刃を滑らせるのは苦労した」
「ハッさすがは、英雄様だよ……。結局ツイてなかったのはオレか、また……」
「急所を貫いた。貴殿には手加減をする余裕など到底見出せなかったのでな。もはや動くことも敵わぬようだが……少しでも苦しみを減らしたいのであれば、もうしゃべるな」
トウカはそう言うと、倒れ付したカルラの元へと急ぎ駈け寄る。
その体の下には黒く変色した血が溜まっていて、撃たれた傷の深さを物語っていた。
だが、まだ体は温かい。わずかに胸が動いているのも分かる。
トウカは傍に膝をつき、すぐに手当てを開始した。
幸いだった。
カルラが受けた銃弾は奇跡的に内臓を傷つけていない。
驚くべきことに彼女の強靭な筋肉は銃弾を受け止め、致命傷を避けていたのだ。
恐らくカルラならじきに目を覚ますだろう。
トウカはあらかたの手当てを終え、ようやく一息をつけた。
「フン、結局仲間の命まで救いやがったか」
そこで死に行くシルシムがトウカに語りかけた。
カルラの手当てが終わるまでずっと押し黙り、何かを考えていたようであった。
トウカはカルラをそっと寝かせると彼を向く。
「ずいぶんと不服そうだな。先程は某たちを見逃そうとしておきながら……」
「何で救えるんだよ」
「何?」
「結局、力ある選ばれし者だけが正義の下に幸福を掴み取るってのか? オレが正義を尊んで全てを失ったのは弱いからか? だから銃っていう力を手に入れたのに! まだ足りないのか!!」
シルシムは力ない手で拳を握り、溢れる感情に顔を歪める。
それは悔しさか。震える声は悲しみに満ちている。
そこにある激情に戸惑うトウカ。それは決着をつける前に彼の発した怒りの裏返しなのか。
「貴殿は、いったい……」
「なぁトウカさんよ、オレだってエヴェンクルガだ。昔は正義を愛し国のために剣を取った」
「あぁ、きっと貴殿はとても素晴らしい武将だったのだろうな」
鍛え上げれられた体躯を見ればよく分かる。
いくつもの傷を負いながら、その度により強くなってきた体。
それは決して自分のためだけでは成せぬこと。それだけ守りたい者がいたということ。
「ケッ、だがヨォ、結局は強大な力の前に何も出来なかった。そしてオレ以上に義が大好きな女は、あっさり殺されちまったンだよ」
「そうか。貴殿は……守れなかったのだな」
「そうさ。正義の名の下でクンネカムンの鉄巨人に挑み、敗れた。そんなことしてなきゃよ、あいつだけでも守れたかもしれないのにヨォ」
「確かに義は、それを貫いたからといって幸福を得られるようなものではない。今回とてカルラが死に、某だけが生き残る可能性もあった」
そう、カルラは自分なら出来ると言い、トウカもそれを信じ立ち向かったが、勝負は絶対じゃない。
カルラが死んでいたら。そのことを思うと、背筋が凍る。
だが、それでも。
「分かってるじゃネェか、それなのに、何故」
「カルラが某を信じ託した。それに応えず生き延びた生は……美しいと、誇れるだろうか」
「うつく、しい?」
「義は貫いたからどうとか、きっとそういうものではないんだ。ただ、貫こうとするその生き方が……美しいのではないだろうか」
「だが、カルラを死に追いやった場合もそれを誇れるのかよ」
「後悔はいくらでもするだろう。だが、きっとその在り方は間違っていないと、そう思う」
それでも、貫くべきことがある。
もちろんそれは自分の人生のために人を犠牲にして良いとか、そういうことではない。
逃げていればきっとカルラの生き方にも泥を塗っていたからこそ。
「某は自分の生き方を、某を支えてくれた人々に誇れるものにしたいと思う。そう、カルラのような人に」
いつもはトウカをからかってばかりいて、何度斬って捨てようと思ったか分からない。
だけど、彼女は共に死線を駆け抜けた仲間で、主を同じくする同士であったから。
