春、未だ遠く
徐々に冷たさを帯び始めた秋風が草原を吹き抜け、金色の草原に波が生まれる。
少し強くなり始めた風に弄ばれる赤みがかった髪をそっと押さえながら、美汐は夕日に染まる街を見下ろしていた。
「また、冬が来るんですね……」
小さく呟いた言葉はものみの丘に吹く風に運ばれ、高い高い空へと消える。
夜の気配が見え始めた金色の丘に、美汐は独り、ただ立っていた。
丘を吹く風に身体を晒し、酷く冷めた瞳で街を見つめている。
「美汐、やっぱりここに居たか」
「……祐一さん」
夕陽も沈み、空の色が藍から紺へと近づいた頃。
ゆっくりとした足取りで、祐一が丘を登ってきた。
祐一は美汐の右隣に立つと、コートの内ポケットから携帯電話を取り出し、電話をかけた。
「……もしもし? はい、見つけました。ええ、大丈夫ですよ。はい、それでは」
端的に要件を伝え終えると、祐一はすぐに電話を切った。
それを待ってから、視線は街に向けたままで、美汐は祐一に尋ねる。
「お母さん、ですか?」
「ああ、そうだよ。心配してたぞ? こんな時間になっても帰って来ないし、携帯にも繋がらないってな」
「そうですか」
祐一の言葉を気にした風もなく、美汐はそっけなく相槌を打った。
そんな美汐の様子に祐一は軽く肩を竦めたが、何も言わず美汐と並んで街へと視線を向ける。
「相変わらず、寒がりなんですね」
ずっと街を見つめていた美汐が、ほんの僅か、視線を祐一へ向け、呟く。
まだ十月の半ばだというのに、祐一は冬用のコートをしっかりと着込んでいた。
「悪かったな」
「別に悪くはありませんが。でも、一冬を越しても慣れなかったんですね」
「そうだな」
「そうしてそのまま、二度目の冬を迎えるんですね」
「そうだな」
祐一は、空を仰いだ。
既に昼の残滓は残っていない、夜の帳に包まれ、星と月とに飾られた空を。
小さく吐いた溜め息が白く濁り、その空へと上っていく。
冬の気配は、もうすぐ其処まで近づいていた。
「あれからもう、季節が一巡りするんだな……」
空を見上げたまま、祐一が呟く。
風に掻き消されてしまいそうな、小さな声。
けれど美汐は、その声を聞き、答えを返した。
「はい。時間は、止まる事無く流れていますから」
「望むと望まざるとに関わらず、か……」
「祐一さんは、時間が止まることを望むのですか?」
美汐が問いかける。
祐一は目を閉じて答えを探したが、結局見つからなかった。
だから、ありのままを素直に答える。
「さて、な……。どうなんだろうか。美汐はどうだ?」
美汐は祐一の言葉に、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
そして、祐一と同じ答えを口にする。
「どうなんでしょうね」
美汐の声は、穏やかだった。
まるで何かに、安堵を得たかのように。
祐一は軽く頭を振ると、視線を美汐に向けた。
「さ、帰るぞ美汐。もうすっかり夜になっちまってるしな」
「はい」
美汐は素直に頷いた。
そもそも、この場所に居る事に意味など無かったのだから。
だから、迎えが来たのならば一緒に帰る事に異論などなかった。
「寒くないか?」
「少し、寒いかもしれませんね」
「ま、制服の上に何も着てなけりゃ寒くて当たり前だな」
そう言った祐一はコートを脱ぎ、美汐の肩にそれをかける。
寒がりの先輩がした珍しい行動に、思わず美汐は祐一の顔を見上げた。
祐一は、そっぽを向いていた。
「祐一さん?」
「着てろ。風邪を引かれても困るしな」
美汐が問いかけると、ぶっきらぼうに答える。
どうやら照れているらしい。
恐らく、柄にもない事をしていると自覚しているのだろう。
そんな様子を見た美汐の心に、小さな悪戯心が頭をもたげた。
「祐一さんは寒くないんですか?」
「寒いけどな。まぁ、此処にずっと立ちんぼだったお前は身体冷やしちまってるだろうし」
「それでは、こうしましょう」
言うなり、美汐は祐一の左腕を抱え込むようにして、互いの身体をぴったりとくっつける。
慌てて離れようとする祐一の腕を、もっと強く抱え込みながら美汐は言葉を紡いだ。
「こうしていれば、少しは暖かいです」
その言葉を聞いた祐一は、身体から力を抜いた。
そして、空いている右手で美汐の頭をそっと撫でる。
「そうだな……。美汐は、暖かいな」
「はい」
寄り添ったまま、ゆっくりと歩き始める。
一人きりでは凍えてしまうような寒さでも。
二人寄り添っていれば、耐えられるかもしれないから。
例えその温もりが、互いが本当に求めているもので無いのだとしても。
ざわついた放課後の喧騒の中で、今日も変わらず美坂チームは一緒に行動していた。
例によって例の如く、百花屋へと向かいつつ、返って来たばかりの模試の結果を尋ねあう。
「相沢、お前、結果どうだった?」
「ん、第一志望A判定」
「かーっ、そりゃよござんしたねぇ。俺なんてD判定だぜ……」
祐一の答えに対して、北川は顔を顰める。
そんな北川を見ながら、香里は呆れた様に溜め息を吐いた。
「北川君、それちょっと危ないんじゃない? もう十月よ?」
「あー、何とかなるって……多分」
「あなた一人だけ留年、なんてことにならなければいいわね?」
「美坂ぁ、心底哀れそうに言うのは止めてくれよな……」
香里の言葉に、北川はがっくりと肩を落とした。
が、すぐに顔を上げて香里に問いかける。
「そういう美坂は……って、聞くまでも無かったか」
「そうね。因みにあたしは当然第一志望A判定よ」
得意顔で返す香里。
北川は更に肩を落とし、深い溜め息をついた。
そんな北川を尻目に、祐一が笑いながら香里に声をかける。
「おお、香里もか。お互い、気を抜かなきゃ大丈夫そうだな」
「ええ。このままのペースを維持したいわね」
「ち、優等生様は気楽でいいねぇ」
北川は、拗ねたような声音で吐き捨てた。
「えっと、わたしはね」
「いや、水瀬はもう陸上で推薦決まってるから結果は関係ないだろ?」
皆が口々に結果を伝えあう中、名雪はのほほんとした声で自分の事を話そうとした。
だが、北川の一言で切って捨てられる。
祐一も、北川に追従して言う。
「それ以前に模試自体を受けていないはずだが」
「そういえばそうだったわね。受けてても、寝てただけかもしれないけど」
「え、えっと、それはその……」
香里にまで畳み掛けられ、名雪は答えに詰まり、ごにょごにょと口の中で呟いた。
そんな名雪に苦笑しながら、香里が続けて言う。
「それにしても、受験勉強から早々と開放されるなんて羨ましい事この上ないわ」
「全くだな、名雪の癖に」
「あー、俺にも推薦もらえるような特技があればなぁ」
「うぅ、わたしだけ仲間外れ……」
いつもの顔ぶれで、いつものやり取り。
それは変わる事の無い日常で。
皆、そんな日々がいつまでも続くのだと、根拠も無く漠然と考えていた。
「はぁ、何が仲間外れよ。私たちの志望校の合格が決まっているって言うのに」
「そうだぜ、水瀬さん。俺達はどっちかと言えば追いかける立場なんだぜ?」
「そうね。まぁ、北川君さえ頑張れば、四人揃って進学出来るでしょうけど」
そう言って香里が笑う。
北川は再び肩を落とし、名雪はそんな二人を見ながら苦笑いしている。
皆、こんな時間が続くのだと思っていた。
ただ一人、祐一を除いて。
「……あー、あのな」
「どうしたの、相沢君?」
「いや、そういえば皆にはまだ言ってなかったなぁ、と」
「何を?」
北川の問いかけに、祐一は頭をかきながら答える。
「や、俺の第一志望、県外の大学なんだけど」
「あ、そうなんだ。祐一、県外の大学……県外の大学受けるのっ!?」
「相沢君、それ、本当なの?」
名雪と香里の二人が思わず足を止め、驚いた顔で祐一に問いかけた。
「こんな事で嘘言っても仕様がないだろ?」
「そりゃそうだが……しかし、なんで今まで黙ってたんだ?」
「あー、別に隠す心算も無かったんだがな。偶々言いそびれてただけで」
北川の問いにも、祐一はいつも通りの飄々とした態度を崩さずに答えた。
「そっか、相沢君は大学別になるんだ」
「まだ知り合って一年も経ってないが……寂しくなるな」
「おいおい、気の早い奴等だな。現時点での第一志望ってだけで、まだそこに行くって決まったわけじゃないんだぞ?
大体、落ちる可能性だってある訳だし」
「そりゃそうだが」
「ま、流石に私立だと県外は金銭的に無理だって親に言われたからな。滑り止めはこの街の大学になるさ」
少し沈んでしまった雰囲気を軽くしようと、祐一は努めて軽い調子で言う。
そんな祐一の気持ちを知ってか、北川も香里もすぐにいつもの調子を取り戻して軽口を叩いた。
「はぁ、とてもじゃないけどA判定取れてる人間の台詞じゃないわね」
「全くだな。これだから優等生ってヤツは……」
「そうか?」
「そうよ」
「そうだな」
「そうか」
お互いに顔を見合わせて、声を立てて笑う三人。
だが、名雪だけは一人俯き無言でいた。
「……名雪? どうかしたか?」
そんな名雪の様子に気付いた祐一が声をかける。
俯いていた名雪はゆっくりと顔を上げ、恐る恐る口を開いた。
「ねぇ、祐一。祐一が県外の大学に行きたいって思ったのは……」
「ん?」
途中で言葉を切る名雪。
祐一は先を促したが、名雪は首を振って話題を変えた。
「……ううん、なんでもない。それよりも、祐一、一人暮らしなんてできるの?
お料理、全然出来ないんじゃなかったっけ?」
「あー、ま、何とかなるだろ。人間、必要に迫られりゃ嫌でも覚えるさ」
名雪の指摘に対して、祐一はバツが悪そうに答える。
そんな祐一の姿に笑みを漏らしながら、名雪はさらなる祐一の汚点を暴露した。
「でも祐一、前にカップ焼きそばのお湯捨てずにソース入れたことがあるとか言ってなかった?」
「うわ、それマジか相沢。流石に俺でもそんな事しないぞ?」
「何て言うか、間抜けなことこの上ないわね」
「ちょっとしたミスなのに、酷い言われようだな……」
友人たちの容赦の無い言葉に、祐一は項垂れた。
だが、すぐに三人と一緒になって笑い出す。
冬の気配が色濃くなる中、四人は何時もの様に笑いあっていた。
「相沢、これから暇あるか?」
あくる日の放課後、帰り支度をしていた祐一に、北川が声をかけた。
「んー、特にこれといって用事は無いが」
「だったら久しぶりにゲーセンに行かないか? 新作の格ゲーが入ったらしいんだよ」
「ふむ、そうだな……ま、偶には息抜きもいいか」
「よし、そうと決まったら早速ゴーだ」
「あいよ」
テンションの上がっている北川に苦笑しながら、祐一は手早く荷物を纏める。
そして席を立とうとした時、ドアのすぐ近くの席の女子から声が掛かった。
「相沢くーん、お客さんだよー」
「ん?」
声に答えつつ視線をやると、教室の入り口に美汐が立っていた。
やはり上級生の教室と言うのは居心地が悪いのか、美汐は普段と比べると多少落ち着かないように見えた。
もっとも、それに気付いているのは祐一くらいだろうが。
「あー、北川」
「皆まで言うな。男友達と彼女、どちらを優先させるかなんて決まりきってる」
「スマンな」
「何、気にするな。埋め合わせは期待させてもらうからな」