「ふむ、聖上ならばもっと上手く言葉に出来るのだろうが」
その主とは、エヴェンクルガにとってなにより大切な存在。
大切な存在になりうる人だからこそ、エヴェンクルガはその人に仕える。
シルシムが守っていたであろうその人も、素晴らしい人物だったのだろう。
彼の絶望が深ければ深いほど、その忠誠がうかがえるから。
それにクンネカムンの軍勢の前に身を犠牲にして民を助けようとした皇……彼に通じるものがある。
「某はまだ若輩者だ。貴殿の言った、義を尊ぶ女性が何を考えていたかは推し量れない。ただ、某はその在り方を、美しいと思う」
最後まで仲間のために自分を犠牲にしたトウカの主。
その在り方はまさにトウカの尊敬するところである。
だから、そんな彼に似ている女性ならば。
「某ならその生き様を誇りに思い……残した思いを、尊重したい」
その言葉にシルシムは、彼女の残した笑顔を思い出した。
自らの死を覚悟し、それでも前を見て笑っていた彼女。
あぁ確かに、その在り方は、美しい。
「そっか、結局オレは……ふふ、一番大切なのは勝利ネェんだ。ただ……あいつを、己を貫いたあいつを、褒めてやればよかったんだなぁ……。は、ははは」
脳裏に、かつてのことが走馬灯のように浮かんでいく。
彼が仕えた国。クンネカムンの東に位置する小国。
そこを治めた皇。若く聡明な女皇。正義を尊び、常に民のために身を犠牲にした。
蹂躙される大地。情け容赦なく死に追いやられていく民。
こぼれていく命を必死に救わんとした彼女。
眩しいその姿は、常に彼の太陽であった。
彼女の想いを汲み取れず、力のなさを呪って邪道に堕ちた。もはやこの身のいくつ先は地獄のみ。
だけど。
――もしいつか、ディネボクシリから這い上がることが出来たなら……彼女はもう一度オレに笑いかけてくれるだろうか……?
そんな日に胸焦がれて。
彼は、事切れた。
「ふぅ、ようやく都か。この街ではゆっくりとしたいものだな」
「そうですわね、今回はさすがの私も疲れましたわ」
砦で一晩を明かすと、カルラも目を覚まし二人で最寄の都へ向かった。
良い薬と食料を調達し、激戦の疲れを癒そうというわけだ。
治安のせいか人々の顔には影があるが、それでも多くの人々が往来し流通も盛んな街のようで、活気がある。
「ふふ、良い宿をとろうか。カルラ殿はゆっくりと身を休めると良い」
「あなたの方からそう言ってくれるなんてね、私も気が軽くなりますわ」
「気が軽く?」
天気もよく、降り注ぐ太陽が気持ちの良い日だ。
駆け抜ける子供たちの笑い声も心地よい。
しかし、しかし。
「ええ、だって私もいつもいつも騙す形になって心痛めていましたの」
「待て、何だこの不穏な気配は」
立ち込めるこの空気はなんだろう。主にカルラから立ち上るこの空気は。
そんなカルラは、にこやかに笑った。
「さぁさ、お侍さん。綺麗にしておくれよ」
「あぁ、承った……って、これは!」
「掃除婦の姿もよく似合ってますわよ」
ここは良い宿だ。実に良い宿だ。女将さんも仕事の出来る雰囲気だ。
そしてトウカも仕事の出来る格好だ。
白い帽子を耳元までかぶり、飛び出る耳が可愛らしく動く。
体にははかまの上に白い割烹着。良いお嫁さんになるだろう。
左手には刀の代わりに竹箒。真っ赤になった顔を柄で隠す。
「き、貴様!」
「あら、だって無一文なんですもの。仕事をしなければ良い宿には泊まれませんわ」
「それは貴様が後先考えずに硬貨を投げまくったからだろう! こら、酒なんか飲んでないで貴様も!」
「アァ、腹の傷に……!」
「う。わ、わかった。休んでいろ」
「アァ、お酒がしみますわ〜」
「……ク、ク、クケェーー!!!!」
その日、とある街に新たな禍日神が誕生した。
部屋をひどく汚してしまうと飛んで現われ、汚した本人ごと部屋を綺麗にしてしまうという。
でもそれはまた、別のお話。