「ああ、今度何か奢る。じゃ、ホント悪いな」
「いいって。ホレ、天野さんをあまり待たせるな」
「さんきゅ」
北川に軽く手を振って、祐一は美汐の元に駆け寄る。
「悪い、待たせた」
「いえ、そんな事は」
「とりあえず場所を変えよう。此処じゃ落ち着かない」
「……そうですね」
周囲から集まる興味津々と言った風情の視線から避けるため、二人はそそくさと教室から離れた。
とりあえず昇降口へ向かいながら、祐一は美汐に尋ねる。
「で、今日はどうしたんだ? 美汐がわざわざ俺の教室まで来るなんて」
「これからものみの丘に行きませんか?」
「ものみの丘に、か?」
思いがけない誘いの言葉に、祐一は怪訝な顔で聞き返した。
だが、美汐は気にした様子も無く言葉を続ける。
「はい。祐一さんの都合が付かないなら、止めにしますけど」
「いや、それは別に構わないが」
「では、行きましょう」
「ん、わかった」
下駄箱の前で別れ、靴を履いてから昇降口の外で合流する。
そして特に会話をするでもなく、二人並んで街外れの丘へ歩き出した。
ゆっくりとした調子で小一時間歩き、丘の麓に辿り着いた。
冬の訪れを目前に控ええ、どこか物寂しさを感じさせる丘を登り、街を一望できる場所に立つ。
「それで、本当にどうしたんだ?」
「祐一さんは、この街がお嫌いですか?」
「は?」
祐一の質問に対して、質問で返す美汐。
唐突なその質問に、祐一は思わず間抜けな声を出してしまった。
「第一志望が県外だとお聞きしたものですから」
「誰から……って、まぁ、誰からでもいいか」
「それで、祐一さんはこの街がお嫌いなんですか?」
落ち着いた調子で、美汐は繰り返し問いかける。
祐一は無言で視線を街の方へ向ける。
そして暫くの間街を見つめた後、小さく息を吐いて答えを口にした。
「嫌い……では、無いな」
「そうですか」
「ああ。この街も、この街に住む人達も、皆好きだよ」
「では、何故県外の大学を? 美坂先輩や水瀬先輩と同じ大学でも良かったのでは?」
「それは……行きたい学部が無かったからだよ」
「そう、ですか」
そこで、会話は途切れた。
祐一と美汐は、お互いに無言のまま夕暮れに染まり始めた街を見下ろす。
「祐一さん……」
ふいに、美汐が祐一の名を呼んだ。
「なんだ?」
「祐一さんも、私を……」
俯き、小さく呟く美汐。
その言葉は祐一の元に届く前に、風に攫われて消えた。
「美汐……?」
「そろそろ帰りましょう。もうすぐ陽も暮れますから」
「あ、ああ、そうだな。帰ろうか」
何事も無かったかのように言う美汐に違和感を感じつつも、祐一は頷いた。
そして、街の方へと歩き始める。
けれど美汐はその場から動かず、じっと祐一を見つめている。
数メートル歩いた所で、祐一は美汐が付いて来ていないのに気付き振り返った。
「美汐、帰るんじゃなかったのか?」
「はい、帰ります」
祐一の質問に答えた美汐は、小走りに祐一の傍まで駆け寄る。
「えいっ」
そしてその勢いのまま祐一の腕を取り、ぴったりと身体をくっつけた。
「美汐?」
珍しい行動に、祐一は思わず美汐の名を呼んだ。
「駄目ですか?」
「いや、そんな事は無いぞ」
美汐の問いかけに、祐一は即答する。
「では、帰りましょう」
祐一の答えに満足した美汐は、柔らかな微笑を浮かべた。
それを見た祐一も笑顔を浮かべ、美汐に歩調を合わせて歩き始める。
「……そういえば」
「どうかしましたか、祐一さん?」
歩きながら、祐一がふと漏らした言葉に美汐が反応した。
祐一は苦笑しながら答える。
「いや、この間ここに来た時も帰りは腕を組んでたな、と思ってな。それだけだ」
「この間……ああ、祐一さんが迎えに来て下さった時ですか。そういえば、そうでしたね」
ゆっくり、ゆっくりと丘を下る。
「祐一さんは」
「ん?」
「祐一さんは、私とこういう風に腕を組んだりするの、嫌じゃないですか?」
「はは、嫌なら振り払ってるよ。俺がそういう奴だって、美汐は知ってるだろう」
「どうでしょうか。祐一さんは優柔不断な所がありますし」
「酷い言われようだな……」
金色の丘を後にして、赤みを帯びた街を二人で歩く。
他愛の無い話をしながら歩き、やがて二人は美汐の家についた。
「それじゃ、また明日な」
「祐一さん」
別れの挨拶を告げ、自分の家に帰ろうとした祐一を美汐が呼び止めた。
「……いえ、何でもありません。お休みなさい、祐一さん」
「そうか。何かあるんだったら言えよ?」
「はい」
「じゃあな。お休み、美汐」
ひらひらと手を振って、祐一は家路につく。
そしてその夜、祐一は夢を見た。
祐一と美汐の関係が、今の奇妙な恋人もどきへと変わった時の夢を。
ちりん、ちりん……。
祐一の手首に巻きつけられた小さな鈴が、風に揺られて小さな音を立てる。
暦の上では春を迎えたとは言え、ものみの丘を吹き抜ける風はまだまだ冷たい。
そんな身を切るような風が吹く中、祐一は独り、ものみの丘に立っていた。
「相沢さん」
名を呼ばれ祐一が振り返ると、そこにはいつの間にか美汐が佇んでいた。
赤みがかった髪を風に弄ばれるままにしながら、美汐は祐一をじっと見つめている。
「天野、か……」
「また、ここにいらっしゃっていたんですね」
「そう言うお前も、な……」
そう言った祐一は美汐から視線を外し、その目を街へと向ける。
美汐は何も言わず、祐一の隣に立って同じように夕闇の迫る街を見た。
お互いに一言も発する事無く、ただ時間だけが流れていく。
ちりん、ちりん。
二人を包むのは、風に揺れる下草の擦れ合う音と、小さな鈴の音。
そして、春の気配を覆い隠す冷たい空気と、赤から藍へと変わりゆく空だけ。
「何も、変わらないんだよな……」
「相沢さん?」
「真琴が居なくなっても、何も変わらないまま、ただ時間だけが流れていく」
「そう、ですね」
再び沈黙が辺りを覆う。
既に陽は沈み、空気は益々冷たくなってきている。
「寒い、な……」
「そうですね……」
ちりん、ちりん。
「相沢さん」
「何だ、天野?」
街を見つめていた美汐が、ふいに祐一の方へと視線を移した。
祐一も街から視線を外し、美汐へと向き直る。
美汐は何も言わず祐一に寄り添うと、そのまま祐一の胸に縋り付いた。
「あま、の……?」
「私も、寒いです……」
そう呟いた美汐は、祐一の胸元に顔を押し付ける。
そして、そのまま震える声で、言葉を続けた。
「ずっと、独りで生きていくつもりでした。誰にも心を許さず、大事な人なんて必要ないと自分に言い聞かせて。
そうすれば、あの子を失った時の様な哀しみを味わう事も無いだろうから、と。
けれど私は、相沢さんと、真琴に出会ってしまいました。
もうあんな思いはしたくなかったのに、それでも見てみぬふりは出来なくて。
堅く堅く閉ざしていた筈の心の扉は、いつの間にか相沢さん達に開けられてしまっていました。
大切な人が傍に居てくれる心地良さを、暖かさを、思い出してしまったんです」
「……」
訥々と、美汐が心の内を語る。
祐一は何も言うことが出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「そしてあの子と同じように、真琴は消えてしまいました。
すぐ傍にあった温もりが無くなってしまって、寒さに凍えてしまいそうで」
そこで美汐は言葉を切り、祐一の顔を見上げた。
「だから、もし。もし、相沢さんがお嫌でなければ、これからも私の傍に居て下さい。もう、独りに戻るのは嫌ですから。
たった独りで寒さに震えて過ごすことに、もうきっと私は耐えられないでしょうから。真琴の代わりだと思っていても構いません。
お互いに同じ傷を持つもの同士ですから、それなりに上手くやっていけると思いませんか?」
「……そう、だな。独りは、寒いもんな」
美汐の言葉にそう答えた祐一は、自分の手首に結び付けていた小さな鈴を外し、ポケットに仕舞った。
そしてそっと美汐を抱きしめる。
美汐は、自分の身体を包み込む腕の暖かさに目を細めながら、祐一に確認を取る。
「同意していただいたと思ってよろしいですか?」
「ああ。改めてよろしくな、天野」
「美汐、です」
祐一の腕の中で微笑む美汐が、柔らかな調子で呼称の訂正をする。
「これからは美汐と呼んでください。私も祐一さんとお呼びしますから」
「わかったよ、美汐」
「こちらこそ、宜しくお願いしますね、祐一さん」
そして美汐は、ごく自然な動作で背伸びをして。
祐一の唇に、自分のそれを重ねた。
美汐の行動に驚いた祐一も、すぐに目を閉じて美汐を抱きしめる腕に力を込める。
やがてどちらからともなく唇が離れ、二人の間に僅かな距離が開く。
「帰るか」
「そうですね、陽も暮れてしまいましたし」
抱き合ったまま静かに笑いあう。
そしてお互いにゆっくりと体を離した。
「祐一さん」
「ん?」
「手を、繋いで下さいますか?」
「はは、それくらいお安い御用だよ。ここは寒いし、さっさと帰ろう。家まで送ってくから」
「はい、お言葉に甘えさせて頂きますね」
祐一と美汐は手を繋ぎ、ものみの丘を後にする。
互いに、残された温もりを離すまいと確りと手を繋いだままで。
三月六日。
「祐一、届いてるわよー」
相沢家に、祐一の国立大学前期日程入学試験の合否結果の通知が届いた。
「どれどれ、結果は……」
「どうだったの?」
「ん」
母親の言葉に答えず、祐一は封筒の中身を差し出した。
そこに書かれていた文字は……。
「上記の者、本学への入学を許可する……。あらあら、今晩はご馳走にしなくちゃね」
要約すれば、合格、と言うことだった。
「あら、何処か出かけるの?」
「学校行って来る。一応、合格しましたって報告はしといた方がいいだろう?」
「そうね、いってらっしゃい」
「ん」
祐一は一度部屋に戻って制服に着替え、家を出た。
まだまだ冬の残滓の多く残る住宅街を、のんびりと歩いて学校に向かう。
「あら、相沢くん」
「ん? おお、香里か」
「奇遇ね、こんな所で会うなんて」
「そうだな」
途中、祐一と同じく制服を着た香里と出会った。
「制服って事は学校か?」
「そういう相沢くんもね。もしかして用件も同じかしら?」
「あー、そうだな。多分同じじゃないか?」
「ふふ、じゃあおめでとうって言うべきかしら」
「んじゃこっちも。おめでとう、香里」
「アリガト」
お互いに祝いの言葉を口にして、笑う。
面子は足りないが、それでもいつもと同じようにくだらない話で盛り上がる。
「そういえば」
しばらくして、祐一はふとある事に気付いた。
とりあえず自分の疑問を解消してくれるであろう、隣を歩く同級生に尋ねる。
「北川はどうなったんだ? 香里の合格通知が来てるって事は」
「聞かないで」
祐一の言葉を、眉間に皺を寄せた香里がぴしゃりと断ち切った。
先ほどまでの笑顔が嘘のように、表情が引きつっている。
「全く、どれだけ勉強見てあげたと思ってるのよ……」
「あーそれはなんと言うか……ご愁傷様?」
「はぁ、これでもうしばらく面倒見てあげなきゃいけないのかと思うと、ねぇ」
「ははは、まあ、こっちは楽になった事だし俺も手伝うから、見捨ててやるなよ」
「……そうね。ここで見捨てたら今までの労力が無駄になるわけだし」
香里は溜め息を吐き、がっくりと肩を落とした。
その様子を見ながら、祐一は苦笑する。
「しっかし、北川と香里の仲も不思議だよなぁ」
「どうしてよ」
「いや、マンツーマンで勉強見てやったりしてるのに、別に付き合ってるわけでも無いんだろう?」
「そうね。まぁ、私にとって北川くんは出来の悪い弟みたいな感じだしね」
「……北川、報われないなぁ」
「? 何か言った?」
「いや、何でもないよ」
どうやら実ることの無さそうな友人の恋心の行く末に哀れみを感じる祐一。
香里はぶつぶつと小声で北川の文句を言っている。
そうこうしている内に学校に辿り着いた。
「ほれ、んな顔してると結果を勘違いされるぞ?」
「……それもそうね。とりあえず早い所職員室に行きましょうか」
「だな」
まだ授業が行われている為、静まり返っている廊下を二人が並んで歩く。
昇降口から程近い職員室の前に来ると、香里がドアをノックした。
「失礼します」
「しつれいしまーす」
「ん? 相沢に美坂か。どうした?」
職員室にはちょうど二人の担任教師が居た。
祐一と香里の姿を見て、机の上に出してあった書類を簡単に片付けてから二人を手招きで呼ぶ。
「や、合格の報告に」
「同じく、です」
「おお、そうかそうか!」
呼ばれるままに二人とも担任教師の所まで歩き、とりあえず用件を口にした。
喜ばしい報告に、担任の顔もほころぶ。
「ま、二人とも模試の結果なんかも十分に安全圏だったしな。とりあえず何はともあれ、おめでとう。
しかし美坂は医学部、相沢は天下のT工大か。いやぁ、俺も鼻が高いよ。」
興奮気味の担任が、二人の方をバシバシと叩く。
「はは、有難う御座います」
「有難う御座います」
機嫌良く笑う担任に、祐一も香里も笑いながら軽く頭を下げた。
「じゃ、今日は報告に来ただけなんでもう帰ります」
「そうか」
「はい。失礼しましたー」
「失礼しました」
用事を済ませた二人は、揃って職員室を出た。
「相沢くんはもう帰るのよね?」
「ああ。そう言う言い方するって事は香里はまだ帰らないのか?」
「ええ。私は部室の方に行くつもりよ。まだ、私物が幾つか残ってるし」
「そか。んじゃ、またな」
「さよなら」
二人とも手を振って別れる。
祐一は、もう卒業してしまった母校を感慨深く感じながら、家に帰った。
〜〜〜♪
祐一が引越しの為に荷物の整理をしていると、携帯電話が着信を知らせた。
「美汐、か」
携帯のディスプレイに表示された名前は『天野 美汐』。
とりあえず祐一は通話ボタンをプッシュし、電話に出る。
「もしもし?」
『こんにちは、祐一さん』
「ああ、こんにちは、美汐」
丁寧に挨拶する美汐に、祐一も挨拶を返す。
そしてすぐに美汐が用件を切り出してきた。
『あの、今からお時間、取れますか?』
「ん、別に構わんが。電話じゃ駄目なのか?」
『そうですね、電話ではちょっと』
祐一の言葉に、美汐が言葉を濁す。
祐一は特に気にする事もなく続けた。
「解った。じゃ、何処で会う?」
『三十分後に百花屋で、どうですか?』
「オッケー、三十分後に百花屋な」
『はい、それでは失礼します』
「ああ、また後でな」
簡単に待ち合わせの場所と時間を決め、電話を切る。
ぐるりと部屋の中を見回すが。
「キリのいい所まで、ってのも無理だな。帰ってからやるか」
そう呟いてから上着を羽織り、出かける事にした。
トントントンと、リズム良く階段を駆け下りる。
「あら祐一、お出かけ? 荷物の整理は終わったの?」
祐一が階段を下りる音を聞き、祐一の母親が台所から顔を出して問いかける。
「ちょっと友達と会って来る。荷物の方は帰ってからやるよ。そんなに遅くならないと思うし」
「そう、いってらっしゃい。まだまだ寒いから気をつけなさいね」
「ん、解ってるよ」
母親に軽く返し、祐一は外に出た。
「ふむ、時間もあるしのんびり歩くか」
空気はまだ冷たいが、少しずつ強くなり始めた陽射しを心地良く感じながら、百花屋までの道を歩く。
二十分程かけて、祐一は目的地に辿り着いた。
カランカラン、とドアベルの鳴る音を響かせて店内に入る。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
店内に入った祐一を迎えたのは、綺麗な金髪を黒いリボンで所謂ツインテールに纏めた蒼い瞳のウェイトレスだった。
「いや、待ち合わせなんだが……」
ウェイトレスに答えながら祐一は軽く店内を見回す。
「祐一さん、こちらです」
「ああ、もう来てたみたいだな」
祐一が見つけるよりも早く、店内のやや奥まった所にあるテーブルについていた美汐が声を上げた。
祐一はそのまま美汐のもとに歩み寄る。
「ご注文はどうなさいますか?」
祐一が座った所でちょうど、ウェイトレスが水とお絞りを持ってきた。
「美汐、注文は申してるのか?」
「いえ、まだです。祐一さんが来てからにするつもりでしたから」
「そか。もう決めてるのか?」
「はい」
美汐に確認を取った祐一は、ウェイトレスに注文を告げる。
「なら、俺はブレンドを。美汐は?」
「私は抹茶シフォンとアールグレイのセットを」
「ご注文を繰り返させて頂きます。オリジナルブレンドコーヒーをお一つと、抹茶シフォンとアールグレイのセットをお一つ。
以上で宜しいでしょうか?」
「ん、お願いします」
「はい、それでは少々お待ちください」
にこやかにそう言ったウェイトレスは、メニューを回収してきびきびとオーダーを通しに行った。
「話は……注文したのが来てからでいいか。中途半端に切られるのもあれだし」
「そうですね。それよりも、突然呼び出したりしてすみませんでした」
「気にするな。別に忙しい身分でも無いしな」
「そう言っていただけると助かります」
とりあえず二人は注文した品物が来るまでの時間を雑談しながら待つ事にした。
「お待たせしました。こちらオリジナルブレンドコーヒーです。
それからこちらが抹茶シフォンのセットです。それではごゆっくりどうぞ」
五分ほど待つと、頼んでいたものが出てきた。
相変わらずきびきびとした動作で戻っていくウェイトレスを見送ってから、祐一は美汐に本題を切り出した。
「で、どうしたんだ、今日は?」
「どうしても、祐一さんにお聞きしたい事がありまして」
真剣な眼差しで祐一を見据える美汐。
そんな美汐の様子を受けて、祐一も居住まいを正した。
「以前、祐一さんに『この街は嫌いか』と、尋ねた事がありましたよね?」
「……ああ、あったな」
美汐の質問に、祐一は記憶を手繰りつつ答える。
「その時祐一さんは、『嫌いではない』と仰いました」
「そうだな。確か、そう言った」
「それは、今も変わりませんか?」
「ああ、変わらないよ」
祐一は即答した。
美汐はその答えに満足気な笑みを浮かべたが、すぐに表情を戻し口を開く。
「それでは、祐一さん。もう一つお聞きしたいのですが」
「ああ、何だ?」
そして美汐は紅茶を一旦口に含み、喉を潤してからゆっくりと尋ねた。
「祐一さん。この街に居るのは、辛いですか?」
ピンポーン。
バイトから帰宅した祐一がシャワーを浴びた後に寛いでいると、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だ、こんな遅い時間に……?」
時計を見ると時刻はもう十一時を回っている。
大学に入学してから一ヶ月足らずの祐一には、連絡も無くこんな時間に尋ねてくるような友人も居ない。
ピンポーン。
考え込んでいる内に再びチャイムが鳴った。
「はーい」
とりあえず出てみれば解ると割り切って、祐一は簡単に身だしなみを整えつつ玄関に向かう。
「はい、どちら様……って」
鍵を外し、ドアを開けた先に居たのは。
「どうも、祐一さん。ご無沙汰しています」
「……み、しお?」
北の街に居るはずの天野 美汐だった。
「一体、どうしたんだ?」
「独りで居る事に、耐えられなくなってしまいまして」
「え?」
混乱しつつも祐一は美汐に尋ねたが、返ってきた一言で更に混乱してしまう。
事態を飲み込めず立ち尽くす祐一に、美汐は抱きついた。
「寂しくて、壊れてしまいそうだったので家を飛び出してきました」
「どういう、事だ? いや、それよりも、とりあえず上がれ。こんな所で長々と話し込むもんじゃないし」
「はい、御邪魔します」
何が何だか解らないまま、とりあえず祐一は美汐を部屋に上げた。
「えーと、お茶でいいか? 安物の茶葉だが」
「お構いなく」
唐突に現れたが、いつも通りの受け答えをする美汐の様子を見て祐一も少し落ち着きを取り戻す。
とりあえずクッションに美汐を座らせて、祐一は手早くお茶を淹れた。
「粗茶ですが。……と、お茶請けが無かったな」
「構いませんよ」
言いつつお茶を受け取り、美汐が口をつける。
祐一も改めて茶菓子を取りに行くのは止めにして、美汐の正面に座ってお茶を口にした。
そして大きく深呼吸をして気を落ち着けると、改めて美汐に質問した。
「で、本当にどうしたんだ? 連絡も無く突然やってくるなんて」
「はい。先程も言った通り、独りでいる事に耐えられなくなりまして」
「いや、それじゃあ訳が解らんのだが」
「……それもそうですね。どうやら、祐一さんの顔を見て、気が抜けてしまったようです」
そう言って苦笑しなgらお茶を飲む美汐。
改めて表情を観察してみれば、確かに何処か疲れた様子が見て取れる事に祐一は気付いた。
「実は、父がニューヨーク支社に移籍する事になりまして。
私は家事も一通り出来ますから、一人暮らしでも大丈夫だろう、と母も父と一緒に渡米してしまったんです。
それで、広い家に独りきりになってしまいまして……。
一週間程はなんとか過ごしたんですけれど、誰も居ない家の中に居ると寂しさに押し潰されそうで」
美汐は少しずつ、言葉を紡いでいく。
祐一は時折相槌を打ちつつ、美汐の話を聞いていた。
「以前、祐一さんがあの街を立つ前にお聞きしましたよね?『あの街に居るのは辛いか?』と。
そして祐一さんは、『真琴の事を思い出させるあの街に居るのは辛い』と、そう仰いました。
私も、同じです。両親が居た時は、それでも何とか抑えることが出来ました。
けれど、あの家に独りきりでいると、ふとした拍子に思い出してしまうんです。
幼い頃にほんの短い時間を共にした、あの子の事を。そして街を歩けば、真琴の事を思い出します。
あの子が、真琴が傍に居てくれた時の暖かさを思い出して、そして、その温もりが感じられないのがとても辛いんです」
「美汐……」
「ですから、ここに置いてくださいませんか? もう、独りで居るのは嫌なんです。
置いてくださるなら、何だってします。ですから、お願いします……」
すがるような瞳で、美汐が祐一を見つめる。
祐一は暫く考え込んでいたが、やがて大きな溜め息を吐くと口を開いた。
「とりあえず、今日は泊めてやる。今の時間じゃ、ホテルなんかも取れないしな」
「あ……」
祐一の言葉を聞いて、美汐は酷く落胆した。
今日は、という事は、これから先は無い、という事だから。
「で、今こっちが午前零時過ぎだから……ニューヨークは朝の十時くらいか。美汐、携帯持ってるか?」
「え?」
「だから携帯。流石に国際電話は高くつくから、電話代を自分で払ってる俺にはきついんだ。
よってお前の電話を使う。向こうの電話番号も登録してるんだろう? だから携帯出せ」
そう言って祐一が美汐を促す。
美汐は言われるがままにハンドポーチから携帯電話を取り出した。
「じゃ、番号押して俺に寄越せ。とりあえず俺から話を切り出すから」
「は、い……」
美汐が番号を打ち込み、携帯電話を祐一に手渡す。
電話を受け取った祐一は、相手が出るのを待った。
トゥルルルルルルル、トゥルルルルルルル。
呼び出し音を聞きながら、祐一は伝えるべき事を頭の中で整理する。
七コール程待った所で、電話は繋がった。
『もしもし、美汐ちゃん? どうかしたの?』
「ああ、すみません。相沢祐一です、ご無沙汰しております」
『え、相沢くん? この電話、美汐の携帯からよね。どうなってるの?』
「ええ、とりあえず順を追って説明しますので」
そして祐一は、幾らかの真実に嘘を織り交ぜつつ、美汐の母親に事情を説明する。
「とりあえず、できれば美汐をこっちの高校に編入させて、俺の部屋の近くに住まわせては如何でしょうか」
『……それは』
「美汐の事を心配されるのは解ります。俺は男ですし、娘さんを近づけるのに不安を感じるのは当然だと思います。
ですが、まず今の家に美汐独りを住まわせるのは反対です。
他人が何を言う、と思われるかもしれませんが、俺も俺なりに美汐の事を大切に思っています。
ニューヨークに渡って、ご両親と一緒に暮らすという方法もあるかも知れません。
しかし、失礼を承知で言わせて頂きますが、美汐はどちらかといえば内向的な性格です。
ましてや言葉の壁もある。今の美汐がそれらのハードルをクリアして、そちらの生活に馴染めるとは思えないんです」
『確かに、そうかもしれないわね……』
「ですから、どうか考えてはいただけませんか?」
『……。美汐に、代わっていただけますか?』
「はい。ほら、美汐」
美汐の母の言葉に頷き、祐一は美汐に電話を渡す。
「あの、お母さん……」
『美汐は、どうしたいの?』
「私……私は」
そこで、美汐は言葉に詰まった。
しかしすぐに、意を決して言葉を繋ぐ。
「私は、祐一さんと一緒に居たいです。祐一さんは、私の事を解っていてくれるから。
だから、お母さん。お願い。私、祐一さんの傍に居たいです……」
『……解ったわ』
「え?」
『滅多に無い美汐の我侭だもの。それに相沢くんなら、任せても大丈夫でしょうし。
とりあえず美汐、もう一度相沢くんに代わってもらえる?』
「は、はい!」
返事をし、美汐は電話を祐一に再び渡した。
美汐の表情から、とりあえずはこちらの要求が通ったらしいと判断しつつ、祐一は電話口に出る。
「もしもし、代わりました」
『相沢くん、とりあえず今週中にでも私が帰国して、美汐の転校手続きなんかをするわ』
「はい」
『今日は、美汐は相沢くんの部屋に泊まるの?』
「ええ。心配かもしれませんけど、今の時間からではもう宿も取れませんし」
『そっか、そっちは今夜中なのよね。相沢くん、解ってるとは思うけど手を出したりしちゃ駄目よ?』
「はは、肝に銘じておきます」
『あ、でもちゃんと責任を取ってくれるなら構わないけれど。勿論合意の上で、ならだけれど』
「あ、あはは……」
あまりと言えばあまりな美汐の母の言葉に、祐一は曖昧な笑みを浮かべたまま絶句する。
しかし、爆弾発言はそれだけに留まらなかった。
『どの道責任は取ってもらう事になるでしょうけど。ウチの美汐にあそこまで言わせたんだから』
「……」
今度こそ祐一は何も言えなくなった。
そんな祐一に、それまでのからかいを含んだ軽い調子から真剣な調子へと変わった美汐の母が話しかける。
『相沢くん、娘の事、お願いします。娘は、私達よりも貴方を頼りにしているようですから』
「……はい。美汐に、代わりますね」
『そうですね、お願いします』
再度、祐一は美汐に電話を渡した。
「お母さん……」
『美汐、ごめんね。気付いてあげられなくて』
「ううん」
『とりあえず、近い内に一回帰国するから、詳しい事はその時にしましょう。
相沢くんにも宜しく言っておいてね』
「うん」
『それから、相沢くんの事、しっかり捕まえておきなさい。あれだけ良い男は中々居ないわよ?』
「お、お母さんっ」
母親の言葉に、真っ赤になる美汐。
実の親からそんな風にからかわれるのは、全くの想定外だったようだ。
『ふふふ、それじゃあね』
「お母さんっ!? ……もうっ」
笑みを残して電話は切れていた。
美汐は溜め息を吐きながら携帯電話を仕舞う。
「さて、美汐。シャワー浴びるだろ? 少し待ってくれれば湯船に湯もはれるが」
「あ、いえ、シャワーだけで結構です」
「着替えは……持ってきてるみたいだな。それじゃあ俺は外で時間潰してくるから」
「え?」
「いや、流石に女の子がシャワー浴びてる音を聞いてるってのは精神衛生上宜しく無いしな」
苦笑しながら祐一が立ち上がる。
「美汐、こっちがバスルームだ。ちょっと来てみな」
「あ、はい」
祐一に呼ばれ、美汐がバスルームを覗き込む。
「ま、オーソドックスな作りだから扱いに困るってことは無いとは思うが」
「はい、大丈夫そうです」
「それじゃ、俺は出かけてくる。三十分位で戻ってくるよ」
「わかりました。いってらっしゃい、祐一さん」
美汐がそういうと、祐一は驚いたような顔をした。
怪訝に思った美汐が、祐一に尋ねる。
「どうかしましたか?」
「いや、いってらっしゃいなんて言われたのは久しぶりだったからな。やっぱり、いいもんだな」
「そう、ですね……」
「じゃ、行ってくるよ」
そう言って、祐一は外に出た。
コンビニで立ち読みをして時間を潰す事にした祐一は、歩いて五分程の距離にあるコンビニに足を向けた。
「いらっしゃいませー」
店員の気だるげな声に迎えられながら、雑誌を物色する。
週間の漫画誌を選び、流し読みしていると、程良い時間になっていた。
雑誌を棚に戻し、コンビニを出る。
「ありがとうございましたー」
やはり気だるげな声に送り出され、祐一はアパートの部屋へと戻った。
鍵を開けて、部屋に上がる。
「お帰りなさい、祐一さん」
「ただいま」
美汐はシャワーを終えて、髪を乾かしている所だった。
湯上りで仄かに上気した肌が、健康的な魅力を振り撒いていた。
「もういい加減時間も遅いし、そろそろ寝るぞ」
「はい」
「美汐はベッド使ってくれ。俺は予備の掛け布団で寝るから」
「床に寝るつもりですか?」
「ああ。クッション引けば何とかなるよ」
美汐の言葉に答えつつ、祐一は予備の布団を引っ張り出すべく収納の戸を開ける。
「あの、祐一さん」
「何だ?」
手を止めず、返事だけする祐一。
「一緒に、寝てくれませんか?」
「ん、一緒にか? ……って、はぁっ!?」
驚いた祐一が振り返ると、美汐は頬を真っ赤に染めて俯いていた。
「四月とは言え、夜はまだ少し肌寒いですし、私のせいで祐一さんが風邪を引いたりしたら嫌ですし……」
「いや、俺は頑丈だから大丈夫だって。それよりも一緒に寝るってのは流石に……」
「お願い、します。傍に、居て欲しいんです……」
俯いたまま、けれど必死な声で美汐が言う。
暫く無言のまま居た祐一だったが、やがては折れた。
「わかった」
「ごめんなさい」
「気にすんな。それよりも美汐が安心して眠れるならそっちの方が良い」
「有難う御座います……」
「じゃ、寝るか。俺は歯を磨いてくるから、先に寝てていいぞ」
「はい」
美汐にベッドに入るよう促してから、祐一は洗面所に向かった。
歯を磨きつつ、気持ちを落ち着かせようと努力する。
(平常心、平常心だ……大丈夫、一晩くらいならどうとでもなる)
祐一は、必死でそう自分に言い聞かせる。
歯磨きを終え、寝巻き代わりのTシャツとジャージに着替える。
祐一が部屋の方に戻ってみると、美汐はちょこんとベッドの上に腰掛けていた。
「なんだ、先に寝てていいって言ったのに」
「あの、流石に落ち着かなかったもので……」
「ま、そりゃそうか。それより、ホントにいいのか?」
祐一は美汐に最終確認を取る。
「はい」
美汐は真っ直ぐに祐一を見て、はっきりと答えた。
「はぁ、狭いのは我慢しろよ?」
「はい」
美汐がベッドに入るのを確認してから、灯を消す。
そして祐一もベッドに入った。
「美汐、大丈夫か? 狭かったら言えよ?」
「大丈夫です。それよりも、もう少し傍によってもいいですか?」
「……特別に許可する」
「有難う御座います」
もぞもぞと布団の中で動き、美汐が祐一に寄り添う。
「暖かいです……」
「そうだな、暖かいな……」
「こちらは、あの街に比べて随分気温も高いですし」
「ま、俺からしてみればあの街が寒すぎるんだけどな」
「そう、かもしれませんね……現に、あちらはまだ冬の残滓が残っていますし」
「こっちはもうすっかり春だけどな。桜も散ってしまったし」
そう言った後、祐一は口の中だけで「春か……」と呟いた。
「祐一さん、どうかしましたか?」
祐一の雰囲気が変わった事に気付いた美汐が尋ねる。
「いや、ちょっと真琴の事を思い出してな」
「真琴の事を?」
「ああ。アイツがさ、『春が来て、ずっと春だったらいいのに』って言ってたのを思い出したんだ」
目を閉じて、過ぎ去った日に想いを馳せる祐一。
「そんなのは無理だって解りきってるんだけどな。でも、そうだったら良いと、今更思っているんだ」
「そうですね……」
「ま、季節が巡り行く中を生きていく俺達は、俺たちなりに生きて行くさ。
例え、凍えてしまいそうな位に寒い冬だって、寄り添っていれば何とか耐えられるだろう」
「はい」
布団の中で、お互いの指を絡めあう。
「今はまだ、お互いに独りで居ると凍えてしまうから。だから、寄り添っていよう」
「いつか、春が来るまで?」
「そうだな。美汐の冬を終わらせて、春を連れてきてくれる人と出会うか。
それか美汐が、冬のままでも凍えず、独りで生きていくだけの強さ身に付け、それを望むまで、かな」
「祐一さんは?」
「ん?」
「祐一さんには、春は来ないんですか?」
美汐が泣きそうな声で、祐一に問いかける。
祐一は、美汐の手を握る力を僅かに強くしながら、穏やかに答えた。
「解らない。でも多分、俺は変われないと思う。いや、変わりたくないのかもな。
真琴が好きになってくれた、好きで居てくれた俺で在りたいのかもしれない」
「祐一さん……」
「だからまぁ、美汐がここに居たいと思っている間は、ここに居ればいいさ」
「お前のお母さんから責任を取れとも言われたしな」と付け加えて祐一が笑う。
美汐と繋いでいる反対の手で、優しく美汐の頭を撫でながら、祐一は言葉を続ける。
「とりあえず今日は眠れ。これからの事は、これから考えればいいんだから」
「はい……」
「お休み、美汐」
「お休みなさい、祐一さん」
そして、二人は眠りに落ちる。
お互いの温もりを感じながら、一時の安らぎに身を委ねる。
寒さに凍えてしまわないよう、確りと寄り添って。
未だ訪れる事の無い、遠い遠い春を思いながら。